かざいき
台風が来るという。
出勤した時、研究室の窓を開けた時、そして本部を後にする時、つまり今。
キンタローは一人、風に吹かれてそう思った。
水分を含んだ空気が重い。生温かい。腕に抱えた書類が小さくはためく。
軽く残業するつもりが、随分と遅くなってしまった。
夜の闇がやけに沈んで見えた。
自宅に戻る。
玄関灯の鈍い光。白枠の弓形出窓から滲む、家庭の光。
一つの家に、一緒に住む人間を、家族、と呼ぶという。
キンタローは扉を開けた。居間ではその自分の家族たちが、ポーカーをやっているようだ。
三人分のカードが、擦れ合う音。紅茶のカップと皿が、触れ合う音。和やかだが軽く言い争う、聞き慣れた声。
週に一度は繰り広げられている光景だ。
ただいま戻りました、と挨拶をした自分に、お前も仲間に入らないかと、マジックが誘いかけてきた。
「申し訳ありません、伯父上。今回は遠慮させて下さい。これから部屋でやることがありますので」
残業した上に、今日は更に持ち帰りの仕事まである。
別に仕事量が多いという訳ではなく、単に自分が仕事自体に納得できないだけだ。今日は一人で本部に残った。完璧主義すぎるとよく言われるが、それが性分なのだから仕方がない。
そう、頑張って、と言うマジックの側で、高めの声があがる。
「あ。キンちゃ〜ん! 僕ねぇ、またケーキ焼いたんだよ! キンちゃんの分、残してあるから食べてよ〜」
グンマだ。きらきらと目を輝かせて、こちらを見つめてくる。
キンタローはその瞬間、マジックとシンタローが目を伏せたのを見逃さなかった。
ああ、今日もお前は料理をしたのか。
すなわち。
また……例の物体ができ上がったのか……。
「あのねえ、またねえ、おとーさまに教えて貰ってねえ、今日のは色んなもの入ってるの! スゴイんだっ!」
相変わらずの、うきうきした様子。
シンタローに最初に料理を教えたのはマジックだと聞くので、教え方に問題はないのだろうが。
しかしどうして、この材料からこの結果が生まれるのだというくらいに。
グンマの料理は凄い。凄いなんてものじゃない。
原因と結果に、因果関係が存在しない。
何か尋常ではない物質変化が起こっているのだと思う。化学変化どころかプラズマ現象まで起こっているのだと思う。
家庭のキッチンというのも、なかなか侮ることができないものだと、いつも自分は感心している。
グンマが、手に持っていたトランプを揃えて机に置き、立ち上がった。
かたん、と椅子がずれる。それを見て、その隣に座るシンタローが口を尖らせて言う。
「ナンだよ、グンマまで。俺、二人じゃつまんねーよ」
暗に目の前の『親父と』という意味が篭っているのがわかる。全身で不満ありありだ。
しかし対する相手は、超然としたもので。
「私も二人はつまらないな。だってシンちゃん、弱すぎるんだもの。顔に出すぎて。ポーカーフェイスって言葉知ってる? 私はキンタローと勝負したいよ」
「あァァん? 俺は弱くねェっての! 普通だよ普通! アンタが絶対変な、そうだ、その眼で何か透視とかして……」
「透視できるんなら、もっと楽しいことに使うよ。あーあ、シンちゃんは手加減すると怒るし、負かしても怒るし、パパは一体どうすればいいんだか」
両手を広げて溜息をつく、いつものオーバーアクション。
そして、この人の前では沸点の低すぎる、いつものシンタロー。
椅子から腰を浮かして、拳を握り締めている。
「ムッカつく! 大体遊びなんだから、誰も真剣にやらねーっての! 俺だって本気出せば、こんなんはなぁ、」
「うーん、本気ねえ。どうだろうねえ。シンちゃんはいつも口ばっかりだし」
「口ばっかって! 口ばっかって!」
「じゃあ、本気になれるように、賭けでもしようか」
「はあァ? そんなんしなくても、俺は今から……」
「何だ、シンちゃんは怖いのか……じゃあしょうがないね、無理だね」
「ンな訳ねーだろっ!!! バ、バババ、バカにすんな!!! クッソ、おーよし、やってやろうじゃねーかよっ!!!」
そのいつもの遣り取りを見ている自分の腕に、側に来たグンマが触れる。
髪の香りがした。ケーキを焼いたからだろうか、バニラビーンズの香りもするようだ。
長い金髪を結んだ、リボンが揺れていた。
「今日はね、自信作なんだ〜」
そのまま自分たちはキッチンに入った。
広いキッチンは静かだった。時々、窓の外で風音がするぐらいだ。
グンマは、いそいそと大きな冷蔵庫の中から皿を取り出している。
テーブルに右手を置いて、彼を待つ自分。
夕食は研究室で片手間に済ませてきたのだが、まだケーキぐらいなら――であればよいのだが――胃に入らないこともない。
実を言えば。グンマの作る『モノ』を、まともに食べることができるのは、家族の中では自分しかいないという事実が存在する。
キンタローは味というものに余り興味はない。食べ物は、口に入って栄養になればいいのだと思っている。
例えば朝にトーストとコーヒー、と決めている基準は、好みというより自分の生活規則に近い。
習慣を守ることが性に合って、心地よいというだけだ。本来、人間の食するものなど、大して違いはないはずだ。
何でも美味いと思えば美味いのだろうし、不味いと思えば不味いのだろう。
そんな人間だからか、後始末に都合がいいと思ってか、グンマは家族には不評だった『モノ』を、次々と自分に勧めてくる。
最近は開発への情熱を、料理にも向けているグンマだ。
物作り、という点では確かに同じだろうが。何か思う所でもあるのだろうか。
今も期待に満ちた大きな瞳で、見上げてくる彼。有無を言わさぬ、この笑顔。
「はい。キンちゃん、あーんして!」
フォークに突き刺された黒い物体が、すっと自分の顔の前に差し出される。
今回は焦げ臭さに加えて、何かが熟したような、発酵しているような、そんな臭いが鼻を掠める。
まずは、その原材料を知りたいと思ったが、後で叔父貴にでも聞けば済むことだろう。
「……」
キンタローは躊躇せずに口を開け、その『モノ』の欠片をくわえた。
含む。銀製のフォークが舌に触れて、硬さと冷たさと滑らかさを伝えてくる。
歯で噛むと、かつ、という音がして。
何故か、その先端を持ったグンマと、目が合う。見詰め合う。
しかし、口内の金属は、少し留まった後、柔らかいものを残し。すぐに、ぬるりと出て行ってしまう。
グンマは相変わらず、たった今引き抜いたフォークを握って、笑ったままだ。
いつもの光景。その笑顔を見ながら、自分はゆっくりと、咀嚼する。舌触りを確かめる。
そして飲み込む。
「……」
「どう? おいしい?」
自分はいつも同じ答えしかしないとわかっているだろうのに、この瞳。
「うまい」
そして同じ答えに、返される同じ反応。
「でしょ?」
こういう顔をされる度に自分は、何か更に言葉を重ねなければいけないような気持ちに囚われる。
しかし何も言えない。言えないから、ずっと黙っている。
自分に、最後まで料理を食べさせ終えたグンマが、嬉しそうに背を向けて、皿を洗い出すまで。
長い金髪の結び目から覗く、うなじの白さが目に痛い。水音に混じって、柔らかい声が、小さく歌を歌い出す。
これも、いつもと同じ歌。子守唄なのだそうだ。
昔、高松が教えてくれたのだと、以前尋ねた時に言っていた。
高松が。
そうグンマが発音する度、彼は自分の知らない表情をする。
何度も見ているはずなのに、どうしてか常に、自分に『知らない』と思わせるその表情。
昔のことを自分が何の気なしに聞く度に、必ず目にさせられる表情。
グンマの全てには高松が関わっていて、しかし自分にとっても高松は恩人であって。
結局は二人共、彼とは等しく縁が深いと、そんな単純な構図にあるはずなのに。
何故かそれを、よく整理できない関係だと、自分は感じることがある。
整理できないという現象には、いらだちを覚えることも、ままあるが、最近ではそれもいいのだろうと思い始めている。
そういう世の中を自分に教えてくれたのは、このグンマと高松で。
だから、それもいいのだろう。
「高松は、ね」
洗い物が終わるまでの時間、背後で待っている自分に、彼は必ず話しかけてくる。
その顔は見えないが、またあの表情をしているに違いない。
「高松はね、ああ見えて意外と甘いモノ、好きなんだぁ」
「ああ」
知っている、とは、あえてはっきり言わない。
自分だって、彼の基本的な好みくらいは把握しているし。
それにグンマだって、数え切れないぐらい、同じ内容の話をしていることには気付いているのだろう。
でも同じ話をする。きっと、したくてたまらないから、する。
ざあざあと水を流す音。
「僕、料理ヘタだけど、でも練習してるから、ちょっとは上手くなってきてるはずだよね」
ねーえ、キンちゃん。
今日のだって、前のよりも美味しかったでしょ?
そう聞かれるから、自分もまた、そうだな、と。
へへー、と嬉しげな反応。
「いつか高松をびっくりさせてあげるんだ!」
その言葉と同時に、蛇口の閉まる音がして、洗い物が終わった。
仕上げに銀色のシンクに飛んだ雫を拭く、細い手。
こういう作業は、きっちりと、やることができるのに。窓の向こうでは、また小さく風の鳴る音がしていた。
さあてと、と呟く小さな声。
部屋に戻るために歩き出す、側の小さな足音。風音に合わせて踊るような、不思議な足音。
キンタローも彼に続いて、キッチンを出る。
グンマの他愛もない話に、相槌を打ちながら、心の中では別のことを考える。
そうだな。俺はどんなものを出されても、食べることができるから、料理なんてどうでもいいのだが。
料理の腕が上達するとお前が嬉しいのなら、そうなるといいな。
今は離れている高松と、次、会った時の、ためにな。
そして自分たちは、もう誰もいない居間を通り、廊下を歩き、グンマの部屋の扉前で別れる。
「キンちゃん、お休みなさーい!」
寝る前に、絶対に彼は、手をブンブンと振る。
子供のような。悩みなど、ひとかけらもないような、澄んだ笑顔。
廊下の薄明かりの下で、柔らかい輝きの色をした髪の先が、消えた後。
キンタローはいつも通り廊下を少し歩いて、自室に辿り付いた。
扉を開ける。後手に閉める。
ざわざわと、ここでも遠い風の音。
「……」
誰もいない部屋。
溜息を一つ、つくと。
彼は、こうしてまた、持ち帰った研究の続きを始める。
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翌日も開発課の仕事を終えて外を仰ぐと、昨日よりも頬に触れる風は、じとりとしていた。
そして強い。
朝方から降り出した雨は、本館へと続く、長い渡り廊下を湿らせていた。
「もうすぐ暴風域に入るんだって!」
側でグンマが、かたんかたんと小さくタップを踏みながら言った。
石畳に軽い靴音。
グンマは自分の隣を歩いているだけであるのだが、この従兄弟の歩き方は、どうしてか、とても嬉しそうに見えると、キンタローは考える。
いつの頃であったか。お前は踊っているような歩き方をするな、と言ったら、不満そうな顔をされた。
『どうせ僕の歩くのは、遅いよ!』
自分たち二人が肩を並べて歩く時には、その歩幅や速度が違うので、自分はしばらく歩いては止まり、歩いては止まりを繰り返す。
そうやって自分が待つことでバランスを取っているつもりなのだが、それがグンマには気に入らないらしい。
どうせ一緒に歩いてくれるなら、合わせてゆっくり歩いて欲しいそうだ。
僕、キンちゃんに待たれるの、ヤなんだぁ。だってさぁ、外から見てる分にも、まるで僕が遅いみたいに見えるじゃない。
キンちゃんが速過ぎるだけなのに!
僕、いっつもいっつも追いつかなきゃって、気になって気になって、のんびり歩けないよ!
もっと咲いてるお花とか、空の色とか、たくさんの人たちとか、見ながら楽しく歩こうよ!
しかし自分としてはこの歩行速度が合っていると思うので、変えたくはない。
バランス。俺のやり方を変えないままで、バランス。
とても難しい。
暖められた海の水蒸気が、台風の元であるという。
遥か遠い、南の国から、それは来る。
下がった気圧が、肌を締め付けてくる。
溜息まで地面に落ちていくような、この空気と体の重さ。
司令部のある本部本館前でシンタローと合流し、軍用車で自宅に向かう。
前庭の木々は暗さの中でざわめき、揺れ、ぼんやりとテールランプに照らされている。
食事は三人共すでに済ましている。残業という程ではないが、今日は各々、手持ちの仕事が多かったようだ。
一端自室に戻ったが、誰とも無しに居間に集まり、湯を沸かしてお茶を飲む。
そういえばマジック伯父上は、何やら講演会があると仰って、今朝は早くから出かけられたままだったか、とキンタローは考えた。
キンタローとしては、集団心理現象に関心があるので、いつかその講演会やら祭典とやらに、見学に行ってみたいと思う程である。
組織の一端を預かる者として、人心の掌握術は学んでおくべきものだと思う。
やり方はどうあれ、彼はその道の先達者であるのだから。
しかし、それを口に出すとシンタローの機嫌が悪くなるので、グンマでさえ彼の前では話題にしない。
そのかわり、最近の話題といえば。
「ねぇねぇ、シンちゃん、僕、紅茶入れるの上手くなったよね?」
「まあ……ナ、最初よりは……うん、最初よりはな……」
微妙な表情をしているシンタロー。満面の笑みを浮かべているグンマ。
現在の家族が一緒に暮らし始めた時、グンマは何もできなかった。
特に家事。料理。
興味を持ち出したからといって、急に上手くなる訳でもなかろうが。
とにかく、ここ最近のグンマは、マジックやシンタローに習っては、見たこともないような物体を生産し続けている。
最初に自分が彼の料理に出会った時は、キンタローは自分の知識が足りないから、それを見たことがないのだと考えた。
これは新たなデータとして加えなければ、と身構えた。
しかし違うらしい。
この世に住む人間は、とりあえず見たことがないらしい。
グンマにしか、それは作れないらしい。それはそれで凄いことだと思うのだが。
そう言うと、グンマはムッとし、他の家族二人は無言だった。
それ以来、自分は大人しくそれを食べて、一言褒めておくだけに徹している。
今も率先して、葉をばさばさとポットに入れていたグンマ。
その彼の入れた紅茶に対して自分はまた『うまい』と言った。
しかし一般的に言えば、これはどういう味なのか、表現には自信がない。
微かに刺激臭がするようだが、気のせいか。
今日は自分も一緒にポーカーを、と言うと、シンタローが、しばらくそれだけは絶対に嫌だと言い張るので、ルードでもしようかということになる。
日本にも似た遊びがあるようで。
ルードの色んな規則を無くして単純化すると、日本語で『スゴロク』というものになるらしい。
似たって言いますか、ね。
まあ英語から無理矢理に訳しようとすると、そうなるっていうことでして。
また大して必要性のない知識、教えちゃいましたね。
そう自分に言ったのは、やはり高松だ。
僕ねえ、小さい頃から高松と一緒にやってたんだ! と嬉しそうなグンマまで過去の声に加わってきて。
今日も目の前のグンマは嬉しそうに、いそいそとキャビネットから盤面を取り出してくる。
こういう運が強く関係するゲームは、実はグンマは強い。逆にシンタローは弱いので、グンマは彼を負かすことにも一生懸命なようだ。
「僕、このアヒルの駒でいい?」
そんなことにこだわるのも、いつものことで。
「シンちゃんは猫ね! キンちゃんはプーさんね! サイコロは僕からね!」
「何だよ、グンマ、勝手に決めんじゃねーよ……って、別にこだわりはないけどよ……」
かたかたと窓枠が揺れている。
強まった雨風が、透明なガラスに銀色の線を描いていて。
叩きつけるような荒々しい音と、遠くで鳴るような緩い音。
音は交じり合って、乱れて、三人のいる空間をかたちどる。
しばらく三人でルードに興じた後、忘れてた! とグンマが口に手を当てて、言った。
アヒルの駒が数個、テーブルに落ちる。
この家の地下にはワインを貯蔵するカーヴがあるのだが、その空調調節をマジックに頼まれていたのだという。
さっき、おとーさまから携帯に連絡があって。
台風が来るから、湿度とか温度とか気圧とか、やっぱり地下でも微妙に狂っちゃうから。
ワインの味、変化しちゃうんだって。だからグンちゃん、お願い、調節しといてって。
「何だよアイツ。そんなの、自分が出かける前にやっとけばいいのに。そろそろボケかよ」
んじゃ、とりあえずこの回は切り上げよーぜ、と言うシンタローを、グンマはきっと睨む。
「も〜シンちゃん、負けてるからって〜」
「そんなんじゃねーよ! 早く地下行って来いよ!」
ムキになる所が、自分から見ても怪しい。
ふくれっ面のグンマをなだめているシンタロー。
これも高松に聞いたのだが、彼ら二人の少年時代には、これがお決まりのパターンだったらしい。
自分は、あまりよくは知らない。知らないから、そういうものか、と納得して、二人の仲の良さを見つめるだけだ。
慌てたような言葉。
ホラホラ、グンマ。どーせ地下降りてくるなら、良さそうなの見繕って、取ってこいよ。
俺はその間、コタローの様子見てくるから。
そしたら、久々にワインでも一緒に飲もうぜ! 台風の中で飲むってのも、いーよなっ!
「ふーんだ。いいよー……そだね。コタローちゃん、夢の中で台風の音に、びっくりしてなきゃいいなぁ……シンちゃん、側に行ってあげてね」
四人家族は、もう一人眠ったままの家族を待っている。
その子が目覚めた時、自分たちは本当の家族になることができるのだと、グンマは言っていた。
普通に生まれながら……自分と同じ、家族というものを知らない……子供。
「でも僕、暗いのコワいんだ……夜に地下室って、ヤだな……お化け出そう。キンちゃん、ついてきてよ〜」
何とはなしに、ルードの駒を弄んでいた自分を。
グンマの青い大きな瞳が、見つめてきた。
窓の外では、雨風が激しさを増している。
ワインカーヴに行くには、正面玄関階段裏の廊下を、突き当たりまで真っ直ぐ歩く。
その壁の小さなアーチを潜り、地下に下り、続く石階段を更に下りる。
長いその先の、一番奥。
重厚なオーク材の黒扉の向こうに、それはある。
貯蔵庫内は常に温度13℃、湿度70%に保たれているというのだが、台風のような熱帯低気圧の勢力圏内に入ると、また微妙な調整が必要らしい。
天然石を掘り抜いたこの空間は、ひんやりとしていて、とても静かだ。
一族が受け継いでいるものの一つが、この年代物のカーヴだという。
ワイン自体も、希少価値の高い年代物が、所狭しと眠っていると。
現存する一族の中で、最もワインに凝っているのはサービス叔父とのことだが。
たまにこの家に立ち寄る彼は、必ず地下に足を向けているようだ。
しかし、俺の知識は。
やはり人から聞いた話ばかりだ、とキンタローは思った。
ある意味、一番新しい一族である自分。
知らないことばかりで、慣れないことばかりで、かなり戸惑うことがある。
耳で聞いた話を、実感として掴んでいく作業を、今の自分はしている。
「キンちゃん、僕、調整してくるから、この石段の所で待ってて。すぐ終わるからっ!」
「別に急がなくてもいいがな」
腕を組み、扉の向こうに消えた彼を待つ。
壁に凭れたついでに、足元を見やる。古びた石段は、その一段一段が高くて幅がある。
気をつけて昇り降りしなければ、グンマなら転んでしまうかもしれないな。
20cmはあるだろうか。俺とあいつの身長差ぐらいだ。
ぱたぱた、とまた軽い靴音がして、グンマが扉を開けてカーヴから出てくる。
「終わったよっ、キンちゃん! えっとね、前にシンちゃんが気に入ったって言ってた瓶、持ってきた」
えへへ、と琥珀色のワイン瓶を腕に抱える様子が、危なっかしい。
明日もみんなお仕事だから。二本ぐらいでいいでしょ。
僕はお付き合いした後、ジュースも飲むから。
「俺が持つ。先に階段を上れ」
受け取った黄ラベルは、シャトーフィッセ。この白の淡い酸味は、南国の果物の味がすると、シンタローは言っていた。
……あの島の。
「雨とか風、これからまたスゴくなるのかな〜。おとーさま、今日家に帰れるのかなぁ? ここはこんなに静かなのにね!」
ひたひたと階段を上りながら、グンマの背中が言う。
「地下だからな」
壁に声が跳ねて、消える。
面白くもない答えしか、自分は返すことができない。
つまらない男だな、俺は。目の前の背中を見つめながら、ひたすら足を動かすだけだ。
階段は長く続くようでいて、すぐに終わるものだ。
地上に近付くにつれ、時々きらめく閃光。
視界の中のグンマの身体を、それが、どこかはかないものに映し出す。
一瞬で光り、一瞬で消える。その切り裂くような、刹那的映像。
二人の先にある、地上から漏れてくるものは、白い光のみで風の音は聞こえない。
聞こえないが。
風は。
吹いているはずだ。
階段を上りきれば。
あと少しで、風の音が聞こえるはずだ。
一歩前を行くグンマが、最後の一段に足をかけた。
その瞬間。
やわらかく触れてくるもの。
自分は身動きせずに、止まっていたと思う。
階段一段分だけ上の、同じ高さから伸びてきた腕が、キンタローの動かない体を引き寄せる。
力ははかないのに、自分を拘束する腕。
やわらかいもの。
乾いた唇の狭間に、ゆるりと濡れた舌が忍び込む。
浸していく。
ことん、と自分がワイン瓶を下に置く音がした。
自分と彼の、互いに頬にかかる息が、強くなって、弱くなって、消えて霞んでもうよくわからなくなる。
狭い空間に、息と舌の絡み合う音が、ただ響く。
ずれたバランス。
俺とお前の息は、ずれて乱れて交じり合う。
また、お前は、俺がゆっくり合わせてくれないと、怒っているのだろうか。
きつく目を閉じている。
――また、と言えば。
また俺は高松の代わりなのだろうか。
こいつは、高松ともこういうことをしていたのだろうか。
そんな考えが頭を掠めたが、初めて口付けた時の物慣れない様子を思うと、違うのだろうかとも思う。
しかし思い起こせば、自分だって彼とが初めてなのだから。
相手が本当に慣れていなかったのかにさえ、自信がない。
俺には……実感のない、知識だけしかないから。
考えると気分が滅入ってくるので、堂々巡りを頭の中から追い出した。
代わりに上唇を噛んでやると、お返しとばかりに舌先を噛まれた。
痛い。
しかしすぐに、それは他の感覚へと溶け込み、消えていく。
「……っ……ふ」
グンマの風の息を頬に感じる。
キスというのは、息継ぎが難しい。
自分たちは、上手く鼻で息ができない。
多分、二人共、未熟すぎるのだ。
すぐに息が苦しくなる。
だから、時々キンタローが唇を浮かすと、相手の声が漏れる。
声が漏れる度に、絡めた舌が軽くほどけて、ぴちゃりと水音を立てる。
それを合図に、また自分は深く侵入する。
体の芯が、じんと痺れる。
背中に感じる、しがみつく腕。
唇や舌、のような、小さな部分で、自分たちはつながっている。
全ての感覚は、そこから生まれている。
おかしいな。
キンタローは意識の底で思う。
舌というのは、食物の味を感じる器官であるはずなのに。
その舌自体が甘いというのは、どういうことだ。
グンマは甘いものばかり食べるから。
だから、こういう甘い舌になるのだろうか。
台風の後には雨が来るから、空気は湿ってひどく重い。
この場所は、石階段の上、地上と地下の境目だから。
地上の音と地下の音が、同時に聞こえるはずなのに。
地下の、吸い込まれるような静けさの音ばかりが、木霊する。
地上の風の代わりに、俺たち二人の、熱い息。
「ん……――ぁ……」
お前の小さな喘ぎ。
肌に、じとりとした熱を感じる。
キラッと光が二人の間を通り抜ける。
モノクロでグンマの顔が闇に浮かび、そして消えて、ただの柔らかい物体に戻る。
ぎゅっと瞑った目と、長い睫毛の稜線と、額に浮かぶ玉の汗。
それと。白い顔をしていた。
お前の舌は甘いけど。
お前の妙な料理ばかり食べさせられる、俺の舌はどんな味になっているのだろうか。
人に顔を背けさせる味か?
教えられても、教えられても、なかなか上達しない、呆れた味か?
……きっと、そんなお前の味だ。
生温かい。お前と俺の息が混じって、生温かい。
風が、まるで息をするように不規則に揺らめく様子を、かざいき、というのだと自分は高松に習った。
いいさ、また高松でもいいさ。
教えられた新しい言葉を、今、自分はこんな場面で実感として身に付ける。
それもまた、おかしなことだと感じた。
グンマ、俺は本当に慣れてはいないんだよ。
お前はどうか知らないが。
俺は、お前が初めてだから。
だから、息の仕方さえ、わからなくて不安になる。
だから、いつ、口付けをやめればいいのかも、わからない。
大きく風が吹いたのだろうか、地上が揺れた瞬間。
軽く唇が離れたので。
キンタローはふと呟いた。
「甘い」
すると闇の中で、固く閉じられていた金色の睫毛が開いて、潤んだ瞳が自分を見上げる。
「甘……」
二度目に言おうとした同じ言葉は、また相手の繰り返す息に遮られる。
冷たい空間で、細い腕と熱い息が、身体を締め付けてくる。
俺は締め付けられるだけは嫌だから、抱き締め返すと、相手もまた同じことをしてくるから、この時間はなかなか終わらない。
終わらせることができない。
地上は風が吹きすさぶ場所で。
地下は風が起こる前の、静寂の場所で。
だとすれば、その狭間の世界は、新しく風が生まれる場所なのだろうか。
「んぅ……」
グンマの鼻にかかった声。
自分の身体は唇と同じように火照り、肌に汗がにじんでいる。
相手の身体も、その肌は同じ温度をしているだろうか。
その首筋に手を伸ばすと、人差し指と中指の先が湿った。
汗。
水。
俺たちの、その一滴が蒸発して。
こうして、息を早く遅く重ね合えば。
いつか風を巻き起こす台風になる。
大きな嵐が来る前の。俺とお前の、ささやかな、かざいき。
グンマとのこの口付けには、高松は関係していなければいいなと思う。
教えられる、ということではなくて。
二人でゼロから生み出した、この世に最初に生まれたものであればいいのにと思う。
いつか、聞いてみたい。
目の前の長い睫毛をした、熱い息をする、この人に聞いてみたい。
絶対に笑われるだろうけれども。
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「カーヴの調整なんて頼んでないよ」
翌朝。テラスからは、晴れやかな光が差し込んでいた。
不思議そうな顔に見下ろされる。
「大体そんなの、私が忘れるはずない」
万が一忘れたとしても。人には向き不向きがあるから、調整はグンちゃんに頼まないね。
普通に考えれば、わかることだろう?
いつの間にか戻って来ていたマジックに、そうあっさりと言われて。
キンタローは再び、それもいいのだろう、と思った。
何事もなかったかのように、昨日の三人で飲んだワインはうまかったから。
だから、まあ、いい。それもいいのだろう。
そう一人考えていると。
「ああ、そういえばキンタロー、グンマに何か言ったかい?」
逆にマジックにこう尋ねられた。自分は首を傾げる。
「何か、とは。特に覚えがありませんが」
「そう? 喜んでたから。お前が『うまい』以外のことを言ったって」
「はあ……」
「いつもさ、お前が何を食べても飲んでも同じことしか言わないから、それが悔しいって、あの子は頑張ってるんだよ」
いいね、仲良しで。
そう肩を叩かれて、相手が去ってしまっても、自分は立ち尽くして窓の外を見ていた。
昨日までの風は去り、明るい日差しが朝を包み込んでいる。チチチ……という鳥のさえずりが聞こえる。
このような瞬間を、台風一過、と表現するらしい。
風は何処へ行ったのか。
手に入らないかと思えば、そこにある。そこにあるかと思えば、するりと消えてしまう。
しかしいつも、風の音と、踊るようなタップの音は耳に聞こえている。
そして舌に残る、甘い味。
「キンちゃーんっ!! 何ぼんやりしてるのー? 仕事行こーよーっ! 遅れちゃうよ〜」
玄関口から自分を呼ぶ声。
わかったわかった、と返事をしながら、キンタローは考える。
わかったよ。
本格的な嵐の前は、とりあえず、俺たちはこれでいい。
そうだな。
お前の風の吹くままに。