The Long Goodbye

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 俺の部屋からは、夕焼けが見える。
 赤く染まる空、染まる空気に、ふと俺は、サービスのことを考えた。
 俺が夕焼けを見ているこの時、この瞬間、この刹那に、サービスはこの世の何処かで、息をしているのだった。
 この世の何処か? いや、とても近い近い場所で。
 この広い世界のただ中で、例えば絶対者が宇宙からこの場所を見下ろせば、ぴったり同じ点の中に溶け込んでしまっているぐらいの、そんな近接性の奇跡の内に、俺たち二人は存在しているのだ。
 次から次へとやってくる時間。うつろい、消える空間の揺らぎ。
 その狭間に、俺たちは共にいる。一緒にいる。
 目の前の夕焼けは赤くて薄くて滲んでいるけれども、夕焼けが闇に溶け込んで、一面の黒に空が塗りつぶされたとしても、同じ点の中に俺たち二人が存在しているという事実は、変わらないのだ。
 なんて奇跡だ。
 心が躍りだす。胸が高鳴る。我慢できない。
 考え出すと、居ても立ってもいられなくなって。
 俺は自室を飛び出して、サービスの姿を探す。
 部屋を探し、談話室を探し、食堂を探し、寮を駆け回り、彼の姿を探す。
 太陽を見ると、俺はサービスに会いたくなる。
 それはもう、最初の瞬間から、決まっていたことだった。



 サービスと出会った時、この世界にはこんなに綺麗な人間が存在するのかと驚いた。
 そして俺はまだ、サービス以上に美しい人間には出会えずにいる。
 青の一族。美しい一族。敵だからこそ、美しい。でもサービスは、敵なんかじゃなくたって、どんな瞬間だって、美しい。そんな絶対的な美しさって、あるだろう。
 たとえば、太陽の光を。永遠に人は美しいと感じるように。
 俺はサービスを、美しいと感じている。
 俺は思う。赤の番人、島の守り人だった俺は、うっとりとこの予想外の事態に、身を委ねる。
 俺は凄い。
 あの世界の果ての孤島から、一歩を踏み出してすぐに、世界一美しい人に出会ってしまうなんて。
 俺はとんでもなく運のいい生き物なのだ。
 そして運がいいと感じた瞬間、俺は恋をしたのだと考えている。
 それが恋だと、後から知った。
 言葉はいつも俺の後からついてくる。



「ジャン」
 サービスからそう、名前を呼ばれる度に。
 俺の心は、さざめく。揺れる。彼を感じている。
 俺は、サービスが一生懸命になっている姿が、魅力的だと思う。
 彼は、いつも『なんてことない』という素振りをしている。涼しい顔をして、クールに振舞っている。
 青の一族で、総帥の弟で、ずば抜けて綺麗で、とんでもなく優秀で、だからそんな風に振舞っている。
 だけど、ちょっとしたこと。
 たとえば行事やなんかで――この世界には儀式とやらが非常に多い――総帥訓示やなんかで、集団の中から遠い総帥の姿を見つめているサービスの背は、なぜか脆く見える。
 壊れやすい生き物が傷つきやすい身体を抱えて、それでも白い雪の中から頭をもたげて、前を見つめているような、そんな雰囲気が漂っている。
 学校の生徒たちに紛れている時も。周囲の会話に入らず、ぼんやりと窓際で外を眺めているその横顔は、はかなくて。寂しそうで。
 それなのに俺が側に行くと『ああ、来たの』って感じで、鼻にもかけないで、当然だという顔になる。
 でも少しだけ、こっそりと微笑んでいる。
 そんな子、俺が好きにならないはずがないだろう?



 夕焼けを見た後、俺は談話室でサービスの姿を見つけ、その側に駆け寄った。
 彼は高松と何か会話を交わしていて、俺の姿を見つけて、やっぱり『ああ、来たの』という顔をした。
 俺は、空いた丸椅子に、腰掛けた。
 何百人、何千人もの生徒の重みを受け止めてきただろう、古ぼけた歴史ある丸椅子は、ぎいと悲鳴をあげた。
 俺はそれを行儀悪く揺らしながら、二人の会話を、しばらく口を閉ざして聞いていた。
 ハーレム、の話をしていたらしい。



「まったくあの男は! デリカシーがありません!」
 高松は、憤慨しているようだ。彼が早口で喋りだすと、口元の黒子が、やけに目立つ。
 俺はその黒子を見ていて、すぐにサービスを目が合って、くすりと互いに視線を交わした。
 サービスだって、やれやれと思っているようだ。
 ハーレムは。
 サービスの双子の兄で、つまりは四兄弟の三男で、彼は士官学校に入らず、すぐに16で入隊した。
 でも、何かにつけて、寮やら学校やらに、やってきていた。
 だから俺は、彼のことをよく見知っていた。
 胸元を開けすぎるほどに開けて、軍服を着崩して、時には競馬新聞や酒瓶をぶらりぶらりと抱えて、やってくる。
 俺たちが話していると、馬鹿にしたような口ぶりで、からかってきたり、はやしてみたり、そんな感じで、しきりに構いたがる。
 俺は思う。他の人間だって、そう思っていただろう。あからさますぎたから。
 彼は、きっとサービスの様子が、気になるのだ。
 しかしサービスは、そんなハーレムに対して、始終つんとしている。煙たがってさえいるようだった。
 サービスはサービスなりに、思う所があるのだろうと、俺は感じているのだが。
 とにかくこのハーレムは、高松とは旧知の間柄らしく、よく素直じゃない会話をしている。
 俺としては、このハーレムは気さくなタイプだったから、普通に友人の兄として仲良くなれるんじゃないかと、最初は思い違いをしていた。
 期待に反してハーレムは、俺に対しては、とても厳しかった。
 何かと突っかかってくる。何かとケンカ(あっちが一方的に『表へ出ろ!』という調子)になる。俺が黙っていても、どんどん火種を起こそうと、やっきになっている。
 気にすることない、とサービスは言ってくれるのだが、その様子を見て高松が、にやにやしているという按配で。
 ハーレムは、勘がいいのだと、俺は思う。彼は、動物的、本能的とでもいうべき、勘が鋭い。
 きっと彼は、俺の素性の胡散臭さ、赤であること、潜入者で青を害しようとしていること、それから……サービスに恋をしている、こと。その色々を本能的に感じ取って、俺に敵意を抱いているのに違いないと。
 俺も、本能で感じ取っていた。
 悩ましいところだ。
 とにかく。今この瞬間、高松は。そのハーレムに対して。
「デリカシーがありません!」
 と、怒っているのだった。



 話を聞いてみれば、やはりというべきか案の定、ルーザーのことだった。
 この頃では週に数度の研究所通いをしている高松が、周到な根回しと待ち伏せと地下工作の結果、なんとかルーザーと昼食を取ることに漕ぎ着けた、その至福の絶頂の時に。
 本部の食堂で、ハーレムがベランダで、年配の上級兵と喧嘩をしていて。
 それにルーザーが気がついて、見に行ってしまったから。
 お昼が台無しになってしまったとか、なんとか、そんなことだった。
 そんなのは不可抗力で、偶然で、別にハーレムのデリカシー性とは関係のないことだと思うのだが、とにかく高松としては、この悲しみを誰かのせいにしたいようだった。
 やれやれ。話を聞いた後も、聞く前と同じような『やれやれ』という感想しか、出ない。
 ちなみにその後ハーレムは、ひどくルーザーから、こらしめられたらしいというのが、サービスからの情報だった。
 青の一族として恥ずかしいことをした、ということで。
 詳しくは聞けなかったが、こらしめるって、何をすることなんだろう(これは高松も気にしていた)。特にああいう人たちの場合。



 ルーザー。サービスの兄。青の一族、四兄弟の次男。
 氷の欠片で造ったみたいな顔をしたこの兄を、サービスはとても愛していた。
 ルーザーのことを語る時、サービスの薄青の瞳には、信頼の色が浮かぶ。
 その色は、とても綺麗だと。俺は常々感じていた。
 きっとサービスは、ルーザーに同族意識みたいなものを抱いていたのだろうが、俺から見れば、この二人はまるで違うと思う。
 何が違うって? うーん、上手くは言えないが、他人に対する感情の持ち方とか、その他色々。
 ルーザーという人は、俺が見かける時はいつも、季節の狭間に降る雨のような足音をさせていたように思う。
 約束通りに規則正しく降って、規則正しく止む、それでいて乾いている、巡る季節を待っている、そんな雨の匂い。
 そしてサービスばかりか、およそ他人に入れ込むことなんてしないであろう高松までが、このルーザーに惚れ込んでいた。
 見ているこちらが恥ずかしくなるくらいに。
 なにせあいつは、あんな図々しい性格をしておきながら、彼とは、まともに話しをすることさえ、できないのだ。
 きっと高松は、ただあの乾いた雨の香りを感じていたかったのだろうと、俺は思う。
 ルーザー、青の中に溶け込んで、切り裂いた傷口から、静かに外界を覗き込んでいる人。
 青を愛している人。一族として自己完結している人、脆い人。純粋な人。だから傍目からは彼が危険だなんて、気付かない。
 俺は数年後に、まさにこの男に殺されることになるのだけれど、当時は勿論そんなことなど知る由もなかった。
 実を言えば、次男はノーマークに近い存在だった。甘かったと言われても、仕方がない。
 甘いどころか、俺はこの一族と関わる度に、どんどんと番人として不適格となっていく自分を自覚してさえいたが、かといってどうすることもできないのだった。



 夕焼けは闇に消え、騒がしい少年たちの満ちる寮も、次第に寝静まる。
 そしてその真夜中。
 頃合を見計らって。もう朝方に近かったっけ。
 俺はこっそりと寮を抜け出して、外に出た。
 冬の近付いた闇は、ひどく寒かった。
 俺は小さく、くしゃみをして、歩いた。



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 俺が一つ息をついて射精してしまうと、すぐに後から、彼も俺の身体の中で、射精した。
 ぎしっと大きくベッドが鳴って、それから静寂が訪れた。
 終わった後の彼は、わずかに疲れて見える。
 いつもはきちんと整えている短めの金髪が、乱れている。
 でもそんな疲れ方でさえ、何と言えばいいのか、つまりは覇王的で権力者的だった。
 上品な傲慢さとか、洗練された不遜さ、だとか、そういったものが漂っていて、エレガントなのにやけに性的、とでも表現すればいいのか。
 俺にはよく、解らない。
「総帥」
 俺は、彼の若々しい顔を見上げた。彼は、四兄弟の長男で、サービスの兄で、青の一族の長だった。敵の統率者。
 俺を見下ろしたままの彼に、声をかける。
「あんまり気にしないでください」
 俺は彼に、何でもないという風を示したつもりで、少し笑った顔で、言った。
 時々言っておかないと、すぐに彼は忘れて、気に病むだろうから。実際、気に病んでいる。
「たぶん俺、不感症っていうやつなんです。精神的に」
 彼は物憂げに、一つ瞬きをして、何も言わなかった。



 俺は。
 男の生理として、一連の過程をたどることはできるし、規定通りに達することはできるが、それが気持ちいいと感じたことは一度もない。興奮だとか、感情の高ぶりなんて、一切ない。
 身体のスイッチを順序通り押されたから、その通りに反射的に射精する。
 そんな流れ作業が、俺の知っているセックスだった。
 最初は、非常に痛かった。入れられた時、精神の闇に火花が飛び散った。
 次からは、少し痛みが減った。回を重ねるごとに、だんだんと痛みは、なだらかな曲線を描いて、減っていった。
 今は、圧迫感と近接した程度の、そんな痛みと、何だか、色々。
 いろいろ。
 肌と肌が擦れ合う感触だとか、液体のぬめりだとか、息だとか、ちょっと掠れている総帥の声だとか。
 そんなセックスを取り巻く余事象ばかりが、俺が感じることのできる、出来事だった。
 しかし、そんな俺でも。
 彼が頑張っているのに、俺が何の感慨もないのは、さすがに失礼だと思ったから。
 ある時なんて、ちょっとそれっぽい声なんか出してみたりして、演技したことがあったのだけれど。
 すぐに、冷たい声で『やめなさい』とぴしりと言われた。
 彼は、演技に厳しい。すぐに解るのだ。自分に向けられる感情に、やけに俺の場合は敏感なのだった。侮辱されたと思うらしい。
 だから俺は仕方なく、彼が一生懸命な間も仕方なく、まるで他人事だというように横たわっている。
 演技すると怒られるのだから、これはまったく仕方がない。



 最中は。
 総帥の。
 息遣いが間近に聞こえて、俺の中を出たり入ったりしているのが解る。
 総帥は、基本的に何でも優れている人だから、セックスだって、優れているはずだった。
 その上に、努力している。優れている人が努力するのだから、それはもう大変な出来事が、俺の身体に起こっているに違いなかったのに。
 だけどやっぱり俺は横たわっているだけで、他にはどうしようもないのだ。
 高松なら、何と言ったかな、あの日本の諺で。『ナントカに真珠ですネ』って皮肉っぽく言ってくれるだろうけれど、勿論この出来事は、他人に言うことができないのだから、俺は真珠に埋もれて窒息しそうになることが、たまにある。
 まあ、そんな風に。 
 おそらく凄い技巧で、俺の身体のスイッチが適切に刺激されて、適切な時間が経った頃、ああ、そろそろかなと、俺は思う。
 そしてそう思ったら、もうこの頃はコツを掴んでいたから、その正確に一分半後ぐらいに、俺は射精する。
 俺が射精したら、それを見届けてから、総帥も俺の中で射精する。
 その瞬間は。
 軍服を着ている時は、汗なんかかいたことがないだろう彼の額から、ぽたりと汗が、俺の頬に落ちる。
 微かに殺した声が、聞こえるような気がする。
 そして目を瞑り、乱れた息を整えている。
 やがて、総帥は。
 そっと目を開けて、俺をなんともいえない瞳で、見下ろす。
 彼の青い瞳が、俺の無感動な黒い瞳と、出会う。
 その一連の過程が、俺が知っている、彼との情事であるのだった。



 今日も総帥は、その偉大なる情熱を、俺を少しでも感じさせることに注ぎ、努力して、そして常なる失意の内に、今。
 俺の裸の胸にその頭を乗せているのだった。
 俺は仰向けに寝て、豪奢な天井の飾りを目に映しながら、彼の身体の重みだとか、回された逞しい腕の筋肉の線だとか、首筋のかたちだとかを、感じていた。
 上等な香水の匂いがわずかにして、シーツもすべすべとしていて、総帥の肌は、湿り気を少し残したまま、どんどんと普段の冷たさに戻っていく。
 目の端に映る金髪が、少し動いて、また元の位置に戻った。
 彼の頭は、やっぱり俺の胸の上にある。この場所が、気に入っているのだろうかと、俺は思う。情事の後は、ここが彼の住みかだと、決め込んでいるかのように。
 余談だが、この人は、身体を密着させるのが好きらしい。
 普段は、そんな雰囲気は微塵も感じさせないのだが、どうしてか、こんな事後は。軍服を脱いだ、こんな時は。
 いつも黙って、俺にもたれかかるようにして、くっついている。
 俺はそれを拒否できる立場にないし、また拒否しようとも思わなかったから、されるがままになっているのだけれど。
 ただ考えることは自由だったから、いつもこの時間の俺は、何か別のことを考えている。
 ぼんやりしていると、よく言われる。



 サービスとだったらどうなのだろう、と、俺は。この時間に、よく考える。
 サービスと寝るのなら。
 俺は感じるんじゃないかと思うし、やっぱり何も感じないのかもしれないとも思う。
 まあいくら考えたって、真実は、その時が来る(来るのだろうか?)まで、解らない。まだ賭けのルーレットは回ってさえいないのだから。
 なにしろサービスは、俺が彼に恋しているということさえ知らないだろうし、俺もサービスの気持ちは知らないからだ。
 そんな想像は脇に置くとしても。
 ただ、この状況において重要なことといえば。
 今、俺の胸に頭を乗せている人、総帥が、俺がサービス相手だったら感じるんだろうと確信しているに違いないという事実、そのことであるのだ。



 最初の夜、俺はこの人に『弟と寝たのか』なんて聞かれたから、それには答えず『サービスを愛しています』とだけ言った。
 あなたに出会う前から、とも言ったかもしれない。
 これは、もし先にあなたに出会っていたら解りませんよ、という意味を含ませたような気も、含ませなかったような気もするが、まあそれは可能性の話であるので、そんなに彼には覚えていて欲しくはない台詞だった。
 俺は結構、適当に喋っている。いい加減な人間、それが俺。
 サービスより先に、総帥に、俺が出会っていたら。
 可能性。それを語っても無駄なことは、こんないい加減な俺でさえ知っていることだったから、頭のいい総帥が、そんなものを重視しているはずはないとは思うのだけれど。
 まあとにかく。
 現実には、俺はこの人よりサービスに最初に出会って、電撃的に恋をした。
 それは、不意に天から降ってきた、絶対的な恋だった。
 俺の全身は痺れた。動けなくなった。サービスのことばかり、考えずにはいられなくなった。近くにいても、遠くにいても。今だって。いつだって。
 俺が遠くにいるサービスのことを考えていると、また僅かに、胸の上の頭が、動いた。
 近くにいる人。総帥。
 彼は、首を傾けて、ちらりと俺の顔を見上げたのだった。
 そしてまた、顔を伏せた。
 今度は頭の位置を少し変えたから、俺からも、彼の横顔が見えた。
 白くて、鋭利だった。ベッドサイドのランプの淡い灯りが、その影を照らし出した。
 俺の胸に埋めた彼の横顔は、静かで、とても静かで。
 彼が静かになると、世の中すべてが静かになってしまうんじゃないかというくらいで、しんと部屋も息を潜めて、静かになってしまった。
 彼は空間にとても影響力のある人間だった。
 どんな空間だって、彼が咳をすれば空気が咳をしたように揺れるし、彼が笑えばみんな追従して笑うし、機嫌が悪ければ、萎縮してしまうのだ。
 色々と、身動きの取れない、人。



 しかし。
 この構図は、要するに彼が、俺に関してサービスに嫉妬しているということなのかもしれないと、俺は考えた。
 もう何度目だろう、この時間にこの結論に辿り着くのは。
 図に描くと、こうだろうか。

 俺→(好き)→←(不明)←サービス→(劣等感)→←(嫉妬)←総帥→(執着)→←(不感症)←俺

 こんな感じだろうか。不明、のところと不感症、の所が気になるが、まあどうでもいい。どうでもいい俺が入っているのだから、どうでもいい図になるのは仕方がない。カッコ書きの所が微妙なのは、俺が神様じゃないから、勘弁して欲しい。
 きっと俺が他人だったら、三人仲良くすればいいのに、とでもスープを飲みながら思うだろうが、当事者的にはそう上手くもいかないのだった。
 それに、これに他の兄弟やら友人やらが絡んできて、もっと事態は複雑になる。
 それにそれに――根本的には、そもそも俺がこの場に入り込んだ事情――青の一族だとか、赤の一族だとか、そういった困った背景が、存在する。
 ややこしい。



 とにかくも。
 俺がサービスを世界一美しいと感じているのは、それが真実であると同時に、また俺のすべてがサービス向けに造られているからだと思う。
 それが運命だったのだ。運命。運命の恋。
 だから総帥は、俺なんかよりも、彼を最上だと感じてくれる相手を探せばいいのだと思うし、またそういう人間は巷に溢れているのかもしれないと思うが、それが彼にはできないらしい。
 難しい世の中だ。
 俺は、自分の胸の上にある金色の頭に向かって。
 あなたが努力する姿なんて。俺は。
 見たくない、と心の中で続けようとしたのだけれど。
 よくよく自分の心を覗いてみるに、見たくないという程までは、俺は感じていないのだろうと判断したから、そう続けるのはやめて、心の口を閉ざした。
 相手は敏感に何かを感じ取ったのか、じろりと俺を見上げて、それから再び目を瞑った。
 少し失敗したかなと、俺は人差し指で、首の下にある柔らかい枕をなぞりながら、考える。
 でも、この人が努力する姿なんて、見ることができるのは、ひょっとしたら俺ぐらいのものなんじゃないだろうか。



 総帥は――士官学校理事長でもあるけれど、俺は総帥と呼んでいる――21歳、この年末に22歳で、ひどく若かったが、それでも彼は、特殊な人だった。
 すでに彼の人生の半分以上を、世界最強軍団の総帥として過ごしていた。子供の時から。青の一族の長だった。そして両目が特殊だった。青の一族の中でも、さらに特殊で優秀な生まれつきであったのだ。
 そして彼が軍を強くしたから、世界征服なんてやりだしたから、俺があの南の島から、のこのこ派遣されてしまうハメになった。
 でもさ、青に潜入しろって。口で言うのは楽だけど、実際にやるのって、大変だよ? 赤の玉こそ、まず社会勉強をしてほしいと切に思う。
 とりあえずは士官学校に入って、うろうろしていた俺は、運命的に四兄弟の末弟、サービスに恋をして。
 その後、なんだか四兄弟の長兄、総帥と、接触を持つようになって。
 よく解らないままに、歯車が、回りだして軋みだして、がたがたエンストしながら回りだして軋みだして、今、こういうことになっている。
 きっと俺が使命を帯びている割には、無目的で適当だから、こうなるのだろう。
 でもマニュアルなんてないんだし、赤の玉だって結構適当なことをやるから、仕方ない。やっぱりまず社会勉強を。
 第一、赤の玉がもっと計画的だったら、まず俺の性格を、真面目でまともに造ったに違いないのだ。
 俺の性格が悪いのだって、俺だけのせいじゃなくって、まず造り方の問題だと、根本的には思うのだけれど。責任転嫁しすぎかな。



 しばらくして。
 俺の胸の上から、こちらを見ずに、総帥が呟いた。
「君は物事をはっきり言うようで、どこか曖昧な部分を残す。あの時だって」
 あの時だって、と、彼は少しだけ前の過去を思い返しているようだった。
「あの時だって、初めてだと言えば良かったのに」
 俺は返事をする。
「……言えるような雰囲気ではありませんでしたよ。それに言った所で、あなたは何も変わらない、御自分の望まれることをするだけだ」
「そんなことないよ。きっと優しくしたね。少なくとも、あんなことにはならなかった」
 そう断定されて、俺は、『あの時』『あんなこと』を思い出した。



 ――初めて総帥に抱かれた時。
 それは俺の長い人生の中で、初めてのセックスだった。
 俺はその後、三日間、熱を出して寝込んでしまった。
 熱を出したのは本当だけれど、三日間という期間には、多少の仮病が混じっている。
 高松が生き生きとして薬を処方し出すのを丁重に断り、俺は、がたぴしする全身を、それでも思いっきり伸ばして、睡眠を楽しんだ。
 ちょうど一人になりたい気分の頃だったから、ちょうど良かった。
 学校を休むのは、好きだ。
 俺は、もともと一人で暮らしていた人間だから、本当は一人でいることが好きなのだ。
 一人で自分の世界に篭っている方が、俺にとっては自然だった。
 ときどき。
 サービスが部屋にやってきてくれて、興味ない振りをしながらも、俺の額に、手をあててくれた感触を覚えている。
 その時俺は、熱を出して、良かったと思ったのだ。
 一人でいて、ときどきサービスがやって来てくれて、俺の額に手をあてる。
 理想的な生活だった。
 いい気分のままで眠りについた俺は。
 油断していたのだと思う。
 きっとそれは熱のせいで、熱は総帥のせいだったから、まあ還元すれば全て彼のせいなのだろうと俺は結論付けたが、とにかく俺は油断していて、気がついたら、側に総帥がいた。
 暗闇の中で、俺のベッド脇に腰掛けて、彼は俺を見下ろしていた。真夜中だったのだろうか、遠くで梟の鳴く声が聞こえた。
 俺が目を開けると、彼はこう言った。
『……君の寝顔を、初めて、見た』
 彼は、膝の上で両方の手の平を重ね合わせるようにしていた。
 長い指だった。
 俺は、はあ、としか、答えられなかった。



 鍵を閉めたはずの寮の部屋の扉から、彼は入ってきたのだと思う。
 彼は若いけれど権力者だったから、何だって自由になる。
 万里の長城の門だって、スエズ運河の閘門だって、バッキンガム宮殿の鉄門だって、伝説の黄金卿エルドラドの城塞門だって、こんなちっぽけな士官学校寮の玄関だって、俺の部屋の扉だって、彼が手をかければ、まるで魔法のように簡単に開くのだろう。
 とにかく総帥は俺の部屋にいて、俺のベッドの側、粗末な木椅子に座っていたのだが、もし『粗末な木椅子に優雅に腰掛けるコンテスト』なんてものがあったら、優勝してしまうような、そんな座り方だった。彼はやることなすこと、すべてが上等だった。
 たぶん何だって、彼は優勝してしまうのだろうと思う。
 何の気なしに道端の石ころを蹴飛ばせば、それが湖に飛んで行って、何十回も水を切って、彼は水切り世界一のチャンピオンになってしまう、そんな感じがする。
 彼が眠くなって、寝てしまって、三日ぐらい寝てしまったとして、それから起きて一時間仕事をしたとしても、その一時間分の仕事は、彼が寝ている間の三日間に普通の人が死に物狂いで頑張った分の仕事よりも、優れてしまう。そんな、超人的な、感じ。
 だが俺はあまり彼を羨ましいと思ったことはない。
 彼を見ていると、歴史学だったか法学だったか、とにかく半分寝ていた授業の中で、聞いた話を思い出す。
 古代の無秩序な街、そこに住む人々は責任のありかに不便を感じて、ある人に王になってくれるように頼みに行く。するとある人は言うんだ。
『お前たちは自分で自分を守るよりも、王に従う安易な道を選ぶのか』
 生まれながらの覇王って、つまりは、そういうことなんじゃないのだろうか。



 とにかく彼は。熱を出した俺の側で、俺を見下ろして。
『君があまりに感情を見せなかったから、慣れているのかと思った。だが、違った。君は単に私に無感動なだけだったんだ。すまない』
 と、奇妙な謝り方をして、しばらく粗末な木椅子に、優雅に腰掛けたいだけ腰掛けて、それから、扉をまた魔法のように開けて、出て行った。
 そんなことが、あった――



 少し昔のことを、思い出してから。
 俺は、俺の胸の上に置かれている、金色の頭に声をかけた。
「シャワー、浴びていいですか」
「……」
 総帥は答えなかったが、やっぱり静かに、俺の胸から頭をずらして、かわりにシーツに頬を埋めた。
 とすんと、音がした。
 俺は軽くなった身体を起こして、ベッドからするりと抜けて、繋ぎの間の浴室に入る。
 慣れた温度調節をして、頭から湯を浴びる。
 身体が温まってきたら、それを洗って、セックスの後始末をする。



 ざあざあと湯は流れる。俺の身体を包んだ湯は、排水溝に向かって、足元に流線型を描いて、消えていく。
 ふと、二の腕に噛み痕を見つけて。
 俺は指でそれをなぞった。
 こういうのはつけないで欲しいと言っているのに。たまに、彼は、つける。
 冬場だから、長袖を着るから、まあいいのだけれど。まあ。今の季節は。
 湯を浴びながら。
 俺は、不思議な気持ちになる。
 備え付けの鏡を見た。
 濡れそぼった黒髪の、冴えない表情をした男が、そこに映っていた。顔の造りは悪くないと、たまに自意識過剰気味に思ったりもするんだけれど。でも、なんだか、あかぬけないって。皆が口々に言うのは、何故だろう。
 さらに鏡を見る。
 俺はさらに、不思議な気持ちになるのを、抑えられない。
 彼は俺のどこに、惹かれているのだろう。
 青の継承者である総帥は、俺の持つ赤の匂いに執着しているだけなのかもしれないと思う。
 おかしな引力。青い石、赤い石、惹かれあう二つの石の、重力の狭間の、ちょっとした計算外。
 おそらくその感情を、彼は恋だとか何だとか勘違いしているのではないかと俺は思っているのだが、だとすると、俺のサービスへの感情も、勘違いだということになりはしないか。
 よく解らない。
 でも俺は、そんな大勢の人間と接したことのない、社会的には経験の浅い存在だったから、間違っているといえば、大概は俺の方が間違っているのだろうと、俺は自分の黒髪を引っ張った。
 引っ張ってから、俺はそれを軽く絞ると、頭を振って。
 それから、浴室を出た。
 不思議だとは思ったが、それ以上は大した感銘を受けなかった。
 湯を浴びて、さっぱりとした気分だった。



 浴室から出て、俺は身支度をする。
 すると、まだベッドの中にいた総帥が、話しかけてきた。
 そんなに急いで着替えて、どこかに行く用事でもあるのか、というようなことだった。
 俺は、自分はそんなに急いでいたのかと、初めて気がついて、自分の手足を眺めた。
 俺の手足には、素晴らしい速さで、きっちり衣服が着込まれていて、もう情事の欠片さえ、漂わせてはいないのだった。



「サービスと、これから街に行く約束をしているんです」
 気だるそうにベッドに横たわり、青い目の隅だけで俺を見ている総帥に、俺は正直に答えた。
 まだ休日の午前。
 自由になる時間は、たっぷりと残っていた。
「街に行って、何をするんだ」
 彼が聞いてきた。
 彼の、何も着けていない剥き出しの背中の、肩甲骨のラインが綺麗に見えた。
 俺は答えた。
「ええと、道を歩いたり。店を眺めたり、通り過ぎる人を眺めたりするんです。それから、食事を、かな。あと買い物もするかもしれません。とにかく街に、行くんです」
 しばらく、彼は黙っていた。
 黙って、ベッドで、まだ一人、情事の余韻を漂わせている。
 やがて金色の睫毛が、俺を捉える。聞く。低いけれど、どこか甘い声。
「それは楽しいのかい」
「はい」
「……結構だ。行きなさい」
 許可を貰って、俺は部屋を出た。



 部屋を出る瞬間に背後をちらりと振り返ると、彼は、俺がいた場所のシーツの皺を、指先でなぞっていた。
 まるで名残惜しいと、いう風に。
 裸体で、背を少し丸めていたから、総帥はまるで獣みたいに見えた。
 睫毛は伏せられていて、なんだか理知的だけれど同時に野性的、みたいな空気が彼を取り巻いていて、側に近寄れば捻じ伏せられて威圧されて支配されるんだろうな、みたいな予感を漂わせていて、そしてそれは魅力には違いなかった。
 たぶん、魅力。
 それも何だか、否定的な魅力。
 彼の側にいる人間がみんな自信を失って、自己否定に陥って、抑えつけられて破壊されて、でも総帥本人も、実は自分自身を否定しているのだろうというような、暗黒のブラックホールみたいな力。
 周囲を巻き込んで、否定と破壊に向かう引力。自己否定の渦みたいな、雪崩のような。
 危険な、感じ。
 サービスなんてその暗黒に生まれた時から巻き込まれてしまっていて、総帥を意識するたび、悲しいことに自己否定に陥ってしまっているんじゃないかと思う。あんなに素敵なサービスなのに。
 そんな総帥の、生まれながらの魅力。周囲の人が、良くも悪くも影響されてしまうというのは、魅力であるには違いなかった。
 そして、そういう希少価値の高い魅力が通じない人間というのは、極少数なのだろうと思うが。
 彼はまさに、その極少数に属している俺を選んで、その魅力を余すことなく発揮しているのだった。
 たとえば、砂漠に惜しげもなく雨を降らせるように。振り向かない鉄製の風見鶏に求愛する、気高い雄鶏のように。
 何も生み出さない、これはひどく非生産的な出来事だと、俺はいつも感じているのだが。
 同じことはきっと、本人だって感じているに違いない。
 ただ、お互いに気付いていても、どうすることもできないだけで、それは彼や俺の罪ではないはずだった。
 パタン、と扉が閉まった。
 俺は、サービスに会うために、駆け出した。



 総帥を見ている時の、自己否定に陥っているサービスも、なんというか、壮絶な色香を漂わせていて、俺は好きなのだったが。そういう姿を見る時、俺は彼を守ってやりたいと感じる。
 何故だかはわからないが、とにかく、守ってやりたいと思うのだ。
 しかし同時に、こうして街に出た時なんかに。
 総帥を見ていない時なんかのサービスを見ると。
 俺は、ああ、これが本当のサービスだ、と感じる。
 心が明るくなる。太陽が昇ったような心地になる。
 なんだか自由なのだ。自由で、まるで羽根が生えたみたいに。純粋だった。放つ波動が、透明だった。



 俺と街に出たサービスは、まるで天使のように、歩いていた。
 妖精のように、笑っていた。
 俺は夢中で彼を見ていた。
「クリスマスの贈り物」
 そんな話題が、サービスの柔らかそうな唇から出て、俺は初めて街のクリスマスの装いに気付いたくらいだ。
 そうだ、サービスに贈り物をしよう。
 俺は、フワフワする頭で、そう考えた。
 クリスマスの美麗なイルミネーションを見ながら、俺がそう決めて、サービスの顔を眺めると。
 相手も、ふふ、と笑って、それから俺の鼻先を、白い指でつっついた。
 俺は、どきりとした。
 そんないい雰囲気の時に。
「やあやあ、遅れてすみませんねえ。さぞかし私を待ったことでしょう、アナタたち」
 研究所に行っていたせいで、待ち合わせをずらした、高松が図々しくやって来て。
 それから俺たちは、楽しく街を歩いて、人々やガラスケースの中や色んなものを眺めて、食事をした。
 楽しい思い出だった。



----------



 それからしばらくして。
 ある夜、呼ばれた時に。
 俺は、総帥から突然、予定を聞かれた。
 呼ばれたと言っても、むろんただ『呼ばれた』だけじゃなくて、それは所謂そういうことだ。
 何かいい言葉。
 そうだ、呉越同舟、という言葉を知っているだろうか。
 何かの折に、俺は高松から聞いた。あいつは物知りだ。
 敵同士が、同じ船に揺られていることを、言うのだという。
 総帥と俺は、同じ船に揺られながら、同じセックスをしている。
 青と赤、敵同士。でも総帥はそのことを知らない。でもその匂いは感じているのかもしれない。そんな微妙な、呉越同舟。揺れる船。
 彼は一生懸命、俺の身体に色々な作業をしていて、ひどく丁寧で、でも始終俺の表情を気にしている。
 俺は何も感じないけれど、そんな彼の目を見ていると、なんだか自分が世界一優しい男になった気がして、演技しそうになって、でもやっぱり怒られるから、それは思いとどまる。
 いや、正確に言えば、怒られること自体はどうでもいいのだが、彼に侮辱だと受け取られることは、なんとなく避けたかったのだ。
 うーん。
 俺は一体、総帥のことを――どう思っているんだろう?



 とにかく、その呉越同舟的セックスが終わってから、余韻の残るベッドの中で。
 総帥は俺に、数日後の休日の、午後は空いているかと尋ねてきたのだった。
「空いているはずだ」
 そんなことを言う。
 彼がこんな物言いをするのは、俺のスケジュールのだいたいを、把握しているからこそできることで。
 俺はふと反骨精神の気分に捕らわれて、予定を頑張って考えてみたのだけれど、どうしても思いつかなくって、せっかく芽生えた反骨精神は、あえなく萎んで消えてしまった。弱虫だなあ。
 聞くに、総帥はとくにその日を選んで、ぎゅうぎゅうに詰まっていた総帥自身の予定を、こじ開けたのだという。
 総帥自身の予定とは、大概が、戦争の予定であることが多い。
 戦争の予定なんて。どうやって詰めたというのだろう。
「街へ行く」
 彼はこう口にして、それから俺の顔を見た。
「はあ」
 お決まりのように、俺は答えたのだけれど。総帥が俺にこう言うからには、俺にもついて来いという話であることは、明白だった。
 断る理由は、思いつかなかった。
 俺の反骨精神は、すでに弱音を吐いて消えてしまっていたから、俺は割合、簡単に頷いて、それを了承した。
 総帥は、珍しく満足げな表情を浮かべて、唇の両端を少し上げた。
 彼の嬉しそうな様子を見るのは、もしかすると初めてのことかもしれなかった。



 そして、すぐにその日がやってきて。
 俺は、サービスには、ちょっと買い物に行くんだ、と言った。
「一人で?」
 彼がそう聞いたから。
「一人で」
 なるべくわざとらしくならないように、神妙な面持ちで、俺は答えた。
「へえ」
 金色をした俺の天使は訳知り顔で、それでもひどく綺麗な顔で、頷いた。頬が白い。
 そして俺をあっさり解放して、自分は図書館に行くと、早々に寮を出てしまった。
 サービスは、俺が彼のためにクリスマスの贈り物を買いに行くのだと。そう解釈したのだろうと、ふと気付いた。
 そうか、そうだった。
 俺はそんな風にクリスマスのことを、思い出した。
 サービスへの贈り物。何がいいのだろうか。
 だがその前に、彼の兄との約束が、俺の目の前にあったのだ。



 巨大な銀色のリムジンで、総帥と俺は、街に出た。少し離れた街だった。
 冬の空は晴れていて、すっきりと空気は澄み渡っていた。
「何をするんですか」
 白手袋をした運転手が開けたドアから、俺は車を降りて。
 同じように、しかし俺より格段に優雅な仕草で、街の石畳に降り立った総帥に、聞いてみた。
 総帥は、眉を上げる。
「道を歩いたり。店を眺めたり、通り過ぎる人を眺めたりすると、君は言ったじゃないか」
「そりゃ言いましたけど」



 俺も街へ出て何をするといえば、いつもサービスの姿を見ているだけだったから。
 ここにはサービスはいないから、何をすればいいのか解らない。
 総帥と俺は、立ち往生した。
 街路樹が、さわさわと揺れていた。人々が通り過ぎる。俺たちは、ずっと立っている。
「デートとかしたこと、ないんですか」
 ぼんやりしていると言われる俺が、この人にそう聞くのも可笑しな話だったが、でもこの場合は正確な問いだと思う。
 彼は振り向いて、また眉をしかめた。立派な眉で、可笑しなことを聞くね、という台詞を見事に表現した。
「だって、君は女性じゃないだろう」
「ごもっとも」
「だから正直な所、こちらとしても対応に困っている」
「はあ」
 俺は、相変わらず『はあ』と答えたが、心の内でやれやれと溜息をついた。
 こんな風に。
 無理矢理、俺を連れ出してしまう癖に。予定だけは立てる癖に。
 まったく彼は、俺の扱い方を知らないのだった。
 まるで鼠のじゃらし方を知らない猫が、乱暴に扱ってみたり優しく扱ってみたり、その鋭い爪で引き裂く前に、考え込んでしまうように。
 そしてこういう場合はいつも、鼠の方が、気を遣ってやらねば物事は決して進まない。
 だけど俺という鼠は、あいにく、賢くないのが困り物で。
「とりあえず、歩きましょう」
 埒が明かないので、そう提案するしかできないのだ。
 それで俺たちは、ともかくも並んで長い道を歩いた。
 道は、果てしなく続いているのだった。



 辺りは冬で、やっぱりもうすぐクリスマスで、でも雪はまだ降ってなくって、行き交う人々の表情と吐く息の白さだけが、何処か浮き立つようだった。
 そんな雑踏を、周囲から頭一つ二つは高い、彼と俺は、ただ道を歩いた。
 靴が石畳を踏みしめた。スニーカーなんて履いてくるんじゃなかったと、俺は隣を歩く人の、よく磨かれた革靴を見て思う。
 彼はただでさえ雰囲気が特殊なのに、さらに上等のスーツなんかを着込んでいて、さらにさらに極めて上等なコートなんかを羽織っている。私服だ。
 色は黒と灰色と藍の間みたいな感じで、表現力のない俺は、ただ黒っぽい色、としか思いつかない。
 でもとにかく、素人目にも上等で上品でスマートだということは解る、そんな彼の服装だった。値段とか聞いてもいいのだろうか。彼は知らなそうだけど。
 それに対して、俺ときたら。
 いかにも貧乏学生を具現化したような、毛玉のついたセーター、剥げかけたジーパン、泥のついたスニーカー。
 その上に何度も言うが、俺の顔はぼんやりしている。会った人みんなに言われるから、これは間違いのない所だ。
 なんだか釣り合わない二人だと思うのだが、相手はそんなことは意に介さないらしい。
 歩いている途中、彼は少しだけ首を傾げて、囁くように語りかけてくる。
「……幼い頃はよく、兄弟で街を歩いたよ。四人でね」
 あまり想像がつかない。
 想像がつかなくて、俺は、立ち並ぶショーウインドーの向こうに、目を遣った。
 クリスマスの装飾、緑と赤のリボン、金色の鐘、モミの木に美しく飾り立てられた商品たち。
 サービスは幼い頃、彼と街を歩いたのだろうか。
「私と街を歩くのは嫌かい」
 急にそんなことを言われたから。
「はあ、まあ」
 つい、そんな答えを返してしまった。
 俺は気のきかない人間なのだ。



 でも総帥は、俺のこんな適当な所を、妙に高く評価してしまっているのだ。
 彼の周囲の人間は、よほど気のきく人間ばかりなのだろう。
「……私に向かってそんなことを言う人間は、珍しい。それだけでも君は、価値がある」
 と、こうだ。
 総帥と俺は、早足で歩きながら、話をする。
 通りすがる人は、みな、数秒だけ俺たちを見つめて、それからすぐに目を逸らした。
 長く見つめることは、総帥に対して、自らの分限を超えてしまう非礼にあたると感じるのだろう。彼の素性を知らなくっても、本能的に。
 そんなことには構わず、総帥は言う。
「君といると、私は総帥でもなければ兄でもないような心地になってくる」
「そりゃ、あなたと俺とは他人ですから」
「言うね」
「利害関係もそんなにないし……ああでも、俺は学校の生徒で、あなたはその学校の理事長だけれど……だけど悪口を言ったからといって、突然に俺を退学させたりはしないでしょう。それぐらいには、あなたは常識人だから」
「目の前でこんな風に評価されるのも、悪くない」
 会話は続く。



 そんな風に、しばらく経った頃だった。
 総帥は声を落として。でも何気ない風に、こう尋ねてきた。
「もし、君の言う通りに。君と私との間に、利害関係がないのだとしたら……」
 彼の視線は、目の前、道の先にあった。
 鈍感な俺にも、それは、ちっとも総帥にとって何気ない質問なんかじゃない、ということは感じ取れた。
 彼は、他愛のない会話の間、ずっとこのことを考えていたに違いなかった。
「なぜ、君は私と寝る。そして今日のように、私の言うことに従って、一緒に街に出る」
 何故だろう。
 俺は自分に問いかけた。
 確かにそれは、不思議だった。総帥の指摘は、正しかった。俺は首をひねる。何故だろう?
 赤の玉に、この人に取り入るように、命令されているからだろうか。
 でも、こんな取り入り方は、しなくてもよさそうなものだったから。結局こうなっているのは、俺の意志が、問題な訳で。
 そして俺の意志とは、つまりはサービスを愛しているということで。
 それなのに、どうして総帥と、俺はこんな関係になっているんだろう?
「さあ」
 俺は答えようとして、その答えがもしかすると彼を傷つけるのかもしれないと、一瞬だけ感じたが、結局は、言ってしまった。
「なんとなく」
「……」



 たとえば、子供という存在が。何も知らないが故に、人を傷つけるってこと、往々にしてあるだろう。
 さまざまな経験が浅いから、知識がないから、技術がないから。それはそうなる。必然的に、そうなる。
 俺は、たぶんこの人との付き合いにおいて、すべての経験が浅かったから。子供的であったから。だってこれまで島に一人でいたんだからというのは、言い訳だけれど。とにかく何も知らない、俺は、ひどく子供的であったから。
 きっと俺はこの人を、傷つけていた。きっと傷つけない瞬間が珍しいというほどに、常に傷つけていた。
 そしてそれはずっと長い間、少なくとも俺が一度殺されるまでは、続いた。
 でも、それはまだ先のことで。
 予期せぬ未来のことで、とにかくこの時の俺は、総帥と、二人で道を歩き続けていた。
 ずんずんと歩いた。
 それはもう、歩いた。
 歩きながら、だんだんと、俺は。
 彼が、その一杯に詰まった戦争の予定を何とかこじ開けた昼下がりに、人を殺す代わりにこんな街中を、貧乏学生と並んで、ずんずん歩いているのかと思うと、問答をしているのかと思うと、何だかおかしくなってきてしまっていた。
 だけど、それは笑ってはいけないことだった。
 だから、俺も真面目になって、一緒に歩いた。



 結局歩き疲れた頃(俺たちはすでに数個目の街に到達していた!)、目についたカフェに入った。
 二人とも丈夫だったのが、わざわいした。
 俺が前に立って。カフェの白木の扉を開けると、ちりんちりんとベルが鳴って、総帥は『へえ』といった顔で、その扉を眺めていた。
 きっと扉にベルがついていることの有効性について、考えているに違いない。
 悪くすれば、明日から士官学校や軍本部や、その他すべての施設の扉にベルがついてしまうかもしれないぞと。
 俺は、そんな空想をしかけたが、周囲の雰囲気がピリッと緊張したので、俺はその空想をやめて、座る席を選んだ。
 なるべく奥。目立たない、奥。総帥が人目につかない、奥。
 そしてこじんまりした最奥の席に、彼を誘導したのだけれど。
 やってきた店員の、注文を取る手が、少し震えていた。
 コーヒー二つ、という簡単な注文だったのに、数度、チェックする伝票の場所を間違えたみたいで、何度もペンでがしゃがしゃやっていた。
 やがて運ばれてきたコーヒーは、白い無機質な磁器に入れられていて、金メッキのスプーンが添えられていた。
 角砂糖入れ、ミルク入れが、一緒にとんとテーブルに置かれた。
 吸い込めば、暖かな、苦みばしった香り。
 俺は、ぐるりと周囲を見回した。
 時々揺れる窓のブラインド、カウンターに並べられたグラス、厨房から立ち昇る蒸気の気配、レジの側にある背の高い花瓶、そこに生けられた数本の花、薄く埃の積もった壁の隅。
 幾人かの客と、店員。
 平凡な、カフェだった。



 そんな平凡なカフェの平凡な席に座った平凡でない総帥は、俺の平凡を超えた構わなさに、今初めて気がついたという風に、首をひねっている。
「君の服装は、ハーレムの髪の毛と一緒だな。何か整えたくなる。そのままでは、何処にも連れて行けない」
 俺は四兄弟の三男坊、つまりはサービスの双子の兄の、伸び放題の髪の毛を思い浮かべた。
 そして、自分の爪先から肩までを、ゆっくりと眺めた。鏡がないから頭まで見ることができないのが、残念だ。
 俺はよく、ぼんやり顔と言われるばかりか、センスがないだとか何を着ても似合わないだとか、もう散々に言われるのだが(特に不機嫌な時のサービスに!)、やっぱりそうなのだろうか。
 ちょっとショックだ。
 痛い所を突かれて、ショックだったから。
「俺は、あなたみたいに、品の良いレストランなんて、行きませんから」
 そう、いささか逆ギレ気味に、俺が言うと。
 一瞬、間を置いて。
「……ああ」
 彼は、小さく返事をして、窓の外へ目を遣ってしまった。あんまり完璧に磨かれていない窓。
 彼はその窓に向かって、こんな場末の店には似合わない顔をして、溜息をついている。
 彼が溜息をつくと、空気が揺れた。
 その様を感じて、俺は思う。
 本当に似合わない、人だなあ。



 サービスだって、本来ならこんな平凡な場所には釣り合わない人間だった。
 しかし、サービスの場合は、どんな場所でもそこに花が咲いたような、ある種の輝きを振り撒いて、その場所の空気に美しさを溶かし込んでしまうような、そんな存在感であるのに対して――これは決して俺の贔屓目ではない、きっと高松に聞いたって、皮肉を交えてでも結局は同じことを言うに決まっている――総帥の場合は、その場の全てを威圧し支配してしまうような、その場を従えて彼のものにしてしまうような、そんな存在感の質であるのだった。
 サービスを人は憧憬のまなざしで見るけれど、総帥を人は、畏敬だとか恐れのまなざしで、見るのだった。
 これは前にも言ったと思うけれど。
 現に、今。実際に。
 店員たちも、ちらほらといる客たちも、肌で総帥の一挙一動を気にしているのが感じ取れた。
 ここにいるべきではない人が、ここにいるという、違和感。
 そしてそれは総帥の存在感が強すぎるために、いつしか、店員や客たち、そしてこのカフェ自体までもが、自分の方が間違っているんじゃないかと思い込んでしまうような、圧迫と無意識のコントロールを、伴っていた。
 否定の、力。
 とにかく、彼はここには釣り合わない。そのことは確かだ。
 だが、逆に、俺はこの場所に釣り合うだろうということが、この場合の要点だった。



 こういった平凡なカフェが俺に相応しいとすれば、彼が平凡なカフェに釣り合わなかった。
 彼が素敵な食事をしたいと思えば、その素敵なレストランに俺が釣り合わなかった。
 俺たち二人が共に釣り合う場所なんて、この世には士官学校の理事長と生徒、ぐらいしか想像力の貧困な俺には思いつかなくて、そうだとすれば、俺たちが一番自然なのは、学校に戻ることであるようにも思えてくる。
 ただし、学校では、人目を忍ばなければならない。厄介なことに、そんな関係だった。
 上手く行かないものだ。
 もしかすると、この人は、普段からサービスや(彼が生まれた頃から側にいたということだけで、凄いし羨ましい)他の兄弟たちといった綺麗な人種とあまりに接しすぎたために、正常な美的感覚が狂ってしまって、俺みたいなのに興味を抱くのかな、なんて、そんなどうでもいいことを、俺がまたぼんやりと考えていたら。
「制服を着ればいい。士官学校生は、制服のジャケットにネクタイだけ替えて街に出るのだと。前にサービスが言っていたのを、聞いたことがあるよ。君もそれぐらい、したら」
「はあ、まあ……ええ……いいえ」
 しかし、まだ彼は、俺の服装が気になるらしかった。
 あまり興味の持てない話題だったので、俺は生返事をしたのだが。まだ、彼が話題を続けてきたから。
「替えのネクタイだって、持ってません」
 と正直に言った。
 経済観念に乏しい赤の玉に使われている身分にもなってほしい。
 それでもまだ話題が、続いたから。
「とにかく俺は、この毛玉のついた薄汚れた洗いざらしのセーターが、とてもとてもとても気に入ってるんです!」
 そう俺は言い切って、この会話に強引に終止符を打った。
 ふと、唐突に。
 そうか、彼は俺を素敵なレストランにでも連れて行きたかったのだろうかと、俺がやっとのことで気付いたのは、カフェを出てしばらくしてからのこと、だった。
 遅い。



 それから、また街を歩いた。
 歩く速度を緩めませんかと俺が提案して、先刻よりは多少ゆっくりめに、二人で歩いた。
 俺は歩きながら、ぼんやりと煌びやかなショーウインドーを眺めた。
 サービスへのクリスマス・プレゼント。一体何を買えばいいのだろうか。
 花なんか渡したら、笑われそうな気がする。
 本。ちっともロマンチックじゃない。却下。却下。
 かといって、アクセサリーか何かだと、またセンスがないと話の種になること受け合いで。
 もうクリスマスまで一ヶ月もないじゃないか。やれ困った。困った。
 俺は考え込みながら歩いて、かなり歩いてから、隣の人が後方で立ち止まっていることに気がついた。
 あ、と思った。
 慌てて振り返り、頭を掻いて、来た道を戻る。
 でも相手は、何でもないという顔をしていたから、俺はばつの悪い素振りをすればいいのかどうかさえ、解らなかった。
 俺が側に寄ると、長身の人は、少し斜め気味に空を見上げながら質問してきた。
「君は、私といるから、ぼんやりしているのか、それとも普段からぼんやりしているのか、どちらだ」
 そんなことを聞かれて、俺は顔を思わずひきしめた。真面目な顔を作った。
 いつも確かに俺は、この人といる時、サービスのことを考えている。
 サービスのことを考えながら、この人の言葉を聞き逃す、この人の動作を見逃す、この人に感じない俺。
 でもそれは彼に興味がないから、聞いてない、見てない、感じていないのではなくって。
 ただ、俺の性質なんです。性格なんです。俺はサービスのために造られたんです。
 星の巡り合わせなんです、きっと、あなたと俺の相性の問題なんです。
 ……あなたのせいじゃない。
 そう言い訳したかったが、ますます何かを悪化させるような気がして、言わなかった。
 何かって、何だ。
 よく解らない。解らないことばかり。



 そして俺は聞いても見ても感じてもいないのに、彼は俺のことは、よく聞いていて見ていて、感じてもいるのだった。
 総帥は、俺がショーウインドーを眺めていたことを、きちんと把握していた。
 彼は、比較的長い間、俺が通りすがりに眺めていただろうと思われる、立派な店構えの宝飾店の前に、立っていたのだ。
 なぜ俺がその店を長い間眺めていたのかといえば、何だかきらきらちらちら、金粉を塗した蝶の大群のように、その店がこの街で光り輝いていたからだった。
 眺めていたって、単にそういうことに過ぎない。派手だから、つい目を惹かれていた。
 でも、彼は、それを特別なことだと認識したのかもしれない。俺がこの店に興味を惹かれたと、考えたのかもしれない。
 総帥は、俺の好みや、何に興味を持つのか、ということに敏感だった。
 そんなことばかり、気にかけてくれていた。
「ネクタイ、っていうのは、当たり前すぎるから」
 そう彼は、宝石を売る店の前で、腕を組んで、言った。
 彼がそういう素振りをすると、この街全体が、俺のネクタイについて考え込んでいるかのように、感じられた。
 俺は肩をすくめた。
 まだ総帥は、俺の服装について考えていたのだ。
「あんまり、当たり前じゃないものの方が、いいのかもしれない」
 何が当たり前で、何が当たり前でないのかを俺は知らなかったから、『はあ』と頷いている。木偶人形になったような気さえする。いつものことだった。
 そして俺はいつの間にか、彼に何かを買ってもらうことになっているのだった。
 知らない間に、そういうことになっている。
 この人と俺は、いつもそうだ。
「ボロ・タイはどうだろう」
 彼はそう呟いて、さっさとその宝飾店の中に、入っていった。
 俺はその広い背中を、追いかけた。



 ボロ・タイって、何のことかと思ったら、紐ネクタイのことだった。
 普通の紐ネクタイの合わせ目に、ちょっと洒落たバックルとか、飾りだとか、宝石だとかがついている。そういったもの。
 店は、平凡なカフェがある街にしては、高級な造りをしていて、何がどう高級なのかはよく解らなかったが、とにかく良質な酸素と窒素が、良質な空気を製造しているんだろうと思わせる造りだった。
 俺が、二酸化炭素を吐き出すのは、とても気まずい。そんな感じ。
 とにかく宝石やらコサージュやら、数多の装飾品が、計算されつくした照明を浴びて、空間中できらめいている。
 俺がそんな店に入ると、総帥は、恐縮している年配の店員の側で、店の奥、飾り棚を物色していた。
 彼はこんな店の中でも、まるで灯台みたいに、よく目立った。迷子になった時など便利かもしれない。
 毛足の長い青絨毯を踏み分けて、俺が総帥の側に行くと。
 彼は、振り向いて。
 そして俺に視線を遣って、足の爪先から頭の天辺までを、つらつらと眺めて。
 悩んでいる、様子だった。
 きっと、俺には何が似合うのだろうと、そういった悩みに違いない。
 でもそれを口には出さない所が、今の彼の紳士的な所だった。さすが総帥。気を遣わせてすみません。
 これが高松だったら、ずけずけと言うのだ。
 俺には似合うものがないって。
 ……サービスでも、やっぱり言うだろう。ちょっと傷つく。かなり傷つく。
 でもそれは、彼の親愛的な気持ちの表現であるのだろうと、俺は心の中で、非常に親愛的解釈をしてから。
 ハッと胸に何かを当てられる感触に気付いて、また自分はぼんやりしていたのだと思った。
 総帥は構わず、いくつかのボロ・タイを比較していて、そして彼の中で決断してから。
「これはどうだい」
 俺に、そんな言葉で事後確認を求めてきた。



 紐の合わせ目にはめ込まれてた、銀の台に琥珀のカメオが、俺の目の前で、きらりと輝いた。
「高いのは無理です。俺が持ってたら、変に思われます」
 思わず、俺はそう言った。これが俺に似合うかは別として(可能性を信じちゃだめかな)、いかにも高価そうなのに。周囲の連中がおかしいと思うにきまってる。
「高くないよ。学生にも買える値段だ」
 総帥の常識の中での『学生にも買える値段』というのに、多少不安があったので。
 でも、買うことは、もうすでに総帥の中での決定事項なのだろうから。
 俺は値段札は、見ないことにした。それぐらいの精神的自衛は、したっていいと思う。



 鏡の前で、俺はそのネクタイをつけてみろと言われ、実際につけてみた。
 似合う……か、どうかは……
 解らない。俺は世界に対して解らないことだらけだったから、そもそも似合うという感覚自体が、曖昧なのだ。似合うって、つまりは他との比較考量だから。
 サービスか高松に見せてみないと、似合うかどうかは、解らない。俺は自分の社会的常識を、彼らに依存している。
 大振りだったが、このカメオは琥珀だから見た目よりは軽い。
 黄金色の石には、薔薇の花が細工してあった。
 黄金の濃淡は、黄色と白色の間を行ったりきたりして、優しげな花びらだとか、つぼみだとかを、優雅に描いていた。
 総帥は、俺の姿を見て、無表情に言った。
「……黄色い薔薇にも見える。嫌な花言葉だ。カメオが、というより、花言葉が、君に似合う」
「はあ」
 俺はそんな知識なんてなかったから、ただ頷いた。
 総帥は、店の隅っこで控えている店員に言って、このカメオを包ませた。



 店を出た所で、彼から、包みを渡された。
 俺は『ありがとうございます』と言って、お辞儀をして、受け取った。
 彼は言った。
「薔薇を求めれば永遠の命を得る……そんな言葉もある」
「はあ」
「紀元前……世界最古の叙情詩。知らないかい」
「はあ」
 それ以上は彼も、このカメオについて、何も言わなかった。
 彼は何が楽しくて、俺といるのだろうと思う。



 その後、また歩くのは嫌だったから、少し早いけれど食事をしませんかと、俺の方から提案した。
 提案は受け入れられた。
 本当に総帥は、俺と街で何をすればいいのかを、知らないのだ。



 洒落た看板のかかっている階段を降りて、地下に入った所にある、ビアホールに入った。
 丸テーブルが綺麗に並んでいて、そのひとつひとつに、若者たちや、それなりの年齢の客たちが、適度に配置されていた。
 銀色のワゴンをひいた蝶ネクタイの老人が、生ビールをこれも銀色のタンクから、見事に注いで、回っていた。
 黒服に白エプロンの女性が、あちこちで忙しく注文をとっていた。
 俺たちは、奥の席、薄橙色のランプが吊り下がった場所に、腰を下ろした。
 革表紙のメニューが並べられていたから、それを開いた。
 総帥は、こんな場所でもひどく目立ったけれど、それはもうどうしようもないことだった。慣れるしかない。
 緊張した黒服に白エプロンの女性が来たから、適当に注文をし、その背中を見送った。
 総帥と俺の間に、沈黙が降りた。
 ホールには、流行歌が流れていた。



 俺もこんな所に来たことは、数度、寮の仲間たちに連れられて、ぐらいだったのだけれど、総帥はもしかすると初めてなのかもしれないと、俺は感じた。
 こんな場所に彼を連れ出そうとする友達なんて、いるはずもなかったし。そもそも彼がここに来る理由や必然性といったものが、まるで思いつかなかった。
 どうして世界的な軍団を率いる総帥が、こんな場所に来なきゃならないのだろうか。
 そう考えて、俺は、目の前の彼を見た。
 ちょうど頼んだビールが来たところだった。
 俺たちは、変に余所余所しく、グラスをそっとかざした。俺たちが元気よく『乾杯!』をするのも、おかしなものだった。
 総帥は、ビールを不味そうに一口飲んで、それから俺の顔を見た。
『君のせい、だよ』
 彼が、俺の思考を読めるはずはなかったのに。その青い瞳は、何故かそう言っているように、俺には思えた。
 君のせいで、私は。こんな場所に、来てる。
 そんなことを言われても。



 その内、飲み物だけじゃなくて料理も来たから、俺たちはローストビーフやら何かの煮込みやらを、互いにつついて食べた。
 何を会話したのかは、忘れてしまった。
 ああ、料理の味付けについて、総帥が何か難しいことを言っていたが、俺には相変わらず理解できなかったんだっけ。
 あとは何だろう。
 多分、そう、当たり障りのないこと。
 そうだ、でも一つ、はっきり覚えていることがある。
 皿をあらかた空にしてしまって、何本目かのビールを空けた頃のことだ。
 この店の端の方には、少しばかりのスペースがあって、そこがちょっとしたダンスホールになっている。
 そのスペースからは、しっとりとした音楽が流れ、数組の男女が、ゆっくりとしたステップを踏んで、踊っていた。
 壁際では、綺麗な女の子たちがめいめいに立って、髪なんかを撫でつけていた。きっと一緒に踊る相手を探しているのだろう。誰かに声をかけられるのを待っているのだ。
 ふと気付けば総帥は、その様子を、眺めているのだった。



「もしかして、踊りたいんですか」
 俺は、今度は先んじて彼の気持ちを尋ねてみた。
 ぼんやりしていると、思われる前に。
 上手くやったと思ったのに、これも失敗だったようだ。彼は胡散臭いといった目つきで、俺を眺めた。
「まさか。だいたい誰と」
「俺と」
 じゃないんですか。真顔で聞いてしまった。相手はますます胡散臭気に、フンと鼻で笑った。
「どうして。君は男じゃないか。何が悲しくて男同士で踊らなければならないんだ。そんなマナーは聞いたことがない」
「そりゃそうですね」
 俺は気分を変えて、ちょっと意識的に明るい声を出して、ホールのライトで照らし出されている場所を適当に指差した。
「じゃあ、あの辺にいる、綺麗な女の子と」
 また、どうして、と彼は言った。
「君がいるのに。なんでそんなことしなきゃならないんだ」
「そりゃそうですね」
 また、俺はそう答えた。
 それからしばらく俺たちは、綺麗な女の子と、どうでもいい野郎が踊る姿を、眺めていた。



 綺麗な女の子よりも俺といる、という感覚は、到底理解できるものではなかった。
 これが例えばサービスがいい、という気持ちだったら、非常によく解る。
 サービスは、世界一美しいんだから。
 でも、俺は、俺がいい、という気持ちは、解らない。
 しかも不感症。不感症と覇王。変な取り合わせだ。
 そうか、でも。
 俺がこう考えることは、ひどく自己に対して否定的。俺はいつか浮かんだ台詞を、再び心の水面に浮き上がらせてみる。
 及びもつかない彼と俺だと思っていたが、意外な所で、似た者同士だ。
 それとも俺まで、彼の否定的な魅力に、知らない間に影響されてしまっているのだろうか。危ない。危ない。



 それからそのホールを出た俺たちは、まだ俺の寮の門限まで数時間はあることを確認して、やはり何もすることがなかったから。
 ずんずんと道を歩いてたどり着いた平凡な街に、ふさわしいような平凡な場所に入って、平凡な部屋をとって、そこでこれは平凡……とは言いがたいけれど、セックスをした。
 俺は相変わらず、何も感じなかった。
 終わってから、総帥も相変わらず、俺の裸の胸に頭を乗せていた。
 床に転がっている俺のセーターは、何度も言うように毛玉がついている、くたびれたものだったから、そんな適当な扱いでもいいのだった。
 俺だって、そんな適当な扱いで構わないのだと、この人はいつ気付くのだろう。
 ねえ、総帥。



----------



 街に出た日から、二度ばかり同じ曜日が巡っていた。
 その前夜は、大部屋時代に同室だった奴が、クリスマスを前にして彼女ができたとかできないだとかの騒ぎになって、夜っぴて飲み明かし、明け方までふざけて遊び、昼過ぎまで俺は二日酔いでベッドの中、毛布を頭まですっぽりと被って就寝中だった。
 眠い。眠い。そして、寒い。
 俺は寒いのが好きではない。冬よりも夏の季節が好きだった。南国にずっと生きていたから。
 太陽の光が、恋しかった。太陽の光を、浴びたい。そんな夢を見たい。眠い。寒い。
 俺が首尾よく太陽の夢を見ているか、見ていないか、ぎりぎりの所で、バタンと部屋の扉が開いた。
 昨晩は確か鍵をかけていないから、開いても仕方ない。しかも、この開け方は。
 俺は蝶番の軋み方から、その扉を開けた主を知ることができる。恋の力だ。
 彼は、冬の寒さに震える俺の、太陽だった。
 サービス。俺は毛布に包まりながら、半分夢を見ながら、感じる。サービス。



「ジャン。なんだ、まだ寝ているの」
 呆れたような声がした。
「僕はこれから出かけるのだけれど。それなのに、お前が寝ているっていうのは、気に入らないなあ」
 俺の天使は、少し意地が悪いのだ。
 意地が悪くたって、俺には、やっぱり太陽なのである。
 俺が相変わらずその暖かさを噛み締めて、毛布に包まっていると。
 いつもは、そんな俺に、どすんと圧し掛かってきたり、攻撃してきたりするサービスが。
 何だか、黙っていた。
 しばらく、沈黙が降りた。
 それから、がさがさと、包み紙を破るような音が聞こえた。



「ジャン、ジャン」
 サービスが、まるで犬でも呼ぶみたいに、俺の名前を呼んだ。
 ご主人様、と顔を出すべきだったかもしれない。
 でも眠かったし、俺はやっぱり毛布に包まっていただけだった。俺は怠惰な犬だった。
 後から考えるに、もしこの時、顔を毛布から出していたとしても。
 この事態を、俺は上手く処理できなかったに違いなかった。
「ジャン。ごめん。少し早いけれど、見つけてしまった」
 何を、と俺は寝ぼけた頭で考えたが、それよりもサービスのその声の、嬉しそうな響きに、自分が嬉しくなったことの方が重要だった。
 小鳥の羽みたいに軽やかで、そこにあるだけで、俺を嬉しくさせる。
 まったくサービスの声って。
 凄い。



 でも、俺は毛布をやっぱり、頭まですっぽり被ったままだった。
 寒いから。
 それと、毛布を被ってその繊維の隙間から、薄い光が漏れてくるだけの、狭いぼやけた世界の中で。
 ただサービスの声を聞いているというのが、とても素敵だった。
 その声は、毛布全体を包括的に、そう、包括的にだ、優しく包んで、すべての世界の表面から、俺に語りかけてくるようだった。
 たとえばプラネタリウムの真っ暗闇の星明りの中で、解説の声が、どこからしているのかが、解らないことってあるだろう。
 その内、その解説の声は、星座を作ったギリシア神話の神様の声に、聞こえてくる。
 あんな感じ。



 毛布の中の世界が、優しく揺れた。
 ぽんぽんと、サービスが俺の身体を、合図するように叩いてくれたのだと、ぼんやり思う。
「ジャン。でもカーテンの陰なんかに隠す、お前が悪い。僕がすぐに見つけてしまうような所に隠す、お前が悪い」
 彼は神様の声で、厳かに言った。俺の罪を宣告しているらしい。
 少しして。
「……ありがとう」
 今まで俺が聞いたこともないような、優しい、優しい声で、神様が囁いた。
 俺は、ますます素敵な気分になった。天使が角笛を吹いたみたいに。
 サービス。お前はまったく、素晴らしいよ。
 俺の太陽。
「さよなら」
 最後にそう言って、俺を乱暴に起こすことなく、サービスは、立ち去った。
 俺はその軽やかな足音を、聞いていた。
 サービスは何だかんだで、しっかり躾けられた良家の少年だったから、例え半日の別れであれ一日の別れであれ、きっちり別れの挨拶をするのだ。
 寒がりで躾けの悪い俺は、毛布にくるまりながら。
 半分眠った頭で。
 サービスは、これから人生の間、何度俺に『さよなら』を言うのだろうと、もやもやと勘定して。
 そしてそれが途方もなく皮算用であることに気付いて、思考を止めて、また始めて、また止めた。
 無駄な計算だった。俺がいつまでサービスの側にいられるかが判明しないと、基礎さえままならない、そんな計算。



 そういえば、昨日。飲み会で、サービスが言っていたっけ。
『明日は、兄さんの誕生日だから』
 この場合の『兄さん』とは、彼の一番上の兄のことで、つまりは総帥だった。
 四人兄弟は、良家らしく、きっちり誕生日は全員で集まって、ホームパーティーなんて催すらしかった。
 俺はその話を、だらしなくチキンなんて頬張りながら、貧困な想像力を押し広げながら、聞いていた。
 そうか、総帥は今日が誕生日なのだと、今更に俺は気付く。
 うすうすは感じていたが、初めて脳が認識した。
 12月12日。
 次に彼と会った時は、最初に『おめでとうございます』と言わなければならないぞ、と。
 俺は考えた。
 俺は忘れっぽかったから、これは常に脳裏に焼き付けておかなければ、いけない心構えだった。
 躾けの悪い犬でも、こういったことは、躾けのいい人に対する最低限の礼儀なのだと考えている。
 少なくとも。気がついた時は。



 夕方近くなって、やっと俺はもそもそ起き出して、ひどい姿で食堂で食事をした。
 食堂は同じようにひどい姿をした学生ばかりで、俺はなんだかおかしかった。
 するとそこに、ぱりっとした服装をして、高松が颯爽と入ってきた。
 顔がにやけている。これはまた、何か自慢話をされるぞと。俺はそう思って、頭を引っ込めたけれど、勿論彼は俺に気付いて、勝手に正面の席に座ってしまった。
 そして、『何を時化た面、してるんですか』とかなんとか、俺をからかいながらも、彼が今日研究所で成し遂げた偉大な業績とやらを、ひたすら喋る。喋る。喋る。
 俺は、みっちりと聞かされた。
 ふと俺が周囲を見渡すと、顔見知りの学生は、みな席を立ってしまっていた。
 俺だけ、いつも要領が悪くて、こんなハメになる。
 高松の自慢話は、『でもですね、今日はルーザー様がいらっしゃらなくって。だから報告は明日、まとめてすることにして、さっさと帰ってきてしまいました』で結ばれていた。
 ルーザーという人に、褒められるためだけに、高松は研究をやっているのかと思う。
「サービスも、自宅に帰ったよ」
 俺が言うと、彼は大きく頷いた。
「家族水入らずってヤツでしょう。なにか口実をつけて、混ざる方法はないんでしょうかね。ああ、例えばジャン。アナタが、道化の格好をしてホームパーティーに飛び込んで、SPだか護衛兵だかに八つ裂きにされている間に、私が事情説明のために何食わぬ顔をして通りがかる」
 ルーザーのことになると、高松は普段よりももっとオカシくなるのだ。
 エキセントリック。
「ああ、ああ。そう思うと、居ても立ってもいられなくなってきました! あの方が、あの麗しいルーザー様が、一家だけの私的なパーティーで、あのゴシック風の居間でくつろがれて、グラスでワインを飲む。ふわりとレースのカーテンが揺れる。ああッ! そんなお姿、見たいですよッ! 見たくてたまりませんッッ! ジャン! 何とかしてくださいよッッッ!!!」
 どうして俺に。
 結局、その夜はサービスは帰ってこなかった。今夜は私邸に泊まるのだろう。
 高松は、サービスが戻ってきたら一番に話を聞こうと、寮の門の内側で彼を待ち構えていたが、0時すぎになってやっとあきらめたかと思えば、今度はしきりに談話室で、そんなに長引くほど楽しいパーティーなのか、素晴らしいパーティーなのか、ああルーザー様、ルーザー様、と。
 悶々としているのだった。
 俺は、放っておいて、さっさと自室で眠ることにした。
 さっきあれだけ寝たのに、まだ眠いなんて。俺は、凄い。
 そして、眠った。



 俺の部屋は、一階で。
 しんと静まり返った空間に、微かな音がした。
「……?」
 水底から浮かび上がるように、すうっと眠りから覚めた俺は。
 少し躊躇してから。
 毛布を被ったままで、起き上がった。



 窓を開けると、うっすら雪さえちらついているようで、俺は寒さに凍えそうになった。
 俺は南国育ちだから、冬の冷気には弱かった。
 総帥も、サービスも。
 冬の始まりと、冬の終わりに生まれた、冬生まれの二人だった。
 俺は自分の誕生日を知らない。ただ、あの熱い熱い島で、造られたということだけは知っている。
 赤い玉が、教えてくれた。
 赤い玉が教えてくれたこと以外は、すべて、この士官学校と、友人と。総帥とサービスから、学んだ。



「総帥。お誕生日、おめでとうございます」
 反射的に、俺は彼の顔を見て、そう言った。
 背の高い彼の、肩から上が、窓枠に見えていた。
 いつから、彼はここにいたのだろう。
 その髪の毛の先に、雪の欠片が、ついていた。
 彼は、俺を見た。
 睨んだというのでも、じろりと見たのでもなく、凝視したというのでもなかった。
 ただ、見たのだ。
 色の無い瞳だった。
 彼は、窓の向こう側から俺をそんな瞳で見て。やがて言った。



「サービスがあのカメオをつけているのを見た時の、私の気持ちが、君には解るか。あの子は、これは友人からの贈り物だと言って、私に向かって微笑んだんだ」
 解るか、と言われても、この人の気持ちは俺には解るものではなかった。
 気分がいいはずはないだろうとまでは理解したが、それ以上は想像がシャットアウトされてしまう。
 元々、俺は他人の気持ちが解る人間ではないのだ。
 島暮らしが長く、一人で過ごす時間が長く、他人にさして興味もない、そんなつまらない人間には、こんな人の気持ちが解るはずがない。
 ただ、サービスの気持ちだけは……と、俺は心の隅で考えた。
 サービスの気持ちだけは、きっと俺は、解る。そんな理由のない確信だけが、この人に見つめられても、からっぽのままの俺の心に潜んでいる。



 俺は言った。
「怒っているのでしたら、謝ります。でもこれは偶然で不慮の事故みたいなものなんです。決して悪気は」
「事故だろうと何だろうと、私にとっては、あれをサービスが身に着けていたことが重要なんだ……ああ……私は見苦しいな……」
 総帥の声は、囁くようだったけれど、低く沈んでいた。冷気に沈んでいた。
 サービスが、という台詞に、やっと俺の頭は回転を始める。サービスがあのカメオを。サービスが身に着けていた。サービス。サービス。
 総帥は、本当に俺が、あの総帥に贈られたカメオを、サービスに贈ってしまったのだと思っているのかもしれない。
 悪くすると、総帥の否定的思考でいくと、サービスが俺たち二人の関係を知っていて、それでそのことを皮肉ったという可能性にまで、思い至っているのかもしれない。
 俺は、自分がどう思われるかということよりも、彼がサービスに対して抱く気持ちの方が、心配になった。サービス方向からの思考なら、俺には可能であるのだ。
 でも、きっとサービスは、ただ、あの石が綺麗だと思って。
 折角のパーティーだからと、純粋で善良な気持ちから、あれを胸につけて、笑顔をこの人に向けたのだ。
 その真実だけは、俺には理解できたから。
 俺自身は彼にどう思われようと、良かった。
 だから俺は、とにかくサービスのために弁明した。
「聞いてください。サービスは寝ている俺の部屋に来て、カーテンの陰に置いてあった、あのカメオの箱を見つけて、それが俺からの彼へのクリスマスの贈り物だと思って、そして折角のパーティーだったから、きっと、あなたや他の兄弟たちにそれを見せたいと純粋に考えたから、」
「ほら、やはり君は解ってない」
 黒いコートを着た腕が、伸びてきて。
 俺の首に、そっと回された。
 そしてぎゅっとその腕が締まって、俺は引き寄せられて、金髪が俺の黒髪に重なって、ひやりと冷たい彼の頬と俺の頬とが、触れ合った。
 窓越しに、抱きしめられた。
 彼の息遣いを、耳元で感じた。
 冬の夜に染み込んでいく様な、囁き声。
「私を部屋に入れるか、君が外に出るか、だ」



 あなたを部屋に入れたら、きっと見つかります。だって近くの部屋には、今日は特に色々なことに過敏な高松がいるんです。
 俺が外に出るのも、どうかと思います。だって俺は、夜着に、毛布を被っているんです。
 こんな状態なんです。
 俺が、そう答えると。
「服なんて買えばいい。それに君は毛玉のついたセーターしか持っていないんだから。着ない方がましだ」
 また痛い所を突かれて、俺は、やっぱり逆ギレの気分になって。
「……あなたは、誕生日なんだから。そんな特別な夜に、俺なんかに会って、どうするんですか」
 そう言った。窓の外から伸びる、腕に引き寄せられたまま。
 こう付け加える。
「俺、不感症ですよ」
 俺は無粋だった。
 彼は答えた。
 小さく言った。
「構わない」
 構わないよと、彼は繰り返す。
 まるで自分で自分に確認しているかのような、声だった。
「……君が、最後に。私が眠る胸を貸してくれるのなら」
 それを聞いて、俺は思わず。
 言った。
 彼の顔は、俺の唇の、ごく近くにある。
 息をすれば、届く距離。蚊のなくような声だって、囁き声になってしまう距離。



「俺に優しくしないでください。命令してください」
 そうすれば、俺もあなたも、楽なのに。
 命令し慣れている人間は、恋に落ちると急に命令できなくなるのだと、彼は信じきってしまっているかのように見えて、そしてそれが俺には不思議だった。
 だから、いつもよく解らないことになる。
 俺とこの人との関係性が乱されて、どうしたらいいのか二人とも解らなくなる。
 俺はこの人に、優しくされたくない。命令されたい。
 憎むべき敵の総帥と、卑怯なスパイでいたい。
 無造作に踏みつけられて、復讐を誓う、そんなくだらない野良犬のような存在でいたいのに。
 どうして彼は、俺に構ってしまうのだろう。あなたのために、ならないんです。
 無視して、ください。
「……来なさい」
 彼は、やっと命令口調でそう言って。
 ぐっと、その強い腕に、力を篭めた。
 次の瞬間、俺の両肩は引き上げられて、窓から引っ張り出されて、冷たい12月の夜が、俺を包んだ。
 寒いと、感じた。浮遊感。
 すると次の瞬間、俺の身体は、外に出ていた。



 俺が島にいた頃、世界はもっと単純だと思っていた。
 世界は太陽の光を浴びて、青い海や緑の葉や銀色の砂浜がきらきらと輝き、色とりどりの動物たちが音楽を歌っていた。
 澄んだ空気を吸い込めば、それでよかった。
 俺は赤い玉に造られた番人という存在で、それ以上でもそれ以下でもなく、誰も存在意義を問う者さえなかった。
 俺は俺のままで、世界に溶け込んでいた。
 だが、今は。



 夜はどこまでも続いていくけれど、いつかは明けるのだ。
 ちらついていた雪はすでに止んで、あるのは冷気だけだった。
 俺を連れ出した総帥は、やっぱり、何処へ行くだとか、何をするだとかは、考えていなかった。
 きっと、ただ俺と一緒にいることしか、頭にないのだと思う。
 かわいそうな人だ、と。
 でも、俺がそう思えば、それは――彼にとっては、救いようのない出来事だろうから。
 俺は、そう思わないように、首を傾げる。
 そして、これから何をするのかを、俺が代わりに考えようとする。
 一言。
 太陽が見たい。
 俺がそれを言うと、彼はこの港まで俺を連れてきてくれた。
 優しくしないでと言ったのに。彼だって、俺の話なんか、聞いちゃいないのだ。



 陸から海中に伸びた埠頭で、白い翼に黄色と黒で輪郭をつけたような、かもめが数羽、塔の陰に震えていた。
 冬の海、夜明け前だ。
 俺は結局、夜着の上に、総帥の黒いコートを羽織り、部屋スリッパで。
 海と陸との境目、錆びかけた鉄柵に腕をかけ、まだ暗い海の水平線の彼方を見つめている。
 素足でスリッパを履いていたから、くるぶしのあたりがとても寒かった。
 服は買えばいい、と言った人は、こんな時間は、どの店も開いてないことなんて、勿論考えてはいなかった。そんなの、彼にとっては大したことではなかったのだ。
 そのとばっちりをくうのは、俺なのである。貸してもらったコートは高級だから、上半身から腰にかけては暖かかったけれど。くるぶしが、とにかく寒い。冷えた。
 まあ、でも……俺は、そんなの、文句なんか言えないぐらいに、彼を騙していたり、その、色々と与えられるものに比較して価値のない人間で、気持ち的に、負い目を抱えていたから。
 くるぶしくらい寒くたって、我慢しなければいけない存在であるのだった。
 隣に、総帥がいた。彼は赤い軍服で、誕生日にだって仕事をしてきたのだろうと、俺はちょっと考えた。楽しいはずの、ホームパーティーの後も。
 彼の仕事というのは。戦争なのだけれど。誕生日に戦争をすることは、彼にとってはどうなのだろう。
 何でもないことなんだろうな、としか思えなかった。きっと慣れているから。平気なんだろう。
 総帥も、水平線の彼方を見つめていた。東の方角だ。
 その内、俺たち二人の視線の先で。
 ちらちらと光の気配がして、そう感じた次の瞬間には、溢れるような輝きが、水面を浸していくのだった。
 無数の燐粉が、魔法の粉が、すべてを朝に変える。世界が目覚めていく鼓動。
 夜が明ける。
 この暗かった世界に、光が満ちる。
 気持ちが晴れていく。すがすがしい冷気が、肺に溢れる。
 俺は、太陽の光に、自分の生まれ故郷を思い出した。
 生まれ故郷といっても、俺は赤の玉に造られたのだから、あの島のことなのだけれど。長い長い間住んでいた、あの島。そうか、これが懐かしいという気持ちなのだろうかと、俺は心を組み立てていく。
 南国の日の出は、とても美しい。
 でも、この国の日の出だって、美しいと思った。
 青の一族が住む国の……日の出だって。とても、美しいのだ。
 そして、太陽を見て――俺は、サービスを、思い出した。



 朝陽が昇りきったら、俺は寮へと帰らなければならない。
 目ざとい早起きの連中に見られたら、大事だった。
 俺は頭の中で、計算した。
 でも、朝の散歩に行っていたとか、そんな理由で玄関から帰ってくるというのも、ありかもしれない。スリッパだけれど。でも、みんな俺だからってことで、見ても納得するのだと思う。
 だとすると、時間は。あと、数時間ぐらい。
 この数時間を、総帥は、俺とこのまま昇る太陽を眺めて過ごすのだろうか。
 歩こう、と言ったら、ずんずんと歩き続けた彼だったから、そのつもりなのかもしれなかった。
 昇る太陽を見たいと俺が言えば、ずっと見ている。そんな、人。
 言うべき言葉が、みつからなかったから。
「今日は、俺と寝ないんですか」
 俺がそう言っても、相手は肩をすくめて、それでもまだ朝陽を見つめていた。
 この人は、本当は内面ささくれだっているのか、それとも俺と同じように無感動な人間なのかさえ、俺にはよく解らない。



「赤ん坊に恋をしてみたいんだ」
 突然、そんな声が聞こえてきた。
「誰も知る前の、生まれたての人間にだよ。最初に知る人が私。目を開けた時に、最初に見る人が、私。その赤ん坊は私以外に誰も知らないんだ。私はその赤ん坊の歴史のすべてを、独占するんだ。私なしではいられないように、してやるんだ。君に接して、私はそんな愚かな空想をするようになった」
 ごく常識的に、それはいわゆる悪魔的実験だと感じたから。
「それは、その赤ん坊にとっては幸せなことなんでしょうか」
 俺はそう反語的に答えを返したけれど、実際は、本当にそう感じた訳ではなかった。
 幸せなんて、人によって、それぞれ異なって当然なのだ。
 性格が違うように。外見が違うように。好みが違うように。
 赤ん坊に恋をしてみたいという、この人の幸せも彼独自のものだろうし、その赤ん坊にとっての幸せも独自のものだろうし、俺が知る人間、たとえばサービスや高松の幸せだって、独自のものであるだろうからだ。
 だから、俺の発言は、あまりに道徳の教科書向きで、陳腐であるのだ。だがそれは俺が陳腐な人間だから、仕方ない。それはいい。
 ただ――俺はその幸せというものを、感じたことはない。
 言葉でしか、空虚な概念でしか、それを知らない。
 幸せとは、きっとその中にいる時には理解できずに、後で振り返って、ああそうだったのかと思う、そんな回顧的事象のことではないかと、最近の俺は考えている。
 これも無感動の一部であるのだろうか。精神の不感症であるのだろうか。
 すべてが俺を通り過ぎていく。無感動で俺はそれを迎え、去る背中を見送る。
 見送ってから、それがすべてだったと気付く。俺は、そんな人間であるのだろうか。
 果たしてそうだろうか? でも俺は、サービスに恋をしていると、気付いた。
 気付くことができたんだ。
 それだけが。俺の、すべての感動。すべての真実。
 そして浴びる太陽の光。この光、つまりはサービスに照らされる俺。これは幸せだということだろうか?



「君なしでは」
 総帥は息を切って、それからまたすぐに続けた。
「君なしではいられない、というのではないんだ」
 俺は、彼の横顔を見ていた。
「でも……ある時、たまらなく……私は、君を、抱きたくなる。何も感じない君であるのに……狂おしく……どうにもならない」
 生まれたての赤ん坊どころか生まれたての光は、すがすがしい透明さと、あでやかな息遣いをして、総帥の彫りの深い顔を慈しむように輝きで包み、特別な者として熱愛し、そしてそれを脇から眺めていた俺は、なにやら荘厳な印象すら受けた。
 黄金で造られたみたいな、人。選ばれた人、総帥。
 彼は見るからに、光にさえ、優遇されていた。
 でもそんな美しい朝陽に愛されているのに、そのことには全く気付かないか意に介さずに、俺みたいなぼんやりした存在に恋をしていると思い込んでいるのが、彼なのだった。
 思い込んでいる?
 俺だって。サービスに恋してると思い込んでいる?
 そうか、思い込み。この世界はすべて思い込みで成り立っているのだとしたら、思い込みこそが真実たりえるのではないかと。
 そう考えれば、思い込みだって馬鹿にしたものではないぞと、俺は相変わらずぼんやりしながら、思い込んだ。
 思い込みでいいから、サービスも俺に恋してくれていたら、いいのに。



 気がついたら、彼は、朝陽ではなくて俺の顔を見つめていた。
 また俺は彼のことを聞いていなくって見てもいなくって、感じてもいなかった。そう思われても仕方のない瞬間だった。
 しかし、接近しすぎていた。
 俺が少し見上げる形になっていて、彼は少し見下ろす形になっていて、顔と顔の間に少しばかりの距離があって、お互いの意志さえあれば、すぐにその距離は埋まる性質の、そんな息と息とが交じり合う、距離だった。
 俺は、もしかしてこれは口付けをする場面なのだろうかと遅まきながら気付いて、気付いたからといってどうしようもなかったので、そのまま彼を見つめ返した。
 口付けの雰囲気というのは、いつも答えがない。
 断定もできないし推測もできない。ただ、時間が続くだけだ。始まらない、終わらない。二人の間で、透明なはずの空気が滲む。
 きっと、少し、切ない。
 幾許かして、彼が金色の睫毛でゆっくり瞬きをして、溜息をついて。
 次の瞬間、その雰囲気は消えた。



 そういえば、俺は彼と、口付けしたことはない。
 とにかく、そんな雰囲気は消えて、もう、ただ彼は、至近距離で俺を見つめているだけだったから。
 朝の日差しは、なめらかな海を七色に彩っていた。
 俺は気が楽になって。
「あなたは、そんなに俺の顔を見たいのですか」
 つい、そう聞いた。
 そして、間違ったと気付いた。
 間違えたことには気付いたが、だからといって、どう言えば正しい答えなのかは、相変わらず俺には解らないのだ。



「私は君が憎いな」
 返ってきた言葉は、ひどく物騒なものだった。
 総帥の青い瞳が、海の底のように深みを帯びていた。
 金髪が輝いていて、依然として美しい朝陽が、彼を慈しんでいた。
 やはりこういう場合は、思ったことを素直に返すしかないのだろうか。
 だからこう答えた。
「俺は……あなたを憎めません」
 相手は否定するように、首を振った。
「君は、憎めない、というのじゃないだろう。ただ、私には何も感じないだけだ。どうでもいいんだ。不感症。君にぴったりの言葉だよ」
 どうでもいい。
 ええと、そういう訳ではないのだけれど。
 俺はそう直感的に思ったが、でも彼がそう言うのなら、それはそうであるのかもしれなかった。
 この人が何かを言うと、それがあっという間に力を持って、現実を支配し、それが真実になる。
 だから、自己に否定的なことを言わなければいいと思うのに。それが実現してしまうから。
 だが彼は本質的に、自己に否定的な人間だったので、否定的なことを言わずにはいられないのだろうということも、同時に俺は理解していて、なんだ、俺にも解ることはあるじゃないかと、一人合点した。
 彼はきっと否定的自己とその強大な影響力をもって、最後には世界と一緒に身投げするのではないかと、俺はぼんやり考える。
 ネガティヴ。こんなに恵まれているのに、どうしてか自分を最も憎む、ネガティヴ。
 空気さえも世界さえも支配して、最後は否定する。そんな人生って、ありなんだろうか。
 ぼんやりした思考の外で、彼が言葉を続けている。
「私は、君が憎いよ。でも君は、私を憎んでさえくれない。だから憎い。ひどく憎い……」
 そう静かに繰り返した。
 静かだったけれど、軽い調子だったけれども、その声はやけに静かすぎて軽すぎて、とても冷酷な感じがした。
 彼が冷酷な声を出すと、やはり世界までもが冷酷になるのだった。
 朝陽の輝きは、絶対的に彼に味方しているのだった。



「君を殺したい、と、いつも感じている」
 でもきっと、彼が殺したいのは、自分自身なのだと思う。
 しかし彼は一族を背負っていて、責任ある立場だったから、死ぬ訳にはいかない状態だったから、代わりに俺を殺したいと願うのだと、俺は感じた。
 代償行為なのだ。
 彼は、青の一族で、その長で。すべてを背負う代わりに、人を殺さずにはいられない。
「いつか殺すよ。その時まで、君はヘマをして他の人間に殺されないよう、身を大事にしたまえ」
 俺は。
 赤の番人という正体を見破られて殺されるのなら話は解るが、やはり、こういった情念で殺されるという未来は、納得できる話ではないと考えた。
 こうした感情を向けられることは、そして殺されるかもしれないということは、潜入者としては、明らかに落第なのではないだろうか。
 もっと、影のように組織に入り込んで、影のように敵を侵食する。そんな存在こそが潜入者であって。
 俺は、確かにこの一族を侵食してはいたが、どうも勝手が違うようだった。
 敵。
 そうだ、敵なのだ。
 彼らは敵で、この男もサービスも俺の敵で、俺は彼らを破滅させるために
 最近の俺は、そのことにすら、ぼんやりとしてしまう。いけない。



「思えば……私と君との別れは、出会った時から始まっていたんだ」
 総帥は、そう、否定的に断定した。
 水平線のどこかで、船が汽笛を鳴らしていた。
 朝の気配に、世界中の人々が、目覚めて働きだしたのだと思う。
「……だが、君とサービスとの別れも……始まっているのだと思う。私には直感がある。君は、別れ続ける存在。永遠に誰かを失い続ける存在なのだと」
 俺を見つめる総帥の両瞳が、妖しく光った。彼は本気の時。こうなる。
「戯言だと思うかい」
 俺は、曖昧に首を振った。
 彼が戯言じゃないと断定すれば、それが本当になるのだ。実現してしまう。
「私は本当に欲しいものは手に入れることができない人間だけれど、君も失い続ける。そんな二人が肩寄せ合っているんだ。滑稽じゃないか」
 だから。そんな、否定的なことは言わないでほしい。
 言わないでほしいと思うけれど、彼は言うのだ。
 こんな彼を止めることのできる人間は、果たして存在するのだろうか。
 誰か。俺じゃない、誰か。
 彼を止めてあげて、ください。
「未来永劫まで続くのか、すぐ終わるのかはわからない。ただ……ただ、長い、長い間……私が何かを手に入れる度に、君は失い続ける。それが、別れだよ。ずっと続く、長い、別れなんだ」
 そう、言ってから。
 こんなに近くにいるのにね、と彼は付け加えた。
 俺は、この時まで、彼の言葉はちゃんと聞いていた。
 長い、別れ、と俺は口の中で言ってから、それから、遠くにいるサービスのことを考えた。
 俺は……酷い人間であるのだった。
 近くにいる彼には、またぼんやりしている、と思われていたことだろう。



 ――彼は。
 否定的なことは百ほども言う癖に、肝心なことは、何一つ言わないのだった。
 だから、否定的なことしか、実現しない。
 口に出せば、実現するという魔法の超能力。
 それを生まれながらに持ちあわせている、稀有な星に恵まれた人だというのに。
 否定的なことばかりを口に出し、それを実現させてばかりいる。そういうのって。ねえ、総帥。
 別れることばかり、実現させたがって。ねえ、総帥。
 第一、あなたは。
 俺のことをどう思っているのかということさえ、そんな根本的なことでさえ、明確にはっきりとは、口に出したこと、なかったですよね。
 俺に聞くばかりで。
 怖いのかと。俺は、威風堂々としたあなたに対して、そんな気持ちさえ、抱いてしまう。
 でもだからといって、俺はそこまでの深い想いを、あなたに感じた訳ではない。感銘は受けてはいないのだと思う。
 総帥の人生に、俺は、深く関わる資格がないのだと思う。
 そんな、感じない俺に。
 最後には必ず、それが義務だというように、あなたはセックスをするんだ。



 数年後に俺が死ななければ、こんな日々が多かれ少なかれ、ずっと続いていたのだろうと思う。
 そう、この彼の22歳の誕生日の翌日にも、朝陽を見た後、その場を立ち去って、やっぱり俺たちはセックスをした。
 他にやることが思いつかなかったからだ。
 俺は、彼のコートを羽織って、足にはスリッパを履いたままだった。
 毛玉のついたセーターより、悪い。



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 そしてその数年後だ。
 俺は四兄弟の次男ルーザーに、それはもうあっさりと殺されて、死体となった。
 赤の玉にその精神を回収されるまで、俺は、俺であった存在は、死体の側をぼんやりと漂っていた。
 この兄弟たちが俺の死に関して繰り広げた一部始終を、ひどく無感動に目撃することとなった。
 精神のみの存在とは、まったく曖昧で不可思議で馬鹿らしい空気みたいなもので、生ある時とは違って純化されて、それだけでは何も感じることはできないのだった。
 ただ、その時の俺は、肉体を持っていた最後の瞬間に感じた叫びを、刻印のように焼き付けていたことだけは覚えている。
 サービス。俺は、お前を守りたかっただけなのに。



 目を覚ました後のサービスが取り乱す様は、俺の予想を超える激しいもので、俺が側に行くと『ああ、来たの』なんてすましていた顔とは真逆の顔で、俺は無感動の内にも再び刻印が熱く燃え上がるのを感じていた。
 サービス。俺は、お前を守りたかっただけなのに。
 お前は、その綺麗な右眼を抉り取った。



 俺を殺し損ねた男、総帥は、俺の死体を冷たい瞳で一瞥した後、その場にいたルーザーを返し、目覚めたサービスを抱きしめて、その後いろいろな処理をした。
 俺の死体は運ばれて、俺の精神も何処かへと引き寄せられて、やがて何も解らなくなった。
 いつも何も解らないのは、俺に染み付いた出来事だから、それでいいのかもしれない。
 ブラックアウト。



 次に俺の意識が形をとったのは、赤の玉が傷ついた身体を取り戻し、修復させた時のことで、それまでは揺られて寂しい虚空を漂い続けている感覚だけが、俺のすべてだった。呉越同舟? 高松がそう言った。懐かしい揺らぎ。
 いや――それだけではない。
 俺を支えていたのは。
『サービス。俺は、お前を守りたかっただけなのに』
 その俺自身の思念による、刻印と。
 そしてあの命を落とした場所で、聞こえた二つの声。



『ジャン……ジャン……』
 泣かないで、サービス。
 いつか必ず、会うことができるから。
 半日の短い別れでも挨拶をくれるお前が、『さよなら』を言わない今この時こそが、お前との長い別れなんだね。
 俺がお前を愛しているように、お前も俺を愛していてくれたのに。
 それとも、別れるだけが、俺の人生だろうか?
 別れてから、いつも気付くのだろうか?
 すべてが否定的に実現してしまうのだろうか?



『……どうして私以外の者に殺された。たとえ世界を手に入れたって、こんな風に、私は君だけは手に入れることができないのだろうね。惨めだ……いつだって惨めで、滑稽だ。一族を守れば、君を失う。私が青の一族であり続けることは、赤である君と別れ続けることでしかない。そして今この瞬間。弟たちと私にとっても、長く続く別れの道が始まってしまったのだと。君の死によって。別れの交錯する場所、それが君なのか』
 あなたも、酷い人だ。







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