幽霊とその影・2

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 海の泡が弾けて空気へと還るような、一瞬の覚醒。
 グンマの意識が戻ったのは、狭くて暗い空間の中でのことだった。
 真っ先に感じたのは、息苦しさだ。
「……」
 ここは……どこ?
 周囲を認識しようと、グンマは感覚を鋭くする。ここは少なくとも、自室の柔らかいベッドの中ではない。動かすことのできない身体。
 頬に化学繊維の感触がする。自分は横向きにされて、その上に何かシートのようなものが覆い被せられているようだ。
 息を吐こうとしたが、口は塞がれているようで、グンマは鼻をすうすうさせた。体内に流れ込んできた空気は、じとりとして不快だった。
 苦しい。湿っぽくて、暑い。
 目隠しも厳重なようで、ただ外はとても狭くて暗闇であるのだろうということだけはわかる。
 しかも始終がたがたと身体が揺れて、怖い。痛い。
 ……道路を走る振動……?
 密室。ここは……車のトランクの中?
 先刻の記憶が蘇る。
 猫……の人が……ぼくらを……。
 !
 ――シンちゃんは?
 真っ先にそのことが気になった。体をわずかによじると、膝と足先に柔らかいものが触れた。
 自分のすぐ側に、ぐったりした誰かの体がある。
 シンちゃん。



「……」
 塞がれた視界の中で、しばらく時が過ぎた。
 がたんごとんと、不安定に揺れる空間。自分の身体と、側の身体。
 味気のない振動を感じていると、グンマは段々と悲しくなってくる。
 胸の奥で、呟いた。
 高松ぅ……。怖いよぉ……。
 ぼく、猫ちゃん見に行こうなんて言わないで、おうちに帰ればよかった。
 お腹へったぁ……。今、何時なんだろう。
 グンマの目を覆うのは、おそらく何重にもなった粘着テープ。目蓋さえ動かすことはできない。
 その暗闇に浮かぶ、おぼろげなもう一つの顔。
 ――お父さん。
 もし、ぼくに、お父さんがいたら。
 こんな時は心の中で、助けて! って叫べるのになぁ……。
 グンマに父親はいない。
 自分が生まれる前に戦死した、としか告げられてはいなかった。
 普段はそれでも良かったのだが、今のような心がギリギリの時。どうしたらいいのか、わからなくなる時に、彼の小さな胸の中で、亡くなった人への恋しさが生まれる。
 しかしその像は、はっきりとはしていなかったので、手を伸ばせばすぐに掻き消えてしまう程のものだったので、ただぼんやりと想うだけ。
 消えないように、深くは考えないようにしている。
 それは、はかない想い。



 不安の中、また鈍い時が流れていく。
 車は砂利道でも走っているのだろうか、永遠に続くようにも思える荒い音と振動。
 一度、大きく揺れた。グンマの身体も揺れて、低い天井に頭と肩を手酷くぶつける。
「……」
 悲鳴をあげようにも、どうにもならなかった。
 痛いよぉ……っ!
 ヤだよぉ、こんなとこぉ……。
 すると、この衝撃がきっかけなのか、もぞもぞと隣の身体が動き始めた感触がする。
 シンちゃん……?
 車輪が道を滑る音の他に、小さくシートがガサガサ動く音が混じりだす。
 グンマはそのままじっとしていたが、その体が、急に自分の方に乗り上げてきたのに気付いた。
 拘束されている腕と足が、きしんだ。
 ふぇ〜んっ! 痛いし重いよぉ!
 グンマはまた心中で悲鳴をあげたが、どうやら指で身体を探られているようだと気付く。
 はずみなのか捲れたシートの隙間から、短い爪に自分の額をひっかかれた。
 探る指は止まり、なんだか自分の髪を触っているみたいだ。
 痛いっ!
 突然、髪の毛が数本抜かれた感触がした。絶対この指は、シンちゃんだ。
 そう確信するとグンマは安心し、同時にこんな時であるのに、ちょっとムッとした。
 いっつも、シンちゃんは、ぼくをイジめてばっかり。
 ヒドいんだ。



 シンタローは何かしているようだ。十数分は経っただろうか。小さく金属音がした。
「?」
 さらに耳元で、ばり、という音。さらに金属音。
 そしてしばらくすると、今度は指だけではなく、手がグンマの顔を探ってきた。
 やっ! 痛っ……痛いよ! って、ぼく、こんなに言って……ないけど、思ってるのに!
 シンちゃんってば!
 しかしグンマの心中の叫びを無視して、一気にその目に貼られていたテープが剥がされる。グンマはまた叫んだ。勿論声にはならなかったのだが。
 痛ぁっっ!!! ひどぉい!!!
 絶対に……っ! マツゲとかマユゲとか、抜けちゃったかもっ!!
 肌がひりひりし、そこに残った粘着物が気持ち悪かった。
 目をしぱしぱさせるグンマの耳に、静かに囁くシンタローの声。
「いいか、グンマ……絶対に騒ぐんじゃねえぞ。口のも今、剥がすから」
 もっと優しく剥がしてよっ! と主張したかったが、勿論できない。
 ばりっ。
 案の定、乱暴にそれは剥がされ、グンマは半泣きになってしまった。
 彼は例えば絆創膏は、ゆっくり、しかもお風呂の中で剥がしたいタイプなのだ。
 目の前で暗闇の中、顔を寄せてくるシンタローは、きっと絶対、一気に剥がしたいタイプ。
「シンちゃぁん……痛かった」
 久し振りに出すことのできた声は、掠れていた。
「……お前、それどころじゃねぇって」
 呆れた小声が、ナンだ、泣いてねーのか、と残念そうに続いた。
 俺たち、誘拐されてんだぜ、ユーカイ。
 ホラ、手と足もはずすから、じっとしてろ。
 グンマには真っ暗なので見えないが、シンタローの手足は自由になっているようだ。
 どうやったの、と聞くと、お前の頭のピンを使って錠をはずしたんだよと言われた。
 身体検査されたみたいだが、お前が女みてーに髪にピン刺してんのには、気付かなかったようだな。
 こーして……って、見えねーか。
 ピンを平べったく潰して、錠のロック部分を外してから、後は鍵穴にピッキングの要領よ。
 ダブルロックじゃなくってS&Wの通常版ぽいから、何とかイケた。
 クッソ、ガキだと思って、ナメやがってよ。



 シンタローがグンマの後ろ手の錠をはずしている間に。
 泣いてない、と言われると、泣かなければいけないような気分になってくるグンマである。
「シンちゃ〜ん……」
 うつ伏せになったまま、グンマは悲しげな声をあげた。
 シンタローは自分のことを邪険には扱っても、絶対に無視したりはしないことをグンマは知っている。
 必ずこうやって律儀に返って来る、ひそひそ声。
「あんだよ。黙ってろ。いくら車道が荒れてるからって、普通に声出したら聞こえちまう……オラ、動くな。錠のギザギザ部分が小さくてズレる」
「シンちゃん、ごめんね、ごめんね。ぼく、バカだったからだまされちゃったよ」
「言うな、静かにしてろ……つーか俺だって……」
「ごめんね、ぼく、おバカでごめんね」
「いーよ、バカ、もう言うな」
「あーん、シンちゃんがバカって言った〜」
 グンマは声を殺したまま、しくしく泣き出す。粘ついた頬に、涙が流れていくのがわかった。
「……泣くな。こんなトコで」
「だってぇ……」
 一度涙をこぼすと、とても簡単に、どんどんと悲しくなってくる。それもいつも通りだ。
 条件反射のようなもので、このシンタローとの関係パターンに、グンマは慣れていた。
 というより『おバカ』な自分に、彼は慣れている。
 バカと言われ、それに、やだよぉ、と返すことに、である。
 『できる子』のシンタローと『おバカな子』のグンマ。
 成績優秀、何でもできる子のシンちゃん。
 成績最悪、何にもできない子のぼく。
 選ばれない自分。
 他人からはそう評価される自分たち。
 それでもグンマは良かった。
 自分を溺愛してくれる高松がいたし、ごくたまに聞くことのできる、父親の話があったからだ。
 とてもとても立派な人だったという。
 立派で。賢くて。そして美しかったって。高松が――滅多に話してはくれないけれど。
 あの方は、花のような方でした、とぽつりと彼が言ったのは、いつのことだったか。
 そして。
『グンマ様。私は温室の美しい花のように、アナタをお育てしたい』
 いつも高松が自分に向かって言う言葉。
 ――温室。
 シンタローの家にある温室には、とても綺麗な花が咲いているのは知っている。
 あんな綺麗な花に高松は、僕をしてくれるんだろうか。
 赤とか。青とか。黄色とか。ピンクとか。白とか。ぱあっと咲いて、とてもキレイ。
 ぼくが、温室の美しい花のように。
 その高松の気持ちが素直に嬉しかった。
 いつか、ぼく、花になれるといいなぁ……。



 金属音がして、グンマの手錠が外れる。ばね部分が弾けて、軽くグンマの手を打った。
「っ……痛ぁ……」
 鼻をすすりあげて。
 彼はゆっくりと後ろに捻られていた手を、前へと戻す。たった数時間の拘束であるはずなのに、肩がじんじんと痺れていた。
 シンタローはグンマの足元を探ると、今度は足錠に取り掛かったようだ。
 また沈黙が続いて、じゃりじゃりとした悪い路面を車輪が走る音だけが聞こえる。
「……グンマ」
 そして、また話しかけられる。
 吐く息と一緒になったような小さな声は、それでも力強かった。
「多分この車は、幹線道路のNシステムを避けて、支線を走ってんだと思う。お前、そういうのだけはわかるだろ。だからこんなに道の悪いトコばっかで、ガタガタすんだ」
 グンマは、その声をただ聞いていた。
 二人の位置は幼い頃から完全に決まっていたので、自分は彼に頼るのが役目だった。
 それが、ぼくとシンちゃんの関係パターン。
 Nシステムとは車両移動監視システムのことだ。
 主要幹線には赤外線カメラが設置されおり、そこを通れば軍本部のメインコンピューターで車両番号が解析されてしまう仕組みになっている。
 それを知らない犯人ではないだろうから、軍の管理統制下にない、まだ機械化されていない裏道を選んでいるはずだった。
 しかも今、二人の身体は車後方に向かって僅かに傾いている。
 これはおそらくは。
「今、きっと山道に入ったんじゃねぇかな。本部から数時間の距離だろうから……山間部かどっかに、アジトか少なくとも中継地点を置くはずだ。同じ車だと特定されんの早くなるから。それか移動手段を変えるかも。だから、」
 シンタローは休みなく手を動かしているようだ。
「山頂に近付いて、車がもっと小回りに回り始めたら、チャンスだ。スピードが遅くなる」
「シンちゃぁん……」
 グンマは不安になって声を出した。
 チャンスだって言ったって。
 ヤだよ。そんなの、ぼく、できないよ。
「スピードが落ちたら、ここを開けて、飛び降りる。だいじょーぶだって! 何、また泣いてんの? お前」
「そんなのしなくても、助けに来てくれるの、待とうよぉ〜! そう習ったよぉ……それにさぁ、飛び降りるのもそうだけど、あの人らに見つかって、つかまっちゃったらどうするの……きっとヒドいコトされちゃうよっ」
「……」
 シンタローはしばらく無言だった。
 また金属音がして、グンマの足元が緩む。
 足錠が開いたのだ。
 小さく溜息が聞こえた。続いて、すぐに少し低い声が言い切った。
「……助けなんか、待つもんかよ」
 暗闇でその顔は見えなかったが、グンマにはその表情は、容易に想像がついた。
 いつもの……意地を張る時の顔を、きっと彼はしている。
「俺は、俺の手で何とかしてみせる」



 シンタローの言った通りに、直に車は小回りを始めた。
 車体が風を切る音も鈍くなる。走行速度が落ちてきた証拠だ。
「……シンちゃぁん……でもこのトランク、どうやって開けるの」
 グンマは狭い空間で、少し腰をずらした。
 少年二人でぎゅうぎゅうの空間。そんな中でシンタローは、低い天井、つまりトランクの蓋部分をを調べているようだ。
「今考えてるよっ……クッソ、多分コレだと思うが、やっぱ御丁寧に切ってあるぜ……」
 車のトランクの開閉は、大概ワイヤーで操作するのが普通だという。
 金属の隙間に埋め込まれているそれを、上手い具合に探し出して引っ張れば、内側からでも開けることは可能だというのだが。
「おい、グンマ。また頭かせ」
「また痛いのヤだよぉ、シンちゃ〜ん」
「痛くねぇって。今度はリボンだよ。今日つけてたよな……今日だけはお前が情けないヤツで助かったぜ」
「あ〜んっ! シンちゃんが情けないって言ったぁ〜!」
「わかったわかったって。だから、貸せ。急げ」
 グンマがしぶしぶ解いたリボンを渡すと、それを裂く音がした。
「待ってろ……この先をここに結んで……そんで、この手錠をつないで……」
 車はどんどん速度を落としている。
 またグンマは急に心配になった。
「シンちゃぁん、この車、止まっちゃったらどうしよぉ……中継地点かなんかに、すぐ着いちゃったらどうしよぉ……そしたらこのトランク開けられて、こーいうことしてるの、見つかっちゃうよぉ」
「わかってるって……だから急いでんだろうが! ジャマすんじゃねぇ!」
「だってぇ……」
「クッソ、滅多な音たてらんねーし、暗いし、お前はうるさいしで、もう訳わかんねぇ!」
 その瞬間、高いブレーキ音が響いて。
 車が、ガクンと揺れて止まった。



 そして何かを迂回し、また走り出す。
 二人は思わず止めた息を、吐き出した。
「……驚かせやがる……相当、山ン中だなこりゃ」
「心臓、止まるかと思ったよぉ〜」
「もー、うるさいからしばらく止めとけ! その心臓!」
「ふぇ〜んっっ! 止まらないよぉ!」
「あ」
 カチャと軽く音がして、生温かいトランク内に、冷気が飛び込んできた。慌ててシンタローがその隙間を閉じているようだ。
「開いたぞ、おい」
「わぁ、シンちゃん、すごぉい!」
「へへ、まぁナ。俺にかかりゃあ、こんなモン……って! ンな暇はねぇ! いいか、次、車がきついカーブを曲がった時に、これを一気に開けて……俺がこのお前のリボンと手錠で作った紐を引っ張るから……そしたら、飛び出す。いいな」
 グンマは自分の胸に手を当てた。やはり心臓は、どくどくと脈打っていた。
 これを止めることができたなら、自分はそうしたい、と思った。
 それがシンちゃんの迷惑に……なるんだったら。
 車が軽く右斜めに傾く。きっと、急カーブを曲がろうとしている。
 自分の肩に熱いものを感じて、それはシンタローの腕だと気付く。
「……この俺が、お前を抱えてるから。ダイジョーブだっての。信用しろバカ」
 また、シンちゃんはバカって言った。
 反射的にグンマはそう思ったが、今度ばかりは黙って身を固くした。
 目の前の暗闇は横に薄く裂け、シンタローがわずかにトランクの蓋を開けたのだと知る。
「俺が、お前を死なせやしねーよ」
 次の瞬間、ぐっと身体が持ち上げられて、外気に肌が晒された。
 グンマは、自分が外に飛び出したことに気付いた。



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「グンマ、気をつけろッ! 足元ごちゃごちゃしてっぞ!」
「わかってるよぉ……」
 闇の中、入り組んだ暗い木々。
 ここは、夜の森。山道を脇に入ってから、もう半時間は経っただろうか。腕時計等は奪われているため、今が何時なのかもわからない。
 暑苦しいトランクの中ではグンマは気付かなかったが、身体検査のお陰で、二人の上半身は上着だけだ。
 夏が近いとはいえ、薄いダウンシャツ一枚では、肌寒かった。
 制服を、前を開けたまま羽織っただけのシンタローは、寒くはないのだろうか。
「わぁっ!」
「ほら、大丈夫か、立てよ」
 しかも始終、グンマは木の根や切り株につまずいて転びそうになる。こんな歩きにくい道は、初めてだ。
 そもそもこれは道……だろうか?
「ホラ、ぼーっとしてんな。キリキリ走れ!」
 手を取られ、とにもかくにも、よろめきながらも足を動かすグンマ。
 狭い所に長時間押し込められていた身体が、悲鳴をあげているようだった。
 だけど。逃げなきゃ。コワい人たちが追って来る前に、どこかへと逃げなきゃ。
 それは感覚としてわかる。
 でも、どこへ?
 ……シンちゃんには……行く先の当てって、あるんだろうか。
 ザッ、ザッと音がする。二人で足元の草と、絡む枝を掻き分ける。青草と湿った樹皮の香りが入り混じる。
 暗い。
 しかしグンマが怖くなると、その度にシンタローは、まるでそれをわかっているかのように、声をかけてくる。
「グズグズしてんな」
 グンマは少し身長の高い彼を見上げて、その度に頷く。
 風が、木々の間を吹いて、ざあっと鳴った。
 グンマの目の前で黒い髪が、夜と同じ色をして揺れている。
 ……シンちゃんは。
 ちゃんと聞いたことはないけれど……多分この色が、嫌い。
「へっ……アイツら、まさか俺たちが逃げ出すとは思ってなかっただろーな! 追って来るの遅すぎだぜ」
 黙っていると、またシンタローが振り返って、自分にそう言った。
「この俺を誘拐しようってのが、そもそも甘い」
 シンちゃん。
 だから、ぼくは、ちゃんと笑い返したよ。
 ぼくはね。ぼくは、シンちゃんのこういう所がとても好き。
 俺様って言うの?
 そういうの、好き。




 突然樹木が開け、ぽっかりと空間が開ける。
 森の中には、時々こうした場所があるのだと、シンタローは言った。
「……」
 彼は立ち止まり、周囲を窺っている。本当に追っ手の姿はないようだった。
 夜の鳥の声だけが、この空き地に遠く高く木霊していた。空が少し開けているせいか、星明りでいくらか視界がきいた。
「シンちゃん……左手、見せて」
「いいよ」
「見せてってば……」
「いいって」
 シンタローは、車から飛び降りる時に、左手を痛めていた。自分を庇って、受身を誤ったからだ。
 星明りの下で見るシンタローは、いつものムッとした顔をして、左手を自分からは見えないように後ろに隠していた。
 さっきからずっと一緒にいたのだが、闇の中だったせいで、その彼の顔を見たのは久し振りのような気がする。
 かわりに言われる。
「お前……もう限界だろ。少し休め」
 その言葉を聞いた瞬間、グンマの脚がヘナヘナと崩れ落ちた。
 自分はこんなに長い距離を、足場の悪い所を、しかも緊張して走ったことはなかった。絶対、足にマメができていると思う。
 冷たい地面に座り込みながら、しかしグンマはシンタローを不安気に見上げた。
「でもぉ……シンちゃ〜ん……早く逃げないとって、さっき自分で……」
「座ってろ」
 だから、グンマは、自分と違って休もうとはしないシンタローを、じっと見ていた。



 グンマは息をついた。
 静かだった。時々、シンタローが枝を折る音だけがする。
 こうやって二人でいると、そんな場合ではないのに、昔を思い出してしまう。
 幼い頃、自分たちはよく一緒に避暑地へと出かけた。総帥である伯父が長い遠征から帰ってくると、大概、湖のある別荘にシンタローを連れて行くので、自分と高松もちゃっかり付いていく。
 そしてそこに、ごくたまに二人の叔父たち――ハーレムとサービス――がバラバラに加わって、そうやって短い休暇を過ごすことが、よくあった。
『リス! みてよぉ、シンちゃん、リスだぁ〜!』
『バーカ、グンマ。あれはマーモットってゆうんだぜ!』
『あ〜ん、シンちゃんがバカってゆった〜』
『なくなよ、バカ……つかまえてやっから、なくなって!』
 そして森で迷子になって。
 一晩過ごして朝方助け出された。
 あの時のマジックや高松の真剣な顔は今でも目に浮かんでくる。



「ねえ、シンちゃぁ〜ん……」
「あんだよ」
 こちらを振り向かないが、それでもやっぱり答えてくれる声。
「覚えてる? 昔もぼくら、こうやって森で迷子になったよねぇ……」
「……今は迷子じゃねーよ」
 グンマは木々の隙間の星空を見上げた。
「あの時、ぼくは泣いてばっかりだったけど、シンちゃんは最後まで泣かなかったよね」
「この俺が泣くかよ。つーかお前、今、あそこまで泣いてないよな。ちったあ進歩したってコトかな」
「ホント?」
「『あそこまで』『ちったあ』。喜ぶな。言葉でも何でも正確に聞けよ。お前、科学者なるんだろ、科学者」
「……シンちゃんは、軍人さんになるんだよねぇ?」
「そーだよ。士官学校入ったんだから、そりゃなるよ。ずっと前に決めた」
「シンちゃん、全然そんな話ぼくにしてくれなかったのに。まだ14だから、ぼく、聞いた時びっくりしたよ」
「まだって……遅すぎるぐらいさ……14なんて……」
 その会話は突然、中断された。



「お喋りも、そこまでだな」
 木陰に男が現れるのが見えた。星の光を、その手元の銃口が鈍く反射していた。
 二人の間に緊張が走る。
 グンマは何とか立ち上がったが、足ががくがくしてしまっていた。
「ケッ……猫使うんじゃねーのかよ」
 そう吐き捨てると、グンマの前にゆっくりとシンタローが立ち塞がる。
 だからグンマには、男の表情はよく見えない。ただ声が聞こえた。
「文明の利器も勿論使うさ。何だってな……だが俺の祖国が……つけこまれたのもそこだ……」
「……祖国……?」
「L国……ガキは知らんだろう。お前の習った地図からは消された国だ。誰が消したかはわかるな」
「……そんなこと今言うってコトは、撃つつもりかよ」
「動けばな。何も生きて人質にする必要はない」
「シンちゃぁん……動かないで」
 グンマは心配になる。
 見上げると不敵な表情を浮かべているシンタローだが。
 視線を下に向けると、その手が震えているのだ。首筋に汗。
 シンちゃん……。
 グンマは、彼の肩にかけただけの、制服の裾を掴む。
「……そうだ、動くな、坊や……」
 男が近付いてくる気配がする。
 草と枝を踏む音。無機質な銃口。
 グンマは悲しく思う。
 シンちゃん、こんな時まで、意地張らないで。
 捕まった方が、楽だし安全だよ。きっとすぐ、助けに来てくれるよ。
 何でそこまでして、捕まるの、嫌なの……?
「シンちゃぁん……動いちゃ、ダメだよぉ」
 グンマがもう一度言った、その時。
 彼はシンタローが、前を見つめたままでニヤリと笑うのを感じた。
 それでもその彼の手は震えたままだったが。
「……さすが……だな、グンマ」
「……?」
「俺のコト、よくわかってやがる……伏せろッ!」
「わあっ!」



 シンタローの手に押さえられ、グンマが伏せた瞬間。
 目の端に、男の足が細い糸のようなものにかかるのが見えた。
 バシュッ、と鋭いものが風を切る音。鈍く突き刺さる音。うめく声。
 目の前のシンタローの身体が素早く動いて、うずくまる男の手の銃を、蹴り上げた。
 そしてグンマの身体を抱き起こす。
「やったぜ! グンマ! 走るぞ!」
 シンタローは罠を仕掛けていたのだ。
 ゲリラ戦で使用される即製のスパイクボール。
 トランク内でリボンを裂いた残りで罠線を作り、それに引っかかると、連動して尖った枝が降ってくる仕組みだ。
 シンタローは体術の次に、こうしたサバイバル分野が得意なのだとグンマは聞いたことがある。
「へっ……この俺がそう簡単にヤられてたまるかよ!」
 シンタローの顔は上気していて嬉しそうで、それを見たグンマも嬉しかった。
 二人は上手く逃げ出せるはずだった。
 でも走り出せなかった。



 シンちゃん……ぼく、もうダメなんだって、思った。
 靴音がして、男の部下たちが、逃げようとした、ぼくたちの正面に立ち塞がったから。
 きっと初めから周りを、取り囲んでいたんだ。
「……一人だとでも思ったか……?」
 背後から男の声が聞こえてくる。
「面倒だ。やれ」
 目の前の銃が、ガチャリと音をたてる。
 ぼくは耳の奥がつんとして、もうあれ程うるさかった心臓の音も感じなくなっていた。
 奇妙な浮遊感の中で、それでも、ぼくは必死だった。
 ここでぼくは頑張ろうって、思った。
 ダメだ。
 できる子のシンちゃんは、死んじゃダメだよ。
 もったいないよ。
 それに……おじさまが……悲しむよ。
 おバカで……親もいないぼくの方が……。
 高松……。
「シンちゃんっ!」
 ぼくは思わず、側のシンちゃんに覆い被さった。
 だけど。
「バッカ野郎! お前にかばわれる俺じゃねえッ!」
「わぁっ」
 すぐに体をひっくりかえされ、逆にシンちゃんにかばわれる形になって。結局、ぼくは恐ろしくなって目を閉じようとしたんだ。
 やっぱり……ぼくは何の役にも立てない。
 いつだって足手まといで。ごめんね、シンちゃん。
 そして世界が光った。
 最初は銃が発射されたからだと思った。
 でも違った。
「……?」
 それは一瞬の出来事のはずだったのに。
 ――なぜかぼくの目には、はっきりと。
 シンちゃんに向けて……青い光が押し寄せてきたように見えたんだ……



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 目を覚ますと、一面の白い壁。
 ぼやけた視界に、それは眩しい。
 口内がひどく乾いている。舌を動かそうとすると、喉が詰まって咳き込んだ。
「わあっ、シンちゃん! 気が付いたんだっ!」
 何かもっと眩しいものが、シンタローの首に飛びついて来た。
 ふわっと光にきらめく――
 ……グンマの、金髪。
「良かったぁ……今ねっ、今ねっ、高松呼んで来るからっ!」
 ぱたぱたと駆けて行く足音。
 ここは……病院?
 本部の……?
 ベッド……。
 助かった……のか……。
 シンタローは額に手を当て、滲んだ汗を感じ、もう一度目を瞑った。
 視界は閉じても、その金髪が目蓋に残って、消えなかった。
 すぐに、今度はゆっくりとした足音が近付いてきて。
「大変でしたね、シンタローくん」
 カーテンレールをひく音と、高松の声が、力なく横たわっている自分に降って来た。
 彼はベッド脇に丸椅子を引き寄せ、腰掛けてから、自分を見下ろした。
 ちょっと失礼しますね、という声で、自分の胸元がはだけられ、冷たい聴診器が肌に当てられた。
 シンタローはぼやけた目で、天井を見ていた。
 その間に、事件の顛末を説明される。



 危ない所でしたね。
 間一髪で軍の憲兵が到着して、照明弾とガスであなたたちを助け出したそうですよ。
 あなた、少しガスを吸いすぎたようですが。
 まあ問題ないでしょうね。
 丈夫なもんです。
 しかしねぇ、車から飛び降りたんですって? グンマ様を抱えて?
 そんな時は、じっと大人しく助けを待つようにって、小さい頃から習ってきたはずでしょうに。
 しかも逃げ回って、罠まで仕掛けて対抗しようとしたんですって?
 意地っ張りで損するタイプですね、アナタ。
 相手は寝ていると思ってか、言いたい放題の高松だ。
 血圧を計測されている時に、言われたことには何も返さず、シンタローは聞いた。
「……親父は」
 ああ、と高松が言う。
 ピ、ピ、ピ、と測定器が鳴った。
「勿論、心配しておられましたよ」
 静かに続ける。
「私からも大体の事情はお伝えしておきました。まだあなたが目覚めたことはお知らせしてませんが……明日の朝にでも起きたってコトにしておきますか? ですがその時は、ちゃんと電話に出て下さいね。きっと声を聞かせろって、あの方は煩いですから。中継する私が大変です。ただし暴走については叱られるのは覚悟して下さい……それと」
 シンタローの脇で高松が頭を下げてきた。
 その口元の黒子が、制御光の元で、やけに目に付いた。
「お礼を言いますよ。グンマ様を守ろうとして下さって、ありがとうございます」



「シンちゃ〜んっ」
 高松の診察が終わった頃に、グンマが病室のドアから顔を覗かせた。
 手にたくさんのシロツメクサを抱えている。
「……おい、俺は病人じゃないっての」
「違うの。お礼」
「お礼って、なぁ……」
「お花、すぐそこの裏で咲いてたからぁ。いいでしょ!」
 グンマには妙に強引な所がある。
 勝手に個室の水道を使い、グラスに水を浸すと、その中にシロツメクサを差し込んでいる。
 そして、テーブルの上に、とんと置いた。
「へへー」
 その満足気な顔を見ると、シンタローはいつも、まあいいか、という気になるのだ。



「おい、グンマ」
 今夜はこのままここで眠るようにと言われた。
 二人の立ち去り際に、シンタローはベッドの中から声をかけた。
 なあに、と振り向いた従兄弟に、彼は少し躊躇したが、言った。
「その、かばってくれてありがとよ」
 グンマの顔がぱっと明るくなる。
「うん! シンちゃんもありがとねっ!」
 何の悩みもなさそうなウキウキした表情。足が、ぱたんぱたんと飛び跳ねている。
 シンタローはその様子を見る度、楽しさと呆れと羨ましさを感じる。
「じゃあね! シンちゃん、また明日ねぇ〜!」
 高松が病室の明かりを消した。
 暗闇の中で、テーブルランプだけが控えめに輝いていた。
 二人の姿がドア向こうに消えると。
「……」
 シンタローは薄暗がりの中で、ベッド脇のテーブルの上に残された、シロツメクサをぼんやりと見つめていた。
 透明なグラスの中で、透明な水を吸う花。
 ランプの光に照らされて、それは透き通るような影を落としていた。
 影というものは普段は黒い姿をしているのに、こうして透明になることもある。
 グラスの影は、輪郭だけが黒い。中身は空洞。
 虚像……実体の写し絵。
 揺らめく姿。
 決して触れることはかなわない。
 掴もうとしても、掴もうとしても、空を切る。
 虚像だから、いつか実体になろうとして、永遠に空を切り続ける。
 自分は、その影をずっと眺めていた。
 いつか意識が途切れていくまで。
 ……俺は、影なんかじゃ、ない……。
 ――捕まってる無様な所を……あいつに見られなくて……良かった……。



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「ねえねえ、シンちゃん、元気そうだったねっ!」
 ぼくが言うと、隣を歩いていた高松は『そうですね』と答えた。
 そして続けて、もう深夜なんですから、グンマ様は眠くはないのですか、と尋ねてくる。
 お疲れでしょうに。
 大変だった上に、検査までしましたし。
 明日の研究所通いは、お休みにしましょうね。
 そう言われると、途端にぼくは眠くなってきて、欠伸をしてしまう。
 高松はそんなぼくを見て、笑っていた。
 帰ったら、すぐにフカフカのベッドに潜り込んじゃうんだぁ……。
 こつこつと、白い病院の廊下に、二人分の乾いた足音が響いていて。
 眠くなったボンヤリ頭で、単調なそれを聞いていると、数時間前の出来事が思い浮かんできてしまう。



 ――あの時。
 青い光がシンちゃんを襲って。その背後にいたぼくも、気が遠くなった。
 でも気絶したシンちゃんが後ろ向きに倒れてきて、その体がとっても重くて。
 重い、重いってそればかり気にしていたら、どうしてか、ぼくは気絶することができなかったんだ。
 そして次の瞬間に、遅れて、目の前で銃を構えた男たちが吹き飛んだ。
 なんだかスローモーションの映画を見ているみたいで、ぼくはボーッとしてしまっていた。
 何が起こったんだろうって、呆けていた。
 そしたら、座り込んでシンちゃんの体を支えていた、ぼくの目の前に。
 いつの間にか。
 赤い軍服の……マジックおじさまが……立っていたんだ。
 ……遠征に出てるって、聞いてたのに。
 おじさまはこちらに静かに近付いてきて。そして屈むと、ぐったりしているシンちゃんを抱き起こした。
「……怪我は、左手、か」
 ぽつりと呟いて、その傷を確かめると、どうしてか口の中に指を入れた。
 そのまま何かを見ている。
 そして初めて気付いたというように、側のぼくを見て、言った。
「へえ……グンちゃんは意識あるんだね……」
 そして、おじさまはいつもするように、今度はぼくの目を覗き込んだ。丁度、テープを張られていた、がびがびする部分を手で触れられる。
 そして尋ねてくる。
「今の光を見たよね……何色に見えた?」
 ぼくは、おじさまに何かを問われると、ちゃんと正しく答えないとダメだっていう感じがして、とても緊張する。
「……青……色……かなぁ」
「変な感じはしない?」
「ヘン……って?」
「目や頭が……何と言えばいいかな、熱いとか冷たいとか……まあ、何もないなら大丈夫か。また後で調べさせてね」
 ヘンなおじさま。
 熱いと冷たいって一緒に感じるはずないと思うのに。
 あの光、何だったんだろう。



 軍服を着た兵たちが、その頃ようやっと、ぞろぞろと駆けてくる。
 手に提げた銃と靴音が、騒々しかった。
 おじさま……一人で、急いで来たのかなぁ?
 ぼくは、本当にぼうっとしてしまっていて、周りの状況がよくわからなかった。
「あと、もうひとつだけ教えて」
 シンちゃんを部下に預けると、おじさまはまた聞いてきた。
 その時ぼくは、抱き上げられて連れて行かれるシンちゃんの姿を、見送っていたのだと思う。
「さらわれる時に、シンタローとお前は薬をかがされたよね……? 目覚めたのは、どちらが早かった?」
 何故そんなことを聞かれるのだろうと思ったけれど、やっぱり頑張って、ぼくは答えた。
「……ぼく、の方、です……」
「そう」
 おじさまはそれだけ聞くと、座り込んだままのぼくと合わせていた目線をはずして、立ち上がった。
「いいね、グンちゃん」
 見下ろされる。たまにする怖い目をしている。
「今見たことは、シンタローには……いや、誰にも言ってはいけないよ」
「……?」
「特に、私が来たことは絶対に」
「……高松にも……?」
 怖かったから、それだけしか言えなかった。
「じゃあ、高松だけはいいよ。それでグンちゃんが他に黙っていられるのなら」
 おじさまは、どこか遠くを眺めていた。ただの暗い空しかない向こうを。
 そしてそのまま言った。
「誰に何を聞かれても、自分は気絶していた、と答えなさい」
 ぼくは、ただこくこくと頷いた。



「……グンマ様」
 高松がどこかから姿を現す。
 ぼくの足は思わず動いたけど、おじさまが先に高松に話しかけたから、じっと我慢する。
「話は聞いていただろう。ちゃんとグンマに守らせるように」
「はい」
「ああ、それと」
 ついでに思い出したという風に言う。高松の肩に手を置く。
「勿論この子の知らない人をすぐに信用する性質は、少しは是正させるべきだ。いくら素直なのは良いことだと言ってもね。お前の教育にも問題があるよ」
 僕はその『知らない人をすぐ信用する』っていうのを一番怒られると思っていたのに、おじさまは高松にちょっと言っただけだった。
「申し訳ありません」
 高松と、肩がすれ違うようにおじさまが去って、固い靴音が消えると、やっと、ぼくは高松に飛びつくことができた。
 急に安心しちゃって、涙が出ちゃって、ただどうしようもなくって泣き出してしまって。
 抱きとめてくれる、暖かい腕。
「ふえぇぇ〜ん、高松ぅ〜」
 いつもの腕の中で、いつも通り泣くと、ぼくは安心する。
「お怪我はありませんか、グンマ様」
 高松は、いつも、優しい。



 森を歩きながら、薬物を吸引させられたそうですね、と聞いてくる高松。
 うん、でもすぐに目が覚めちゃったみたいなの、だから余計に怖かった、と言うと、高松は笑う。
 ああ、グンマ様は一族でいらっしゃるから、薬物への抵抗力が通常の人間よりは高いんですよ。犯人たちは量を見誤ったようですね。
 だから大丈夫だとは思いますが……念のため、後で検査させて下さいね。
 総帥も仰っていましたが。
 そして、確認される。
「私が処方している、いつもの薬。ちゃんと食後にお飲みになっていますよね? ここ最近は私も医務室に勤務してますから、半分はお任せしていましたが」
「うん」
「なら結構です。私はグンマ様のお体だけが心配ですから。それさえやって下されば、大丈夫ですよ」
 そして、森が開けた所で、迎えに来た軍用車に乗り込むようにと言われる。



 車中で流れる夜の景色を眺めているぼく。
 窓には黒いシートが貼られているので、そこから見る夜は一層、暗い色をしていた。
 映った自分の顔の輪郭を見ながら、ぼくは思った。
 さっき……シンちゃんの口の中で。
 きらりと光った物体の、正体は想像がついていた。
 ぼく、機械にだけは自信があるから。
 超小型全地球測位システム、GPS。
 それがきっと、虫歯の治療跡に似せて、埋め込まれている。
 こんなに早く僕たちの居場所が――しかも、ややこしく逃げ回ってしまったのに――わかったのは、多分、前もってシンちゃんかぼくの体に位置を知らせる装置が入ってないと、おかしいんだ。
 だからきっと……おじさまは、僕らがさらわれるってコト、前もって知ってたはずで……。
 ううん、でも、わかんない。
 それを埋め込んだのは、ずっとずっと昔のコトで、今回の誘拐は単なる偶然だったのかもしれないもん。
 用心のためにって。
 シンちゃん、昔っから、急にいなくなっちゃうコトとか、あったから。悪戯っ子だし。
 ……もしかしたら、ぼくの身体も知らない内に、何かされているのかもしれない。
 でも、もし何かやってたとしても、全部そういうのは、ぼくらを心配してやってることなんだって……ぼくは信じてる。
 大人の人たちは、ぼくたちのためを想って、いつも何かをしてくれているんだと思う。
 だからいいよ。
 特殊なおうちに生まれたんだから、しょうがないんじゃないかなぁって、思うよ。
 でもシンちゃん……そういえば。
 こないだ、歯医者行けって言われて面倒、とか言ってた気がする……。
「何をお考えです? グンマ様。やはりお疲れになりましたか」
 隣から高松の声が聞こえた。
「……シンちゃん、歯、痛いって言ってたかなぁって思って」
 そう言うと、高松は自分の唇に人差し指を当てた。
「ああ……グンマ様は賢くていらっしゃる。ですがね。あなたは賢くない方がよろしいですね。だって、そんなにお可愛らしいんですから」



 しばらくそのまま、車に揺られていた。
 すると、グンマ様、これだけは、とまた高松が話しかけてきた。囁くような声だった。
「今回の誘拐犯は、旧L国の残党だということは、もう御存知ですか」
 さっき男がそう言っていたから、ぼくは頷いたんだけど。
 どうしてか高松は、男がそう言った、ということ自体を知っているような気がした。
 ぼくはまた窓の外を眺める。
「L国というのは……かつては大国でしたが……十数年前にあなたのお父様が、最初に攻略の足掛かりを掴んだ国なんですよ。その残党が今回で一掃されて、やっと完全攻略という話らしいです。だから軍功はあの方……あなたのお父様にもある……総帥がそれを意識されているのかは知りませんけどね。あなたとシンタローくんには大変でしたが、因縁を感じます」
 高松が、自分からお父さんの話をするのは、珍しいことだった。それから軍がやってるっていう、戦争の話も。
 戦争の話はよくわからない。
 でもぼくは、お父さんの話が聞けたってことだけで単純に嬉しかった。
 こうして、ちょっとずつ、ちょっとずつ、ぼくの中にお父さんのことが貯まっていくんだ。
 大事に、貯めていくんだ。
 ぼくは、今日自分の身に起きたことは、ちゃんと理解しようとは思わなかった。
 多分、それはぼくにとっては、必要のないことだから。
 でも――そう。
 ぼくは本当は……心の隅で……気付いてる……。
 高松は、いつも全部、わかってて。
 でもそれも全部、ぼくにとってはわかる必要のないことなんだろうと思う。
 だから、今はいいやって、思う。どうでもいいことなんだ。
 何だか高松まで、さっきのおじさまみたいに遠くを見つめたままで、その口が小さく動いて、呟いているようだったけど。
 ぼくは、よくは聞こえなかったから。
 可愛いって言われるいつもの笑顔で、笑っていたんだ。
 シンちゃん、大丈夫かなぁ、なんて考えながら。
「……ー様……あなたの……残した影たちが……」






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