赤いキス

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「やっぱりシンちゃん、何が残念かって、さすがの私たちにも出会った頃の初々しさはなくなったっていうことだよ」
「俺は残念でもなければ、出会った頃を覚えてもいないことに早く気付け、親父」
「28年も経てば仕方ないのかなあ。6年前の痴話喧嘩や5年前の倦怠期に、お前が秘石を盗って家出したのは刺激的だったけど」
「勝手に俺の人生の捏造解釈をするな」
「永遠の愛ってのも罪だよね……」
「よく朝っぱらから永遠と愛と罪とを語れるな、どうでもいいから道を開けろ、俺には仕事があんだよ」
「だってシンちゃんたら、いつも忙しい、忙しいで、朝と夜しかパパ、一緒にいられないんだもん」
「だもんとか言うな。つーかここまでついてくるな。あんまりしつこいと俺はまた遠征行くぞ」
 出勤間近の総帥シンタローは地団太を踏んだ。
 ああッ……! とにかく! 塞ぐな、道を!
 始終ベタベタしてくんな! そしてたまには一人にしてくれ!
 時は朝。場所は自宅、玄関ホール。
 そして多忙な自分の邪魔をしてくるのは勿論一人しかいない。
 目の前の玄関扉に凭れている男は、薄く笑って自分を見つめている。
 片手で脇に飾られている大輪の花をいじっていたりして。
 いつも通り超然として見下ろしてくる青い瞳。
 そこに浮かぶ余裕の色に、また腹が立つ。
 今、マジックはシンタローの言葉に反応し、わざとらしく眉をひそめて表情を変えた。
「もう、またそんなこと言ってパパを脅かそうとするんだから……今は軍に遠隔地契約は入ってないってこと、知ってるよ! ちなみに今もあと3分半は時間に余裕があるってことも、ちゃあんと知ってます」
「……クッソ、もっと世のため人のために使えよ、アンタのその余力」
 総帥の座を譲って引退したマジックは、新たにできた暇を自分から見ればおかしなことばかりに使っている。
 全精力をかけて自分に構ってくるのもそうだが、恥ずかしいことに公の場に進出し始めたのもそうで。
 何だ、あの世界大会は。何だ、あの自叙伝は。何だ、あのメディア進出はっ!
 加えて総帥権移譲とはいえ、相変わらず特に内政や管理面に関しては、彼は隠然たる権力を持ち続けている。
 特に自分が留守の遠征中は、中央司令部のある本部は彼の独裁状態だったし、そうでなくても組織管理権限を握っているので内情は筒抜けだ。
 シンタローにすれば、やることなすことをすべて把握されているこの状態が、まるで自分が頼りないと言われているようで嫌だった。
 ……俺は、まだこの人に認められてはいない。
 だから一人立ちしたくて、何かと理由をつけて、彼のいる本部を離れて遠征に出てしまうことが多い。
 それはある意味、逃げていることなのかもしれなかったが、今のシンタローにとっては必要なことだった。
 この人の近くには、いたくなかった。



 そんな自分の気持ちも知らず、マジックは溜息をついている。
「もう。パパが忙しくなくなったと思ったら、今度はシンちゃんが入れ代わりで忙しくなっちゃって。いつになったら私たちは一緒にいられるんだろうね?」
「悪かったな。つーかいいの! 一緒にいなくたっていーの!」
「パパはとっても悩んでいるのに。お前は自分が忙しいばっかりで、二人の愛については無関心なんだね。悲しいな」
 ……忙しい。
 確かに今の自分は、忙しい。
 強大な軍を統括し、しかもその改革を行っている、この身。
 毎日が多事多端、天手古舞いで暗中模索。
 目の前のことを処理するだけで精一杯だ。
 しかし自分にその任を託したマジックだって、今の自分と同じくらいに忙しかったはずだ。
 だが過去を思い起こせば、背負っている重さに対して、そこまで彼が多忙であった印象はない。
 息子である自分のために、時間を最大限に割いていたということは知ってはいたが。
 本当の所は、特に自分には決して見せない人だからであるのかもしれないが。
 全体的に彼には余裕が漂っていた。
 だからシンタローは、自分の状態を『忙しい』とマジックに形容されると、本人にはその気はなくても上から見下ろされているようで、未熟さが露になるようで、切ない気持ちになるのだ。
「いいじゃない、一緒にいてくれたって。もうパパの気持ちはね、シ・ン・ちゃん、一晩中でもずっと♪ お前の耳たぶ舐めてあげたいのに……ああ」
「頼むから歌い出すな……って、そのおぞましい歌詞は、俺には悪魔の歌にしか思えん」
「シ・ン・ちゃん、パパのこと助けてよ、それができるのはお前しかいない♪」
「なあ……アンタ、その歌をファンクラブ限定だけじゃなくて全世界CD発売するっていう不吉な噂を聞いたが、俺の空耳だよな? そんなことになったら俺はシンタローの憂鬱どころか躁鬱状態で、日本支部の塔の上から飛び降りることになるんだが……」
 シンタローはムッとしてマジックを睨んだ。
 おや、と砂浜で光る何かを見つけたような、妙に嬉しそうな相手の目。
 そういえば彼は自分のこの反抗する様子が楽しいのだという。
 ますます気に入らない。
「……それに、そういうのをフザけて言うこと自体が信じられねェ。アンタは言葉が軽い」
「それは心外だな。言葉だって愛だって、こんなに重いのに」
「見えないモンの重さが量れるか、バカ……そろそろ3分半だろ、早くそこをどけ」
 やれやれ、仕方ないね、と金髪を揺らして彼は言う。
 つれないんだから。
 そうしたら話は帰ってきてからだね。
 パパはこれでも結構深刻に悩んでいるんだよ?
 お前と私の愛についてね。
 でも、お仕事なら仕方ない。
 それじゃあね。シンちゃん。お仕事頑張ってね。
「さあ、情熱的にパパといってらっしゃいのキスを……」
 ガシャーン! と響き渡る盛大な音。
 シンタローは玄関ドア脇の、ステンドグラスの大窓を割って、外に出た。



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 そして仕事から帰ってきたら帰ってきたで。
 やっぱりまた玄関ホールから、マジックが待ち構えていた。
 今日は特にしつこい。
「お帰りなさい、シンちゃん」
「……ただいま……って」
 歩く自分にぴったり寄り添ってくる。
 さりげなく肩を抱かれ髪をいじられる。
 シンタローが身を捩って避けても、意に介さないで我が道を行く男。
 あのね、と話しかけてくる声。
 聞いてよ、シンちゃん。
 今日パパは二人の愛について真剣に悩んで、ついにあの出会った頃の、初々しさを取り戻す方法を編み出したよ。
 名付けて『愛のプレイバック革命〜あの頃の君へ〜』大作戦さ!
「微妙に笑えねーよ。ていうか。俺は疲れてるの! 早く寝たいの!」
 頑張って早足で、自室へと向かうシンタローである。
 広い家の長い廊下が恨めしい。
「わかってるよ。帰ってきたらいつもそれだから。シンちゃん、寝室に行く以外は何もしたくないんでしょ?」
 ふふ、と耳元で笑う声。
 パパはそんな所まで計算に入れて、準備万端さ。
 抜かりはないよ。
「だからそんなシンちゃんのために、寝室への道にちょっとした仕掛けを施してみたよ! 頑張ってクリアしてね!」
「マジかよ……さも気遣いしてるようで、実は一番面倒で大掛かりに嫌なコトするよな、アンタ……」



 シンタローが廊下の角を曲がると。
 そこには何故か扉があった。
 朝までは、ここに廊下が続いていたはずだ。
「……なんでこんなトコにドアが新しくできてんだよ」
「だから、仕掛けを作ったんだって」
 あはは、と笑っているマジック。
「シンちゃんが寝室に行こうと思ったら、この扉をどんどん開けて行かなきゃダメです」
「どんどんって! まさかいくつもあるのかよ! 何時の間に家改造してんだよ! befor/afterしすぎだよ!」
 チッ。本当におかしなコトしか、しやがらねえ。
 舌打ちしたシンタローは、金色のノブを握り、思い切って目の前の扉を勢い良く開ける。
 視界に飛び込んできたのは、白い部屋。
 制御された穏やかな明かり。立ち込める消毒薬の臭い。
 ……病院?
「はい。ここがね」
 ぱんぱん、と手を叩きながら説明をし出すマジック。
「この部屋が、パパとシンちゃんが初めて出会った場所だよ」
「新生児室かよ! 何が出会った頃の初々しさだよ! 初々しすぎんだよアホ親父!」
「だから愛のプレイバック革命なんだってば。お前と私の愛の軌跡を、一緒に再体験していくのが目的さ。そうやってあの頃の気持ちを思い出して欲しいんだ。それには出会いははずせないでしょ? もっともこの時はお前は言葉が喋れなかったけれど」
「新生児が喋れたら気味が悪いって! 思い出す思い出もないわい! つーかその困った思考法を改善してくれ! 頼むから!」
「はいはい、わかったから。さてと、シンちゃん、そこに仰向けに寝転んで。それでパパが見つめたら、にこっと笑ってね」
 そこ、とマジックが指差したのは、部屋の中央、ガラス窓の中の白いベビーベッド。
「……」
 シンタローは無言で、次の扉を開けた。



 次の扉の先には、見慣れた家屋が広がっていた。
 優しい香りがする。
 ――日本、か。
 そう呟いて、シンタローは思わず足を止めて立ち尽くした。
 シンタローはその幼い頃を日本で過ごした。
 彼が一時期念じていた『日本に帰りたい』という想いは、この部屋に対するものだった。
 ……弟、コタローがその監禁の初期段階で、住んでいた場所でもある。
 普段は意識に上らない、心の奥底に仕舞い込まれた、しかし自分の根源が存在する場所。
 窓にかかる淡い色のカーテン。机の上の古い砂時計。白い花の絵。
 大好きだった懐かしい風景。
 例え擬似とはいえ、蘇るものはある。
 シンタローはマジックの妙な演出に腹を立てながらも、どこか胸の奥が複雑に痛む気持ちを抑えることができなかった。
 郷愁と切なさ、遠い思い出。
 幼い頃の自分にとっては、この部屋の世界がすべてだった。
 いつもここで笑って、泣いて、成長した。 
 そして待っていた。
 共に暮らし、自分を置いて戦場へと向かった人が帰ってくるのを。
 彼が自分にとって、ただ一人の人だった。
「……」
 正直言って、この風景だけで心が揺れた。
 そんな単純な自分を馬鹿だと思ったが、切なさで指が震えた。
 連日の激務で心が弱くなっているのか、じわりと涙腺まで緩みかけた。
 そんな彼の罠に嵌りかけたのに。
 一瞬、わかっていながら嵌ってもいいかとまで思いかけたのに。
「はい、シンちゃん。これ台本ね!」
 うきうきした様子の当の男が、立ち尽くす自分に、やけに分厚い本を手渡してくる。
「……あんだよ、これ」
「だから台本。シーン2だから12ページ目を開いて。卓袱台でおりこうさんにパパの作るカレーを待ってるシンちゃんの場面からだよ! お前の台詞はね、」
「なんでしつこく再現劇やらなきゃいけないんだよ! むしろ今のアンタの行動はあっさり成就しかけたものを、ぶち壊しにしたんだが、いつも通りに気付いてないんだろうな……そーいうのは鈍いよな……」
「ん? とにかくやろうよ! この台本書くのにパパは相当頑張ったね。撮りためたお前のビデオ、全部見直したよ。ちょっと辻褄の合わない所は直しておいたよ」
「どんな辻褄だよ! ……絶対コレ、都合よく修正された俺が書かれてるような気がする……もーいい! 次行くぞ! 次!」
「おや? シンちゃん、ちょっとやる気だね! まあパパは次の部屋もお気に入りだから先に進んでもいいか」
「俺は早く寝室に辿り付きたいんだよ!」



 そして三番目の扉を開けると。室内なのに。夜なのに。
 そこにはぱあっと明るい太陽の光と緑の草原が広がっていた。
「……俺にはアンタが何をやりたいかがわかってしまうことが辛い……」
 きっとハリウッド仕様の特殊効果を無駄に使った、完璧な再現。
 幼い頃の自分とこの男が駆けた、あの野原。
 青草と土の香りまでして。何処からか、さわさわと風の音がする。
「この頃のシンちゃんは本当に素直で可愛くってねえ……はい。台本の25ページを開いて。シンちゃんが走って、私がそれを追いかける所からシーンは始まるよ!」
「何ページあるんだよ、この台本! しかもやけに小説調! まさか『秘石と私』の次は、これを出版する気じゃなかろうな親父……」
「ああ、映画化の話も来てるんだけど、ちょっと迷ってる」
「なにぃぃィぃぃいいイイっっっッッツ!!!」
「ホラ、シンちゃん、ちゃんと読んで! 『パパ! パパー! こっちだヨ、こっち!』って言って! そしたらパパがね、『ははは、シンちゃんは速いなー』って超笑顔で言って追いかけるから!」
「……俺は落とし穴だけは仕掛けるから、今度はちゃんと最後まで落ちろよ……」
「最後の決め台詞だけは忘れちゃダメだよ? とっても嬉しそうに『パパ、大好」
 ゴォォォォン!
 壮絶な音と共に、シンタローの右手から眼魔砲。
 マジックの足元の床に大穴が開く。
「は」
 彼は約25年前と同じく、ズボッと穴に落ちた。
「おおっ! ……シンちゃん! 早く! 早く、『やーい、ひっかかった、ひっかかった』って悪戯っぽく小首をかしげて言って! これはタイミングが重要!」
「そのまま永久に埋まってろ! 俺は先を急ぐ。眠いんだよ!」
 シンタローは、自分を楽しそうに穴から見上げるマジックを一瞥すると、さっさと次の扉を開けた。
 まったく、付き合ってられるか!
 それでも追いかけてくる声。
「シンちゃん、決め台詞を……」
 シンタローは背後を振り向かず、もう一度後ろ手で眼魔砲をお見舞いした。
 部屋全部が破壊されたはずだ。
 何が、昔は素直で可愛かった、だぁ?
 ……いい加減にあきらめろよ、バカ!



 次の扉を開けたシンタローの前に広がった光景は、懐かしの士官学校の校庭とバルコニーだった。
「……これは……」
「今度は士官学校入学式と卒業式を、一緒に再体験したいと思って」
「何事もなかったかのように側にいるなよ……つうかさっきもだけど、室内でどうしてこんな外空間を完全再現できンだよ……金いくらかけてんだ……」
「御心配なく。パパ、スイス銀行に洗浄済みの隠し財産たくさんあるから。軍経費は使ってないよ」
「アンタって、結局俺に全部の権限移譲してないよな」
「ほら、見て! 桜もちゃんと咲いてるよ。この幹の裏側のボタンを押すと、綺麗に散るんだ。これはグンちゃんに開発してもらっちゃった。どうやら花びらの中に一枚だけ、アヒルのマークが入ってるんだって。当たりの印が」
「……俺はその無駄なことに情熱を傾ける、青の一族を変革したい……」
「それじゃそれでいいから。とにかく台本読んでよ! 最初に入学式ね。パパがまずバルコニーから訓示をするから……」
「というか、一番アンタがすべてを体現してんだよな、あらゆる意味で色んな嫌な青の特徴を……」



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 そして次の部屋も。その次の部屋も。さらにその次の部屋も……。
 シンタローは駆け抜けた。その度に疲労度が増していく。
 ……一体、いつになったら俺は寝室に辿りつけるんだッ!
 どういう改造したんだよ、この家! 迷路状態じゃねーか!
 何がプレイバックだ! 何があの頃の君へ、だ!
 シンタローは肩で息をしながら、もう何番目かさえ覚えていない扉を開けた。
「……?」
 彼の予想では、次の部屋にはあの南国の島が来るはずだった。
 青い海と白い砂浜が見えるはずだった。
 自分の人生の歴史は、そういう順番になっているはずだ。
 しかし、次の部屋は自分がいつも勤務している本部の総帥室だった。
「……あれ。これで終り?」
 拍子抜けした自分に対して、背後からついてくる不満そうな声。
「やけに残念そうだね。もう、シンちゃんったら折角の愛のプレイバック大作戦に非協力的すぎるよ!」
「ええい、うっさい!」
「本当は各部屋に衣装も用意してたのに……再現記念ビデオも撮るつもりだったのに……」
「じゃあアンタは俺に、半ズボンやら制服やらあまつさえベビー服まで着せようとしてたのかよ! しかもビデオ撮影かよ! まったく一人イメクラでもやってろっての! ……つーかさ……」
 シンタローには引っ掛かることがあった。
 マジックが『二人の愛の軌跡』などと馬鹿みたいな言葉で表現する、再現された過去部屋たち。
 そこからは、明らかにいくつかの出来事が抜け落ちていた。
 ――秘石に関する出来事と。
 ――コタローに関する出来事。



「……つーかさ……」
 その後の言葉が続けられない。
 自分たち二人の歴史は、良かれ悪しかれ諍いの歴史でもあった。
 マジックの気まぐれの行動に乗っかるつもりはなかったが、この違和感をそのままにはして置きたくなかった。
 しかし言い方がわからない。
 シンタローは困って、何となく過去の総帥室を眺めた。
 4年前の仕様で、御丁寧に今はない秘石を置く台まである。
 この部屋が最後に来ているのは、ここで自分が彼から総帥の座を譲られたからであるのだろうが。
「……」
 デスクの前の、黄金色の台。
 かつてそこに鎮座していた、青い石。
 自分がそこから盗み、あの南の島へと持ち出し、箱舟に乗って一族の手を離れた、あの秘石。
 番人の影であった自分と……青の一族を作った、張本人。
 不幸な子コタローの暴走だって、あの石に操られて起こってしまった出来事なのだ。
 つい黙り込んでしまう。
 下ろした長い黒髪が頬にかかることで、自分が俯いたのがわかった。
 そんな自分に、マジックが声をかけてくる。
「どうしたの、シンちゃん。すっかり元気がなくなっちゃって……ひょっとして怒ってる?」
「……別に」
「そうか、ごめんね。本当はね……初々しさがなくなったなんて言ったのは、嘘だよ。お前はいつだって新鮮で可愛いよ。ただ今日はいつもと違うことをしたかっただけなんだ」
「だ・か・ら! 抜け抜けと、そーいうハズかしいことを言うな! やるな! アンタの気まぐれに付き合わされる身にもなってくれ」
「だってシンちゃん、いつも忙しくて忘れてるみたいだったから……パパのことや、ずっと過ごしてきた28年のことを。シンちゃんにとってはただの28年なのかもしれないけれど、パパにとってはそれが人生すべてだから」
「……嘘つけ」
「どうして? 本気だって。またパパの言葉が軽いって思うの?」
 何が、人生すべてだ。
 アンタの人生は、俺が生まれる前からずっとあった癖に。
 俺が生まれてからも、本当のことはずっと隠してきた癖に。
 そんな上辺だけの人生回顧が、俺の人生ではあっても。
 本当のアンタの人生である訳がない。



「……二人の歴史、とか言いやがって。結局は俺の心象風景ばっかじゃねーかよ。アンタのはどうしたよ、もっと昔のとか」
「だって私の過去には、お前はいないじゃない」
 そう言われて、シンタローの胸はずきりと痛んだ。口ごもりながら言う。
「……いなくたって。いなくたって……作ったっていいじゃんかよ……どーせ暇を持て余してんだろーから」
「お前は私の過去を知る必要はないよ。知ったってどうせつまらない」
「勝手に俺の過去の部屋を作りやがる癖に、よく言うぜ」
 マジックの方は自分の過去をすべて知っているのに、自分はこの人の過去を知ることができない。
 いや、知っても、そこに存在することはできない。
 まただ。また、壁がある。
 自分はいつもそれに阻まれて隠される。
 もどかしい。
「でもいいじゃない。どんな過去があったって、それが今は全部、お前への愛に変わってるんだから」
「簡単なことのよーに言うな……つうか、アンタの言葉ってあっさり出てくるから、本気か嘘か全くわかんねーよ」
「どうしてそんなに疑り深いんだろうね? 私のすべてはお前のものだよ?」
「自分だって疑ってばっかじゃんかよ。忘れるとかどーとかさ……つーかさ……」
 シンタローはひどく疲れているのを感じ、側の椅子に座り込んだ。
 ぎいっと背凭れがきしんで、彼の体を受け止めた。
 その音が昔を蘇らせる。
 ……5年前。
 大事な弟コタローを連れ去られ、絶望の淵にいた自分も、この椅子に座っていた。
 側には青い石があった。
 そしてマジックがいて、耳元で囁かれた言葉。
『私のものはすべてシンタロー、お前にあげるよ』
 それを聞いた瞬間、自分はこの男から秘石を奪おうと決めた。
 すべて、なんて。
 すべてなんて、ありえない。
 青い石を見つめるマジックの青い瞳は、シンタローには絶対に届くことができないものだった。
 彼に認められようと足掻いてきた自分。
 士官学校では首席を取り、軍ではナンバーワンと呼ばれるまでになった。
 それでも届かない。
 秘石とマジックの間には、入り込めない。
 溺愛されながらも、一族の血から疎外され、そのことに常に引け目を感じてきた自分。
 だから全てをあげる、なんて口では言われても、結局は俺は石とアンタだけは貰える訳がない。
 できそこないの黒髪黒目の異端児だから。
『私には、お前さえいればいいんだ』
 嘘ばかり。
 俺がいなくてもいい世界の方を、アンタはたくさん持っている癖に。
 青の一族である方が、俺よりも大事だった癖に。
「……つーかさ……」
 シンタローは口を開いた。
 マジックは相変わらず、悠然と自分を見下ろしている。
「つーかさ……何で、石のこと……省いてあるんだよ……」
 やっと言った言葉だったのに。
 悩んだ末、結局ストレートに問うしかない言葉だったのに。
「だって。それはお前が奪ったからだよ」
 恐る恐る聞いた自分に、あっさりと答えが返って来た。



「私から青い秘石を奪ったのはお前でしょ」
 どうしてか確かめるように問われる。
 シンタローはどう答えていいのかわからなくて、ただ金髪の人を見上げた。
 淡々と言葉は続く。
「そしてお前はあの南の島で私に言った。私が石に縛り付けられて、お前を初めとする家族を犠牲にしてきたと」
「……」
「そしてこうも言ったね。俺たちがやる、俺たちが守るって」
「……省いた部分も……覚えてるんだな」
「覚えてるよ。忘れる訳ない。あの日から、私の秘石と歩んできた長い過去は、お前に奪われたままだよ。だから部屋もないのさ」
 そこで言葉を切ったマジックは、座った自分を覗き込んできた。
 小さく静かな声で囁かれる。間近で視線が合う。
「でも本当にお前はその言葉を実行してくれるの? だってお前はいつも自分のことに一生懸命で。仕方ないとは思うけれど、私はずっと待っているのに」
「……」
「この部分は、台本には書いてないよ」
 デスクの上に持っていた台本を投げ出すと、マジックは長身を屈めて、シンタローの黒髪に頬を寄せた。
 忘れないで。
 お前に奪われたんだよ。
 私は一族の長として生を受けてから、ずっとあの青い石と共にあったけれど。
 突然現れたお前が、すべてを変えた。
 私を奪ったんだよ。
 私の過去と未来を奪ったんだよ。
 どうしてだろうね?
 黒目で黒髪だって。血なんか繋がってなくたって。
 この関係を他に表現する方法がないから、元からある言葉を使うしかないけれど。
 言わせて欲しいよ。
『シンタロー。お前も私の息子だよ』
 その言葉を聞いた瞬間、シンタローの目の前にあの日の風景が広がった。
 目に焼きついて離れない。
 南の島の、あの戦いの最後で、あの一人で去ろうとする背中。
 自分を拒絶する背中。
 それは幼い頃から曖昧にぼかした笑顔で、自分を置いて戦場に向かう人の後姿と重なって見えて。
 俺は走っても走っても、追いつけない。
 いつも、必死に努力しながら、それでもかなわなくて、ずっと心の中で叫んでいたよ。
 跡を継いで総帥になった今だって、遠い背中のアンタに認められようと、俺はそれでも追いかけ続けるしかないんだ。
 だから毎日忙しくて、それでも全然足りないんだ。
 俺を置いて行かないで。
 一人で行かないで。
 死のうとしないで。
『行くな……行くな、父さん……』
 そう呟いたシンタローの左目の縁から、涙が一筋零れ落ちた。



 良かった、忘れないでいてくれて。
 初めて過去の再現ができたね?
 そして『合格』と言って、シンタローの頬に唇を寄せ、舌で涙を舐め取った。
 そのまま囁く。
「シンちゃん、パパのこと助けてよ」
「……ッ! だから! ふざけて言うな!」
「ふざけてなんかないよ。私の運命を救ってよ」
 シンタローはまた悲しくなった。
 こうやって言葉であっさり言われる度、どんどんすべてが嘘になるような気がする。
 真実が紛い物で塗り固められて、見えなくなっていくような気がする。
 そして自分は騙されていくしかなくなるのだ。
「もうやめてくれよ……いつも大袈裟すぎんだよ……抽象的で目に見えないことばっかりで……ただでさえアンタは俺には訳わかんねーのに……」
「じゃあ言い方を変えるよ」
 マジックはわずかに目を細めた。
「一緒にいてよ」
「……」
「パパとこれからも一緒にいるって約束してよ。そうしたら私は救われる。忙しいなら、忙しくない時はずっと一緒にいてよ。そして行くなって言うなら、ちゃんと追いかけてきてよ。私を一人にしないでよ」
 シンタローは思わず椅子から立ち上がった。
 間近で言葉を聞きたくなかった。
 背を向ける。
 だが、そのまま相手の声は、自分の背中に向けて静かに続けられる。
「……でも約束だって目に見えないから、お前は破るかもしれないね……いつだって私から逃げたがるお前だから。それでもいいから今は一緒にいてよ。言葉が不安で嫌いなら、言葉はなくていいから、態度でパパのこと愛してよ」
「……」
「何があったって、何処に逃げたって、最後はお前の帰る場所は私しかないのだから」
「……ッ」
 また無性に腹が立った。
 側にいる時は逃げることばかり考える。
 離れている時は、帰る時のことばかり考える。
 結局自分はこの男のことばかりを考えている。
 そんな自分が憎い。
 ――知ってるさ。
 いつも自分より先を歩いている人。
 青の一族の先頭にいる人。
 しかし人より先に立つということは、いつも一人だということ。
 マジックは、いつだって一人の孤独の中にいた人間だった。
 それが当然で、平気な人だとばかり、追いかける立場の自分は思っていた。
 寂しさなんて感じたこともない人なんだろうと思っていた。
「だから、シンタロー」
 背後からそっと抱き締めてくる腕。
 首筋に感じる冷たい体温。
「破ってもいいから、一緒に約束して。破ったら、また次に新しい約束をして……この28年、ずっとそうして繰り返してきただろう? いつも喧嘩して、仲直りして、その繰り返し。繰り返してきた仲直りのキスが、私たちの約束だったんだよね」
 大きな手が伸びてきて、自分の顔を振り向かせたから、口付けされるのかと思った。
 しかし息が届く距離で、二人の接近は止まる。
 悪戯っぽく青い瞳が自分を見つめている。
 そこには泣いたばかりの顔をした、自分が映っていて。
「今日はお前からパパに約束をしてよ」
「……」



 わずかばかりの逡巡の後、シンタローは乱暴に体に回された腕を振り払う。
 そして正面に向き直ると。自分より高い位置にある顔に口を寄せて。
「……」
 触れた瞬間、思いっきり相手の唇に噛み付いた。さっと離れて睨みつける。
 彼は形の良い眉をひそめて、指で軽く口元を拭う。
 ついた血を見る。
 そして言った。
「……まるで私みたいなことをするね。でも噛み方が可愛いから猫かな……それに、ぞくっとしたよ。パパはこういうことをされると、お前を躾し直したくなるってよくわかってるはずなのに」
 マジックの薄い唇は血で染まっている。
 その両端が少し上がって、まるで微笑んでいるように見えた。
「過去の部屋はここでおしまいで、もうその扉の奥が、お前のお望みの寝室だよ。今夜のお前はそういう趣向がお好みかな?」
「……アンタだって、血は赤いだろ」
 シンタローは言った。
 舌で自分の上唇を舐める。鉄の味がした。
 きっと自分の唇も、目の前の男の血で、赤い紅をつけたような色をしている。
「俺もアンタも青だけど、血は赤い。秘石は俺たちの血の色までは青く作れなかった。だから、アンタももう青とか赤とか言ってんな」
「お前は正確には私の血族ではないから、絶対にこの青の血の重さがわからない。作られて操られる身の上は同じだけれど、それでも受け継いできた過去と自分の汚濁で、私は汚れているんだよ。それでもお前はそう言えるの。そしてその言ったことを忘れないでいてくれるの」
「ずっと俺からすべてを隠してきたくせに……もういいよ。アンタは石コロなんかに拘るな。一緒とか言いながら、実際は一人で何でもやろうとするな。勝手に何処かへと行こうとするな」
「……責任取ってくれるの?」



 シンタローは自分の唇をぎりっと噛んだ。
 今度は自分の血が滴り落ちる。
 もう一度唇を舐めた。
 目の前の男の血と混ざり合った血は、それでも同じ鉄の味がした。
 青の血。赤くて同じ味がする血。
 ――だから、何だっていうんだ?
 ――血は、血だろ?
 それだけだ。
 そんなの、操り人形じゃなくって、人間だったら、変えられるんだよ何だって。
 そう信じろよ。
 だいたい俺が一緒にいれば、アンタは変わるんだろ?
 何だかんだ言ってさ。
 実際に覇王への道ってのもやめてくれたし。
 俺がずっと嫌だった、人殺しもやめてくれたよな。
 俺はアンタからあのちっぽけな石コロを奪って、本当に良かったよ。
 助けるとか、救うとか、そんな大袈裟なことじゃねーよ。
 バカか。なぁに悩んでんだよ。
 簡単なことじゃないかよ。
 青の呪縛なんて。
 そしてまた、シンタローは切れ長の目でマジックを睨みつけた後。
 小さく背伸びして、今度は本当に口付けた。
 目に見える色とかたちをした約束。
「これが、俺の、アンタへの赤いキスだ、忘れるな。これから一生覚えとけ」





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