恋を語るには

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 その頃のロッドは野戦病院の看護婦に惚れていて、彼女の患者が死体安置所に行くたびに、花を贈った。
 野戦病院といっても、それはただの天幕の連なりで、まるでみすぼらしいエジプトのピラミッド群のように所狭しと三角錐が川岸に鎮座している場所で、恋を語るには出来すぎた場所だった。
 対岸には崩れかかった貧民街が、湿った洗濯物のように独特の臭いと歪んだ輪郭をしてごちゃごちゃと並んでおり、逃げ遅れ、さらに生き延びた数少ない人々が、瓦礫の中で炊事をする、細く白い煙が数本、鈍い色の空に向かって立ち昇っている。
 雲はうっすらと遠い日差しの陰影を映し、青地にどこまでもぼやけたように霞んでいて、空の低い場所にはいつも風が吹いているのだ。
 この川縁で朽ちかけた材木なんぞに座って、その風を感じていれば。
 だらんと垂らした指先に、毛の生えた小蜘蛛がようやっと這い登るまで、ロッドは暇を潰すことができるのだった。



 十日ばかり前まで、この村は戦場だった。
 野戦病院は負傷兵で満員であった。
 消毒薬と傷口から篭る甘ったるさは、膿と腐った皮膚とに軟膏が擦りつけられた汚臭であり、慣れればそれも硝煙の香りほどには、耐えられるものになる。
 一つの天幕には、数十人の男たちがぎっしりと詰め込まれ、めいめいが白い包帯に凝結させた血をこびりつかせて、思い思いの方角に顔を向けていた。
 しかし戦いの一番激しかった時から、いくらか日が過ぎたためか、唸り声をあげていた重篤な患者はみな死んだとみえて、今は異様な静けさと不健康な寝息ばかりが、この場所を満たしている。



 某超大国間の冷戦終結、歩みの重い象のような福祉国家化からくる各国の財政難、それに伴う軍事費の削減、軍事外注化への流れ。
 昨今の民間傭兵会社の発展の陰で、ロッドたちはメシを食っている。
 わずかな利権をめぐって、戦火は絶えることはない。
 先進国のODA跡地に燻る火種、それを武器商人が煽って勃発する戦争、そして占領、傀儡政権の樹立、主権移譲。
 この国は、その一通りのメニューの内では、『占領』まできたところで、どこにでもあるつまらない小国の一つでしかなかった。
 さすがに戦争時よりは小競り合いも減り、ロッドたちの雇用契約もそろそろ終わりで、彼はこのままこの隊に残って一緒に他国へと渡るか、それとも新天地を選ぶかの選択を迫られていた。
 新天地、といっても、同じような集団の寝床に潜りこむだけのことだったのだけれど。一つところにいると飽きがくるから、寝台の場所を少しずらして違う風景が見えるようにするだけ。
 彼にとって、所属する部隊とは、仲間とは、所詮その程度のことだっだ。



 水代わりのオリーブ酒の瓶をぶらぶらさせて、時間を潰すためにロッドは、この川にやってくる。
 無料で女が見られる場所は、この村ではここしかない。
 川縁の材木の上は、彼の特等席だ。
 ある日、ロッドの目当ての村一番の美人の姿が見えなくなって、彼女は未だ紛争が続いている南の前線に配置変えになったのだと、後から聞いた。
 女も男も、人は次第に戦う場所へと、殺し合いの場所へと流れていく。まるで夏の虫が、光を求めるように。
 俺も、ぼちぼちか。
 そう考えつつも、次の行き先をロッドは決めかねている。
 彼はまだ若く、自由だったが、目的というものがまだなかった。その日暮らしで、生きていた。
 彼が生きるのは、誰のためでもない自分のためだったが、肝心の自分のことはよく考えたことすらなかった。
 ただ刃を交わし、生き残ることでのみ、自分というものを感じることができた。
 だから戦うことは、好きだった。
 ――いずれにしろ自分も戦いの臭いに惹かれて、どこかへと旅立つのだろう。
 それがわかっていたから、そういう気分になるまでは、しばらく遊んでいようと彼は思う。遊ぶこともまた、彼は好きだった。自分を感じないで済んだからだ。
 あの女。折角生き延びた美人の彼女も、次の戦地では死ぬかもしれないなと、彼はちらりと考えたが、それでロッドの生活はさして変わらなかった。
 花を贈る人間が、村一番の可愛い子に入れ替わっただけのことだった。



 ロッドは今日も欠伸をし、同じ川辺、材木の上で、のんびりと日向ぼっこをしている。
 やわらかに風が吹いた。
 その囁きを頬に感じて、彼は寝ながら、笑った。
 この場所は、女を見られると同時に、この村では一番気持ちのよい風が吹く場所だった。
 かつて偉大なる錬金術師はその書でこう呼びかけた。
 ――魂なき美女シルフ、風の精よ。
 なんでも風の精とは絶世の美女で、もし冷たい彼女が人間と恋をして結ばれれば、その肢体には熱が宿り魂が宿り、不死となることができるのだという。
 精霊の愛は熱烈で、有機と非有機の間のどろりとしたもので、それを受ける人間はいつかその愛に飲み込まれて死ぬ。
 ロッドには彼女の姿こそ見えなかったが、言い伝えのうち、美女であるという点において、ひどく気に入っている。
 彼は、精霊を操ることができる能力者であった。



 この精霊は、少年時代に、父親から受け継いだ。
 正確には、森の中で悪友たちと突撃ごっこをしている時、不意にロッドは倒れ、その瞬間明るい光に包まれて、精霊の声を聞いた。
 なんと言われたのか今では覚えてはいないが、確かにその時から、精霊はロッドの側にいる。
 父親が遠い戦場で死んだと聞かされたのは、平和な村には滅多に来ない早馬がやってきて、滅多に顔色を変えない母親の目元が伏せられて、箪笥の奥から出してきた滅多に見ない黒い服を着せられて外に出された、その時だった。
 その時もロッドは黒い服を着たまま、木切れを振り上げて森に遊びに出かけてしまった。
 黒い服は泥まみれになって、いつもよりは汚れが目立ったが、それだけのことだった。
 夜には母親に叱られたが、それだけのことだった。



 父親のことを思い出すとロッドは、いつも風を感じることのできる場所に駆け出したものだ。
 その場所で、彼を守る透明な女に会った。実際には、目を閉じて、風を感じた。
 少年時代、生まれた村にいる時のロッドは、古びたステンドグラスが鈍く輝く、教会の尖塔によく登ったものだ。
 満月の夜などは、心が冴え渡った。
 彼は寝室の窓の傾いた木枠から、黄金色の輝きを感じると、ベッドから抜け出して、窓から飛び降りて、教会のある小高い丘へと走った。
 胸騒ぎに息が詰まった。
 そうして、冷たい風に吹かれることが、彼にとってはかけがえのないことだった。



 長じて傭兵となり、人殺しなんて生業にしてしまった彼である。
 今、この駐屯地に教会はない。
 十字架を抱いた建物は存在したが、牧師やら作男やらは、とっくの昔に逃げ出してしまっていて、今はがらんどうの空間には、やっぱり傷病者がうんうん唸っているのだった。この村では、病院は、いくつあっても足りない。
 おまけに屋根は、先だっての空爆で無残に三分の一が破壊されていて、とても無理をしてでも登りたいような場所ではなかった。
 だから、彼は昼間は川縁に来る。



 夜となれば。
 酒を飲み明かしたり、朴念仁ではないから女と遊ぶ日も多かったが、そのまま大人しく眠り込んでしまう夜だって、ロッドにはある。
 冷えてしまった体を寝台に横たえて、薄っぺらい毛布に潜り込んでから、いつもロッドは一瞬で眠り込んだ。
 寝つきの良さは、彼の数多くある自慢の内の一つだった。
 目をつむった途端に、彼は眠りの海へと沈んでいく。



 ――幼い頃。
 黄と青にオリーヴの絵が描かれた陶器の欠片、元はシチリア風の刺繍がほどこされていたらしい汚れた長布、からっぽのブリキの缶、ぴかぴか光る鉛細工の切れ端、そういった戦利品を抱えて、ロッドが意気揚々と引き揚げてくると。
 決まって彼の母親は。
 ママは――
 腕組みをしてその柳眉をひそめて、こう呟くのだった。
 ――ロッド。
 ロッド、あなた戦うのはおやめなさい。
 ママはいつもそう言った。なぜ、とロッドが聞き返すと、答えはいつもこうなのだ。
 ――パパみたいになるわ。あのろくでなしの顔に、お前は似ている。
 ママはパパが嫌いだったので、パパに似ているロッドには冷たかった。
 分厚い胸、ロッド自慢の脚線美はパパ譲りで、年を重ねてますますパパに似てくるロッドを、ママは辛そうな緑の目で見るようになった。
 だからロッドは、腕が太くなり、いっぱいにワインを詰めた樽を二つばかり重ねて担ぐことができるようになると、家を出て、それ以来故郷へは戻ったことはない。
 ママも、そして故郷もパパも、自分の心の中にいれば十分だと思い、それからは思い出しもしなかった。
 しかしロッドの惚れる女は、冷たい女ばかりだった。



「……」
 ロッドは、暗闇で目を開ける。耳をすませば、隣の天幕からは囁きあうような声が聞こえる。誰ぞ女でも連れ込んでいるのだろうか。
 夜の鳥の声と、遠くからは宵っ張りの兵士たちの足音が交じり合い、それを風のさざめきがかき混ぜる。
 風の音がする。
 俺の、風の音がする――
 夜には、巡る季節を待つ生き物たちの心臓の鼓動が、木霊しているように思えた。研ぎ澄まされたような予感。やがて来る芽吹きへの焦燥。灼熱の季節への希望。
 出会いの予感――
 遮断されたこの部屋を、ロッドの息が満たしていくようだった。



 目覚めて、戦場に向かえば、ロッドは鬼神のように戦った。
 その頃のロッドは、自分だけは不死身だと信じていた。
 砲弾の雨降る中も、一歩間違えば急所に突き刺さる敵の刃も、高く煙をあげて燃え上がる街の姿も、なにものも怖くはなかった。
 ロッドは兵士としては優秀で、むしろ飛び抜けていて、それは人殺しに長けているということだった。
 彼がライフルを構えれば、敵兵は壊れた玩具のようにバタバタと倒れた。ナイフを持てば、相手の皮膚はやわいビロードのように容易に引き裂かれたものだし、手榴弾を投げれば必ず敵の密集するどんぴしゃの地点に、正確に落ちて、絶大な損害を与えるのだった。
 そして――風の精霊の力を借りれば。何者も彼に及ぶものはないのだ。並ぶ者もなければ、後から追いかけてくる者もない。
 共に走る者もない。
 塹壕や瓦礫に満ちた廃墟、荒れ野を一人で駆けるのが、ロッドの常だった。
 どんなに過酷な任務でも、必ず最後に生き残るのは彼だった。
 つまりロッドは、戦争が性に合っていた。軍人は天職であるのかもしれなかった。赤い旗、青い旗、どんな色の旗の下でも、彼は果敢に戦い、最後は笑った。
 自分は戦場に生きて、いつか戦場に死ぬのだと思っていた。



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 つまらない役目だった。
 残存勢力のゲリラ攻撃や盗賊の類から補給隊を警護するだけの、ルーティンワーク。
 俺は護衛なんて柄じゃない、とロッドは伸びた髪をまとめていたバンダナを、指でなぞった。
 どうせなら――
 ロッドは、襲われるスリルを楽しむよりも、襲うスリルを味わう方が好みだった。消極的なのは向いてない。
 しかも往復のうち、向かう場所は見知った駐屯地の村であるという、最も面白みのない復路であった。往路よりもさらに目新しささえない。



 国境近くに、白い森と呼ばれる場所がある。
 背の高いブナとミズナラの樹の混交林で、その樹皮が灰白色であることから、この名がついたらしい。
 だがいかにも清げな名前とは裏腹に、この森は激戦区の一つだった。
 占領後は、他国との関係で一応の中立地帯として機能していたが、主権の曖昧さに乗じて、ならず者たちが跋扈する場所となっていた。誘拐や強盗なども頻繁に起きていたが、その発覚数は氷山の一角であると言われている。
 自然警戒は厳重になる。
 森の中は薄暗く、獣のうごめく気配に満ちている。獣は、野生動物であるのか、人であるのか。いずれにしても獲物を狙う輩たちの姿を覆い隠す、葉と幹と枝との織りなす、うっそうとしたヴェール。
 ごく最近に、大勢の名もない兵士の血を吸った大地は褐色で、茂る木の落とす陰影でまるで闇のようで、沼のようで、どこか虚ろだった。
 道は湿っていた。転がる石ころは死んだ魚の目玉のように白く、草はその鱗のように、ざくりとして生い茂っていた。
 ロッドたちは、今、この森を抜けようとしている。
 道が悪いこともあったから、機材を限界まで積載した小回りのきく小型トラックが、だらだらと痩せた蛇のように細く長く続く。
 歩いた方が早いのじゃないかと、トラックの荷台に荷物と一緒に乗っている男たちは、始終思っている。
 がたがたと、上下に身を揺らしながら、欠伸をしている。上官の目を盗んで、賭け事に興じている者までいる。
 彼らの護衛すべき対象は、色気のない浄水器だったり重機材だったりするのだから、つまらないことこの上ない。
 これが絶世の美女であるなら意気込みも違ったのにと、ロッドなんぞは幾度も道路補修用の電動ドリルの腹を、撫でたものだ。



 まったく警護隊というものは。
 トラックに揺られていく荷物のうちで、自分たちが一番価値がないのだから、嫌になる。
 頭上高くを鳥影がかすめ、梢に阻まれた太陽の鈍い遮光が、男たちの日に焼けた横顔を照らしていた。
 茂る楕円形の葉、無数の手の指を重ね合わすように絡み合う枝、虫の声。
 荷台の隅にだらしなく腰掛けていたロッドは、一つくしゃみをした。
 逞しい首をぐるりと回す。彼は始終、指の慰みに、銃の照準器を意味もなくカチャカチャいわせて、仲間たちの肩をすくめさせた。
 そんな状況が一変したのは、先行した偵察隊がある報告をもたらした時であった。



 隊列の行く道の先から駆けてきたのは、背の低い貧相な格好をした男だった。
 列の中ほどにいたロッドは、その男の顔の造作にじろり視線をやって、さして興味も覚えず、すぐにそれを外した。
 しかし男の報告を仲間たちから伝え聞くと、急に乗り気になった。



 この道の先で、大勢の人間が死んでいるのだという。
 なにか小競り合いがあった模様だ。
 その情報を受けて、本隊の到着よりも先に数人が、情勢把握のために分かれて発つことになった。
 行軍には飽き飽きしていた頃で、ロッドは真っ先にその分隊に名乗り出た。
 もちろんロッドは、敵がいれば一戦を交えるつもりだ。まるで牝牛のように、のたのたしているよりも、暴れたかった。
 きっと自分のことを、周囲は扱いにくい奴だと考えているのだろうなと、ロッドは人事のように思うことがある。
 牛どころかすぐに発情期の馬のように暴発し、単独行動を好み、意に染まぬ命令は聞かなかった振りをする。
 だが、ロッドは強かった。自分でも強いと思っているし、周囲もそう考えているはずで、武勲の数がその能力の高さを証明していた。
 戦場では強い奴が結局は生き残る。ということは、俺を仲間にした軍は、最後には勝つのだから。
 すると、扱いにくくたって、俺を雇わない訳にはいくまいよ。だから俺は、メシを食える。
 食える間は、好きなように、やるさ。
 いつものようにそう決め込んで、愛嬌のある垂れ目で上官にウインクをすると、ロッドは。
 森の奥へと、分け入っていった。



 その場所に来た時、ロッドは思わず息を飲む。
 むせ返るような鉄錆と生臭い肉の香。
 血溜まりが点々と地を彩り、サルビアの花が咲いたように赤色が散っていた。
 真っ赤に染まる血濡れの沼の中で、あちこちに男たちが死んでいた。
 凄惨な光景であるはずなのに、なぜか美しいとロッドは思った。
 こんなに綺麗に綾なす血を、彼はそれまで見たことがなかった。



 草のひとすじひとすじに、血糊がべっとりとこびりつき、揺れている。
 炎の舌が舐めたような跡、黒く炭化した不可思議な大地。
 死体はすべて、刀で一刀両断にされていた。山賊らしい荒れた身なりをしている。人相の悪い男どもだ。
「こりゃぁ、すげェ……」
 白目をむいた顔をひっくりかえしてみながら、ロッドはさらに奥へと進む。
 進めば、この惨状はますます酷くなった。
 赤、赤、赤。
 頭がおかしくなりそうだ。
 そして死体の群れの続いた、一番先には。
 赤の中で、一人の男が立っていた。



 その姿は、血沼の中、花一輪が細く、佇んでいるようにも見える。
 敵か?
 身構えるロッドたちにも、男は動かない。
 その右腕には折れた刀。左手にも、刀。
 いや……刀、だろうか? こんなに赤い刀など、あるのだろうか。
 全身血塗れの男は、茫然自失で立ち尽くしているようだ。
 しかし。じり、じり、と近付くロッドたちに、不意に気付いて。
「……ッ!」
 凄みのある目で、こちらを凝視し、折れた刀で構えようとして――
 そのまま、崩れ落ちた。



 ロッドたちは、駆け寄った。
 男の額の向こう傷からは、さらに赤い血の筋が流れ出していた。
 気を失ったのか、もう身動きしない。
 ロッドは彼の首の頚動脈に指をあて、脈拍を診る。ぴく、ぴくと指の腹にかすかな振動がつたわってくる。
 生きてはいるらしい。
 こんなに多くの血に塗れていては、助かるまいと思ったが。
 返り血が多いらしいと、その身体を簡単に調べてから、思う。
 男の様子と身なりは、とても山賊たちの仲間とは見えない。



 オーイ、と茂みの向こうから、違う方向を調べていた仲間が呼ぶ声がした。
 これも血溜りの中に、散乱する荷物の中で、うつ伏せになって息絶えていたのは――背中を串刺しにされていた――まだほんの子供だった。
 その無残な姿は哀れさを誘った。
 なぜか、耳の下半分が切り取られていたが、その時はさして気にもとめなかった。
 他には生存者はいない模様だ。
 すべて刃物による損傷が致命傷となったか、皮膚の表面が炭化するまでに黒く、焼死してるか、であった。



 これは山賊どもが旅人を襲い、火を放って逃げようと企んだところ、風向きやなんやかやで計画が狂って、味方に火が移ったのではないか。
 さらにはその旅人――おそらく血塗れで突っ立っていた男――が、一人でこんなに多くの人間を殺せるはずがなかったから、途中で山賊たちの間に仲間割れが起こったのではないか。
 そして殺し合いが起こり、旅人の一人が、運良く生き残った。
 また山賊の全員がこの場で死んだ訳でもなさそうであり、少なくとも数名が逃走した形跡が、足跡などから見て取れる。
 どちらにしろ内輪揉めで、旅人には気の毒だったが、俺たちには関係なさそうだ。
 上半身を前のめりにして、木の根元に首を突っ込んでいる死体を、次々に足で蹴ったりしてみながら、誰かがそんな推測を口にした。
 だがそれにしては、森が火事になっていないのは、不思議なことだった。
 死体と地面だけが燃えているなんて。制御された火によってしか、このようなことはありえない。



 ロッドは、一人思う。目の前に横たわる男の姿を、眺めた。細い息。赤い血に塗れた髪の色は、黒。惨劇の生き残り。
 ある予感が渦巻いている。この男は。
 ――能力者か。
 自分と同じ。
 そしておそらく、操る精霊は、火。
 この散乱する死体たちは、すべてこの男があの世に送り込んだのではないか。
 そう思うと、背筋がぞっとした。
 思う間にも、ロッドの手は動いている。
 バンダナを振りほどき、腕の付け根を縛る。
 それも足りずに、自分のシャツを引き裂いて、男の身体のあちこちに止血を施した。



 トラックの荷物の合間に男を入れて、村に連れ帰り、川辺の野戦病院で医者に見せた後。
 ロッドは、そっと天幕に入った。
 男はぐったりとして横たわっていた。
 玉の汗を額に吹いて、苦しげな息を漏らしている。
 何か呟いたように見えたが、聞き取ることはできなかった。
 だが、蝋細工に赤い絵の具を垂らしたような唇を、この男はしているのだなと、思った。
 血が拭われた後の頬が、いやに白い。



 知らずロッドは、その頬に手を伸ばしていた。
 すると、強い調子でその手が叩き落された。
「痛ッ」
 なんだこいつ、起きてやがるのかと、非難の視線を込めて。
 ロッドはうなされる男を見たが、やはり相手は朦朧とした意識の内にあるようで、今の動作は反射的なもののようだと知る。
 ロッドの手を叩き落した男の腕は、再び力なく寝台の上に垂れている。
「……」
 また手を伸ばせば、再び叩き落されてしまう気がした。
 そのまま、天幕を後にした。



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 今度は他所のゲリラ弾圧に駆り出されて、さんざんに手間をかけさせられて、二週間ほど駐屯地である村を出ていたロッドは、戻ってきた夕暮れ時に、いつもの川縁の風景が少し異なっていることに気付いた。
 何だか見知らぬ男が、視界の隅で動いていた。
 少しばかり近寄って胡散臭げに見れば、見知らぬ、と感じたのは錯覚で、その誤解は蝋人形が息をして動いていたのだと知った時の驚きに似ていた。
 あの森で、血塗れで突っ立っていた男だった。
 ただ一人の生き残り。



 その夜、行った酒場で噂話を収集したお陰で、ロッドは男が『教育係』とかいう職についていた人間あることを知った。金持ちの家庭教師、といった感じだろうか。
 ロッドは、あの森で、うつ伏せになって死んでいた少年の姿を思い出した。耳からはまだ血が流れていた。
 男はその子と二人で旅をしていて、山賊どもに襲われたらしい。また男は遠方の大国、中国の出身である。
 この話は、目覚めた男が傭兵隊長に呼び出されて、事情説明のためにしたもので、それ以上は、噂好きな酒場の女たちも知らないのだった。
 傷が治るまでの間は、あの野戦病院にいることを許されたらしい。
 ロッドは、なんだか面白いと思った。
 あんな情の欠片もないような息をする男が、人を教え導く立場の人間であるとは、ちょっとイメージとはそぐわない。



 翌日、ロッドは例の川辺で、つつつと男に近寄って、
「あんた、教師だってねェ」
 何の気なしに尋ねただけなのに、刃のような目で睨まれた。その時の男は洗濯の最中であるらしかった。
 ロッドは思わず両手をあげて、オーバーアクション気味に驚いた顔をして見せた。
 そのおどけた仕草が、いっそう生真面目な相手の癇にさわったようだ。
「教師という訳ではない」
 苦虫を百匹ほども噛み潰したような顔で、流線型の目をした男は言った。
「ただ、雇われた家では、子息の教育係のようなことをしていた」
「へーえ」
「その子息は、あの森での戦闘で、死んだ」
「ほーう」
「……」
 それっきり。



 このまま会話が途切れそうだったので、慌ててロッドは、言葉をつなぐ。
 どうもやりにくい男だ。
「なんでそんな、つまらなそーな仕事やってたんだよ」
 そう聞くと。
 いわくありげな目つきで、ロッドの全身をじろじろと眺めた後。
「……貴様も能力者だな。それなら、わかるだろう」
 と、男は呟いた。



 ロッドは、あの森の焼け焦げた大地を思い出し、くしゃみをした。
 ――おそらくこの男は、炎の能力者。
 能力者であることが、教育と関係あるというのなら。
 つまりは、この男は、能力者である子供の教育を、仰せつかっていたということだろうか。
 よくは知らないし興味もないが、森羅万象を構成する四つの元素を司る能力者というものは、ある偶然と少しの血と、本人の性状が精霊の好みであるかどうかで、いきなりに出現するものらしい。
 突然変異みたいなものだ。
 ロッド自身も、幼年時代の兵隊ごっこの最中にあっさり能力者になってしまったから、まあそういうものなんだろうと思っている。
 四元素とは全く別の、全物理的精神的事象を操る万能タイプの力、というのも存在するらしいのだが。それは出所の怪しい戦場の噂でしか知らないことだった。
 能力者は、それを人に明かせば、一般に忌み嫌われた。一緒に戦う時は頼りにしてくれる仲間にも、日常ではよそよそしげな笑みを浮かべて扱われるのが、普通だった。
 そんなことにはとっくの昔に慣れていたから、ロッドはいちいち気になんかしてはいないのだけれど。
 根っから陽気な性格なのだが、彼は何事も一人で考え一人で行い、ある日ふらりと何処かに旅立つのが常である。
 彼の一番の親友は、風と、孤独。
 しかし――教育係だとよ。
 ロッドは、目の前の男を、じっと見つめる。
 こんなに人殺しが好きそうな顔をして。
 この顔で、彼は嗜好とは正反対の仕事についていたのか。
 誰にも教育されることのなかったロッドは、おぼろげに思う。
 そしておそらく、子供を殺されて、この男は自分を恥じている。怒りを感じている。



 鋭角を帯びた男の顔の造作は、しかしどこかすんなりしていてで、無機質な残酷さを漂わせている。
 長身細身であるその身の丈は、それでもロッドよりわずかに低く、自然見下ろすかたちになる。
 じろじろ眺めていたら。
 ロッドの視線の下で、相手の白い顔がわずかに朱を帯び、切れ長の目が光を強くした。
 それを見て。
 ――もっとコイツを怒らせてみたいぜ。
 と、ロッドは趣味の悪いことを考えた。



 ロッドは暇になると、いつもの通りに、その辺の岩やら材木やらの上に腰掛けて、通りすがる看護婦たちにモーションをかけている。
 緊急時は厳しい顔つきをした彼女たちも、手の空いた時間はやはり年頃の女で、ロッドはそんな彼女たちの尻なんぞを触ってみたりで、ぱしんと頬っぺたを叩かれる。
 暑い日などは、ずうずうしく木陰に材木を移動させて、女の裸が表紙の雑誌なんかを顔に乗せて、その上で寝ている。
 黒髪の男が現れてからは、この場所をうろついていることが多くなっていたロッドである。
 歩けるようにまで回復した男は、いつも黙々と一人で訓練に勤しんでいた。
 それは何の変哲もない腕立て伏せや、腹筋であることもあれば、剣技の鍛錬であったりする。
 目の端に、ロッドは彼の様子をぼんやりと映している。眠くなれば、ごろりと横たわり腕を枕にして、鼾をかいて眠り込んでしまう。
 そんなロッドを、男は木や草花等と同じと見なしているのか、咎めることはないかわりに、関心を向けることもなかった。



 一通りの訓練を終えると、男は井戸に足を向け、上半身を剥き出しにして汗をぬぐう。
 その時には、ロッドはたとえ眠っていても、薄目を開けてそちらを窺うのだった。
 変な意味ではない、ただの興味だと思っている。その男がどのような戦場を潜り抜けてきたのかを、体は如実に示すものだからだ。
 つまるところ、ロッドは男の過去に、興味があった。
 男の上半身は研ぎ澄まされたような筋肉を纏っていた。肩の付け根にはまだ包帯を巻いていたが、男のきびきびした所作には、何の障害も見受けることはできない。
 夏の太陽の下では異様なほどに、男の肌は白かったが、森の戦場で受けたまだ生々しい傷跡の他に、細かな古傷がいたるところに見受けられた。
 ただ、ひとたび狙われれば致命傷となるであろう場所には、何の跡もない。
 男の身体は、大雑把には戦いに身を置く人間の無残を表していたし、深い意味では男の戦闘技能の高さを示している。
 ああそう、とロッドは感想を漏らす。
 ああ、そう。
 まあ、そんな感じだと、俺は思ってた。



 鍛錬をしていない時、陽光の中で男はよく軍刀を研いでいる。
 水を含ませて艶光する研石の上に、刃を幾度も往復させ、切れ刃から刃裏を丁寧に研ぎあげる。
 太陽の光に刃をかざし、自分の腕の内側にそっと当てて、引く。
 男の肌にはみるみる赤い筋が浮き上がり、血が垂れた。
 試し切りにしては、やけに深く切る。
 そんな時のロッドは、何とはなしに起き上がり、近寄って、男に声をかけてしまうのだった。
 何となく――心配になるから。



「おい、あんた」
 その瞬間、風が凪いだ。
 ロッドが男に声をかけると、風は動きを止めて、足早に去ってしまうのが不思議なことだった。
「私は貴様が嫌いだ」
 その上、普通に声をかけただけなのに、振り向きもしない男にきっぱりこう言われてしまう。
 自分はそんなに嫌われるようなことをしたのだろうか。
「――ったく、意地悪だねェ。何も口に出して言わなくてもいーのに」
 そうは言ったものの、ロッドはこう感じている。
 自分を嫌いであるのなら、無視をして、それとなく避ければいい。
 何も労力を使って、『嫌いだ』とズバリ言い切らなくても、もっと楽な方法はあるだろうに。
 逆説的に、ちょっとお前は人とは違うぞと、告白なんてされているようで、面映い。相手は男なんだけど。ああ、俺って、楽天的。
 ロッドが妙ににやついていると、
「薄気味の悪い。あっちへ行け」
 気味悪がられてしまった。



 構わず、何度も太陽の光に刃先をかざして、男はその研ぎ具合を検分している。
 ロッドは男に興味を持っていたから、そこから派生して、男の所持品にも興味を持った。
 その刀を眺める。今はもちろん軍では銃が主流であったから、こんなものを始終大事にしている人間は、珍しい。せいぜい正規軍ではない賊や下っ端が、腰に下げる程度だ。
 刃先が、きらりと光る。
 彼の出身地であるらしい中国のものではないと感じたが、その訳を聞くと、男はこれは先の戦場で、敵から奪い取ったものであると面倒くさげに答えた。
 自分のものは、血を吸いすぎて、骨を絶ちすぎて、肉を切りすぎて、折れてしまった。
 それから数度、殺した敵の刀を奪い続けて、最後から二人目の相手から獲ったのが、この軍刀だ。
 最後の一人は、この刀で殺した。
 刀身が長く、切れ味がいいので気に入っている。
 銃なんぞより、これの方がどれだけ役に立つことか。



 ロッドは瞬きをした。
 物騒な奴だと思う。自分のことを棚に上げてでも、今はそう思いたい気分だ。
 ククッと男が喉の奥から笑い声を漏らした。
 蛇のようだとロッドは思う。この男の持つ雰囲気は、腹の白い蛇に似ていた。
 毒を持った蛇。一度狙った獲物は、必ず殺す。赤い舌先で、絡めとる。
「貴様のことは嫌いだが、血を見るのは、好きだ」
 そして、血の止まった、試し切りをしたばかりの自分の腕を見て。
 何かを思い出したのか――おそらく白い森の記憶だろう――男は、暗い表情を浮かべる。
「血は、炎の色と同じで赤い。朱に染まる大地は悪くない」
 こちらを振り向くと、口の端をわずかに上げた。
「お前の精霊は風か。透明で残念だったな」
 その口ぶりが本当に残念だと思っているようだったので、ロッドは相手を変わった人間だと感じながらも、それは本当に残念なことであるように思えてきてしまった。
 だが、言う。
「……俺の可愛い子ちゃんをバカにしないでよ」
 能力者同士が感応するのは、ままあることだった。
 この男からロッドは同類の匂いを嗅いだのだし、男もまたロッドから同じものを嗅ぎ出すのに違いなかった。
 能力者の数は少なかったので、こうして邂逅すること自体が稀なことだった。
 そうか、自分がこの男に感じている興味は、相手が種類は異なれど能力者であるということに通じているのかもしれないと、ロッドは思う。
 しかし次の瞬間、それは間違っているようにも思う。
 どちらなのかは、わからなかった。
 凪いでいた風が――吹いた。
 わからなくて、ロッドは腕を広げ、透明な風を抱きしめる。
 風はロッドの逞しい上腕をくぐり抜け、指先をすり抜けて、ゆらりゆらりとその肢体をなびかせるのだった。
 まるで愛撫のようだ。
 俺は赤い血なんかよりも、この透明な抱擁の方が好きなのだと、ロッドは思う。
 そう、悪くない。



 男は立ち上がり、数歩歩いた。
 ロッドの右脇を通り過ぎた。
 すれ違いざまに、ロッドは手を伸ばして彼の頬に触れてみたいと思ったが、とてもできるものではなかった。
 男の姿は、この戦場にある者としては細身で、それでいて一本のしなる鞭のように厳しかった。
 彼は、水面に向かい、水の底を見つめている。
 折からの雨で増水したこの河は、黄土色に濁り、時折あえぐように息をする魚の背が、通り過ぎるだけだった。
「血が好きって言うけどさぁ。でも嫌いな血ってのも、あるんじゃねぇの」
 男の背中に向かい、ロッドは問いかけてみる。
「……」
 珍しく、答えは返ってはこなかった。
 ただ男は、いつまでも濁る水の底を、探るように執拗に眺めているのだった。
 こんな冷血という言葉の似合う男にも、ひどくやわい部分があるのだということを、ロッドはこの時、知った。



----------



 夕暮れが空を染め上げている。
 いつものように川縁で、ロッドが折り畳式のアーミーナイフを使って、配給のレーションをぴりりと開け、固形燃料や生石灰に水を加えて、煮炊きを始めた、その時だった。
 男が天幕から出てきた。
 小さな荷物を背負ったその姿は、すっかり旅支度をしているように見えた。
 驚いたロッドは、男に駆け寄る。
 男は軽蔑したようにロッドを見て、言った。
「もう傷は癒えた。癒えたから出て行く。当然のことだ」
「どこに行くんだよ」
「貴様には関係ないことだ」
「関係ないことねえって。だって、あんたは俺が助けたんだぜぇ? 真っ先に俺は、血塗れで立ち尽くしているあんたを見つけて、止血した」
「……」
 正確には、『俺たちが』だったが、この際はそれぐらいの詭弁は許されるだろう。
 意外に、情義や物事の道理から攻められることに弱いらしい。
 男はしばらく押し黙った後、ぼそりと呟いた。
「……復讐に行く」
「ァん?」
 ロッドは口を大きく開けて、男の顔を見つめた。
 手にしていた缶詰から鶏肉の塊が落ちて、転がっていった。



 男はなかなか詳しい話をしようとはしなかったが、無理矢理聞き出した内容を総合すると、このようなことであるらしい。
 男はある少年を預かっていた。火の素質を持つ子供で、さる一族の直系にあたり、血筋的にはいずれ膨大な財産と領地の後継者になるはずであったという。
 数年前に少年の祖父にあたる領主が死に、一族内では血みどろの相続争いが起こっていた最中でのことだ。ちなみにこの祖父が能力者で、少年がそれを受け継いだものらしい。
 ともあれ、長男である少年の父と、その末弟とが、親族を二分する抗争を繰り広げていた。
「私は子息に炎を使った戦いの基礎を教えて、今年の秋に、親元へ返すはずだった。報酬と引き換えにな」
 だが、それを目前にしたこの夏に、あの白い森での惨劇が起こったのである。
 修行の地であった山岳地帯から降り、諸国を武者修行していた途中のことだった。
 男がいうには、あの惨劇は、山賊に見せかけた、兄の血統を絶やそうとした末弟の仕業であるという。
「……その子息の親も、すでに殺害されて今は亡い……父親の末の弟、つまり子息の叔父にな。思えばこれあることを予期し、かの両親は子息の無事を願って、私に預けたのかもしれんのだが」
 今は、兄とその子を抹殺した弟が、正式な手続きは踏んではいないものの、実質的に領主の座についているという。
 静かに息を吐きながら、男は呟いた。
「あの方たちの想いを、私は無にしてしまった」
 少年に対しては、短い間に教育係として基礎を教えたのみなので、師弟弟子の間柄とはとてもいえないが、やはり自らの責で死なせてしまったという想いがある――とは、はっきりと男は口にはしなかったが、ロッドはそう解した。
 さらに職責を果たすことができなかった自分に対し、忸怩たるものがあるのであろう。
 この男なら。
 仇をとったところで何かの埋め合わせになるとは思えないが、とらずにいることは、できないのだろう。



 標準的なM16小口径アサルトライフルを手慰みにして、くるりと回転させると、
「その話は確かなのかよ」
 とりあえずそれをロッドは確かめた。
 男の思い込みである可能性だって、あるのだと思う。
 だが、男は言った。
「……首領格の男を切った際、隠していた顔が見えた。その叔父の屋敷で見た覚えのある男だ。また、子息の耳朶が切り取られていた。これは、私が殺し損ねて逃がした数人が、確かに子息を殺したという印を持って帰ったのだと考えられる。あの一族は、耳朶に先祖伝来の石をつけるのが慣わしだった。また、あの自称山賊どもの隠し切れぬ太刀筋。素人離れした陣形。あれはただの物盗りではない。子息を狙った暗殺者たちだ」
 そこまで一気に言ってから。
「もう、話はこれでいいだろう。そこを、どけ」



「待てよ」
 自然に零れていく声を、ロッドは不思議な気持ちで聞いていた。
 頭で考えるより先に、言葉が。するりと。
「俺もついていく」
「……何?」
 いかに傭兵とはいえ、持ち場を勝手に離れれば、契約期間中は脱走兵扱いとなるのであえう。運が悪ければ、追われさえしかねない。
 『ついていく』ということは、現在の職を失うことであり、脱走となれば、傭兵として身を立てているロッドの評判にも関わることなのであるから。
 そんなリスクを犯してまで、ロッドがこの男に付き合う義理はないはずであった。
 でも。急について行きたくなってしまったのだから、しょうがない。
「なァ、連れて行ってくれよォ
 ちょっと可愛く言ってみたのに。
 一瞬の間の後、男は皮肉に笑った。
「ハ! 金の匂いを嗅ぎつけでもしたのか? 生憎だがこれは金にならん。私の一存でする私闘だ。それとも血の匂いに惹かれるお祭屋か。どちらにしても私にとっては迷惑この上ないな」
「……まあどっちかと言や、後の方に近ェかな。もうこの国じゃあ戦は終わりだ。契約にはまだ少しばかり期間が残っちゃいるが、そんなの待ってるなんて、性に合わねェぜ。だから戦争屋としちゃー、次の火種が気になってしょうがねーんだ。とにかく戦いたいのさ、俺ぁ」
「見上げた馬鹿だな、貴様」
 血が大好きなこの男に言われたくない、とロッドは思ったが。
 ここでこれ以上話がややこしくなるのは得策ではないと感じたので、あえて反論しないでおいた。
 その代わりに、大声で笑った。笑っている内に、本当におかしくなった。
「ギャハハハ、あんたね。そりゃ腕に覚えはあるンだろうが、一人で特攻するつもりかぁ? んな後ろ暗い理由があるっつったって、事実上の領主の屋敷なんだろーが。当然警護の兵もたくさんいるんだろォよ。自殺しに行くのかぁ?」
「私自身の問題だ。貴様の知ったことではない」
「俺を連れてきゃ、あんたが復讐できる確率は高まるってね。こぉーんな好条件なのによォ、何で連れてってくれねェのか、わかんねえなぁ」
「これは遊びではない!」
「わかってるっての。だーから言ってんのよ」
「……貴様に事情を多少なりとも明かしたのが、間違いだった」
「そんなコト言わないでさぁ。俺、強いぜェ? あんたの役に立つ」
 それはどうかな、と。
 男の黒い目にある光が浮かんだのが、赤い射光の中で見てとれた。



「風切りとは、貴様のことか」
 不意に冷たい声で、そう言われて。
 傭兵仲間の内で、そんな呼び名が自分についていることは知ってはいたが、大して好みでもなかったので、ロッドは首を右にかしげた。
 すると相手は勝手にそれを肯定のしるしととったようで、『フン』と鼻で笑った。
 この中国人には、一人で決め込む癖と、とりあえずは冷笑しておく、という習慣があるのだなと、イタリア人としてロッドは考えた。
「旅先の酒場や店で、幾度となく耳にした。どんな男だろうと思っていたが、まさか貴様のような下品な奴とはな」
 無機質な顔つきで、こんなことを言う。彼はロッドに対して、何やら余り芳しくない評価をしているようである。
 やれやれだ。
 まあ、彼の前では、女に声をかけることと、ゴロ寝することしかやった記憶がないから、無理もないとは思いながらも、ロッドはそのことに関して言い訳をするより、先に気になったことを口にしてしまう。
「へーえ、あんたみたいのでも、酒場や店で、メシは食うんだァ」
 何も霞を食べて生きている訳ではないだろうとは思うが、こんな磁器人形みたいに、つるりとしたオーラを纏うこの何処か現実離れした男が、自分と同じように酒場や店に入って飲食をするとは、ちょっと想像がつかなかった。
「……私を馬鹿にしているのか」
「や? べっつにぃ」
 しかめ面をしている、そんな彼に、ロッドは親しみを感じた。
 いつか一緒に酒を酌み交わしてみたいと思ってはみたものの、あいにくと今はそんな雰囲気とは程遠かった。
 むしろ真逆。



 急に張り詰めた空気。
 漂う殺気を感じ取って、ロッドは全身の筋肉を緊張させる。
 相手に視線をやれば、殺気の源泉であるその男は、ちろりと赤い舌をその口元から覗かせた。
 ゆらり、と男の背後に影のように闘気が立ち昇る。
「貴様は、戦いを欲するとほざく」
 ロッドは、答えなかった。ただ、目をガラス玉を転がすように、ぱちくりさせた。
「ならば、殺ろう」
 男がそう、クチナシの花びらのように反った口元で、ニッと笑った時。
 ざあっと風が吹き抜けて、ロッドの背筋にちくちくと予感の棘が突き刺さって、熱い炎が空気を焦がす臭いがした。



 男が地を蹴る音が、戦いの合図だった。
 上空から放たれた帯状の炎が、赤い隼のようにロッドを襲う。
「……ッ!」
 身を仰け反らしてそれをやり過ごしたロッドは。
「ケッ。やーるじゃねェかぁ!」
 そのまま低い姿勢で、着地した相手の腹めがけて、強烈な回し蹴りをお見舞いする。
 相手が再び跳躍してこれをかわすのは、彼の身のこなしを見れば、簡単にわかることだった。
「……しかたねェ。ヤるかぁ」
 腰に収めていたナイフを引き抜き、ロッドは身構える。
 相手も刀を構え、二人は対峙した。



 ロッドが当惑を感じたのは、相手の呼吸をほとんど測ることができなかったことである。
 向かう男は、息をしている者とは感じられなかった。
 かちり、と互いの刃先が触れ合って、高い音をたてる。夕暮れ時の遮光が、二人の間に淡い輝きを描き出す。
 男の目の奥が、きらりと光った。その刹那。
 軍刀の刃先がぐるりと裏返され、下から太い背の部分で、ナイフが跳ね上げられる。
「っ!」
 痺れるロッドの腕から、ナイフは弧を描いて弾き飛び、再度裏返った軍刀の鋭い刃先が、ごうと音を立てて彼を襲う。
 その瞬間、ロッドは相手の懐へと入り込み、その足を払う。
 男は倒れなかったが、その勢いは削がれた。



 地面を一回転したロッドは、ちょうど飛んだナイフが落ちてくる場所へと滑り込み、右手でそれをキャッチすると。
 目にも止まらない速さで。
 今度は自らがナイフを、男の左胸に向かって、投げつけた。
「……!」
 男は身を捩って避けた。
 しかし、瞬間、ナイフの切っ先はぐうんとスライダーのように軌道を変え、男に突き刺さらんと疾走する。
 ロッドは風の力を使ったのだ。
 さしもの男も、声をあげた。
「なっ!」
 苦し紛れに、男は炎の壁で自分の全身を包む。そう見えた。まさか火で刃を防ごうとでもいうのか。
 だがそんなことをしても無駄だった。
 炎の中に黒く浮き上がる男の影。それをロッドが視認できる限りは、その影を貫けばよいのであるから。
 風の力で操られた刃は、まるで生き物のように鎌首をもたげて、その影を追う。
 そしてついには炎を貫き、男に突き刺さったかのように。
 見えた。
 しかし。
 刃は、すうと炎を刺し通した後、火花を散らして後方へと抜けた。影も消えた。
 そこにあったのは、炎のみだった。



 ロッドは、頭上を見た。
 まさに、宙を飛んだ男が、自分の脳天に向かって、鋭い刃先を振り下ろしてくる刹那だった。
 炎の壁は、刃を防ぐためではなかった。ロッドの視覚をあざむくための囮。
 男は、炎で自分の身代わりを作り、そちらに刃を向かわせて、自分は空に飛んで攻撃に転じたのだ。
「……くそっ!」
 今度はロッドが避ける番だった。
 彼は、男が打ち込む刃を、左足を後方に引いて鼻先すれすれにかわし、地に腕をついてその力で体をひねって飛び退りざま、強靭な右足で、着地したばかりの男の顔面をなぎ払った。
 これもギリギリで男は身を竦めて避け、そのまま背後に飛んで、体勢を整えた。
 ロッドは、男が体勢を整える隙に、落としたナイフを手に取る。身構える。
 五分五分の争いだった。



 睨み合う二人。構えた互いの刃先に、見えない火花が散る。
 この闘いは次で決着がつくのだということは、言わずともわかっていた。
 気が、満ちて。
「……!」
「……!」
 同時に、二人は大地を蹴った。



 影が交差する。
 着地した時、二人の体は見事に入れかわっていた。
 ロッドの構えたナイフは、男の胸を斜め左から貫かんという様になり、心臓まで数センチの距離で刃先は止まっている。
 男の軍刀は、その刃先をロッドの右の首筋に当て、これも皮膚一枚を残した間隔で停止させている。
 そのまま、沈黙が降りた。
 どれくらいの時が経ったか。
 クク、と笑いを漏らしたのは、男の方だった。
 薄い唇を歪めて、いかにもおかしいといった風に笑う。
 それに気を削がれたロッドは、ふう、と溜息を一つついて、ナイフを腰に収めた。
 相打ち、だった。



 笑い終わった後、男も刃を収めて、こう漏らす。
「私とここまで刃を合わせることができたのは、貴様が初めてだ」
「そりゃあ、どーも」
 どうやら自分はこの男の眼鏡に適ったらしいと、ロッドは内心、胸を撫で下ろす。
 ロッドにしても、ここまで自分と競る男に出会ったのは、今が初めてだった。



 夕暮れは次第に闇に飲み込まれ、相対する二人の影は、長く薄くなる。
 雲の向こうに、黒い鳥が飛んで、何処かへと帰ろうとしている。
「風と火は、相性がいい」
 そんな言葉で、男はロッドの申し出を受け入れた。
「貴様と契約しよう。契約内容は、私の戦闘のサポートをすること。契約期間は、戦闘を終えた後、安全な場所へと退避するまで」
 きっちりした性格らしい男は、なあなあなのは嫌いらしい。細かくあれこれ言ってくる。
「いいか、貴様の仕事はサポートのみだ。くれぐれも私の邪魔をするな」
 うん、うん、とロッドは大人しく頷いた。連れて行ってくれるなら、どうでもよかった。
 ありきたりのことを告げた後、男は少し困ったような目をした。こんな表情もするのだと、ロッドは男を見る。
「……対価は何だ。ただ私には持ち合わせがない」
 この男が無一文であるということは、ロッドは勿論知っている。
 対価。一緒にしばらく付き合うかわりに。
 連れて行ってもらいたいだけで、その上何かを貰うなんて、そんなこと考えてもいなかったから、どうしようと迷った挙句。
 ロッドが口にしたのは、こんな台詞だった。
 この仕事が、上手くいったら。俺に。



「あんたの頬に、触らせて」
 相手は露骨に嫌な顔をした。当然だ。
 吐き捨てるように言う。
「貴様にはそういう趣味があるのか……!」
 再び男の指先が手刀のかたちをし、赤い炎がごうと立ち昇る。
「死ね。死んで償え」
 そして今にもロッドを殺さんばかりの闘気のオーラが、むくむくと沸き立ち始める。
「違う。違う違う、違うって!」
 広げた手の平を懸命に振って、ロッドは訴える。
「あんたも知っての通り、俺は女好き、そっちの趣味はねェって!」
「ならば、何故!」
「俺にゃあ、ガキっぽいところがあってね」
 怒った男は、今度こそは本気でロッドを殺しかねなかった。
 ロッドは、あの森から男を救い出した後に、うなされる彼に、決して自分が触れることができなかったことを、手早く説明した。天幕の内のことだ。
 触れるといっても、ただ何となくしたことで。その前に体に止血等はしていたのだけれど、なぜか、あんたの頬だけには触れなかった。
 だから、ちょっと俺は意地になった。
「それからずっとよ、俺は、あんたの頬に触ろうとしてたのに、できなかったのよ。あんたに隙がねえから」
「……」



 やがて男は、フン、と鼻で笑ってから、炎を鎮める。
 やれやれだ。
 変わった奴だ、と男は言って、
「……中国の故事にも、師匠が弟子に自分の隙をつくように課する話がある」
 と続けた。
 なんとか了承してくれたらしいと、ロッドは胸を撫で下ろす。
 自分の論理に叶うと、この男は結構素直なのだなと、心のノートにロッドはまたメモをした。



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 発ったのは夕刻だったが、すでに半日弱が経過している。
 朝靄が駆ける二人の間を、ゆっくりと流れていく。
 木々が、さや、と鳴った。
「なあんか、調子でないのよ」
 ロッドは、そう呟いて、傍らを見た。
「……」
 男は無言。
 だが、この男は聞いているのだとわかっているので、ロッドはそのまま言葉を続ける。森を駆けながら、だ。
 半日同行して、だんだんそういった呼吸というものが、わかり始めてきた頃合であった。
「どーもねェ。あんたといると、精霊の機嫌が悪ィんだよね。言うコト、聞いてくれる時もあれば、聞いてくれない時もあって。ミョーに気まぐれ。消えちゃったりもすんのよ。風が凪ぐことが多くってさぁ」
「……」
 男はまた無言だったが、今度はその後に口を開いた。
「人のせいにするな。しかし貴様、何故それを前もって私に言わない! 風の力が自由に使えないと知ったら、連れてなど来なかった!」
「そー言われるから、言えなかったんだけどォ
「詐欺だ! 帰れ!」
「もうついてきちゃったんだから、ダーメ! 戻っても俺、脱走兵だし。帰るトコないのよん
「帰れ!」
 帰れと言いながら、並んで走り続ける相手に、ロッドはウインクで返した。
 どうもこの中国人は、頑固一徹すぎるのが面白い、自分と対照的だ、なんて思いながら。
「ダーイジョウブ! なんとか可愛くお願いしてみるから まあ、それなりの働きはするって まあ見てな」



 黒髪の男のしなやかに動く体は野生動物を思わせる。
 素晴らしい速さと跳躍力、進路選択の的確さは、基礎能力の高さが抜群であることを示している。
 ロッドは目を見張らずにはいられない。ここが敵地でなければ、口笛を吹きたい気分に駆られる。
 今まで彼は、自分に並んで走ることのできる者に、出会ったことがなかった。
 常に自分が一番優れているのだと感じていた。おどけるのは、根底にある優越感から生まれる余裕にすぎなかった。
 一番であるのに、何処か外れたアウトローであることに、満足していた。
「……へっ」
 ロッドは、目尻に黒髪の男の姿を捉えながら、人知れず笑みを浮かべた。
 わざと走る速度を上げる。
 それでも難なくついてくる相手。
 面白いじゃないの、と胸が高鳴る。生まれて初めての感覚。
「あんた、何のために生きてるの」
 ふと。そんなことを聞いてしまった。
 男は怪訝な顔をする。ロッドは、また言った。
「何のためにさ、子供なんて預かったんだよ」
「それが金になるからだ。仕事になるなら、別になんでも構わない」
「この復讐が終わったらさ、その後はどーすんの」
「……まだ決めていない。その時になったら、考える」
「ギャハハ、顔に似合わないアバウトさ」
「ぬかせ。先程から煩いぞ、貴様!」
 ロッドは、直感している。
 俺たちは――似ている。



 すでに目指す相手の敷地に侵入していた。
 なるほど領主といったが、これは相当なものだ。
 一時間ばかり前に丘の上から見渡した限りでは、青々とした牧草地、果樹園、畑の緑が広がっている。
 朝の霞の向こうに、農家や家畜小屋の木の屋根が、ぽつぽつと見え、教会や修道院らしき尖塔まで視認することができる。川縁には粉を挽くための水車小屋もあり、人々の生活のほどが窺える。
 傾斜しながらうねる細い道、枝分かれしながら進む道、すべての道が、ある一点を中心に放射線状に伸びていた。
 防御設備を施した四辺形城郭。それが、目指す相手の住む屋敷である。
 今、ロッドと男とは、その屋敷の背後にある森に侵入している。



「……」
 男が立ち止まり、身を潜めた。ロッドも同時に身を低くする。
 警邏の兵を認めたのだ。
 すでに数回、彼らと遭遇し、死体に変えてきた。やり過ごしてもいいのだが、生かしておいて、後で本隊と合流されても面倒だったから、殺すのが最も楽な方法だった。こちらが少数である場合、分散した敵を各個撃破するのは常道なのであるから。
 この場合は勿論、その死体が見つかるまでに事を終えなければ、厄介なことになる。
 何にしろ二人に残された道は、短期決戦しかなかった。
 数メートル先を、三つの影が通り過ぎる。
 ……と。その影の一つが、ひゅっと息を吸い込む音が聞こえた。
 次の瞬間、まるで糸の切れた操り人形のように、その影は崩れ落ちる。
 その脇の影は振り返りざまに眉間を割られて、血煙の中に沈んでいる。
「容赦ないのねェ、キレイな顔して」
 自分は残る三人目の頚動脈を切って始末しながら、ロッドがそう呟いても、相手は表情を変えないで言った。
「行くぞ」
 言葉だけが残されて、彼らの姿はもうその場にはない。



 ――不死身なのは、俺だけではなかったのだ。
 ロッドは思う。
 解き放たれた二本の矢のように、二人は血路を開く。
 道と屋敷の構造を、男は知り尽くしているという。



 石造りのいかにも強靭な裏門が見える。
 門には焦茶色の分厚いオーク材の扉が埋め込まれており、両脇に見張りの兵が立っている。
 忍び込む隙はない。
 こうなれば、もう強行突破しかなかった。
 門を破れば、今度はかなりの数の兵が殺到してくるだろう。
 それを、切り開かなければならない。
 目を見交わしただけで、男とロッドとは、それだけのことを了解する。
 同時に――
 男の手からは炎が、ロッドの手からは風が渦を巻き、二人は門の両端の兵士に、襲い掛かった。
 叫び声さえあげず、地に落ちる兵士たち。



「……?」
 チッ、とロッドは舌打ちをして、またかよ、と首をひねる。
 相手は倒したものの、まるで逆刃のような切れ味、鉈でも振り回しているような、そんな錯覚に陥らずにはいられない。
 風の精霊よ、何をスネてやがる。
 ロッドは考えた。
 ……この中国人に、俺様がこんなモンだと馬鹿にされたら。俺は、いてもたってもいられねえ。
「ぐずぐずするな! 行くぞ!」
 門に高温の火を放ち、激しく燃え上がらせている男が、ロッドを見て言う。
「しっかりしてくれよォ、俺の可愛い子ちゃん!」
 ごう、と。
 焼け落ちる門を包む、巨大な炎に向かって、ロッドの手から突風がつき刺さる。
 ゆらめく炎に、丸い空洞ができる。
 二人はその穴に飛び込み、邸内へと侵入した。



 一人でいることには慣れていた。
 だけれど、一人が好きだと思ったことなんて、一度もなかった。
 だからロッドは風を愛する。
 思い出を少しずつ、少しずつ、風化させながら、走ることができるから、ロッドは風が好きだった。
 風は、いい。
 いつも心が、空気に溶けていくだけだ。



 彼は風の精に祈る。
 傍らには、火の精を操る男がいた。
 風が吹いて、炎を巻き上げる。
「すべて燃え尽きるがいい」
 男の冷たい言葉と共に、ロッドは男の炎の威力を何倍にもする。
 『風と火は、相性がいい』というのは、本当だった。
 どちらも攻撃の属性を持ちながら、相克しない。互いの翼を強くする。



 昔の自分は、大人になったら何かがわかるのだと思っていた。
 だが大人になった今、何事もわかったものはない。
 かつて戦うのを止めろ、と母親は言った。
 だがロッドは、戦いを止めることはできない。
 それは彼にとっては、息をしないで生きろというのと同じなのだから。
 戦いとは、換言すれば相手の息の根を止めることで、その正当化手段である正義と悪は、少しの偶然で簡単に入れ替わった。
 この屋敷に侵入したのもほんのたまたまで、雇われれば逆の立場であることだって、ありえたはずだ。
 その時は、自分が侵入者を殺す。
 ああ、自分が正しいから、人を殺してるなんて、思っちゃいない。
 ただ――このもどかしい身を焼くスリルが欲しい。一瞬の火花の安らぎが欲しい。生きているということが、知りたい。スリルがあれば、最後は地獄にだって行く。
 勿論ロッドは、このままではいけないとは知っている。戦いの惰性の内に過ぎ去り行く日々を送るだけ。何も新しく生み出すものはない。
 刹那的な快楽主義者。このままでは、いつか自分は瓦礫の中に、世界に何の意味も残さずに朽ち果てる。
 ロッドはまだ若かったが、その若さがいつまでも続くものではないと理解している。
 探さなければならない。自分のために、生きる意味を。
 何のために戦うのか。
 誰のために戦うのか。
 あと何年自分が生き延びるのかも知らないが、呼吸が止まるまでの時間に俺は、戦う意味を見つけることができるのだろうか?
 背後を託し、また頭上に戴く人に――出会うことができるのだろうか?



「……ッ!」
 男とロッドは血煙の中で、階段を駆け上がる。
 二階から慌しい足音がして、下からも足音がして、踊り場の辺りで、二人は兵士たちに挟み撃ちに合う。
 取り囲まれてしまう。
 一歩後ろに下がったロッドの背中に、男の背中が触れる。
「……」
 今、自分が背後を託しているのは、この黒髪の男だった。
「へ、へ、へ」
 奇妙なおかしさを覚えて、ロッドは笑う。
 すると背後から不快気な声が返ってくる。
「この状況で狂ったか。何がおかしい」
 棘を含んだ声音に、ロッドはとびきりの愛想のよさで答えてやった。
「あんたと二人っきりだってコト。それが、おかしいなァ。ロマンチックだぜ」
「やはり狂ったな……来るぞっ!」
 瞬間、二人は同時に跳躍して、突き刺すように襲い掛かる弾丸をかわす。



 刃の中で。
 ふと、ロッドは。
 この黒髪の男は、何処か拠り所を求めているのではないかと思う。
 背中を合わせた瞬間、そう感じた。
 おそらく本人は自覚してはいない。
 だがナイフで切り裂いたようなその黒瞳の奥には、どこか脆い光が宿っている。
 俺たちの求めるものは同じなのではないか。
 俺がこの男に引っかかっているのは、この同種性ではないのか。



 屋敷の二階に侵入した男とロッドは、背後に振り向きざまに刃を受け、弾丸をかわしながら、長い廊下を走る。
 この突き当りが――目指す相手の寝室だという。男は、朝方にならほぼ確実に仇がそこにいるという事実を、知っていた。
 無機質な軍靴の音。
 二人の目の前には、次々と兵が立ち塞がる。周囲に兵士溜りがあるのだ。
 そしてこの警備の厳重さは、確かにその主が奥にいることを示していた。



 館は燃え出していた。
 パチパチと炎のはぜる音がし、まさに炎の精であるというサラマンダーを体現したように、炎は床をつたって壁をつたって天井へとうねるように這いずり回り、空間を揺らしているのであった。
 と。
 ロッドの前を行く男の足が、ぴたりと止まる。
 館二階の最奥――白い扉の前。
 ここが最終地点か、とロッドは了解した。
 そして、扉を蹴破ろうとしたのだが。
「……待て」
 男の手が、それを押しとどめた。
「ここは私一人で、行く」
 そのあまりの静かな声に、ロッドは息を飲む。
「貴様の仕事だ。私が出てくるまで、ここは持ちこたえろ」
 すでに数度換え、それでも血糊で切れなくなった軍刀で、男はその部屋の鍵をこじ開けると。
 影のように、滑り込んでいった。



 ロッドは言われた通りに、追手と切り結ぶ。奪った銃で、銃撃戦を繰り広げる。
 風で一掃しようかとも思ったが、精霊を呼んでも、ついにうんともすんとも言わなくなったので、仕方なしに肉弾戦に頼る。
 やがて――
 開いた時と同じように、音もなく扉が開いて。
 男が部屋から出てきた。
 これも入った時と同じように、冷たい顔をしていた。
 その顔で、ロッドの戦いに加わる。
「用事は済んだのかぁ」
 相手の身体が側にきたとき、ロッドはそう聞いた。
「ああ……」
 それだけ男は言って、右腕を差し出し、その拳を開いて、握ったものを示した。
 ――輝く小さな緑の石。
 これが、その殺された少年が耳につけていた宝石なのかと。
 やはりこの館の主が暗殺者であったのかと。
 仇はとったのかと。
 そんな質問を、する前に。
「もうここには用はない……去るぞ」
 男は、跳躍した。一閃の蹴り。



 廊下の大窓が、引き裂かれるような悲鳴を上げて、派手に割れる。
 同時に、男が出てきた扉の隙間からも赤い炎が這いずり出て、あっというまにその周囲を嘗め尽くす。
 二階も、火の海になっていた。
 二人は、飛び降りる。



----------



 自分の黒い影が地面を舐めるのを、ロッドは見つめている。
 影も炎と同じだと思った。いつまでも、傍らにある。
 彼らには、追手が放たれていた。
 あの屋敷の主を、男が殺したのか殺さなかったのか――おそらく答えは一つ――は、ロッドにはわからない。
 男とはあれ以来、一言も口をきいてはいないからだ。
 数度、追手とは刃を交えた。
 おそらく男と自分の行為は、他の利害関係者の益になることでしかないであろう。
 領主の座を狙う相続資格者は他にもいて(たとえば今回の仇、少年の父の他の兄弟はまだ生きているはずだ)、彼らがこの近辺にいてこの惨事を知ったなら、ここぞとばかりに追手を放つはずであった。
 二人を捕らえれば、それだけ他の相続人よりも有利になるのだから。
 だが、そんな事情は、もうどうでもよかった。
 この男の気持ちの整理がついたであろうこと。そして、ロッドの前に、今そこに戦いがあること。
 そればかりが、二人にとっては重要であったのだ。



 来た時とは経路を変え、森の奥深くに入り込んでいく二人だ。
 出口はなく、ぐるぐると同じところを巡っているような気もする。
 遠くから、犬の声が聞こえる。
 犬の鼻が二人を楽にしてはくれない。
 また、切り結ぶことになる。



 ふっと一瞬だけ森が途切れて、しかしそれは錯覚で、また緑が深くなった。
 すでに日は昇り、太陽の光が二人をくっきりと浮かび上がらせている。
 逃亡者としては、かなり分が悪い。
 森が途切れた瞬間、背後に立ち昇る白い煙が見えた。
 屋敷は――燃えているのか。
 自分たちは、この当て所のない迷路から、抜け出すことができるのか。
 さすがに若い二人の体力も、無尽蔵ではない。
 このままでは消耗するのは目に見えていた。



 男が、立ち止まった。
「……?」
 ロッドは不思議に思い、ふと先を見れば、地には、崖のようになった巨大な窪みがあった。
 底は深く見えない。その傾斜は急で、今まで無数の獣の体を飲み込んできたに違いなかった。
 これは迂回していくしかないのか。
 逃走経路が絞られれば絞られるほど、逃亡者にとって不利になるのは自明の理であった。
 ロッドが、『どうする』という意を込めて、男を見たのに。
 男は、全く違うことを言った。
「生憎だったな。私の調子もよくないようだ。正確には、たった今から」
 その刹那、水気を含んだ風が一陣、ロッドの頬を掠めたかと思うと。
 たちまちに飛礫のような大粒の雨が、激しく天空から降り注いだのだ。
 夏の驟雨が、二人を襲う。



 幸運なのか不運なのか、わからなかった。
 篠つく豪雨に視界をシャットアウトされて、すべてが掻き消されていく。
 所詮は人間の放つ火など風など。自然の水にかけては児戯のようなものだった。
 空から解き放たれた銀色の矢には、さしもの二人も適わない。
「……ッ!」
 ロッドは、目をつむって、手を伸ばした。
 その先に、共にあった男の身体が、確かにあった。
 相手の腕を掴む。引き寄せる。引き寄せても、抵抗は受けなかった。
 見えない世界で、二人の存在が一つになって、崩れ落ちる。
 彼らはそのまま、森の傾斜を、水飛沫と一緒に滑り降りていった。



 崖を滑り行き着いたのは、巨岩の陰。切り立つように聳え立つ。
 激しい雨の中、岩のかたちに切り取られたその場所が終着点。
 ロッドの手指から生まれた風の膜が、彼らを繭のように包んでいたので、剣呑な岩肌を降りても二人には目立つ傷はない。
 万が一の時には、やっぱり助けてくれる風だった。愛してるぜ、とロッドは口の中で呟いて、目を擦った。
 降り続く雨。夏の雨は、いつも激しい。情熱をもって、全身全霊で、雨粒を落とす。
 しかし突き刺さる雨の矢から、岩はロッドと男とを庇ってくれるのだった。
 少し視界が晴れて。互いの姿が視認できるようになって。
 泥まみれの相手の顔と、視線が合った。



「……私に触ったな」
 開口一番、それだ。咎めるように言われた。
 なんだってんだ。処女じゃあるまいし。
「珍しく言葉が正確じゃねェなぁ。ホラ、今も『触ってる』」
 滑降の間も、ロッドはしっかりと相手の腕を掴んだままだった。
 その証拠に、自分の手を、軽く持ち上げて見せた。
「……チッ」
 舌打ちはしたものの、男は、それ以上は離せとも言わなかった。



 ざあざあと雨は二人を包んでいる。
「契約はまだ終わっちゃいねェけど」
 額から透明な筋が、幾重にも幾重にも流れ落ち、二人の身体の輪郭をつたう。
 ロッドは、これ以上にないくらいに濡れた唇を、舌を出してぺろりと舐めた。
 なぜか塩辛い、味がする。
「前払い」
 そう言って、ロッドが男に伸ばした指先は、今度は叩き落されはしなかった。
 契約の報酬を前倒しして、その頬に触る。雨と泥に汚れた頬は、それだけに肌の白さが浮かび上がるようだ。
「……」
 男は無言だ。表情も変わらない。ただ蛇のような目で、ロッドを見ている。
 見られている、とロッドは思う。
 指先の感触。想像したより、やわらかい。
 触ってしまってから、どうして自分はこんなものに触れたかったのかと思う。
 そして一つの衝動に思い当たる。その先。自分が求めているのは、この先の。
 すると、心が体の中から溶け出したような、不思議な陶酔感に浸りはじめる。
 溶け出した感覚は、雨となって流れ落ちて、しかし消えずに二人の間に積み重なっていくように感じられた。
 その感情の嵩が、ある地点にまで達した時に。
 不意に、彼らの唇が、触れ合った。



 相手の喉が上下するのがわかる。どんなに鍛えても、喉のその部分は、白くはかないまま。
 赤い舌。蛇のようなこの舌に、俺は絡めとられてしまうのか。
 じゃり、と口の中から鼓膜に音を感じて、それが男の唇の端にこびりついた泥のかけらだと気付いて、やたらおかしくなって、ロッドは唇を合わせたまま一人笑う。
 どうしてこんな泥の中で、性急にキスを自分たちはしなければならないのかと、また不思議に思う。
 どうして、どうして。この男といると、ロッドは疑問ばかりだ。
 彼に会うまで、何ものも疑ったことなど、なかったのに。ただ、受け入れるのみだたった。何ものも不思議に思わず、その日を生きていた。
「……ッ」
 男が細い眉をしかめる。もっとしかめさせてやれと、ロッドは彼の舌先を噛む。
 すると、報復とばかりに自分も舌を噛まれて。そうだ、この男は、復讐が大好きなのだったと、思い当たる側でロッドは楽しくなる。
 彼とのキスは、ひどく良かった。
 今まで生きてきた中で、最高だと言えるぐらいに。
「こんなに感じるなんて。死ぬ時が近付いてるって証拠?」
 息の切れ目に、ロッドがそう囁いても、黒髪は否定も肯定もしなかった。
 ただ今までの態度が嘘のように、ロッドが抱きしめた時のままの姿勢で、大人しくしていた。
 雨で炎の男には分が悪いから? それとも?
 その冷たい表情からは何も読み取れなかったが、ただ、キスの合間に、ロッドの首筋に一度だけ降りてきた男の唇と。
 最中に、金髪と一緒にロッドの耳の裏をなぞった男の指先が、何を示していたのかは、今はまだわからなかった。
 それは、生き残らなければわからないこと。



 雨が続いた時間は、長いようにも短いようにも感じられた。
 驟雨は、降った時と同じように、跡形もなく一瞬で晴れ上がった。
 二人は、無言で立ち上がる。
 追手は――この雨では、彼らも追跡を中断していたに違いない――二人を探すことに苦心しているはずだった。
 雨がその臭いを洗い流してしまったのだから。
 二人が逃げおおせるためには、追手よりも早く行動を再開することが肝要だった。



 二人は駆ける。
 顔を出した太陽の位置から、方角はわかっていた。
 駆ければ、空の向こうには、美しい円弧を描く虹が浮き上がっているのが目に映る。
 はるか遠くの空から、過ぎ去った雷鳴が小さく伝わってきた。
 森の中に風はない。だが草のざわめく声が聞こえる。つまり、駆けるロッドの周囲だけに、風はないのであった。
 風の精は、怒っている。いつもの通りに、怒っている。
 しかしその理由は、今のロッドにはもうわかっている。
 雨上がりの緑の濃い、水彩色に滲む森を、ひたすら抜ける。



 ついに前方に小さな光が見える。
 森の出口だ、と思った。思えば、歩みは速くなり、それとは逆に心が押し潰されそうな気持ちを味わった。
 もうすぐ終わる。あの光の下で終わる。
 俺と、この隣にいる男の時間は、終わる。
 ぐわんと森の壁面が共鳴し、収縮をくりかえす生き物の腹のように、深い緑と滲む藍は二人を包むのだ。
 死の縁から生の輝きへと、森は躍動しているのだった。
 ロッドと黒髪の男は、駆ける。
 水飛沫が跳ねて、足先は泥にまみれる。
 二人は、若かった。なにもかもが、青くて未熟で、時の練成を待っていた。
 ただ本能が、生きることの熱へと焦がれている。



 大きくなっていく光に飲み込まれて、二人はその瞬間、眩しさに目をつむり、それから目を開けて吐息をついた。
 目の前には、青い空と同じく青い青い水を湛えた湖が広がっていた。
 ロッドは、歓声をあげた。
 その隣の男は、右眉を動かした。
 飛び込んだのは、同時だった。



 きらきらと輝く水面が、澄んだ水飛沫をあげる。
 血と泥とが円を描くように流れて、やがて澄んでいく。
 美しかった。
 すべては、命に満ちて、歌声をあげていた。
 湖の向こうには山岳地帯に続く丘が伸びていて、知ったかたちをした城が見えるのだった。
 なだらかな高原には黄褐色の馬の姿も見えて、小屋からは炊事の煙も立ち昇っているのがわかった。
 ここは国境だった。越えれば、追手は、好き勝手は少なくとも大っぴらにはできないだろう。
 泳ぎ切って、対岸に渡れば、自分たちは助かるのだった。



「この湖を渡れば、契約終了だ。いいな、違う方角を向いて歩き出すのだ」
 湖の中で、男がやはり冷たく言った。
 濡れた黒髪には、艶がある。
「さみしいねェ」
 ロッドが言うと、男の目が、じろりと自分を睨んだ。
「馬鹿め。私と貴様は他人だ」
「つれないこと言わないでよん、さっきはあんなに燃えたのに
「……寄るな。近付けば殺す」
 その言葉が嘘ではない証拠に。
 男が手刀で水面を打つと、同心円状に何十もの輪が広がって、その上を炎が巡る。男を中心として、丸く火の壁が張り巡らされて、ロッドは彼に近付くことができなくなった。
 よし、そうくるのなら。
 そうロッドは思い、自分も精霊を呼ぼうと、念を込めたのだけれど。俺の風で、炎を吹き消してやる。
 まるで空の袋を探っているような当て所なさで、風は答えを返してはくれないのだった。
 また、風の声が聞こえない。
「躾けていない証拠だ」
 炎の中から、ざまあみろといった口調で、男が賢しげに言う。意外に子供っぽい。
 ロッドは、ざぶりと水面の下に頭を潜らせて、顔を出して、濡れた髪をかき上げながら、口を開く。
「たぶんね、妬いてるんだ」
 男に流し目をちらりとくれる。ちょっとこの角度には、自信あり。
「俺があんたに夢中だから」
 魂なき美女は、この男といる俺には、力を貸すことを嫌がる。必死にお願いした時と、命ギリギリの時にしか、手を貸しちゃあくれない。
 普段あんなに可愛がってやってる癖に、冷たい女だと思ったが、ロッドはそんな、こごえた薄氷のような感情が、好きだった。
 冷たい人が好き。
 冷たいのに――最後は炎に包まれるような――情熱が、好き。



「……戯れ事を」
 吐き捨てるように呟いた男は、手指をくいと下方に曲げる。
 炎の壁が、消えた。
 水飛沫があがって、男も、水面の下に潜ったのだとわかった。
 嬉しくなって、ロッドも同じようにした。
 それから二人で、泳いだ。
 追手の姿はない。二人は崖から落ちて死んだとでも思ったのか、森の方角はしんと静まり返り、雨上がりの霧に霞んでいる。
 山の尾根の向こうで、虹が、消えた。



 ロッドは傍らの男に尋ねてみる。
「さっきも聞いたけどさァ。これから、あんた、どーすんの。傭兵稼業でもすんの。それとも、まーた炎の能力者の子供でも捜すのかぁ?」
「貴様には関係ない」
「まったそんな。一緒に戦った仲だぜェ。キスだって……あちちっ!」
 瞬間、ロッドの髪先が燃え上がって、彼は慌てて水面に沈んだ。じゅっと音を立てて、火が消える。
 危ない、危ない。
 しかし、怒られても、すぐに火を消すことのできる湖とは、好都合な場所だと思った。
 恋を語るには、素敵な空間。
 そしてキスをするなら、雨の中で。
 でも、今は。
 まだ――その時期じゃない。
「勘違いするな。私は貴様が嫌いだ」
 いつか聞いた台詞を、男ははっきりと口にする。
 濡れた黒髪が男の額に貼り付いて、その表情はやけに幼く見えた。
 だから、こんな冷たいこと言われたって、俺は。
 ますます図に乗るだけなのに。
「風と火は相性がいい、って、あんたが最初に言ったんだぜ」
「それは属性の話だ。個人の性格とは関係ない。私は貴様のその惰弱な性根が嫌いだ」
「だじゃく、って。あんた、ホントにどーいう育ち方してきたのかねェ? ンな古い言葉を日常会話に使うヤツぁ、今時いねーぜ」
「何とでも言え。もう話しかけてくるな、貴様に口をきくのはわずらわしすぎる」
「あんた、いくつ? 同い年ぐらいだと思ってたんだが、もしかしたら俺なんかより、ずっと年上だったりすんの?」
「……失礼な」
「あ、怒ったァ? 怒ったね。怒らせるの、面白いねぇ、あんた……って呼ぶのも、もう俺は飽きたな」
「私は貴様の顔を見るのに、すでに飽きている。貴様の顔は濃い。一生の間、視界から失せろ」



 こんなに男前の俺なのに。
 年齢のことを言われた意趣返しかとも思ったが、顔が濃いと言われた、それには反論しないでおく。もっと大事なことがあったから。
 ロッドは言い争いを止めて、男から離れ、数メートルばかり泳いだ。
 太陽の光は彼の逞しい二の腕を照らし、水を弾くさまが輝きに彩られた。
 炎の攻撃の届かない、安全な場所まで離れてから、大声を出して言う。
「あんたの名前を、教えて!」



「大声を出すな。私たちは曲がりなりにも追われている身だ」
 ロッドは、ちょっと笑う。男は、『私たち』と言い、『私』とは言わなかった。
 そのことが、嬉しかった。
 間を置いて。
 答えがもたらされる。
「……マーカー」
 ロッドは、ますます笑った。
 大声を出すなとたしなめられたばかりなのに、きゃっほうと歓声を上げて、あちこちを泳いだ。
 憮然として、胸から上を水面に出したまま、佇んでいる男の周りを、ぐるぐる回る。
 マーカー、か。
 マーカー。マーカー。
 いい名だ。



 口の中でさんざん繰り返してから、ロッドはぴたりと泳ぐのを止めて、男を――マーカーを――正面から見据えた。
「あんたは知ってるか知らないかわからねーから、言っておくぜ。俺の名前はロッド。いーい、マーカーちゃん」
「馴れ馴れしく呼ぶな。史上最大の気味の悪さだ」
 そんな答え方をするからには、マーカーは、今まで一度もロッドの名前を口にしたことはなかったけれど、そういう名前であることは知っていたらしい。
 ロッドは、続けて言う。しっかりと言う。
「あんたね、ちゃんと俺のこと、覚えてて。ずっと覚えてて。次に会う時にゃ、俺の名前、呼んで」
「もう忘れた」
「だーめ。そのお利巧そうな顔に、覚えちゃってると書いてあるぜぇ? 冷たいマーカーちゃん、そのポーカーフェイスは俺だけには効かねェ、そのことも覚えておくんだな」
「しつこい男だ。だから嫌われる」
「嫌われてもいーよ。嫌いでいいから、だから……」
 ロッドは、声を潜める。そしてまた数メートル泳いで、今度はマーカーから数センチの距離までに、詰め寄った。
 突然のことだったのか、今度は炎の壁で妨害されることはなかった。



 ぽたりとロッドの前髪から、雫が落ちる。雫は、マーカーの右頬に落ちる。
 ロッドの鼻先が、マーカーの鼻先を掠める。やけに官能的な距離だ。胸が高鳴る。
「次に……次に出会った時は、あんたを抱かせて」
「……」
「いい? 次に会った時。マーカー、あんたの年が30だろうと40だろうと50だろうと、俺は必ず抱くよ。覚悟しとけ」
「貴様と私は二度と出会うことはない。勝手にしろ」
「残念ならがそれが違うんだなァ。マーカーちゃんも感じてるだろう。俺が能力者ってコト、すぐに見抜いたみたいによ」
「……」
「必ず……あんたと俺とは、出会うよ。いつか、同じ旗の下で、出会う」
 求めるものが同じである限り。必ず。
 そんな確信が、ロッドにはある。



 俺たちは同じだ、マーカー。
 いつか――
 仰ぐ旗、戦う意味、自分を捧げる人に出会う、その日まで。
 マーカー、俺はあんたのことを、忘れないだろう。
 恋を語るには、まだ早い。
 俺たちは、魂を持ってはいない。大切なものを背負ってはいない。
 魂同士が火花を散らす恋がしたいよ。
 あんたとなら。
 いつかそれが叶うような、そんな気がする。
 今まで、何の目的もなしに生きてきた俺だけれど、いつか来る日を胸に抱いて、俺はこれからも生き残る。



 初めて名前を知った男、対岸に向かって泳ぎ出す背のライン、跳ねる透明の飛沫、彼が水をかく瞬間に白い横顔が見えて、ロッドは口笛を一つ吹く。
 昔から――冷たい顔の奴は、俺をぞくぞくさせる。
 その心のざわめきは、遠い過去へと続き、さらには巡る時間の息吹へと姿を変えていく。
 ロッドの濡れた頬を、風が通り過ぎた。風の機嫌は直ったのか、どうなのか。
 夏の風には、やがてくる未来への予感が込められている。
 熱くて乾いて時には湿って、どこまでもどこまでも吹き抜けていく。流れるように、滑り出していく。
 ロッドの視線の中で、マーカーは泳ぐのを止め、こちらを振り向いた。いまいましげに言う。
「早く来ないか、貴様」
 貴様がこのままぐずぐずしていて捕まろうが殺されようが、知ったことではないが。
 そこから足がつくのが面倒だ。寝覚めも悪い。だから早く来い。
 ロッドはまた、その声に笑った。
 いつか、あんたと語り合いたい。何をって? わかってるだろう。
 わかっている癖に。そんな冷たい顔をする。
 俺の風を感じられる場所で……また出会えることを願って。
 やがて、貴様、と呼ばれた男も、束の間の別れに向かって、泳ぎだした。








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