第二部
幽霊とその影

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 昔あったものはこれからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。
 日の光の下に新しいものは一つもない。

 光の中にいると言いながら、兄弟を憎む者は今もなお闇の中にいます。
 兄弟を愛する者は、いつも光の中にいて、その者にはつまずきがない。
 しかし兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分の行く道を知らないのです。
 闇がこの人の目を見えなくしたからです。

 ――伝道者の書1:9/ヨハネの手紙第一2:7〜11(聖書)――







 おかしな噂が囁かれていた。
 いつしかそれは形となって、ゆっくりと日常の深層から浮かび上がる。
 夜の士官学校敷地内に、幽霊が出没するのだという。
 いうところの本館で新入生の授業は行われているのだが、その裏手の森に続く道を抜けた場所に立つ、慰霊碑とそこに隣接する礼拝堂がその現場らしい。
 日の差さない薄暗い場所にひっそりと位置する、白い石と白い建物。
 昼間でもどこか陰鬱な影が立ち込めているその場所。
 その様は少年達の奔放な想像力を誘ったが、すぐに噂の真相――と言うべきか、噂の落ち着き先が明らかになった。
 猫が住み着いているのだ。
 日が暮れると何処からともなく数十匹もの猫が慰霊碑付近に集まり、一斉に高く低く鳴き声をあげる。
 その夜鳴きが幽霊のすすり泣きに聞こえ、気配が人ならぬ者の幻を生むのだという。
 猫は古来より神的存在、または魔女が姿を変えたもの、果ては死者と対話するものとして幽玄性を帯びるとされるから、さもあらんという所だろうか。
 もともと数十年も前から猫は住み着いていた、とは古株の衛兵の弁だが、最近になって急激にその数が増えたらしい。
 どうやら一部の潔癖症な幹部職員たちが、その駆逐を考えたらしいが、計画はあえなく頓挫に至る。
 代わりに自らが率先して、周辺の環境美化に努め出したようで、猫にはお咎め無しとのこと。
 学生たちはやけに粋な計らいだと語り合ったが、どうやら新入生の入学式もそこそこに、前線へと戻った総帥兼理事長が偶然それを耳にし、『猫に罪はない。まず猫が住み着く、人間側の理由を考える方が先』と言ったからとか言わなかったからとか。



「と、そういうことらしいですヨ」
「……へぇ」
「ふぇ〜ん! お化けこわいよぉ〜高松ぅ! でも猫のお化けだったら、ぼく、飼いたいなあ。だってずっと元気で死なないよねぇ! やっぱりミュウって鳴くのかなぁ〜?」
「フフ……イギリスにはビッグ・イア、スコットランドにはケットシー、勿論、日本にも猫股っていう化け猫がいましてね……人に悪夢を見せたり死体を操ったり……って、そんな豆知識はどーでもいい! ああッ! グンマ様の反応の可愛らしさにはもうこの高松ッ! バイオの力で溢れる鼻血も止めません! それに比べてシンタローくんのこの冷たさは」
 高松は濃いコーヒーを不味そうにすすると、白衣を揺らして足を組み替えた。
 木椅子ががたんと音を立てる。
「相変わらず、食堂のコーヒーは入れ方がなってません。豆は悪くないのに。建て替えても、ちっとも進歩がない」
「図々しく乗り込んで来ておいて態度デカすぎなんだヨ、ドクター」
「わーい! シンちゃんのお食事場所だぁ〜 でもこのスープ甘くなぁーいっ」
「……人の昼食脇から取っておいて、よくそんなコト言えるなグンマ……しかも味噌汁だっつーの、バーカ」
「あ〜ん! シンちゃんがバカって言ったあ〜」



 ここは士官学校食堂。
 その一角に陣取る三人は、周囲の注目の的だった。
 14歳の少年二人と、士官学校校医という取り合わせ自体は、校内食堂ではさほど珍しくはないはずであるが。
 何気なく高松が背後を振り返ると、数個の視線が逸らされた。
 どこにいても人の目が集まる。気配を窺われる。
 その最大の要因は三人の内の一人、黒髪黒目の少年にあった。
 目の前の彼は、いつものやれやれ、という表情で、隣に座る従兄弟を見てやっている。
 何だかんだで、世話焼きですよねえ、シンタローくんは。
 高松は溜息をついた。
 この士官学校直属の、世界有数の軍団創設者一族で現総帥の一人息子。成績優秀でしかも面倒見のいい兄貴肌。
 目立つなって方がおかしいですよ。本人は平気かどうかは知りませんが。
 グンマ様だって、いつもあなたのせいで泣いたり笑ったり大騒ぎ。
 いじめられたと言いながら、それでもあなたに、くっついていきたがるんですから。
 今日だってあなたと一緒にお昼を食べたいと仰るから、こうして押し掛けてきた訳ですが。
 ま! それもいい加減慣れましたけどね。振り回される保護者ってのも悪くない。
 それに、シンタローくん。
 あなたは……あの方の……。
「あ! えーとね、今ねえ、シンちゃんの頭に虫がねぇ〜」
「ノロいんだよ。ンなコト言ってる間にもう飛んで行っちゃったぜ。もっと何でもさっさと言えよ、やれよ、バカ」
「あ〜んっ! またバカって言ったぁ〜! 日記に書いてやるぅ〜! ええと、今日は、シンちゃんがぼくに……」
「持参かよ。書くのだけはどうして迅速なんだよ、矛盾してるゾ……」
 高松は、自分の被保護者を眺める。
 グンマ様……。
 口にはお出しになりませんが、やはり御自分も一緒に士官学校に入りたかったみたいですね。
 しかしあなたは。
 シンタローくんと同じコトは、なさらない方が賢明です。
「へへっ! 今夜辺り、お前が眠れなくなって目を開けると、ユーレイが顔を、こう、のぞきこんできちゃったりしてさあ……」
「ふぇ〜〜〜んっっ!! シンちゃんがコワいコト言うよぉ〜!! 高松ぅ!!」
「いやですねぇ、心の美しいグンマ様なら大丈夫ですって! 幽霊なぁんてものは、全て人工物なんですから! 心理学的に、やましさや後悔のある人間が作り出してしまう影ですよ。もう、私たちは科学者なんですよ ああっ、その道の天才でいらっしゃるのに、そんな非科学的存在を信じてしまうところもお可愛らしい……世界は表も裏も私たち二人のモノ……フフ」
「高松、鼻血……」
「ものすごーくナチュラルに俺のコト、無視しやがってるよな、ドクター」
 シンタローが口を思いっ切り、への字に曲げた。



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「シンちゃ〜ん! 一緒に猫見に行こうよぉ!」
「んもう。一人で行けって」
「えっへへー。ホントは、もう一人で行ったコトあるもんっ! だからね、今度はシンちゃんとね、」
「お前がかぁ? ウソつけ、高松がいねーと何にもできないクセに」
「むっ! シンちゃんがいっつもそんなコト言うから! ぼく、平気で一人で行っちゃったんだもんね! 高松だって行っていいって言ったんだもんね!」
「なぁにを偉そうに。単なる学校裏の森だろうが」
 昼食をとって別れた後、自分の午後の授業が終わるのを待っていたのだろう。
 校舎を出、寮に戻ろうとするシンタローに、グンマが追いかけて来てまとわりつく。
 生徒でもないのに校舎内をウロチョロし、高松のいる医務室にも入り浸っているから、彼はすでに学校の有名人だ。
 体力がないのと研究向きだということらしく、士官学校には入らなかったグンマ。
 週に数日、敷設の研究所に通っているようではあるが、その様子は相変わらずフワフワのほほんとしたものだ。
 幼い頃から、ちっとも変わらない、同い年の従兄弟。
「シンちゃ〜ん……猫、見ようよ〜! ねーえ〜」
 その甘えた口調。長めの金髪が、きらきら輝く。
 まったく。いつまでたっても、コイツはガキくせぇんだから。
 しかしそう思いながらも、シンタローはこの幼馴染に構うのは、嫌ではない。
 むしろ構って、意地悪をして、泣かせてやりたいなんて思ったりすることもある。
 自分に兄弟はいないけれども。
 もし、弟というものがいたら、こんな感じだろうかとも思う。
 ……ま、俺の弟だったら、コイツはこんな甘ちゃんには、なってねーだろうけどよ。
 もし、俺に弟がいたらさ。小さい頃から、俺がしっかり教育して、びしばし鍛えて、そんで可愛がってやるのにさ。
 めっちゃくちゃカッコイイ男に育ててやるぜ!
 グンマがこんなのになったのは、元からもあるだろうけど、ドクターのせいなんじゃねーの。
 アイツ、異常だよ。異常。
 でれでれしすぎ。甘やかしすぎ。過保護すぎ。そんで、何か変態。
 さっき目にしたばかりであるが、またその様を思い浮かべると、背筋が寒くなるシンタローである。
 まさに猫可愛がり。
 大人ってヤツぁ。
 彼はうっかり、もう一人の大人を思い出しそうになって、慌てて打ち消した。
 かわりに憧れの人を心に描く。
 ――サービスおじさん。
 流れる金髪、薄い青の左目。周囲から一線を引いたその空気。馴れ合わなさの中から、それでも自分には特別に向けてくれる、クールな微笑み。
 それでいて、将来は自分もこんな人になりたいと思わせる、ほんのりとした親近感。
 すっかりいい気分になって、シンタローは一人笑った。
 へへ。やっぱ大人って、コレだよ、コレ。
 すっげェ、カッコいい!



 数人の同級生が自分たちとすれ違い、慌てたように挨拶をする。
 シンタローも明るく声をかけてやった。背後に『おいおい、喋っちゃったよ』と嬉しそうなひそひそ声が消えていく。
 この自分に、臆する所なく話しかけてくる人間は士官学校生にはほとんどいない。
 憧憬という名の異端扱い。
 まあ、それでいーんじゃねぇの、なんて、シンタローは思っている。
 いつものことだし。
 だが知らずシンタローは、ぐっと肩に力を入れてしまうのだ。
 俺はアイツらとは違う、という少年らしい自負に加えて彼は、常に、漠とした内面を抱える子供だった。
「……」
 今、彼は急に寂しくなって、黒髪を揺らして後ろを振り返る。
 もう通り過ぎていった曖昧な笑顔は、建物の陰になって見えない。
 同級生たちの名前は全て覚えていたので、明日の授業の合間の休み時間なんかに、気さくに名前で呼んでやろうと決める。
 そうすると、きっと少しは、彼らと親しくなれる。
 親しく?
 いや、それで、勉強の一つや二つを手伝ってやれば、きっと尊敬される。
 感心される。
 やっぱり、シンタローさんは、凄いって。
 あの人は、中身のない人形なんかじゃなかったって。
 色んな噂はあるけれど、やっぱり、あの一族に違いないって。
 やっぱり……何かの間違いなんかじゃないんだって。
「よっし、明日、な」
 そんな風に、いつだってシンタローは懸命に、自分の像を作り上げようとしていた。
 像は作り上げても、その置き場所が不安定のままでは、仕方がないのだが、幼い彼にとっては、それが精一杯で、とにかく走り出すしかなかったのだ。



『シンちゃん、入学式のテストでトップだったね』
『……ふーん。でも満点じゃなかったろ』
『まあね。でもいいじゃない、それぐらい』
 先程、追い払ったばかりの人間の声が胸に蘇る。
 いつもの超然とした、ふざけたような笑いを含んだ深い青い瞳。
 それぐらい、というその言葉が悔しくて、しょうがなかった。
 数ヶ月前の入学式で自分たち新入生は、同級生全員の名前を暗記する、という課題をその男から与えられた。
 110点満点の内、自分は最後の1点が、コンプリートできなかった。言い方を変えれば、一つ間違いを犯したということだ。
 それぐらい――多分、10点間違いをしても、自分は『それぐらい』と言われただろう。20点でもそう表現されたかもしれない。
 ……本当は、俺が何点取ろうと、アンタは、どうだっていいんだろ?
 死ぬほど努力しても、いつだって俺は『それぐらい』と言われ続ける。
 逆に、何をやっても絶対に満点しか取ることができないだろう、あの男から。
 ――俺が。
 俺が生まれたことが。
 アイツの……ただ一つの間違いでは、ありたくない……。



「あのね、あのね、猫ちゃんにエサやってる人がいてね、」
 隣でグンマが喋っている。
 それを聞き流す振りをしながら、シンタローは結局、彼と一緒に森に向かっていた。
 このまま帰っても、どうせ8人の大部屋だから。もうじき始まる定期考査が終われば、その成績別に部屋を割り当てられる。首尾よくトップを取れば個室が貰えるはずだった。
 しかしその試験対策は、同級生がいる所ではやりたくない彼である。どうせなら、余裕でトップを取っているように見せたいのだ。
 だからシンタローは、手持ちの品を取ってくる、用がある、という口実で私邸に帰っては、そこで必死に勉強している。
 ここしばらくは、更にそんな姿を見られたくない人間は遠征に出ていたので、都合が良かった。
「エサやってる人にね、すっごい、猫ちゃん、懐いてるの! その人が合図するとね、ぼくの所にも、ミュウ〜っていっぱい、よってきてね、」
「……へえ」
 最初に。
 グンマの部屋に、ある日屋根をつたって、子猫が来たのだという。窓から食べ物をやって、仲良くなった。
 昨日、研究所の帰りに、その猫と鉢合わせした。こっちにおいで、とまるで呼んでいるように見えたので、後を追っていくと、噂の森でその男と猫たちが戯れていたらしい。
「その人が、猫の芸を見せてあげるからって。折角だし、お友達も連れておいでって。お友達いないって言ったら、今、坊やが話してた子でいいよって」
「……お前、俺の話、したのかよ……」
「だってぇ! ぼく、シンちゃんなら絶対、見たいって言うって思って」
「つーか、猫が芸すんの? 珍しいナ、それ」
 人に慣れない生き物なのに。そして同時に、シンタローは思った。
 ……グンマに親しい友達はいない。
 それは自分も同じことであるが、この無邪気な従兄弟は特に、過保護な高松の側で、他人と接触する機会が極端に限られていた。
 だからそんな風に人から好意を見せられると、嬉しくてそれに答えずにはいられないのだろうと思う。
 唯一親しい子供である自分のことを、話さずにはいられないのだろうと思う。
 そう考えると、何だかんだで自分は、彼に付き合ってやらずにはいられない。



 薄暗い森に入って少し歩くと、白い石と白い建物が見えてくる。
 慰霊碑と礼拝堂。大勢の戦没者たちがそこに祭られているという。空に滲み出した夕陽を反射する、鈍い輝きが目に痛い。
 あちこちに寝そべっている猫たちが、自分たちが近付くのを察して、こちらを見た。そしてすぐに関心を失い、また心地良さそうに目を瞑る。平和な光景だ。
 ……この猫たちらが、幽霊に間違われるなんて、よ。
 シンタローは思った。
 ゆらゆらと尻尾を左右に振り、耳を寝かせたその姿。
 呑気そうな顔しやがって。ナンだよ、可愛いばっかりじゃねーか。
 暗くなると数十匹が集まってくるというから、また事情は違ってくるのだろうか?



 礼拝堂の石段に腰掛け、二人がしばらく側の猫をじゃらして遊んでいると、人の気配がした。
 この森は士官学校と、そこに隣接する軍本部の境目に位置している。その見知らぬ男は、自分たちがやって来たのとは逆方向、つまり軍側から現れた。
 あ、と声を上げて、グンマが笑顔で手を振る。
「……」
 シンタローは胡散臭げにその男を見やったが、彼が気さくに笑いかけてきたので、目礼だけを返しておく。
 日に焼けた軍服と階級章から、下士官だと知れた。中肉中背で目尻に皺のある、いやに歯並びの綺麗な男だった。彼が、グンマ言う所の『猫ちゃんにエサやってる人』なのだろうか。
 突然、ぴいっと鋭い口笛が一つ、その唇から放たれた。
 するとシンタローの手元で大人しく撫でられていた猫が、さっと立ち上がって男の方へと歩み出す。
 後から後から、周囲の猫たちが彼へと引き寄せられていく。目視の範囲にはいなかった猫たちまでが、背後の茂みから。木の上から。礼拝堂の陰から。
 あっという間に、男はもうたくさんの猫に囲まれている。
 まるで、おとぎ話に出てくる笛吹きのようだと、シンタローは思った。
「ホラぁ、ね? 凄いでしょぉ? シンちゃーんっ!」
 隣で、まるで自分のことのように喜ぶグンマ。
「……まぁな」
 確かに凄いとは感じたが、こう素直に騒がれると、自分は一歩引きたくなってしまうシンタローである。
 だから、彼は石段の上で三角座りをして、膝小僧に顎を乗せた。
 何か自分にはできないことを、人がやってのけるのを見た時に、それがどんなにくだらないことであっても、シンタローの胸に生まれるものは、子供らしい自負心と、負けず嫌いの気持ちであった。
 そして……焦り。
 更にその水面下の、自分に対する根本的な自信のなさ。
 そう、彼はひどく――自分に自信がないのだ。
 そこから来る、どうしようもない不安感が、彼のすべてを支配している。
 自信がないから、つい普段は自信に満ちあふれた自分を作ってしまう。
 幼いながらに彼は鋭敏な子供だったので、その我が身の核には気付いているのであるが。
 しかし、それは自分が大人になれば、途端に解消してしまう類のものであると、この時の彼は信じていた。
 大人になれば……俺はきっと強くなれる。



 猫に塗れた男が、自分たちを見て手招きしている。
 俺らまで猫扱いかよ、とシンタローがムッとする前に、もうグンマは石段を駆け下りていく。
「……チッ」
 舌打ちしたシンタローは、せめてもと気の無い素振りで、面倒臭げに立ち上がり、ゆっくりと自分も石段を下りた。
 しかし本当の所、彼は動物が大好きだったので、どきどきしてしまってしょうがない。可愛い猫たち。頬が緩まないようにと必死に努力している。
 そうやってシンタローが近付くと、男が笑いかけてきて、こいつらに芸をさせてみせるよと言ってくる。
 また男は軽く口笛を吹く。
 シンタローがポケットに手を入れたままで突っ立っていると、突然、黒猫が腰の辺りに飛びついてきた。
「うわっ」
 思わず声をあげてしまい、赤面する。
 猫は器用にシンタローの腕を駆け上り、肩から頭に飛び移って、そして、たっとジャンプして側のグンマの肩に飛び降りたかと思うと、すぐに男の腕へと跳ね上がる。
 我も我もと、猫たちが後に続き、同じルートでぴょんぴょんと三人の体を飛び回り出した。
 踊るように。身軽で、ほとんど体重を感じさせない柔らかい生き物たち。犬と異なり、命令に従うことを本能の喜びとしない動物。それがここまで人間に慣れているなんて。
 はしゃぐグンマ。
 シンタローも、もう自然と顔がほころぶのを止めることができなかった。
「さぁて。こんなのはどうだ」
 次々と猫芸を見せてくれる男。合間に何かと話しかけてくるので、三人の雰囲気も和んでくる。
「なァなァ、どーやって芸教えたの? 俺にもできる?」
 とことこと逆立ちをして歩く灰猫を指差して、シンタローが聞く。段々と、ただ純粋に楽しくなってきていた。
 側にしゃがんだグンマも、三匹の子猫に顔をペロペロ舐められて、御機嫌だ。
「猫と仲良くなればな。それと猫の特性を理解すればだ。猫は支配されるのを嫌う動物だから、自然の特性を生かして、上手くそれを芸に持っていく」
「へぇー」
「猫は凄いぞ。例えばジャンプ力。時には猫は、自分の体の数十倍の高さまで跳躍することもできる。人間で考えると、あの」
 あの、と言って、男は森向こうにそびえ立つ、軍本部の塔を指差す。
「あの塔を、たった数度の跳躍で、天辺まで登ってしまうということだし」
 男は説明を続ける。余程、猫が好きなのだろう。シンタローもその熱意に引き込まれていく。
「他にもな、自分より大きい……そう、二倍はイケるな、大きい動物の首に飛びついて、どすんと倒しちまうのさ……普通の犬コロなんかじゃ、本気を出した猫にはかなわない。人間が素手で熊に勝つようなものだ」
「すっげェの!」
「だろう、猫は凄いんだ……まあ……でも人間にだって、色々いるらしいがな」
 男が猫から視線をはずして、ちらりと自分を見た。
「他愛の無い戦場の噂だが、素手で数千人を殺せる人間も存在すると聞くぞ」
「そんな化け物みたいな人間いねーって!」
 シンタローが笑うと、グンマも釣られるように笑う。
 目の前の男が、一瞬微妙な表情をしたことに気付いたが、別段、不審にも思わなかった。



「……森の奥。知ってるかい?」
 しばらくして男が言った。
「ちょっとした崖があるんだが。そこで、もっと凄い芸を見せてやろうか。ダイビングだよ」
「何だよソレ。猫に危ないコトさせるんじゃないの」
「え〜、ヤだぁ、こわ〜いっ!」
 辺りは夕暮れ時を過ぎ、すでに暗くなり始めていた。幽霊が出る、という話も信じてしまいそうな雰囲気が、漂い始めている。
「別に猫には危険なことはないよ……だがそうだな、坊や達、早く帰らないと怒られるんじゃないのか。俺は非番だからいいが。それに怖いんだったら連れて行くのは可哀想だ」
「おじさん、その坊やっていうのやめてよ……俺は大丈夫だけど。でもコイツが。なぁ、グンマ」
「え〜〜〜〜」
 子供扱いされると、反発したくなるシンタローである。
 この試験前に寮に遅く帰り、舎監に曖昧に睨まれて、同級生達に『余裕だ』と思われるというのも悪くはなかった。
「じゃあ、大丈夫な子だけおいで」
 それに、そう言われて、自分が行かないでいられるはずがない。
「あっ! 待ってよぉ、シンちゃ〜ん! ぼくも行くよっ!」
 森の奥に向かって歩き出した男の後に、結局グンマと二人で付いて行く。
 周囲の猫も、自分たちに合わせてぞろぞろと移動するのが、おかしかった。



 立ち込め始めた薄闇に、木々はざわついていた。男と北東の方角に森をしばらく進むと、急に視界が開ける。行き止まりの崖が、そこにあった。
 男が口笛を一つ吹くと、それは崖の向こうの暗闇の中に消えて、それを合図に自分の後ろを付いてきた猫たちが、男の周りに集まり出す。
 シンタローもまねをして口笛を吹いてみたが、猫は見向きもしない。グンマに至っては、懸命に口をすぼめているが、音すら出ない。
 肩を落とす二人に、男が呟いた。
「やはり坊やたちは努力しても無理かもしれんな」
「その呼び方やめてってば……何でだよ。さっき、頑張ればできるって言ったじゃん」
「ある程度は……な。でもその先からは、特殊な血が必要だ」
「はァ?」
「例えば、こういうこととかな」
 唇が上がり、男の綺麗な歯並びが見えた瞬間。また、口笛が響いた。
 男の台詞と共に、ずしりとシンタローの体が重みを増す。
「?」
 猫だ。何十匹もの猫が、前から後ろから、自分とグンマに飛び掛ってきたのだ。
「……ッ!」
「わぁっ! シンちゃーんっっ!」
 生温かい猫の体で、目の前が暗くなり、体が押し潰される。なすすべなく、シンタローは地面へと崩れ落ちた。
 体中を埋め尽くす猫の圧力で息ができない。身動きができない。熱い。
 周囲に複数の靴音がする。人の手が荒く自分の腕を捻り上げる。後手に手錠をかける音。
 右足を掴まれた瞬間、上に乗った猫の圧力が緩んだので無茶苦茶に暴れてみたが、歯が立たない。
 あっという間に自分は拘束されてしまった。
 シンタローの頭はこの事態を理解している。
 しかし心がまだ追いつかず、反射的な抵抗しかすることができない。
「騒ぐな……流石に手のかかる。おい、目は隙間なく塞げよ。特に金髪の方は気を付けろ」
 男の声が聞こえる。
 シンタローは閉ざされた視界の中で、捻じ伏せられた顔を必死でそちらの方に向けると、苦しい息の下から叫んだ。
「なんで……っ……グンマまで? 俺だけで……いいだろ!」
 予想に反して、返事がある。
「……お前は本当に例の一族……あのマジック総帥の息子か?」
「ああァ? クッソ、それが、狙いだ……ろッ! 俺はっ……誤魔化しなんか……しねー! だからグンマは」
「お前は影で、そっちのイトコの方が本物という噂がある。ここまで手をかけて、ニセモノを掴まされちゃ困る……両方連れて行くのは、こちらなりの安全策でしてね、お坊ちゃん」
 その瞬間、背後に回った腕から、きつい刺激臭のする布で口を塞がれる。そのまま乱暴に体が担ぎ上げられたのがわかる。
 頭の芯がじわりと痺れて、シンタローは、冷たい汗が肌を伝っていくのを感じていた。手錠と足錠の、乾いた金属の音が鼓膜に残る。
「さて、ダイビングだ」
 男の声。
 遠くなる。
 お前は――影。
 薄れていく意識の中でシンタローは、唇を噛み締めた。






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