低温火傷

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 グンマは熱を出した。
 冷たい氷嚢の下から見上げる空間。遠い天井。迫るような壁。
 体温が僅かに高くなったというだけで、どうして世界は違って見えるのだろう。
 ひどく自分が、いつも以上に無力な生き物になってしまったという感覚。見慣れた自室の輪郭は揺れ、物憂い空気が辺りを支配している。
 グンマは、一度目を瞑り、そしてまた開いた。
 睫毛の向こうに、枕元の写真立ての中で微笑む、父ルーザーの顔が霞んで、ぼんやりと見えた。
「オマエ、病気っつーのはな、体が疲れたって言ってるんだぜ! 熱が出て汗が出るってことは、それだけ体が辛くて泣いてるってことさ。だから、無理すんな、な? それとな……今さらだけどよ、前さ、遅くまで連れ出して、悪かったよ……」
 シンタローが一生懸命にベットの脇で話している。
 彼は二人でいる時に、自分の具合が悪くなったことを気にしているのだろうか。
 そんなの、関係ないのに。
 確かにここ最近の自分の不調は、あの肝試しの日から始まっていたのだが、それから良くなったり悪くなったりを繰り返して今日まで来たので、そんなに前のことを気にされても、自分の方が困ってしまう。
「ま、寝るのが一番だよな、こういうの」
 そうやって、ポンポンと自分の被っている毛布を叩いてくる従兄弟。
 でもね、シンちゃん。それなら、その隣の高松にね、もうあんまり、泣かないでって、言ってほしいなぁ。
 だって高松、ぼくが言うと、余計に泣いちゃうんだもの。
 そう念じながらグンマは、シンタローの隣で、はらはらと涙を流している高松を見つめた。
「あああグンマ様〜〜っっ! 御可愛そうにっ……熱が! 熱が私は憎くてなりません! ええい熱! この熱めがッ!」
「ドクター、アンタ自慢の特製薬は今回ねぇのかよ? 寮のヤツらが、時には泡吹いてたやつとか……」
「ななな、なんですってェ!! シンタローくん、アナタ、グンマ様を実験台にしろと! いくら従兄弟でも言って良いことと悪いことがありますよ! あああ、信じられない! 恐ろしいッ!」
「……やっぱりアイツら、実験台だったんだな……」



 ぶつぶつ文句を言いながら、それでも研究所に行く時間になったと高松はハンカチを噛んだ。
 高松は、この所、何かの実験にかかりきりなのだ。
 自分に構う暇もほとんどないようで、それが不満で、自分は拗ねてみせていたのだが。結局、自分が熱を出しても、事態は変わらなかった。
 でも、まあいいやと思う。
 本当は、どうでもいい。そういうのって、仕方ないことだから。
 グンマは、それを弁えた上で、自分が甘えのポーズを取っていることに気付いていた。
 熱が出たって熱が出なくたって。自分が無力なのは、変わらない。
 そんな虚無感は、彼にとっては馴染み深いものだった。



 高松が出て行った後。
 シンタローが、ベッドの自分を、側の椅子から見下ろして言う。パイプ椅子がきいきいと音を立てた。
「グンマってさ、頑張りすぎてんじゃねーの」
「そんなことないよっ」
 シンタローが笑った。ちょっと口調がムキになってしまったかもしれない。
 彼に、頑張っていると言われることは、余り好きではなかった。
 グンマは、頑張っているシンタローの側で、ちょこんと座っているような、そんな無害な存在でありたかった。
「そんなに頑張らなくていいんだぜ、たまには、休めヨ」
 答えず、グンマは瞬きをした。
「……だって、この手」
 シンタローの視線が、毛布の上に移るのがわかる。
 そして、指先の皮が少しだけ硬くなった彼の手が、そこに投げ出された自分の手を持ち上げた。
「この手、すっげぇ、頑張ってる手だろ。無理すんなって」
「無理なんて……してないよぉ……」
「嘘ばっか。わかるって、そんなのさ」
 シンタローが自分の目を覗き込んでくる。黒い瞳が優しかった。
「俺さ……あのな」
 ガキの頃からのクセでさ。お前のコト、いっつも、バカだバカだって言っちまうけど。
 そう言って彼は言葉を止める。
 しばらく間があって『たまーに、お前のこと、偉いって思う時、あるんだぜ』と続けた。



『頑張らなくていいのに』
 本当にそれでいいのだろうか。
 薬を飲んだ後、グンマは眠りと覚醒の間をうとうとと彷徨った。ぼうっとした橙色の明かりに部屋が染まる。
 うとうとと意識がまどろみに落ちていく。ゆっくりと目の前に薄闇の海が広がっていく。耳の奥では、さっき聞いたシンタローの声が木霊している。
 でもね、シンちゃん。ぼく……。
 グンマは意識を彷徨わせる。その中で呟く。
 シンちゃんの方が、頑張りすぎみたいに、見えるんだぁ……。
 士官学校でも、いっつも一番だって、聞いてるよ。
 すごいよね、さすが、おじさまの一人息子だって、みんな言ってるよ。
 ぼく、そんなシンちゃんの従兄弟で、すっごく嬉しいよ。
 シンちゃんに、おバカって言われると、ちょっと悲しいなって思うけど。
 でも、それ、当り前だって、思う。
 シンちゃんが言うことは、いっつも正しい。
 だから、頑張らなくていいっていうのも……そう言ってくれて、嬉しかった。
 ぼくも、シンちゃんが何か喜ぶようなことを、言えればいいのになあ……。
 ……。
 シンちゃんって、どうしてかわかんないけど、髪とか目が黒くって。
 ぼく、そんなの気にしないのに。
 でもシンちゃんが気にしてることがわかるから、ぼくは何も言えない。
 『ぼく、気にしてないよ』って、逆に言えないんだ。
 それにシンちゃん、ぼくなんかがそう言ったら、傷つくよね。
 ぼくなんかが……。



 ……。
 グラスの倒れる音。ぼんやりとした意識が、薄い明かりの中で見開かれていく。
 高松が自分を見ていた。研究所からもう帰って来たのだろうか。
 そんなに長い時間、自分は眠っていたのだろうか。
 ……高松……。
「申し訳ありません、グンマ様。片付けようとしたら、つい……折角よく眠ってらっしゃったのに」
「……ううん、大丈夫……」
 首周りの寝汗が不快だった。グラスを倒すなど、高松らしくなかった。
 きっと、眠っている自分の顔を見つめて、ぼんやりしてしまったに違いないと、グンマは感じた。
「具合はどうですか、グンマ様」
 心配そうに尋ねてくる高松。相変わらずの優しい笑顔だった。



「グンマ様、横向かないで下さいね。ちゃんと氷嚢を当てて。折角取り替えたんですから」
 お薬、飲まれましたか。ああ、寝汗が。食欲はありますか、リゾットを作ってありますから――
 てきぱきと自分を看護する彼。幼い頃から、いつもこうだった。
「高松ぅ……」
 甘えた声を出すと、何ですか、と声が帰ってきて。少し自分が落ち着いたのがおかしかった。そのままグンマはまた目を瞑った。
 今度は脳裏に先日の慰霊式の光景が浮かぶ。
 死んだ人々。あの冷たさの中で、殺された人々。命を粉微塵にされた人々。
「ねえ、高松……死ぬ、って、どんなことだと思う」
 そうぼそりと呟くと、高松が不思議そうな声で返してくる。
「どうしたんですか……ははあ、さては熱で気弱になりましたね? おかしなグンマ様です」
 グンマが黙っていると、今度は少し困ったような、真剣なような言葉が背後からした。
「……死ねば、全ては終わります。存在の絶滅。私たちは科学者ですから。唯物論的には、それだけのことですよ」
「ん……そーだよねぇ。全部、ぱあっと消えちゃうんだよねぇ。死んじゃったら、ぼくも高松も」
「でも……」
 しかし口篭る高松。らしくない、と感じた。
「本当は消えないのかもしれませんね、グンマ様。物質的存在は消えても……何か他のもの……例えば、その人の面影は。残された人間の中で、永遠に生き続ける……それがいいことなのか悪いことなのかは、わかりませんけどね……」
 その言葉は、最後が少し歯切れが悪かった。
 そこで会話は途切れて、いつしかグンマは再び微熱のまどろみへと堕ちこんでいく。



 高松は死ねば全ては終わると言った。
 そうなのかもしれない。
 ぼくは毛布を被っていたから、高松の顔は見えなかったけれど、声でわかった。
 高松は、こう言った時、ルーザーお父さんのことを思い出していたんだ。高松がぼくの面倒を見てくれるのは、昔、お父さんに、お世話になったからだって。
 高松がいつまでもいつまでも尊敬している……死後十何年もその息子の世話をし続けるような……ルーザーお父さんは、きっと素晴らしい人だったのだと思う。
 高松がぼくに優しくすればする程、ぼくのルーザーお父さんへの敬愛は増していく。
 その優しさは、ぼくという存在へのものではなく、その背後にいるお父さんへのそれだろうから。
 きっと、お父さんは高松の献身に相応しい人だったんだろうと思う。
 ぼくと違って。



 時々ぼくは、高松が何かを探すように、僕の顔を見ていることに気付く。でもそのことには気付かない振りをしている。
 ぼくは本当は一人なんだと、なるべくなら最後まで、気付かないままでいたいから。
 ぼくは、ぼく自身として、誰の前にも立ってはいないのだろうかと思う。
 そうだ、シンちゃんだけは。
 シンちゃんだけは、ぼくと一緒で何も知らないから、ぼく、側にいると安心するんだ。
 それは逃げることなのかもって思うけど、ぼく、どこに行けばいいのかわからなくなるから。
 すぐ、シンちゃんの所に、行っちゃうんだ。
 ごめんね。
 あのね、シンちゃん……ぼく、時々、思うんだ。
 ……ぼくらに帰る場所なんてあるんだろうか。
 夢で、いつも海を見るんだ。
 広い広い、だけど遠い遠い海。
 ぼくは、そこで生まれたんだと感じて、それしか頼るものがないような気がして、精一杯に駆け出すけれど。
 でも絶対にそこには届かなくって、悲しい気分を味わう。
 シンちゃんは、この海は見ないんだよね。
 あの蒼を、きっと彼は知らない。



 でも、ぼくらは、流されているんだよ。
 あの海に向かって、投げ捨てられた小瓶みたいに、流されていくよ。
 いつか、辿り着くのだと思う。
 ぼくがいつも森の中で、シンちゃんに付いて歩くみたいに。
 きっと、ぼくはシンちゃんの跡を辿って、あの海に出会うのだと思う。
 だってシンちゃんの身体からも、あの海の香りがするんだよ。
 青の香り。側にいると、懐かしい気持ちになる……。
 ぼくたちは、来た場所から呼ばれている。
 あの海には何か大切なものが、待っているような気がしている。
 走ったって、転んだって、傷ついたって、いい。
 頑張るから、いつか。
 ぼくは、本当の自分と、出会いたい。



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 この場所を訪れるのは、もう幾度目だろうか。自分の靴音を感じながら、サービスは思う。
 軍本部は、自分にとっていつも忌わしく、懐かしく、冷たかった。
 軍用空港に降り立った今……先に長兄の元に赴くべきだったが、そんな気分にもなれずに、自分が足を向けてしまうのは、やはりここだった。
 サービスが研究所に行くと、高松は敷地の裏手で、風に吹かれていた。
「ああ、サービス。一段落ついたものですから。ここは少し寒いですね」
 月日が巡るのは早い。淡い色をした草々が身を縮ぢ込めて、次の季節を待っていた。
 高松が煙草を差し出したので、それを受けて咥えると、相手が顔を近づけて来たから直に火を貰う。
 吸うと苦い味がした。白い煙を、空に向かって吐き出す。それが立ち昇る先を見る。
 ……風が吹いている。
 長く伸ばした高松の黒髪と白衣。それがふわりと巻き上がり、いつか見た光景の擬似。
 吹く風に、どこか遠い所へとさらわれてしまった優しい兄。
 はかない横顔が、高松のそれに重なって見えて、サービスはかつて右眼があった空洞へと手を遣った。
 冷たい風が、その穴を吹き抜けていくような気がしたのだ。



「グンマ様が体調を崩されて。後で見舞って下さいよ、叔父なんですから」
「ああ」
 そう返事をしたのに、高松は厭味な顔を作って自分を見る。
「アナタ、グンマ様には冷たいですね。シンタローくんには気持ち悪い程に優しいのに」
 他者から見ればそういうものなのかと思う。
「……例の時に、グンマはお前が、シンタローは私が目を配ると……」
「フン」
 だからといって、自分がグンマに心を傾けないのは、責められてもしかるべきなのかもしれない。自分がシンタローにばかり構うのは、長兄への嫌がらせの意味もあるのだと言い訳してみようとも思ったが、高松には信じて貰えそうにもないので、止めた。
 高松の好む煙草の味は、きつかった。医者の不養生とはこのことだろう。
「グンマ様は、アナタのこと、お好きですよ」
「あの子は、誰だって好きだろう。嫌いな人間なんていないんじゃないか」
「確かに。あの方が誰かを嫌うとしたら、逆にその人間が特別だということかもしれません」
 何気ない言葉の裏に、自嘲の匂いを嗅いだ気がした。
 サービスは相手の大袈裟に肩を竦める様子に、美しい金髪を揺らし、空の向こうへと目を遣った。
 木々に囲まれた、鈍い色彩に広がっていく狭間の風景。馴染みのある空。
 同じ風が、今は自分と高松を嬲っていくのだった。
 同じく慕う人を失い、また同じ憎しみに燻る者二人を。
「ああ、被験者が来たようですね」
 その声で、サービスは再び高松を見る。
 少し離れた構内道路から、タイヤがアスファルトを滑る音がする。
 アナタも、来ますか。
 そう呟いて高松は、吸殻を足で揉み消すと、すっと白衣を翻し、研究所正面へと歩き出す。



 研究所のファサード正面に囚人護送車が止まる。
 高松がそれを迎えているのを、サービスは何とはなしに見守っている。
 被験者、と高松は言った。
 被験者という呼び名に隠された、その実をサービスは知っている。
 率直な嫌悪感を表情で示す自分に、高松が一瞬、ちらりとこちらを見て笑ったように感じた。
 それが、怖いんですか、と言っているようにも思えて、サービスはますます眉を顰める。
 ここで自分がこの場を立ち去れば、その言葉を肯定することになるようで、そのことが不快だった。
 囚人護送車だ。兵卒が拘束具をつけられた痩せた男を両脇から抱えるようにして降りてきた。
 精神安定剤を打たれているのだろう、暗いうつろな目をしている。
「第五実験室に運ぶように。その奥の廊下を進んで突き当たって右……」
 指示する高松は、また自分の様子に笑ったように見える。ただ、それが不快で。
 嫌々ながら、護送される男と高松の後を付いて、研究所の中へと入らざるをえなかった。



 実験室で何やら資料を渡されたが、とても読む気がしない。白熱光の下で、無機質に輝く試験机。
 サービスが、その上に書類の束を抛ると、乾いた音が白い部屋に響く。
 脇で高松が肩を竦めて言った。
「おやおや。私たちが長年、汗水垂らして築き上げた理論も計画も、アナタの前ではただの紙切れなんですね。」
「どうせ行き着く先は、殺人術の研磨に過ぎないのだろう。くだらない……」
「それが、あの方の研究を受け継いだものであってもですか」
 サービスは、険のある表情で高松を見た。
 彼は涼しい顔をして、兵卒に指示を出し、被験者の準備を進めている。拘束具を解かれ、下着一枚で台に横たえられる姿は哀れを誘った。
 茶色く異様に盛り上がり張り詰めたような、その肌。
 敬礼と厳つい靴音と共に、兵卒は研究室を出、自動的に電子錠が下り、二人と被験者だけが室内に取り残される。助手さえもいない。
 どうやらこの実験は機密事項のようだった。
 変色したその肌に器具をセットすると、高松は注射器で男の肘の内側の静脈から、血液を採取している。スライドで何かを確かめているようだ。
 そんな後姿を見ながら、サービスは呟いた。
「……ルーザー兄さんの研究……どうせ、マジックに命じられてやったものなんだろう。弟でさえ、野望のための駒の一つにしか考えていない人間だから」
 高松は答えなかった。



「何の興味も示さないあなただからこそ、私の顕示欲が掻き乱される訳ですが」
 しばらくして、硝子と金属の触れ合う音の中から、声が聞こえた。
「まあつまるところ、アナタの言う通りの殺人技法の追求。それをいかにスマートにこなすかが、研究者の腕の見せ所でしょう。今、私が何の研究をしているのかを御説明しましょうか。目的は生きた兵器の生産です。人の知能と最高の戦闘能力を兼ね備えた機動兵器としてのヒューマノイド……」
「くだらないと言っただろう」
 そう一刀の元に切り捨てて脇を向いたのに。
 高松は、手馴れた仕草で被験者の身体についた装置を弄くりながら、話を続けようとする。
「この研究の初期においては、その物理的装甲、つまり皮膚の硬度を高めることばかりに重点を置いていたのですが。それがある程度まで進むと、今度は物理を超えた力、超音波であったり化学、生物兵器であったりと、また他の攻撃に対処しなければならないという問題が出てくる。攻撃力と防御力のイタチごっこですね。きりがない」
 サービスは聞き流して、被験者である男を見た。
 枯れ木のような顔をしていたが、高松が鋭利な器具をその胸に当てた時に、少し開いた口から見えた歯並びが、異様に綺麗だと感じた。
 育ちのよさを示す印――サービスは首を振った。いけない。被験者の情報を持ちすぎることは、自分の精神にとって良くない結果をもたらす。
「……そして現在、私が直面している問題は、何だと思いますか」
 まだ話し続けていたらしい白衣の男。
「さあ」
 おざなりに、気のない返事をする。
「放射能ですよ」
 淡々とした声と、無機質な作業の音。
「アルファ線、ベータ線、ガンマ線……御存知の通り、放射能にも様々なレベルがありますが、現在その最終段階の中性子線までを防護することに、私は成功しています。しかしこの上に、耐熱という問題がある。そう、直接的な照射になら耐え得る構造を作ることができる。しかし問題は、低レベルでも中長期的な照射にある。じわじわと侵食する熱が、一番厄介です。防いでも防いでも、放射能の崩壊熱は身体を侵す」
 実験器具の立てる音が、止まった。
「つまり低音火傷。素朴なようで、最も深い傷。治癒さえ難しい」
 高松が、初めて自分の方を振り返った。相変わらずの食えない笑みを浮かべている。
「サービス。アナタのその凍りついた美貌は、見る者に痛みを与えますね。私などが触れればたちまち傷を負う。冷たい炎で焼き尽くされる。いつか私は言ったでしょう。人間、見かけだけでも楽しそうに暮らさなきゃ人生損です」
「……放っておいてくれ。お前だって」
「私ですか? 私は、これも以前に言った通りに。楽しいですよ。グンマ様がいらっしゃいますから」
「擬態か……それとも、あの子がルーザー兄さんを思わせる顔立ちをしているから……顔の造りだけなら、マジックででも代用したらどうだ」
 精一杯の皮肉にも、相手はてんで動じない。
「アナタも楽しみや希望を持つといいですよ。そんな冷たい心では」
 何やら機械の数値を確かめて、軽く眉をひそめてから。
「復讐といっても……それまでに身体が持ちません」
 そう言うと、高松は被験者の側を離れて、続きになっている別室へと向かった。



 すぐにキャスター付きの担架で、また別の被験者を連れてくる。
 今度は年若く、まだ少年の顔と身体をしていた。最初の男と同じように、空ろな目。
 まだ茶色い枯れ木になりきる前の、人間と道具の狭間にいる存在。
「こんな子供まで使うのか」
 唾棄するようにサービスが言うと、高松は『仕方ありません』と肩を竦めている。
「貴重な特殊能力者ですから。使えるだけ使わせて貰いますよ」
 そうして、また作業を再開すると、少年に装置を取り付けながら、聞きもしないのに勝手に語り出す。
「人の知能と最高の戦闘能力を兼ね備えた機動兵器、と言いましたが」
 死んだ魚のような表情をした少年を見ながら、ぼんやりとサービスは高松の声を聞いている。
 年の頃は、シンタローやグンマぐらいだろうか。
「例えば、アナタ方、青の一族。眉一つ動かさずに、簡単に人を殺すことができる。能力者によっては、何千人をも一度に……これは総帥のことですがね。そんな神話の存在が、皮肉にも科学の目指す最強の人間兵器に、最も近い……」
 一人殺すのも、何千人何万人をも殺すのも、同じことだと自分はふと思う。
 そのベクトルは同じで、どちらも等しく汚れていくということだった。
 どちらも等しく……地獄に堕ちればいい。
「世界各国はしのぎを削ってますよ。人工的に特殊能力を生み出すことはできないかと、ね。それには実際に、希少な特殊能力者を素材にして、実験を繰り返すしかありません。そしてこの研究は、すなわち青の一族そのものを探求することに繋がっていく……」



 外面的には物理的装甲、内面的には特殊能力、この両者を兼ね備えた存在を作り出すことが、私たちの目指す所です。
 だから、被験者に能力者を使うのが好ましい。
 贅沢ですけれど、と付け加えた後に、白衣の男は、こんなことを言い出した。
「先日、非特殊能力者……つまり特殊能力者によく見られるDNAの塩基配列を持たない人間……にしか発症しないウイルスの開発に成功し、士官学校生全員を対象に散布しました」
 何でもない風な素振りをして言うので、サービスは危うく聞き逃す所だった。
 育成するべき士官学校生にまで、実験対象にしたということだろうか。しかも全員と聞こえたが。
「何のために、私のような逸材が、士官学校なんぞの保健医をやっていると思いますか」
 高松は自分の反応を見て、不気味に笑う。
 一族のシンタローが入学したからではないのか、と言うと、それもありますが、と彼は続ける。
「現在与えられている任務の一つは、スパイの炙り出しです。潜入者は、勿論能力者自体が希少ですから全部が全部でないですが、何らかの特殊能力を持っている場合が多いのでね。この調査自体は、ルーザー様が始められた慣例の一つですが……しかし今は、血液検査だけでは信用できない時代なんですよ。これだけチェック体制を整備していても、潜入するスパイは減りません。あの手この手で検査を誤魔化そうとしてくる。なにしろ世界中に敵はいますから。軍に直接入る者、手の込んだ場合は少年に士官学校から潜り込ませて、長期的な復讐を企むこともある……気の長いことです、我々のように」
 そう淡々と話し続ける高松。その間にも手は休みなく動いている。少年の右腕が、ピクリと動いた。
「症状は微熱、悪寒、吐き気……風邪に似せてあるんですよ。その症状が出なかった、つまり特殊能力者であるのは、シンタローくん、総帥が事前に修行に出していたアラシヤマくん、そしてこの少年……とね。それで、今、この子はこういう事態に陥っているという訳ですよ」
 サービスは目を背けた。
 しかし、その背けた先には、最初の被験者の男の、奇妙に歪んだ身体があるばかりだった。
「ああ、その男とこの少年は、親子ですよ。小型哺乳類、特に猫等を操ることに長けているらしい……猫使いということで。まあ、例の誘拐事件の主犯格です。旧L国の残党で支配者に厚遇されていた一族だった。用心深く二手に別れて潜入していたようで……軍にだけではなく士官学校にまで潜入するとは、御苦労なことです。わざわざ憎い仇の発展のために、試験体に志願してくるんだから世話がない。それに親子とはまた都合のいい。世代間の遺伝的継承は我々の最大のテーマですからね」



 頭が痛かった。
 しばらく二人の間に沈黙が降りる。
 高松は、試験管の乾いた音を立てると、今度は調子を変えて聞いてきた。サービス、と、纏いつくような粘りをその声は滲ませている。
「……潜入者といえば。調べた限りでは、かなり昔から、その例はあったようですねぇ? 例えば私たちの学生時代はどうだったんでしょう」
 ちらりと自分を見る視線を感じたが、その意味する所はよくわからなかった。
 高松の視線は、探るような不躾なものだったが、この男が自分にとって不快であるのはいつものことだと思った。
 締め切られた窓が、かたりと小さな音を立てた。
「発見された潜入者は、利用可能であればこうして人体実験に回され、使いものにならないか……もしくは非常に危険性が高い場合は、闇で抹殺される……」
 聞きたくもない話題だとだけ、サービスは思う。
 こんな話を自分にしつこく聞かせたがる、高松の意図がわからない。どうせ嫌がらせなのだろうとは感じたが、常とは調子が違った。
 構わず、サービスは別のことを聞く。
「シンタローも、青の一族の特徴を持ってはいるのか」
 相手は肩をすくめた後、素直に話題転換に応じてきた。
「ええ、シンタローくんは発症しませんでしたからね。彼の身体は特殊能力者の特徴を示してはいます。ただ、それが何かの原因で発動しない。黒髪と黒目を持つ、異端児のまま。それを調べることが、まあこの研究の一つの目的でもありますが。総帥もこの点は気にされていますよ」
 サービスは鼻で笑う。そしてまた聞く。
「グンマはどうなんだ」
「さて。どうでしょう」
「まさかお前が……あの子の力を、意図的に発動させないのか」
 思いつきで言ってみてから、嫌な予感がした。
「青の力を増幅させる研究は、ベクトルを逆にするだけで、それを減退させる研究にも繋がりますからね」
 含みを持たせる言い方で、高松は鬱蒼と笑った。
 この男は……グンマに、何かしているのだろうか?
「あの子が秘石眼でありながら、力を燻らせているのはお前のせいか? 一族、それも直系の……あのマジックの子でありながら、特殊能力に劣り、体格に劣り、身体機能に劣るのはお前のせいか……?」
 シンタローの陰となって目立たないが、グンマもまた一族としては異端であるのだった。
 能力は発現せず、比較的小柄で、体が弱い。
 力を重んじる血統の中で、いわゆる『できそこない』であったのだ。
 それが、先天的なものではなく後天的なものであるとしたら――
 許すことはできないと、サービスは憤りと薄気味悪さを感じる。
「僕は、」
「おやあ、俺は、でしょう……?」
 見下すように言われた。その長年見慣れた厭らしい顔。
 そう、この男も、黒目、黒髪をしている。
「知っていますよ。シンタローくんの前では、アナタ、自分のことを『俺』と呼ぶらしいですね。どういう心境なんです? サービス。一人称の選択は、心理学的にその人間の自己呈示に大きく関わっているらしいですよ」
 その顔を見て、急にサービスは。
 どうして自分はこの男に付き合っているのだろうかと、全てを馬鹿馬鹿しく感じた。
 時間を無駄にしたと思った。
 踵を返し、立ち去るために研究室の扉へと向かった、その瞬間。



 突如、銀色の閃光がひらめいた。
「……」
 高松の右手に握られた、銀色の針。
 白衣から覗く胸のタイから、抜き取られたピン。その鈍い光沢が、自分の右目の空洞を狙っている。
 隙を突かれて、自分の身体は壁に押し付けられて、両腕は壁と高松の腕によって拘束された形になった。背中が冷たい。
 軽蔑したような表情を返すサービスに向かって、またうっすらと微笑む高松。
「アナタがここに来るのは、シンタローくんに会うためだけではないですね」
 切っ先の冷え冷えとしたかたち。
 その輝きを見つめていたら、サービスは、自分に迫る、この黒髪の男に。
 自分の失われた眼の奥から、その銀の光で忘れられない記憶まで抉り出して欲しいと、思った。
「……私の顔を見に来ているんでしょう。そして総帥の顔も。共犯者の顔と、憎むべき相手の顔を」
 ハーレムには会いもしないようですがね。
 不安なんでしょう。私や総帥の顔は、見たいんでしょう。
 それなら、ずっとここにいればいいのに。
 あれをやったのは、あの何でも持っている人を苦しめるためなのに。
 まるで加害者のアナタの方が、悶え苦しんでいるようですよ。
「アナタ、死なないでしょうね。あの方のように、命を絶たないでしょうね。もしそうするつもりになったら、私にアナタのその身体を下さい。私は、ただの特殊能力者じゃない、青の一族の身体を直接に調べたい。これまでのような表層的なものではなく、骨の髄までこの欲を満たしたい。切り刻まれて、淡いフォルマリン液を浸した標本瓶に浮かべた、透明板に貼り付けられた薄い切片になったアナタを見たい。細胞壁の隅々までを晒した、青の一族が見たい」
 そこまで言うと、高松は腕の力を緩めた。針を下ろし、サービスを解放した。
 小さく溜息をついている。
「サービス」
 そして、僅かに疲労を漂わせた声が、自分の名を呼んだ。
「孤独に自らを凍てつかせ、心を閉ざし、神話の中の氷の女王は、最後は悲しみにくれて死んでいったそうですよ。冷たい炎に身を焦がしながら……ね。あなたもそうなりますか」
「……」
「アナタの冷たい炎は、私にまで醜い火傷を作ろうとする。つまらないですね。そもそも私は、何故青の一族に関心を持ち、何故その研究に生涯を捧げようなどと決めたのか。始まりは確かにルーザー様でした。最初にルーザー様の青の研究を手伝い、亡くなられてからはそれを当り前のように受け継ぎ……そして今、私は何のために一人この仕事を続けているのか。いつも自問しますよ。私は理由のない現象は嫌いです。何故、私はこの白い部屋で消毒薬の臭いの中、生きた屍たちと対話し続けなければならないのか……」



 表情を変えずに、サービスは古き友であり共犯者である男を見た。
「お前は」
「私は苦しむのは好きですからね。アナタだって好きなはずだ。ただ……」
 その胸に刺し直した銀製のタイピンには見覚えがあった。
 ああ、これはルーザー兄さんの……。
「ただ……アナタは……意外な所で純情すぎる。だけどそんな所が、私は嫌いじゃないんです」
 そう言った後、いつもの調子に戻った高松は、また作業を再開し始めた。
 彼言う所の生きた屍を、苛み始める。不快な金属音や肌の裂ける音がした。
 もっと苦しむためには、楽しまなけりゃ、損です。
 そんなことを、白衣の男は呟いた。
 最後に、こう小さく聞こえる。
「私は……グンマ様を……青の呪縛から救って差し上げたい……」



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 総帥室に入ると、兄は秘書に手伝わせて、コートの袖に腕を通している所だった。
「来たか」
 彼は自分の顔を見ると、まずそう言った。
「残念だ。出かけなければならない。内乱が起きたと連絡が入った」
 さほど残念でもなさそうにそう言葉を続け、資料を確認している。
 手持ち無沙汰に窓の外を見ているサービスは、『そうですか』とだけ言った。
 どうでも良かった。意識の奥が混迷している。先刻の消毒薬の余韻が、まだ自分には残っているのだろうと思った。
 そのまま突っ立っていると、マジックは資料に目を遣ったまま、『今度は何の用だ』と尋ねてくる。
 この場所を訪れる理由など、自分にもはっきりとはわからなかった。
 心に淀む高松の言葉を振り払う。
「シンタローに会いに来たんですよ。おわかりでしょう」
 一番真実に近い答えを口にすると、相手は『だから、どうして会いに来たんだ』と問いを重ねる。紙を捲る音がした。
「さあ。シンタローが、あなたよりも僕を好きだと言いたがるのと、同じ理由なんじゃないですか」
 そう他人事のように答えてやったら、マジックは初めて紙面から目を離し、露骨に嫌な顔をした。
「いいか、あの子に余計なことはするな」
 そう責めるように言ってくるのを、自分は聞かぬ振りをする。



「総帥。お時間です」
「管制塔に連絡して、出発を10分遅らせるように。私はポートまで歩く……サービス。少し話そう。一緒に来なさい」
 車を使えば数分の軍内簡易空港に、15分かけて歩いて行こうというのだろう。
 サービスの方には、兄と話すことなど何もなかった。
 しかし兄は、戸口で棒のように立ったままの自分と擦れ違った時に、何かを手渡してきた。
 固い感触。サービスが自分の手を見ると、それは空の香水瓶だった。
「これはお前が持っていなさい……祈念式……慰霊祭には来なかったな」
 肩が触れ合う距離で、そう言われる。自分は答えなかった。ただ、16年振りの感触に、目を瞑った。
 ――ルーザー兄さん。
「しかし墓には行っているらしい。お前の思惑はわからん」
 当り前だ。この兄は、自分のことなど一生理解することはないのだろうと、サービスは思う。
 わかるはずはないのだ。そしてきっと、その必要もないのだから。
 そう思うとサービスは、兄の後をついて歩き出した。



 石畳に靴音が鳴る。
 機能美を滲ませる街路樹の並木道。軍本部構内は、夕闇に染まり、静けさの中に佇んでいる。
 警邏の兵士が、驚いたようにこちらを見て、直立不動で敬礼した。前を大股で歩いていた伍長の階級章をつけた男が、慌てて道を譲った。
 二人は連れ立ち、ただ歩く。
 沈黙したままのサービスに、とうとうマジックが苦笑した。高い位置から斜めに射るような視線。
「愛想のない。昔はあんなに可愛かったのに」
「それは過去の僕が、従順だったからでしょう。今は違うから。あなたの可愛さの基準なんて、扱いやすいかどうか、それに尽きる」
「随分と手厳しいな」
 薄く吹き抜けた風が、枝を揺らして音を立てた。風上は士官学校寮にでもあたるのだろうか。
 風に乗って、何処か聞き覚えのある歌が流れてくるような気がする。
 何の歌であったかは思い出すことはできなかったが、ふと懐かしさを感じる。
 甘い……記憶……。



 シンタローに会いに来た、か……と、兄は先程の自分の言葉を反芻している。
 何の文句があるのだと、サービスは空気を尖らせる。
「ハーレムは、私が、あの子の前では子供のようになると言うよ。だがお前は逆だな」
 サービスは、傍らの兄を睨むように見つめた。
 過去からずっと、見上げてきた顔。この年齢になり、サービス自身がかなりの高身長となってからも、それは変わらなかった。
 それを見て、相手はまた少し笑った。
「気負っているのか、何か存念でもあるのか……シンタローに対するお前は、やけに大人びて……こういう言葉使いはおかしいな、やけにあの子の理想であろうとしているように見える」
 常に私たちは逆だな、とマジックは呟いて、微かに歩調を速めた。
 今度はサービスが、心の中で彼の言葉を反芻している。
 我知らず、立ち止まった。



 そんな自分に、兄は道の少し先で、振り返った。
 沈黙が二人の間に降りる。しかしそれを破ったのは、やはり兄だった。
「……お前と私は、最も相容れない者同士。常に逆だ。お前は私に今さら何を求めているのか、全く読めない。私はお前がわからない」
 サービスは無言で、側の街路樹に目を移す。
 枝の狭間に、崩れかかった鳥の巣があることに気付く。
 小さな泥のかたまりは、緩やかな風に吹かれて、少しずつ少しずつ零れ落ちていくのだろうか。
 長い金髪を掻き揚げると、サービスは口を開いた。目は、鳥の巣を見たままだった。
「あなたと僕は、最も相容れない者同士。だけど……」
 そしてそのまま、再び口を閉ざす。
 また沈黙が訪れた。風に梢が揺れ、葉がさざめき、泥は乾いている。
 微かな音楽が聞こえる。
 サービスは心の中だけで、言葉を続ける。
 だけど……。
 あなたと僕は。
 いつも、同じ者に、惹かれる……。



 ふとこの瞬間、サービスの心に蘇る記憶。
 昔。途方もなく幼い頃。脳裏に残る、断片的な映像。
 どういう経緯だったか覚えてはいないが、幼い自分とマジックは手をつないで、二人で道を歩いていた。
 あれは何処の道だったのだろう、避暑によく出向いていた高原だろうか。
 とにかく、自分たちは歩いていた。
 これだけは今と同じように、マジックは、何くれとなく話しかけてくる。
 自分は、そんな兄を見上げながら、手を引かれるままに歩いていた。
 兄の手は冷たい。大きくて長い指をした、暖かそうな手をした兄だったのに、その手は、触れるとどうしてか冷たい匂いがするのだった。
 そして、二人は歩いている。踏みしめる地面の音が、二人の会話を包んでいた。
 幼いサービスは思ったのだ。
 この兄は、ひと時もじっとなんかしていないハーレムの面倒を見ていることが多かったので、こうして自分だけが、彼に手を握られていることは、ひどく珍しいことだ、と。
 しばらくして、マジックが立ち止まる。サービスは、ぼんやりと兄を見上げた。
 しかし兄は、じっと空を見つめていた。そして、嬉しそうに呟いた。
『風の花だよ』
 晴れていたはずなのに。冬は終わったはずなのに。
 天上からは、淡い粉雪が、ちらちらと舞い落ちていた。
『綺麗だなあ! こういう季節はずれにちらちら降る雪を、風花と呼ぶんだよ、サービス』
『……かざはな……?』
『ああ。今日は冷えると思った。山の方の雪が風に流されて来たんだね。まるで妖精みたいだ!』
 ルーザーがこういうのは詳しいんだけどなあ、と兄が言う。
 サービスは、空に向かって左手を伸ばした。
 雪の花が、欲しかった。でも、花は自分の手が触れる度、すぐに溶けて消えてしまう。
 何度も何度も手を伸ばしたのに、自分はそれを手に入れることができなくて。
 最後には、兄に抱き上げてもらって、高い位置から空に向かって手を伸ばした。
 それでも、風花は、消えてしまうのだった。
『もう、サービスは仕方ないなあ。お前、僕に抱っこしてもらいたかっただけなんじゃないのかい。ハーレムとどっちが甘えん坊かな』
 そうして冷たい手で自分を抱え直すと、苦笑したマジックはそのまま歩き出した。
 抱かれながらサービスは、何だかもう雪の花なんて欲しくなくなっている自分に気付いたのだ。
 もう風花には目もくれなかった。
 兄と同じ高さから眺める風景が、後ろ向きに流れていくのだけを感じていた。
 そんな、短い映像。



 今、サービスは、立ち止まった兄が踵を返し、再び歩き出したことに気付いた。
 もう抱き上げてはくれない。自分はその後をついて歩く。
 前を行く背中に、何をぼんやりしているのだと言われたような気がして、意識を現実にと引き戻す。
 美しい高原は何処にもなく、本部構内の規則正しい街路樹ばかりが、立ち並んでいるこの風景。
 ここで、もし雪が降っても、それは花には見えないのだろうとサービスは思う。
 ただの雪にしか、見えない。掴もうとしても、すぐ消えるはかない欠片。
 それが今の彼と僕の関係。
「……」
 目の前で、マジックが溜息をついたのがわかった。広い背中が言う。
「私から話そうと言ったが。お前の方に何か言いたいことがあるようだ。存念があるなら早く言いなさい。お前との時間は、実り少なく非生産的にすぎる。無駄ばかりだ。全く意思疎通ができない」
「……合理性を重んじ、青の未来ばかりを第一に考えるあなたですが」
 さらけ出したい存念などなかったが、口を開けば、それなりの言葉が出てしまう自分。
 この十数年、兄とは擦れ違ってばかりいた。
 お互いに避け、会えば諍い、表層的なことばかりを口にして。こんな風に、わずかの時間さえも、話をすることなど、ほとんどなかった。
「非生産的で不合理で実りのない時間。その刹那に、兄さん、あなたが身を置いたことなどなかったと仰るのですか」
 自分の拘りも。過去も。この人には全て無駄なこととして、切り捨てられていくのだろうか。
 自分も、捨てられた一つの駒にすぎないのだろうか。
 サービスは再び立ち止まった。
 兄の後姿は、今度は立ち止まらなかった。
 振り返りもしなかったが、その顔は、きっとあの表情のない顔をしているのだろうと思う。



「かつて、お前と私は……同じ香りと」
 しかし声が聞こえた。
 香水瓶を固く握り締めたサービスの手が、微かに震える。風が吹いて木々を揺らし、また遠くから淡い歌声を運んできた。
「同じ音とを……共有していた……」
 そして、背中が遠ざかって行く。
 全てを拒絶しているような背中。自分から離れて、小さくなっていく。
 少しずつ少しずつ、崩れ去る泥のように、自分は彼に忘れ去られていく。
 サービスは、叫ぶ。
「兄さん……同じ香りと音でも。あなたと僕では感じ方が違う。いや、違った。僕の拘りは、そんなにあなたにとって、くだらないことなんですか。僕が大切にしたいと思うことは、そんなに無駄なことなんですか……」
 答えは、なかった。



「兄さん」
 サービスは、長い睫毛を伏せて、今度は小さな声で呟いた。
「あなたに、忘れ去られていくものは、何ですか」
 答えばかりか姿もない。声はただ、硬い石畳に反射して消えた。
「取り残されていくのは……僕だけですか」
 こんな風に、常に背中は去り、そして僕は残される。
 共犯者の高松でさえ、何処か変わり始めているというのに。
 僕だけは……。
 鳥の声が聞こえたような気がして、サービスは空を見上げたが、そこには何もなかった。
 自分の足元から伸びる、道の先にも目を遣ったが、兄の背中もすでに消え去り、姿はなかった。
 もうあの歌は、聞こえなかった。
 彼は、その柔らかい金髪に人差し指を絡めると、踵を返す。
 歩き出しながら一人、自分に向かって囁く。
 青の資格を自ら失った僕に残るのは、ただ呪縛だけ。右眼の空洞だけ。
 失った未来と、過去だけ……。



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 サービスはベッドに腰を下ろした。部屋を見渡し、そのあまりの変わらなさに睫毛を揺らした。
 士官学校寮を訪ねた自分。
 今日自分が本部に到着することは知っていたらしいが、突然の寮への訪問に、シンタローは目を白黒させていた。
 正面玄関や廊下から、そして今は半ば空いた扉の隙間から。
 物見高い学生たちが、おそるおそる自分を伺っている。その好奇の視線。憧れと好奇心とあどけない期待が入り混じったような。これも久し振りだと、思い返す。
 その視線に悪意は込められてはいなかったので、ああ、シンタローはここでも好かれているらしいと、安心する。
 サービスは一人、長い足を組んだ。綺麗に片付いている室内。
 床に大き目の鞄が出してあるので、シンタローはいつのもように、今晩は自分と本邸で過ごすつもりだったのだろうか。
「オラ、どけどけ。オメーら、見世物じゃねーんだから、自分の部屋戻れよ」
 人込みをかき分けて、シンタローがやってくる。給湯室で紅茶を入れていたようだ。
 その同級生への声に、何処か自慢げな香りがして、サービスは苦笑した。
「へへ。お待たせ、おじさん! ごめんな、あいつら暇なもんだから煩くって」
 バタンと扉を閉めたシンタローは、カップを乗せたトレイを持って、白い歯を見せた。
「突然来たんだから、俺に気を使わなくてもいいよ。それよりお前、勉強はいいのかい」
 机の上には、教科書と書きかけのノートが広げられ、鉛筆が転がっていた。
「もう。おじさんまで、俺をガキ扱いすんだから。ンなの大丈夫!」
 シンタローはわざとらしく眉を吊り上げると、ばふっと音を立てて、ベッド端の自分の側に座った。
 紅茶を手渡してくる。暖かい。
「俺、もうガキじゃねーよっ!」
 そう口を尖らせる様子が、まだ幼かった。
 この部屋を自分が訪れるのは、初めてだった。いつか見に来てくれと、会う度にこの甥にねだられながら、先延ばしにしていたのだ。
 自分は、この場所に来ることを避けていた。



「おじさん! まだ先だけどさあ、卒業式に来てよ! 俺、絶対首席で、ナンバーワンで卒業するから! 答辞読むよ!」
 士官学校の二年は短い。あっという間だ。
 楽しみにしてるよ、と自分が言うと、シンタローは心底嬉しいという風に笑う。
「へへ。俺、頑張る」
 そうして、鼻の頭を擦っている。
 サービスはそれを微笑ましく思ったが、同時にこの子にも一番にならねばという切迫感があるのだということを、今さらのように感じる。
 かつて自分もそうだった。
 この最優秀者だけが使うことのできる部屋を得るために、必死だった。
 あの人の弟であるということと、一人息子であるということは、多少は重荷の種類が異なるものであるのかもしれないと、サービスは想像してみたりもするのだが。
 だが、何もかもが同じだった。
 この部屋も、青のしがらみも、この幼さも。この自分の側にいる姿も。
 天井に立ち昇る紅茶の湯気。



 サービスは腕を伸ばして、壁の傷に手を触れた。ベッドのサイドボードのすぐ側に、それはある。ナイフか何か鋭いもので抉ったような跡。
 その切り口は、ざらりとして、過去と同じ感触がした。
「あ、おじさんの頃もあったんだよね、それ! あ、あ、このラジオもだよね! もー雑音ひどくってさ!」
 シンタローもベッド脇に手を伸ばし、ウキウキとした様子で、旧式のラジオのダイヤルを操作し始める。
 この子は、自分と何かを共有できることが嬉しくてならないのだと思う。
 かつて自分も幾度となく触れた、黒塗りのラジオ。それはやはり過去と同じく鈍く艶光り、同じ雑音を立て、音楽を奏で始めた。
 サービスは、シンタローが入れた紅茶を、口に含んだ。すると、相手も自分の側で、慌てたように紅茶を啜った。
 その様子がおかしかった。柑橘類の味がする。



 ――青の象徴。
 持ちながらに、失った僕。初めから持たない、この子。どちらも同じ、持たざる者。
 この子は、その香りを無意識の内に感じ取って、それを頼りに自分に懐いてくるのだろうかと思う。
 同病相哀れむという所なのだろうかと、サービスは自嘲気味に笑った。
 その笑みを、好意的に解釈したのか、シンタローも嬉しそうに笑った。
 紅茶の味に対する賛辞とでも受け取ったのだろうか。
 好意的。この子は、僕に対して好意的解釈しかしないと、サービスはまたおかしくなった。何を過大評価しているのだろうか。
 そして、この子の前だけでは……誇り高い人間として……立派な叔父として、振舞う僕。そう要求される僕。
 それがはがゆくもあり、何処か嬉しくもあり、その感情は時には理不尽な疎ましさにさえ変わった。



「グンマがここんとこずっと具合悪くってさ、俺、結構前だけど、肝試しに連れ出しちまって……それからずっと長引いてて……」
「さっき顔を見てきたよ。随分辛そうだった」
「あ、おじさん! これ見てよ! 俺、こないだ表彰されたんだぜ!」
「おじさんは、一日何時間勉強してた?」
「俺さ、この前みんなで街に行ったんだぜ! そしたらさぁ、ミヤギってやつが、巨大な筆を背負って行こうとするから……」
「裏庭に、デッカい錦鯉がいるんだ! 一回見てよ、おじさん! きっとびっくりするぜ! あー、でもおじさんには見せたくないかな……あえて」
 他愛のない話。ラジオのありきたりな流行歌だけが小さく響いている。
 先刻、並木道で微かに聞こえた歌かもしれないと思った。
 過去に聞いたかもしれない歌かもしれないと思った。そうかもしれないし、そうでないのかもしれない。
 白い壁の、傷がやけに目について、離れない。
 同じ……。
 この場所で、あの日と異なるのは、サービスだけだった。
 自分だけが無為に年を重ね、懐かしいものたちから取り残されていく。
 失った体温、青の眼、残るのは冷たい情念。
 過去に……あの日に、戻ることができたのなら。今、あの全ての終りを導いた初陣の前の自分に、戻って人生をやり直すことができたのなら。
 ここに。この場所に。
 側にいて、邪気のない話をして。
 自分を嬉しげに見つめてくれるのが、ジャンであったのなら……!



「……っ」
 サービスは、自分の口を手で押さえた。
 突然、胸の奥から込み上げてくるもの。身体の芯を伝い、じわじわと這い上がってくる何か。
「おじさん! 大丈夫?」
 驚いたらしいシンタローが、俯いた自分の肩に手を掛けてきた。
 その手の感触が、やけにリアルで、サービスは息を呑む。
『初陣が終わったら、俺の話を聞いて欲しい』
 蘇る懐かしい声。
 同じ音楽。ああ、やはりこの曲は、あの時と同じ歌。
 過去と現在、同じこの部屋。
 黒髪、黒瞳、同じ顔。
 そうだ。この子は、声まで同じなのだ。
「おじさんってば! あ、あ、グンマの見舞い行って、風邪、うつったのかも! 今度の風邪、ヒッドイってみんなが!」
 まるで見当違いの心配をしたり、こんな自分を最上の存在として、無条件に信頼を寄せて来る所まで同じで。
 ジャン……ああ、ジャン。
 お前は殺される最後の瞬間まで、僕のことを信じていてくれただろうにね。
 僕が素晴らしい人間であると、美しい人間であると、最後まで誤解していてくれただろうにね。
 その裏切り。裏切り者の僕。
 罪に触れると、僕の心はぞくぞくと震える。高まりの予感を感じて、身が熱くなる。
 今度は息を飲み込んで、サービスは凍えた人のように、自分の腕をぎゅっと握り締めた。
 自分は許されない人間だと思った。



 音楽が流れている。
 サービスは、心配そうに覗き込んでくる甥を、安心させるように微笑んだ。
 すぐに顔を顰める。息をつく。
 今度は別の人間に助けを求めるように、心の中で呼ぶ。マジック――
 兄さん。ああ、兄さん。
 同じ香りと音を、僕たちは共有しているのだと、あなたは言った。
 視覚だって、共有していますよね。そしていつも、その感じ方は違う。
 あなたがシンタローを愛するが故に、ジャンの面影を忘れ去りたいと願っているのならば、僕は、ジャンを愛するが故に、シンタローの存在に苦しみを感じている。
 戻れない過去を想い、身を苛む。
 シンタロー自身は、僕にとっては何であるのということに、戸惑い悩む。
『お前と私は、最も相容れない者同士。常に逆だ』
 あなたと僕とは、常に正反対でありながら、同じ道を辿ろうとする。
 兄さん、本当にわかってるんですか。
 あなたと僕は、いつも同じ者に、惹かれる――



 サービスはいつの間にか自分が目を瞑っていたことに気付き、ゆっくりと目蓋を開いた。
 シンタローがいつもの距離より近い位置にいる。
「……」
 見詰め合った。
 たった数秒のようにも、もっと長い時間のようにも思えた。
 数cmの距離が近くて遠かった。
「おじさん……?」
 我に返り、サービスは自分の額に手を遣った。冷たい汗を感じる。
 今、僕は何を。
 自問の後、やっとこれだけを口にする。
「シンタロー……いつか、俺の話を聞いて欲しい……」
 相手は不審そうな顔をしている。
 話せる時が来たら。いつか――これだけは伝えたい。
 お前と同じ顔をした男が、過去に僕の側で生きていたことを。そして、もう戻らない、僕の捨てた右眼のことを。
 黒い罪の姿をした、この子に。
 襲い掛かるもの全てを振り払うように、サービスは乾いた唇を震わせる。
 シンタローの気遣わしげな視線が、肌に痛かった。音楽が意識で遠のき、また近付いた。
「心配ない」
「おじさん」
 サービスは、黒髪の甥を、手で制する。目を瞑って、開き、笑顔の形を作る。
 もう一度、言った。
「心配ない。大丈夫。もう……昔の、ことだよ……」



 寄せては返す海のように、時間は巡り、繰り返し、失われた日々へと僕を誘う。
 どうしてなのかはわからない。何が本当で嘘なのかもわからない今、僕は。
 ただ、帰りたい……全てを捨てて、帰りたい。
 終りの初陣。彼を殺した、あの瞬間の前の世界に。
 あの安らぎの時間へ、美しい人々が紡ぐ時間へと帰りたい。
 光の日々と、その匂いに包まれていた時間へと。
 マジック兄さん、ルーザー兄さん、ハーレム、高松……。
 ジャン……。
 そしてまだあどけない表情をしていた頃の僕自身へ。
 帰る……?
 ……いや、還る。
 何かもっと大きなものに。遥かな先の真実へと。
 僕らは流されながらも、向かっている。
 闇の中で、粘ついた泥と血に塗れながらも、壊れながらも、あの日に還りたいと願っている。





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