夜の遊園地

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 幼い頃。俺と親父は、遊園地に行った。
 4歳の誕生日、そのお祝いだったのだ。
 あいつも俺も、やけに張り切って、その日を指折り数えて待ったのを覚えている。
 ジェットコースターに乗って、回転木馬に乗って、観覧車に乗って、それからそれから。
 パパと一緒に乗ろうよ、ヤだよ、もう一人で乗れるもん、いいじゃない、楽しいよ、それからそれから。
 当日、華やかな花火が上がって、遊園地は貸切で、親戚その他大勢が俺を祝うために集まって、世界各国の要人までもが押し寄せて、何もかもが予想以上に豪華絢爛で、俺は嬉しくて、結局、遊具になんか何一つ乗らないまま、あいつは人殺しのために立ち去った。



 時は過ぎる。
 すぐに帰ってくると言った男が戻ってきたのは、とっぷりと日が暮れてから、誰も彼もが消えてから、昼間の喧騒が嘘のような静寂が、辺りを包み始めた頃のことだ。
 俺付きのSPが、あの場所で総帥がお待ちですと、俺に指し示した。
 それはこの遊園地を見下ろすことのできる、小高い場所。
 夜の闇が立ち込める中を、あいつは、赤いペンキが塗られた観覧車前の、赤いベンチに、座って俺を待っていた。
 長い脚を組み、首を少し傾けて、遠い空の向こうを眺めていた。
 俺は、すぐ側まで行ったのだけれど、そんな男の姿を目にして、つい立ち止まって、それから近くの茂みに隠れた。がさがさと葉が揺れた。
 待たせた分、俺もあいつを待たせ返してやろうとしたのだ。



 葉の間から覗く、赤い観覧車、赤いベンチ、赤い総帥服。
 茂みの中から長く見つめていると、その色はいつしか、てらてらとぬめって、男の住む世界を思わせる。
 血の色を、思わせる。
 俺から隠したつもりになっている、あいつの世界。
 今、俺の視界の中で、戦場から戻ってきたばかりなのに、何でもない顔をしたあいつ。
 その内、びゅうと冷たい夜の風が吹いて、それでも、あいつは、身動き一つしないのだった。
 風が男の金髪を揺らして、頬を打ったけれども、それは風のゆらめきであって息遣いであって、彼自身は決して、息なんかしていないように、生きてなんかいないかのように俺には見えたのだった。
 その横顔に落ちる光の陰影は、男の顔の彫りにあわせて鋭利で、深くて、まるで俺の知らない顔を、あいつがしているように、見せたのだ。
 俺は、長い間茂みの中でじっとしていた。
 男の顔を、見つめていた。背筋に冷たいものを、感じていた。
 所詮は子供の感覚だから、実際の時間はわからないけれど、とにかく、長い、長い、間、俺はあいつを眺めていた。
 そして風が両手の指なんかでは数え切れないぐらいに、男を打ちすえてから。
 不意に俺は電流にうたれたように立ち上がって、茂みから出て、男に近付いたのだ。
 白い顔が振り向いて、見下ろして、『ああ、シンちゃん』とだけ言って、初めて表情を崩して、微笑んだ。
 もういつもの顔だった。
 親父は、俺が隠れていたことなんて、とっくの昔に気付いていたのだろうと思う。
 俺に触れた男の手は、風のせいで、いつにも増してぞっとする程に冷たかった。
 抱き上げられて、ひやりと俺の額に触れた金髪も、冷たかった。
 ああ、この男の身体を冷たくしたのは、俺なのだなと。
 その時、俺は、悟ったのだ。





夜の遊園地







「ひどい! ずっと前から約束してたのにっ! ひどいよシンちゃん!」
「仕方ねーだろうが! 仕事入っちまったんだよ!」
「仕方なくない! 私の誕生日、一緒に遊園地に行ってくれるって言ったのにっ!」
「ああ――――ッ! もう! じゃあ日程ずらせばいーだろ!」
「駄目だよ、今日じゃなきゃ! 私の誕生日じゃなくっちゃ、ダメ!」
 俺は耳を塞ぎ、口をひん曲げ、仏頂面。
 出勤前のこの忙しい時間。俺が姿見の前で、自分の赤い軍服の襟元を、せっせと直しているその背後で、
「シンちゃんってば!!!」
 延々と俺に訴えかけてくる男。マジック。
 俺の前に後ろに、左に右に。ヤツが動く度に、ピンクのエプロンが、ひらひらとちらつく。構って攻撃の、なんて激しさ。
 ある意味いつもの光景なのだが、今日は特に酷い。やけに粘りやがるなと、俺は、がっくりと首を垂れて、溜息をつく。
 アンタな、ガキじゃあるまいし。いくつになったと思ってんだよ、親父……。立場を逆にした俺のちみっこ時代よりも、物分り悪いときてやがる。このワガママ男め。どうしてくれよう。
「ひどいよっ! パパ、楽しみにしてたのにっっ! そうだ、今日こそハッキリさせてもらいます!」
 ばん、とマジックが、朝食の皿が並んだままのテーブルを、勢いよく叩く音が聞こえた。
 渋い顔で振り向いた俺に、ずずいと迫る真顔。
「シンちゃんは、パパと仕事、どっちが大切なの!?」
「ぬお〜〜〜ッ……アンタがそれを言うか!」
 ワナワナ震える、俺の腕。これから出勤。耐えろ、俺。
 朝食の後始末もほったらかしで言い募ってくる、服装と言動のみは妻仕様な相手と、いつの間にやら責められる夫仕様な俺様。世の中一体どうなってんだ、地球が逆に回っても、もう俺は驚かねえ。
「ねえ、どっち! 答えて! 答えて、シンちゃん!」
「仕事」
 どかーん。
 ヤツの両眼が光って、壁に大穴が開いた。
「ああもう、うっせえええええ――――ッッッ!!!」
 我慢できん!
 どかーんずがーんぼかーん!
 お約束で、数発、俺も眼魔砲をお見舞いしてから、とっくの昔に仕事に向かった、グンマとキンタローの後を追いかけようと、俺は玄関へと向かう。
「シンちゃん! 待ってよ、シンちゃん!」
 しかし追ってくる。ワガママ男が追ってくる。
 俺はスタスタ早足で長い廊下を歩きながら、振り向かずに怒鳴りつける。
「うるせえなあ! 誕生日くらい、夕メシの時にケーキ買ってロウソク立てて吹き消して、そんでいいじゃねーかよッ! いい大人がダダこねてんじゃねえ――――ッ!!!」
「だって! だって! シンちゃん、だって〜〜〜〜〜〜!!!」



 俺が総帥一年目の冬。あの南国の出来事から迎える、初めての冬。
 12月12日。マジックの誕生日の、朝の会話である。
 俺は、この男と遊園地に行くという約束を反故にしたことを、ひたすら責められている。
 息の詰まるような多忙なスケジュールの中、なんとか空けた、いや空けさせられた、今日の午後。
 そこに今朝早く、新規の仕事が入ってしまったのだ。
 ちなみに行く予定であった遊園地は、俺の4歳の誕生日を祝ったあの場所。すべてが、マジック・セレクション。
「シンちゃん! ひどいよ、シンちゃんってば! こっち向いてよ!」
 イライラしながら、俺は頑張って足を速める。俺の背中にぴったりと貼りついて、追いすがる男。
「たまには断ればいいでしょ、最近は依頼された仕事は全部引き受けてるみたいだし! それかその予定を相手にずらして貰えばいい!」
「ダメに決まってんだろうがああ!」
 なにせ俺は、新任一年目。この正義のお仕置き稼業はなかなかに厳しく、仕事を断っていては、後に響くのは明白だった。
 しかも、相手は大口契約、超VIP。できることなら確保しておきたい客だから、逃すことはできない。
「じゃあいいよ! その相手の所にパパが行って、交渉してきてあげるから! ひと睨みでサクっと黙らせてくるよ!」
「だああ――――ッ! 威力業務妨害!」
「じゃあ、そのお仕置きする相手の方を、ひと睨み……」
「俺の仕事だ――! ぐっ、ンなコトしやがったら、もう口きいてやんねーからなああああ!」
「それはやめて。シンちゃんが口きいてくれなかったら、パパは寂しくって死んじゃうよ! シンちゃんはパパが死んでもいいの? ねえ、死んでもいいのってば!」
 俺は地団太を踏む。
 あああ! このバカ! アンタいくつだ! 小学生かよッ!!!
「なんでそんなにアンタはガキっぽいんだァ――――! アンタが我慢すれば全部丸く収まるんだよ、このワガママ親父ッ!!! くっそ、俺ぁ、仕事行くぞ!!!」
 俺は玄関ホールの扉に向かって、駆け出した。
 スーパーダッシュ。
 俺に憧れる団員たちは、俺様のこの鍛え上げられたナイスバディが、日々のマジックとの抗争から生み出されていることを知らない。
 ヒーローの陰の努力、陰の事情は、表に出せないものであることが多い。
「シンちゃん! パパがどうなっても、知らないから!」
「あーあー、うっさい、勝手にしやがれ!」
 最後は喧嘩別れの形で、その朝、俺は家を出た。



 腹が立つ。
 その日の俺は、執務中にペンを3本折って駄目にし、団員訓示で『前総帥の跡を継ぎ』と言うべき所を『前総帥のアホ過ぎ』と言ってしまい、書類のサインがやたら右上がりになってしまった。
 全部あいつのせいだ。俺は、思い出す度、ギリギリと唇を噛み締める。
 何だ、マジックの奴。自分が総帥の時は、自分だって仕事を優先してた癖に。総帥を引退して、待つ側に回った途端に、この調子だ。
 なんであいつは、ああなのだろう。他に対しては基本的に正常だと言えなくもないが、俺に対しては異常極まりない。
 どこのガキだ。俺はあいつの親か。保護者か。あんな手のかかる巨大な子供が、生まれた時からオプションってどうよ! 俺って可哀想。めっちゃ可哀想! なんて運命、どんな運命。
 ひとしきり自分を慰めた後、溜息をついて俺は、こうも思った。
 それにな。
 あんな変なダダのこね方をしなければ、もっと普通に……例えば他の日に埋め合わせをするとか……そんな約束だって、取り付けたり……してやらないことも、なかったのに。
 こっちだって、少しは悪いと思ってるんだから……な。仕事優先なのは仕方ないにしても、償いぐらいはする。それなのに――
 いつもあいつのやることは、逆効果なのだと思う。
 もっと優しく、できたはずなのに……。
 俺はそこまで考えてから、くにゃりと自分の手の内で姿を変えた、ガンマ団総帥印の印鑑を、切ない目で眺める。
 また、罪のない文房具を成仏させてしまった。経費節減の苦労が、水の泡。
 それもこれも全部、あいつのせい。



 午後からの俺は、くだんの臨時出張。飛び立つ飛空艦。待ってろ、依頼者。
 正義の味方にゃ休みはない。カッコ良さの背後に潜む、世知辛さ。わかっちゃいるが、やめられねえ。
 東にヤンキーがガンをつけてくれば、行って退治してやり。
 西にヤクザがいれば、眼魔砲でお仕置きしてやり。
 南に最強ちみっこや犬がいれば、食事を作ってやったことを、そっと思い出したり。
 北にコタロー似の美少年がいれば、無償で力になってやって住所を聞いたり。
 そんな正義のヒーローに、俺はなりたい。
 これが新生ガンマ団総帥である俺の生き方。悪いヤツにゃあ、眼魔砲をお見舞いするぜ。
 安心しやがれ、命は取らねえ。見逃してやるから、せいぜい更生するんだナ。
 今日もこんな調子で、悪者のお仕置きに精を出し、俺はくるりと踵を返して、帰途につく。艦橋で、黒い革コートを翻す。
 フッ、キマったな。
 そんな俺が、緊急発信を受け取ったのは、コートを翻して三歩進んだ頃。任務達成の充実感に浸っていた瞬間のことだった。
 キンタローがいつも通りに眉間にシワを寄せて、差し出してきた書面。
『ガンマダン ソウスイドノ オマエノ チチオヤハ アズカッタ』
「何ィッ!」
 その文字が目に入った時、俺は一瞬呆然として、それから身を乗り出したのだけれど。
 後に続く文章を見て、どっと脱力して、イヤになった。
『……ランドニ コラレタシ カイトウ マジカルマジック<ハアト>』



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 そして俺は、結局。あの遊園地、正門前に、突っ立っている。
 すでに夜遅く、とっくに閉園しているだろう時間であるのに、門は開いている。人気はない。
 冬の風が吹いて、はたはたと色とりどりの布を靡かせ、電飾が夜に極彩色のイルミネーションをきらめかせていた。
 ファンシーな装飾とヤンキーなざっくばらんさが、絶妙にミックスしたこの空間。静かに立ち並んだ券売機が、整列してこちらを見ているような気がした。
 俺は、懐から携帯を取り出し、短縮ボタンを押して呼び出し音を鳴らし、舌打ちをして、それをもう一度懐に押し込んだ。
 何度マジックに連絡しても、出ないのだ。メールの返事も音沙汰なし。家に電話しても、グンマが『おとーさま、出て行ったきり、帰ってこないんだよぉ〜』と言うばかりだ。
 ええい、ちくしょう。めんどくせえ。
 俺が遊園地まで迎えに行かないと、帰らないつもりかよ。あいつには意固地な所があるから、一度飛び出したら、三日経っても四日経っても帰ってこないに決まってるんだ。
 そして俺が無視し続けたままだと、世界中のメディアを使って、大々的に誘拐劇を仕立てあげるに決まってるんだ。『マジック元総帥、誘拐事件勃発!』とな。『背後に某機関暗躍の噂』『すわ国際紛争の幕開けか?』
 俺は、押し寄せるマスコミを思い、新聞雑誌に踊る文字を思い、世界中のスクリーンに垂れ流される映像を思った。
 家庭内喧嘩を世界的事件にまでエスカレートさせるのは、ごめんこうむる。でも、あいつなら平気でやりかねない。
 恥ずかしいヤツ。だから、こんな時は経験則上、こっちが初期段階で折れておかなければならないのだ。
 ああもう、本当に面倒くさい。



 このまま、帰っちまおうか。
 俺は、背中を返しかけた。だが、帰っても家で悶々として、自分が腹を立てるばかりなのはわかりきっている。溜息をついて、また門と向き合い、肩を落とす。
 結局、最後には俺は、あいつを迎えに行かなければならないのだ。どう自分が行動したとしても、結局はそうなるし、早いか遅いかの違いであった。
 まったく小学生どころじゃねえ、イヤな園児め!
 自問自答しながら、俺は遊園地の門を、しぶしぶ通り抜ける。
 門の内には、微かに、音楽が流れていた。



「……」
 俺は、その耳に触れる旋律を、どこか懐かしいと感じた。
 そういえば。この場所に来るのは、20年と……あの南国の地で一回り季節が巡って、あと幾許かぶり、だった。
 でも、こんなにこの門は小さかっただろうか。柵はこんなに低くて、塔はこんなに素朴な建物で、煉瓦は煤けていただろうか。記憶の中にある視界はずっと低く、もっと彩りに満ちていた。こんな風にモノトーンの影に沈んでいただろうか。
 踏み出すアスファルト。あの時は、駆けると優しい足音がしたはずだったのに。今は、冷たい軍靴の音がする。こつ、こつ、と規則正しい機械じみた響きが耳をつく。
 歳月を経たこと以上に、4歳の頃に眺めた景色は変貌を遂げていて、俺は、それは自分が変わってしまったということだろうかと、瞬きをして思う。
 大人の世界と子供の記憶の、隔絶感が、押し寄せてくる。



 夜の遊園地は、まるで異世界に迷い込んだように、すべてが青褪めて、ほの白く、よそよそしさに覆われていた。
 ひどく静まり返っている。だが時折、風で揺らめく幟が乾いた音をたてる。そして無機質な自分の足音ばかりが響き渡る。
 遊具は自動機械化されているのだろうか、係員すらも整備員すらも、人っ子一人、見当たらないのだった。
 空はちょうど新月の頃で、満天の星だけが呼吸をするように光芒を放つ。
 そして地上の輝き。きらめく遊具は、自分たちだけのために動きを止めない。
 回転木馬は輝きを振り撒いて回り、小型列車は光のトンネルを潜り抜けて闇をうねる。動物の顔が描かれた小さなゴンドラは、ゆらゆらと回転しながら、夜空を走る。
 フライングカーペットは舞い上がり、降下し、ただ主人に命ぜられたことを淡々とこなしているように見えた。真鍮の柱が、じっと静けさをたたえている。チケットの半券が、地面を撫でるような風に舞っている。
 ここは、昼間の子供にとっては、夢の世界であるのだ。
 だが、夜は?
 夜の遊園地は、俺にとっては、夢の果ての寂しい世界を想わせた。
 夢が行き着いた先の、その先の宛てのない世界。
「……あいつ、どこに、いるんだろ……」
 ふと、冬の寒さを感じて、俺は身を震わせてコートの襟を寄せながら、小さく呟いた。
 声は、ぽつんと唇から飛び出て、側の看板に弾けて地に落ちて、すぐに消えた。
 その瞬間だった。俺に向かって、輝く物体が襲い掛ってきたのは。



「……ッ!」
 不意をつかれて俺は、背後に飛び退ってその物体を避ける。きらめきの燐粉を残して、俺の鼻先を駆け抜け、ぐうんと流線を描いて飛んでいく塊。
 姿勢を低くし身構えた所に、ブーメランのような楕円軌道に乗って、再びそれが折り返し、突進してくる。
 今度は前方に倒れ込んで、俺は一回転する。
 反撃体勢をとってから。
「……」
 それから、静かに立ち上がった。
 俺の身体を、すうっと物体は、すり抜けていった。輝きの残像は、揺らめきながらアーチの向こうに消えた。
 俺はその正体を悟る。
 イリュージョン。
 よくよく辺りを見回せば、ペガサス、シードラゴン、フェニックスといったおとぎ話の中の生き物たちが、七色の輪郭に彩られて、闇の中を駆け回っているのだった。
 幻想の輝き。人工的に作られた、夢の世界。
 幼い頃の俺だったなら、きっと手を打って喜んだだろうに、と思う。
 今の俺は戦闘態勢なんか取っちまって、何をピリピリしてるんだ。嫌な大人になっちまった。
 幼い頃は……俺は戦いなんか、知らずに。
 ただ、去っていくあの男の背中から、抱きしめられた時の上着から、その匂いだけを敏感に嗅ぎ取っていた……。
 もう、俺は夢の世界には戻ることは叶わないのだろうか。
 俺は、夜空を見上げて、ほうと溜息をつくと。また歩き出した。
 ――幼い頃は……?
 もう、向かう場所はわかっていた。



 遊園地の最奥、なだらかな丘陵に沿った長い坂を上った先。大きな観覧車の前で、男は俺を待っていた。
 遠目の暗がりに、その姿が見えた。
 すると俺の体は一瞬、硬直した。息を止めた俺の側には、記憶と同じ姿をした、茂みがあった。
 幼い頃、俺がずっと隠れていた、あの葉の繁り。
 蘇る遠い距離の記憶。そして今。同じ夜の中で、俺は、あの時と同じ場所から、男を見つめていたのだ。同じだ、と思った瞬間、訳のわからない感情が俺を縛った。
 立ち尽くす。どうしてか、背筋を染みとおる何かが通り抜けて、俺の力を奪う。
 俺の視界の中で、いつだって、何でもない顔をしたあいつ。
 どんな瞬間にも、俺からすべてを隠したつもりになっていた、あいつ。
 その内、びゅうと冷たい夜の風が吹いて、それでも、あいつは、身動き一つしないのだった。
 風が男の髪を揺らして、頬を打ったけれども、それは風のゆらめきであって息遣いであって、彼自身は決して、息なんかしていないように、生きてなんかいないかのように見えるのだった。
 きっと、俺があの時と同じように側に駆け寄るまで、男は、このままずっと身動きしないのだ。



「……ッ……!」
 そう感じた瞬間、俺の身体に力が蘇る。衝動が沸き起こる。
 かすかに躊躇したものの、そんな自分を振り切るように、長い道を駆け出した。
 俺の、一族とは違う黒い髪が、なびいた。規則的に靴が地を蹴る音は消えて、乱れたみっともない足音ばかりが聞こえた。
 道の先に立つ男。走る度に、俺とあいつの距離が、狭まっていくのを感じた。もう少しだ、もう少しだと、ひたすらに走る。自分の息遣いが、うるさい。
 もう、隠れたりなんか、しない。
 男の顔に落ちる光の陰影は、あの時と同じで、その顔の彫りにあわせて鋭利で、深くて、だけど今の俺は、もうその顔を知っている。
 その、酷薄な表情を知っている。
 隠されていた罪悪の顔を、知っている――
 昔、俺は、冷たい風に一人吹かれているマジックを、見ているだけだった。
 風に打たれて冷えていく彼の姿を、見つめること。それだけしかできなかった。
 でも今の俺は、同じ風に吹かれたいと。
 そこから助け出すことはできなくても、せめて冷たさに共に打ちすえられていたいと。
 どうしようもなく思っているのだ。



「ここで待っていれば、来てくれると思っていたよ」
 全速力で走って、はあはあと息を切らしている俺に、マジックは何でもない顔をして言う。
 俺は、キッと男を睨みつけた。それでも、相手はこう言うのだ。
「仕事さえ終わったら、お前は、絶対来てくれるってわかっていたから」
「……チッ」
 何を、いけしゃあしゃあと。
 とりあえず俺は、まずは怒らなければと思い立ち、懐から通信文を取り出して側のベンチに放り出す。
「アンタ! これ、どーいうつもりだよッ!」
 肩をそびやかして詰め寄ったが、依然飄々として、あっさりと返ってくる答え。金色の眉が、軽く上がった。
「ああ、それ。いやあ、危なかったよ! パパ、一回さらわれたんだけれど、縄を切って逃げてきちゃった」
「うっそつけ――――ッ!!!」
「嘘じゃないんだな、これが。ほら、ここに縛られた痕が」
「あああ? どっ、どこにだよ!」
「ほら、ここ。腕の……」
「見えねえよ」
「ここ。ここだって」
 マジックが袖口をずらして、手首を見せようとするから。
 つい、俺は、どれどれと身を乗り出したら。
「つかまえた!」
「!!!」
 覗き込んだ顔を捉えられて、首に腕を回されて、ぎゅっと抱きつかれてしまった。



 男に、たよりなく引き寄せられてしまう。ばふっと俺の顔は、マジックの胸に押し付けられてしまう。
 俺は叫んだ。
「騙しやがったなあああ!!!」
「はは、まさに愛の手管だねえ、今のは。でもあの文章、ちゃんとお仕事終わった頃に届いただろう? ああー、パパ、シンちゃんとギュッ! ってできて、幸せ〜」
「くっ……俺はシアワセじゃね――ッ! 離しやがれぇぇ!!!」
「暴れない、暴れない。どうどう」
 俺を抱きしめ慣れている相手は、すでに反撃のかわし方も心得たもので、この腕からは逃げることはできないのだと俺はわかっている。
 わかっているけど、身をよじる。これは習性。相手もわかっているけど、逃げられたら大変だという素振りをする。これも習性。
 習性で、俺とあいつの関係は、成り立っているようなものだ。
「助けに来てくれて、ありがとう」
 そうウインクしてくる男に、俺は舌を出して答えた。
 ……マジックの、香りがする。



 お決まりの諍いがあった後に。今夜のマジックは俺を抱きしめたまま、でもちょっと違って、こんな言葉を囁いてきた。
「……観覧車に、一緒に乗ってくれたら。離してあげる」
 そして大きな円形のそれを、感慨深く見上げている。俺たちの側で、ゆっくりゆっくりと、空を巡る、赤い観覧車。夜空に描かれる円のかたち。
「あああ?」
 俺は、そう乱暴に返事をしたものの、先刻一人待つマジックの姿を見た瞬間から、この男は観覧車に乗りたいのだろうと気付いていたから、それ以上は続けずに、そのまま黙っていた。
 抱きこまれている耳元に、低音が響く。
「観覧車。お前と一緒に、乗りたいなあ」
「……」
 俺は、再びあの日を思い出している。戦場から帰ってきたこの男を、観覧車の前でひどく待たせた日のことだ。
 幼い俺は、こんな風に同じように、この場所で抱きしめられて、そのまま寝入ってしまったのだ。だから、あの日。俺たちは観覧車にさえ乗らなかった。
 この男と俺の遊園地は、楽しい事前計画の記憶と、場所の記憶だけで終わった。
 俺を抱きしめている男も、あの日を、俺と同じ過去を思い出しているのだろうか。
 だったらいいと、俺は感じた。
 その瞬間、俺と男とは、確かに同じ何かを共有していた。



 抵抗をやめて、そっと睫毛を上げて、俺はマジックを見上げた。
 青い瞳が俺を見下ろして、その薄い唇の端が、わずかに上がって、俺たちは至近距離で見詰め合って、そのまま無言の会話を交わしていた。
 こんな時は、いつも静かに目配せするだけで、一瞬だ。
 一瞬で、決まる。
 そして、俺たちは観覧車に乗ることになったのだ。



 自動錠の音がし、扉は閉まって一つの箱となり、俺たちは閉ざされた空間で息をする。中の一枚板の座席に、並んで腰掛ける。
 かたかたと獣が凍えて歯を鳴らすように、観覧車は夜に回り始める。暗闇に、頼りない小さな箱が、回転していくその不確かさ。大地は遠くなり、無人の遊具たちが眼下に小さくなっていく。嵌め込まれた窓ガラスが、俺の息で、白く曇った。
 夜は、暗い。目を凝らすとずっと先の方で、遠い山の稜線がおぼろげに浮かんでいるのが見えた。
 闇の海の中に、黄金色に輝く街の灯火、港の明かり、光を連ねる高速道路。
 イルミネーションが一際美しいのは。そうだ、クリスマスが近いから。
 俺はそう思いついて、目を細めた。
 コタローの誕生日が、近いから。



「……あんまり側に寄るな」
「仕方ないでしょ、狭いんだから」
「いや、絶対アンタの方、もっと隙間がある! ずれろよ! くっついてくんなって!」
「もう、この子は細かいことに拘るなあ。いいでしょ、だいたい、だいたいで。ぴと
「うお――ッ! アンタの『だいたい』は、ぴったり密着状態かぁっ! ああもう!」
「誰も見てない、見てない。私たちだけだよ。ねえ、だから」
 ああ、もう、もう。そういう問題じゃ、ないっての。俺たち、ケンカしてたんだぜ。
 それもこれも習性。俺の胸に沸き起こるこの感情も、習性。くっついてくるのも、抵抗するのも、最後はくっつくのも、習性。



 俺はマジックといると、ずきずきと心の奥が痛むのを感じることがある。
 肌がざわめく。平静ではいられなくなる。悲しくなる。切なくなる。自分の一番醜い部分が、暴かれていくような気持ちになる。
 特に、こんな、しんとした空間では、必死に築き上げている自分が崩されていく音が、聞こえてくる気がしている。
 そのことが悔しくて、痛みを隠すために、俺は仏頂面をしてしまうことになる。
 そんな俺の気持ちなんて知りもせず、マジックは暢気に、俺に話しかけてくる。
「あれ。シンちゃんったら。黙っちゃった」
「……黙って、悪いかよ」
 図々しい男は、俺の肩に、こつんとその金髪を乗せてきた。寄りかかってくる。
「重い! アンタ、重いんだよっ!」
 嬉しそうな白い顔が、至近距離から俺を見つめてくる。
「でもパパ、シンちゃんとこうすると、凄く落ち着くんだ」
「くっ! い、今だけだからな! 調子に乗んな!」
 俺は、ぷいとソッポを向く。
 ……だけど、この男の側では。
 側で目蓋を閉じれば、俺は。ひどく安心してしまうのだ……。



 今度は、少し間があって。
「シンちゃんったら。目、つむっちゃった」
 そんな声が聞こえたから。
「つむって、悪いかよ!」
 大きく叫んで、ギッと目を開けたら、ここぞとばかりに『ん〜』とキス寸前の相手の顔があって、俺はどきっとして、思わず飛びのく。飛びのくといっても観覧車の中だから、肩を引いて尻をずらすのが限度。必然的に捕まってしまう。
 暴れる俺、ぎゅうぎゅう近付いてくるマジック、押し返す俺、少し笑っているマジック。
「もーう、シンちゃんったら、きかん坊だなあ! あんまりつれないと、この観覧車、天辺までいったら、目からビームで止めちゃうよ! 24時間密室ラブラブ事件の始まりだね!」
「もっと有益なことに使えよ、そのフザけた超能力っ!」
「さあ、ラブの犯人は誰かな! パパかな? それともシンちゃん?」
「あーうっさいうっさいうっさい! これ乗ったら帰るぞ! いいか、俺ぁ、帰るからなッ!!!」
 狭い箱がきしんで揺れて、はめ込まれた窓ガラスが少し曇って、また何事もなかったかのように観覧車は回る。夜の風を張らんで、ゆっくり、ゆっくりと立ち昇っていく。
 やがて静かになった二人は、その振動を感じている。再び抱き寄せられて、俺は相変わらずの仏頂面で、そのまま黙っていた。
 腰に手を回されたから、お返しに俺は肘でその手に、ぐいぐい圧力をかける。
 でも相手は、こたえない。俺はいまいましげに、その顔を見ながら思った。
 ――共犯じゃねえのか。



 そのままずっと、そうしていた。
 不意に、小さな声が聞こえた。
「……さっきは、ごめんね。お前は忙しいのに、無理を言って」
 珍しいと、俺は驚く。
 マジックが、自分のワガママを反省するなんて。そしてそれを俺に言うなんて。
「ケッ! なーにを今更。明日は季節外れの台風でも来ねえだろーな」
「でも今日は、この場所に、お前と、来たかった」



 マジックが話し出そうとする雰囲気に、俺は身を固くする。
 過去――俺がどんなに望もうとも、決して自分の話はしてくれなかったマジックは、あの南国の島での出来事以降、昔の思い出を、こうして静かに語ってくれるようになった。
 いつもという訳ではないけれど、そっと壊れ物に触れるように、俺の知らない頃のマジックの話を。どこか遠い青い目をして。
 その度に俺は情けないくらいに緊張し、胸が痛くなる。痛みは、自分の無力感を示しているのかもしれなかったし、絶対に手に入れることが叶わない、ショーウインドーの中の人形を見つめる子供のような心に似ているのかもしれなかった。
 ただ声が、響く。
「ずっと昔のこと、お前が生まれる前のことだよ。私が幼い頃……よく家族で、この遊園地に来たんだ。忙しい父と来たのは一度きりだったけど、それからすっかり気に入ったハーレムやサービスが、何かにつけて行きたがってね。だから幼い私たちは、兄弟の誕生日毎に、遊園地に来ていた」
 マジックの父親――つまり俺の祖父にあたる人――が亡くなったのは、彼がごく幼い頃だという事実は、勿論知っていた。13歳の時分だという。同年の自分はまだ士官学校に入る前だ。
 そしてその幼いままで、男は総帥となった。
 俺が今、ずっと年長の俺が今、苦しみ悩んでいる責務を、幼い身で男はこなしていた。
「……年の初めに、双子の誕生日、年の半ばに、ルーザーの誕生日、年の終わりに、私の誕生日……」
 歌うように、男は呟いた。
「その儀式も、父が亡くなって、あっさりと終わった。それから長い年月が経って……今度は幼いお前の誕生日に、この場所に来たんだったね」
「……ああ」
「あの時、あんなにお前も私も楽しみにしていたのに。何も乗ることができずに、それっきりになってしまっていた。それが、ずっと……気になっていたよ」
 俺も気になっていた、とは言えなかった。言えずに唇を引き結んだ俺に対し、マジックはそっと笑う。
 小さい頃のお前は、今朝の私みたいに、ワガママなんて言わなかった。ただいつも、私が『仕事が入った』と告げると、ほら、今みたいに。
 マジックの指が伸びて、つん、と俺の唇を、突いた。
「黙って、こんな顔、してたよね」
 俺は慌てて顔の筋肉をぎくしゃくさせて、『こんな顔』と指摘された表情を変えようとした。だが上手くいかない。他にどんな表情をすればいいかが、わからない。
 男は言葉を続ける。
 私も仕事を優先させる人間だけど、お前の側にいられない時は、とても寂しくて。その当時は、もしかしたら、そう感じるのは私だけで、お前は私なんかいなくても寂しくなんかないのかなって。そう思うこともあったのだけれど。
「今は……そんなことを考えていた自分を、ひっぱたきたいって、感じてる」
 俺はまだきっと、『こんな顔』をしていたのだと思う。そのままの顔で、ぶっきらぼうに言った。
「自信過剰め」
「本当にそう?」
「……だからアンタは嫌なんだ」
「本当に私のこと、嫌?」
「ああもう、聞くな!」
「だって聞きたいんだもの」
「くっ……ここに来てやったろ! あんなアホくさい脅迫状に釣られてな! それで十分だろ!」
 男はまた、ふっと薄く笑って、俺を抱きしめてきた。その口元が見てられなくなって、俺はつい視線を脇にそらす。窓の外、夜を彩る灯火たちが、踊るようにちらついた。
「だから、一つの区切りがついた今。昔来た、誕生日の日にね。お前と一緒に、この特別な場所に来たかったのさ」



 気恥ずかしさの反面、俺は心の奥で、衝撃を受けている自分を、感じていた。
 マジックにとって、この遊園地は、俺の関係ない思い出たちの住む、特別な場所であったのだ。
 マジックの愛する父親、幼い頃の兄弟たち、その他たくさんの、俺の手の届かない過去たちの住む場所。
 4歳の自分と遊園地に来た時も、この男は別のことを考え、別のものを見ていたのだろうと思うと、俺は悔しくなる。こんなに側にいるのに、彼には俺がどうやっても追いつけない過去があって、絶対に同じものを見ることができない。
 そして今も。さっきは、確かに俺たちは、同じ想いを共有していると感じていたのに。
 また、遠くなる――



「ねえ、シンちゃん」
 俺の想いを他所に、声は囁き続ける。
「お願い、パパを甘えさせてよ」
 俺は、ちらりと相手の顔を見た。
 その青い瞳は、うっとりしたまなざしで、俺を見つめてくるのだった。熱い色。この熱は、俺だけに向けられているのだろうか。
「嬉しい時も、悲しい時も、キスさせて」
「……」
「いつも、ごめんね。でも……私はお前に子供扱いされたいんだと、思う。わざとワガママを言って、怒られたい。私を怒ってくれる人なんて、ずっとずっと、長い間、いなかったよ。お前に出会うまでは」
「……バカ」
「そう。そうやって、怒られないと……私は、また道を間違えてしまうのだと思う……」
「脅迫かよ」
「ああ、その通りかもしれないね。脅迫だって何だってして、私はお前に怒られたい」
 男は息を止めた。それから微かに息を吐いた。すると俺の首筋に、その息がかかった。
 俺はぞくりとする。肌はみっともないぐらいに緊張して、次の相手の言葉を待つ。
 その言葉は、闇に溶け込んでいくような甘い響きを含んでいるのだった。
「私はお前に、側にいて欲しい」



 男の声。かたかたと揺れる観覧車の音に、沈んでいくようなその声。幼い頃、いつも眠る前に耳元で囁かれていた、その声。
 ――こんな話があるよ。
 不思議な回転木馬の話さ。
 回転木馬が一周する度に、木馬に乗った少年は年を取っていくのさ。
 逆に回転すれば、一つ若返る。そんな、夢の世界の話を、お前は知っている?
「観覧車でも、同じことが起きたら、素敵だと思わないかい」
 俺は、男を見つめた。
「観覧車が一つ回る度に、私は一つ若返って、お前に近付いていくとしたら」
 ……回り巡って、私は子供になりたい。
 幼い子供に戻って、お前に抱きしめて貰いたい。
 幼い頃から、私はずっとお前に会いたかった。
 寂しい時、こんな風に側にいてほしかった。
 だから、今。私を抱きしめて。
 お前といるとね。お前は私を子供っぽいと言うけれども。
 私はいつも、やり直しているのだと思う。
 失われた、子供時代を。



「大丈夫」
 何故か、そんな言葉が、俺の口から、飛び出していた。
 夜を巡る観覧車。この観覧車が一つ回れば。俺はこの男へと一つ近付くことができるとしたら。
 ……回り巡って、俺は。アンタの場所へと、近付きたい……。
「アンタはきっと幸せになる」
 アンタが、幸せになったら。
 そうしたら……。
「……そうしたら……きっと俺も、幸せになる……」



 いつの間にか、外には粉雪が待っていた。
 空高く白い花弁は舞って、12月の夜を華やかに描く。白と黒と輝きの世界。俺の夢の世界は、今、ここにある。
 夢の世界は、失われてはいない。
 ひとつひとつ、やり直して、新しく作り上げていくものなのだろうと、思う。
「……きっとクリスマスは、ホワイトクリスマスだね」
 窓の外を眺めていたら、マジックがそう言うから。俺は、黙って次の相手の言葉を待った。
 そんな俺を見つめて、男は、微笑んで言った。
「コタローの誕生日には。きっと美しい銀世界が広がっているね。世界は、あの子が目覚めるのを待っている。私も、お前も、そして家族も…あの子を待っているんだ」



 俺は、初めて自分から、相手に身を寄せた。
 金髪の頭に手をあてて、強く引き寄せる。胸元に、男を抱きしめた。
 マジックといると、俺の心の奥が痛むのは確かだ。肌がざわめく。平静ではいられなくなる。悲しくなって切なくなるのだけれども。
 だからこそもっと――側にいて、幸せが欲しくなる。
 身ぐるみ剥がされた俺の心は、寄り添うことの温もりに焦がれてしまう。剥き出しの愛情に惹かれてしまう。
 マイナスの感情も、プラスの感情も、全部アンタのせい。俺の感情は、みんなアンタのせい。幼い頃から、それもこれも、全部。最初から、ずっと最初から……。
 俺は男に囁き返す。自然に口から言葉が零れ出た。
「……もう、何かを奪う人生なんて、やめろよ」
 相手は、俺の胸にぴったり顔を寄せて、鼓動を聞いているのだと思う。
 男の、あの血を思わせる赤い軍服は、今は俺が身に着けている。この男のかわりに、身に着けている。
 この赤は、俺がアンタから引き受けた業の象徴。俺はこの赤を着て、風に向かって立つ。
 でも俺だって、この温もりがなければ、立つことなんてできないんだ。一緒に。
「何かを奪う生活より……何かを生み出す生活、しろよ」
 破壊から、再生をめざすために。
 奪うばかりの道を歩いてきたアンタだけれど。もう止めたっていいんだぜ。
 俺が毎日、一生懸命に総帥やってるのは。一体何のためだと思ってるんだ。
 夜の狭間、声がした。
「シンタロー。『何か』なんて曖昧に言わないで」
 俺は息をつく。睫を下げて、自分の腕の中を見つめる。男は、俺を見つめていた。
 俺だけを見つめていたのだ。観覧車が回る。
「愛でしょ。私は愛を生み出す人になりたい」



「……」
 俺は、頭を下げた。そっと男の唇に、自分のそれを押し付ける。
 嬉しい時。悲しい時。今までアンタは何千回、ひょっとしたら何万回も俺にキスしてきたけれど、その内、悲しかった時は何回?
 これから何度、嬉しい時のキスをすれば、釣り合うの?
 少なくとも俺からのキスは、嬉しい時のものだと、いい。
 ――私はいつも、やり直しているよ。
 相手の唇は塞いでいるはずなのに、また、声が聞こえたような気がする。
 唇から感じる、脳髄まで染みとおるような男の声を聞きながら、俺は考えている。
 悲しいキスの数を、俺が埋めることはできるのだろうか。
 そうすれば、この男が悲しい目をすることはなくなるのだろうか。
 ――すべてを、ね。
 キスしてやるさ。
 この男が抱いていた無茶な野望、その行き着く先、夢の果ての世界は、この夜の遊園地のような孤独の地ではなくなるように。
 できることなら幸せの地であるように。
 ――いつもいつも、私たちは喧嘩しては、やり直しだね。
 俺は、アンタに何ができるのか。
 こうして一緒に観覧車に乗るだけしかできない俺は、無力なのか。
 ――繰り返している。そしてそのことが、私には嬉しい。
 唇を離すと、ひどく近い距離で、男は俺を見上げて囁いた。
「私は、お前の手で、生まれ変わりたい」



 ――本当は観覧車になんか、乗らなくったって。
 ――お前といれば、私は。
 ねえ、シンタロー。愛しているよ。
 これからもずっと、私と一緒に、いてくれる?
 そうすれば、未来が新しい私の誕生日になる。
 静かな問いかけと共に、男の手がそっと近付いてきて、俺の頬に優しく触れた。
 俺は目を閉じたのだけれど、同時に自分の肌が、びくりと驚きに震えたのを感じていた。
 俺の腕と腰とに挟まれていたせいか、マジックの手は、ひどく熱かった。
 あの時、冷たくなっていた、その過去の手が。
 ああ、この男の身体を熱くしたのは、俺なのだなと。
 その時、俺は、再び悟ったのだ。







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