さよならの残り香

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 その日彼が滅ぼした小国の独裁者は、砦から離れた市街地に邸宅を構えていた。
 機密書類を押収させに部下をやったが、なかなか変わった作りになっているという。
 拘束した本人を尋問後に殺害した後、その攻略が呆気なかっただけに物足りない気分がしていたマジックは、戦闘地区の実地検分の帰りに自分もそこに行く気になった。
 彼は珍しいものや、少し毛色の変わった美しさが好きだった。
 見るに、外観も内装もまあ及第点といった所で、マジックはその夜はそこに司令部を置くことに決めた。
 故人の手慰みだという絵画も目にして、彼は自分の殺した男は、政治に手を出すよりも芸術家にでもなれば芽が出ただろうに、等と思った。
 自分を見誤ったために、無駄に命を落とす。詮無いことだ。
 戦後処理の諸々に、予想よりも自分の判断が必要なものが多かったために、今日一日は時間を取られるだろう。
 凱旋帰還は明日になりそうだった。



 夜の帳が下りる中、静けさが辺りを支配している。丹念に整えられた庭に面したテラス。月のない空だった。
 マジックは安楽椅子に掛け、虚空の闇を見つめていた。
 傍らのゲートレッグテーブルの上では、銀の燭台に蝋燭の火が燃えている。何処か無機質な空間。
 ……気が滅入る。
 マジックは、深く息を吐く。
 そして気が滅入るから彼が現れるのか、彼が現れるから気が滅入るのかはよくわからなかった。
 ただわかっているのは、過去の日々と同じく、自分の内面を見つめる感覚。



 白い花の絵は、本部の総帥室に置いたままのはずだった。しかし今、それが目の前に、テーブルの上に鎮座している。燭台の灯に照らされて、闇に浮き上がるようだ。
 新しく見習いとして側に置き始めた軍属の少年が、気を利かせたつもりで持ってきたのだろうか。
 余計なことだと、言っておかねば……。
 どうでも良いことを呟くことで、マジックは必死に意識を逸らそうとしている。
 いつものパターンだ。
 彼は、最後には必ず、ただぼんやりと机上のそれを見つめている自分に気が付く。
 自分の内面世界に迷い込んでしまう、それは入り口だった。
 白い花の絵、香水の瓶、温室……彼の思い出を残すものたち。それを起点に、今夜も、淡い思考はいつしか像を結んでいく。
 散って逝った人。ルーザー。
「……」
 突然、テーブルの燭台が、ぼうっと音を立て、高く炎を吹き上げる。そして消えた。
 青い葉をつけた庭木の幹が、ざわりと揺れた。月のない、星明りの夜の中。
 先刻から……気配は感じていた。
 暗がりに、静かに、一人の青年が佇んでいる。
 やっと視線を向けた自分に向かって、やれやれという風に小首をかしげている。そして、花のように、柔らかく微笑んだ。
「……座らないのか」
 相手がその言葉を待っているのがわかるから、マジックはそう声をかける。
 すると弟は、生前と同じ軽やかな足取りで近付いて来る。
 テラスまで来る。そして、もう一度口元に笑みを浮かべ、軽く会釈して、自分の向かいの椅子に腰掛けた。
 全ての動作に、音は伴わなかった。



 弟の生前においても、マジックはルーザーと話す時、それは自分の内部で起こっている現象なのではないかと錯覚することがよくあった。
 絶えず血と同質性を感じていた。つながっていた自分たち。
 そして今、それとは逆の現象が起こっている。
 自己の内部で何かを問いかける時、マジックはルーザーと話しているという想いに囚われる。
 その想いは実際の像を結び、闇の中に遠い影を浮かび上がらせる。
 死んだ弟は……彼の前に、23才のあの時のままの姿で現れるのだ。
 マジックは霊魂など信じたことはない。
 非科学的存在は、現実世界では無意味であることがほとんどだ。
 ただ、自分たちが科学の通用しない、人間ではない存在であるとしたなら。青い石が作り上げた道具であるとしたなら。
 何が起きても不思議ではない、等と考えることも、なくはないが。
「……」
 マジックは思わず苦笑した。
 自分はこの目の前の弟の姿を、どうにかして本物にしようと理由を探している。
 視線を預けると、昔そうしたように優しく微笑み返してくる弟。
 そして自分は、その笑顔には抗うことは叶わない。
 ねえ、ルーザー。
 幽霊が出ると聞いて、私は士官学校の噂の場所にまで行ったこともあるよ。半分はあの子と散歩する口実だったけれどね。
 もしもお前がいるのなら、あの子と一緒に出会いたかった。
 現在の私を、見て欲しかったよ。
 だけどお前は、私が一人の時にしか、姿を見せてはくれないね。



『兄さんは……幸せですか』
 お前の問いは、いつも答えるのが難しい。
『僕は……幸せだったと、思われますか』
 その問いに答えて、何になる?
 いつもお前は一人で語る。私が口を挟む隙間もない。
 話すことが楽しくて仕方がなかった、ルーザー。
 それは私が聞いていたからだと、自惚れても良かったのかい?
 私は今まで、無数の人間の死に関わってきたよ。この手で直接的にも間接的にも、殺してきたよ。
 亡霊に祟られる心当たりなら、幾らでもあるはずなのに、でも現れるのはお前ばかりさ。
 こんなに喋りたがるのはお前だけだよ。もう同じことしか言わない、消えた半身だけれども。
『兄さん、僕は、死を選んで正しかったのでしょうか? 僕が死んだ方があなたは幸せになれましたか』
『いえ、それは僕の傲慢ですね。あなたの人生に、僕の命など、何の価値もないでしょうに。僕は出来損ない。あなたの汚点。出来損ないが敗北者として死を選んだだけです』
『青の一族として、出来損ないの僕だったのですから。早く忘れてください。僕のことを、忘れて下さい。生き残ったあなたには、惨めな敗北者を踏み台にして、高みを目指して欲しいのです』
 できそこない……まただ。また、お前はその単語を使う。お前は人一倍、人の優劣と使用価値に敏感だった。
 できそこない。私はその言葉を、どうしても死と結びつけずにはいられない。
 私との関係を否定し、付き離し、私から去ろうとする言葉としか思えない。
 できそこない、皆、そう言って私を置き去りにしようとする。少なくとも、お前はそう言って、死を選んだ。私に、死地に赴く許可を求めてきた時に。
 幸せなんて。
 幼い日。あの人が、父さんが、私たちの目の前で、崩れ落ちたあの時に、四人、等しく失っただろう?
 祈念式の遺影……それは失われた光の象徴。幸福。
 ――ルーザー、お前はそれを再び知ることがないまま、この世を去った。
 目の前で、お前の私よりも色の薄いブロンドが夜風に揺れている。星明かりが、火の消えた銀の燭台に反射し、ぼんやりと闇を照らす。
 それを映すお前の目はひどく澄んで美しい……。



 どうして私がお前のことを忘れられないかって?
 お前が死んで、私は傷付いたからだよ、ルーザー。
 可哀想なのはお前だというのに。今、私はどんな形であれこうして生きているというのに。
 自分勝手な酷い兄だね。私は、お前が死地に向かうことを最後には許した癖に。
 そのことをずっと、後悔し続けて……傷付いている。
 私はただ一言、こう言えば良かったのかもしれない。『お前が死ぬと寂しい』と。
 でも告げることはできなかったよ。その気持ちに気付くことができなかったよ。
 お前を亡くして、その後あの子に会って、初めて気付かされた愚かさ。初めてつきつけられた、自分の後悔と傷口。
 傷付けられて死なれると、その後一生の間、忘れることができない。
 お前が消えて、長い時が過ぎたね。いくつもの季節が巡った。
 馬鹿だな。私もお前も馬鹿だな。
 一瞬たりとも忘れたことなど、なかったよ。



 お前に想いを浸す時、私の思考は、いつも最後はこのことに行き着く。
 私が消えても……シンタローは私のことを覚えていてくれるだろうか。
 可笑しいだろう? ルーザー。
 今の私は、お前の知らない私は、一人の人間に囚われたままさ。
 ……くだらないと、お前は言うだろうね。
 でもね。ルーザー、私は自信がない。
 私を傷付けた人。忘れられぬ人よ。
 私はお前のように、あの子に、忘れずにいてもらえる自信がない。



 だからね、シンタロー。
 本当は私は、お前に酷いことをしたくてたまらない。痛めつけたいと思う。
 優しくしたいと感じると、必ずその裏側では、お前が傷付けばいいのにと感じている。
 時々私は、自分が放心したようにお前を見つめていることに気付く。
 そうした瞬間に、心の中に何かが少しずつ、水嵩を増していくのがわかるんだよ。
 冷たい雫が、私の心を浸していく。まるでお前が大事にしている、砂時計のようだ。
 ……あの男の思い出が染み付いた、くだらない道具。
 いつか溢れることがあるのかは、まだわからないけどね。
 お前の忘れられない人になりたい。
 傷跡は深ければ深い程、いいんだよ。
 シンタロー、私はお前を傷付けたくて仕方がない。
 傷口から滲み出す、その感情で。
 いつか、私を愛して。



 ……あの日。桜の舞い散る中で、初めて寂しいと、私は感じた。
 お前への愛情が、心に降り積もった時、私の世界が裂けたんだ。
 それまで、私は愛憎の時間を過ごしていたよ。
 愛しているかと思えば、憎んでる。憎んでいるかと思えば、愛してる。
 決して、どちらかではない。
 だから、どんな人間でも殺せる自信はあるよ。
 私は、愛していたって、ルーザーのように、あの赤の男のように、最後は憎い。殺すことができるよ。
 だけどね、あの日――熱い手が。そんな私の世界を、切り裂いた。
 シンタロー。お前だけは、憎めない。お前だけは、愛しているだけだよ。今の私は、そう信じたいと願っている。
 私の閉じた闇に、差し込んだ光がお前。
 だからどんなに傷付けたくても、私の傷を負ったままで、生き残って欲しいと思う。
 これは願望だろうか。
 私はお前だけは……きっと、最後には憎めない。
 殺せない。



『それは間違いですよ。きっとあなたは、あの子も最後には殺すことができますよ』
「そうだろうか、そうだろうか、ルーザー?」
『誰だって、あなたは殺してきたじゃないですか。愛する兄弟の僕だって。誰だって、あなたは憎んできたじゃないですか。それがあなたの愛情表現でしょう。愛憎から憎しみが切り離された感情なんて、あなたに存在するはずがない』
「自分の心なんてわからないよ。その時になってみないと、最後まできっと私はわからない」
『……こんなこと、愛も憎しみも感じることのなかった僕が言っても、あなたは馬鹿にするだけでしょうね』
「馬鹿になんて。私はお前を馬鹿になんかしてはいないよ、ルーザー……」
『本当ですか? でも、これも最後には自分の心がわからないと、あなたは誤魔化して終りにするんでしょうが。あなたは、僕を疎んじていたじゃないですか。僕は知っていましたよ。僕の異常性を、あなたは重荷に感じていた。もう僕の責任を取るのは嫌だったんでしょう?』
「それは違う」
『僕が心のバランスを失って、乱れる時。そして青の力を暴走させてしまう時……後者は主に僕が力をコントロールできるようになる前でしたけどね。あなたはいつだって、知らせを聞いてすぐに駆けつけてきた。僕は、あなたに力ずくで精神と暴走を抑え付けられながら』
「ルーザー」
『僕は、いつも屈辱を感じていた。あなたの目に、僕への哀れみを感じていた。この気持ちがわかりますか、兄さん。それでも僕には、あなたしか縋るものがなかったのですよ』
「……ルーザー」
『僕が死地に赴く許しをあなたに願い出た時、あなたは心の何処かで、ほっとしていたはずだ。もう厄介事とはおさらばできると……まあ仕方ないのかもしれませんね。あなたは僕より半年だけしか早く生を受けてはいないのに、生まれついて色々背負い込んでしまったんですから。まったくこの世は不公平だ……と、あなたは一度でも思ったことがないなんて言わせませんよ。ちゃんと僕は知っていますから』
「……」
『その上、僕はあなたとそっくりでしたからね。色々と目障りだったのでしょう。わかりますよ。僕も、そうでしたから……そうやって、全ての人間を憎んでいくあなただ……』



 マジックは正面を見つめた。白い顔がそこにはある。年を取らないままの、美しい顔。その薄い唇が、淡々と言葉を積み重ねていく。
『僕はもう一つ、あなたが僕を憎んでいた訳を知っていますよ』
「……やめなさい」
『僕が勝手にあなたの愛人を殺したからでしょう。僕よりあの男の方が大切だったんですね』
「やめてくれ! ルーザー!」
『あなたは、あの男にも深く傷付けられたから、決して忘れられないはずだ……ただ、あの男の死については後悔していないようだから、幽霊は見ないみたいですがね。しかし可哀想なのはサービスです。サービス。僕の可愛いサービス。身勝手な兄たちの間で、何も知らないサービス……生きている中では、悪人はあなただけですよ。あなただけが残った』
「……お前はルーザーではない。なぜならルーザーは、そのことは知らないままで死んだ。だからお前は、幽霊でも何でもない。ただの幻影。私の後悔。弱さが生み出す影にすぎない……お前は私だ。私自身なんだろう?」
『解釈はどうぞ御自由に』
「お前の話すことに、新しいことは一つもない。全て私の内部にあったことばかりだ。だからお前は……」
『本物のルーザーではないと? そう断言できますか? ふふ、おかしいですね、兄さん。あなたは僕に会う度に、いつも本物かどうか、僕が赤面してしまう程に、吟味を重ねているというのに。信じようとする気持ちと信じまいとする気持ちの間で、戦っているというのに』
「ルーザー……もう……やめてくれよ……」
『僕はもう生きてはいないから、あなたに従う理由もない。だが、随分苦しそうですね。今日の所はお暇させて頂きましょうか。でもわかって下さいね。僕だって。寂しいから、あなたに会いに来るんですよ。ここは暗くて冷たい海の底だから』
「……」
『あなたのせいで。僕は、苦しみの中を漂い続けている……』
 その言葉を残して、彼は一礼して消えた。
 後に残った、無人の椅子。何事もなかったかのように、静けさだけが闇に沈んでいる。
「……」
 マジックは、豪奢な椅子の背凭れに身を預けた。
 しばし虚空を見つめていた後、ベルを鳴らして軍属の少年を呼び、冷たくなった紅茶の入れ直しをさせる。
 銀の燭台の蝋受けには、すでに白い液体が積もっている。
 ルビー色の液体をカップに注ぐ音と立ち昇る芳香の中で、彼はそっと青い目を閉じた。
 脳裏に今しがた別れたばかりの弟の顔。
 過去、弟が生きていた頃も、彼と会うと、自分は自己の内部に沈んでいくような感覚を味わった。もう一人の自分と会っていたという気分になったのだ。
 暗い自分の中の闇を覗き込む感覚。覗いても覗いても、際限のない底の底を漂っている。
 ルーザーの死後も、その邂逅は、終わることなく、続いている……。
「……」
 マジックは、額にわずかに滲んだ汗を指で拭った。
 そして自分が、ルーザーの面影を意識から消そうとすると次の瞬間、必ず目蓋の内に浮かび上がる、あの笑顔を想う。
 可愛い、笑顔。



 シンタロー。
 笑って。
 シンタロー。
 愛しているよ。
 だが、もう私はお前の何を愛しているのかが、わからなくなってしまっている。
 お前の名前が好きなのかもしれない。その瞳? 眉? 髪? 黒色をした、その姿かたちに、落ちる影?
 巡り巡ってしまってもうよくわからない。実際は私は何をしたいのかも、よくわからない。
 でもね。
 お前を愛したいよ。傷付けたいよ。
 私は、一体、どうすればいいの?
 この気持ちは、本当に愛なのだろうか。
 ……もしかすると、本当は。



 愛していないよ。
 救って欲しいと願うことは、きっと愛ではないよ。それは自己への憐憫でしかない。
 私がお前を求めるのは、全て、自分のためだけなんだよ。寂しいから、何かに縋りたいだけなんだよ。
 海に溺れて掴むことができる藁なら何でもいいのかもしれない。その懐かしい姿かたちをしていれば、中身は何でもいいのかもしれない。
 お前なんて、中に何が入っていようと構わない、ただの器。そう思う度に、いや、お前でなければ駄目なのだと、思い直す。
 だがどうして? 私はどうしてお前に愛を感じるのだろう。
 私が大きなものを失った時に、偶然そこにいたから?
 たまたま、お前の熱い手が私の手に触れたから? お前は幼すぎて、可愛がるのに都合のいい存在だったから? 似ているから?
 理由が……わからないんだよ。わからないから。いつか、この想いは、消えて無くなるのかもしれないね。
 桜の木の下で、あの日突如、私の胸に降り積もったように、突如、消える。
 そのことが――私は不安で、仕方がない。



 シンタロー。
 愛してなんかいないよ。私はお前を、愛してなんかいないよ。
 お前なんて、私の願望の代替物にすぎない。愛は身代わりなどではないよ。
 たまたま欲しいと思った時に、お前がそこにいただけだよ。
 私が大事なのは、自分だけ。最後まで生き残るのは、きっと自分一人だけ。そう想いながら、日夜、私はお前に偽りの言葉を囁き続けるのさ。
 だけど、私がお前に愛していると言う度に、信じてはくれないから。そうつれなくされると、お前が私を愛してくれればいいのにと思う。
 お前が、私から逃げようとするからなのかな……。そうされると、思わず追いかけたくなるんだよ。
 捕まえて、私を見て欲しいと思う。私を愛してくれればいいのにと、そう願う。
 でも私は、どうしてお前に愛して欲しいのだろう。
 きっと、お前が私を愛してくれたら、私はお前を一番深く傷付けることができるからなのだと思う
 幼い時からずっと、私に愛されることを、当然だと感じているに違いない、傲慢なお前。
 私は、お前が私を愛してくれた時。その瞬間に、天辺の高みから、突き落としたい。
 傷付けたいよ。お前の心の一番奥に入り込んで、その場所に傷を付けたい。
 忘れられたくないのさ。
 その傷の痛みに、私の記憶を刻んで。
 傷口から滲み出す、その感情で、ずっと私を忘れないでいて。



 愛なんて。そんな言葉ははかない。散ったルーザーの命のように。抽象的すぎて、瞑想的すぎて。今の私にはもう、それがどういうものか、よくわからない。
 ただ言葉を重ねるだけ。それで愛しているような自分の素振りに、もどかしさを感じている。
 本当は、こういうのじゃないんだよ。でも、違うということしか、わからないんだよ。
 私は、遠い記憶は忘れようとしてきたから。
 愛されたことがないから。
 愛し方が、わからない。



 ルーザー、お前に何がわかる。
 お前だって、愛されたことがない癖に。何がわかるんだ。
 でもそのまま、お前は死んだんだね。
 何も知ることのないまま、綺麗なままで、消えたはずなのに。ルーザー、お前は美しい傷として、私の心に住み続ける。
 ――ルーザー。生涯、忘れられぬ人よ。お前は私に、何をして欲しかったの。
 もう一度、何度でも言おうか。
 死地に向かうと、お前が私に告げた時。私は表面上、止めはしたが、心の奥底では、それも仕方ないと思っていたよ。
 そして、最後は行くことを許可した。お前が死ぬとわかっていながら、その死を許可したのだ。
 お前の言う通りだ。私が、お前を殺したも同然なんだよ。
 私には、お前が憎い瞬間があった。同質性が目障りだった。その純粋さが、憎かった。
 何も知らない顔をして、私に責任を取らせる、その存在が憎かった。
 だから、お前は死んでも仕方ないのだと、むしろ私の負担が軽くなると、あの時私は、心の何処かで感じていたんだよ。
『兄さんは、何物にも囚われない人であるべきなんですよ。だから、僕は恨んではいません。僕を切り捨てたあなたは、正しいことをしたんです』
 消えたはずなのに、ルーザー、お前は、また。
『だから結局は最後に、あの異端の子供を殺すことだって平気なはずです。あの赤のスパイだって。僕が殺さなかったら、あなたが殺していたはずでしょう……?』
 内部から、語りかけてくる……。
『死んで、全てを見通せる立場になった僕だからわかるのですよ』
『僕の存在は、面倒臭かったのでしょう……? 重荷だったのでしょう……? 僕が気狂いで普通の精神を持ってはいなかったから。僕があなたに頼りすぎていたから』
『あなたのせいで。僕は、苦しみの中を漂い続けている……全ては僕たちの犠牲の上に成り立っているのです。だから、あなたは覇王になるしかない』
『しかし、あの子を殺すことができなければ、弱みを消すことができなければ、あなたは完全無欠の覇王になることはできない』
『だから、いつか、殺せますよ。兄さん、選ばれたあなたなら……』
「シンタロー……」
 こうして自分が呟いてしまう、言葉。繰り返しの呪縛を断ち切る人の名前。
 目の前には何もない。ただ微かな星明りだけの夜があるだけ。呟きを溶かし込んでしまう闇のしじまがあるだけ。
「……」
 マジックは、再び目を閉じる。息をつく。
 血を感じる。ルーザーといると鏡のように自分を感じるよ。血は、身体中を、果てしなく巡り続けるのだ。繰り返し、繰り返し。
 際限のない呪縛。
「ああ……」



 シンタロー。
 嘘だよ。
 本当は愛しているよ。お前を愛しているよ。あの日感じた通りに、愛しているよ。私の世界は、裂けたままだよ。
 私のことが、好き? 嫌い?
 これは大事なことだよ。お前はいつも答えてはくれないけれど。これは、私の全てを決める問題なんだよ。
 いつの日か、私はお前を、殺せるだろうか……?
 他の人間と同じく、殺せるだろうか……?
 殺すことができれば、私は、完全無欠の覇王になることができるだろう。それは強さだよ。いつか私は世界を手に入れるよ。
 お前を殺すことができなければ。私は、完全無欠の覇王になることができないだろう。
 世界を……捨てるよ。
 それは弱さだよ。亡き弟の亡霊が告げるように、私にはその資格が、ないということだ。
 それはその運命の日が来てみないと、わからない。
 ただ。



 シンタロー。側にいたいよ。その手に触れたい。
 お前の肌の熱さに、命を感じたい。その熱で、繰り返しの呪縛を、断ち切って。
 血の巡りのような思考の中で、幾千の夜、私はこうしてお前を想う。
 ねえ。私の体は、冷たいよ。死ばかりが、私を通り過ぎていく。
 お前に出会うまで、そんなことには気付きもしなかった。そして一度気付いてしまったら、もう私は逃れられない。
 お前のためなら、何だってする。私の全てを捧げるよ。お前に出会う前は。私は、たった一人で生きていけると信じていたよ。
 あの日。あの小さな手が。お前の小さな手が、私の手に触れた。
 その一瞬の熱が、一人の人間の全てを救ったことを、お前は決して知ることはない。
 だから、こんなにも私は。
 ただ――
 私がどんな人間でも。それが他の命を犠牲にした結果であっても。
 私が、ここに生きているということを、嬉しいと感じてくれる、そんな存在がいはしないかと。
 お前に出会ってから私は、そのことばかりを考え続けている……。



 ただ。私は――お前に、会いたい。
 マジックは閉じていた目蓋を開いた。暗い庭と空は、変わらぬ静寂に包まれていた。
 再び軍属の少年を呼び寄せ、幹部への連絡事項を伝える。
「明日の凱旋はやめだ。これから私だけ先に帰還する」



----------



「よォ、兄貴」
「……何だ、お前か」
「可愛い弟にそりゃねえゼ」
 明け方にはまだ早い。夜間緊急用にしばしば使用されるその滑走路は、摩擦熱を帯び、闇に鈍い光を放っていた。
 酔い覚ましにと、ぶらり外に出たハーレムは、仰ぎ見た夜空にそびえ立つ空港管制塔の点滅から、兄の帰還を知った。
 あれからシンタローと二人、街に寄り食事を取った後、自分は彼に言った。
 じゃあ、俺はそろそろ帰るとするが。部下に夕メシ、たんまりおごらせる約束、しちゃってンのヨ。オマエ、これからどうする?
 自分の言葉に、甥っ子は驚いたようだ。当然、強制的にハーレムに連れ帰られるものだと思っていたらしい。
 ……お坊ちゃんが。俺は別に、オマエを連れ戻しに来た訳じゃねーよ。
 そんな義理はねェ。ただ、馬見に行く約束、果たしに来ただけさ。だから後は、オマエの気の済むようにすればいい。
 するとシンタローは、迷った素振りの末、『俺も帰る』と言ったのだ。寮に戻るという。
 逃げるのなら、徹底的に逃げればいいのにと、ハーレムは思う。
 だが、コイツは逃げ切れない所まで……自分と、そっくりだ。



「相変わらず酒臭い……少しは控えろ。お前は限度というものを知らない」
「いやあ、特戦のヤツラが、おごりだから飲め飲めってうるさくってなァ。上司としちゃあ、断れねーワケよ」
「……お前の上に立つ人間も気の毒だが、下につく人間も大変だ。進んで自ら苦労を背負うとは、つくづく奇特な連中だよ」
 軍用機から降り立った兄は、いつもの小言めいた台詞を口にしながら、足早に歩み去ろうとする。立ったままの、自分とすれ違う。
「……」
 ハーレムは、彼の、そのあまりの戦場の臭いのなさに顔をしかめた。普通なら硝煙であったり……血臭であったり、なにがしかの痕跡は残るものだ。特に、敏感な自分が、嗅ぎ分けられないはずがない。
 元々清潔好きの兄だが、特に彼は決まった場所を訪れる時、その臭いを完璧に拭い去って来ることを知っている。
 その場所は過去においては日本――そして今は本部。シンタローのいる場所。
 見えない所で、そんなことに必死になっているのであろう彼を、自分は想像したくはなかった。
 いつもの香料と、微かな石鹸の匂い。そんな兄は嫌だと思うが、ハーレムは何だかそれを放ってはおけない自分にも気付いている。
 昔は、さ。ずっと、俺は追いつこうとするばっかりだったけど。
 今は、なんか……よくわかンねーけど……うん、よくわかンねェけどさぁ?
 シンタローがアンタの所に、来るまでは、さ。
 兄貴、俺はアンタのこと、完璧なヤツだと、思い込んでたよ。
 それ以外のとこが目に付くようになる程、俺が年取ったってことかも、しれねーけどな。



「待てよ、兄貴」
 だから通り過ぎようとするマジックに、自分は声をかけてしまう。兄は振り返らず、『また逃げたんだろう』とだけ言った。
 ワカってらっしゃる。
「……帰って来たんなら、いいさ」
 続けて背中でそう呟く人。
 『お駄賃くれよ』と言う自分に、彼は『またお前はそれか』と返して、再び歩き出した。
 これからシンタローの寝顔でも見に行こうというつもりなのだろう。相変わらずの行動すぎる。
 その姿を横目で追いながら、ハーレムは今にも燃え尽きそうな吸殻を吐き出し、新しい煙草に火をつける。
 この煙草は、最初の一服目しか美味くない。それ以降は惰性。苦いばかり。
 それでもしつこくこだわり、吸い続ける。俺だって、相変わらず。
 闇に立ち昇っていく白煙の側で、高速戦闘機が銀色に輝いていた。
 ……こんなのに乗って、来るなよ。
 そう思った瞬間、自分がたった今、足元に捨てた吸殻が、気になった。
 ふと、視線を感じる。相手が立ち止まって、自分を見つめていた。
「……お前にも、悪かったね」
 今夜は、珍しく最後にそんな言葉が聞こえて、フロアの隔壁の向こうに背中は消えた。



----------



 夢を、見ていた。
 甘い夢、綺麗な夢、幸せの夢。綿菓子のような世界を、笑いながらシンタローは駆けていた。
 幼少期の幸せ。それが幻だと気付いたのは、幾つの頃だったろうか。
 この世は、見えない部分ばかりで成り立っていることに、気付いたのは。
 綿菓子の世界が、不意に途切れて、いつの間にか、自分は暗い世界に迷い込んでしまっている。
 これも夢だ。夢なんだろう? そう問い続けて、彷徨う自分。
 しかし、黒い霧は、いつまで経っても晴れることはなくて、どこまでもどこまでも手探りを繰り返してから、シンタローは思い至るのだ。
 ここは影の世界。自分の幸せの背後にあった、影の世界。阿鼻叫喚の満ちる、怨念の世界。
 自分の綿菓子の世界は、彼らの犠牲の上に立っていた。
 その事実と、向き合う度に、俺は――
 ごめんなさい。
 本当にごめんなさい。
 あいつは、世界中の人々から、憎まれて当然の存在で。
 人殺しで最低で最悪で残虐で、悪魔のような人間で。
 ごめんなさい。
 でも俺に見せるあいつの顔は。
 ――俺は……憎めない……。



 ……。
 額に触れた冷たさに、沈み込んだ闇から引き揚げられる感触がした。
 ……氷……?
 いや、そういう物理的な冷たさではない。
 もっと……触れたものの熱を奪いすべて凍てつかせるような……氷らせ粉微塵にするような……そんな破壊的な冷たさ……。
 肌に染み込んでくる……体の芯にまで……。
 ……。
 死の匂い。
「……ッ」
 はっとして、シンタローは目を開ける。夢から覚める。
 ぼんやりとした意識が、薄い明かりの中で見開かれていく。しかし彼の視界に映った闇の中には、誰の姿もなかった。
 いつもの寮の自室。カーテンと棚と、壁の傷。シーツと毛布の肌触り。静寂。
 だが確かに額に残る、あの感触。冷たさ。あいつの手の……。
 シンタローは、熱い息を吐いた。背筋が震えた。
 影。自分を形作る、黒い姿をした不安。
 俺とあいつの間に落ちる影……。
 シンタローは再び、目を瞑る。
 そうするしか、なかった。



 ずっと、ずっとだよ。
 俺は、本当は……仕事に行かないで欲しかった。
 だって、アンタの去っていく背中からは死の匂いがする。
 そうさ、アンタの冷たい体からはいつも死の匂いがする。
 人と人とが別れる、さよならの残り香がする。
 いくら消してきたって、その冷たさは最後まで消えない。
 アンタがいくら隠そうとしたって……わかるよ……。
 俺のためとかって。世界で一番になるって。世界で一番価値があるって。そんなこと、アンタは言うけれど。
 そうやって、一人で、いつも俺の知らない世界に行ってしまうから。
 だから俺は、追いかけなきゃって、思うけれど。
 そればっかりで、限界ギリギリだけれど。
 俺は、ただ。
 行かないで。
 覇王になんて……ならないで。





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