恋する四字熟語

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15:00 日常茶飯★★★



 快晴だった。
 青空の下、遠征から帰還した俺は、これから始まる帰還式のために、音響設備の最終チェックをしていた。
 部下にやらせればいいのだとも思うが、やることの出来る範囲は自分でやらないと気が済まない。
 南国のあの日から年月が過ぎて。
 俺が研究を始め、軍務にも携わるようになって。
 過保護の高松がへそを曲げて。
 『グンマ様! キンタロー様! 私は出て行きます! 後で泣き付いたって知りませんからね!』とばかりに、本部から姿を消してから。
 俺、キンタローの自立は始まった。
 それからは独立独歩、自らの道を暗中模索し、徹底徹尾、その本分を完全遂行しようと、切磋琢磨しつつもその困難さに悪戦苦闘し、粉骨砕身を尽くしているつもりだ。
 難行苦行に耐え、世界中を津々浦々の南船北馬、このガンマ団を勧善懲悪の集団とすべく、試行錯誤を重ねているのだ。



 数多の団員たちが、大広場に集結し、整列している。
 幹部たちが特別席につき始めている。
 式典は体裁を整えつつあり、立ち並ぶ団員たちの顔には、若き総帥の姿に期待する眼差しがあった。
 当のシンタローといえば。
 壇上脇の総帥席に座り、これから行う訓辞内容を頭の中で整理しているようだ。
 今や一通りの総帥としての職務をこなすシンタローだが、演説だけはまだ慣れないようで。
 失敗しないようにと思いつめているのだろう、傍目にもピリピリしていて、滅多なことは言えない雰囲気がある。
 いつも俺やグンマが気を使ってしまうのは、こんな時なのだ。
 仕方がない。今日も気を使ってやるとするか。
 そう思って、俺は声をかけた。
「シンタロー! しかし一望千里のこの光景、我が軍は、実に威風堂々としているな! 一気呵成にお前の存念、理路整然と述べるがいい」
 そう、虚心坦懐に激励してやったつもりであったのに。
「……とりあえず、その四字熟語はうざい」
 こう不機嫌に言われてしまった。
 昨晩寝る前に、『やさしい四字熟語辞典』を暗誦していたのが悪かったのだろうか。
 気がつかない内に、俺の言葉に四字熟語が混じっていたとみえる。
「ぬぅ……意味深長」
 以前、高松にその去り際、『アナタは影響されやすいので、私はそれだけが心配です』と指摘されたことを思い出して。
 俺は気を引き締めた。



 意外に音響機器のチェックは手間取る。
 だいたい、筐体設計自体が旧式で時代錯誤、回路が俺に言わせれば無駄だらけだ、多事多難。
 新生ガンマ団を名乗るのであれば、このような設備投資にも気を配り、最終的には自動制御、オートメーション化を推し進めていくべきではないだろうか。
 人的刷新と共に、機器の刷新も重要なのだ。
 予算案を上申してみようと、俺は心に決めた。
 しばし沈思黙考。
 その時、てててて、とでも表記せざるを得ないような、足音がして。
 あの、女みたいな声がする。ぱたんと途中で転ぶ音がして、それでも、てててて、と走ってくる。
 帰還式典がもうすぐ始まるというのに、よくこの静けさの中を大騒ぎで来られるものだと、その胆力に感心せざるをえない。
「キンちゃ〜んっ! お帰り〜っ! あのねっ、あのねっ!」
 グンマが。
 ぽうんと勢い良くジャンプして、俺の首に抱きついてきた。
「なんだ、騒々しいぞ、グンマ。軽挙妄動は慎んでお前は研究室にいろ。今から帰還式典が始まるというのに。猪突猛進。しかしお前とイノシシは似合わんな」
 こう言った俺だが、高松や自分やシンタローがいない時間、グンマは寂しかったのだろうなと思う。
 マジック伯父上が側にいらっしゃったはずだが、あの方もお忙しいから。
 ただでさえ、甘えたがりのグンマだ。



 静かにしていろと言い聞かせ、俺は作業を続行したのだが。
 水を打ったような大広場、団員が整列する中で、グンマの騒ぎはおさまらなかった。
 一体どうしたというのだ。
「キンちゃ〜ん! 聞いてよっ! 聞いてよっ!」
「解った、解った。聞いてやるから、しばし待て。この訓示が終わってからだ。見て解らんか、俺は機器の調整をしている」
「キンちゃん! キンちゃん! ねえキンちゃんっ!」
「待てと言うのに。解った、このマイクの調整が終わったら、裏へ回って聞いてやる。だから……」
「ダメッ! もう僕、ガマンできないよぉっ!」
 そう叫んで、グンマは、一意専心。
 がばっ。
 一度離したというのに、正面から、再び勢い良く抱きつかれて。
 俺は思わずよろけてしまう。
 ぎゅうっと自分の背中に腕が回されて、ふわふわの髪のいい香りがしたのだが。
「何だ、どうした。俺は今、仕事を遂行中なのだ。邪魔をするな」
 俺は仕事を妨害されることが一番嫌いだ。
 しがみついてくるグンマの体を離そうとして、グンマはますますしがみつこうとして、揉み合いになる。
 カチッ。
 運悪く、俺が手に持ったままのマイクのスイッチが、この揉み合いで入ってしまった音がした。
 その刹那。



「あ、あのねっ! あのね、キンちゃん!」
 高い声が、大音量で、空に木霊した。
 整列した軍人たちの顔が強張っている。無理もない。
 俺は頭の隅で慌てながらも、どこか冷静、青息吐息。
 いやむしろ。
 茫然自失。
 駄目じゃないかグンマ、お前の声が空に響いているぞ。この俺が整備したばかりだけあって、重低音のバランスが実に素晴らしい。だがな、いいか、今はお前の出番じゃない。しかしお前は聞いてはいない、馬耳東風。俺はこんな緊急時は、何をすれば良いのか、よく解らなくなるのだが、とりあえず、グンマを止めねばなるまいな。見ろ、団員が好奇の目で俺たちを見ているじゃないか、総帥席でシンタローが立ち上がって、怒っているではないか、お前は後で諸行無常……
「あのね! キンちゃん!」
 そしてまるで世界中に響き渡るかという大声が、俺の鼓膜で鳴り響いた。
 ああ、衆人環視でこの仕打ち。
「僕も、キンちゃんを愛してるよっ!」



18:00 父子相伝★★★



「ははは、グンちゃんは私に似て、ちょっぴり情熱的だからなあ
「えへへ〜、だよねぇ、おとーさま
 帰還式が何とか終り、家族でくつろぎのひととき、アフタヌーン・ティー。和気藹々。
 いったん自室に戻ったシンタロー、ソファで本を読み出した俺を他所に、常に泰然自若のマジック伯父上と、満面笑顔のグンマが居間で語らっている。
 グンマは。
 怒気心頭のシンタローに、こってり説教をくらって半泣きになっていたはずだが、あっと言う間にいつもの調子。
 豪放磊落。
 ……それにしても、先刻の騒ぎ。
 なんでも、初めは大人しく研究所で真剣に俺を待っていたそうだが。
 居眠りをしたら(どうして真剣に俺を待っていたら居眠りしてしまうのかは、グンマ永遠の謎である!)俺が出てきて、『グンマ、俺はお前が好きだ! お前はどうなんだ!』と言い募ったというのだ。
『だってぇ、キンちゃんが夢でそう言ったんだもん! だから僕、早く答えなくっちゃって思って……』と言い訳されたシンタローは、脱力していた。
 俺としても、夢の中のことまで責任を取らされるのは、勘弁願いたいものだ、戦々恐々。



「あ〜あ、ぶっちゃけ、シンちゃんは可愛いな〜」
 紅茶を優雅に飲みながら、マジック伯父貴がいつもの戯言をしみじみと呟いている。
 俺はこの方のことを尊敬してはいるが(いいか、俺が敬語を使うのは彼に対してぐらいである!)、発言がいささか大胆だということに、最近ようやく気付いた。
 人とは、自分に矛先が向けられて、初めてその真実に気付くものだ。
「ふふーんだ、おとーさま! キンちゃんも可愛いんだから〜 ほら見て、あの本読んでる横顔! 胸キュンキュンものだよぉ
 グンマが彼に、俺で対抗し始めたのは、どうかと思う。
 今だって、やけに目を輝かせている。
 仲良きことは美しきかな。親子善哉。
 親子の仲は、悪いよりは良いに越したことはないのだが。
 マジック伯父上は慣れた動作でティーポットに茶葉を加えて、ソファで脚を組み直し、溜息をついて仰った。



「そうだ、聞いてよグンちゃん。シンちゃんったら、日記に『親父がしつこい』って書いててね」
「うん、うん
 人の日記を見るのは良くないことだと思うのだが、この親子にとっては、それはどうでもいいらしい。
 常識の治外法権。大胆不敵。
「だからね、私はどうしたと思う?」
「え、え、どーしたのぉ、おとーさまぁ! 教えて! 教えて!」
「『し』の横に、『よ』を書き加えてみたよ! すると『親父がしよつこい』、あっと言う間に『親父がはつこい』、『親父が初恋』に!」
「わぁ、おとーさま、さっすがぁ! ナ〜イスアシスト!」
「いやあ、シンちゃんの心の声を読み取るのにも、なかなか苦労するよ。まったく素直じゃないんだから」
 ふぅ、と俺は息をつき、紅茶を一口飲んだ。
 この後の展開を予想して、椅子をずらす。



「あのねぇ、キンちゃんの日記はねぇ、パソコンで何重にもパスワード保護されてて、すっごい読むの苦労するんだぁ〜 でも僕、頑張ったよっ! でも最後のパスは解けなくて結局、読めなかったんだけどぉ……」
「おっ、流石はグンちゃん、私の息子。頑張る子は私は応援したいね。でも本人がそこにいるんだけれど、それはいいのかな」
 ぽわぽわした親子の会話が、他人事からだんだん俺の方へと流れてきた。
 あまりに自然に家庭内犯罪がにこやかに語られているので、うっかり聞き流す所だった。
 犯罪行為は訴えねばならない。
 しかし、俺はどこへ訴えれば良いのだろう。五里霧中。
「だーいじょうぶだってぇ、おとーさま! キンちゃんったら、難しい御本読んでる時は、火事が起こったって地震が起こったって、気付かないんだからぁ。見て見て! すっごい眉毛寄せちゃって、難しそぉな顔、してるでしょぉ〜? 聞こえてないよぅ!」
「そう、それなら安心だね」
「おっかしーんだよぉ! キンちゃんのパスワードったら! 几帳面なキンちゃんは、一重目のパス、毎日変更してるんだけどぉ、それがね、いっつも、その日の夜御飯のメニューなんだよっ! カワイ〜よね〜」
「いやあ、そういう所、ルーザーを思い出すなあ。本人は完璧なつもりのようで、どこか抜けてるんだよ……」
 その瞬間、壮絶な破壊音がした。
 爆風、手加減なしの眼魔砲。
 伯父上の姿のあった辺りに、大穴が開いている。
 ぜいぜいはあはあと、肩で息をしたシンタローが、部屋の入り口に立っていた。
 手に何かを持っている。おそらく、日記。



「シンちゃぁん、また修理しなきゃだよぉ〜」
「まったくだ。過激な愛情表現なんだから。少しは受け取る方の気持ちも考えて欲しいね」
 何食わぬ顔で不平を述べる親子に、シンタローは地団駄を踏んでいる。直情径行。
「あああもう! その! その、なんつーか! なんつーか、そーいう所が俺は気に入らねぇ!」
「相手は海千山千ということか」
 脇から、親切に言葉を選んでやったのに。
「ああああああ! キンタロー! お前も超ムカつくんだよ、うっざ! 特にその四字熟語!」
 逆ギレされてしまった。理不尽だ。手前勝手。
 人の上に立つ者として、この態度はどうかと思う。
「とにかく! とにかく、今度やったらヒドいからなっ!」
 そう捨て台詞を吐いて、シンタローは、キッチンへと大股で入っていった。
 何だかんだと、今日の夕食はちゃんと作るらしい。
「ああいう所が、シンちゃんは可愛いんだよね」
「だよねぇ〜! あ、あ、でもね、おとーさまっ! キンちゃんもねぇっ」
 そして同じことが繰り返されているのだ。
 シンタローは俺がこの親子に甘いと言うが、俺に言わせればお前の方が甘いのではないかと思う。
 他山之石。



20:00 苦肉之計★★★



 夕食時。
 久しぶりに得意の腕をふるったという、シンタローの華やかな豪華料理の中で。明らかに異質な物体が、テーブルの中央、大皿に乗って、異彩を放っていた。
 コロッケの亜種らしいが、俺には炭か泥のかたまりにしか見えない。果たしてこれは食物であるのか。
 聞けば、グンマが『一品だけ、僕、お手伝いしたんだよぉ』と。
 ははは、はははと、シンタローとマジック伯父上がにこやかに微笑んでおられる。
 二人の態度はしごく普通だ。
 これは新種のれっきとした料理なのかもしれないぞと、俺は自らを戒めた。自己反省。
「さぁ、どぉぞ 遠慮しないで、みんな、食べてねぇ!」
 これも、にこにこと笑っているグンマ。純粋無垢。



「あ、ところでねぇ、グンちゃん!」
「え? なになに、おとーさまっ」
 グンマがマジック伯父上の方を振り向いた瞬間だった。グイッとシンタローが問題の皿を押した。
 俺の方に。
「グンちゃんが、この前改造してくれた車! あれ、試してみたけど性能いいね!」
 グイッ。
「わあい、ほんとぉ、がんばったもん〜」
 グイッ。
「だけどね、一つ、よく解らないメーターがついてるんだけど、あれは何だろう?」
 グイグイッ。
「あ、あれはねぇ〜、……」
 もはや限界まで、大皿は俺の方に押されている。
「……?」
 さすがに不審に感じて、口を開きかけた俺に。
 シンタローの目が、ギラリと光る。
 食え。早く、いいから食え! これを食えるのは、お前だけだ! と、その目は言っていた。
 背水之陣。



「さぁ〜てと、あ、あれぇ〜? もう食べ終わっちゃったのぉ、コロッケ?」
「おおよ! お前が親父と話してる間にナ! もー、キンタローが美味い美味いって、大変で」
「えへへ〜 そぉでしょ? 自信作だからぁ! 溶接バーナーの炎、紫外線めちゃくちゃ出てたもん!」
「ははは、完全に3000℃は超えてるね」
 そんな、和やかな会話の後。
「おいしかったぁ〜? キンちゃんっ!」
 期待に満ちた瞳を、グンマは隣に座った俺に向けてくる。
 確かに、味に興味はなく、食べ物は、口に入って栄養になればいいのだと思っている俺であるのだが。
 今、食したものは、感触がざらざらしていて、ごりごりしていたので、少しむせた。水でやっと流し込んだ。しかも四人分だから量が多い、無理往生。
 しかし。
 おいしかったか、と問われてみれば、ほんのり味がしたような気がしてくる。
 おいしかったような、気がする。
 だから。
「ああ」
 そう答えて頷くと、グンマの顔に、ぱあっと笑みが広がった。
 グンマに見えない所で、シンタローとマジック伯父上が、胸を撫で下ろしている。
 彼らは、そんな心配をするぐらいなら、自分で食べた方が楽ではないかと思うのだが。何が嫌なのだろう。
 ややこしい人間たちだ。他力本願。
 やれやれと、俺は肩を竦めた(断っておくが、俺は、この家族の中で一番常識家であるという自信がある!)。



21:00 二人三脚★★★



「キンちゃん キンちゃん キンちゃん
 ぱたぱたぱた〜と、足音がして。ひらひらひら〜と、リボンがはためく。
 食後の運動のために、俺が廊下を歩いていると(これには諸説入り乱れているが、現在の有力説では食後に軽い運動をするのは、むしろ良いことだと言う! インシュリンの血中濃度が高い時に運動を行うと、糖質が脂肪細胞に吸い込まれるのを防ぎ、筋肉が吸収して、身体を鍛えるのには最適らしいことを、ここで述べておく!)、グンマがその後を追いかけてくる。
 俺の後を追いかけて、何が楽しいのだろうか。
 そう聞いてみると。
「キンちゃんだって、長い廊下を行ったり来たりして、何が楽しいのぉ〜?」
 と、質問を質問で返された。
「これは運動なのだ! よって、楽しさとは無縁のことだ」
「でもさぁ、何でも楽しい方がいいよっ!」
 こつこつと、俺の靴音がして、てててて、とグンマの靴音がする。
 同じ人間であるのに、どうしてこんなに音が違ってしまうのだろう、複雑怪奇。
「では、お前は楽しいから俺を追いかけているのか」
「その通り〜! でもさぁ、キンちゃんも、ただ歩いてるだけより、僕がこーやって追いかけて、お話しながら歩いた方が、楽しいでしょぉ?」
 そして、そんなことを言ってくる。



「……それもそうだな」
「でしょぉ! だからね、僕、キンちゃんを追いかけるの、頑張るよっ」
「お前の運動にもなるしな、一石二鳥」
「そぉだね! 一緒に運動しよぉねぇ〜
 そうやって。
 俺とグンマは、ついつい一時間以上も、家の廊下を行ったり来たりして、歩き続けてしまった。
 やりすぎた。
 やりすぎも一蓮托生、悲歌慷慨。
「二人でやりすぎたならぁ、明日はやりすぎなきゃいいよぉ」
 落ち込んだ俺を、グンマが慰めてきたから。
「それもそうだな」
「そうだよ!」
 と、俺は。
 明日の運動は、控えめにすることに決めた。



22:30 問答無用★★★



 俺は、ふう、と満足の吐息をついた。
 ぴちゃん、と格子天井から垂れる雫の音。
 緩やかな時間の流れ。
 本邸のいくつかある浴室の内でも、ここ、この日本式風呂が、俺は最も気に入っている。
 熱めの湯にじっくりと浸かり、日々の疲れを落とす。
 これに勝るものはない。



 檜の澄んだ香りが、白い湯気と一緒に立ち昇っていく。
 樹齢二千年の古代檜を使ったというが、俺の素人目にも、木目が整っていて美しい。
 浴槽の正面には、大きな窓があって、そこから苔生した緑の日本庭園を眺めることが出来た。
 実に落ち着く。
 日本好きなマジック伯父上の気持ちが、解るような気がする。
 俺はもう一度息をつくと、ざばりと立ち上がって湯から出た。



 洗髪時の難題といえば、髪と顔はつながっているからして、シャンプーの泡や水が垂れて、目に染みるということである。
 一年程、この問題に悩んでいた俺だが、先日、この家の倉庫で良い物を発見した。
 黄色くて丸く薄く円盤状、素材はプラスチック。
 シャンプーハットと俗には呼ぶらしい。
 使ってみると、なかなか心地が良いので愛用している。
 何でも幼い頃のシンタローの私物らしいのだが、利用許可を求めると、物凄く嫌な顔をされた。
 いい大人が、勘弁してくれ、恥ずかしいと彼は言っていたが、物に貴賎を設けるのはおかしいと俺は思う。
 便利であるなら、使えばいいのだ。
 何を恥ずかしがることがあるのか、俺にはわからない。
 そういう精神が、自由闊達な発明を阻害するのだと、俺は思う。



 俺がいい気分で髪を洗っていると、コンコン、と浴室の扉を叩く音がした。
「キ・ン・ちゃんっ! お背中、流しまぁす〜
 グンマだ。
 俺は首をかしげた。
「む? そんなものを頼んだ覚えがないが」
「でもねぇ、これ、日本の風習だよぉ! 決まってるんだよ。キンちゃん知らないかもだけどっ」
「風習か。それなら仕方ないな」
「うん、あのねぇ、テレビでやってた! それと、おとーさまが、私もよくやるから、お前もやってみたらって」
「ほぅ。それは知らなかったな、浅学非才」
「入るね〜」
 ガラリと勢いよく音を立てて戸が開き、白いたすきをかけたグンマが浴室に入ってきた。
 白い湯気の白い世界に、白い肌。
 綺麗だなと、ぼんやりと俺は思った。



 髪を洗い終わった俺は、シャンプーハットをはずしてコトリと木壁に立てかける。
「しかし、背中を流すとは。具体的には何を意味しているのだ」
 そして、俺が聞くと。
 グンマは心得顔で、座っている俺の背後に回る。
 『う〜ん、多分ねぇ〜』と、何やらごそごそやっている。
「『流す』だからぁ……いっぱい、色んなモノを、流すんじゃないかなぁ……? お風呂にあるモノを」
「ふむ。まあそれはそうだろうな」
「それじゃあ、失礼しまぁす! まずは、シャンプー!」
 その瞬間、冷たくぬるりとした液体が、俺の首筋から背中をつたっていく。
「! う、うおおおおお! グンマ! グンマ! 何をしている! グンマ!」
「頑張って、キンちゃん! これも風習をクリアするためだよっ! ファイトっ!」
「ううう〜! しかし! しかしお前! ぬるっとしてゾクゾクするぞ! 気持ちが悪い! 非常に悪い! 不快だ! なんなのだこの感触は! 日本人は皆、この感触に耐えていると言うのか! さすがは忍耐の国民! 四苦八苦!」
「すっごいねぇ、日本人って!」
 シャンプーが一瓶、空になると、次はリンスの番だった。



「ぐ……う……」
 俺は耐える。孤立無援、獅子奮迅。
 ああっ……ぬるぬるするッ! ぞわぞわするッ! 非常に肌が粟立つような、奇妙な感触がするッ!
 あともう少しで終わる。しかしその時。
「なんかさぁ、ただ流すだけじゃ、違うよぉな気がする……」
 そう言ってグンマが、粘着質の液体を、俺の背中にぬるぬる塗りたくり始めた。
「ふ、ふあッ……くっ! グンマ! お前、一体何をしている!」
 何だ、何だこのぞくぞく!
 うわ、うお、うあぁッ!
 指が! 指が! 指がッッ!!!
 悶える俺に、明るい声。
「応用だよぉ! あ、でもキンちゃん、背中広いけど、もう塗り終わっちゃったぁ! 今度は前向いて、前!」
「な、な、何ィィッッ!」



 格闘の末に。
 俺は何とか身体のぬめりを流し、ドボンと逃げるように浴槽の中へと飛び込んだ。
 危なかった。
 何が危ないと言って、その、色々危なかったのだが。人事不省。
 とにかく、いくら風習と言っても、それだけは御免こうむる!
「んもぉ〜、キンちゃんったらぁ……」
 不平満々で立って俺を見下ろしているグンマ。
 なんだか、気まずかったので。
「……俺はしばらく湯に入っているが……お前も入るか……?」
 そう、好意から何気なく言っただけであるのに。
 いきなりグンマは、顔を真っ赤にして。
「キ、キンちゃんの、エッチ!」
 シャンプーハットが回転をつけて飛んできて、俺の頭にぶつかった。
 事実無根!
 ピシャリと浴室の扉が閉まり、彼は出て行ってしまう。
「……」
 ぶくぶくと、俺は湯の中に沈んでみる。
 わからん。
 本当に、グンマはわからん!
 奇々怪々。



 後日、このことを嬉しげにマジック伯父上に報告していたグンマであるが(伯父上は、『ははは! それは楽しいプレイだね! 成長したね、お前たち!』と微笑まれていた! よくわからないが、成長したと言われるのは嬉しいことだ!)。
 それを聞いていたシンタローに、『お前らって……』と奇異の目で見られたことを、俺は決して忘れてはいない。
 意味不明。



00:00 神出鬼没★★★



 さて、寝ようかと俺は寝室に入る。
 危なかった、パソコンのパスワードを、つい習慣で『コロッケ』としてしまう所だった。
 俺は、何気なく自分のベッドを見て。
 そして、ぎょっとした。
「……」
 不自然なふくらみが、ベッドに。
 気付かれていないとでも思っているのか、息を潜めているようだ。
 試しに、俺がベッドを離れて、何かを取りに行く振りをしてみると。
 そお〜っと毛布の隙間が開いて、俺を窺う瞳がこちらを見ている。
 また近付くと、慌てて、さっと毛布が閉じる。
 数回これを繰り返してみたが、4度目に、俺は何をやっているのだと我に返って。
 俺はとりあえず声をかけてみることにした。
「何の用だ、グンマ……」
 すると、ふくらみが、もぞっと動いて。
「グンマじゃないよっ!」
 グンマの声で、即座に返事が返ってきた。



「グンマじゃなくって、キンちゃんの毛布だよぉ」
「……俺の毛布が、なぜそんな不自然にふくらんでいるんだ」
 当然の疑問を口にすると、『キンちゃんの毛布は、子供が出来て、おなかが大きくなったんです』と意外なことを言われた。
 純粋に驚いた。
「子供? 妊娠したというのか! とすると、俺の毛布は女だったのだな! 父親は誰だ! その前に毛布も有性生殖によって増殖するとは、新知識だ! 早速調べてみなければなるまい!」
「待って、キンちゃんっ! 調べなくていいよぉっ! キンちゃん調べ出すと長いんだもん。ちょっと待ってね〜 えっとねぇ、キンちゃんの毛布は、従兄弟のグンマさんの毛布と結婚しました。子供がもうすぐ生まれます。うーん、うーん、え〜い! 生まれましたぁ〜
 ぽふっ! と毛布が翻って、きらきらきら、と長い金髪が舞って。満面の笑みを浮かべたグンマが、姿を現した。
「……やはりグンマではないか!」
「グンマだけど、今晩のグンマは、毛布のグンマです。キンちゃんのために、ふわふわアクロン仕上げです」
「?? 論理がわからん!」
「わかんなくっていいの! ほらぁ、早く寝て下さいってばぁ、キンちゃぁん!」
 グンマは、やっぱり笑顔で、ぽんぽんベッドを叩いている。



「……」
 俺がベッドの側で立ち尽くしてから、長い時間が経過して。
 思考停止した俺の頭脳は、再び動き出した。
 理解不能なことがあると、一時的に停止してしまう俺ではあるが、最近では再始動までの時間が短縮されてきている。
 これもグンマを始めとする一族のお陰だ。
 俺は、以前は不可能だった『わからないまま流す』という行為を覚え始めている。
 一般にはそれを処世術と呼ぶらしい。無我夢中。
「……まあ……お前が毛布同士にできた子であろうが、グンマであろうが、とにかく俺の邪魔をするな。俺はこれから一時間の読書を行った後、睡眠をとる。いいな! 読書の後、睡眠ををとるのだからな!」
「はぁ〜い
 そう厳しく言って、俺はベッドに入る。いささか狭いが、仕方がない。
 ベッドサイドの明かりをつけ、枕元の書物を手にした。
 昨晩の『やさしい四字熟語辞典』はなかなか興味深かったので、今夜は『楽しいことわざ辞典』を読むことにする。



「……青菜に塩:ほうれんそう等の青菜に塩をかけると、水分がなくなり柔らかくなって、しおれてしまう。その様子を人に例えて急にしょんぼりと元気をなくしてしまう状態を言う……」
「あ! これが今日のキンちゃんブームだった四字熟語辞典だねっ! 僕も読もうっとぉ!」
 毛布を肩までかけ身体を横にして、ことわざ辞典を熟読し始めた俺の隣で、自称毛布のグンマは、うきうきと俺のまねをし始める。
 枕の上に右腕を置き、その上に頭を置いた俺と、そっくり同じポーズで向かい合って(向かい合っているのだから、つまりグンマは持参の枕の上に左腕を置き、その上に頭を置いているのだ!)、これも脇に置いてあった四字熟語辞典を読み始めた。
 しばらく、お互いの声が部屋に響き渡る。
「二兎を追う者は一兎をも得ず:ウサギを二匹とも捕まえようとすると、結局は一匹も捕まえられないことから、欲を出して二つのことを同時にしようとするとどちらもうまく行かないことを言う……」
「えっとぉ、慇懃無礼……表面の態度は丁寧だけど、心の中ではそうではないこと! わぁ、高松みたいだよねぇ、キンちゃん!」
「……ぬれ手で粟:粟をぬれた手でつかむと、何もしないでも手にたくさんくっついてくることから、努力をしないで多くの利益をつかむこと。また、何もしないのにいい思いをすることを言う……」
「次はぁ、三日天下……ちょっとの間しか、地位や権力を保持できないこと……あ、あ、これって、前にハーレムおじさまで、そんなコトあったよねぇ、キンちゃんっ!」
「割れ鍋に閉じ蓋:割れている鍋にはそれに合うよう修理した蓋があるものだということから、人にはそれぞれ個性があるが、それぞれの人にあったふさわしい相手がいるということ……」
「ねぇ、キンちゃんってばぁ!」
 突然、俺の『楽しいことわざ辞典』が取り上げられた。
 何をする! 心外な! 一寸先は闇。



「別々の読んでるだけじゃ、つまんないよっ! 一緒に『やさしい四字熟語辞典』読もうよぉ〜」
「俺は昨晩それはもう暗記してしまったのだ! ことわざ辞典を返せ! 親しき仲にも礼儀あり!」
 グンマは不平顔で、あの大きな瞳で俺を睨んできた。
 目を口ほどに物を言う。
「ほらぁ……もうキンちゃんの言葉、ことわざ辞典モードになってるぅ……僕はねぇ、ちょっと遅れてでも、キンちゃんと一緒のモードになりたいの!」
「モード? 別に俺は俺のままだが。とにかく俺は新しい知識を仕入れたいのだ! いいか、常に世界は動いていて、渡る世間は鬼ばかり、俺ばかりが安穏としていればすぐに取り残されて遅れをとってしまうのだ、玉磨かざれば光なし! どんなことでも常に知識を蓄えれば備えあれば憂いなし! つまりだな、俺は科学者として、そうだ、お前も科学者ではないか、だったら解るはずだ、いいか、もう一度言う、鉄は熱い内に打て……」
 俺は憤慨して、グンマに捲し立てる。
 相手は憮然とした顔で、枕に頬をつけながら、至近距離で俺の言葉を聞いていたが。
「でもねぇ、キンちゃん……仕入れた知識を復習することも大事だよね〜?」
 そう、ぼそっと突然言った。
 !
 ……。
 …………。
 確かに、一理ある。
「それもそうだな」
「わあ〜い、キンちゃんって、理屈っぽいのに素直なトコが僕、だぁいすき
 ぎゅっと、また首に抱きつかれた。
「一緒に四字熟語辞典、読もうねぇ」
 そう言われた俺は。
 蛇に見こまれた蛙。
 どうして俺が結局はグンマの言うことを聞いてしまうのかは、これも熟慮が必要なテーマの一つである。



「んじゃあねぇ……キンちゃん……相思相愛の意味は、何でしょうか!」
「相思相愛……互いに慕い合い、愛し合っていること」
「せいか〜い! それじゃあねえ、焼肉定食」
「……? 牛豚などの肉をあぶり焼いたものを、あらかじめ献立の決まっている食事として、飲食店等が出す……待て、それは四字熟語か?」
「ううん、ちょっとお約束入れてみただけ。えっとねぇ、次は……」
 こんな風に夜は更けていった。
 やれやれだ、汗馬之労。



 ベッドサイドの明かりだけの、薄い闇の中で、グンマの体温が間近にある。
 同じ洗髪剤を使っているというのに、どうして彼からは違う香りがするのだろう。
 俺が面倒を見てやらねばと、構ってやらねばと、なぜか使命感が沸いてくる。
 それに一緒にいると、感じる浮遊感。
 ふわふわ、ふわふわ。
 浮き立つような、安らぐような、そんな気持ちがする。
 それに加えて……今。
 少し、もやもやした気分になった。
 目の前で。
 何時の間にか、グンマは、すうすう寝息を立て始めている。
 ふう……なんというか。
 危機一髪。



02:00 油断大敵★★★



 息苦しさで、目が覚めた。
 何かが俺の上に乗っている。身体が動かない。
 これが俗にいう金縛りというものだろうか、奇々怪々。
 そう目を開けると、暗闇の中に眼光炯々、きらっと二つの眼が光って、俺を見た。
 ああ、そうか、グンマ。いたのだったな、胡蝶之夢。
 しかしな、しかし、お前。
 俺に抱きついているのはいいが、どうして上に乗って、襲い掛かる体勢なのだろうか。
「キンちゃん」
「な、なんだ……」
 相手の本気の眼差しに、背筋がぞくっとして、俺の語尾が震えた。
 い、いかん! 不味い! 絶体絶命!
 こ、これが……これが俗に言う……俗に言うッ……!



 待て! 待つんだ、グンマ!
 俺は心の準備がまだ!
 心の準備が!
 風前之灯!
 そ、その前に俺が下なのかッ!
 こういうことは公明正大、フェアで行くべきだ!
 待て! 心を落ち着けて、そうだ、くじ引きで決めよう! ジャンケンでも良いが、あれは完全乱数の確立論的には平等なのだが、どうやら駆け引きの要素が混在しているようで、強い人間と弱い人間がいるという論文を先日、目にしてな! 俺がジャンケンで勝てないのは、『後だし』という戦法に気が付かないからではないかと判明したばかりで、まだ対策を練っていないのだ! いいか、この状況を仮に非協力状態でナッシュ均衡があるという前提の下で、ゲーム理論に適用すると、まずグーをG、チョキをC、パーをPとし、有限ゲームを行うAとB、この利得行列(payoff martrix)を……であるから……しかしAの利得行列は、Bの転置行列となっているのであるから……いいか! だから……。



「キンちゃん!」
「な、なんだ!」
 俺の上でグンマが、ダン! と手をつき、顔を近づけてくる。
 ……!
 ……!!
 ……!!!
 俺の額から、汗が垂れる。意識朦朧。
 しかし。
 夜の中の白い顔が、途端、ふにゃっと揺れた。
「ふえ〜んっ! 草木も眠る丑三つ時だよう……お化けこわいよぉ、キンちゃぁん……」
 相手が俺の胸に、ふわふわの頭を擦り付けてくる。
 俺は息をついた。
 なんだ……
 なんだな、しかし。
 グンマ、お前、俺の胸に頭を押し付けてくるのはどうかな、このドキドキが伝わってしまうではないか、でも無下に突き放すこともできん、この状況。難しいな、難しい……艱難辛苦。しかしこれをいつか越えた時、何か変わるのだろうか。
 何か……が。
「キンちゃーん……よしよしって、して欲しいよぉ」
「……こうか」
 俺のパジャマの胸が、涙で濡れている。
 かわいそうに感じて、俺は擦りつけられている金色の頭を、そっと撫でてやった。
 やはりふわふわの感触がして、いい香りがした。
 甘えたがりのグンマが、目を細めて嬉しがっているのが解った。世話が焼ける。
「もっとしてぇ〜」
「……こうか」
「もっとぉ」
「……こうか」
 そうやって撫で続けていたら、グンマは俺の上でいつの間にか眠ってしまった。
 まったく重い毛布だ。
 でもまあ暖かいから、許してやろうか。
 世話が焼けるな、世話が焼ける。
 甘えすぎだ、甘えすぎ。しかし、こうして甘えさせてしまう俺も、自業自得と言うのだろう。



04:00 急転直下★★★



 ジリジリジリジリ――――ッ!
 暖かい温もりに包まれて、うとうとしていたら。
 突然、猛烈な勢いで非常ベルが鳴った。
 俺はハッと目を覚ます。
「グンマ。起きろ! 緊急事態だ!」
 だが、相変わらず俺の上に乗っている物体は、ぐずっていた。
 グンマは寝起きが悪い。相当に悪い。半醒半睡。
「う〜〜、またシンちゃんが眼魔砲で、おうち、壊したんじゃないのぉ……」
 寝ぼけ眼で、目をしきりにこすっている。
「いや、この鳴り方は違う! 研究所で何かあったのかもしれん!」
「……う〜……」
 果たして研究所から緊急連絡があって、電気系統にトラブルが起こったとのこと。
 しかも一部で非常電源が上手く作動せず、開発中の機器のコンピューターの誤作動、熱制御装置の停止、漏水が起こっているという。



「行くぞ! グンマ!」
「……ふぅ〜……ん……着替えさせてぇ〜」
「い、いかん! それは俺には! はしたない! 自分で着替えろ! 即刻に!」
「ん……じゃあ、アフリカ1号呼んでぇ……歩いてくより、そっちの方が、早いよぉ……」
「! 確かにそうだな。合理的思考だ!」
 俺は発信機でグンマ愛用の乗用ロボット・アフリカ1号(小象をモデルにした超高性能ロボットである! その外見からは想像も出来ない機能を秘めているのだが、ここでは緊急事態のため割愛せざるを得ない! いいか、しかし超高性能なのだ!)を呼び、なんとか着替えを終えたグンマと二人で、その背にまたがった。
「よし! 行くぞ、グンマ! 振り落とされるなよ!」
「……う〜、わかったよぉ……」
 グンマは、ぎゅっと俺の背中にしがみついてきた。
 俺は小象に命じる。
「頼むぞ、アフリカ1号! 研究所の危機だ! 最大スピードで頼む!」
「パオ〜ン!(了解!)」
 ドダダダダダ、と走り出すアフリカ1号。
 部屋を出、階段を駆け下り、玄関ホールを走って、俺たち二人を乗せて、矢のように外へと飛び出した。



 明け方が近付き、薄くなった闇の中を、象は駆ける。
 風を切る冷たい感触が心地よく、背後に感じる体温が心地よく、この非常事態だというのに、なんだか俺の機嫌は上々だった。
 トラブルだって、何だって、俺は面倒見てやる! そんな心地だった。
「大丈夫か、グンマ!」
「ん……」
 ぱちんと、鼻提灯の弾ける音がした。
 それでも、俺に掴まっている手が、しっかりしているのには感心する。
「いいか、グンマ! 俺にちゃんと掴まっていろ! そうしたら、一緒の所に連れて行ってやるからな! 聞いているのか、グンマ?」
「ん……聞いてる……よぉ……」
 街路樹の立ち並ぶ、美しい夜道を、俺たちは抜ける。
 いつもふざけたり、大事な所で居眠りばかりして、物事に対して真剣であるのかないのか解らないグンマだが。
 それでも、少し遅れてでも、俺と同じものを作ることが出来るのは、凄いと思う。
 もっと真面目にやれば、ひょっとすると俺の上を行くかもしれない資質を持っているとも、思うのだが。
 それをやらないで、ぴょこぴょこ俺の後を付いてきてくれるのが、グンマなのだなあと、最近感じている。
 『対称的な所が、あなたたち二人の良い所ですね』と高松が言っていたことを思い出す。
 キンタロー様が真面目すぎ、グンマ様がのんびりしすぎ、足して割れば、ちょうどいいくらいです、と。
 俺は正直、未熟だ。
 世の中は、まだまだ知らないことで、満ち満ちている。
 俺がその不思議に直面する時、考えすぎる時、動揺する時。
 そんな時、側にいてくれるのが、のほほんとしたグンマであったらいいと思う。



「キンちゃぁん……」
 俺が自分の考えに浸っていると、グンマの声が風の中に聞こえる。
「何だ」
 ぎゅっと、俺にしがみつく手に、力が込められたのが解る。
「キンちゃん、大好きだからね……」
 フ、と俺は笑う。
「さっき二人で読み合わせただろう! 相思相愛、だ!」
「……ん……?」
「急ぐぞ! そら、走れ! アフリカ1号!」
「パオーン! パオパオ!(了解! キンタロー様!)」
 道の先に、研究所の白い塔が見えてきて。
 一意専心、気宇壮大!
 今日も己の務めを果たそうと、俺は心に誓った。



08:00 一件落着★★★



 何とか、最悪の事態を食い止めて。
 朝の太陽の中を、俺とグンマは、研究所裏の石段に座り、菓子パンを食べていた。
 腹が空いたなと言ったら、待ってましたという顔で、グンマがリュックからいそいそと出してきたのだ。
 どうしてこういう用意だけはいいのだろうと、俺は常に不思議に感じている。用意周到。
 まあ、俺が抜けている部分だから、丁度いいのかもしれないが。



「おいしいね! おいしいね!」
 グンマは、甘ければ何でも美味に感じるらしい。
 実際、俺が食している菓子パンは、砂糖の味しかしなかった。
 だが、グンマが笑顔でそう言うと、おいしい気がしてくるから不思議だ。
 不思議、不思議。摩訶不思議。これは五字だな。
 俺は影響されやすいとよく言われるが、この菓子パンに感じる味は、違うと思う。
 何というかな、お前と一緒に食べる味は、きっと何を食べても、お前の味になるんだな。
 例えそれがどんな料理でも、お前の料理でも、な。
「キンちゃん、おべんと、ついてるよっ」
 ふと目を止めたグンマが、ぺろっと舌を出して、俺の口元を舐めてきた。
「えへへ、ごちそうさま〜」
 突然のことに、俺は動きを止めたが、だからといってどうする訳でもなく、そのままパンを頬張った。
 今度、グンマが口に食物をつけていたら、俺がやってやろうと決めた。
 なにせ、グンマの食べ方は、お世辞にも綺麗だとは言い難いからな。
 チャンスはすぐに回ってくるだろう。
 陽は登り、俺たちの髪と同じ色の光が、きらきらと零れ落ちている。
 俺の視線を感じたのか、グンマが、嬉しげに笑った。
 俺も笑おうとしたが、あまり上手く出来なくて、困ったような顔になってしまったのだと思う。
 なぜなら、グンマが、キンちゃんったらあ、と、俺の眉間を指でつついてきたからだ。
「シワになっちゃうってばぁ! 眉、寄せちゃダメ、ダメ」



 今日はこのまま家に帰らずに、午前中は研究所に詰めることになるのだろう。
 製作中の潜水スーツに、手を加えることが出来るかもしれない。
 グンマと一緒に開発しているのだが、デザインの面で意見が対立している。
 まあ、これも、対称的だということだろうか。
「……ん、でもねぇ、キンちゃんが眉寄せるの、やっぱり僕、好きかも」
 先ほどから考え込んでいたらしいグンマが、そう口にした。
 だってカワイイんだもん! とは、その理解できない弁である。
「大丈夫だよっ、キンちゃん、そんな難しい顔しても。その分、僕が笑うからね!」
 そう言って、グンマは。
 再び、にっこり笑った。



11:00 天下泰平★★★



 昼食時になって、俺たち二人は私邸に戻った。
 実は今日の午後からは、数少ない休みに当たっていた。
 どの道、俺は個人研究を進めたいと考えているので、大して変わりはないが。
「よお、キンタロー。朝っぱらから大変だったな」
 着替えを済ませ、部屋から出ると、やけにウキウキした声で、シンタローが声をかけてくる。
 何か良いことでもあったのだろうか。
「でもよ、今日は午後から休みだぜぇ? いやー、久し振りだよなぁ、お前もしっかり羽、伸ばせよ〜」
 ぽん、と相手は肩を叩いてきて、にっと笑った。
 あまりにも聞いて欲しそうなので。
「……お前は何をするんだ」
 そう聞いてやると。
「へっへ、内緒だぞ? 俺はな、」
 嬉しくってたまらないといった顔の、シンタロー。
「久し振りに、美少年ウォッチングに行こうかと思ってんだよ。最近、癒しが足りないからな。時差を利用して、世界各国の美少年の下校時間を観察すんだぜ? うらやましーだろ? いい小学校の目星はつけてんだ。煩いヤツには黙っててくれよナ」
 鼻歌を歌いながら、上機嫌でシンタローは廊下を歩いていった。
 キッチンに向うようだ。
 今日の昼食も、シンタローが作るらしい。
 しかし、美少年趣味。俺は頭の中で反芻してみる。
 危険な趣味であると思うが、しかし、そのような嗜好は直るものではないと聞く。
 警察に捕まらない限りはそのままにしておくしかないだろう、反面教師。



 居間に入ると。また穏やかな空気が流れていて、マジック伯父上とグンマが談笑していた。
 彼ら二人の背後に、花が飛んで見えるのは、決して俺の気のせいではないだろう。
 目を通し終わった新聞を折り畳みながら、伯父上が発言された。
「はは、グンちゃん、お昼御飯を待つ間、しりとりでもしようか。キンタローもどうだい」
「いや、俺は結構です。不得手なものですから」
 俺は誘いを断り、その代わりに背筋を伸ばしてソファに座り、傾聴する姿勢をとる。
 興味津々。
 俺は、いまだに語彙に自信がない。
 少なくともオックスフォード大辞典を暗記してから、しりとりに挑もうと考えている。
「じゃあ私から始めるよ……シンちゃんの日記」
「ええとぉ……キンちゃんは紳士っ!」
 しかし。
 果たしてこれはしりとりなのだろうかと、俺は首をかしげた。
 しりとりのルールを後程、確認してみなければならないと、俺はノートを開いて、メモを取る。
 世の中には学んでも学んでも、未知のものが沢山ある。油断大敵。
 しりとりは続いている。
「シンちゃんの指先」
「キンちゃんの足」
「シンちゃん大好き」
「キンちゃん愛してるし!」
「シンちゃんとすりすり抱き抱き」
「キンちゃんと撫で撫でよしよし……」



「八百長しりとり、やめ――――っ!」
 爆風が辺りを包んで、綺麗にマジック伯父上が座っていたソファが、灰になった。
 キッチンから顔を出したシンタローが、眼魔砲を放ったのだ。
「お前らぁ――! いーかげんにしろ――――!!!!!」
 グンマは『わぁ、おとーさま、大丈夫ぅ〜』と笑っていて、寸前でかわしたらしい伯父上は『ははは、何のこれしき、シンちゃんの愛は痛いから』と微笑まれている。
 やはり似ている、この親子。
「キンタロー! お前はあのアホ親子に甘すぎんだよっ! どーにかしろ!」
 とばっちりが、俺にまで回ってきた。
 言語道断。



 食後。
 マジック伯父上が皿を洗っておられる間に、首尾よく姿を消したらしいシンタロー。
 我関せずで食後の紅茶を飲んでいる俺に、グンマがまた甘えてきた。
 今日の午後、一緒にどこかに出かけようというのだ。
「あいにくだが、個人研究を進める予定だ」
 そう断ると、『もぉ! 折角のお休みなのにぃ〜!』と相手は怒り顔だ。
 俺が研究の重要性をどんなに主張しても、聞いてもくれない。馬耳東風。
「いいか、昨日も述べたが、とにかく俺は新しい知識を仕入れ、さらにそれを発展させねばならんのだ! それが俺の使命だ! 俺の父ルーザーは、俺に、進めと言った! その通り、俺は前進し続けなければならない! いいか、全身全霊、俺は職務を遂行しなければならないのであり、それはお前も同じことであって、滅私奉公! いいか、世界平和のために……」
 俺は憤慨して、グンマに捲し立てる。
 相手は憮然とした顔で、やけに至近距離で俺の言葉を聞いていたが。
「でもねぇ、キンちゃん……例えば動かしすぎた機械が、オーバーヒートしちゃうみたいに……休息も大事だよね〜?」
 そう、ぼそっと突然言った。
 !
 ……。
 …………。
 確かに、一理ある。
「それもそうだな」
「わあ〜い、やっぱりキンちゃんって、理屈っぽいのに素直なトコが僕、だぁいすき
 ぎゅっと、また首に抱きつかれた。
「今日は午後から、僕と一緒にデートしようねぇ〜



 春風駘蕩、比翼連理。
「ねーえ、キンちゃん、どっか行きたいとこ、ある〜?」
 いつだって、自分の好きな所に行く癖に。
 必ず、グンマはこう聞く。
 そして、連れて行ってもらうというポーズを取りたがる。
「どこだっていい。お前の行きたい所でいい」
 そう、俺が言うと、目を輝かせて。
「んー、じゃね、どっこに行こうかなぁ! えっとね、えっとねぇ!」
 自分は甘えたいのだ、と、グンマは言っていた。
 だから俺も、彼が喜ぶように、甘やかしているようなポーズを取る。
 でも。
「えへへ、僕、キンちゃんと行きたいトコ、たぁっくさんあるんだぁ!」
 そう言って。
 ぎゅっ。



 こう、抱きつかれる度に。
 俺は、自分が甘えているような、甘い菓子パンを食べているような、安らぐような、そんな気分になるのだ。
「こーいう気分になるのって、僕らが、相思相愛ってコトだよねっ!」
 何だ、ちゃんと聞こえていたのかと、俺は、そう思ったら。
 また。
「あぁ〜、キンちゃん、出た、しかめっつら!」
 グンマに、眉の間をつつかれた。
 そして相手はすぐに微笑む。
「キンちゃん、カワイイ!」
 笑顔、俺のすることが出来ない笑顔、俺の代わりに笑ってくれる笑顔。
 可愛いのは、お前の方だろうと。
 俺は、喉まで出かかった言葉を飲み込んで、また、眉根を寄せた。
 まあ、今日の午後は、楽しく過ごそう。
 お前が楽しければ、俺も楽しい。
 そういうことだ。
 天下泰平。










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