銀の針

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 死にゆく僕の思考は、透明になって、ひどく透き通って。
 まばゆい光と青のもやのなか、ルーザーという記号体から、かたちのない存在の残滓へと、姿を変える。
 肉体の苦痛から、精神の恍惚へ。自我の脈動から、意識の沈殿へと。沈んでは浮遊し、漂ってはとどめる。
 海の泡のように浮かんでは弾け、消えてはまた現れる。
 そんな夢を、見続けていたよ。
 意識は時空を漂い、空間を彷徨う。
 生ある日々の心臓の鼓動、呼吸のリズムは、死の海の青い揺らめきに、とってかわられている。
 深い深い海、僕たち一族が還る海、すべてのみなもと、眠る場所。
 長く遠い時間の内に。
 僕が再び目覚める、あの運命の時までに。
 これは眠りから一つの泡が弾けて、大気に溶けた、そんな瞬間の出来事。



 その時、銀色の光が閃く。
 陶然とした泡が弾け、次の瞬間、僕の意識は、やけに狭くて、その癖がらんとした部屋の中に漂っていた。
 僕は、ゆっくりと視線を動かした。そして目をとめる。
 目の前で、黒い髪の男が、ちっぽけなデスクに向かって何か書き物をしている。
 毎日のように、まるで背景のオブジェのように見慣れていた後姿。
 ――高松。
 それが君だと気付くのに、僕はしばしの時間を必要とした。
 小さな部屋の覗き窓から聞こえる鳥の声で、僕は、ああ、ここは現世なのだと知った。
 海の中に、鳥はいないからね。
 ここでは僕は、いわゆる亡霊という存在なのだろうか?
 漏れる呼気と肩甲骨の目立つ背中。
 流れる静寂、不自然な程に物のない空間。
 何の変哲もない場所。
 やけに退屈だったから、しばらくして僕は、さっさと他へ行こうと念じてみたが、どうしてだか上手く行かなかった。
 意識体というのは便利でもあり不都合でもある。
 自由かと思えば、実は何かに支配されているらしいよ。
 どうやら。何故だかここに、僕の意識を引き止めるものが存在しているらしい。
 だから、君の少し下がった右肩を、見つめていたよ。



 上質紙の表面にペンが滑る、乾いた音。
 爪と皮膚が擦れる音。肌に染み付いた、かすかな消毒薬の匂い。
 君の後姿。
 大気に漂う僕は、その背後から。いつも、こんな風に君は、僕に与えられた仕事を忠実にこなしていたのだろうと、ぼんやりと考えていた。
 無機質。
 君は熱を感じさせない、無機質な背中をしている。
 生前……この言い方は、滑稽だろうが仕方がない。
 生前、僕が常々、君を馬鹿だと感じていたのは、その無機質な身体と感情を精一杯に使って、君が僕に寄せる、その情熱で。
 どうしたことか、君は僕に情熱を注いでいた。熱を感じさせない身体が、みせる情熱。まるで乾いた砂漠の間欠泉のように、底知れぬ感情。
 僕は。
 そんな君を、身の程知らずだとは思ったが、大して害もないし、何よりどうでも良かったので、まあ凡人にしては賢かったから、便利で側に置いていた。
 それだけのことだ。
 だから、君の日常なんて、興味もないから知らなかった。
 きっと、こんな風に、味も匂いもない生活を送っていたのだろう。
 まったく、つまらない人間だよ、君って人は。
 そう嘆息しながら、僕は一人考える。
 一体どうして、僕はあの死の海から、この場所に引き寄せられて来たのだろう……?
 他に気になることは、多々あるはずなのに。この場所に何があるというのか。
 兄弟たちのことを思い浮かべれば、心に突き刺さるような痛みを覚えた。
 僕が消えたことで、すでに深く傷ついていたサービスは、どうなってしまうのだろうとか。そう……僕はあの可愛い弟を、戦場に死ににいくことで捨ててしまったのかもしれない……
 泣いて僕にすがったハーレムは……どう思うのだろうとか。彼は決して僕を許しはしないのだろう。
 そしてマジック兄さんは……僕に最後の幻滅をするのだろうとか……。
 僕には、もっと大切なことが、あるはずだった。
 この男よりも、もっともっと僕の残してきた生活にとって、重要な位置を占めるもの。僕の存在意義。一族――
 でも今、僕の目の前にいるのは。
 高松、君で。



 退屈だった。
 うんざりして、何度も溜息をついたのだけれど、それ以外に、他にやることがなかったので。この閉ざされた部屋で。
 僕は君を眺めていたよ。
 長い長い間、僕は君だけを見つめていた。
 こんな風に時間を無駄にすること等、以前の僕には考えられなかったけれど。時間だけはある身分だからね。
 時の流れは迅速かつ緩慢で、みるみる内に日が落ちていくかと思えば、長い日差しの午後が続いていることもあった。
 生ある身にとっては、刻む時計の針と共に、規則正しく過ぎていた世界。それが今の僕の身にとっては、勝手が違うようで。
 古びた四角い窓の外では、霧のように雨が降って、藍を流したように闇に塗れて、雲の狭間に陽が昇った。
 今日も、かたん、と音がする。
 書き物を終えたらしい君は、黒い鞄に書類を入れると、立ち上がる。
 部屋の扉を開ける。蝶番が萎びた音を立てる。
 これから研究所へと向かうようだ。



 君が出歩けば、僕の意識も君についていくのだ。
 歩く君。振り返らない君。やはり下がった右の肩。
 相変わらずの君の背中を前にしながら、僕は切ない想いで、研究所への道すがら、遠くに見える本部の塔や、懐かしい風景を眺めるのだった。
 この道を、サービスと二人歩いた記憶がある。
 街路樹がそよぎ、木漏れ日があの子の綺麗な金髪を輝かせて、僕は幸せだった。サービス、お前といると僕は、安らぎを感じる。その白い手首のかたちが、僕を無口にさせた。いるだけで、良かった。静かな愛を、感じていた。
 あの道を歩いたとき、ハーレムが後ろから追いかけてきた記憶がある。
 言い忘れたことがあった、等と照れくさそうにして、頭を掻きながら。どうしてだろう。お前はいつも反抗的な態度か、少しはにかんだような顔を、僕に向けてするのだったね。お前の理不尽さと寂しい顔が、今は恋しくてならない。
 そして兄さん、ここを真っ直ぐに歩いて、あの塔へと辿り着けば、きっとそこにはあなたがいる。
 あなたの束縛と諦めたような慰撫を、僕は忘れない。常に僕の上に立ち、僕を支配し安心させてきた、その二つの青い瞳を。その目に焦がれた意味は、僕が僕であるために必要なものだった。もう一度、抱きしめてもらいたい。
 ――それなのに……目の前にいる、君。君だよ。
 高松。君と道を歩いたことなんか、僕は、覚えてはいないのに。
 死してから、どうして僕は君なんぞにつなぎとめられているのか。それが、わからない。厭わしささえ、覚えるというのに。
 君は、道を左に曲がった。僕の意識もその背中に従った。塔は遠くなった。
 僕は、ああ、自分は死んだのだという想いを強くする。



 研究所では、僕が死んだことで上層部に揉め事が起こったらしく、異様な雰囲気が流れているのだった。
 僕のお気に入りだと看做されていた君は、その中で、黙々と作業を続けていた。
 大概はデスクワーク。時々は実験。そしてまたデスクワーク。背後から見るに、君は僕のしていた研究を引き継いでくれているのだろうと思ったが、これまた何の興味も沸かなかった。道具が、上手く働いているなと思う程度だった。
 弁解する訳じゃないが、まあ、君個人のことなら、将来は約束されているはずだからね。
 幼少の頃から奨学金は与えているし、ともかくも一族の主治医を務める出自ではあるから。
 僕がいなくても、兄さんが何とかするだろう。
 兄さんは……率直に物を言う君を、使える人間だと認識しているようだから。
 そう、兄さんは……合理的な秩序の人だから。
 君が使える人間である限り、捨てられはしないよ。その点は、彼と僕の思考形式は似ているのだ。
 精神が壊れて、使い物にならなくなった僕は――彼に捨てられたのかなあ。
 高松。君は、どう思ってる?



 研究所での一日の作業を終えると、君はすぐにまたあの狭い部屋へと戻る。
 この場所は君にとっては城であるのか、それとも監獄であるのか、それすらも構わないといった風の、その気配。
 ただ、明日の再生産を行うための、小さな部屋。
 亡霊となった僕が、佇む――この場所。
 君は、粗末な床板をきしませながら、生活をしている。
 角が錆付いた冷蔵庫から取り出した、冷たいパンと水で食事を取る。
 そして机に向かい、資料をまとめて書き物をする。
 シャワーを浴びる。
 棚から何やら薬を取り出して飲む。
 ベッドに入り。
 起床し。
 顔を洗ってから。
 冷蔵庫に歩み寄る。
 しばらく机に向かって。
 鞄に紙を詰め込み。
 扉を開けて研究所に向かう。
 その繰り返し。
 一連の作業は、規則正しい時間と共に、黙々とこなされる。



 ああ、君らしいねと。
 やはり退屈に思いながら、僕は同時に、少し不満を感じているらしい自分に気が付いていた。
 僕は期待していたのだろうか。
 君が僕の死について、何か特別な感慨を抱いているのではないかと。
 いつも君が僕に垣間見せていた情熱が、そう、悲しみだったり、兄さんへの怒りだったり、絶望だったり――そんな種類の感情に転化してはいないかと、期待していたのかもしれない。
 だが君の顔は、いつも通りで。
 僕が死んだというのに、いつも通りの、君の学生時代から見慣れていた通りの、超然とした顔。
 表情。
 あの僕に寄せていた情熱は、跡形もなく消え去っているように見えた。
 僕は、君につなぎとめられながら、いつの間にか溜息をついていた。吐く息で、それと気付いた。
 こんな種類の溜息を吐いたのは、生前と死後とを合わせた僕の人生の中で、初めてのことだったのだろうね。



 そんな単調な日々は過ぎていったよ。
 しかし。
 やっとと言うべきか、僕はあることに気付いたのだ。
 君の生活からは、眠りが欠けている。



 寝る前に飲んでいたカプセルは、覚醒作用のあるものかい?
 よく観察してみると、君は眠ってはいないのだった。
 規則正しくベットに入っても、身を縮こまらせているだけ。
 壁に向けた顔は、闇の中で硬直しているだけ。
 長い夜の時間を、耐えているだけ。
 君はこの夜に、何を考えている。うつろな瞳で、何を見ている。
 眠るまいと、どうして震えているんだ。
 君が身を動かせば、ベッドが鳴る。薄い毛布が揺れる。眠ればどんな恐ろしいことがあるというのか。何を怯えているのか。
 ――ああ、確か、そのベッド。やけに固いんだったね。
 十分な給与は出ているはずだから、買い換えればいいと言ったことがあるが。
 君は、いえ、とだけ呟いて、俯いていた。
 そういえば、そうだね。
 僕は一度だけ、この部屋に来たことがあった。



『君は、僕と、寝たいのかい』
 ある日、そう僕が尋ねたのは、まあ気まぐれだったのだけれど。
 人の消えた深夜の研究室でのことだった。君が、書類を見ている僕に向かって、コーヒーを差し出した時のことだったね。
 そんな質問をしたのは、君の僕への情熱の目的は何だろうと、常々不思議に思っていたからだ。
 まったく君は、僕の命令を忠実にこなしていた。しかも単なる無能な信奉者ではない証拠に、僕の意志を時々は先読みし、あえて無謀なことさえやってのける。そして自分は使用価値のある人間だと、僕に行為で表明していた。
 他の研究員たちに、あいつは媚を売っていると陰で囁かれながらも、しかしその献身は、将来の社会的地位や金銭を目的とするものとしては、度が過ぎていたように思う。
 明らかに君の視線は、青の一族という僕の血筋、研究所長や総帥の弟であるという僕の背景よりも、僕自身に熱く注がれていたのだ。そのことは、肌でわかっていた。だから不思議に感じていたのだ。
 君は一般大衆のごとく馬鹿な犬にすぎないのか。それとも他に何か考えがあるのか。君、独自のね。僕が思い及ばないという点で、それは関心に値する。
 君は何のために、僕に尽くす? 目的のない行動や志向性など、存在しはしないのだから。
 しかし、君は一抹の逡巡の後、こう答えた。
『いいえ』
 と。
 へえ、と僕は感じた。
 そこで、イエスという答えをしていれば、僕の君へのささやかな関心は途端に消えただろうに。
 いいえ、という返事をして、君が僕の興味を惹き続けたから。同じ犬でも、利口な犬だと感じたから。その利口さを確かめるために。
 僕は、君と寝てみようと思ったのだ。



 行為自体には、大して感銘も受けなかった。
 ただ、その前後が個人的に面白いと思った。
 最初に。
 君は女性ではないし、僕が手を煩わせる必要性もさして感じなかったので。
 僕は、君の部屋に行くだけ行って、どう、後は好きなようにしてみて、と告げた。
 そうしたら、君は部屋の真ん中に突っ立って、呆然とした後。
 しばらく経ってから、『私が上ですか、下ですか』等と下世話なことを聞いてきた。
 僕は驚いたよ。
 そもそも俗人が僕に痛みを与えることなんぞ、想像もつかなかったから、咄嗟に言葉が出なかった。
 胸の下辺りがくすぐったくなって、何だかおかしくなって、笑い出してしまった。その時も、この部屋はひどく薄暗くて、狭っ苦しかったのを覚えている。
 そして君の困った顔。
 それを見ていると、ますます事態は滑稽極まりないものに見えてきて、しょうがなかった。笑うだけ笑ってから、僕は言った。
『僕は、痛いのが、嫌いだよ』
 笑ったことで、少し親切な気持ちになることが出来たから、そう言ってやったら。
 君は、神妙に頷いて、静かにひざまずいたんだっけね。



 途中で。
 そういえば、そうだった。
 無様な君の姿を見ていたら、意外にも、僕はひどく欲情したんだった。
 落差。
 この世の全ては落差で出来上がっているのだからね、高松。
 僕はそんな人間の高低差に興味を抱く。
 人間には、生まれついての個体差というものがある。
 その運命の差に、僕は興奮する。
 例えば選ばれた一族である僕と、生物学的劣等にある君。
 例えば最高権力者の眷属と、吹けば飛ぶような一介の研究員。
 命令する僕と、大人しく従う君。
 痛いのが嫌いな僕と、痛いのが好きな君。
 普段はきちんとした君の襟元と、無意識に半開きになったその薄い唇。
 普段は整った冷静の色をした君の息と、今の、押し殺した熱い吐息。
 熱を感じさせない身体と、押し込められた情熱と体温。
 それを感じていたら、僕はどうしてか一瞬、優しく君の身体を扱いたくなった。
 すると途端に君は、対等に扱われることへの恐怖を示したから。
 だから、僕はそのまま、まるで不出来な玩具のように乱暴に、君を扱った。
 面倒だったから。



 最後に。
 僕は暗闇の中、目を開けて、ベッドを降りようとした。
 服は着たままだったから、そのままさっさと帰ってシャワーでも浴びようと思ったのさ。
 狭い部屋というのも、どうも居心地が悪くてね。
 すると、そんな僕のワイシャツの裾を、引くものがある。
 君は意識を失っていたはずだから、不思議に思った。
 手探りで調べてみると、硬くて冷たいものが、白いシーツに突き刺さっていて。
 僕を縫い止めていた。
 その日、僕がたまたま身に着けて来たタイピンだった。
 それが、僕の服の裾を繋ぎ止めて、離さない。
 また、僕はおかしくなって、笑い出してしまった。
 これまた意外に洒落たことをするんだね、君は。
 笑ったことで、また少し優しい気持ちになることが出来たから。
 僕はそのピンを抜くと、今度はそれを君の枕元に突き刺して、部屋を出た。
 それからそのピンのことは忘れて、気にも留めなかった。
 今この瞬間、その銀色の光を目にするまでは。



 痛い?
 痛いだろうね、君。
 もう痛みを感じることはない僕だけれども、君の顔を見れば、想像はつくよ。
 今、漂う僕の目の前、ふっと油断して、眠りに落ちそうになった君は、またカプセルを飲み込んで。
 それでも駄目で、眠りに落ちそうになって、暗闇の中、ベッドから身を起こして。
 衣服の何処かに隠し持っていたらしい、そのタイピンを取り出して、膝に突き刺し続けている。
 銀の針だった。
 尖った切っ先が、君の肌にめり込んでいくのを、眺める僕の意識。何度も何度も。君は刺し、僕は眺める。
 血が流れているね。
 君の表情は、相変わらずの空虚なまま。だけど歯は、しっかりと食いしばっている。声など漏らすものかという風に、かたく、かたく。
 ――あの、快楽なんてなかったろう性行為の時のように。
 どうして君は。
 無駄な苦痛ばかりを欲しがるのか。
 身体の色んな部分を刺し続けているけれど、その実、急所は避けている君。馬鹿だね。
 その様子に、ああ、この男は死ぬ気はなしに、ただ眠りたくないだけなんだろうと、僕はぼんやり感じて。
 血が飛び散る様は、またも意外に君に似合うね等と静かに考えていたら。
 すると、君は、僕が意識体としてこの部屋に来てから初めて、言葉を呟いた。
「……ッ……ルーザー様……」
 そう。
 そんなに眠りたくないの。
 もう何日眠ってないの?
 僕が死んでから?
 それは何時のことだっただろうね?



 初めて僕は、君の行為から、目的を感じ取ることができたのかもしれないよ。死んでからだけれども。初めて。
 僕の残したタイピンが、君の肌を突き破り、流れる血。
 繰り返される単調な動作、まるで自慰のように繰り返される光景。
 僕の名前。
 早く、何処かに帰りたいと思ったけれども。
 この狭い部屋を出たい。
 来た場所に戻りたい、海の底のような、あの青い集合意識の一部に戻りたいと僕が念じる程に。
 そんな僕の意識の裾を、引くものがある。
 まただ。
 僕は、戻ることが出来ない。
 この僕を、現世に留めるものは何?
 現世に引き戻したものは何?
 いったい何が、この場に僕を繋ぎ止めているのだろうね?



 そう、何度目かの問いをしてみると。
 鈍い銀色の針のきらめきと共に、僕の意識で、光がはたと閃いた。
 ――タイピンが。
 君が手にして、そして振り下ろす、その銀の切っ先が。
 僕の服の裾を縫い止めて、離さない。



 あの時、君を抱いた翌日。
 僕は君の反応が知りたかった。
 でも、君はいつもと変わらない表情で研究室に来て、淡々と作業をするばかりで。
 ひそかに様子を窺っていた僕は、つまらないなと感じて、肩を竦めた。
 僕と寝ることが、君の感情の目的ではなかったのだと知って、ますます君を不思議に思ったのだっけ。
 君の感情は、一体、何を求めていたの?
 何をも求めてはいなかったの?
 そんなことって、あるのだろうか?



 今、君が手にする、そのタイピンが。
 僕の心の裾を縫い止めて、離さない。
 君は凡人にしてはやはり賢いね。
 だが、ひどく馬鹿だね。
 それは、そんな風に使うものじゃあないんだよ。
 僕を引き止めるために、使っていいものじゃあないんだよ。
 僕の海の泡を割って弾いたのも、その銀色をした針先だ。
 こんなことってあるのだろうか。この世に僕を繋ぎ止めていたのは、一族でも誰でもない、君だった――



 ねえ君、高松。
 そのタイピン。
 返してくれないか。
 ただの銀の塊に、想いが込められていくのが、不快だ。
 聞こえているのかい、高松。
 そのタイピン。
 返してくれないか。
 とても大切な、ものなんだ。
 僕を現世に縫い止めて、それのお陰で、僕は来た場所には帰れない。
 そこまでして、君を拘らせる、僕の存在とは、一体何だろうと、そんな自分の存在意義にまで思考を巡らせることになる。
 そこまでして、僕の意識を拘らせる、銀の針の存在とは、一体何だろうと、そんな戯言にまで思考を巡らせることになる。
 ざく、ざく、と鈍い音がして、君がその身体を血塗れにして行くのを眺めながら、僕は中世の異端審問の逸話を思い起こす。
 異端とされた狂信者たちは、全身に針を刺されるという拷問を受けても、なお、信じる神への祈りを捨てなかったそうだよ。
 苦痛を受ければ受ける程に、その神に酔いしれていったそうだよ。
 彼らが最終的には、何を願い望んでいたのかと、この話を知った少年時代、僕は悩んだ記憶がある。
 目的のない心のベクトルなど、存在しても無意味であるはずだから。
 そんな無意味なことに命を賭ける程、人間とは馬鹿であっていいものか。
 そんな無益な思考体系で構成された世界など、存在していいものか。
 結局、生きている間に、その答えは出なかった。



 死した今。君の姿を目の前にして。
 僕は想うのだ。
 ――世の中とは。
 もしかすると、こういった無駄な欠片ばかりで、成り立っていたのかもしれないと。
 もしかすると、こういった目的意識の欠片もない馬鹿ばかりが、集う混沌だったのかもしれないと。
 なんて秩序なき、非合理的極まりない世界。
 美しくない世界。
 そして君は美しくない人間。
 そんなことをして、何になるの。
 眠ることを恐れて、死んだ僕に囚われて、何になるというの。
 ただ……
 そんな君の姿は殉教に似て。



 しばらくたって、息を荒くした君は。傷付いた身体を硬直させた後。
 涙を一粒、ことりと零した。
 そして、血に粘る銀の針を、枕元に突き刺して。そのまま、赤茶色に染まったシーツの上に、突っ伏した。
 それから動かなくなった。
 気を失ったのか。
 いや、今度こそ、眠ってしまったのかもしれない。
 眠れば、いいんだよ。
 眠れば、夢を見るのだろうけれど。夢に君は怯えていたのだろうけれど。
 これから君は生きるのであれば、いつかは眠らなければ、いけないんだよ。



 そして、また死せる僕は。
 取り残されたように、ぼんやりとその光景を見つめていた。死ぬということは、こうして現世から奪い去られていくことであると、僕はまた想うのだ。
 どうしたことか。君がタイピンを突き刺した瞬間、肩を震わせていたのが、目に焼き付いて離れなかった。
 昔、あの時。
 僕が、君を抱いてから、ベットを離れる前に。今と同じようにピンを枕元に突き刺した時に。
 もしかすると、君は暗闇の中で、今と同じように、涙を一粒零していたのかと。
 そればかりが、気になった。
 そう感じた瞬間、僕の乾いた心が。微かに、君の涙で、濡れた。



 突然に、世界が揺らめく。
 海の泡の時間は弾ける。
 君の弾けた涙のように。
 意識体である僕の存在が、深みの何処かから呼ばれていた。
 訪れる開放感と広がるという感覚。過去と未来の交錯する狭間。
 その感覚に、僕は、この場所を離れる時が来たのだと、悟った。
 また、僕はあの来た場所に帰るのだ。
 これで、君とは、さよならだ。
 そう感じたら。
 目の端に、あのタイピンの光沢が飛び込んで来て。
 暗い海の底から浮力に突き上げられて、水面へと浮かび上がる、あのカタルシスが押し寄せて。
 僕は、自分がどうしてその、ちっぽけなタイピンに想いを残していたのかに、思い至る。
 想いを残したために、僕は君に繋ぎ止められ、想いを溶かして今、死の世界へと戻る。



 僕の視界がおぼろげに霞んでいく。命を失った死にゆく時に、似ている。
 また僕は、現世を離れてあの場所に還る。
 青い光が僕を包んでいく。
 僕たち、青のさだめを負う者は、いつか同じ場所へと還る。
 別れても、またいつか、同じ場所へと還る。
 そして出会いを繰り返す。
 兄さんと、弟たちとは、僕はいつかは出会う。
 いつかは共に溶ける。
 それが解っているから、僕はあの場所で、これから彼らを待つことになる。



 だが、高松。
 きっと、聞こえてはいないだろうが、言っておく。
 僕が死んでから、初めて見る君の夢の中に、言っておく。
 僕と君には、何の絆もないから、この世の縁が最後の出会い。
 永遠に、さようならだ。
 これが僕の君への最後の命令。
 とてもくだらない命令だから、僕には君しか命令する人はいない。
 命令する僕。
 従う君。
 ああ、これが僕と君のかたちだったね。
 その馴染んだ落差に、いつも僕は微かな胸の疼きを覚えていた。君の体温が、忘れられなかった。
 ……一族でもないのに。
 馬鹿で平凡で、何よりも無力である君なのに。
 ……この僕が、僅かなりとも心を揺らす。
 そんな人間は、君だけだったよ、高松。
 銀の針の先程の、微かな出来事だったけれども。



 高松。
 君は。
 高松。
 君は、僕を愛してはいけない。
 もう、僕らは二度と出会うことはないのだからね。



 僕を愛してはいけない。
 君とこれから出会う人間は、僕ではない。
 君を必要とする人間は、僕ではない。
 君のその目的のない感情を、必要とする人間は、僕ではない。
 熱い感情は、もしかすると例えば兄への憎しみに変わるのかもしれないけれど、でもそれを必要としている存在は、きっといつか現れるのだ。君が必要とされる時は、必ずやって来る。
 そうだね……そのタイピン。
 君にあげるよ。
 とても大切な、ものだから。ずっとしっかり、持っていて。
 僕の想いを、受け継いで。
 いつか、出会う彼の人のために。
 いつか、必ず、出会うよ。
 だから、夢から目覚めても、きっと覚えていて、僕の言葉を。僕のことは忘れても、この言葉だけは覚えていて。
 僕はこの言葉を君に告げるために。
 その銀の針の光に、導かれて、君の元に来た。



 いつか、その銀の針を、あの子に胸元に刺してやって。
 僕の残したあの子に、君のその無償の愛を与えて。







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