夜の遊園地

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 目を閉じれば、蘇る記憶がある。運命だったのかもしれない。
 ぼんやりとした記憶。俺とノブオさんは、遊園地に行ったことがある。
 ノブオさんも俺も、やけに張り切って、その日を指折り数えて待ったのを覚えている。
 ジェットコースターに乗って、回転木馬に乗って、観覧車に乗って、それからそれから。
 ノブオさん、一緒に乗ろうぜ、気にしない、いいじゃねえかよ、楽しいぜ、それからそれから。
 当日、華やかな花火が上がって、遊園地は俺たちだけで、何もかもが予想以上に豪華絢爛で、俺は嬉しくて、結局、遊具になんか何一つ乗らないまま、あいつは血を吸うためにバサバサと羽ばたきながら、立ち去った。



 時は過ぎる。
 すぐに帰ってくると言ったノブオさんが戻ってきたのは、とっぷりと日が暮れてから、誰も彼もが消えてから、昼間の喧騒が嘘のような静寂が、辺りを包み始めた頃のことだ。
 それはこの遊園地を見下ろすことのできる、小高い場所。
 夜の闇が立ち込める中を、あいつは、赤いペンキが塗られた観覧車前の、赤いベンチに、座って俺を待っていた。
 ビキニパンツから伸びる脚を組み、首を少し傾けて、遠い空の向こうを眺めていた。ただ、腹が出ていた。丸い巨大な鼻の下から、タワシのようなヒゲが伸びていた。
 俺は、すぐ側まで行ったのだけれど、そんなノブオさんの姿を目にして、つい立ち止まって、それから近くの茂みに隠れた。がさがさと葉が揺れた。
 待たせた分、俺もあいつを待たせ返してやろうとしたのだ。



 葉の間から覗く、赤い観覧車、赤いベンチ、黒いビキニパンツ。
 茂みの中から長く見つめていると、その色はいつしか、てらてらとぬめって、ノブオさんの住む世界を思わせる。
 赤黒い血の色を、思わせる。
 俺から隠したつもりになっている、ノブオさんの世界。
 今、俺の視界の中で、血吸いから戻ってきたばかりなのに、何でもない顔をしたあいつ。
 その内、びゅうと冷たい夜の風が吹いて、それでも、ノブオさんは、身動き一つしないのだった。
 風がノブオさんの黒羽を揺らして、頬を打ったけれども、それは風のゆらめきであって息遣いであって、彼自身は決して、息なんかしていないように、生きてなんかいないかのように俺には見えたのだった。
 その横顔に落ちる光の陰影は、ノブオさんの顔の彫りにあわせて丸くてむっちりしていて、まるで俺の知らない顔を、ノブオさんがしているように、見せたのだ。
 俺は、長い間茂みの中でじっとしていた。
 ノブオさんの顔を、見つめていた。背筋に冷たいものを、感じていた。
 実際の時間はわからないけれど、とにかく、長い、長い、間、俺はノブオさんを眺めていた。
 そして風が両手の指なんかでは数え切れないぐらいに、ノブオさんを打ちすえてから。
 不意に俺は電流にうたれたように立ち上がって、茂みから出て、ノブオさんに近付いたのだ。
 のっぺりした顔が振り向いて、見下ろして、『……気にしない』とだけ言って、初めて表情を崩して、微笑んだ。
 もういつもの顔だった。
 ノブオさんは、俺が隠れていたことなんて、とっくの昔に気付いていたのだろうと思う。
 俺に触れたノブオさんの手は、風のせいで、いつにも増してぞっとする程に冷たかった。
 抱きしめられて、ひやりと俺の額に触れた薄ピンクの肌も、冷たかった。
 ああ、ノブオさんの身体を冷たくしたのは、俺なのだなと。
 その時、俺は、悟ったのだ。





夜の遊園地







「え〜〜〜〜〜〜! ノブオさんてば、遊園地に行きたいの?」
「……」
「そうなのかよ、行きたいのかよ……しっかし困ったなあ、今日の俺にゃあ、嫁に、掃除機のニオイとりを教えるって大切な仕事が」
「お姑さん、行ってください。その前に我が家に掃除機はありません」
 朝のこの忙しい時間。俺が自分の赤い軍服を、せっせと手入れしているその背後で、
「……」
 立ち尽くしているナマモノ、ノブオさん。
 俺の前に後ろに、左に右に。ノブオさんが動く度に、黒い羽が、ひらひらとちらつく。何だか気になる。とても気になる。
 ある意味いつもの光景なのだが、今日は特にくっついてくる。いつもはこうではないのに。
 やけにその態度が、新鮮だった。
 どうしたんだろう。俺は振り向き、尋ねた結果が、こうだった。
「……ハッピーチャイルドは、遊園地に行ったこと、ない」



 俺がこの第二のパプワ島に落ちてから、数ヶ月が経った朝の会話である。
 漂流島で出会った巨大コウモリ(?)のノブオさんが、この島に住み着いてから、そう間もない頃のことだ。
 異次元を通って新たに辿り着いた島は、遊園地島。
 ちみっこ大好きなアトラクション満載の素敵な島で、あちこちにジェットコースターが張り巡らされて、島全体が遊具に満ちている。
 こうしている間にも、がたん、ごとんと滑車の音が聞こえていた。
 だから遊園地に行く、というより、もうすでに俺たちは遊園地の中にいるも同然なのだが。
 ノブオさんは、この遊園地島の奥深くに、俺を誘いたいらしい。
「……」
「うーん、でもな、ノブオさん。ちみっこたちのいない間じゃねえと、たまった家事なんか片付けられねえんだよなー」
 首を捻りながら、俺は言う。
 朝早くから、ちみっこたちは嬉しそうな笑顔で、遊びに出かけてしまった。
 ノブオさんも、一緒についていったものだと俺は思っていたのだが、そうではなかったらしい。
「……」
 心なしか肩を落としたノブオさんは、くるりと踵を返すと、パプワハウスから出て行った。
 黒い羽が、しおれていた。
「ノブオさん……」
 その背中が、俺は妙に気になった。



 なんだかモヤモヤする。
 その日の俺は、掃除用に先に布を巻いた割り箸を3本折って駄目にし、排水溝に指を吸い込んでしまったり、水垢に滑ったりしてしまった。
 ノブオさんのせいなのだろうか。俺はよく働いているリキッドを眺め、家事の合間に、ぼんやりと考える。
「お姑さん、気になるんですか?」
 リキッドに図星を指されて、俺は慌てて頭を振った。
「や、別に」
 やがて、遊び疲れた子供たちが帰ってくる。
 楽しい夕食の時間が始まる。だがノブオさんは帰ってこなかった。
「えー、ノブオさん? 見なかったよー。ねえ、パプワくん!」
「ああ、見なかったぞ。リキッド、おかわり!」
「わーう」
「そっか……」
 俺は、窓の外を見た。すでに日は沈み、闇が立ち込め始めている。
 ノブオさんは夜行性のコウモリだから、心配はしていないのだけれど。



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 そして俺は、結局。この遊園地島の奥、大木の根元に突っ立っている。
 すでに夜遅く、人気はない。この島の季節は冬で、生き物はいない。いや、いるのかもしれないが、少なくとも俺たちの前には姿を見せなかった。
 遊具を動かす機械ばかりが、無人のこの島で動いている。もしかすると、はるか昔に死に絶えた主人たちを、機械たちは命じられた仕事をこなし続けることによって、弔っているのかもしれなかった。
 冷たい風が吹いて、はたはたと色とりどりの布を靡かせ、電飾が夜に極彩色のイルミネーションをきらめかせる。
 ファンシーな装飾とヤンキーなざっくばらんさが、絶妙にミックスしたこの空間。静かに立ち並んだ券売機が、整列してこちらを見ているような気がした。券など、誰も買う者はいないのに。
 どうしよう。
 なぜか俺は、この場に来たことを後悔していた。
 自問自答しながら、俺は大木の間を通り抜ける。
 微かに、音楽が流れていた。



「……」
 俺は、その耳に触れる旋律を、どこか懐かしいと感じた。
「……くっ!」
 不意に頭痛に襲われた俺は、額を押さえる。どうして俺は、懐かしいと思うのだろうか。
 脳裏に閃く映像。なぜかこの場所には、既視感がある。
 いや、俺は……この島に来た時から、何かを感じていた。だから最初にノブオさんから誘われた時に、うんとは言わなかったのだ。
 でも、こんなにこの門は小さかっただろうか。柵はこんなに低くて、塔はこんなに素朴な建物で、煉瓦は煤けていただろうか。記憶の中にある視界はずっと低く、もっと彩りに満ちていた。こんな風にモノトーンの影に沈んでいただろうか。
 踏み出すアスファルト。あの時は、駆けると優しい羽音がしたはずだったのに。今は、冷たい靴音がする。こつ、こつ、と規則正しい機械じみた響きが耳をつく。
 あの時……?
 ……そうだ、俺はあの時は人間ではなかった。もっと違う生き物だった。歳月を経たこと以上に、過去に眺めた景色は変貌を遂げていて、俺は、それは自分が変わってしまったということだろうかと、瞬きをして思う。
 現在の世界と過去の記憶の、隔絶感が、押し寄せてくる。
 そうだ、これはデジャヴ。
 俺は……俺は、昔。シンタローである前の昔――



 夜の遊園地は、まるで異世界に迷い込んだように、すべてが青褪めて、ほの白く、よそよそしさに覆われていた。
 ひどく静まり返っている。だが時折、風で揺らめく幟が乾いた音をたてる。そして無機質な自分の足音ばかりが響き渡る。
 遊具は自動機械化されているのだろうか、係員すらも整備員すらも、人っ子一人、見当たらないのだった。
 空はちょうど新月の頃で、満天の星だけが呼吸をするように光芒を放つ。
 そして地上の輝き。きらめく遊具は、自分たちだけのために動きを止めない。
 回転木馬は輝きを振り撒いて回り、小型列車は光のトンネルを潜り抜けて闇をうねる。動物の顔が描かれた小さなゴンドラは、ゆらゆらと回転しながら、夜空を走る。
 フライングカーペットは舞い上がり、降下し、ただ主人に命ぜられたことを淡々とこなしているように見えた。真鍮の柱が、じっと静けさをたたえている。チケットの半券が、地面を撫でるような風に舞っている。
 ここは、昼間の子供にとっては、夢の世界であるのだ。
 コタローやパプワたちは、どんなに楽しい時を過ごしたのだろうか。
 だが、夜は?
 夜の遊園地は、俺にとっては、夢の果ての寂しい世界を想わせた。
 夢が行き着いた先の、その先の宛てのない世界。
「……あいつ、どこに、いるんだろ……」
 ふと、冬の寒さを感じて、俺は身を震わせてコートの襟を寄せながら、小さく呟いた。
 声は、ぽつんと唇から飛び出て、側の看板に弾けて地に落ちて、すぐに消えた。
 その瞬間だった。俺に向かって、輝く物体が襲い掛ってきたのは。



「……ッ!」
 不意をつかれて俺は、背後に飛び退ってその物体を避ける。きらめきの燐粉を残して、俺の鼻先を駆け抜け、ぐうんと流線を描いて飛んでいく塊。
 姿勢を低くし身構えた所に、ブーメランのような楕円軌道に乗って、再びそれが折り返し、突進してくる。
 今度は前方に倒れ込んで、俺は一回転する。
 反撃体勢をとってから。
「……」
 それから、静かに立ち上がった。
 俺の身体を、すうっと物体は、すり抜けていった。輝きの残像は、揺らめきながらアーチの向こうに消えた。
 俺はその正体を悟る。
 イリュージョン。
 よくよく辺りを見回せば、ペガサス、シードラゴン、フェニックスといったおとぎ話の中の生き物たちが、七色の輪郭に彩られて、闇の中を駆け回っているのだった。
 幻想の輝き。人工的に作られた、夢の世界。
 幼い頃の俺だったなら、きっと手を打って喜んだだろうに、と思う。
 今の俺は戦闘態勢なんか取っちまって、何をピリピリしてるんだ。嫌な大人になっちまった。
 これが今の世界の俺。
 前世の……過去の俺は……血の匂いなんか、知らずに。
 ただ、去っていくあのノブオさんの背中から、抱きしめられた時の上着から、その匂いだけを敏感に嗅ぎ取っていた……。
 もう、俺は夢の世界には戻ることは叶わないのだろうか。
 俺は、夜空を見上げて、ほうと溜息をつくと。また歩き出した。
 ――昔は……?
 もう、向かう場所はわかっていた。



 遊園地島の最奥、なだらかな丘陵に沿った長い坂を上った先。大きな観覧車の前で、ノブオさんは俺を待っていた。
 遠目の暗がりに、その姿が見えた。
 すると俺の体は一瞬、硬直した。息を止めた俺の側には、記憶と同じ姿をした、茂みがあった。
 過去に、俺がずっと隠れていた、あの葉の繁り。
 蘇る遠い距離の記憶。そして今。同じ夜の中で、俺は、あの時と同じ場所から、ノブオさんを見つめていたのだ。同じだ、と思った瞬間、訳のわからない感情が俺を縛った。
 立ち尽くす。どうしてか、背筋を染みとおる何かが通り抜けて、俺の力を奪う。
 俺の視界の中で、いつだって、何でもない顔をしたノブオさん。
 どんな瞬間にも、俺から吸血のこと、辛いこと、すべてを隠したつもりになっていた、ノブオさん。
 その内、びゅうと冷たい夜の風が吹いて、それでも、ノブオさんは、身動き一つしないのだった。
 風がノブオさんの髪を揺らして、頬を打ったけれども、それは風のゆらめきであって息遣いであって、彼自身は決して、息なんかしていないように、生きてなんかいないかのように見えるのだった。
 きっと、俺があの時と同じように側に駆け寄るまで、ノブオさんは、このままずっと身動きしないのだ。



「……ッ……!」
 そう感じた瞬間、俺の身体に力が蘇る。衝動が沸き起こる。
 かすかに躊躇したものの、そんな自分を振り切るように、長い道を駆け出した。
 俺の、人間の黒い髪が、なびいた。規則的に靴が地を蹴る音は消えて、乱れたみっともない足音ばかりが聞こえた。
 道の先に立つノブオさん。走る度に、俺とノブオさんの距離が、狭まっていくのを感じた。もう少しだ、もう少しだと、ひたすらに走る。自分の息遣いが、うるさい。
 もう、隠れたりなんか、しない。
 ノブオさんの顔に落ちる光の陰影は、あの時と同じで、その顔の造作にあわせて丸くて、浅くて、だけど今の俺は、もうその顔を知っている。
 その、酷薄な表情を知っている。
 隠されていた罪悪の顔を、知っている――
 ノブオさんは吸血鬼だったのだ。血を吸いたくてたまらない、それなのに俺と一緒にいるために、我慢してくれていたのだった。
 昔、俺は、冷たい風に一人吹かれているノブオさんを、見ているだけだった。
 風に打たれて冷えていく彼の姿を、見つめること。それだけしかできなかった。
 でも今の俺は、同じ風に吹かれたいと。
 そこから助け出すことはできなくても、せめて冷たさに共に打ちすえられていたいと。
 どうしようもなく思っているのだ。



「……」
 全速力で走って、はあはあと息を切らしている俺に、ノブオさんは目を点にしていた。もともと点だけど。
 俺は、俺より背の高いノブオさんを見上げて、言った。
「ノブオさん! 帰ってこないなんて、一体どういうつもりなんだよ」
 彼は答えない。
 そのかわりに、なぜかトントンと自分の腕を叩いているから。
 もしかしてケガでもしているのかと、つい、俺は、どれどれと身を乗り出したら。
「……気にしない」
「!!!」
 覗き込んだ顔を捉えられて、首に腕を回されて、ぎゅっと抱きつかれてしまった。



 腕は細いが大柄なノブオさんに、俺はく引き寄せられてしまう。ばふっと俺の顔は、ノブオさんの弾む胸に押し付けられてしまう。
 俺は叫んだ。
「ノ、ノブオさん!!!」
 ノブオさんの体は、むにゅむにゅする。とてもやわらかい。
 どうしてこの大きさで飛べるのかというくらいに、普段は小さい黒い翼が、パサパサと揺れた。
 俺は知っている。
 嬉しいと、ノブオさんは、羽をバサバサはためかせるのだ。
 そして今、その翼は、大きく上下している。



「……観覧車」
 ノブオさんはそう言って、大きな円形のそれを、感慨深く見上げている。俺たちの側で、ゆっくりゆっくりと、空を巡る、赤い観覧車。夜空に描かれる円のかたち。
「あれ、乗りたいのかよ?」
 俺は返事をしたものの、先刻一人待つノブオさんの姿を見た瞬間から、ノブオさんは観覧車に乗りたいのだろうと気付いていたから、それ以上は続けずに、そのまま黙っていた。
「……」
 俺は、再びあの日を思い出している。血吸いから帰ってきたノブオさんを、観覧車の前でひどく待たせた日のことだ。
 過去の俺は、こんな風に同じように、この場所で抱きしめられて、そのまま寝入ってしまったのだ。だから、あの日。俺たちは観覧車にさえ乗らなかった。
 ノブオさんと俺の遊園地は、楽しい事前計画の記憶と、場所の記憶だけで終わった。
 俺を抱きしめているノブオさんも、あの日を、俺と同じ過去を思い出しているのだろうか。
 だったらいいと、俺は感じた。
 過去――いや、前世、と言い替えた方がいいのだろうか。
 その瞬間、俺とノブオさんとは、確かに同じ前世を共有していた。
 そして、俺たちは観覧車に乗ることになったのだ。



 自動錠の音がし、扉は閉まって一つの箱となり、俺たちは閉ざされた空間で息をする。中の一枚板の座席に、並んで腰掛ける。
 かたかたと獣が凍えて歯を鳴らすように、観覧車は夜に回り始める。暗闇に、頼りない小さな箱が、回転していくその不確かさ。大地は遠くなり、無人の遊具たちが眼下に小さくなっていく。嵌め込まれた窓ガラスが、俺の息で、白く曇った。
 夜は、暗い。目を凝らすとずっと先の方で、遠い山の稜線がおぼろげに浮かんでいるのが見えた。
 闇の海の中に、黄金色に輝く街の灯火、港の明かり、光を連ねる高速道路。
 イルミネーションが一際美しく映えている。
 今、コタローはどうしているだろう。ちゃんと毛布を被って寝ているだろうか。パプワ、チャッピー。そしてリキッド。
 ここでこんな風に、ノブオさんと一緒にいる俺を、許してくれ。
 そして、『ちょっとそこまで』と言って出かけてしまった、マジック――
 浮気か? これは浮気って思うか? あのな、違うって。これはもっと違う感情なんだ……。



 俺はノブオさんといると、ずきずきと心の奥が痛むのを感じることがある。
 肌がざわめく。平静ではいられなくなる。悲しくなる。切なくなる。自分の一番醜い部分が、暴かれていくような気持ちになる。
 特に、こんな、しんとした空間では、必死に築き上げている自分が崩されていく音が、聞こえてくる気がしている。
 そのことが悔しくて、痛みを隠すために、俺は何でもない顔をしてしまうことになる。
 狭い箱がきしんで揺れて、はめ込まれた窓ガラスが少し曇って、また何事もなかったかのように観覧車は回る。夜の風を張らんで、ゆっくり、ゆっくりと立ち昇っていく。
 やがて静かになった二人は、その振動を感じている。再び抱き寄せられて腰に手を回されたから、イタズラ心を起こした俺は、お返しに肘でその手に、ぐいぐい圧力をかけてみた。
 でも相手は、こたえない。むしろ俺の肘が、ノブオさんの肌に食い込んでいく。
 ぐっとさらに力を入れると、勢いあまって、俺はノブオさんの腹に頭を打ち付けてしまった。
 ぼよーんと弾んだ。
 膝枕ならぬ、腹枕になってしまった。
 そのままずっと、そうしていた。
 不意に、小さな声が聞こえた。
「……思い出したのか」
 珍しいと、俺は驚く。
 必要以上に物を言わず、すべて『気にしない』で通してきたノブオさんが、こんな言葉を発するなんて。
 俺は答えた。
「ああ、思い出したさ」



 人には誰しも前世がある。
 俺の前世は、この遊園地島に住んでいた何者かだった。
 伝染病が流行り、一人また一人と仲間たちが死んでいった。そして最後に残ったのが、俺と、このノブオさんだったのだ。
 俺はノブオさんを、その腹の上から見つめる。
 そっと壊れ物に触れるようにな、どこか遠い点目をして、ノブオさんは窓の外を眺めていた。
 俺は情けないくらいに緊張し、胸が痛くなる。痛みは、自分の無力感を示しているのかもしれなかったし、絶対に手に入れることが叶わない、ショーウインドーの中の人形を見つめる子供のような心に似ているのかもしれなかった。



 ――ずっとずっと、昔のことだ。
 それまでノブオさんと俺とは、同じ島に住んでいるというだけで、さして仲のいい間柄ではなかった。同族ではない。よく覚えてはいないが、ノブオさんは今と同じ吸血動物だったはずだ。雑食の俺とは、趣味が合わなかった。
 だが、最後に二人残って、この死の島で生活をしていく内に、共に迫り来る恐怖に耐える内に、何物にも替え難い絆が、俺とノブオさんの間には生まれていた。
 『気にしない』とおおらかなノブオさんと、気の短い俺とは、よく喧嘩もした。
 仲直りをして、その度に、こうしてノブオさんの豊かな腹で、腹枕をして、観覧車に乗ったのだ――



 気恥ずかしさの反面、俺は心の奥で、衝撃を受けている自分を、感じていた。
 この遊園地は、ノブオさんと遠い俺の思い出たちの住む、特別な場所であったのだ。
 たくさんの、俺の手の届かない過去たちの住む場所。
 ノブオさん。どうして俺たちは、この場所に辿り着いたのだろう。
 どうして思い出したのだろう。
 そしてノブオさん、あんたがあの漂流島を出て、俺についてきたのは、この宿縁を感じていたからではなかったのか。
 なあ、ノブオさん……昔と一緒で、無口だな。答えてはくれねえな。



 前世。病に侵され、ついに死期を悟った俺たちは、二人の仲直りの場所だったこの観覧車に乗る約束をした。死に場所を決めたつもりだった。
 機械を操作して花火を打ち上げ、パーッと派手に死ぬのだと計画した。
 だが最後の食事をとるために、ノブオさんは生き残った小動物等を探すのに手間取った。だから昼間の内には、俺たちは遊具に乗ることはできなかった。もとより、そんな体力も残ってはいなかったが。
 ムッとした俺は、わざと最後の約束の時間に遅れた。実を言うと俺は、観覧車には乗りたくなかった。
 病魔の進行は俺の方が早いことはわかっていた。たぶん俺が先に死ぬだろう。
 俺は、一緒に死ぬよりも、ノブオさんに自分の血を吸ってほしかった。
 雑食の俺は、何を食べても生き延びることができたが、吸血を生業とするノブオさんは、生物のほとんどが死に絶えたこの島では、常に腹を空かせていた。
 ノブオさんは、決して俺の血は、吸わなかったのだ。そのことが、俺には辛かった。
 ノブオさん自慢の、豊かな腹も、最後にはしぼんでしまっていたのだ。
 俺はその腹を、見たくなかった。ノブオさんには、ぼよ〜んとした腹でいてほしかったのだ。
 だから最後に俺の血を。観覧車なんかより、思い出作りなんかより、腹を満たしてほしかった。
 待ち合わせに遅れ、観覧車の前で抱きしめられたまま、『俺の血を吸え』と告げた後、俺の過去の命は消えた。
 その後は知らない。



 今。
 ノブオさんの点目は、どこかうっとりしたまなざしで、俺を見つめてくるのだった。熱い色。この熱は、俺だけに向けられているのだろうか。
「ノブオさん。結局あの後、俺の血、吸ったのかよ?」
「……」
「……そーだよな、答えたくないよな。でも、ごめんな、観覧車、乗れなくって」
「気にしない」
「へへ。ノブオさん、優しいな」
「……」
 ノブオさんは息を止めた。息を止めると、丸い鼻下のヒゲの揺れが止まるので、すぐわかる。それから微かに息を吐いた。すると俺の顔に、その息がかかった。
 俺はぞくりとする。肌はみっともないぐらいに緊張して、次の相手の動作を待つ。
 ノブオさんのゆったりとした動作は、闇に溶け込んでいくような甘い響きを含んでいるのだった。
「会えて……嬉しい」



 ノブオさんの声。かたかたと揺れる観覧車の音に、沈んでいくようなその声。前世で、俺が死ぬ前に耳元で囁かれていた、その声。
 バサバサとノブオさんの黒羽が、羽ばたいた。心底嬉しい証拠だった。
 俺は、ノブオさんの腹の上から、彼を見つめた。
 そして気付いた。ノブオさんは、今まで寂しかったのだ。
 だから今、この世で俺に会えて嬉しいのだ。
 俺は前世で、ノブオさんを置き去りにしたまま、死んでしまった。
 ノブオさんは、俺の血を吸って腹を満たすよりも、俺をこうして腹に抱いていたかったのだ。



「ごめん、ノブオさん」
 何故か、そんな言葉が、俺の口から、飛び出していた。
 夜を巡る観覧車。この観覧車が一つ回れば。輪廻をわたり、時を経て、ノブオさんへと一つ近付くことができるとしたら。
 ……回り巡って、俺は。ノブオさんの場所へと、近付きたい……。
「みんな一緒に幸せになろうぜ」
 もう一人には、しない。



 いつの間にか、外には粉雪が待っていた。
 空高く白い花弁は舞って、冷たい夜を華やかに描く。白と黒と輝きの世界。俺の夢の世界は、今、ここにある。
 夢の世界は、失われてはいない。
 ひとつひとつ、やり直して、新しく作り上げていくものなのだろうと、思う。
「……」
 ノブオさんは、頭を下げた。俺の首筋に、顔を寄せる。
 チュー、という音がして、俺は血を吸われているのだとわかった。



 いいさ、吸われてやるさ。
 血を吸いたくても、最後の二人になっても、決して俺の血を吸おうとはしなかった、究極の紳士のノブオさん。
 その彼が、今こうして自分と現世で出会って、安心して血を吸っているのだ。
 俺たち、運命だったんだよ。
 俺だって、嬉しいさ。
 するとノブオさんの手がそっと近付いてきて、俺の頬に優しく触れた。
 俺は目を閉じたのだけれど、同時に自分の肌が、びくりと驚きに震えたのを感じていた。
 血を吸って精がついたせいか、ノブオさんの手は、ひどく熱かった。
 あの時、冷たくなっていた、その過去の手が。
 ああ、ノブオさんの身体を熱くしたのは、俺なのだなと。
 その時、俺は、再び悟ったのだ。







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