タンポポの花

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 本部の中庭隅に、タンポポが咲いていた。
「ふうん、シンちゃん、そんなのが好きなんだ」
 しゃがみこんで嬉しそうに眺めている黒髪に声をかけると、『好きだよ』と素直な答えが返ってきた。
「春になったって感じがするだろ。それにこんなコンクリの間から、よく顔出したなって思ってさ」
 差す日の光は暖かい。灰色のコンクリートの小さな割れ目からは、黄色い花弁が天を向いて咲いている。
「すっごく綺麗だ」
 そう言ったシンタローは自分を振り向き、『な!』と同意を求めてきた。
「ああ」
 返事をすると、彼はわずかに眉をしかめる。
 どこかいけなかっただろうか。
 シンタローが長い髪を揺らせて立ち上がった。
「……とにかく、春って好きさ。ワクワクしてくるし、こーゆー緑を見てると俺も頑張ろうって気になるから」
「そう」
「じゃあ、俺、行くよ」
「気をつけて」
「……うん」
 見送ったシンタローの背中が、建物の中に消える。
 彼はこれから戦地に行くのだ。
 残されたマジックは、一人で彼が喜んでいた『緑』を観察する。
 それは言われなければ、自分の目には雑草としてしか映らない草々。
 本部付の庭師が仕事を怠っているぐらいにしか思わない。
 彼は芸術品や花の良さの審美眼は備えていたが、このような勝手に生える雑草を見て、頑張ろうなどと思える気持ちが全くわからなかった。
 だがシンタローがそう言うなら、それはそういうものなんだろう。
 嬉しそうに話していた姿。
 そんなシンタローの赤い頬は、とても可愛いと思う。
 シンタローだけが、マジックにとって価値がある。



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 数日後に帰陣したシンタローは、食卓のテーブルの上を見て驚いた。
「どうしてタンポポを植木鉢に入れるんだよ」
 出陣前に見た黄色い花が、白いクロスの上に置かれている。
「え、どうしてって」
 マジックは驚いたように言う。自分が喜ぶとでも思っていたのだろうか。
「だってシンちゃんはこの花が好きなんだろう。だったら、こうして家に入れて守らなきゃだめだよ。外に置いたら風に吹かれるし踏みつけられるよ。そうなってからじゃ遅いじゃないか」
「……」
「そうだ、これはコタローの枕元に置いておくよ。そうするとお前は嬉しいだろう?」
 いい思い付きをしたという顔で男は言い、窺うようにシンタローの目を見下ろした。
 反応に困ったシンタローが曖昧に口端を上げると、彼は安心したように微笑む。
 シンタローが悲しくなるのは、いつもこんな瞬間だった。



 その夜コタローの部屋に入ると、花の鉢はマジックが言った通りベット脇に置かれていた。
 側の椅子に腰掛け、小さな弟の頬をなぞる。
 規則正しい寝息が伝わってきて、彼が眠りの中でも確かに生きていることに安心する。
 可愛い顔の隣の、鉢植えのタンポポ。
 それがひどく寂しそうに見えて、その花びらにも手を伸ばす。
 数日前に彼が感じた生命力は消えていた。
 しばらく黄色い花を触っていると、また胸の奥に寂しさが込み上げてきた。
 蘇る過去の言葉たち。
『コタローのことは忘れろ』『私の息子はお前だけだ』『お前さえいればいいんだ』
 ――アンタは、この子を愛していない。
 おそらく今この瞬間も。
 俺に引け目を感じて、俺に無理矢理合わせてる。



「ここに来てたんだ」
 部屋の扉が開いて、マジックが姿を現す。手には茶色のアンプルを数本持っている。
「その鉢。どうも元気がないみたいなんだ。だから栄養剤でも挿そうと思って」
「……」
 その瞬間、シンタローは胸が怒りで熱くなるのを感じた。
 近づいてきた男の腕を乱暴につかむ。
「この花は、鉢植えにされたからおかしくなったんだよ……ッ」
 金髪の男の整った顔は不審気だ。
「……俺は、植木鉢に入れたタンポポが見たいんじゃないんだよ。踏みつけられても、コンクリとか風とかに邪魔されても、頑張って根を張ってる姿が好きなんだよ。大事にしたいってのと鉢に入れたり栄養やるのは違う……」
 それがこの男の可愛がり方だと知っているから、それだけに我慢ができなかった。
 自分も一度、逃げた。
 マジックは首を傾げて考える様子をしながら言う。
「お前がそれを元に戻せと言うなら、そうするよ」
「……ッ!」
 カッとなった。
 揺れた自分の肘に植木鉢は当たり、呆気なくベットの下に落ちて割れた。
 絨毯に飛び散る陶器の破片と土。
「あ……」
「ああ、割れちゃったね」
 しゃがみこんでそれを拾い集める男。
 泥の中でくちゃくちゃになっているタンポポの花が、目に痛かった。
「……その花、どうするの」
 立ち尽くしたままでシンタローが聞く。
「ん?そうだね、お前の好きなように。また鉢に植えるか、それとも元の……」
「アンタさ」
 その言葉を遮り肩をつかんで真正面から見据えた。
 悲しい気持ちが湧き上がってきて、それを吐き出したくてたまらなくなる。
 相手が困った顔をして立ち上がると、長身から見下ろされる形になった。



「アンタ、コタローが目覚めたら、どうすんの。やっぱり『お前の好きなように』って言うの」
「……」
 また感情の読み取れない瞳を、この男はしている。
 この瞳が、ずっと怖かった。
 でも今は立ち向かって言わなければならない。
 ――俺よりも、この子を愛して。
 血のつながらない俺なんかよりも、血のつながったこの子を。
「お願いだよ……コタローが目覚めたら、ちゃんと愛してやってくれよ……」
「ああ」
「そんな生返事じゃなくて、ちゃんと約束してくれよ」
「……約束するよ。ちゃんとコタローを愛する」
 約束しても、約束しても、次の瞬間にすぐまた不安になる。
 この約束はこれからまた何度も重ねられるのだろう。
 なぜなら自分はいつだって悲しくなるし、いつだってこの人はその内面を自分に見せてはくれないからだ。
 青い眼を見つめていると、自分の黒い目から涙が溢れてくるのがわかった。
 絶対にこの男とは理解しあうことはできない。
「ごめんね。また不安にさせて」
 冷たい指がそれを拭う。
 シンタローはその手を取って、握りしめた。
 寂しい。
「……アンタは、俺が言ったからって何でもその通りにやんのかよ……」
「違うよ」
 男が軽く背を屈める。額と額がくっつけられて、シンタローは目を閉じた。
 こういう瞬間、彼はわかりあえない二つの心の境界線が、ふっと溶けるのを感じる。
 だけどそれは目を閉じている間だけのことだ。
 甘い低音が暗闇の中で、間近に響く。
「お前が教えてくれる光を、私はいつも探している……お前が導いてくれなければ、もう歩けない」
「光なんて俺には見えないよ……どうやって教えろっていうんだよ……」
「今はお前が目を閉じているから。今お前が見ているのは、私の闇だ。お前が目を開けてしまうと、私はまたこの暗闇に一人取り残される」
「……」
「でも、お前は目を開けて。そして正しい道を、何度でも私に教えて」
 声は静かで強かった。
「私は何度でもやり直す。お前といる限り」
「……父さん……ッ」
「ここはそれ以外には何の価値も生まれない世界だ」
 俺しか価値がないといつもアンタは言う。
 なら、俺がアンタの世界を作ってやる。
 何度でもやり直すよ。失敗しながら、アンタに言い続けるよ。
 この繰り返しでしか、俺たちは強くはなれない。
 失われた時間を取り戻すことはできない。
 そうしなければ、俺とアンタの心の溝は埋まらないんだ。
 こんなに、つながりたいのに。



 お前の言いたいことはわかったよ。
 このタンポポはコタローなんだよね。
 ……もう閉じ込めたりはしないよ。
 別のやり方で大事にするよ。
 ……愛するよ。
 そして男は子供の金色に輝く頭を撫で、その髪に軽く口付けた。







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