あなたへの時間

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 春の色は淡い。
 立ち並ぶ風景の輪郭は、どの季節とも変わらないはずなのに、どうしてか春はふんわりと優しく世界を包んでくれる。
 全ての色がほんのりと浮き上がり、息を潜めていた草木や生物たちが顔を出し、嬉しげに笑い出し、一つに溶けていくような感覚を作り出す。
 光のヴェールが、瞬きをする度に、きらきらと揺らめいた。そんな、薄紅に香る空。
 それに向かって、両腕を大きく伸ばして。シンタローは、深呼吸をし、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
 柔らかさの溶け込んだ空気は、甘い味がするような気がしたので、少し笑って、春の中を駆け出した。
 明日。彼は、士官学校を卒業する。



 講堂の正面からは真っ直ぐに並木道が伸びており、満開の桜がその直線を彩っていた。何事にも凝り性のマジックが、日本から桜を移植してこの道を作ったのだという。
 明日の卒業式に向けて、周辺は封鎖され、幾人かの兵士が警戒態勢を布いている。外部からの来賓がある式典の前日は、こうなるのが常だった。
 学年首席として、卒業生答辞の予行演習を終えたシンタローは、講堂を出ると、桜並木をちらりと見て。反対方向へと踵を返し、裏手の丘へと向かった。
 桜は、講堂裏から各種会館や訓練場を抜けた、小高い丘にも植えられている。同級生たちと、卒業祝いを兼ねて花見をする約束をしていたのだ。
 浮き立つ心を抑えながら、シンタローは駆けて行く。
 彼は、桜が好きだった。
 幼い頃住んだ日本の家に、桜があったからだろうか、見ていると何だか懐かしい気持ちになるのに加えて。
 日常に華やかな色が増えるというのは、それだけで楽しいことだった。
 空間の色が、変わること。
 シンタローは、美的感覚以前に、そんな自然の移り変わりそのものを愛することのできる人間だった。



「って、お前ら……何してんだ」
 てっきり先に宴会を始めていると思った同級生たちが、丘の裾野の草原で、膝を抱えて座り込んでいる。
 その目が自分を見、助けを求めるように縋り付いてきた。
「シ、シンタロさ〜んっ! たたたたた大変なんだべッ!!」
「おおっ、よーやく来たかァ、シンタロー!」
「トットリがぁっ! トットリが、大変なんだべ――――ッッ!!!」
 随分慌てた様子だ。
 トットリが、とミヤギが言うように、仔犬のような目をした同級生は、辺りを見回してもいなかった。さやさやと風が緑の草木を揺らすだけ。
 一体どうしたのだろうか。



 落ち着かせて話を聞いてみれば、花見のためにトットリが席取りをしていたのだが、後からやって来た集団に場所を横取りされたのだという。
 そしてトットリはその連中に捕まったままだとか。
「オイオイ、大変じゃねーか!」
「んだ! オラたちも、トットリを取り返しに行ったんだども……」
「なんせ、相手はやたら腕っ節の強いオッサンたちでのう。なんせこっちは二人……ワシもダウン起き上がりを披露するんで、精一杯じゃったけん」
「いや、二人って」
 シンタローは、ミヤギとコージの背後に座り込んで、黙々と草を引っ張っては抜いている人間に目をやった。
 思わず小声になる。
「……アラシヤマは? あいつ暗いけど、こーいう時は少しは役に立つんじゃねーの?」
「それがダメなんだべ! ゼッタイに、ここを動こうとしないんだべ! なんちゅー冷たいヤツだァ!」
「もうちっと、頼りがいのあるヤツじゃと思っとったがのォ」
 そんな二人の苦情をどこ吹く風に、アラシヤマは何やら一人ぶつぶつと呟いている。
「フ……フフ……桜と言えば京都なんどすえ……嵐山、平安神宮、二条城……円山公園の枝垂れ桜は樹齢三百年で、ここの移植してきた桜なんぞとは年季が違いますわ……」



「まったく、アラシヤマはこのとーりだべ。それにシンタローさん、さっきから、悲鳴みたいなのが聞こえて来てよぉ……オラ、心配で、心配で!」
 そのミヤギの様子にシンタローは、やっぱりこいつらはベストフレンドなんだなぁと感心してしまう。
 報われてんじゃん、忍者少年。
 そして言われてみれば、丘の上から風に乗って、何やら金切り声が聞こえてくる。悲鳴のような叫びのような。
 シンタローは、ぞくりと背筋に冷たいものを感じた。何か良くないことが起こっているのか。
 嫌な予感がする。
 ……トットリ……!
「……行かん方がええどすえ……」
 思わず足を踏み出したシンタローに、突然、口を開くアラシヤマ。
「ああ?」
「行かん方がよろしゅおす。いくらあんさんかて、ただでは帰れまへんで……」
 その珍しく真剣な様子は気にかかったが、シンタローはそれを気にせず、丘へと向かう。
 見捨てては、おけなかった。



 なだらかな丘の斜面に沿って、桜が咲き乱れている。
 ふわり、ふわりと花びらは風を泳ぎ、ぺたりとシンタローの制服の襟に貼り付いてしまう。
 指で触れると、優しい感触がして、再び花びらは風に乗る。空に向かって舞い上がり、シンタローと後に続く少年たちの頬を桜色に染めた。
 新緑、希望の色。丘は春の美しさに包まれていた。その美しさの中に、明らかに異質な集団がいる。
 シンタローは、その中心にいる人物を認めると、脱力しそうになった。
 ああ……出たよ、親戚……。



 一際高く、キエ――――ッ! という高音の奇声が鳴り響いて、シンタローたちは慌てて耳を押さえた。
 訓練のように条件反射で身を伏せる。はらりと空気の振動で桜の花が散る。
「……?」
 恐る恐る顔を上げて窺うと、黒のチャイナ服で盛装した男が、恭しげに一礼しているのが目に入った。パチパチと拍手が沸き起こっている。
「おー、さすがはマーカー。引き裂かれたタンチョウヅルの断末魔のマネ、サイコーだぜ
「……中国伝統、京劇です、ハーレム隊長」
「うっ……うっうっう……ぐおおお……いい話だ……クマさんが可哀想だ……」
「G。クマはお前の心の中で冬眠中だ」
「イエ〜イ じゃあ次は俺が手品をするぜェ〜
 マーカーと呼ばれた男のかわりに、今度は金髪タレ目の大柄な男が、立ち上がる。



「さあ〜て、ここに取り出しましたのは、牛乳 ノンホモ低温殺菌の高級品だぜェ」
 男は懐から1リットルの牛乳パックを取り出すと、それを高々と掲げ、ゴクゴクと飲みだした。
 プハー、と飲みきると、背後に空パックを放り投げ、ニヤリと笑った。
「牛乳は消えました。しかしアラびっくり、消えた牛乳は、すぐに俺の下半身から……」
 カチャカチャとベルトを外し、ズボンを脱ぎ始める。
 ボッ!
 燃える炎が男を包んだ。
「下品すぎるぞイタリア人――――ッッッ!!!」
 勢い良く燃え上がった男は、先ほど奇声を発していた男に向き直る。
「ギャハハハー やるかぁ、チャイニーズ!」
「消炭になれ、イタリア人!」
「う、うおおおお……ケンカはやめろォ〜、俺たちは同志じゃないかァ〜」
 呆然とこの光景を見ているシンタローの顔は、青ざめている。
 何。この人たち……前に聞いたことのある、おじさんの部下?
 あちこちに酒瓶が転がり、プーンとアルコールの匂いが漂ってくる。



「シンタロー、ほれぇ、アソコじゃ。アソコにトットリが息を潜めておるわ」
 コージが囁きかけてくるのでシンタローは、彼の指し示した場所に目をやった。
 一番大きくて立派な桜の木、その真下だ。ハーレムが胡坐をかいて座っている、そのすぐ側に、一本の竹筒が、にゅっと地面から突き出ている。見るからに不審な竹筒。どうしてこんな所に。
 まさか。
「トットリは、土遁の術で花見の席取りしとったらしいんじゃが、あのオッサンたちに奪われて……」
「まったくオーボウなオッサンたちだべ!」
「桜の木の下にはトットリが埋まってんのかよ! 死体かよ! そんな席取りあるかァーッ!!!」
 あれは空気を吸うための竹筒か! と、ぜいぜいと息を荒げるシンタローの大声で、嫌な親戚、ハーレムがこちらを向くのがわかる。
 そして自分と目が合った瞬間、ニタァ〜っと笑った。
「おんやぁ〜、まぁた士官学校のガキんちょドモが現れたぜぇ? 今度はお坊ちゃままで連れてよォ」
 その言葉に、一斉に騒いでいた大人たちが振り返る。



 ここは面倒臭いことになる前に、素直に事情を話してトットリを助け出してやろうと思うシンタローである。
「あのさ、ハーレムおじさんさぁ、その場所にさぁ、」
 しかし皆まで言わぬ間に、瞬時にハーレムの酔った目が、ぎらりと光る。
「あんだとォ……オメェもこの場所、奪おうッてーのか……ふてェ野郎だ」
「いや、違うってば。ちょっとソコどいてくれればいいだけだって。だからアンタのその下に」
「こいつァ、思い知らせてやらねーと、いけねーみてぇだなァ……」
 不穏な気配を感じて、思わず身構えるシンタローとミヤギ、コージ。三人はゴクリ、と唾を飲み込んだ。
 ゆらり、と立ち上がる金色の獅子舞。部下の名を呼んだ。
「マーカー」
「はい」
 その瞬間、シンタローたちの周囲を、ごうっと炎の壁が取り巻く。
 何だよ、こいつらも特殊能力者? くっ! 閉じ込められたッ!
 獅子舞が炎の向こうで、笑っている。
「ククク……逃げられねーゾ、ボーヤたち……」



 そして。何故か自分たちは、ハーレムたちの前で、芸を披露することになってしまっていたのである。
「いいかァ! 俺やコイツらを笑わせるか、驚かせるコトができたら、話、聞いてやろーじゃねェのよ。コイツらの芸、見ただろォ? 対決ってワケだ」
 勝手にそう決めてしまった叔父を、シンタローは恨めしげに眺めた。
 俺、芸なんかないっつーの。
 胡坐をかいただらしない格好で、足をボリボリかきながら、缶ビールを呷っているハーレムの姿である。
 やたら上機嫌。柿ピーやスルメの足が、むごむごとその口に放り込まれていく。しわくちゃの競馬新聞が、風に揺られてバサバサ音を立てている。
「こん人、まさか……シンタローさんの……叔父さんだべか?」
「そーいやあ、訓練試合やら慰霊祭で見かけたコトあるのォ」
 そう同級生たちに囁かれると、赤面してしまうシンタローであった。
 う……ナンでこの人、双子なのにサービスおじさんと正反対なんだろう……。
 背後では、相変わらずいい大人たちが、ぎゃんぎゃん諍いを続けている。
 かと思えば、
「よーオ、お坊ちゃまァ〜 ギャハハハ」
 突然、背後からすでに半裸になった男が、抱きついてきた。壮絶に酒臭い。
「お坊ちゃまはラッキーだぜェ 俺が酔ってる時にしか聞けねェイタリアンジョークを教えてやっぜー」
 シンタローは思いっきり顔をしかめた。
「いや、いいって……つーか重いから。あとその呼び方やめてほしいんだけど」
 しかし構わず、立て板に水で喋り出す男。
「男が美形をナンパして、コトに及んだ。しかし『お粗末』と言われてしまった。すると男は怒って言った――何を生意気な! たった20秒でお前に俺の何がわかるというんだ!」
「おもんないわ、敗戦国民」
 ボボッと男が再び中国人の炎で燃え上がる。
 ギャアギャアと続く諍い、そしてその隣でまた『ううう……たまには笑ってやってもいいじゃないか〜〜』と号泣しているゴツい男。ドイツ人らしい。
 なんだか、色んな国の人。ハタ迷惑な酔っ払いたち。
「へっへー、俺の部下たちよ 通称、特戦部隊っつーんだ! まぁだケチくせぇマジック兄貴の許可は降りねーんだけどヨ! 戦場の鬼っちゃあ、俺らンコトよ」
 口からスルメの足を覗かせながら、得意気に部下を紹介している、およそ英国人らしくない英国人、ハーレム。
「おじさんの部下ってさあ……」
 この人たち……。
 シンタローは思った。
 この人たち、もう少し年相応に落ち着けばいいのに……。



「すかたねーべ……ベストフレンドのためだァ! オラが友情の一発芸を見せてやるべ!」
「え、ミヤギ、お前」
「よっしゃあ、行けェ、ミヤギ! 骨は拾ってやるけんのゥ!」
 意外にも一番手に名乗りをあげたのは、ミヤギだった。
「トットリの忍術にィ、ヒントをもらった芸だべ!」
 ヒューヒューとイタリア人の口笛、ハーレムの野次が飛ぶ。きっちり観戦体勢に入っている中国人とドイツ人。
 シンタローの観察は続いている。この人たち……実は、連携の取れた素直な人たちなのかも……。
「一番! 東北ミヤギィ! 脱ぐべ!」
 どっと特戦部隊が沸く。やんややんやの喝采だ。
 ある意味、衝撃の展開に、シンタローは目を丸くする。あのミヤギが!
 するとミヤギは制服の上着を一枚脱ぎ捨てて、そのままトコトコと、桜の木に歩み寄った。
 そして樹の部分に、がしっと抱きつく。
「セミ・ヌード!」



 しーん。
 辺りは静まり返った。
「……」
 その様子に、ミヤギはたたみかける。
「セ、セミだべ! ミーンミーン」
 静けさは増した。
 やっちゃった。



「……」
 不穏なオーラを纏ったハーレムが、立ち上がりかける気配がした。
 不味い、と感じた。ミヤギの身が危ない。
 骨は拾ってやる、というコージの言葉が現実になるかもしれない、とシンタローが身を動かしかけた瞬間のことであった。
「……いいと……思います……」
 ボソリとドイツ人が口を動かして、一同は青ざめた顔を彼に向けた。
「なんでだよッ! G! 明らかに氷点下を越えたパフォーマンスじゃねーかよッ!」
「待て。よくGの目を見ろ、ロッド」
 言い募るイタリア人を手で制し、中国人が冷静に言った。
「あれは、木登りクマを思い出している目だ……! あの木に抱きついた少年がクマに見える程、ヤツはクマに飢えているということだろう……! 察してやれ! ロッド!」
「ぐ……うう……ここんとこ暖かい国の任務ばっかで、クマとは会えなかったかんな……う……俺のジョークポリシーがァ……」
 それを見て、生暖かい目をしたハーレムが、力無く座り直した。
 い……。
 シンタローは、地面に向かって訴えかける。
 い……いたたまれねェッ!!!



 何とか難を逃れたらしいが。
 ミヤギはそんな事情に全く気付かず、スキップまでしてシンタローたちの所に戻ってくる。
「へっへ、どうだったべ〜? オラの芸は! あれェ、シャレになってんだべ! セミっつーのがなァ」
「説明しないでいいから、とにかく座りやがれ。口を開くな。お前、今、命の危険に晒されてたんだゾ……知らぬが仏って、こーいうコトなんだなあ……」
 感慨に浸るシンタローを他所に、『ほんじゃあ、ワシが行こうかいのう!』とコージが隣で足を踏み出す。
 溜息をつくとシンタローは、相変わらず桜の木の下で、飲んだり食ったりしている親戚を横目で眺めた。
 その様子に、思わず口を出してしまう。
「おじさんさぁ、まった吸殻とか食べかすとか散らばして。汚いからやめれば」
 相手は嫌な顔をしている。
 そして、吸っていた煙草をぎゅっと青草に擦り付け、『また兄貴みてェにウルセーな! わあったよ、一箇所に捨てりゃぁいーんだろ、捨てりゃあ』と不機嫌に、側の竹筒に吸殻を捨てた。
「そーだよ、最低限のマナーを……え?」
 大きく頷いた後、何か変だと感じてシンタローは目をしぱたかせる。
 その竹筒。トットリの空気孔。
「しっかしナンでンなトコに、竹筒が生えてんだろォなァ? おっ、このビールも気が抜けちまったから捨てるかァ!」
 ざかざかと辺りのゴミを竹筒に捨てだすハーレム。
「ちょ、ちょ、おじさん、待った! その下には! その下にはっ! あいつ、息が詰まって死」
「ウオリャアアアアアアアアア!!!!!」
 シンタローの語尾は、コージの大声に掻き消された。



「ミヤギがセミ・ヌードなら、ワシはフル・ヌードじゃけんのう!」
 モロ肌脱ぎになり、どこから呼び寄せたのか、巨大鯉のキヌガサくんを野球のバットのように見立てて、ぶんぶんと振っている。
「武者のコージ、あーんどキヌガサくん! 背番号3! フって、フって、フっとばせ! 赤ヘル旋風ここにあり! 打てよコージ、どでかいホームラン! ♪それ行けカープ! カープ、カープ、カープ、広島、広島カープ〜〜〜!!! ここに見参じゃあ〜〜!!!」
 シンタローは気が遠くなった。
「なんだぁ、ありゃあ」
「おじさん、ごめん。あいつ、ちょっと元野球少年で……少し年齢もいってて……サムライ、ゲイシャとか言ってるレベルのガイジンや、俺みたいな年にはワカんねぇ古き良き日本ネタ繰り出すから、みんな笑ってシカトしてるんだ。悪いけど、流して」
「お前の同級生って……」
 ハーレムの呆れた目。明らかに馬鹿にされている。
 く……これじゃ俺、おじさんの部下のこと、笑えねぇ!
 シンタローが、ぐっと唇を噛み締めている間に。
「む……おんし……なかなかのマッチョじゃなァ……」
「ん? ボーヤ、この俺の肉体美がわかるの」
 何だか馴れ合ってしまっている、コージとイタリア人である。
 むーん、むーんと、自らの肉体を誇示しあう二人を他所に、次はシンタローの番になってしまった。



 どうしよう。
 シンタローが考え込んでいると、その側で、中国人が口を開く。
「ハーレム隊長。お坊ちゃんは最後のメインディッシュにして、もう一人を先にしませんか」
 瞬間、『ハッ!』という気合と共に、その手から針状の中国の伝統武器、千本が飛び、桜の花の中に突き刺さる。
 『ギャ!』という声がして、花びらと一緒に、人間がボタリと落ちてきた。
 アラシヤマである。
「うわ、アラシヤマ、いたの」
 シンタローが言うと、相手は息も絶え絶えに答える。
「ク……クク……あんさんらの最後を見届けようと思いましてなぁ……」
 中国人がニヤリと笑う。
「フッ……アラシヤマ。お前の成長、私が見てやろう。前に出て芸を披露しろ!」
「う……お師匠はん!」
 え、こいつら、知り合いなんだ、とシンタローは目を見開いた。アラシヤマに知人がいたんだ……卒業式前に初めて知ったぜ、と。
 実は今日一番の衝撃かもしれない。



 おどおどした素振りで、辺りをキョロキョロ見回しながら、アラシヤマが前に出る。
 へえ、この中国人の言うことは聞くんだなと、シンタローは新鮮に感じた。
「……と……とく……とく……特技を……ひろ……ひろ……披露するん……どす……どすか……」
 しかし、すでに言葉からしてヤバい。
「そうだ。お前が士官学校で身につけた技を見せてみろ」
「わ、わてが……しか、しか……士官学校で……へぇ」
 どもりながらも、何やら意を決したようだ。アラシヤマは、懐から何か緑色の物体を取り出すと、地面に置き、それを弄くり始めた。
「が、ががっ……学校に……ははは入ってから友達になりました……ひか、光り苔のトガワくんどす……今からわてが、トガワくんの胞子のグルーミングを……」
「この馬鹿弟子が――――ッツ!!!」
 ゴオオオオッッッっと、巨大な炎がアラシヤマを包んだ。
「貴様、何を学校で学んだッ! 孤高に生きろという私の教えはどうしたァァッッッ!!! 苔など焼いてしまえッッ!!!」
「し、師匠――――ッツ!!! ああああ――――ッッッ!!! トガワくん、トガワくんがあっっ!!!」
 うわあ。
 菌糸類ってよく燃えるンだなあ……春はお別れの季節です、ってか。
 アラシヤマが、唯一の友達と共に、燃え尽くされる様子を目にして。
 アイツにも色々あるんだなと、シンタローは同級生の事情に、ちょっぴり同情した春の日であった。



「ほぅれ、お前の番だゾ、お坊ちゃん」
「その呼び方やめてって、何度言えばわかるんだよ」
 急かされて、シンタローは仕方なく前に出る。その辺りだけ青草が黒々と炭化しているのが、ちょっと嫌だった。
「えーと」
 ゴホンとシンタローは咳を一つする。一同の目が自分に集まるのを感じた。
「えと、俺は。踊ろうか、な」
 おおー、と、返ってくる反応。野次と口笛が飛んだ。
 シンタローさんが? シンタローが? と、好奇心を持って眺めてくる同級生たちの視線を感じながら。
「ああん? あれか、日本の黒くてニュルっとしたヤツを掬うヤツか、それとも盆に集団で踊り狂うヤツか、それとも、ええじゃないかってヤツか」
 叔父やその部下たちの視線を感じながら。
「ちがうよッ! 拳舞だよ拳舞! 格闘の授業の応用!」
 シンタローは拳闘の構えを作ると。ゆっくりと腰を落とした。左足を前に出し右足を後ろに引いて、静かに息を整える。
 中段の構えから、体軸をずらさずに上体を立てたまま、なめらかな動作でゆっくりと斜めに手刀で空気を切った。円を描くように柔らかく。
 その彼の上を、ひらりと桜の花びらが散る。
「……」
 一同の視線が、自分に集まっていることを確認したシンタローは――行動に出た。



「はッ!」
 地面を強く蹴って跳躍すると、大木の下で、黙然と舞を見ているハーレム目掛けて拳を振り下ろした。
「おっと」
 ハーレムは僅かに身をずらしてその攻撃を避けると、鼻で笑って、『まだまだだな、ガキ』と言った。
「つまんねェことすんな。芸もそうだが、全然なっちゃぁいねェ」
 シンタローはそのまま拳を地面に沈める。
「どうかな。俺の狙いはこっちなンだよ!」
 その瞬間。
 ズガアアアアアアアアアアアン!!!!! と凄まじい大音響がして、
「あ? あんだこりゃ……う、うおおおおおおッッッ!!!」
 ハーレムの座っていた地面が裂け、巨大な火柱が吹き上げた。



 そして炎の後から出てきたのは、
「ぷはぁ〜! やっと出られたっちゃ
 超笑顔のトットリである。わっと同級生たちが駆け寄っていく。肩やら腕やらを、叩いてやっている。
「トットリィ〜、無事だったべかぁ〜!」
「おおう、派手に復活じゃのう!」
「……見慣れない炎……どす……」
「イヤ、俺も炎が出るのは予想外だったけど……」
 シンタローは地面を割ってトットリを助け出そうとしただけなのであるが、やけに凄い効果がついてきた。
 ナンだ、あの炎。吹き上がったぜ。
 顔を真っ黒にしたトットリは、嬉しそうに新鮮な空気を吸っている。そして、頭をかいた。
「もー大変だったっちゃ! 竹筒からお酒とかゴミとか色んなものが落ちてきんさって、しまいには煙草の燃え残りで、ボウボウ火がついて死にそうになったちゃ! そしたら地面が割れたがな。もうここはトットリ忍術・火炎の術で、たぁくさん炎を巻き上げて、その勢いで外に出ようと……」
「ああ、あのお徳用巨大マッチな」
「シンタローさん、みんな、ありがとうだっちゃ
 ぺこりと礼をするトットリである。
 和気藹々としている自分たちに、ハーレムが近寄ってきた。
 ポンとシンタローの肩を叩いてくる。
「オイ」
「な、なんだよ、おじさん。もう俺たち、花見の席はいいから、宴会続けててくれよ」
「正直……驚いたゼ……」
「は?」
 ハーレムは煙草を吸いながら、桜を見ている。
「オマエ、俺を驚かせるために、地面に黒子を仕込むたぁ、なかなかできるコトじゃねー。徹底してやがる」
「ええええ! ってか、別にそーいうんじゃ」
「ま、謙遜すんな」
 ハーレムは、部下たちに向かって右手を上げた。
「よォーし、オマエラ! ガキどもはそれなりに良くやった! 今日は、コイツらの卒業を祝って! 飲み明かすぞ! 準備はいいかァ、オラァ!」
 戸惑うシンタロー。
「え、おじさん、俺たち未成年なんだけど……あれ、コージはどーだっけ。つうか、絡み上戸なオッサンたちと一緒にいたくないんだけど」
 同級生たちも小声で反対してくる。
「シンタローさん、オラ、この人たち、怖いべ」
「さっさと、とんずらするっちゃ!」
「ワシもあまり一緒には飲みたくないのォ」
「早く逃げんと、大変なことになりますえ……あんさんたち……」
 しかしそんな意向は聞いちゃあいない、迷惑な大人。
「オラァ! オマエラ! 祝宴だァ〜! 逃げねェよーに、捕まえろォーッ!」
 じり。じり。
 不気味な笑みを浮かべた特戦部隊が、シンタローたちに迫る。
「観念しろ。お前たちはもう逃げられん」
「イエ〜イ 今日はオモチャがたくさんで、嬉しいねェ〜
「……」
 ひいっ。
 シンタローたちは、一斉に駆け出した。
「何が祝うだよ! 暇なだけじゃねーか! いたいけな少年たちを拉致監禁しようとすんな! 追ってくんな〜!」
 春爛漫。桜吹雪の中を、走るシンタロー。
 その後を追う、ミヤギ、トットリ、コージ、アラシヤマ。
 この四人が本格的に特戦部隊と対決するのは、まだ先のこととなる。



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 士官学校理事長室では、高松が校医としては最後の定例報告を行っていた。
 ぱたんと白いファイルを閉じると、白衣の男はいつもの食えない笑みを口元に浮かべる。その東洋系の顔立ちと黒い髪。
 ――白と黒。
 この男の印象は、常に視覚的には白と黒だったが、その中身は、そのようにはっきりと分かれるものではないことも、いつもの通りだった。
 駆け引きをしているような気持ちになる。
 マジックにとっては、それが時には小気味よく、時には煩わしかった。今は後者の気分が優っている。
 彼は爪先で、安楽椅子の肘掛を、わずかに引っかいた。



 高松。
 一族主治医の出自であり、亡き弟の忘れ形見の後見人であり……そして何よりも優秀な男であるから、こうして自分は重用しているのではあるが。
 この高松の持つ根底に潜む毒の部分。
 自分の前で染み出しては消え、ちらついては消えを繰り返している、それが面倒だと感じてならない。
 かつてルーザーが、美しい花の毒をその身に潜めていたとするならば、この男のそれは、土中に潜む根の毒だった。
 瞬きほどの油断で、神経麻痺から中枢を侵し、死に至らしめるアルカロイドの苦味。
「つまり、シンタローの発達障害の原因は精神にあると、こう言いたいのだろう。変わりばえのしない報告だな」
「内容は変わりませんが、精度は御報告の度に高めているつもりですよ。結局は消去法と状況証拠による推測にすぎませんがね」
 言葉を切った高松の、その特徴ある目元が、わずかに緩んだ。
「その外形はどうあれ、彼は身体的には何ら問題ありません。その血にもDNA的にも異常はない。青の一族としては平均的な能力を持ち合わせているはずです。だが、それがどうしてか発現しない。心因性発達障害として考えるのが、現時点では最も可能性が高いと考えます」



 開け放したヴィクトリア様式の大窓が、薄いカーテンを揺らめかせた。
 柔い春の風は、しかしこの場を優しく包むことはしない。翳りゆく陽光が、室内の輪郭をおぼろげに形取る。
 執務机についたマジックは、足を組み直して微かに溜息をついた。再び、目の前に立つ高松に聞く。
「以前から伝えているルーザーの件の進展は」
 過去。亡き弟は、青として強靭な子供を作る実験だと称して、日本人の女を使った。
 自分を信奉し、そのコピーを作り出すことを最終目標に据えていた彼。
 その結果を知ることのないまま、命を絶った人。
 マジックは、シンタローとグンマの青としての発達障害は、ルーザーの作為に起因するのではないかと考えたことがある。
 ルーザーの研究経過を、この高松に調査させてもいたのだが、その報告は、同じように変わりばえのしないものだった。
「ルーザー様は何ら特別なことはされてはいません」
 マジックは、高松がその名前を口にした時、彼を凝視した。
 高松が、『ルーザー』と言う時、ほんの僅かに何かが張り詰めることには気付いている。
 この男は、ルーザーを慕っていた。
 人を慕うことなど滅多にないであろうこの化学者が、その死後、残された息子の世話を引き受けるまでの情熱を抱いていたことは、正直自分にとっては意外であった。
 事態の錯綜に紛れて、考える手間を避け、その言うがままにグンマの後見人としてしまったのであるが。
 それが良いことだったのか悪いことだったのかが、いまだにわからないまま、ここまで来てしまっている。
 この男の存在は、自分にとっては惰性だった。
 いつの間にか、側にいる。側にいるから、そのままいることを許している。
 たまに垣間見せる毒に、不快になる。日常の煩務に取り紛れて、すぐにどうでも良くなる。
 その繰り返し。



「シンタローの発達障害が心因性のものだとして。医者としてお前はどう処方する。高松」
「私などが出過ぎずとも、おわかりかと思いまして、あえて申し上げておりませんでしたが」
「構わん。言え。お前の勿体振りようの方が煩わしい」
「ごもっともです」
 シンタローの特殊能力が発現しないのは、心に原因がある可能性が高いとこの医者は言う。精神の抱える重荷、ストレスが一因ではないのかと。
 マジックの直感として、それ以外にも原因はあるのだという気はしていたが――何故ならシンタローからは青の一族特有の精神波動……同族感情とも言うべきか、を感じ取ったことはない――心因性だと言われれば、そういうものかとも思う。
 一族の中の異端として。
 特に幼い頃は、黒い瞳に涙を一杯に溜めて、泣いている姿を目にした。その目は、マジックにはこう訴えているように思えてならなかった。
『パパ。どうしてシンタローは、目も髪も黒いの?』
 その明確な答えは、いまだ自分には与えることができない。
 士官学校を卒業する年にまで成長したシンタローではあるが、現在も表面では隠しているだけで、強がっているのだろうと思うと、胸が痛んだ。あの子は今でも隠れて泣いているのだろうか。
 姿かたちの上、自分が特殊能力にも劣るのだと知れば、あの子はどうなることだろう。
 だが、どれだけ自分が権力を掻き集めて登りつめようとも、こればかりはどうしてやることもできないのだ。
 何とかしてやりたい、せめてシンタローがこうなった原因を突き止めたいと思いながらも、自分は空回りを繰り返す。
 せいぜいこうして調べさせて、椅子に座ってその報告を聞くことぐらいが関の山だった。
 シンタローに関しては、私はこんなにも無力だ。



「おわかりでしょう、マジック様。いったん、手をお放しになることです」
 昔のように、高松は自分を名前で呼んだ。士官学校に入る前は、この男は、自分をマジック様と呼んでいた。
 マジック様。ルーザー様。双子に対しては、やけに図々しい態度を取っている癖に、なぜか自分たち二人には、手の平を返したような慇懃な仕草をしていたこの男。
 今でも、それは変わらない。
「シンタローさんの発達障害の原因は、多分にマジック様、あなたの存在が大きいかと存じます。彼の精神的苦悩……つまり劣等意識の基本は、一つ目には一族としての姿かたちの異端。まあこれは改善しようがない。二つ目に、特殊能力を持たないということ。これも、あなたはその一族の持つ能力のことを、隠しているからさして問題にはならない。ぼんやりとは勘付いてらっしゃるとは思いますがね。最後に、最大のそれ。あなたの一人息子であること。あなたの側にあって注目を集めること。この彼の精神的負担に関しては善処の余地があるのではと考えます」
「私はあの子の前では馬鹿な父親だ。それでも駄目なのか」
「そんな表層的な問題ではないことも、おわかりでしょうに。もっと根深い問題を、あなたはシンタローさんに与えている。これはサービスやハーレムにも言えることですけれどね。側に存在するだけで、あなたは人に、醜い負の部分や劣等感を呼び起こす」
「私は逆に、」
 そう言葉を続けようとしたが、高松相手に無駄なことだと思い返して、マジックは言葉を止める。
 ルーザーの名を省いたのは意図的だろうか、高松はルーザーの死に対してはどう感じているのだろうと、ぼんやりとした疑問が脳裏を掠めたが、またそれもどうでも良くなった。
 もっと自分にとって重要な問題は、他にあった。
 自分の――私の存在が、シンタローにとっての重荷。



 一つのことに気付いて、マジックは問いを返す。安楽椅子が、きいと音を立てた。
「お前はグンマから手を離さなくてもいいのか」
 相手は微妙な笑みを浮かべた。グンマはこの春から正式に研究所所属の研究員になることが決定している。
 高松は軍医として本部配属となる傍ら、これもこれまで通り研究所勤務もこなすので、相変わらずグンマは彼にべったりという状態が続くことになる。
 その依存状態は一族としては不健全だと思うものの、他に代替案もないので、結局マジックは高松のいいようにさせている。これも惰性だった。
 自分の関心が薄い場所、他者に裁量を許しているような領域で、預かり知らぬ何かが進行している。そんな薄気味の悪さを、マジックは感じることがある。
 だからといって、自分が全てを管理できる訳でもないから、何をするという訳でもない。その曖昧な状態を、高松は上手く潜り抜けている。
 いつか自分の足を掬う者がいるとすれば、それは戦場の強大な敵ではなく、案外こうした寄生虫のように自分のすぐ側で、蠢く存在なのではないだろうかと、マジックは意識の隅で考えて、すぐにまたどうでもよくなった。
 このどうでもよくなるというのも……惰性。
「自立心旺盛で負けず嫌いなシンタローさんとグンマ様では、性格が違われますから。ケースバイケースです。その患者に合わせて、医師は処方するのみですよ」
「どうかな。お前は従順な犬ではないだろう。医学が隠れ蓑か」
 高松は答えずに、ファイルを脇に挟んで一礼しただけだった。



 去り際に、いかにも今思い出したという風に、白衣の男はこんなことを言う。
「古い話ですが……総帥はサービスや私の同期だった男を、覚えておられますか。あの黒髪の……士官学校卒業後すぐに戦死した」
 高松には、万が一の可能性を考えてシンタローの母親とジャンの接点を調査させたりもしていたから、こんな聞かれ方は不自然だった。
 しかも、サービスが片眼を失った原因であるのだから。高松がどの程度サービスから話を聞いているのかはわからないが、その因縁深い男を、兄である自分が覚えていない訳がない。
 ましてあの成長すればする程、彼に生き写しとなってくるシンタローの姿を知りながら、この男は。
 わざとか。
 ……何処まで知っている……?
 マジックが不快気に眉を顰めると、相手は恐縮したように肩を窄めた。
「失礼しました。御多忙な総帥ですから、そのような些事は」
「能書きはもう沢山だと言っている」
 高松は、心持ち背を伸ばした。正面から自分を見据えてくる。
「では単刀直入に申しましょう。あの男の遺体は、何処に行ったのか御存知ありませんか」
「それを聞いてどうするつもりだ」
 答える自分の声が、常より冷たいとマジックは思った。



「サービスに、捨てた右眼はどうしたのかと訊ねたのですよ。すると、ジャンの死体に向かって投げつけたという。随分乱暴で勿体無いことをするもんです。私としては、ぜひにどんな些細なものでもいいから、その右眼の記録を読みたい。秘石眼は青の最大の謎ですからね。ですから、ジャンの遺体収容記録を探しました」
「ほう」
 窓からの風は、夕暮れの冷たい顔を運んできた。揺れるカーテン。
「戦死確認者はサービスになっていましたが、肝心の記録は抹消されていた。サービスの青の力によって殺されたのであるなら、ルーザー様であれば必ず解剖されて後の資料となさるはずです。そしてサービスの右眼も……これは、サービスを溺愛なさっていたあの方だけに、確信は持てませんがね」
 しかし資料にもなってはいなかった。記録にもデータにも、なにひとつあの男の痕跡はないのです、と高松は静かに告げる。
「ジャンの死体は、その死は、まるでそんなものなどなかったかのように、かき消されている。不自然極まりないのに加えて、化学者の立場からは資料が紛失しているのはしごく無念の想い、友人の立場からは、幾許かの寂寥感がありますもので」
「知っての通り、サービスが右眼を失ってからは、ルーザーは精神のバランスを欠いていた。常と違った行動を取っても仕方がない。あの混乱の中で、遺体も眼も通常通り火葬されたと考えるのが自然だろう」
「ええ。確かに自然です」
「話はそれだけか」
「はい。総帥にはお手間を取らせました。失礼致します」
「明日の卒業式にはグンマも来るのだろう。よく見えるように……親族席の一番前を空けるように伝えるから、そこに座るようにと」
「グンマ様もお喜びになりますでしょう。大好きなシンタローさんの晴れ姿ですからね。それでは」
 高松は慇懃に礼をして、最後は『総帥』と呼び、去っていった。
 その足音が消える。
 ――死体など。



 マジックは、窓からすでに暮れ始めている空を見つめた。
 また扉をノックする音がして、見習い秘書の少年が部屋のランプの火を灯しに来る。
 ぽうっと橙の光が空気に滲んで、理事長室は夜の趣きを見せる。白磁の調度品が、美しくなめるように輝いた。
 ――死体など。
 部屋が明るくなったことで暗く見える空を、マジックはもう一度眺める。静かに息を吐いた。
 ――過去、あの時。
 ジャンの死体は、収容した翌日に、密室のはずの安置所から忽然と消え去ったと報告が入った。
 死体。そう、ルーザーの死体も。
 同部隊の人間が戦闘中に死亡確認をしたのみで、自分が駆けつけた時には戦場からは消えていたのだった。
 青と赤の抗争の中で、ひっそりと消えた二つの人間の身体。人知を超えた……何らかの存在を感じないと言ったら、嘘になる。
 マジックは、傍らを見た。
 ランプの光に一層輝きを増しているもの。
 ……青い石。
「結局、あなたの手の平で私たちは踊らされているだけなのか」
 マジックは、独り言のように呟いた。
 石は、静かに佇んでいるのみだった。



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「何だ、お前はここには来ないと思ったが来たね。驚いたよ」
 マジックがそう言うので、シンタローは何となく頬を膨らませた。
 自分が来ると、手放しで喜ぶかと思えば、今日のようにやけにあっさりしていたり。
 この男は、どちらかに態度を統一してくれればいいのにと、シンタローは柔らかい絨毯を、靴先で弄る。
 そして、この理事長室に自分がこの制服を着て来るのは、これが最後なのかもしれないと、ふと思った。
「サービスおじさん来てるから?」
 そう聞くと、相手は執務机についたまま、広い背中で答える。
「ああ。明日は卒業式だろう。サービスといるのかと思った」
 あれから、ハーレムたちに捕まり、散々な目に合ったシンタローたちだった。
 暗くなってから、やっと抜け出してきたのだ。
 それでも、後でサービスに会えるから今日は差し引きゼロでいいや! と自分を納得させていたりする。
 約束通り、数日前に私邸にやって来てくれたサービスは、今日は墓参りに行くと言い残して出かけたままだ。
 別にだからという訳ではないが、何となく、自分はこの理事長室に足を向けた。
 先刻の卒業式の予行演習で、答辞の部分を見に来ていたマジックに、ちらりと顔を合わせてはいたのだが。どうせ明日も会うのだが。別にさして用もないのだが。
 何となく……俺はここに来てしまった。



「……だっておじさんも色々忙しいし。でも俺の卒業式見に来てくれるなんて、それだけでも嬉しいから、いいけどね」
「そう」
 手持ち無沙汰なシンタローは、白壁に備え付けられた、硝子キャビネットのアーチ型のフォルムを、撫でたりさすったりしていた。
 それから、思いっきり音を立てて、マジックの背後の椅子に座った。革張りのシートが、きゅっと鳴る。そして慌てたように、一つのことを思い出した。
「あ、あのさ、みんながさ、俺らの初陣はいつになるのかって気にしてたから、ソレ聞こうと思って」
 それでもマジックは振り返らなかった。変わらず背中が答える。
「まず後方を経験させようと思っている。お前の代は全体的に年齢も若いし、まだ前線は早いだろう。ちょうど戦況もそれ程激しくないしね」
 シンタローは足をぶらつかせた。
「ん……じゃ、初陣って、もっと後?」
「後方勤務を最初にやるのは、その重要性を幹部候補生に知って欲しいからだ。補給なしには戦えない。それにゆっくり訓練して戦闘能力を上げてから、戦場に出た方が後々役に立つよ。それでいいだろう?」
「俺はいいけど、みんなが早く戦いたいとか言ってるからさ」
「ああ、最初はそう言うだろうね」
 そこで、初めて豪奢な椅子に座った背中が振り向いて、冷たい瞳が自分を見据える。
「いつもより声が僅かに高いかな。シンちゃん、不安なの」



「なっ……ンなコトねーよっ!」
 思わずどきっとして、シンタローはそう突っぱねた。急にここに来たことが、恥ずかしくなったのだ。
 しかし相手は、もぞもぞしている自分を見てどう思ったのか、話を変えてきた。
「早いね、もう卒業か……学校、楽しかった?」
 やけに低音が優しかった。普通の、何の変哲もない会話。自分も小さな警戒心を解いて、それに乗ってもいいかと思う。
 明日は、卒業式で。生徒として、理事長のこの男に会うのは、今夜と明日、それっきりでおしまいなのだ。
 明日を終えたら――彼と自分の関係は、総帥と、部下。
「……まあ、ぼちぼちね。色々変なヤツいるし、あっという間だったけどナンか面白かった」
 答えながらシンタローは、自分が学校を卒業することを、寂しいなと感じていることに気付いてしまう。
 ほんのちょっぴり、だけどな! と、シンタローは、自分の頬をつねった。
 マジックの不思議そうな視線を感じる。慌てて手を離し、その視線を無視して脇を向く。
 すると、相手はこんなことを言い出した。
「今日は、お前の話を聞きたい気分なんだ。何でもいい、お前の話をしてくれないかい」
「俺の?」
「お前の、ね。パパ、ちょっと疲れちゃってて……こんな時はお前の声を聞きたいよ。一時間くらいでいいから。お前が士官学校の二年間どうだったのか、何を感じ何を楽しんだのか、知りたいんだ」



 今?
 戸惑っている自分に、彼はおやおやという風に眉を上げている。
「じゃあ、かわりにパパが話をしようかな。今日のシンちゃんは14時32分に卒業式の予行演習を終え、14時45分に桜並木を通り、14時49分にハーレムと遭遇……」
「がー! 何で知ってンだよッ! ドコで見てた! ドコでっ!」
「その窓から望遠鏡使えばばっちり」
「くっそー、一番いい位置に理事長室作りやがって! 全方向かよ! だいたいアンタは……」
 シンタローはさらに食ってかかろうとしたのだが、それをかわすように相手は目を瞑ってしまった。
 安楽椅子にもたれ、彫りの深い顔を、肩口に斜めに寄せている。
 言葉通り、本当にマジックは疲れているのかもしれないとシンタローは感じて、気勢を削がれてしまう。何かあったのだろうか。
 話を聞きたい、声を聞きたい。そう、男は言う。
 まあ、確かに。自分が士官学校に入ってからは、寮生活だったこともあり、マジックとの会話の量は減っていたと思う。
 公式な場は置くと、こうして自分が会いに来るか、相手が自分に会いに来るか。そのどちらかでないと顔を合わせることもない。
 二年前から始まった、会いに行かなければ会えないという感覚は、この男との間では不思議なものだった。
 俺の話……声って。声を聞きたいって、本当かなぁ?
 何でそんなの、聞きたいんだろう。
 シンタローはいつもそう求められる度に、不思議に思う。
 過去、幼い頃、遠征から帰って来たマジックは、必ず自分にベタついた後、こう言ったものだ。
『シンちゃん、パパにお話してよ』
 そして大きな手で、自分の手を握る。大概、そのまま眠ってしまう。
 その姿は油断しきった肉食動物のように見えて、小さなシンタローが、パパったら仕方ないんだから、と感じる瞬間だった。
 パパは、たくさんの大人の人の前だと、偉そうだけれど。
 シンタローの前だと、でっかいワンコみたいなんだよ。
 お日様の下で、ぽや〜っとしてるの。
 シンタローが紐、持って、お散歩するの。やたら幸せそうなの。
 今も……うん、そんな感じ。
 薄明かりの夜は窓の外で息を潜めている。ほんのりと曇った硝子がかたかた鳴って、その鼓動を伝える。
 静かだ。自分の目の前で、長い足を組み、肘掛についた腕で形のいい顎を支えて物思いに耽っている男の様子。



「ちぇっ」
 不満そうな様子を作ってはみたが、結局、シンタローはたどたどしい言葉で話し始めた。
 今日くらいは言うことを聞いてやるか、大サービスだ、と思ったのだ。
 シンタローは話す。一風変わった同級生たちのこと、初めての寮生活、中庭で飼っていた動物達のこと。毎日水をやっていた植物のこと。そしてただひたすら雑多で玩具箱のように目まぐるしかった……日々のことを。
 正直こんな話、したってなあ、と思ったが、語り出すと熱が篭った。
 シンタローは思い返している。
 俺にとって、士官学校時代って、何だったんだろう。
 そしてこれから。これから、何のために、俺は。
 俺の目指すものは……何……?
 これまでの月日を一部ではあるが語ることは、自分という存在について考えることに通じているのかもしれなかった。
 そして未来というものに思考を向けることになるのかもしれなかった。
 ハッとして、不意にシンタローは、意識を室内の風景に置く。
 突然、今この世で生きているのは、自分と目の前の男だけであるかのような想いに囚われる。
 いや、まさかそんなはずはない。俺は、色んな人間と一緒に生きてるんだから。
 色んな人と、一緒に過ごして、時には今日みたいなバカやって、ずっとずっと……。
 次第に身体の芯から記憶が染み出してきて、全身がその思い出に浸される。
 士官学校時代だけではなく、過去の全てが蘇ってくる。
 過去を想えば、未来の遠さに全身が震えるのだった。自分はこの過去の上に立って、何を目指すのか。
 今、シンタローは、胸の内で、ひとすじの予感に打たれている。
 俺の……俺の目指す道は。
 すぐ側に男は座っているはずなのに、自分との距離がひどく遠いものに思える。
 この距離は、この道は。
「……」
 シンタローは、手をぎゅっと握り締めた。
 毎日、毎日、ずっとずっと。
 汗まみれで、息を切らして、余裕なんかなくって、ただ上を見上げながらも、俺が必死に登っている階段は。
 目の前で、俺の声に聞き入り薄く微笑んでいるかのような、この人間へと続く道。
 あなたへの時間……。



 優しく夜風が吹いた気がして、シンタローはいつしか自分が口を閉ざしていたことに気付いた。
 一時間はとうに過ぎている。目の前のマジックは、同じ姿勢で椅子に凭れたまま、動かない。
 本当に眠ってしまったのだろうか。軍服に包まれた厚い胸板が、静かに呼吸していた。
 まったくさあ、俺の話、聞いてたんだか、聞いてないんだか。超自分勝手なんだから。
「ったく。しょーがねーな」
 シンタローは立ち上がると、壁際に行ってワードローブを開け、マジックの黒いコートを出す。
 大きいそれを広げると、椅子で眠っている男の肩にかけた。世話が焼けると思った。
 一時間はあっと言う間だ。しかし立ち去り難く、しばらくそのまま立ち尽くす。
「……んーと……じゃ、俺、家のサービスおじさんとこ寄ってから寮に帰るからな! そのまま寝るなよ! ちゃんと家帰れよな!」
 相手は目を瞑ったままだ。やれやれだ。
 苦笑したシンタローは豊かな黒髪を揺らして回れ右をすると、戸口に向かおうとした。



 突然右の二の腕を強く掴まれる感覚。
 ぐいと引かれて振り向くと、眠っていたはずの男がシンタローを見下ろしていた。
 男はひどく背が高い。見下ろすことに慣れた傲慢な目だ。
 冷たい手がゆっくりと頬に触れ、自分の黒髪を耳の後ろにかきあげる。
 顎をくいと上向かせる。
 唇が降りてきて……。
 自分の顔の至近距離で、止まった。



 相手は身をかがめ、自分に小さく囁いた。
「……シンちゃん、サービスばっかりじゃなくて、私を愛してよ」
「はァ? またそういう恥ずかしいコトを……いーかげんにしろよッ!」
 驚愕した心を押し隠して、シンタローは叫んだ。
 びっくりした。
 すっごく、びっくりした。絶対、俺の顔、赤くなってる。
 マジックは言葉を重ねてくる。
 ランプの橙色の光に照らされて、その顔の陰影はいつもより深かった。
「サービスのどういう所が好きなの?」
「こーいう、恥ずかしくない所! ベタベタしない所! クールでカッコよくて、間違ってもエプロンとかしない所! ……嘘っぽいコトばっか言わない所!」
「パパ、ものすごく本気なのにな」
「わかったから、放せって!」
 しかしシンタローが、マジックに触れられているのは顔だけだ。
 別に拘束されている訳ではないのに、自分はその彼の距離から出ることができなかった。
 相手は、続ける。
「キスしたら、怒る?」
「怒る!」
「……じゃあ、おでこにだけ」
 チュッと音がして、額に柔らかいものが触れて、離れていった。
 冷たい。



「フフン」
 すっかりいつもの調子に戻ったマジックは、鼻歌なんか歌い出しそうな雰囲気だ。
 『あー、シンちゃんに触ると元気でるなぁ!』なんて、アホなことを言っている。
 とんでもないヤツだ、とんでもないヤツ。
 だいたい今の雰囲気、何なんだよ。眠ってたんじゃねーの?
 現金でちゃっかりしてる、どーしようもないヤツなんだから!
 目の前で、さっきシンタローが肩にかけてやったコートを嬉しそうにヒラヒラさせながら、マジックは言っている。
「ねえ、今から桜を見に行こうよ」
「えー? 今からぁ?」
 講堂の並木通りに、二人で行こうと。
「だって明日は人がたくさんいたり面倒臭いことがたくさんあって、ゆっくりできないんじゃないかなあ。今だったら卒業式の準備中だから、学生の立ち入りは制限されてるし。パパね、お前と一緒に桜並木の道を歩きたいんだ。まあ明日でもいいんだけれど」
「う……明日……」
 明日、一緒に記念写真ぐらいならいーけど、更に人前でベタベタされるのもイヤだし……。それだったら、まだ人のいない今晩の方がマシだろうか。
 躊躇している間に、
「さ、さ、行こうよっ!」
 強引に腕をとられて、シンタローは渋々歩き出した。



 明日は軍幹部や要人が顔を揃えるため、講堂付近は警戒態勢が敷かれている。未遂には終わったが、過去に爆発物が仕掛けられていた件があったからだ。現在、敵対国とは小康状態にあったが、恒常的な戦闘下にあることは変わりない。
 無人の桜の園に歩き出すと、闇に明るい花びらが舞い、灯をともしたように輝いた。
 まるで。まるでまるで、幽玄の空間。
 柔らかく吹く夜風がシンタローの鼻先をかすめ、桃色の淡雪を空高く舞い上げた。



 桜は美しかった。夜の中に立ち並ぶ桜並木。灯りがなくてもその場所は、淡く輝き、昼間よりも華やかな明るさがある。
 シンタローは桜が好きだ。どうしてか懐かしいような不思議な気分になる。そういえば、日本の家にも桜があった。
「うわぁ……すげーや」
 シンタローは手を天にかざした。
 舞う花びらを受け止め、その柔らかい感触に嬉しくなる。足を踏み出すと、地面にもふわりと薄紅色の風が舞った。
 不思議な浮遊感。自分も桜の花と一緒に、空に漂うことができるような気がした。
 しばらくそうして歩く。



 背後から、少し遅れてマジックの足音。彼は桜というよりも、桜道の続く先を見ているようだった。
 シンタローも何となく、その視線の先を追ってみた。遠近法もくらむ眩さの中で、その先には何もないように見えた。
 やがて、声が聞こえる。
 その声の間近さで、彼はマジックがすぐ側にいたことに気付いた。
「ねえ、シンタロー……パパね、昔、桜になりたいって思ったこと、あったんだよ」
「桜に……?」
 思いもかけないことを言われて、シンタローは戸惑った。マジックにはふさわしくないような台詞に思えた。
 この人にも、何か他のものになりたいと思うような瞬間があるのだろうか。
 そのことが信じられなかった。
「樹じゃなくって、桜の花にね……今はもう、お前のパパになれたから、いいんだけれど」
 そう呟いた後、彼は見下ろして聞いてくる。
「お前は今、何になりたいの?」
 シンタローは、目をしぱしぱさせた。
 今さら、こんなことを問われるとは思わなかった。だが彼は真顔で問いを重ねてくる。
 シンタロー、お前は本当に軍人になりたいの?
 男の薄い唇が動く。なぜか運命を告げるように、ゆっくりとして見えた。
 卒業するって、そういうことだよ。もう後戻りできないんだよ。



 花びらが揺らめいて、目の前を通り過ぎてから、シンタローは、口を開いた。
「大人に……なりたい」
 マジックには見ることができて、自分には見ることができないものが存在することには気付いている。
 シンタローはその違いは、大人と子供の差であると思った。
 自分が大人になれば、きっと届く。同じ視点で、同じ高さで同じものを見ることができる。
 シンタローは、側のひときわ大きな樹の、幹に手をやった。
 焦茶色の木肌は、今でこそ力強く天に向かって腕を広げているが、この木にだって幼い頃はあったはずだった。踏み潰されそうな時代を乗り越えて、こんな風に桜は強くなったはずだった。
 だから、いつかは俺も。きっと必ず。
 手に触れるざらついた感触を、頼もしく感じる。
「大人になって、強くなりたい!」
 そう言って、シンタローは黒髪を揺らして振り返ったが、風が吹き、舞う花吹雪に隠れて、そこに立つマジックの表情は、見えなかった。
「そう」
 ただ、声だけが聞こえて。そこで会話が止まって、遠くの喧騒が少し大きく聞こえた。
 世界を、淡い色が舞っていた。



 ごう、と急に強く風が吹いた。木枝を揺らし、無数の花びらを舞い上げた。
 突如、シンタローは並木の両端の桜が、まるで自分に押し寄せてくるかのような感覚を覚えた。
「?」
 桜は美しかった。しかし、同時に冷たかった。どこかその豪奢な盛りの陰に、死の香りがした。
 桜の世界。陶然とした、酔ったように吸い込まれる自分。
 どこまでも、どこまでも続く薄紅色の道。果てなどないように思えた。
 その時、また風が吹いて、その冷たさにシンタローはハッと我に返る。慌てて頭を振る。何だよ、この感覚。
 ぐるり、ぐるりと巡る。
 巡る。巡る。巡る。
 繰り返し、繰り返し。
 花吹雪が、巡る。



 ……桜が呼ぶという、死者と思い出。日本で暮らした頃に聞いた、少し妖しい話が、シンタローの脳裏に浮かぶ。
 桜の下では、時間が狂うんだって。死んだ人が蘇るんだって。生きた人は昔を思い出し続けるんだって。
 繰り返し、時間が巡り続けるんだって。しかし自分には、思い出す人間も記憶もない。
 何だよ。アンタが、桜になりたいとか、らしくないコト言い出すから。
 この桜……ちょっと、怖いよ……。
 背筋がぞくぞくと寒くなり、何故か首に汗が滲んだ。
「シンタロー」
 ふと名前を呼ばれて、そこに立つ人を見る。
「どうしてそんな顔をしているの」



 自分は怯えを表情に出してしまっていたかと、慌てて他所を向いた。変に思われただろうか。
「こっちを向いて」
 静かな足音がして、マジックが近付いてくる。自分の顔に手を伸ばしてくる。
「ほっぺたに、花びら、ついてる」
「……」
 冷たい指の感触が頬に触れて、離れる。ほら、と取った一枚の花弁を見せられる。
 何となく受け取ろうとして、目の前のそれを摘むと、相手はそれを放さなかったので手が触れ合う状態になった。
 そのまま、ぼんやりマジックを見上げると、その青い瞳に自分の黒い瞳が映っていた。
 薄桃色の花びらが数枚、二人の間を通り抜けていった。
 しばらくして、また彼の唇が動いたのがわかる。
 シンタロー。
 その口は言った。
「笑って」



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 目の前にシンタローの姿がある。何も知らない、その姿。
 あの日と同じように、天上に向かって手を伸ばす、その姿。
 私は桜の舞い散る中、語りかける。届かない言葉で、語りかける。
 シンタロー。
 いつか聞いて。シンタロー。



 いつかお前に、あの海を見せたい。あの青の世界を。海が私を呼ぶ、その闇の深さと青さを。
 ねえ、シンタロー。お前に、私をそのままで見せることができたらいい。
 私の中を、心を、過去を。そのままで見せることができたらいい。
 そうやって私はね、時々――願うことがある。



 お前と同じものを見たい。お前と同じことを感じたい。お前と一緒に歩きたい。この桜並木のように、美しい道をね。
 でもそれは一生かなわぬ夢だろう。
 青の眼を持たないお前だから。何も知らないお前だから。そして私の道は、お前には歩いて欲しくはないから。それは淡い幻想でしかない。
 お前が本当の私を知ってくれたらいい。でもそれも馬鹿な望みだよ。
 私は知られることが怖いのだから。知れば、お前はきっと、私を怖がる。『化け物』と呼ぶ。
 もう笑ってはくれなくなるよ。
 お前は優しい子だから、私を許してはくれなくなるよ。



 シンタロー、愛しているよ。
 そして私を愛して。
 だから、本当の私を知って。
 そして傷付いて。
 その幸せな顔を見る度に、お前が傷付いていくのを見たいと思う。
 シンタロー、愛していないよ。
 だから、本当の私を知らないままでいて。
 そうやって知らないままで、お前が傷付いていくのを見たいと思う。
 笑って欲しい。
 その綺麗な笑顔で、幼い時から変わらぬ笑顔で、傷付いていくのを見たいと思う。



『そのまま……か……今の、シンちゃんが思ってるまんまのパパが好きなんだよね、シンちゃんは……』
『うん。ずっとずっと、このパパが好き』
『パパがお前を愛してるってことが、世界で一番価値があることにしてあげるよ。だから、泣かないで』
『根本的に私たちとは何かが違う……私は、シンタローは天国に行けるような気がするよ……』
『そんな化け物みたいな人間いねーって!』
『……何故、お前の手はこんなに熱いの?』
『知るかよ。アンタの手が冷たいからそう感じるだけだろ……多分』
『総帥の手が冷たいからそう感じるだけです……多分』
『……これで君の体には全て口づけた。自覚してるかい、君は――酷い男だ』
『愛しています、サービスおじさんを! アンタより!』
『愛しています、サービスを……貴方に出会う前から』
 私の愛、君の愛。いつか散りゆく花、焦がれる色。
 手に入ることなく目の前にあるもの。淡く舞って、この手を擦り抜けていくもの。
 巡り巡って、いつも私が立ち尽くす場所。一人残されていつか朽ちる樹のさだめを、感じる場所。
 過ぎ行く歳月、変わらず立ち続ける辛さと惨めさを、噛み締める場所。夢想する場所。
 私は花になりたい。
 樹は花に憧れ、繰り返し巡る季節の中で、いつも取り残される。
 ああ、花となることができたなら。どこか遠い所に待つ人の元へと、ただ散って逝けたなら……。
 それが叶わぬ願いと知りながら、来る日も来る日も散る者を眺めながら、立ち尽くす私。
 美しい花、夢の花、君の咲く姿は、私の全存在を打ち震えさせる何か。
 いつか、私から去っていくのだと思う。
 だから私は、愛さなければ、生きては行けない。



「どうしてそんな顔をしているの」
 初陣はまだかと聞いたお前。私のいる戦場に来て、幾らかなりとも、本当の私を知られるのも怖いけれど。
 勿論、それは隠し通すつもりだけれど。まず何よりも――私はお前に……人を殺して欲しくないよ。
 そして殺されて欲しくない。
 お前は、弱いね。きっとすぐに死んでしまう。
 今この時も、私が眼に力を込めれば、おそらく一瞬でね。
 あの黒髪の男よりも……お前は簡単にあっさりと死ぬだろう。



 どうしてそんな顔をしているの。
 月の光の中、無残に砕け散った死体。今のお前と同じ顔をしていたよ。
 そしてその男を殺した男も、死んでいったよ。
 お前はどちらだい? 殺すの? 殺されるの?
 逆さまの砂時計。遡る時間。花びらの向こう、過去の呪縛。
 遠く陰り、重なる面影。
 影?
 過去と現在、どちらが影?
 お前と男は、どちらが影?
 どうしてそんな顔をしているの。
 お前は私を残して、勝手に死ぬことは許さない。お前は散ってはいけない。
 生き残って。
 生き残って、シンタロー。
 お前は、私の他の誰かに殺されないで。



 ……桜が散る。
 遠い過去に、私は、この顔を、殺したかった。殺してでも、手に入れたいと、思っていたよ。
 どうして、かつて私が憎み殺したかったこの顔は、今は、私の一番大事な人の顔として、現れたのだろう。
 憎い顔だよ。でも今は、憎めない顔だよ。ただ愛している顔だよ。
 しかしこの顔は、私を愛してはくれないのだろうね。それでも私は、お前を愛し続けるのだろうね。
 お前を殺せば。この私を縛る枷は、消えて無くなるのだろうか。
 この顔は、永遠に消え去るのだろうか。それともまた、違う人間の顔として、私の前に現れるのだろうか。
 何にしても、いつも、最後に残るのは私なのだろうね。
 この顔は、私を愛さず、いつか去っていく。花は散り、樹は取り残される。
 殺したい人間の顔で、そうやって笑うお前。
 私はいつもその顔を見る度に、愛しいという想いと寂しいという想いと、過去の憎悪と愛情が入り混じって、全てをぐちゃぐちゃに踏みにじってやりたいという衝動に駆られる。
 傷付けたい、壊したい。この手に掴んで、握り潰してしまいたい。
 でもそうしてしまえば、私は何かを永久に失うのだろうと思う。
 ……何を? 私は何を失うのだろうか。



 シンタロー。お前を守りたいよ。この汚れた力で、守りたい。
 一人で歩き出すことなど許したくない。閉じ込めて、私だけのものにしたいと思う。
 私だけしか見ることのできないお前にしたい。
 そうすれば、花は散らずにいられるだろう……?
 永遠に美しく咲く花のままでいて欲しい。手の中におさめたい。
 私は何をも信じられない。自分も世界も信じられない。信じられないから、支配するしかない。繰り返す、際限のない無益な思考を繰り返す。
 生き残って。
 生き残って、シンタロー。
 お前は、私を置いて行かないで。私を一人にしないで。
 どんな顔をしていようと、お前はお前。目を瞑っても、お前はお前。
 私が愛するお前は、たった一人きり。
「……」
 いつか、この想いは、消えて無くなるのかもしれないね。
 桜の木の下で、あの日突如、私の胸に降り積もったように、突如、消える。
 ……消える……?
「ほっぺたに、花びら、ついてる」
 消えない。
 舞う花びらは、お前の顔に落ちて、止まった。それを指で取る私。受け取ろうとして、手を伸ばすお前。運命の瞬間。
 お前は、あの日を覚えてはいない。



 あの日。あの小さな手が。お前の小さな手が、私の手に触れた。
 桜の下で――そして、今。
 触れ合う手。手が。私のこの手が、お前に触れる。
 この何物にも代え難い一瞬の出来事。
 ほんの一瞬の……何でもない出来事。
 触れていい……? この冷たい手で、お前に触れていい……?
 ああ、熱いね。熱い手をしているね。
 私はお前が好き。
 愛してる。人が神を信じるように、お前を愛している。
 混沌の中、闇を切り裂く一筋の光のような、私のお前への気持ちは信仰にも似て。



 不思議だね。お前に触れてみて、わかる。
 離れては迷い、触れてはわかる、その繰り返し。
 真実はこんなにも簡単なこと。手と手が触れ合う、肌と肌とが触れ合う、たったそれだけのことで。それだけのことで、全てが瓦解していく。
 私の世界が裂ける。全てが変わる。じんわりと体中に温もりが染み透っていく。
 目を閉じる。この手をずっと感じていたかった。
 ただそこに自分とお前の命があるという体の芯が溶けるような感覚。
 お前が好き。
 すべてが好き。
 傷付けたくない、守りたい。
 だから、ずっと、この手を離さないで。
 ずっと、側にいたいのに。でも、私の存在はお前にとって重荷かい?
 愛してるのに、上手くいかないね。
 愛してるから、上手くいかない。
 巡り巡る回転木馬の世界で、ただの一つきりだけなのさ。この混沌の中で、それだけが確かなもの。
 闇の中で小さな喜びと温かみをくれるもの。
 お前を傷付けたい、傷付けて私を刻みたいと思う気持ちと表裏一体で、私を生かすもの。
 今の私はそれを守りたい。私から逃げないでいて。
 今だけは、この手を離さないでいて。



「笑って」
 ただ一つだけ確かな、私が失うことのできないもの。
 知ってたかい? シンタロー。お前に触れて初めてわかる、私の大切な何かは、ね。
 舞い落ちる桜の中、初めてお前を愛した日。
 共に過ごした日々。二人の記憶。
 笑って泣いて、怒った、二人の情の浮き沈み。
 お前と私だけの間に、積み重ねた思い出。
 今この、熱く触れる手。
 私の闇に咲く花。
 あなたへの時間。






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