おかえり

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 かたかたとキッチンの扉が揺れる音がして、マジックが音のした方に目をやると、そこにはシンタローが立っていた。
「おかえり、シンタロー」
「……」
 そう声をかけても、相手は黙ったままで、所在無く立ってこちらを見ている。少し乱れた長い黒髪の先だけが、揺れていた。
 とろんとした、目だった。
 マジックは、ゆっくりと鍋をかき混ぜる。ぐるりぐるりとかき混ぜる。
 立ち昇る芳香。温かな湯気。
 鍋の様子を見ながら、もう一度声をかけた。
「カレー、できてるよ」
「……」
 やはり返事はない。
 だが、シンタローが、すん、と鼻を鳴らしたような気がした。



 マジックは、鍋の火をかちりと止めた。
 そして相手の方に、向き直る。正面と正面で向かい合う。
 黒い目と、自分の青い目とを合わせて、もう一度言った。
「おかえり」
「ん……」
 唇こそ動かなかったが、鼻にかかったような声が、今度は聞こえた。
 マジックは、薄い唇の端を上げる。シンタローに向けて、小さく瞬きをする。笑いかける。
 自分の視界の中、キッチンの端で、立ったままのシンタロー。
 赤い軍服に黒いコート。いつか見送った時と同じ姿をしていた。
 怪我も病気もしていないようで、マジックはほっと安堵の溜息をつく。
 ただ、様子だけが、出て行った時と違っている。
 ……長い間離れていた後のシンタローは、よくこんな目をしている。
 マジックは、久しぶりに会った彼の姿を、眺めた。その空気を感じた。
 感じていれば、やがてその輪郭の背後で、パタパタバタバタ跳ねるような足音と、嬉しげな笑い声が聞こえてくる。
 『はしゃぎすぎだぞ、グンマ』と諌めるような声が聞こえてくる。
 遠征から、シンタローが帰って来たのだ。





おかえり






「疲れてるのなら、このまま寝ちゃう? 夕食は寝てからにする? 眠るのも御飯もお風呂も、いつも通り準備してあるから。どれでもいいよ」
 そうマジックが訊ねても、シンタローは身動きしなかった。
 そして相変わらずキッチンの端に、ぼんやりと立ち尽くしている。静かにこちらを見ているのだ。
 見ていると言っても、果たして焦点が合っているのかもわからない、鈍い瞳で、だったが。
「伯父上。ただいま戻りました」
「おとーさま! 見て見て! こんなお土産貰っちゃったよぉ〜っ!」
 まるで置物のようになってしまったシンタロー越しに、キンタローとグンマが、自分に声をかけてくる。
 それに答えながら、マジックが、グンマが高々と掲げている『お土産』――各国の珍しい菓子であることが多いが、今回は動物の彫刻のようだ。砂糖菓子か何かだろうか――をよく見てやるために、彼らに近付くと。
 それまでほとんど身動きしなかったシンタローが、すれ違いざまに、左手の指だけを動かして、マジックのしていた黒いエプロンの裾をきゅっと掴んだ。
 弱弱しい力だったが、気を引くには十分なもので、だからグンマの菓子を褒めてやった後で、マジックはシンタローの肩に優しく触れた。
 その身体からは、わずかに硝煙の臭いがした。目はとろんとしたままだったが、少しだけ、頬がこわばっているような気がした。
「シンタロー」
「……」
 指以外はちっとも動こうとはしないシンタローに向かって、マジックは語りかける。
「今日のカレーはおいしいよ」
 返事はなかったが、シンタローがまた、鼻を鳴らしたような気がした。カレーの匂いを嗅いでいるのだろうか。
「コタローの顔は、もう見てきたんだよね」
「ん」
 そう聞くと、今度はシンタローは、微かに頷いた。



 マジックのエプロンの裾を掴んでいた指を、彼はそっと離す。
 それから、緩慢な動作で、身体の向きを変えている。
 足を踏み出して、じわじわと歩き出そうとしている。
 その方向が、階段の方だったから。
 マジックにも、シンタローがとにかく部屋に行こうとしているのだということはわかった。
 彼は疲れ切っていて、眠くてたまらないのだろうと、今更ながらに了解する。先にベッドに入るか風呂に入るかしたいのだろう。
 だがつい、むくむくと悪戯心が湧いてきて。
 マジックは、ゆっくり去ろうとしているシンタローの背中に向かって、言葉を投げる。
「大丈夫? 一人でできる?」
 少したってから。
 ぴたりとその背中が、立ち止まって。
「……できる!」
 振り向かないままに、怒ったような声が聞こえてきた。
 マジックは思わず口元をほころばせた。重ねて言った。
「シンちゃんはね、いっつもね。子ども扱いすると、怒るんだよね」
「……うるせー……」
 またそんな声が、背中からする。きっちり答えを返してくれるシンタローであるのだ。
 これ以上弄るのは、流石にちょっと可哀想だとマジックは思う。
 彼の反応を楽しんでしまっている自分は、罪深い。久しぶりだから、つい苛めてしまう。
 自分自身に肩を竦めて、マジックは最後にこう言った。
「足元に気をつけて。先に部屋に行っておいで。私もグンマとキンタローに食事を温めてから、すぐに行くから」
「……ん」
 再び、背中が歩き出す。
 覚束ない足取りで、ゆっくりゆっくりとシンタローの背中が、視界から消えていく。
 階段に消える背中を、最後まで見送ると。
 マジックは、言葉通りに再び鍋に火をつけて、カレーをかき混ぜる。



----------



 シンタローの部屋に行く。
 扉を開けると、まず足元に、黒いコートが落ちていた。
 そのすぐ横には、重なるように赤い軍服の上着。そのポケットから零れたらしい、ペンまで転がっている。
 点々と、シンタローの歩いた軌跡に従って、脱ぎ捨てた衣服がグシャグシャになって投げ出してある。
 絨毯の先には、白いシャツが落ちていた。
 その向こうには、靴下の片方。そのまた向こうには、もう片方が。まるでヘンゼルとグレーテル。
 普段はきっちりしているシンタローなのに。
 遠征帰りは、どうしてか少々だらしないのだった。
「やれやれ」
 マジックは、その衣服たちを拾い上げながら、シンタローの足跡を辿る。
 一つ一つを手に取る度に、何て多くのものを、彼はあの身に着けていたのだろうと思う。ひどく重い。
 左腕が汚れ物で一杯になった頃に、マジックは部屋付きの浴室に辿り付く。脱衣所である。
 ここが最終地点らしく、そこには下着だけになったシンタローが、裸の背をしてうずくまっていた。



 長い黒髪が、元気なく垂れている。白いリネンのマットに、しおれている。
 マジックは、ぽんぽんとその肩を叩く。声をかける。
「シンちゃん。こんなとこで落ちてたら、ダメだよ」
「……ん……」
「寒いだろう。こんな格好をして」
「……む」
 どうやら眠ってはいないようで、ただ単にここで力尽きてしまっただけらしい。浴室の扉は、すぐ側だ。
「お風呂に入るの? 立てる?」
「……」
「仕方ないね」
 マジックは、腕一杯に抱えた衣服を、脱衣所備え付けの籠に入れる。
 それから自分もしゃがむと、自由になった両腕で、シンタローの身体を床から抱き上げた。
「どっこいしょ、と」



「や……いいって……」
 これには流石に何か言わねばと思ったのか、シンタローがもぐもぐと言葉を呟いている。
 その精一杯の反抗に。
 いい訳ないでしょ、このままだと風邪ひくだろう、と返してから。
 マジックは、ふと気が付いたことを口にした。
「あれ、お前。少し軽くなった……?」
 間を置いて。
 答えが、腕の中から、聞き取れないほどの小声で漏れてくる。
「……たいして……変わんねぇ……」
「いや、絶対軽くなってるよ。シンタロー。ちゃんと食べてる? 一日三食、栄養のいいもの、食べてるかい?」
「……しんぱ……心、配……すんな……って……!」
「どうだか。心配するよ。私はいつだって心配してるよ」
「……」
 マジックは眉をしかめて、シンタローを抱き上げたまま、浴室へと歩き出す。
 ――シンタローは。
 他人に出す料理にはこだわるが、自分のことといったら、まるで構わないのだった。
 忙しければ、何も食べないことも多い。仕事のためには、一心不乱に、食事も睡眠も犠牲にしてしまうタイプだった。
 医者の不養生とはこのことで、マジックはいつも、シンタローには自分を大切にしてほしいと感じている。
 他の誰のことよりも、彼には自分を大切にしてほしかった。



 浴室の扉を開けると、優しい蒸気が二人を包む。
 家族共有の広い風呂――マジックは特に日本式のものが気に入っていた――もいいが、部屋付きの狭い浴室の方が、シンタローは落ち着くとのことで。
 遠征帰りには必ず、マジックはこの浴室の準備をしていた。
 手狭だけれど、穏やかで心地のよい空間。
 小さめのバスタブ、四角い出窓、ドライハーブを溶かし込んだ温めの湯。
 薄く香るほんのり乳色をした水面に、さっさと下着を脱がせて、マジックはシンタローの身体を沈める。
 ちゃぷんと、水の音。
 跳ねる飛沫の音。
 湯に沈んでいく鍛えられた身体。その身体を覆っていた空気が、細かな泡となって、水面に浮き上がっていく。
 出窓に置いた観葉植物が、かさりと揺れた。
「……」
 シンタローが、溜息を漏らした。
 息をつきながら、目を瞑った。
 気持ちがいいのだろう、その身体が湯の中で弛緩していくのがわかる。
 脚と腕が、くったりと伸びていく。込められていた力が、ほぐされていく。
「……う」
 シンタローが、溜息に続いて、微かに声を漏らす。
 浴室の声は、反響するように語尾が滲んで聞こえるのだ。夢の世界にまどろむような、その声。
 バスタブの背に、彼は全身を預けて。
 首も頭もその縁に預けて、長い豊かな黒髪が、浴室の石床に垂れた。
 マジックは、その髪が湯の中に入らないように、きちんとかきあげて、まとめてやった。すでに毛先が濡れている。
 水蒸気で湿った髪は、浴室の淡い灯りに、しっとりと光を含んで、艶を帯びていた。



 やがて。
 湯に沈められたシンタローが目を開き、白い湯気の中で、自分を見上げるのがわかった。
 そのぼんやりとした瞳に、マジックは言葉を返す。
「このまま置いておくと、お前、眠っちゃいそうだね」
「……」
「ほら、今もずり落ちそうになってる」
「……うう……」
 マジックは手を伸ばし、シンタローの両脇を抱える。
 力を抜きすぎて、危うく湯に沈みかけていたその身体を、再びバスタブの背に、きちんと凭せ掛けてやる。
「ほら。しっかりして」
「……」
「そしたら髪はね、洗ってあげるよ」
 マジックは、一度脱衣所に戻った。
 セーターを脱ぎ、ワイシャツの袖とズボンの裾を捲り上げる。
 浴室に戻ると、またシンタローが黒い目で、自分を見た。
 湯気のせいか、それはわずかに涙目のように潤んでいて、ひどく幼い色をしているように思えた。
 マジックはその目に、そっと微笑んだ。
 可愛いと、思った。



 温度を調節するために、洗い場で、マジックはシャワーのノズルを傾ける。
 自分の手の平が、ひたひたと濡れていく様を、眺めている。
 新しい湯気が生まれる。天井へと向かって立ち昇っていく。
 透明な液体は、さあさあ音を立てながら、白い手の平を打った。
 熱さと冷たさを繰り返しながら、交じり合いながら、それは静かに湯へと変わっていく。
 緩慢で曖昧な、温度の揺らぎ。絶対から中庸への、心の揺らぎ。
 すべてを溶かす熱、すべてを凍てつかせる冷気。
 湯とは、その狭間で漂う、かたちのない液体で、それは熱情にも冷酷にもならない二人の時間だった。
 癒しと安らぎが、マジックの長い指の間から、雫となって滴り落ちる。
 滴り落ちても、あとからあとから、手の平から溢れ出た。



「熱すぎたり冷たすぎたりしたら、言ってね」
 そう声をかけてから、マジックは、シンタローの垂らした黒髪に湯を浴びせる。
「……っ……」
 湯船に浸かったままのシンタローは、わずかに身動きしたものの、何も言わなかった。
 仰向いて、目は瞑ったままだった。
 洗い場で膝立ちをしているマジックに、首から上を任せている。
 その唇からは、小さな息だけが、漏れていた。
 唇はうっすらと赤みを帯びていたが、乾いていて、よく見れば端が少し切れていた。
 黒い前髪から、ひとすじの湯が、すうっと伸びて、かさついたその傷を濡らしていった。
 湯は、シンタローの乾いた部分を、柔らかくふやかしていくのだ。
 かたい飴細工が、温度を加えれば、とろりとろりとしなるように。
「何も言わないってことは、ちょうどいいってことだよね」
「……ふ……」
 再び息が、その柔らかくなった唇の合わせ目から漏れるのを、マジックは見る。
 とても静かな息だった。
 裸の胸が、ゆったりと上下していた。
 湯は、シンタローのうなじをつたって長い髪を零れ落ち、あとからあとから零れ落ちて、すぐに洗い場の床石に溢れかえる。
 自分の足元も、シンタローと同じ温かさに濡らされていく。その感触に、ふと、マジックは溶けそうになった。
 マジックは、左手で湯を浴びせかけながら、右手を伸ばして、シンタローの髪の根元から毛先までを、優しく撫でた。
 黒髪に指を絡めて、何度も何度も撫でた。
 撫でた後に、冷たい液体を自分の手の平に垂らす。
 その手で、また撫でる。



「……う……」
 今度は、濡れた口元から、そんな声が漏れて。
 ひやりとしたのだろう。洗髪料の冷たさだ。
 マジックは、少し笑った。笑いながら、湯を止めた。
 それからまた、今度は両手を使い、液体で包み込むようにしながら、シンタローの髪を撫でていく。
 指の腹で、頭皮から毛先までの、しっとりと濡れた道を、ゆっくりと辿る。辿ることを繰り返す。
 ふわりとやわらかな泡がたつ。
 豊かな黒髪が白に埋もれていく。
 マジックの指は、そっと動く。
 こめかみから耳の後ろを、くすぐるように愛撫する。
 指の腹は地肌に触れて、小刻みに揺れて、後頭部から頭頂部までを、いくどもいくども移動する。
 丹念に、まんべんなく刺激を与え続ける。細かに動く。
 髪の間に通した指で、なめらかに長い毛先まで泡を送る。全体をまろやかに覆う。
 一塊の泡が床に落ちて、弾けた。濡れた床に崩れ、いつしか消えていく。



 洗いながら、マジックはシンタローの表情を見ている。
 それはまるで陽の光の中、舟に揺られて、うたたねをしている人の顔に見えた。
 帰ってきたばかりの時、あのキッチンに立っていた時の、頬のこわばりが緩んでいた。
 自分も知る戦地の臭いが、白い泡に洗い流され、消えていた。
 うっとりと閉じられた瞼が、それでもマジックの指の動きを敏感に感じて、わずかに揺れていた。
 顎が仰け反って、バスタブにくったりと全身が預けられていた。
 首元に浮き上がった鎖骨には、湯の雫が溜まっていた。
 無防備な姿だった。
 時折、光を弾く水玉が、争うようにその滑らかな肌をつたっていくのだった。



 ふとマジックは、洗う手を止める。
 天井から、雫がぽとりと垂れて、自分の手の甲に跳ねるのを感じた。
 静寂を感じる。
 ゆっくりと、シンタローの首の後ろに手を回した。
 湯の温みに、ほんのりと色づいた彼の頬に、そっと自分の唇を寄せる。
 そして、わずかに掠めただけで、すぐに離れた。
 一瞬の感触は、しっとりして柔らかかった。
「……ん……」
 シンタローの黒い睫毛が、少し揺れて。うっすらと目が開いて。
 ぼんやりとした黒い瞳が少し動いて、こちらを見上げて、またすぐに瞼が閉じられた。
 その瞼の曲線が、美しいなと、マジックは感じた。
 彼に触れたいと、思う。
 だが再び口付けはしなかった。
 かわりに人差し指で、濡れた耳のうしろを、ゆるりとなぞった。
 シンタローは刹那びくりと震え、眉を寄せたのだけれど、今度は目は開けなかった。
 マジックの好きな瞳は、静かの海に眠る貝殻のように、閉じられたままだった。



 湯で、泡を洗い流す。
 耳の縁に、中に、指を入れ、隅々まで洗う。
 遠い戦場の残り香は、泡に包まれて、排水溝に円を描くように吸い込まれていった。
 後には、マジックの手の中に、しっとりと水気を含んだシンタローの黒髪だけが残る。
 シンタローは、大人しく身体を預けている。



 髪を洗い終えると。
 マジックは、目を瞑ったままのシンタローに、声をかける。
「髪は終わったよ。身体は? 自分で洗える?」
「……ん」
 身体も洗ってやってもいいのだが、それではマジックもびしょぬれになってしまって、自分も入浴するはめになることは明らかだった。これが一日の終わりならば、それもいい。
 だが自分には階下にまだやることがあった。グンマやキンタローの食事の様子を、見に行ってやらねばならない。
「大丈夫?」
 マジックが言うと、少し間を置いて、息を抜くようにシンタローが答える。
「……洗える」
 シンタローも、マジックの事情は、よくわかっているはずだった。
 それが少し、心に染みる。
 まあ、湯には薬草を入れていたから、疲れているなら、とりたてて身体を石鹸で洗わなくてもいいのだけれど。
「じゃあ、ね。私は一度、下に降りてくるから。お湯に沈んじゃダメだよ。気をつけて」
「ん」
 そんなやりとりを交わして、マジックは浴室を出て、階下に降りた。



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 再びマジックが、シンタローの部屋に戻ると、まだ彼は浴室にいるようだった。
 少し心配になって、手の甲で、コツコツと浴室の扉を叩く。
「大丈夫かい、眠ってない? シンタロー」
「……ん……」
 反響でぼやけてはいたが、一応返事があったので。
 安心して、マジックはこの間にと、シンタローの洗濯物を分別する。
 手桶にぬるま湯を張り、洗剤を入れて、手洗いにする軍服を、四角く畳んで付け置きにする。
 それから脱衣所を出て、綺麗に整えられたベッドを再度点検し、もう一枚毛布を出しておこうかと考える。
 部屋隅の収納キャビネットを開き、薄めのものを選んで取り出す。
 広げて、また半分に折り畳んで、毛布をベッドの隅に置いた時。
 マジックは、自分に向けられた視線に気付いた。



「あったまった? シンちゃん」
「……」
 ろくに髪も身体も拭きもしないまま、バスローブを羽織ったのだろう。
 脱衣所の戸口に立っているシンタローの足元には、小さな水溜りができていた。
 その場所から、半分だけ開いた目で、彼は自分を見ている。
 しどけない姿。
 これでは、ちゃんと身体は洗えたのだろうか。無理をしてでも、身体も洗ってあげれば良かったかな。
 そう思いつつも口には出さず、マジックはシンタローに向かって、手招きした。
「おいで」
「……ん」
 たよりなく絨毯を踏みしめる音がする。
 ぽたぽた黒髪の先から、雫が落ちている。
 ゆっくりとシンタローが、自分の手招きに従って、こちらに歩いてきたから。
 その身体をマジックは引き寄せて、ベッドに座らせる。
 それから自分は立って、もう一度脱衣所に行く。バスタオルを数枚と、ドライヤーを持ってくる。
「さてと……あれ」
 マジックが見ると、シンタローはごろりとそのままベッドに横たわってしまっていた。
 濡れた黒髪が、散っている。はだしの足の裏も、湿っていた。
 白いバスローブからのぞく健康的な脚には、湯の筋すらつたっている。
「シンちゃん、ダメだよ。シーツが濡れるでしょ」
「……」
 返事はない。
 マジックは、ベッドに腰掛けると、自分の膝にバスタオルを一枚ひく。
 そして、寝転がってしまったシンタローの頭をぐいっと抱え上げ、その上に乗せた。
「ちゃんと拭いて乾かさないと、風邪をひいてしまうよ」
 シンタローは大人しく、されるままになっていた。



 もう一枚のタオルで、シンタローの髪の毛を拭いてやる。
 優しく包み込むように、抑えながら水分をぬぐいとった。
 水が染みこむ布の冷たさに、本当に全く拭かないまま浴室を出てきたのだと、マジックはおかしくなった。
 自分の膝の上で、時々面倒くさそうに首を振るシンタローの仕草が、ぷるぷると濡れた体を震わす動物のようだと思う。
 巣に戻ってきた獣を世話しているような、そんな気分にもなってくる。
 ただこの獣は、一筋縄ではいかないのが、曲者だった。
 かちりとドライヤーのスイッチを入れる。温風がしなる。
 長い髪の根元から毛先までを、指で梳くようにして乾かしてやる。
 半ばまで乾いたところで、ブラシを使い、丁寧に髪をまっすぐに整えていった。
 艶を出すように、念入りにとかしていく。
 本当に、動物の毛並みをブラッシングしているみたいであるのだ。
 おかしいね。面白いね、シンちゃん。
 いつもは、例えば団員の前では、あんなに威張っているのにね。
 笑みを口元に隠しながら、マジックはシンタローの髪を乾かしていく。毛先がそよぐ。ふわふわとなびく。
 何も知らないシンタローは、目を瞑ったまま、心地よさそうな表情をしているのだった。



 シンタローの全身は、湯の中と同じように弛緩していた。
 ベッドとマジックの膝に投げ出された、腕。脚。手の平。足の裏。
 彼の身体の輪郭が、緩んでいるような気がする。とろけているような、そんな感じがする。
 身に付いたものを洗い流して、裸のまま横たわっているような、そんな感じがする。
 その姿を眺めていたマジックは、ふと気付く。
 シンタローの爪が、伸びている。



 ベッドのサイドボードの引き出しを開けると、マジックは、小さな爪切り用の鋏と、やすりを取り出した。
 シーツの上に、これも手近にあった古い新聞紙をひく。
 それから、だらんと伸びきったシンタローの手を取った。
 所々の皮膚が硬くなっていて、少し節の目立つ、働く人間の手だった。
 マジックは、この手が、好きだ。
 右手の親指から、順序良く爪を切っていく。
 ぱちり、ぱちりと、音がした。
 長く伸びた爪は、前に自分が切ってやった時から、何の手入れもされていないように見えた。
 遠征中、自分では切らなかったのだろうか。
 それはこうして自分に切ってもらうためだと、うぬぼれてもいいのだろうか。
 マジックは丁寧に、指の一本一本その爪の先を、綺麗に切り揃える。
 丸く、やすりをかける。
 右手の小指までを整えてしまうと、次は左手を取り、同じようにする。
 秩序立った順番の手順は、それがまるで何かの儀式であるかのようだった。
 左手の中指を磨いた頃に、マジックは囁くように呟いた。
「お前は、また、すぐに遠征に行ってしまうんだよね」
 依然としてマジックの膝の上にある、黒い頭が、小さく動いた。
 マジックは、薬指を取る。そして優しく撫でてから、その伸びた爪に、鋏を入れた。
 ぱちり、とまた音がした。爪が新聞紙に跳ねる。
「この爪が伸びきるまでに、帰ってきてね」
 黒い頭が。
 また、動いたような、気がした。



 ベッドにきちんとシンタローを寝かせて、マジックは今度は足の爪を切った。
 柔らかい大きな枕に黒髪を埋めて、シンタローは目を瞑っている。
 まだ眠り込んではいないということは、わかった。
 マジックが彼の新しい指に触れる度に、その睫毛がぴくりと震えるからだ。意識して、いるのだ。
 明度を落とした室内灯が、おぼろげにそんなシンタローの姿を包んでいる。
 マジックは、九つの足爪を切り終えてから、最後に残った左足の小指に、静かに触れた。
 また睫毛が震える様子が、視界の隅に映った。
 ゆっくりと、その小さな指を、冷たい手の平で包み込む。
 それから、口付けた。
 これで最後だと思うと、名残惜しかった。
 シンタローの足の爪先は、少し痛んで、硬くなっていた。
 ずっと窮屈な軍靴を履いて、ずっと立ち詰めで、休む間もなく任務の先頭に立ってきた足の先だと思えば。
 彼の身体を、支え続けてきた足の先だと思えば。
 それだけで――愛しい。



 爪を切り終えてしまうと、マジックは立ち上がる。
 バスタオルや新聞紙の後始末をし、脱衣所で付け置きの様子を見て処置をしてから、またシンタローの側に戻った。
 シンタローの目は閉じられたままだった。
 今度こそ、甘い眠りに落ちかけているのだろうか。
「おやすみ、シンタロー」
 そう声をかけたが、返事はない。



 寝癖がつくだろうと思い、ばらけた髪の毛を集めて、耳の脇に整えてやる。
 その身体に、毛布をかけてやる。
 自分がいない間に目覚めた時のためにと、サイドテーブルに水差しとグラスを置く。
 シンタローが濡らした床を、綺麗に拭いた。
 それから、再び階下の息子たちの様子が気になったので。先刻は食事の最中だったから、今頃はもう終えている頃だろう。
 またキッチンに戻ろうと、マジックは考える。その後で、コタローの顔を見に行こう。おやすみの挨拶をしにいこう。
 ベッド脇の灯りを消す。
 部屋が薄闇に包まれる。
 薄闇は静寂で、静寂は眠りだった。
 束の間の、休息を。いい夢を。シンタロー。
 そして、部屋を出ようとして。
 ふと思い直して。
 マジックは、もう一度シンタローの枕元に立つ。
 しばらくそのまま佇んだ後。
 そっと手をシンタローに伸ばす。
 軽く、その頬に、指先で触れた。
 温かかった。
 と、シンタローの瞼が開いて、黒い瞳がこちらを見上げた。
 薄闇の中でも、その色は一際濃く、マジックを捉えた。



「……匂いがする」
 そんな呟きが、二人の間に零れ落ちて。
「なに」
 マジックは、首をかしげる。
 匂い。自分の指に、何かついていたのだろうか。
「俺の、好きな……」
 シンタローは、先刻キッチンにいた時と同じように、すん、と鼻を鳴らした。
 好きな、とシンタローは呟く。
 その声は、いつもより少しかすれてはいたけれど、芯を持ったあの声だった。
 あの声。シンタローの声。まどろみの中で息をするような、いとおしい声。
 その帰りを待つマジックが、いつも夢に見るような。胸が締めつけられるような、切り裂くような声。
 ずっと、会いたかった。
 離れている間、ずっとずっと、恋しかった。
 会うことのできた今は、もっと、恋しい。



「好きな……カレーの……匂いがする……」
 そう言ったシンタローが、にこっと、小さく笑った。
 それから目を瞑った。
 すぐにその胸が静かに規則正しく隆起し始め、本当に寝入ってしまったのだとわかる。
 寝息が、聞こえ始める。



 マジックは、自分の指を見つめた。
 爪は綺麗に切り揃えてあったし、料理をした後は、手を洗ったり湯を使ったりしていたから、カレーの香りなど残っているはずがなかった。
 実際に嗅いでみても、湯や洗髪料の匂いしかしない。
 そしてその匂いは、シンタローの髪の香りであるはずだった。
 眠りに落ちた人。優しい人。私を支配し、支配される人。
 マジックは、自分が洗ったばかりのその黒髪を、そっと撫でた。
 撫でながら、歌うように、言った。
「お前はね、私の所に、帰ってきたんだよ」
 マジックは撫でる手を止めた。
 長い髪に指を絡めたまま、息をつく。
「シンタロー……」
 起きたら、一緒にカレーを食べようよ。
 そう心の中で呟くと、マジックは、わずかに俯いた。
 ――この瞬間、お前と共にある幸福を、私は忘れない。



 あと、何度。何度失っても、私は忘れない。
 そしてまた新しい幸福を、お前と手に入れる。
 お前と。そして大切な、家族とで。未来を、創り出してみせる。
 マジックは、ゆっくりと顔を上げた。
 顔を上げた先には、小さく息を漏らす、安らかな寝顔があった。
 自分にとっての、かけがえのない人の、眠っている姿があった。
 マジックは、囁きかける。
 その眠りを妨げることのないように、静かな静かな声で。
 これが、お前に対して、私にできることの、すべて。
「おかえり」
 こんなに幸せになれるなんて、思いもしなかった。






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