その顔が好き

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 俺、シンタロー。
 職業。ガンマ団総帥。
 目標。世界を悪人やヤンキーから守ること。
 ぶっちゃけ、正義の味方。悪い奴らに正義の鉄槌。
 はっきり言って、カッコいい。
 世界のヒーロー、黒い彗星、漆黒のライオン。
 しかもガンマ団員意識調査で、『総帥がカッコいい』と書かれる粋な俺。
 当り前だろ。この俺様なんだから。



 好きなもの。美少年の顔。それも、6才から10才までの美麗タイプ。
 俺の最愛、コタローに似てれば、もう最高。
 この御時世、ちょっと大声じゃあ言えないが。
 ま、好きなものは仕方ないから、真っ直ぐに突き進む、それが俺の生き方。
 ちなみに顔も好きだが、生足も好き。半ズボンから覗く膝小僧が、何とも言えない。
 おっと、引くなよ、待てよ。俺は手は出さねーぞ? そこら辺は弁えてるって。
 ただ眺めて、心の安らぎを得るだけだ。それぐらい個人の自由だ、許せよ。
 だからこうして俺は、貴重な休日の午後を、南半球の小国で――気候が温暖なので、学校の制服は半ズボンが多い――小学校の校舎の側。野の花が顔を出す川縁、その茂みに隠れ、美少年ウォッチングに精を出しているという訳だ。



 ぽかぽか陽気に、普段の激務に苛まれた身体が、ふうっと眠くなるが、そんなの構っちゃいられない。
 甘い草の香り、柔い風の感触、青い空。
 風と木が詩を奏でている。俺は双眼鏡を片手に、幸せな溜息をつく。
 ああ……美少年。我が人生に咲き誇りし最大の花よ。
 俺の青春。 俺の燃え盛る情熱の源。 君たちは我が梢をならす風であった。
 俺は溜息をつき、妄想に浸る。
 こうして陰ながら、たおやかで綺麗な少年たちを愛でるのは、俺の最高の幸せであったのだ……。



 その時、ヤな予感。
 キッ! と音がして。
 俺が隠れている茂みの側に。
 派手なピンクの高級車が止まる。
 派手にパーンと運転席のドアが開いて。
 派手な男が降りてくる。



 こいつ、マジック。
 職業。元ガンマ団総帥。今、勝手に広告塔。
 昔、世界の悪者。ぶっちゃけ、悪の覇王。世界征服を企む人類の敵。
 はっきり言って、俺はイヤ。
 世界のヒール、青い悪魔、俺の安寧のお邪魔虫。
 団員意識調査で、『前総帥がウザい』とか書かれるフザケたヤツ。
 当り前だろ。人前で俺様にベタベタしてくんな。



 世界中のマスコミメディアで水を得た魚な、恥ずかしいヤツ。
 チャラチャラすんな、それが地か。
 男は黙れ。口チャック。そうじゃねぇと、はりきりムカつく。
 好きなもの。俺の顔。
 それも、0才から28才まで、キリッとしててもヨダレ垂らしてても何でもいいらしい。
 この御時世でなくても、大声で言うなよアンポンタン。
 ま、好きなものは仕方ないを言い訳に、傍若無人に突き進む、それがコイツの傍迷惑な生き方。
 ちなみにこいつの場合、俺と違って、鑑賞するだけじゃない。
 手も出してくるから、始末に終えない。
 高尚な俺と違って、具体的に危険、即物的、我慢のきかないワガママ人間。
 おまけに。血は繋がってないけど。
 ……俺の……。
「ハーイ! シンちゃん! お前の恋人のパパだよ!」
「うっざ――――!!!!!」




その顔が好き





「やあ、不審者風のシンちゃんも可愛いね!」
「だから! 俺はカワイーんじゃなくて、カッ……」
 思わず『カッコいーんだってーの!』と後に続けようとした言葉を飲み込んで。 
 俺は慌てて立ち上がった。
 折角、人がこっそり小学校に面した川辺、茂みで美少年鑑賞してんのにッ! 台無しじゃねーかよッ!
 見回りしてる体育教師とかに見つかったら、どーしてくれんだよッッ!
 俺の反応は全く意に介さず。
 『そんな変質者さんに、お弁当作って来たよっ!』と男は、ウキウキと、俺がこっそり隠れていた茂みに割り込んできて、ランチョンマットを広げ出す。スプーンやフォークを並べ出す。
「出てけっ! ここは俺の茂みなんだよ! 隠れ場所! 出てけってば!」
「えー、シンちゃんのケチんぼ! 嫌な俺様テリトリー! ここは公共の土地だよ? それに狭い所に入り込むなら、パパの超得意技なのに。一緒に入ろう。茂みとか外とか大好き」
「言ってることがよくわからんが、とにかくイヤ! アンタは邪魔なの! 帰れ! それか世界を回って、美少年の一人でもスカウトして来い!」
「いやだな。ダンディーで二枚目で色男でリッチでお茶目で甘えん坊で、ちょっとエッチ、シンちゃんを目の前にしたら少しハメを外しがちな、可愛いパパじゃない。どこが嫌なの」
「その全ての言葉の整合性を疑え」
「今日、お昼御飯食べたら、シンちゃん急にいなくなっちゃうんだもの。パパ、探したよっ! 衛星写真で解析しちゃった」
「チッ……撒いたと思ったのに……」



 茂みの中で、攻防戦は続く。
 途中で犬の散歩をしていた通行人が、まずデカいピンクの車にビクっとし、次にデカい男二人が口論する茂みにビクっとし、犬と一緒に尻尾を巻いて、来た道を逃げ帰っていた。
 どうにかしてくれ。
「それならパパにも考えがある」
 マジックが言う。
「ああ?」
 ムキになった俺は、息を切らして睨みつける。とにかくこの男は、世話が焼ける。
 彼は、うっすらと笑って言った。
「今日、一緒にいてくれなかったら。シンちゃんのこと、団員の前で、『シンたん』って呼ぶ」
「なななな何イィィィイィィッッッ!!!」
「『シンたん』って呼ぶよ!」
「……」
 俺は――大人しくしていることを条件に。マジックを追い返すのを、あきらめた。



 しかし、大人しくしていると約束したのに、コイツったら。
 俺の隣に、ちゃっかり座って。双眼鏡で美少年の下校を追う俺に、何くれとなく話しかけてくる。
 膝で、作ってきた弁当を広げ、『はい! これ、おいしいよ! あーん』なんて、やってきやがる。
 抵抗するのも面倒臭いし、何より目の前の美少年で手一杯な俺は。しょうがないので、ムシャムシャ、差し出されるものを食べてやっていた。
 たまに視線を向けると、マジックは、
「ふふ」
 そう、嬉しそうにニコニコしている。
「あ、シンちゃん、ほっぺに睫毛ついてるよ」
 そして、そう指を差されたから、何の気なしに。双眼鏡を覗いたまま、手の平で頬を、はたこうとしたのだが、
「ダ、ダメだよ!」
 突然腕を掴まれ、凄い勢いで止められた。
「何だよッ!」
「ダメだよ、シンちゃん! 抜けた睫毛は、そっと小指の先で取って、ふうって吹かなきゃ! そうしないと失恋しちゃうんだよ!」



「うざ――――!!! もうロマンティック禁止! 乙女禁止! しゃべるの禁止! 大人しくしてろよ! 邪魔すんな! 美少年の下校時間、終わっちまうだろォォォ!!!」
 とうとう俺様の怒り爆発。茂みがガサガサ揺れた。
 相手は不満そうだったが、やっと、しぶしぶ頷いた。
「よーし、わかった! 今日はパパも、大人しくシンちゃんの顔を愛でる日にするね! それでいいでしょ!」
「ああ? つうか見てるだけだぞ! とにかく静かにしてろ! 俺の安らぎの邪魔すんな!」
「ラジャー」
 そして。
 それから
 にこぉ〜っと頬を緩めて。
 じ――――っと熱視線を送って。
 気持ち悪いくらいの微笑みで、マジックは、こちらを眺めている。
「……」
「……」
 初めは無視していたのだが。
 じーっ。
「……」
「……」
 じーっ。
 じーっ。
「……」
「……」
「……」
「じーっ」
 元々、俺の対マジック・ゲージは短い。短いったら短い。
「ああ――――ッッッ!!! 鬱陶しいんだよッッッ!!! 声にまで出して見つめんな!」
 あっと言う間に怒髪天を突いて、立ち上がってしまう。
「えー。パパ、大人しくシンちゃん鑑賞してただけなのにー」
「アンタの視線は痛いんだよッ! 絶対ナンか出てる! 有害視線禁止!」
「自分は美麗系少年ばっか見つめてるクセに、パパのはオール禁止? 超ずるいよ! 不公平!」
 不平満々の相手に、俺の怒りは募るばかりで。
 プンプン口を尖らせて怒っていたら。相手は何だか喜び出した。
「うわあ、その顔可愛い、シンちゃん! パパまっしぐら!」
「ギャー! 抱きつくなー!」
「痛い痛い。でもこの痛さがいい」
「離れろって! 人の休日の楽しみを奪うなッ!」
「あはは、シンちゃんのパンチは猫パンチ〜! パパとニャンニャンするんだニャン!」
「こーのヘンタイ! 勝手に人の攻撃に名前付けんな! 暑苦しい! くっつくな――――ッッッ!!!」



 そうこうする内に、美少年の下校時間は終わってしまった。
 最初の30分ぐらいしか、堪能できなかった。
 コイツのせいだ。全部、コイツのせい。
 俺は男を押しのけると、ザッと茂みから出た。
 無言で肩を怒らせ、歩き出す。
 マジックが、『シンちゃん、待って〜』と、後を追ってくる。
 腹が立つ。
 小学校校舎から少し歩いて、沿って流れる川の上流、奥まった場所に着いたのだが、目当てのものがない。
 俺がここまで乗ってきた……。
「ああ、そこに停まってた小型飛空艇? あれ、操縦士にもういいよって、帰らせちゃった」
「何だとォォォォッッッ!!!」
 どこまで俺の邪魔をするのか、この男は! と俺は拳を振り上げた。
 俺はッ! 俺は、今から世界各国を回るの!
 時差を利用して、世界各国の美少年の下校時間をウォッチングするの!
 そんな俺の有意義な休日を!
 コイツはどーしてくれんだァァァッッッッ!!!!!



「はは。無問題。パパの車に乗ればいい」
「あんなピンクの車で、こっそり鑑賞できるか――――ッッ! すぐに警察に捕まるって! 思いっきりに不審車両!」
「大丈夫、大丈夫」
 仕方なく、二人で先程の茂みの側に停めた、恥ずかしい車の所に行く。
 この車は見たことがなかったが、どうせ貢物だか何だかで、手に入れたものに違いない。
 とりあえず、高級車だということはわかるのだが。
「この車ね。一見、普通だけれど」
「いや、全然普通じゃないし」
「グンちゃんに改造してもらってあるんだよ! 意外に高性能さ! 外観に関するシンちゃんの悩みも一挙解決! ほうらね」
 そう言ってマジックが、運転席に乗り込み、何やら装置を操作する。
 シュ。
 そんな音がして。車が、あっと言う間に、茂みと同じ色になる。
「保護色機能、つけてもらっちゃった! ちょっといいでしょ? ね? ね?」
「まーた……いらん細工を……」



 脱力したものの。他に方法もないし、何より下校時間の制限は切実だったので。
 俺は、渋々、またピンクに戻った車の、助手席に乗り込む。
 それを見て、嬉しそうなマジック。
 ドライブでデートだね! という台詞は放っておいて。
「てかさ。アンタ、この国で運転していーのかよ? ここって条約加盟国だっけ」
 何でもいいからケチをつけたくて、どうでもいいことを聞いてしまう俺だった。
 この国は、マイナーな小国。
 国際運転免許証は、その国がジュネーブ条約に加盟していないと効力がないはずなのだ。
 この国独自の免許を取得していないと、運転できないはず。
 しかし、マジックは思いもかけないことを言われたというように、不思議そうな瞳で、俺を見た。
「え? 免許? 何でパパにそんなものが必要なの?」
「は……?」
「世界の道路に、パパより偉い人間が存在すると思う? 誰がパパに、運転していいって許可を出せるのかな。そんな人間、いないよ」
「え、ちょっと待て。すると今まで。今まで、アンタが運転してたのは。って、元々……」
「免許なんて持ってるはずないでしょ。生まれてこの方、そんなの取ったことないよ。はは。アドリブ」
「ギャ――――!!!! 無免許野郎――――!!!!」
「はは。出発ー!」
 車は、無情に走り出した。



「ていうか! ていうか、よく考えると!」
 マジックの道路交通法違反について考えるのは、もう放棄して。
 運転自体は上手いから、まあそれはいい。俺は正義の味方だけど、見逃してやる。
 俺は、もっと重要なことに気が付いた。
「これから世界各国回るのに! 車じゃたくさん回れないじゃん! どーすんの!」
「んー? それも無問題なんだな、これが」
「あああ?」
 高速道路に入った車は、快適なスピードで窓の景色を流している。
 やけにもったいぶって言う相手に、俺は本日何度目かの腹を立てる。
 言え! 早く言えよ! 下校時間、終わっちゃうだろ!
「グンちゃんをナメちゃいけないよ、シンちゃん! この車はね……」
 マジックは、また何やら操作している。
 すると車体が、揺れて。俺は、自分の目を疑った。
 車体の両脇に。にょっきりと、翼が。あるべくもない翼が。
「これ、空も飛べるんだよ。さあて、助走はそろそろいいかな。飛び立とうか!」
 高速道路を滑走路にして、みるみる内に浮遊感。ふわっと、車体が持ち上がった。
「ギャ――――!!! これも絶対にヒコウキ無免許運転!」
「御名答。世界の空に、パパより偉い人間が存在すると思う? でもいいじゃない。パパ、何だって操縦上手いよ! シンちゃん、夜に十分わかってるクセに!」



「……」
 もう、俺は諦めた。
 ここは空の上。口をヘの字にし、現状を受け入れいている。
 もういいんだ。
 俺は、美少年の下校時間にさえ、間に合えば、もうそれで。
 結果よければ、全てよし。
 だから、とにかく間に合わせろよ!
 俺はそんな怨念を込めて、平気な顔で、すでに小型飛空艇と化したピンクの車を操縦する男を睨みつける。
 相手がその視線に気付いて、口を開く。
「こういうデートも、いいでしょ? 楽しいよ」
「俺は楽しくねー!」
 車体の脇を、ジャンボジェット機が通り過ぎていく。
 驚愕したような乗客の一人と、目が合って、俺は、慌てて顔を背ける。
 恥ずかしい。
 このピンクの物体が、恥ずかしい!
「そういえばグンちゃん、何だかこれに名前付けてたなぁ……ピンクパンサー1号とか……」
「ピ! パ! つーか1号って! まだ続々新作予定かよ! 勘弁して! ガッデム・ファンシー親子!」
「はは。ファンシーで、空も飛べるんだよ! ほぅら!」
「ギャ――ッ! アクロバット飛行やめ――――ッッ!!」
 ピとパのつく飛行物体は、ぐるんぐるんと綺麗に空中回転を繰り返した後。
 淡く橙色かかった雲に、飛び込んだ。



「着陸ー。がたーん」
「……はぁ……はぁ……」
「なあに、息を切らして。パパ、すっごく安全運転で快適だったでしょ?」
「それはそうだが、何だか、ヤバかった。何だ……この、アンタといると沸き起こるこの胸の不安は……運転は安全だが、何かが危険だ。俺の本能の危険信号が、常時ピカピカ光ってる……」
「チチチ。それが、恋なんだよ、シンちゃん……」
 人差し指を立てて胡散臭い微笑を浮かべている、アホは放っておいて。
 どうにか呼吸を整えた俺は、ガバッと、車窓に貼りついた。
 着いたのは、寒い国。時は下校時間。
 この車の止まった丘から見下ろす、凝った造りの学校は、楽しげに帰宅する少年たちのざわめきで満ちている。俺は胸を撫で下ろす。
 良かった。間に合ったらしい。



 腹は立つが、運転の技術だけは認めてやる。絶好のポイント!
 せかして、車を保護色にさせる。
「じゃあ! 俺は今から鑑賞タイムに入るから! 邪魔すんなよ! 静かにしてろ!」
 そう俺が言うと、マジックは、最初は聞き分けが良かった。
「は〜い。じゃあパパは、そんなシンちゃんを鑑賞タイムするね! 頑張るよ!」
 そして本当に、大人しかった。
 運転席で、ハンドルに手をおいたまま、一心に俺を見つめている。
 そんな相変わらずの熱視線が、痛かったが。
 美少年の園を目の前にした俺は、そんなコト、構っちゃいられない。
 ほくほくで、車窓から身を乗り出すように、俺はウォッチングを開始する。
 連れ立って下校する少年たちを、双眼鏡で追う。
 溜息が漏れる。
 ああ……。やっぱ、いーよなー。寒い国の美少年は!
 こう、日照時間が短いから、肌が透き通ってるんだよ!
 同じ美少年でも、コタローの香りがする美麗系多いよなー!
 胸がドキドキソワソワしてくるぜ。
 俺は、すうっと澄んだ空気を、胸に吸い込む。
 あー、美少年がいると、空気まで美味いぜ!
 やっぱ、水がいいと魚が美味くなるように、空気がいいと顔まで綺麗になるんだなー!
 ああ、最高。全てが最高。
 美少年、バンザイ!



 ――さわっ。
「……?」
 違和感を覚えたが、それどころじゃないので、気にしないでおいた。
 うーん、それよりあの白い首筋! 初々しーぜ!
 おっ? あの子、コタローに似てねーか? ん?
 ――さわっ。
「……」
 いや、コタローの方が全然上か! もっと目がなー、ぱあっと大きければなー
 ――さわさわっ。
「……」
 背後から。
 ――さわさわさわっ。
「だ――――ッッッ!!! 人がピュアに趣味に没頭してりゃあ、調子に乗りやがってっ! 触んな! 邪魔すんなっつったろォォ!!!」
「だってシンちゃん! こんな目の前にあるんだよ! こんな可愛いシンちゃんのお尻は、パパが触らない訳ない!」
「断言すんな! 俺が見てるだけなんだから、アンタも見てるだけにしろよ!」
「それが不公平なんだよ! いいかい、シンちゃんの場合、ターゲットの美少年との距離は推定100メートル。しかし、パパの場合、ターゲットのシンちゃんとの距離は心持ち10センチ! つまりパパの方が、一千倍も誘惑に堪えているということで! しかもパパは、目の前に出された御馳走はちゃんと食べないと、失礼かなって思う方だから! だからパパはシンちゃんに触っても致し方ないってことで!」
「ヘンな論理を作り出すな! 心持ちって何だよ! 失礼って何! つーか、とにかく邪魔すんな! 俺の邪魔をすんなぁぁぁ!!!」
「つまんない! パパつまんない! 触れないなんて、つまんない! つ・ま・ん・な・い――――!!!」
「車内でジタバタ騒ぐな! うっとーしい! ああっ! そうこうする内に下校時間が終わっちまうじゃねェかよッ!」



 車を降りようとも思ったが。
 何をしたって、この男がついてくれば同じだと気付き。結局、俺たちが見出した妥協点が、この態勢。
「いーか! 少しでも指、動かしたら、許さねーゾ!」
「は〜い パパ、頑張って動かさないよっ」
 マジックが左手で車を運転し。
 助手席に置いた、その空いた右手の上に、しぶしぶ俺が座り。
 俺が指示を出して、これぞと思った美少年を追いかけるというもの。
 とりあえず触らせるだけを条件に、こき使ってやることにした。
 あまり気に入らないが、何しろ美少年は常時動いている生き物であるから、緊急態勢だ、仕方がない。面倒だが、この男も使うしかない。
 俺はびしばし命令する。
「右! オラ、そこの路地入った! そのまま追って!」
「ハイハーイ でもシンちゃん。パパが言うのも何だけど、この車、街中を追いかけるには相当目立ってるよ? 保護色無理だし。今、脇通ったお婆さんが、口開けてメガネ落としてたよ」
「いーんだよ! 背に腹は変えられねぇ! とにかく俺は! あと1時間半は美少年見続けないと、胸がすっきりしないの! 明日から気持ちよく仕事に臨めないの!」
「胸のすっきり? んーもう、別のすっきりなら、パパがいつでもさせてあげるのに」
「あああ? ナンか言ったかぁ? もう追跡関係以外は喋るな! オラ、今度は左に曲がって!」
「つれないなあ……往年の美少年だったパパが、心持ち10センチの距離にいるのに……月日って切ないよね……」
「喋るなって! ……ん……んあッ……! 指! 指、動かすなよッ! やっ、約束違反!」
「道が悪いんだよ。シンちゃんが、狭い道ばっかり入れって命令するから。自業自得」
「いーや、絶対この指の動き方はオカシ……んっ! 絶対、オカシ……ああっ!」
「おかしくないって。パパ、何もしてません。車が揺れてるだけです。あれえ、もしかしてシンちゃん、こうなることわかってて、わざとガタガタ道に行けって言ったの? ヤラしい子だなー」
「バ、バッカ野郎――! ンな訳あるか――――ッッ!!! どーしてこんなにガタガタ上下左右に揺れンだよォ――――!!! くっそ、俺は負けねーぞッ! 何が何でも美少年鑑賞を全うしてみせる! 見てやがれ!」



 嫌な感じに揺れる車内で、俺は唇を引き結び、決意を固める。
 双眼鏡の中の美少年は、街灯の下で、ぴたりと止まった。
 人待ち顔だ。待ち合わせだろうか?
 マジックに言って、車も少し離れた場所の路地に止めさせる。
 しばらく静止した美少年を観できた俺は、心に余裕が生まれてきた。
 そうさ。そうさ、俺。重なる悪条件の中でも、初志貫徹してこそ、通ってものだ。粋だぜ。
 負けるな、俺。そう。どんなことにも俺は、今まで負けなかったはずだ。
 だから、このアホ親父の、セクハラ攻撃にも……!
 遠目の美少年は、手を振っている。待ち合わせの相手が来たようだ。
 俺は相手を見て、思わずガッツポーズをしてしまった。
 ラッキー! 美少年が二人に増えたッ!
 やっぱり、意志を固くしてそれを貫けば、いいコトあるんだなあ……。
 美少年二人組が歩き出したので、マジックに背後から尾行するように指示を出し、俺は上機嫌でその後姿を眺める。
 ああ……幸せ……幸せ二倍、ラブ二倍。
 相変わらずのガタガタ道に揺れる車内と、迷惑な指だったが。
 俺は負けずに、鑑賞に精を出す。
 だが、ふと気付いた。
「……なあ」
「ん? 次、曲がるの?」
「この車、超のつく高級車なのに、何でこんなに揺れんの」
「そりゃあ、パパのスーパーテクで、どんな道でも男でも女でも揺らし放題……ん、この街は酷いガタガタ道が続くねー。さすがのパパも、運転大変だよ!」
「……」
 クッソ……。
 俺は、握り拳を固めた。
 クッソ。
 俺は負けねェェェエえええ!!。




「もういーよ。帰る」
 俺がそう言ったのは、時差を利用して六ヶ国目の国で、下校時間の美少年が自宅に帰るのを見届けた後だった。
 あー、満足。生き返るー!
「はぁ〜〜〜っっと!」
 助手席で、腕と脚を伸ばしてみる。
 栄養ドリンクよりもキく、エネルギー充電完了! ってモンよ。
 そんな俺を、流石に呆れの混じった顔で、マジックは見つめていたが。
 すぐに表情は、またくすぐったそうな笑みに変わる。
「満足した顔も可愛いね、シンちゃん。美少年で満足した顔は、満足系だと二番目に可愛い。勿論一番可愛いのは、パパので満足……イタタタタ」
 俺は、すかさずヤツの手の平の甲を抓り上げる。
「くだらんコト言ってないで、さっさと車出せよ! この地方は条例厳しいから、不審者の取り締まりがキツいんだよッ!」
「シンタロー総帥の悪者退治って、その不審者は対象外なのかな……青少年の健全な育成に関する。まったく、人使いが荒いんだから」
 それでも、俺に命令されて、やけに嬉しそうにエンジンをかけるマジック。
 走り出す車の中で、俺は、あーあと、ふくれっ面をした。
「せぇっかく、今日はコタロー似の美少年で癒されたのに。アンタと話すと、すーぐに逆戻りする気がするぜ。毎日毎日、逆戻り。いっつも同じ所に、逆戻り」
「チチチ。それが、愛なんだよ、シンちゃん……」




 この国でも、日は暮れようとしていた。辺りを薄闇が包んでいる。
 ぼんやりとした夜の気配の中、やけに静かな車内。
 いつの間にか、悪戯し放題だったヤツの右手は、俺から離れていて。
『パパ、この辺は初めてなんだ。ね、最後にこの国の海、見ようよ』
 そう言われて。まあ、それぐらいはいいか、勝手について来やがったんだけど、それぐらいは、と。
 俺たちは、小さな港町に来た。
 優しい亜熱帯気候に揺らぐ風、淡い暖色系の橙や茶で塗られた街並、豊かな自然。
 美しい浜辺には、白い貝殻がぽつぽつと模様を描く。穏やかな波の、深い青。陽の沈んだ後の水平線。微かに浮かび上がり始める、星の影。
 俺たちは運転席と助手席に座ったまま、それを眺めた。
 時間が、過ぎた。



 さっきまで軽口を叩いていた男は、すっかり違った空気を漂わせていた。
 触れてはいけない空気。
 その悔しいけど一応整ってはいる横顔を見て、俺は思う。
 さっきまでは、俺のコトばっか気にして、御機嫌取ってたクセによ。
 どうして今は、俺なんて、いなくてもいいって感じになってんだよ、コイツ。
 何なんだよ。何なんだよ、もう。
 俺はコイツの一から十までが、気に食わないけれど。
 特に。俺は、コイツの、こんなギャップが苦手。
 急に調子を変えられると。手綱を放された馬みたいに、どっちに走っていいのかわからなくなる。
 どうやって反抗したらいいのか、わからなくなる。



 マジックは、相変わらず海を見ている。
 薄い星明りを集めて映して、寄せる波のひとすじひとすじが、輝いていた。
 白く跳ねて、いつか空気に溶ける。夜の風。潮の香りがして。さあっと、それが開けた車窓を通り抜けて行った後、
「あーあ。ねえ、シンちゃん。軍も一族も捨てて、こんな所で二人で暮らしたい」
 そう呟く声が、隣から聞こえた。
 チッ。何を言いやがる、と俺は思う。真剣に腹が立ってくる。
「……またアンタは! これから俺は、家族みんなで仲良く暮らすの! コタローと幸せになるの! そんで世界も平和にして、人生、めでたしめでたしにすんだよ!」
「うん……」
 しがらみから逃れることはできないなんて、アンタが一番わかってるはずなのに。
 そんな、バカで非現実的なことを、言いやがる。
 俺に否定してもらいたいがために、言いやがる。



 そして相手は、今度はこう口にする。
「今日、楽しかった……?」
「……まあな」
 美少年、観察できたし。
 そう俺が答えてやったのに、マジックは、また海を見て言う。
 こんな風に、いつもお前と一緒にいたいのに。
 関係が近すぎて、逆に一緒にいられないよね。しがらみが多すぎる。
「親子として出会わなければ良かった」
「それ、本気で言ってんのかよ」
 棘だらけの声で、俺は聞いた。
 この瞬間、色んなことが頭を巡って、そして記憶の底に消えていった。
「いや。本気じゃないよ。嘘だと思って言ってる」
 マジックが、海を見ていた視線を外して、ちらりと俺を見た。
 そしてまた戻す。海を見ている。微かに息を抜くようにして、呟く。
 落ちた硝子の破片が、海底へと沈んでいくような声音だった。
 でもきっと、どんなことをしたって。
 お前と私は、親子として出会う運命だったんだ。
「……」
 俺も、海を見た。
 秘石に操られていた俺たちの関係。
 とにかく青の番人のコピーを、マジックの息子として送り込みたかった石コロの思惑。
 俺たちの24年と、それからの4年。
 血なんて、繋がってなかった。
 それでも信じたかった関係は、嘘だった。
 ムッとした俺。瞬きする俺。その側で、男は続ける。
 薄暗がりの中で、その金髪は、相変わらず綺麗だった。
「今、お前は、私のやったことの後始末をしてくれてるんだよね。家族も、世界も」



「お前の人生だけじゃなくて、取り返しのつかない私の人生を、少しでも『めでたし』に近づけようとして、頑張ってくれてるんだよね。わかってるよ」
 取り返しのつかない人生って。
 そんなこと、言うなよ。
 だから俺は、自分では怒った顔をしたつもりだったのに。
「……そんな顔、しないで」
 そんなコトをほざく奴に、こんなコト、言われた。
 そんな、こんな。あれ。それ。どんな。
「そんな顔って、どんな顔だよ」
「その顔。今の顔だよ。ちょっと悲しい顔、してる」
 その。
「……」
「でも、お前がどんな顔をしてたって、私は好きだよ。愛してる」



「キスしていい?」
「……聞かなくてもするクセに」
 今度はしっかり仏頂面の俺が答えると、だって、と声が続く。
「たまには、シンちゃんに『いいよ』って言ってもらってから、キスしたいから」
 俺の頬が、ピクピク震える。
 うざい。そういうの、ひたすら、うざい。
「唇、合わせる前に言って欲しいよ。合わせた後だったら、ちょっとパパがシンちゃんの唇の端舐めたら、すーぐその気になって、口開けて舌なんか出しちゃってくれるから、それって『いいよ』って印だよね〜? でもねぇ、たまには、する前にねえ」
「グオわあ――――!!!! 飛び込め! アンタは早くあの海に飛び込め! 早急に!」
 それでも相手は、うるさかった。
 粘る、粘る。嫌がる俺に、しなだれかかってくる。
「ねえ、『いいよ』って言ってよ」
「やだ」
 10センチから縮まって、心持ち3センチぐらいの距離で、言い合いは続く。
 相手の溜息が、俺の頬にかかる。軽く黒髪を引っ張られる。
 俺の心臓が跳ねる。でも、その分、顔をしかめるだけしかめる。
「んもう。パパのこと、好きじゃないの?」
「だーかーらー! こーいうしつこい所が好きじゃねえっての!」
「じゃあ他の所は好き? というより、根本的にはパパのことを『好き』って言ってくれれば、万事解決なんだよ! ねえ、好き? 好きって言ってよ」
「言うか――――――!!!!!」
 思わず大声で叫んでしまう俺。
 はあはあと息を荒くして、マジックを睨みつける。
 耳元で叫んだので、流石にキーンときたのか、相手も、うわ、と耳を押さえていた。
 でも、すぐに。少し笑ったのがわかった。
「可愛い顔」
 空気が和らぐ。言葉がそう耳に聞こえて、また心持ちの距離は縮まる。
 人差し指で顎を上向かされて、唇が重なってくる。
 ムッとした顔を作りながら、目を瞑る俺。
「その顔が好き」
 耳ではこう聞こえた。
 触れてきた冷たい唇で、口の端を撫でられて、やっぱり思わず力を抜いてしまう俺。
 ぬるりと入ってきた舌に、いつまでたっても最初は怯えるものの、すぐに一生懸命になってしまう俺。
 あっさり腰が痺れて、もう何だかよくわからなくなってしまう俺。
 でも、意識の裏側で残る、さっきの言葉。
 心では、こう聞こえたような気がした。
『その顔で出会わなければ良かった』



 取り返しのつかない人生って。
 そんなこと、言うなよ。
 アンタがさ。きっと世界で一番たくさん人を殺したとか。
 一番大切にしなきゃいけない子供に、一番酷いことをしたとか。
 昔……ずっと昔に。
 俺と同じ顔した人間を……好きだったとか……しかも弟の恋人。
 そして、そいつの顔と身体が、今の俺の顔と身体。
 この状況に、動じてんだか動じてないんだが、よくわからないアンタ。
 妙に順応して楽しくやってるっぽいアンタ。
 アンタが最低なヤツだなんて、最初っから、こっちはワカってンだよ。
 だから、今さら言うなよ。
 俺が、惨めになるだろ。
 だから言うな。
 俺がどうにもできない過去の話はすんな。
 惨めになんだよ。
 アンタには、絶対にわからないだろうがな。



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 車の中で速攻で押し倒されそうになったのを、止めた俺は偉かった。
 もう必死に、肘鉄。膝蹴り。また肘鉄。
 猫パンチとか猫キックとか言われるとムカつくから。
 狭い中で攻防の末、なんとかヤツは、あきらめたね。
 ハッハ、ざまあみやがれ。はっきり言って、勝った! と思った。
 ざざーんと音を立てる海に向かって、俺は勝ったぞ――――!!! と大声で叫びたかった。
 明日は仕事なんだ。車とか外でなんて、冗談じゃねー。
 それ以前に、疲れたから早く眠りたい。
 つーか、さっきアイツ、何て言ったと思う?
 あの後。
『どうせ血つながってないから、違う所でつながろうよ! ドッキング☆ラブラブ・アニマルになろう!』って!
 どーいう口説き文句なんだよッ!
 アホ! アンタはアホだ! なんつーか、いっつも台無しなんだよ!
 最っ低!
 我ながら全身ハリネズミみたいにして拒否る俺に。
 じゃ、家に帰ってからね、と不満そうだった男は。
 それでもやけに、あっさりしていた。いつものしつこさから比べれば、だけど。
 でも俺は、久し振りの勝利の余韻に満足して、さしてそのことに気はかけなかった。
 俺が最後に繰り出した『口きかないからな!』攻撃が効いたんだろうなんて思っていた。
 フフン、と鼻歌まで出て。
 車を低空飛行させて、窓なんか開けて。帰り道は涼しい夜風に吹かれて、ちょっと御機嫌だった。
 家に帰ってからだって、何とか理由をつけて、これは丁重にお断りできるかもしれないぞ、なんて、感じていた。
 眼前に流れる、きらめく星々。夜の闇。面倒な運転手がいたが、美少年を堪能できた俺の心は、充実していた。
 これはこれで有意義だったと、俺は冷たい空気を頬に、うっとりして。風になびく自分の黒髪を、見つめていた。
 いい一日だったと思った。
 俺は、甘かった。



 ズシャアアアアッッッ!!!
「はい。着陸」
「家のベランダに着陸ポート作ってんじゃねーぜ……ったく、油断も隙もあったもんじゃねえ」
「えー、便利でしょ? 窓から部屋にドア・トゥー・ドア」
 ぶつぶつ文句を言いながら俺は、車からベランダへと降りる。
 元は高級車だけに、運転手はともかく、乗り心地だけは良かったことは認めてやる。
 がらりと大窓を開けて、俺は、暗い室内に足を踏み出す。
 この部屋はマジックの寝室。いつもそれなりにきちんと整っている空間。
 幾多の苦い思い出のある、不吉で大きなベッドを尻目に、俺は扉のノブに手を掛けた。
 さっさとここから退散しようとしたのだ。
「あれ」
 遅れて部屋に入ってきた男が、それを見て、声をあげる。
「シンちゃん、どこ行くのかな」
「どこって……自分の部屋だよ。シャワー浴びて寝る」
 つい正直にそう答えてしまってから、これは逃げるに限ると、俺は急いで扉を開けようとする。
 金色のノブを回す。
「……?」
 しかし、開かない。
 ガチャガチャと音を立てるだけで、扉は、ビクともしやがらない。
「……え? 鍵? ってか、……?」
 鍵がかかっているとしても、センサーによる本人照合式の鍵なので、俺はフリーパスのはずなのに。
「はっは、残念〜」
 マジックが焦る俺に近付いてくる。
 そして肩に、ぽんと手を置き、瀟洒な笑みを浮かべて言った。
「その扉は、絵です。本物の扉はこっち。今日は午前中、パパは部屋の模様替えをしてみました」



「ア、アホかっ! そんな部屋の模様替えあるか――――ッ!!」
「んー、ちょっとトリッキーでしょ? ノブは飾り。シンちゃん、ひっかかるかなーって思って! やっぱりひっかかったー」
 ぱちんと明かりを点けられれば、なるほど、自分の目の前にある扉は、壁に描かれた絵だった。
 そして、本物の扉、とマジックが指差した先にあるのは、ただの白壁。どう見ても、どこまでも壁。
「と、扉! 扉ドコだよッ!」
 俺は、壁に貼りついた。必死に手で探る。
「あはは。これも保護色にしてみたよ。壁と寸分違えないデザインにしてみましたー!」
「何だとォ――――――ッ!!!」
「きっとパパが教えないと、シンちゃんにはわからないと思いま〜す」
「アホもいー加減にッ! 何でンな無駄なコトすんの! 頼むからその余力は他のコトに使え――――!」
 ぜいぜいと息を荒くして抗議する俺に、マジックは、しれっとした顔をして、肩を竦めている。
「無駄? どうして。役に立つでしょ」
「はぁぁ? 何の役に!」
「今。シンちゃん、部屋から出られないでしょ。逃げようとしたね。十分役に立ってる」
 う……。
 俺は、思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
 急に変わった、冷たい相手の雰囲気に、ずりずり後退る。
 しかし、すぐに背中には無骨な壁の感触。
 え、俺、やっぱ、ヤバい状況? 追い詰められた獲物状態?
 ていうか、いつの間にか、プチ密室に狼と二人?
「シンちゃん」
「は、はいぃ〜?」
 つい怯えを滲ませてしまった俺の返事に、マジックは。さっきお預けだった分も、と小さく呟いてから、やけに甘い声で、
「可愛がってあげるよ」
 にっこり笑って、その本性を現した。



----------



「ん……っ」
 気怠るい空気の中に、甘えたような鼻声が響いて、俺は羞恥に震えた。
 両の腕は赤い紐で括られて、ベッドの両脇に縛り付けられている。
 子供が万歳をするような格好。
 そうだ、まるで子供を扱うみたいに。この男は、俺の上半身を剥き。
 全くお前は暴れるから仕方ないね、と、さも俺が悪いような顔をして。
 嬉しげに、下半身のジーンズだけで、脚をバタバタさせる俺を拘束したのだ。
 今、ヤツは。
 金紗の黒と赤に縁取られた安楽椅子に凭れて。
 同じくらいに豪奢なバスローブなんか着やがって。
 一人シャワーを浴びた後の涼しい顔で、手にワイングラスなんか持っちゃって。
 悠然と、この俺様を鑑賞している。



 さっき、こいつが、縛った俺を放置して浴室に行こうとした時に。
 ただでさえカンカンに怒っていた俺は、更に腹が立った。
 俺だって、熱いシャワーが欲しいのに! そんで、すぐに寝たいのに!
 せめて俺にもシャワー!
 だから、抗議したら。そしたらこいつ、何て言ったと思う?
「え? ダメだよ。だってシンちゃんの匂いが薄まっちゃう。勿体無い」
「ウギャー! ヘンタイっ!」
「はは、お互い様」
 マジックが去った後、俺は、この腕の拘束を外そうと、やっきになった。
 たかが紐。引っ張ったり、千切ろうとしたり、歯を立ててみたり。
 でも、びくともしやがらねぇ。
 縛り付けてあるベッドの方も以下同様。
「な……ッ……クソッ!」
 ぜいぜいと息が切れた頃、いい香りを漂わせて、マジックが浴室から戻ってきやがって。
「おやあ、シンちゃん、銜えるなら紐じゃなくてパパのにしてよー」
「軽口うざっ! 何なんだよこの紐! ベッドも!」
「そりゃあもう。いつもシンちゃんには色んなもの壊されるからね。この度は、特別製のをグンちゃんに頼んじゃったよ 何でもスペースシャトルに使われる超合金でねえ、」
「まったグンマかッ! あいつはお前の使用目的知ってんのかよッッ! 鬼畜親子ッッッ!」
「何とでも」
 ていうか、俺が色んなもの壊すのは、アンタが色んなものをヘンなコトに使うからだっての!
 モノは、ちゃんと、使用法に従って! 作った人が可哀想でしょッッ!



「……う……」
 無意識の内に、もじもじと揺れてしまう俺の腰。
 俺がこうなってしまうのには、さらにもう一つ理由があった。
 鏡。部屋の壁と天井に張り巡らされた、鏡。
 俺を縛り上げてから、ベッドサイドの装置を、何やらマジックが操作すると。
 一気に、この部屋は鏡張りになってしまった。なんて趣味。
 今も、上半身裸の俺が、俺を見つめている。
 何か、ヤだ。恥ずかしい。
 自分が自分に視姦されているようで。
「あー楽しい。シンちゃんの顔に囲まれて、パパは幸せ」
 爪で、軽くグラスを弾いて、まさに至福といった笑みで、溜息をつく男に。
 壁一面に映った、何十もの俺の顔が、一斉に眉を吊り上げて叫んだ。
「み、ミラクルへんたいッッ!!! 放せッ! 俺を放せよッ!」
「んもう、お互い様のクセにって、言ってるでしょ」
 この男は、さっき冗談のように口にしていた『今日はパパも、シンちゃんの顔を愛でる日にするね!』という台詞を、忠実に守る気なのだ。
 何がお互い様だッ!
 アンタの方が何十倍も悪質な変態なんだよッッ!



「一口、あげようか」
 そう言われて、喉が渇いていると自覚する。叫びすぎた。
 それでもムッとしたまま黙っていると、相手は椅子を立ち、ベッドの上の俺へと近付いて来る。
 そんな男に視線をやるのも、腹が立つので。
 俺は、その背後で輝く、銀色の鏡を見ている。思う。
 やだなあ。
 俺、やだなあ……この顔。
 鏡に映る、黒髪黒目、俺の顔。
 それは幼い頃から幾度も幾度も、胸の奥でこっそりと呟いてきた思いだった。
 ワインを含んだ口に、口付けられる。酔わせる味が、舌と一緒に入り込んできた。
 喉の渇いた俺は、それを飲み込もうとする。
 しかし、すぐに唇は、離れていった。



「……?」
 マジックは、ベッドに脚を掛け、俺に数十センチの距離。
 そのまま、何もしなかった。ただ俺を見つめている。
「……何だよっ! 寄ってくんな!」
「はは。毛を逆立てる猫みたい。フー、フーって」
 低く響く声。
「見てるんだよ。お前は可愛いなあって……」
「あああ? フー! 見んな!」
 可愛いから見たくなるんだよ、と男は言った。
 青い目が、俺を舐めるように検分していく。
「顔だって。身体だって。この鎖骨がたまらないね。引き締まった腹筋がいい。固い脇腹。でも、お前は肌がきめ細かいから、触るとすべすべして気持ちがいいんだよね。ちゃんと筋肉が付いた胸。そして……」
 白い指が伸びてくる。
「やっ……ん、ん、触るなッ!」
「このいやらしく尖った乳首」
 つんと立ち上がった胸の飾りを指先で弾かれて、俺は全身を緊張させる。
 何をしやがると、かろうじて自由な脚で、男を蹴ろうとする。
「おっと」
 軽々と俺の脚を受け止めたマジックは、唇の端を上げると、さらに悪戯をエスカレートさせてしまう。
「触ってもないのにね。恥ずかしい子」
 親指と中指で、俺の左の乳首を挟み込み、クリクリと愛撫する。
 どうしてこんなに感じているのかな、と。人差し指の腹で、赤い敏感な先端を、撫でる。
「ん……ん、んぅっ……や、やめ……って! あ……あんっ」
「喜んでる癖に」
 弄られる左はそのままに、今度は右の乳首を口に含まれる。
「あ、やだ……っ……あ!」
 滑った舌先で転がされると、身体の熱が腰に集まり、ピクピクと震えてしまう。
 俺は、拘束されている腕に力を入れて、この快感をやり過ごそうとした。身を捩る。
 でも、そんな俺を、マジックが見逃すはずがなくて。
「気持ちいいんでしょ。ここ、出して、出してって、言ってる。ここもパパに見て、見てって言ってる」
 みっともなく高まった、ジーパンの前を、そうっと撫でられて。俺は赤面し、顔を背けた。
 チ……と、ジッパーを下ろす金属音が聞こえる。
 丁寧に下半身まで剥がれていく。
 すでに勃ち上がり切って、恥ずかしい液を滴らせている俺自身に、注がれる、視線。
 晒している。見られている。
 一番、こんな情けない姿を見られたくない人間と。鏡の中の自分に。
「ふ……う……」
 俺は大きく息を吐いた。
 まるでそうすることによって、体内に溜まった熱を追い出すことできるとでもいうように。
 俺は、息を吐く。
「ああ、やっぱり」
 マジックが、嬉しそうに呟く声が聞こえる。甘い声で。
「ここも、可愛いね」
 先端を、ぐりっと弄られた。
 俺は叫んだ。
「ひゃ、ああっ……! や……」



 おっと、と大袈裟な手振りで俺の攻撃を避けた男は、また俺の振り上げた両脚を掴んでしまう。
 今度は俺の力を利用して、大きく開脚させてしまう。
 そして嬉しそうに言った。
「あれれ。大胆だな、丸見えだよ?」
「ッ……!」
 さも俺から脚を開いたように、いたぶる言葉。
 俺は慌てて身を捩り、広げられた股を閉じようとしたが、びくともしない。
 身体の奥、俺のその部分に感じる視線。やだ。見られたくない。
 降って来る声。
「シンちゃんのここ、ひくひくしてるよ」
「や、やめっ……見るなぁっ! 見るな、このアホ……ひぁっ……!」
「いつまで経っても、慣れないね……反応も色も初々しくて」
 必死な俺を無視して。
 マジックは、ぐっと俺の脚を掴んだ手に力を篭め、周囲の鏡を見回して言う。
「ほら。シンちゃんからも見えるだろう? お前のココが、震えているのを」
「み、見なッ……見ない……」
「見なさい」
「やだっ! や……や……痛っ! あ、ああッ」
 イヤイヤと首を振って目を瞑る俺を見て、マジックは、透明な液を垂らしながら屹立する俺自身に、軽く歯を立てた。
 痛みと恐ろしさで目を開けざるを得ない俺は、たくさんの鏡の中で、大きく広げられた脚の狭間に、自分の一番奥まった場所を見てしまうことになる。
 その場所は、小さくて、うっすら色付いて、物欲しげに息づいていた。
「……う……」
 込み上げる羞恥に全身が火照り、震える。
 そんな俺を確かめて、マジックは、薄く微笑んだ後、器用に俺の脚を身体で押さえ込んだまま、長い指を伸ばし、その後孔に触れてきた。
「ひゃ……や、ん……んぅ」
 そっと指の腹で撫でられただけで、ぞくりと反応してしまう敏感な粘膜。
 その場所からは、俺の興奮したモノから滴る液体のせいか、すでに濡れた感触が伝わってきた。
 再びマジックが笑ったのが、俺の羞恥に背けた、目の端に映る。
 次の瞬間。俺の下肢に、その顔が沈む。
「くっ……」
 ぬるりと湿った熱いものが、狭い狭間を割って入ってくる感触に、肌が粟立つ。
「……あ……、ん、そん……なトコ、舐め……んな……っ!」
 しかし舌は、お構いなしにねっとりと蠢いて、俺の内壁を探る。
 襞に柔らかく絡みつき、時には先を尖らせて、俺の奥へ奥へと踏み込んでくるそれ。
 じわじわ這い上ってくる痺れに似た快感が、俺を苦しめる。
 いくら喘いでも、呼吸は楽にならない。
「……やっ! き……きたな……いから、や……め……」
「どうして? シンちゃんのここ、綺麗だよ。薄桃色で」
 くちゅくちゅと立てる水音は、絶対にわざとだ。
 わかっているけど、恥ずかしい。死にたいくらいに、恥ずかしい。
「う……ん、あぁ……ん……」
 俺は何とか意識を逸らそうと、どうにもならない快感に霞む目で、天井を見上げるが。
 視界に飛び込んで来るのは、両腕を縛られ、両脚を広げられ、一番恥を晒したくない人間にあられもない姿を晒して、切なげに眉を寄せている俺の姿だった。
 そうだ。鏡。ここは鏡の部屋。
 俺がたくさん、コイツにいいようにされて、はあはあ喘ぐ俺がたくさん。
 鏡なんて、大嫌い。



 自分の姿から逃れるには、目を瞑るしかない。
 ぎゅっと目蓋を閉じた俺の耳に、意地悪いマジックの声が聞こえる。
「ダメだよ、シンちゃん。ちゃんと鏡、見てなさい。パパ、昼間はシンちゃんの『美少年が一杯』ツアーに付き合ったんだから。夜はパパの『シンちゃんが一杯』ツアーに、お前が付き合ってくれなきゃ」
 何が。アンタが勝手に付いてきたクセに! 勝手な奴! ムカつく! ムカつく! と腹を立てた俺は、勿論、目なんか開けてやらなかった。
 そうしたら、相手がまたまた笑った気配がして。
 今まで優しく愛撫されていたそこ、最奥に。突然、乱暴に指が突き入れられた。
「あう……」
 思わず口から、掠れ声が漏れる。
 全身の力が抜けて、薄目を開けてしまう。
「ふ……」
 こんな奴の勝手にさせるもんかと息巻いていたのに。
 たった指一本、入れられただけで無意識に。
 目が開き、腰が揺れ、シーツから浮き、立てた膝を力なく開き、いつもの受け入れる体勢を取ってしまった自分に気付いた俺は。
 俺は情けない、情けないヤツと悲しくなる暇も余裕も無かった。
 指が。
 すっかりマジックの唾液と俺自身の先走りの液で、濡れそぼったその場所を。
 荒々しく突き上げてくる。



「ここ? ここがいいの……?」
 俺の身体の何処がいい、なんて、とっくに知ってるクセに。
 俺よりも、ずっと知ってるクセに。
 わざと、そんなことを聞いて、わざと、ポイントを外す。
 なんて嫌なヤツ。なんて。
「……くぅ……や…………ぁっ」
 俺は悔しくて、唇を噛み締めようとしたのに、どうにも力が入らなくって、ただ舌を出して喘ぐことしかできない。
 乾いた自分の唇を舐めることしかできない。
 出し入れされる指が、容赦なく内壁を掻き回し、狙いすましたようにシンタローの最も感じる部分を掠めていく。
 掠めて、また外す。
 もどかしくて、俺は逃げる指を追って、自分から腰を動かさずにはいられない。
 逃がすまいと、深く銜え込もうと、頭の中が指の感覚だけで一杯になる。
 当然与えられるべき快感が与えられない、そのことで、どうしようもなくなる。
 だが、指は意地悪く引き抜かれてしまう。
 荒い息の下、俺は非難の視線をマジックに向けた。自由にならない腕、力の入らない脚が、悲しい。
 俺の脚の間でヤツは、いつもの涼しい顔をしていた。
 本当に嫌なヤツ。その顔を見ると、俺の胸は、つきんと痛む。
 いつも、一生懸命なのは俺ばっかり。
 何だ、この格差は。どうして俺は、いつもコイツに。
 そんな俺に、マジックは相変わらずの余裕な低音で、そっと言う。
「お前のいい所は何処かな。パパに言ってごらん」
 俺の顔の前で、たった今まで俺の中で暴れていた、濡れた人差し指をひらひらさせる。
「言いなさい。言ったら、そこばっかり可愛がってあげるから」



「い、言うもんか――ッ! ぜっ、絶対、言うもんか――――ぁ、あ、あぁ……んっ……ん……」
 叫んだ俺の語尾は、再び侵入し、激しく動き始めた指に、掻き消されてしまう。
 一本だった指は増やされて、二本になっていた。
 狭いその場所を、広げるように掻き乱されて。
 我慢のきかない俺の男の部分は、みっともなくタラタラと透明な涙を流してしまう。
 前はしっかり触ってもらえないままで、わざと放置されている。背後ばかりを弄られる。
 後ろだけでイケるように、マジックに躾けられてしまった身体であるが、ポイントを外されてしまうので、苦痛で仕方がない。
 辛い。
 長い指が、上下に出し入れされ、自在に左右に蠢くのが。
 俺自身の流した液が、襞の隅々まで塗り込められていくのが。
 自然に腰が動いて、相手を受け入れようとしてしまう身体が。
 ――辛い。
 もどかしくて、とろけそうで、嫌になる。
 シンちゃん、と男が呟くのがわかる。
 お前のココは、こんなにおいしそうに、パパの指、くわえちゃうのに。
 根元まで飲み込んじゃって、締め付けて離そうとしないよ。
 そろそろ、認めたら?
「私を好きって、言いなさい。言ったら、お前ばっかり可愛がってあげるから」
「う……」
 じわりと、涙が滲むのがわかる。
 でも泣いても、許してくれないんだ。
 だから、俺は泣かない。
 だから、俺は言わない。
 こんなんで無理矢理言っても、アンタ、信じないじゃないか。
 バカ。
 バカでヘンタイ。
 そう、口を頑固に引き結んでいたら。
「じゃあ。指、三本に増やそうか」
「ッ……!」
 言葉通りに増えた質量に、俺の太腿はびくびく震えた。
 息が苦しくなって。
 俺は口を大きく開けて、空気を吸おうとする。
「ん……っ……んぁ……あ、やぁっ……」
 縛られた両腕が、しなった。
 赤い紐が、ぴんと張り詰める。



「ア、アンタなんて好きなもんか――――ッ!」
 無我夢中でそれだけ叫ぶと、指の攻撃はますます激しくなる。
「あっ、ぁん、ンッ……ア……ッ」
「お馬鹿さんだね。自分が辛くなることばっかりして」
 俺の脚の間で屹立している、俺自身の先端を、ぺろりと舐める。左手の爪で、俺の胸の尖りを弾く。どれも決定打にならない、じらすだけの悪戯を繰り返す。
 身悶えながらも、俺は聞く。
「あう……ん……な、何で……アン……タ、こんなこと……ばっか、すんの……」
 俺を苛めて楽しいのか、と俺は力の篭らない視線で睨みつけてみるが。
「だってパパ、シンちゃんをアンアン言わせてる時が、一番生きてるって感じがする」
 三本の指が、内壁を抉る。
「ア……って! くっ……ふ、ふざけ……」
「ふざけてなんかないよ。お前の身体に触れたい。苛めて、可愛がりたい。中に入りたい」
 突然、相手が真顔になった。俺の顔を覗き込んでくる。
「お前の中にいる時だけ、私はお前に好かれているんだとわかる」



「パパのこと、好きだよね? だってお前の中は、とても熱いよ。きゅうきゅう締め付けてくるんだ。抱きたい。いつだって、抱きたいよ」
「……ッ……」
「お前、身体は、私が好きなんだよね……」
 いつもこうして、論点がずらされていく。
 俺が聞きたいのは、何で、俺に執着すんのってことなのに。
 でも俺、上手く聞けないし。聞いたって、ちゃんと答えてくれないし。
「それじゃあ。そろそろ入れようか? 上の口が、私を好きって言ってくれないのなら、下の口に聞いてみなきゃね。きっと、ずっと素直だよ」
 俺から指を引き抜いたマジックは、そう言って、自らのバスローブの前をくつろげる。俺は目を背けた。
 マジックの、それ。
「……っ……」
 でも、俺のその奥まった場所は、塗り込められた液をまるで涎みたいに垂らして、期待に震えてしまった。
 そんな自分が、俺は嫌になる。



「いっ、……もっ、う、ん……、ひっ、ぃ、く……っ」
 電流が走ったように全身の筋肉が痺れ、俺は爪先を突っ張らせた。
「おや。入れただけで、イッちゃった」
 十分にほぐした後でも、やはり受け入れる瞬間は辛かった。
 後孔に熱いそれをあてがわれた時、俺は息を止め、指とは比べ物にならないその質感に、ぞくぞくと震えた。
 大きい。熱くて、固い。でも、馴染んだもの。
 それに、自分の全てが、引き裂かれてしまうような恐怖。
 弱い自分が、強いものに支配されていく感覚。
 意地を張って逃れ続けていたものに、征服されてしまう。
 その屈辱感と、切なさと、そして安堵。
 ゆっくりゆっくりとマジックは俺の中に侵入し、小さな俺の最奥を押し開き。
 一番太いカリの部分が入った所で。
「……んあっ!」
 下から、激しく突き上げてくる。
 もう、感じる場所は何処か、なんて問題じゃない。
 俺の内壁は、ぴっちりとヤツを包み込み、そのリアルな感触を伝えてきて。
 もう、いっぱい。もう、どうしようもなくって。
 甲高い嬌声をあげて、俺は吐精した。
 真っ白になる視界の中で、でもただマジックは笑っている。
「そんなにパパが欲しかったんだね」
 そう、俺の黒髪に手を絡め、静かに言う。
「わかるかい? パパとシンちゃんが、つながってるのを。今、私はお前の中に入っているよ」
 俺は、やっとのことで、小さく首を縦に振る。
 ちゃんと珍しく素直に返事をしたのに。
 男は、俺の腰下に腕を回し、抱え上げた。そして更に俺の脚を広げる。
「……?」
「鏡、ちゃんと見て。つながってる場所、見て。証拠だよ。私とお前の、証拠」
 俺は、自分の浅ましくひくついて、マジックの剛直を深く銜え込もうとしている粘膜だとか。
 大股を開いてそれを受け入れている姿だとか。
 快楽に溶けてしまう寸前の、絶対に普段の俺とは別人の――淫らがましい表情だとかを、モロに見てしまって。
「……ッ! や、あ、あぁ……ッ……」
 ただ喘ぎを漏らすしかなかった。



 繰り返される律動の中で。
 ぼうっとした意識に、同じように繰り返される囁き。
「可愛い顔」
「お前が好きだよ」
「愛してる」
 その言葉を聞く度に、じわじわとせり上がってくる、熱い痺れに、俺は。
 自分の口から零れる、甘ったれた声に、俺は。
 情けない程に淫猥な姿を晒して、俺は。
 どうしようもなく恥ずかしくなり、いっそのこと意識を飛ばしてしまいたいとも思うが、全身を貫く圧倒的な存在感が、それを許してはくれない。
 内部の粘膜を、硬くて大きいものに蹂躙され、前では揺れる性器の先端を弄られて、俺は喘ぐしかない。
 容赦なく俺を犯してくる相手の腰に、足を絡みつかせるしかない。
 つんと立った乳首に吸い付かれ、左右代わる代わるに冷たい舌が、その尖りを押し潰す。
 唇で揉んで、急にきつく噛まれる。
「いッ……あ……う……っん……」
 すぐに舌先で優しく濡らされる。
 ねろりと円を描くように愛撫され、音を立てて含まれ、唇は離れていった。
 その間にも、激しく打ち付けられる凶器。
 俺の全てを支配していく……。
「や、やっ……ん、ンふ……っ」
 マジックが顔を上げ、今度は俺の耳元に唇をよせたのがわかった。
 耳たぶを舐められながら、囁かれる声。
「シンタロー。好き。好きさ。私はお前のことが好き」
「ん、ん、あ……っ、ぁ」
「好きだよ……」
「あ…………ああっ」
 俺は、アンタに『好き』なんて言ってないのに。
 アンタは、俺のいい所ばかりを突き上げてくる。
 ずるい。反則野郎。
 そして、その間も、俺のぼやけた目に映る、たくさんの……



「……や、やだぁ……」
 俺がそう口にすることできたのは、押し寄せる喘ぎの波を、何度も何度もやり過ごした後だった。
「ん? 何が嫌なの?」
 突き上げられながら、責めるように首筋を噛まれて、俺は悲鳴をあげる。
 急に角度を変えてきたマジックに、身体の芯が蠢いて、また湧き出す異なる快感に、気が遠くなる。
 それでも負けずに、俺は、必死に言おうとする。
「や、やだ……」
「だから。何が嫌なのかな、シンちゃん……」
「あっ! あ、ああっ!」
 何が嫌なの、と聞いてくるクセに、俺が答えようとすると意地悪く攻め方を変えてくる男。
 もしかすると、この人は少し怒っているのだろうかと、俺は手放しかけた意識の欠片で、そう考える。
 でも、俺は言わなきゃ。イヤだから、言わなきゃ。
「や、これ、これが、やだっ……」
「これ? ああ……紐ね。ダメだよ……今日はこのままでいなさい。今日のお前は悪い子だから……それより」
 そして、グッと前立腺のその場所を、深く刺激してくる。
「は、はう……ん、あ、あっ」
「それより、もっと啼きなさい。そのお口、何も言えないなら、動物みたいに啼いてごらん? それぐらいならお前できるだろう」
「う……う、ぁ……」
 酷いことを言われて。それでも俺は、言葉を紡ごうとする。
 我ながらバカだと思ったが、それでも、それが本当に嫌だったのだ。
「ち……ちが……」
「違う? じゃあ、なあに。お前は何が嫌? 何が嫌なの」
 そして、相手の声音が、変わった。
 平淡で乾いた声。
「……私が、嫌……?」



 俺は泣きそうになった。
 それでも込み上げてくるものを、抑えこんで言う。
「た、たくさ……ん……の、いや……」
「何がたくさん?」
「た……たくさんの、おれ、俺が、いや……っ!」
 やっと、そう言うと。
 俺は、顔を僅かに斜めに傾けて、周囲に目をやる。
 黒く潤んだ瞳の沢山の俺が、俺を見返した。
 うっとりとした最高に恥ずかしい顔で、マジックの腕の中にいる俺。
 鏡。鏡。鏡。
 世界で一番、バカなのは、俺。
 俺の中心に楔を打ち込んでいたマジックの動きが止まる。
 青い目が、じっと俺の顔を見つめてきた。
「おれっ……俺、ひと……りなのにっ! たくさん! たくさん、いるの……嫌!」



「だから、好きって、素直に言えばいいのに。言ったら、鏡の中の沢山のお前じゃなくて、本当のお前ばっかり可愛がってあげるのに」
 それでもマジックは、俺に覆い被さっていた身を起こすと。
 ベッドのサイドボード端にある装置を操作した。
 たった一瞬で。いつもの部屋の壁が姿を現して、鏡は消えた。もうない。
 たくさんの俺は消えた。
 残ったのは、本当の俺一人。
 ここにいる、俺一人。
 そして彼は、俺の両腕を拘束したままだった、赤い紐を解いた。
 あんなに俺が頑張っても解けなかったのに、あっけなくするりと、それはただの紐になる。
 腕は痺れて、ほとんど感覚がないまま、シーツにぱたりと落ちた。
 その、紐の跡の残る俺の腕に、男は優しく唇を寄せる。
 囁く。
「私にここまで完全に譲歩させるのは、お前だけだよ、シンタロー」
 ふうっと息を吹きかけられる。
「一人だけ、私に愛されたいの」
「……ンっ……」
 そう問いかけられた瞬間、マジックを銜え込んだままだった俺の後孔が、きゅっと締まる。
 マジックが、悩ましげに眉間を寄せた。
 すっと、俺に口付けながら言う。
「上の口は生意気なのに、下の口は素直なんだから。いいよ。そういう所も、いいね。魅力的だ」
 高く俺の両脚を抱え上げ、ぐるりと一度、腰を大きくグラインドさせて、俺の粘膜をいたぶると。
「可愛いよ、シンタロー」
 男は、激しい律動を再開する。
 ひくっと、俺は喉を鳴らした。
「好きだよ……」
 勝手なこと。また、勝手なこと言いやがると、俺は思った。
 でも文句を言おうにも、もう限界を越えて自由にならない俺の唇。
 痺れて、恥ずかしい声が後から後から溢れてきて、切なくなる。
 何だかよくわからなくなって。
 だから、身も世もなく腕を伸ばし、マジックの広い胸に縋りついてしまう。
 揺れる身体が不安で、恐ろしくなって、置いていかれまいと爪を立てる。
 壊れそうな感覚の裏で、それだけが、流されてしまう俺の頼るよすがだった。
 もう、受け入れる場所の全てが……感じる……。



 す、好きって。そんなコトいつもアンタは言うけど。
 俺と違って、平気で言うけど。
 アンタが好きなのって、俺の顔とか身体なんだろ。
 俺を抱くのも、この顔でこの身体だからなんだ。
 ちゃんとわかってんだ。
 ちゃんと……。
 この俺の顔。身体。
 アンタが最初に惚れた人間の顔と身体。



「……っ、や、あ……あぁっ」
 俺が苦しい息の下から薄目を開けると、相手と視線が合う。
 咄嗟に目を閉じようと思うが、どうしてか目蓋が動かず、マジックの顔を見つめ続けてしまう。
 身体が自分の言うことを聞かない。
 俺の身体はアホだから、いつも色んな瞬間、こうして金縛りにあうんだ、と俺は悔しくなる。
 特に、こんなマジックの顔を見た瞬間に、それは起こる。
 彼は、どうしようもなく甘い、うっとりとした表情をしていた。陶然とした青い瞳で、自分の顔を見つめている。
 額に滲む汗、湿った金髪、熱く漏らす息。低音に語尾を掠れさせた声。艶めいた吐息混じりの。
 呼ばれる。
「シンタロー……」
 すると、俺は、身体の芯を伝って、何かが込み上がってくるのを感じてしまう。
 そのままではいられなくなる。
「……ッ……あ、やだっ……あ、ああっ……あ、父さ……ぁん……っ!」
 揺さぶられる。
 擦られる内壁は、もうとろとろに溶けて、マジックに纏い付き快楽を搾り取ろうとする。
 大きくて太いそれを、ぎちぎちに銜え込み、収縮を繰り返して貪欲に蠢く。
 激しい抽挿の中、俺自身も相手の腹に擦られ、追い上げられて、固く張り詰めていく。
 混乱し、翻弄される意識。
 それでも、たどたどしく繰り返す。
「父さ……父さ……あッ……や、あー……」
 俺は最後に、悲鳴を上げるみたいに、男を呼んだ。
 その瞬間。身体を突っ張らせ、ぎゅっと逞しい人に抱きつき、飛沫を弾けさせた。
「……父さ……ぁ……ん……」
「……っ……」
 収縮した俺の中でも、その根元まで飲み込んだ熱い塊がドクンと大きく震え。
 与えられた熱い迸りに、俺の内壁はそれを感じて、満たされる喜びによがっていた。
 一度失ったものを取り戻したような、そんな充足感。
 全身で余韻を味わっている。
 もう、俺の視界には、何も映らなくなった。
 蜜のように全てを蕩かす倦怠感が、俺を包んでいく。
 ふわっと、唇に柔らかい感触がして、口付けられたのだとわかる。
 俺は少し、笑ったのだと思う。
 そのまま、遠のいていく意識の中で。
「……甘えん坊なシンちゃん」
 最後に聞こえたのは、こんなムカつく男の台詞だった。



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 肩に寒さを感じて、俺は目を覚ました。
 辺りは暗く、静まり返っていた。
 広いベッド。
 意識を手放した後、綺麗に後始末をしてくれたようで、俺の肌は清潔で、着せられている絹のガウンの感触が、柔らかかった。
 すぐ隣には、俺をさっきまで散々いたぶっていたマジックが、眠っている。
「……チッ……」
 それを確認して、さして意味もなく舌打ちした俺は。
 ぎゅっと胸のあたりまで落ちていた毛布を引っ張り上げ、肩まで被せる。
 マジックとは逆方向、壁側の方を向いて横になり、目を瞑る。
 しばらく、うとうととしていた。
 その内、ぼんやりと少し、幼い頃を思い出す。



『パパよりビボーの叔父様大好きー!』
『シ、シンちゃんっ!』
 そう、小さい頃から、俺は。
 勿論、おじさん本人も大好きだったが、その美麗系の顔が大好きだったのだ。
 綺麗な顔は、素敵だと思っていた。
 だってそれは、俺にはないものだったから。
『シンちゃんが世界で一番可愛い顔してる!』
 そんなバカな台詞を、一番近しい人間から、毎日聞かされていたものだから。
 俺は、幼いながらに心のどこかで、それは嘘なんだろうと思っていた。
 自分にはないものを持つ人間の美しい顔が、本当は一番綺麗なんだろうと思っていた。
 マジックを信じられなかったし、俺は自分に自信がなかった。
 だから、マジックに、『お前が一番可愛い』と歯の浮くようなことを言われる度に。
 俺はますます、自分とはタイプの違う美しさの顔が、大好きになっていったのだ。



『シンちゃん、最高に可愛いよ! 大好き!』
『カワイイじゃないの! カッコいいの!』
 でも、幼い俺はそう反発しながらも。
 嘘だと思いながらもその反面、それは本当なのかもしれないとも思っていたりした。
 信じたい気持ちと、そんな馬鹿な、と諦めの気持ちが、半分半分。
 鏡を見て、自分の顔を観察してたこともあったっけ。
 一族の誰にも、似ていない、この顔。
 可愛い可愛いと言いまくる張本人のマジックにも似てない、この顔。
 何がいいのかその理由がわからなかったが、同じくらいに、さして否定する理由もないこともあって。
 もしかしたらこの顔が、本当に世界一なんだろうかと、真剣に考えてみたりして。
 過去の俺の自分の顔に対する認識は、そんな、期待と失望が入り混じった、複雑なものだった。



 でも、ある日。
 コタローが生まれて。
 その顔を見た時に。
 俺の中の、何かが壊れたんだ。



 金の髪、青い瞳、抜けるような白い肌。
 青の特徴全てを兼ね備えた子供だった。
 俺は、この子こそが最高に可愛い子なんだろうと、悟った。
 俺は、可愛い子なんかじゃなかった。
 本当はこの子が、一番マジックに愛されるべきなのに。
 世界で一番選ばれた子なんだよ。
 俺が、綺麗だと、素敵だと思う、全ての特徴を生まれ持っていたんだ。
 マジックは、やっぱり嘘をついていた。
 俺は、コタローの顔が好き。
 俺が望んでも得られなかった、その顔が好き。
 ずっと、こうなりたかった。



 ……そんなことを、つらつら考えていたら、だんだんと目が冴えてきて。
 首筋と肩先がますます冷たくなってきて。
 俺は、もう一度、毛布を引っ張り上げた。ちゃんと眠ろうと、きつく目を閉じる。
 突然、背後から声が聞こえた。
「シンちゃん……寒いの?」
 俺が答えなかったら、また聞かれた。
「寒いの」
 寝ていると思った相手に、突然聞かれて、戸惑ってしまう。
「……ん」
 結局、俺は生返事をして、答えの代わりに猫のように丸まった。



 すると、マジックの手が、俺の頭に触れてくる感触。
 優しく撫でてくる。長い髪を梳かすように。
 ゆっくり、ゆっくりと。
 その手は、大きく、懐かしかった。
 そのままにさせていたら、とろとろと俺の目蓋が重くなる。甘い波に揺られているようだった。
 このまま、俺はまた眠りに落ちるのだろうと思った。
 しかし。
「……ちょ……い、いいって」
 滑るように。俺の指先にマジックの指が、足先にその足が、触れてくる。
 そして、ぎゅっと、握り込まれ、抱え込まれてしまった。
 相手の肌の感触。
 寒そうに見える俺を温めるつもりなのだろうか、と感じたが。
 幼い頃も、よくこうされた。
 ……でも。逆効果。
 マジックの肌は、いつもひんやりとして、冷たいから。
 この時も、とても冷たくて。
 こうして、いつもベタベタしてきやがって。
 結局は、俺があたためることになるんだよ。いつも、俺の熱が奪われる。
 密着されたこと自体は嫌ではなかったものの、そのことが不公平だとムッとした俺は。
 マジックの方へと、ぐるりと身体の向きを変える。
 部屋の窓には、分厚いカーテンがきっちりと降りていて、灯りは点いていなくって。
 真っ暗闇だった。
 そんな中、俺は、こっそりだけど思いっきり、べー、と舌を出してやる。
 暗いから、わかるもんかと思ったのだ。



「あ。シンちゃん」
 でも、至近距離からマジックの声が聞こえる。
「その顔が好き」
「……顔って……暗くて、見えねーじゃんかよ……」
 いくら夜目がきくと言っても、
 少なくとも自分の目は、マジックの表情を映すことができない。
 輪郭とほんの微かな光の陰影と、滲む空気だけ。
 どんな表情をしているのかとか。
 どんな髪の色なのだとか、どんな目の色をしているのかさえ、よくわからない。
 全てが、闇の黒い色に縁取られて。
 黒。俺の色。
 ……。
 俺は、悲しくなる。
 さっきまで、ずっとずっと心の奥から離れなかったことが、一気に飛び出してくる。
 相変わらず、言葉にできなくて、心の中で言うばっかりだけど。
 俺の顔。顔が好きって。
 アンタはそればっかりだけど。
 この顔は、俺にとっては俺の顔だけど。
 アンタから見れば、俺の顔じゃないのかもしんないじゃんかよ。
 過去に傷付けて傷付けられて、いまだに拘って忘れられねーのかもしれない、人間の顔なのかもしんないじゃんかよ。
 だから、本当は可愛くなくったって、この顔に執着すんのかもしれないじゃんかよ。
 そういうのって、今度は俺が傷付くんだよ。
 惨めになんだよ。
 俺が好きなのか、面影が好きなのか。
 どうやって、見分けりゃいーんだよ。
 顔フェチ変態! 俺もそうだけど、アンタは年季が入ってる分、もっと変態!



 でも、そんな俺の心境を知ってか知らずか、飽きずにヤツは繰り返す。
 子供のように。
「お前の、その顔が好き。可愛い。愛してる。世界で一番、世界よりも愛してる」
「……そういうの、やめろって。嘘ばっか……」
「だって、お前は信じてくれないから。それに私のこと、好きって言ってくれないでしょ。だから私が言い続けるしかないじゃないか。山彦みたいに、ずーっと言ってれば、一つは返ってくるかもしれないし! 好き好き。お前が大好き」
「俺は山じゃねー! あー、うっさい! 早く寝ろよ!」
「いつもの寝てる時の、よだれ垂れてる顔が好き! 今もひょっとして垂らしてた? ああ、スキスキ大好き、好き好き好き好き好き好き! ラブラブラブラブ愛してる! どれだけどんな風に言ったって足りない、Je t'aime、I love you、Ich liebe Dich、Amo-o、我愛イ尓、Te quiero、L'amo、Jeg elsker De、好きやねん! シンタロー、愛してるよ」
「が――――っ! もう! 静かにしろ! 夜! 夜なの! ていうか、朝! 少しでも寝ないと、すぐ朝なの!」
 相手は、一瞬黙って。笑う気配がした。
 お前は、すぐ怒るね。
 そしてまた声が続いて、聞こえる。



「その顔が好きだよ」
 ただ繰り返されて。
 暗闇なのに。見えるはずないのに。
 顔なんか。俺の顔なんか。
 見えないのに、好きって。
「……ッ」
 何故か、目の奥がじんわり熱くなって、唇が震えて、身体の爪先から頭のてっぺんまでを、ぞくりと生き物が這っていくような心地になる。
 息が詰まる。鼓動を感じる。心が布切れみたいに絞られて、苦しくて、そこから何かが染み出してくるのがわかる。
 つまり。
 涙が出た。
「? どうしたの、シンちゃん」
 相手の驚いたような気配がして、次の瞬間、俺の身体は簡単に引き寄せられていた。
「う……」
 冷たいけれど安心する腕の中で、俺は、ずず、と盛大に鼻を啜った。
「どうしたの、シンちゃん! パパ、何かヘンなコトした? した?」
 お前は、すぐ泣くね。
 ヤツは、慌ててティッシュを数枚、俺の顔に当ててきたので。
 遠慮なく鼻を噛む。
 それから乱暴に、すぐ側にある顔に言う。
「もう寝るぞ。寝る。このままでいいから、アンタも早く寝ろ」
「変なシンちゃん」
 相手はそれでも、俺を、ぎゅっと抱き締めてきた。
 俺は目を瞑る。思う。
 ……クッソ。
 焦ってやがる。
 一生、言ってやるもんか。
 何で俺が泣いたかなんて、絶対に言ってなんかやらない。
 だから、ずっとアホみたいに、俺が好きって言い続けてろよ。
 困れ。
 思う存分、困れよ。
 ああ。
 悔しい。
 好き。









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