はじまりの初陣

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 カレーの匂いがする。
「ちょっと待ってね、シンタロー」
 ふくれっ面のシンタローを玄関で抱きかかえ、その足でキッチンに入って調理を始めたマジックは、火を使う時分にはさすがに彼を床に下ろして、なだめるように言うのだった。
「もうすぐできるから」
 そして鍋を一すくいして、彼の足元で座り込んでいるシンタローに向かって、小皿を差し出す。
「味見してごらん。今日のは上手くできたと思うから」
 と笑う。
 ご機嫌ななめなんだから。シンタローは可愛いね。そう呟きながら。
 長期の仕事から――つまり戦場から――帰ってきたばかりのマジックは、いつもこうやってシンタローの機嫌をとる。
 幼いシンタローは男の行動が腹立たしくもあり、しかしそうされないと落ち着かない自分を感じていた。
 彼の『お仕事』がひどく危険なものであることを、早くもシンタローは理解している。彼の帰りを待つ間は、いつも小さな心を痛めているのである。
 一人のベッドで眠る時、夜風に身を震わせるのは、悪い知らせがやってくるのではないかと怯えているからだった。
 だから、何もふくれたくて、ふくれている訳ではない。無事に自分の元へとマジックが戻ってきてくれたのだから、嬉しいはずなのだ。それどころか、久しぶりに会った彼に対して、愛想のいい顔の一つもできたらいいのにと、そう考えることもある。帰ってきた男の顔を見る前は。
 嬉しそうな顔で出迎えようと思っているのに、マジックに相対すれば、シンタローは頬をふくらませてしまう。もうどうしようもなかった。
 おそらく自分は、彼に対してふくれている振りをしないと、辻褄のあわない感覚に襲われるのだと、幼心にもシンタローは感じている。何の辻褄かは、わからなかったが。



 なかなかシンタローは、差し出された皿に手を伸ばさない。マジックがしゃがんで、自分の目を見て、笑いかけてくれるのを待っているからだ。
 果たして男は、赤い総帥服にエプロンをかけただけの姿でその体勢をとった。目元と口元を緩めて、顔を近づけてくる。
 そして、やっと皿を受け取ったシンタローの頭を優しく撫でた。
 シンタローが小皿の縁を口元にあてて、子供用に味付けされたカレーを口に含み、十分に味わってから飲み込むまでの間、ずっとマジックは黒い頭を撫でたままだった。
 そして彼は、聞くのだ。
「おいしい?」
 相手の青い瞳を見ていたら、シンタローはつい正直に答えてしまう。
「うん」
 こくりと頷いてから、しまった、もっと困らせてやればよかった、なんて考えている。そんなシンタローの頭を、マジックは安心したように、また撫でる。
「そっか。よかった」
 シンタローの子供時代の記憶に残る彼は、20代、もしくは30を過ぎた辺りといった頃だから、まだまだ若々しい青年であったはずなのに、こんな時のマジックは、やけに爺臭いような素振りをしていた。
 男は、やれやれ、といった風に自分の腰を叩き、幸せそうにこう言うのが常だった。
「シンちゃんは、パパのカレーが一番好きだもんね」
 マジックは空の小皿を受け取って立ち上がると、鼻歌をうたいながら、また長い柄をしたレードルで鍋の底をかき回した。かき回す度に、甘いような辛いような不思議な芳香が、室内に立ち昇る。
 シンタローは、すん、と鼻を鳴らす。こんなに素敵な香りを、自分は他に知らない。
 目をつむって、胸一杯にカレーの香りを吸い込んでみる。ことん、と床に頭をつけた。
 そして投げ出した足をばたばたさせながら、キッチンの天井を眺めて想いに浸る。
 耳元にあるマジックのスリッパをはいた足に、ときおり悪戯をしたりする。お行儀が悪いよ、と言われても、今日だけは直さない。カレーがすっかりできあがるまでは、マジックの足元で寝転がったままでいようと考える。
 パパは、わかってない。そうシンタローは感じているのだった。自分が。
 カレーを一番好きなのは。
 『お仕事』から帰ってきた時に、作ってくれるから――。



 がたん、とが揺れて、突っ支い棒にしていた銃が倒れた。シンタローは目を開けた。
 彼が目を閉じた時と変わらず、C-130輸送機は編隊飛行を続けていた。
 貨物室は薄暗く、防音機能はないに等しいので、絶えず轟音が響き渡り続けている。洞窟の中で、木霊に包まれているような心地がする。
 歪曲した金属パイプの上に薄く張られたネットが簡易の座席で、それが不安定なので、ほとんどの人間は直に座っている。尻と腰が痛くなるので、しきりに身を動かす。
 ヘラクレスを英語読みしたハーキュリーズという名のついたこの輸送機は、航続可能距離は約4000キロ、短い滑走距離かつ未舗装の滑走路にも離着陸可能であり、最大搭載量は20トンを誇る。意外にすんなりしたその体で空を切り裂き、宙を飛んでいた。
 最大輸送人員数に近い約90人もの全装備の兵士を、戦場へと運んでいる最中である。機首を先行機の尾部斜め後方につけ、編隊飛行をとっている。
 広大な内部の中央には、丸い柱が立っており、ちょうどシンタローはその柱に背をもたせかけるかたちになっていた。非常の際には担架を固定するための出っ張りが、頬に当たって冷たく感じる。
 彼の身体の周囲にはほとんどスペースの余裕がなく、外の景色も見えない。ただ戦争の道具として、箱詰めにされて運搬されていく、そんな気がしている。
「……」
 すん、とシンタローは鼻を鳴らした。
 スパイスやいくつかのハーブ、香辛料を組み合わせたあの香り。カレーの匂い。
 だが夢の中の香りはもう消えていた。かわりに機械油と汗の入り混じった臭気が、彼を襲う。
 頭を振ると、シンタローは夢の欠片を追い払った。ヘルメットが揺れて、暗視装置や簡易呼吸器が金属の打ち合わさる音をたてた。



「お前、新兵だろ。顔つきでわかる。初陣の前に昼寝たあ、たいした度胸だ」
 向かい側に座る年配の男が、言葉を発した。シンタローは顔を上げ、彼の方を見る。
 はじめて見る顔だと思った。二週間前に到着した基地の勤務でも、毎日の訓練でも顔を合わせたことがない男だ。
「緊張しないのか。俺が若造の頃は、体中が震えて、移動の最中も神経を尖らしてたもんだ。今思えば、武者震いってやつだな」
 男が話す度に喉仏が動き、盛り上がった脇の筋肉がひくひくと振動しているのがわかる。
 シンタローは男の言葉を、静かに聞いた。
 その沈黙を、やはり緊張しているととったのか、先任者の義務と思ってか、男は明るい口調で言った。
「怖いのは、着くまでだ。一発撃てば、あとはもう麻痺しちまって、何も怖くなくなるさ」
 親切な男だと思った。
 シンタローは頷いて、目で礼を告げ、それから刻々と近付いていく戦場へと思いを馳せた。
 初陣に、彼は足を踏み入れようとしていた。



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 舞う砂塵が、地上へと降り立った兵士たちを出迎えた。すでに傾いた日が放つ射光は強い。地平線の向こうへと落ちる前の最後の時を、日は自らを赤く染め上げることで飾り立てているように見えた。
 張り巡らされた鉄条網と、検問所が目につく。街道の要所はすべて封鎖されている。行きかう軍用ワゴンやジープがせわしない。怒号とクラクションの音が飛び交っている。
 どこにでもある小さな国だ。
 戦うために集められた男たちは、この袋地に追い込まれた鼠たちを掃討するのが目的であると、聞かされていた。
 隊列を組み、兵士たちは行進する。配属された班の一員として、シンタローの姿もその中にあった。士官学校卒業生といえど、実戦に就くことなしには正式に任官されることはないのが、ガンマ団のルールである。だからこそ血気にはやる者は、早く戦場に行くことを熱望する。
 シンタローは赤い日差しに顔をしかめ、自分の目の前を進む兵士の背中を見つめていた。彼が配属されたのは、この地に派遣された歩兵師団の一部としての、衛生兵も含めた8人編成の班である。この少し右肩下がりの背中をした男も、その一員だ。
 演習は何度も共に行ってきたものの、シンタローにとっては、もちろん実戦をこの班で戦うことは、はじめてであった。誰とも親しくなったという思いは、まだない。
 視界の隅を黒いものが通り過ぎて、目を向ければ鳥であった。市街地から、山の方へと帰るのであろうか。
「……」
 シンタローは鳥の行方を考えながら、隊列の行方、戦場である街についても考えを巡らせる。



 青の一族の保養地の一つが隣国にあったから、この国については多少の知識はあった。
 街の雰囲気についてもそうだ。隊列の軍靴を響かせる、石畳の敷き詰められた風景にはなじみがある。木々の形にしてもそうだ。広葉樹が多く、緑の葉を豊かに茂らせていた。
 ふと幼い頃の記憶が胸の奥から転がりだしてきそうになって、シンタローは軽く瞬きをした。
 今にもあの締め切られた商店の陰から、ボールが跳ねて、転がってくるような気持ちに襲われた。
 だがそれは一瞬のことで、実際に商店の陰から姿を見せたのは、爆発物が仕掛けられていないかを見回る兵士であった。
 彼は心の内で、くだらねえ、と吐き捨てるように呟いた。
 確かにシンタローは、この街と似た雰囲気の街へと降りてきたことがあった。幼い頃の思い出だ。
 しかしそれは隣国でのことであり、ここからかなり距離の離れた別の街のことで、この場所とは何の関係もないはずであるのだ。
 なぜあの時のことを今になって思い起こしているのだろうと、シンタローは自分が不思議であった。
 目に映る風景は、過去の幻影を浮かび上がらせる。まるで忘れたかった記憶の切れ端を、一つ一つつなぎあわせるように。フィルムの欠片を貼り合せて、ひとつの映像を再現していくように。
 ……そうだ、俺は……。
 別荘から一人で街に降りてきて……少年と出会って……孤児院へと連れられて……そこで彼の『夢』を聞かされた……。
 そこまで記憶を辿ってから、シンタローは回想を打ち切った。
 馬鹿馬鹿しい。どうしてあんな些細なことを、自分はいつまで経っても覚えているのか。所詮は、ただの街だ、とシンタローは考えた。
 俺は与えられた任務をこなすことだけを目指せばいい。初めて戦闘行為に参加する人間に、過去の情感に浸る余裕はないはずである。
 気の緩みだと、シンタローは自らを戒める。輸送機の中で言われた『緊張』どころか、俺は油断してしまっているのではないか。とんだ思いあがりだ。
 20キロ近い重装備で歩くのには、いつまで経っても慣れない。厚みのある抗弾ベストを身に纏い、ミニミ軽機関銃と弾薬をつけた兵士たちの列は、続く。
 死と隣り合わせの空間に、一歩一歩近付いていくというのに、シンタローは怖いとは感じなかった。恐怖は身の内にはない。
 ただ、俺は怖いのだろうか、と自らに問いかければいつも、口の中に、先刻夢で見たカレーの味が広がった。
 そのことをなぜだろうと、ぼんやりと考えていた。
 前方、右手に別れた隊列の端に、コージの後ろ頭を見つけた。巨漢だけによく目立つ。
「生き残れよ……」
 この期に及んでなお実感の沸かぬままに、シンタローは心の中で、列に自分と同じく埋もれているだろう同期生たちに声をかけた。
 また砂埃が、足元から舞った。



 かつてこの国はガンマ団の同盟国であったが、マジックはそのごく若い頃に、有力部族間の抗争に乗じて内政干渉し、事実上の統治下に置いた。以降、何度か小規模の内戦が勃発したものの、武力ですぐ蓋をした。
 統治にあたっては、いくつかの内政ポストを、占領に際して内通等の功のあった部族に振り分けて旨味を吸わせていたところ、数十年経って、そこから腐敗した。
 自分の出身部族の者を重用し、対立する部族をないがしろにする政治姿勢を露骨にし、また近隣諸国との貿易利権まで私物化しようとしたため、地下深くに潜んでいた反政府組織に協力する者が増え始めるという典型的構図であった。それに加えて、蓋をされたまま燻っていたガンマ団への憎悪も蘇ってくる。
 ついにテロが頻発し始め、反政府組織が表立って叛旗を翻した。この組織はガンマ団から派遣した政務官を懐柔していたために、情報が遅れた。
 他国に亡命もしくは難民化していた民間人たちも、かつて祖国を蹂躙された恨みを胸に、民兵として集った。
 マジックは部族の懐柔工作を行い、何度か第三者を介在させて停戦協議を行った。彼にしては穏健な対応であると言われた。和平協定が取り結ばれはしたものの、それを反故にしたり、離反して戦い続ける勢力が残り、内戦が続いた。
 この類の敵は、完全壊滅させるのは厄介だ。いかにこちら側が大兵力を擁し、相手との歴然とした兵力差が存在するといっても、足元を駆け回る鼠の掃討には根気が必要であるのだった。
 機を見て、マジックは攻勢に転じた。彼が最初に穏健策をとったのは、自らに服従する者、そうでない者を見極めるためである。時間が経てば、どの地区にも叛意を持つものは出現する。大事なのは、どのラインで切り捨てるかということ、また切り捨てた者をできる限り一箇所に集めて、一気に最大の軍事力を投入して掃討することであった。
 まさか国全土を焦土にする訳にもいかなかったから、彼我の軍事力の差と、戦後を考慮に入れれば、これが各個撃破よりも有効であると判断していたのだ。
 彼は時間をかけて局地戦を積み上げていった。ある程度の手心を加えながら、地区ごとを制圧し軍を南下させていく作戦をとったのである。一定数の敵を泳がせ、選択肢を狭めることによって追い込んでいく。
 そしてこの街が、最後に鼠の逃げ込んだ穴であり、反逆者たちの墓場となる予定地であった。
 予定を事実にするのが、シンタローたちの今回の任務である。



 隊列と別れ、シンタローの属する班は歩を止めた。自分たちに与えられた区域の入り口に到着したのだ。
 その場所は、元は住宅地であったと思われる通りを含めた一帯であり、四角い石で組み立てられた家屋が立ち並び、夕陽に照らされて淡い輝きさえ放っていた。
 発電所が占領されたために、役目を果たすことができずに突っ立っているだけの電信柱が空しい。長い影を落とし、侵入者たちを見つめている。
 市街戦においては地の利は防御側にあるのが常である。
 来襲を待ち受けるように、トタン屋根の残骸やひっくり返った車や古タイヤ、角材や樽などが積み上げられて、バリケードが築かれている。
 民兵の姿は見えず、どこかに隠れて待ち伏せをしているらしかった。銃弾の一つも飛んでこない。
 敷石の四隅からは雑草がはみ出し、人の手入れが長くされていないことを物語っていた。
 民間人の避難は完了していると上官からは告げられている。だがシンタローは、それは事実よりも想定であることを知っていた。
 上空からのビラ巻きや、ラジオの臨時放送での避難勧告という一連の慣例的作業がなされた、というだけの話であるのだ。
 武器を持っている者だけに銃を向けろ、という建前は定められてはいたが、事実上は、現在残っている者は敵であるとみなす、そういうことだった。



 低姿勢砲塔が搭載された装甲車を先頭とする車両部隊が、バリケードを踏み潰していく激しい音が響き渡る。エンジン音は野生の獣の咆哮のようだ。
 装甲車を包む複合装甲パネルがてらてらとぬめるように光り、肉食恐竜の首を思わせる砲塔が、緩慢にしかし一分の隙もなく動く。爬虫類の目玉のように不気味に旋回している。
 車体上面にある装甲車の目であるカメラは、熱線映像装置によって、生命体の熱を感知することに全力を注いでいるはずだ。
 圧倒的な火力で、その熱を瞬時に消し去るために。
 人力で築かれた卑小なバリケードは、機械の重量によって軽々と踏みしだかれていく。太い丸太にキャタピラが乗り上げ、車体が軽く浮いたように見える。だが次の瞬間、丸太は数十トンの装甲車重量に負けて潰れ、平地の一部となる。
 道ができた。
 すぐに合図が下った。シンタローは、地面に残る装甲車の轍を踏んで、駆け出した。平たくなったバリケードがスタートラインだった。
 初陣はいつの間にか始まっていたのだ。



 新兵のシンタローは衛生兵と一緒に、チームの真ん中を駆ける。さらには班長が側についてサポートするのが初陣の慣例だった。
 班は訓練通りに扇状に散開した。市街地では、遮蔽物を利用した各個前進を基本とする。
 シンタローは、自分が思いのほか速く走ることができるのに驚いた。隊列を組み行進していた時よりも、体が軽くなった気がしている。さっきはあんなに重いと感じていた装備は、まるで子供時代のランドセルぐらいにしか感じない。
 すぐに彼は、缶のプルタブを開けたような音を聞いたと思った。最初はそれが何の音であるか、わかっていなかった。
 民家の陰に隠れ、側の班長が銃を構えて撃ったことではじめて、銃撃の音であったことに気付いた。弾が自分を掠めていたのだ。シンタローはそのことに驚いた。敵の弾は、演習とは違う音がする、と考える。
 通り向こうの屋根上に人影が見える。高所から狙撃されていたのである。敵は正規軍ではなく、民兵がほとんどであり、自然、攻撃方法も変則的である。油断はできない。
 シンタローも班長にならって追射した。弾は三角の屋根に当たって、跳弾となって四散した。これも驚いたことに当たらない。射撃に絶対的な自信を持っていたシンタローは、愕然とした。訓練ではできていたことが、ここでは通用しない。
 焦りが体中を駆け巡った。自分は一体どうしたのだろう。
 弾を一発撃てば怖くなくなる、そう輸送機で一緒になった男は言っていた。だが、恐怖のことはともかく、当てるにはどうすればいいんだ?
「肩の力を抜け」
 首筋の辺りを背後からつかまれて、シンタローは肩をすぼめた。
 言われてやっと、力みすぎていたのだと感じる。筋肉が凝り固まったように、不自然な体勢をとっていた。
 危なかった。俺としたことが、自分を見失うところだったと思う。
 言う通りにできるだけ力を抜いて、引き金を引く。すると弾は、今度も当たりはしなかったものの、敵の引っ込めた頭があった空間へと飛んだ。シンタローは、基本を自分は逸していただけだと気付いた。
「そうだ」
 シンタローが急いで修正した姿勢を見て、班長は無骨にそう言った。演習の時からそうだが、彼は必要なことしか言わない。
 考える暇などないことはわかっているのにシンタローは、この無口な班長が、顔合わせの時に口にした言葉を思い浮かべている。
 ――自分の指揮下にある限りは、特殊能力はできるだけ使うな、と彼は言ったのだ。
 お前のことは、上からは聞いている。だが、お前は俺の前では普通の新兵だ。いいな。
 実際、シンタローの現状では、特殊能力を使えばそれだけ疲労が大きかった。疲労とは身体能力が目減りしていくことで、それは戦場ではわずかな生死を分ける分水嶺となる。特に新参者にとっては。
 最初から特殊能力に頼るよりも、基本的能力を磨き、経験を積むことによって、結果的に戦場で生き残る術を身につけろと彼は言っているのだなと、シンタローは理解した。
 そもそも叔父サービスとの特訓も、そのほとんどを基礎体力と技能の習得にあてていたから、意味することはとてもよくわかる。
 自分を特別扱いしないこの班長を、シンタローは気に入っていた。こんな表現は不遜かもしれないが――
「……ッ……?」
 屋根の上の男の体が、不意に弾けた。弾けた体は大きく痙攣し、逆さにもんどりうって倒れ、頭を下にして屋根からずり落ちた。
 グシャリと鈍い音がして、地に落ちる。遅れて旧式のライフルも一緒に滑り落ち、転がった。
 シンタローは撃つ手を止めた。弾が掠めた時と同じく、何が起こったのかを頭がすぐに認識することができなかった。
「お前の弾だ」
 班長の声がした。すぐに、行くぞ、と声がかかる。



 四辻交差点の四つの隅に散開する。六時の方角――北半球であるため、つまり北――を班長と共に受け持つことになったシンタローは、激しい敵の銃弾に晒された。
 この道は市中心部に続くらしく、進むほどに反撃が苛烈になる。
 こちら側も同じくらいの銃弾を浴びせ、弾の雨が飛び交うことになる。道脇のトタン屋根が、雨どころか大きな雹が降ってきた時のような、バラバラという音を立てて、穴だらけになっている。
 シンタローは自分の銃が、給弾不良を起こしていることに気付いた。舌打ちをしてベルギー製MINIMI軽機関銃の銃身を拳で叩く。拳が痺れた。痺れた手で、撃ち続ける。
「弾を節約しろ」
 隣から諌める声が放たれて、ハッとシンタローは我に返った。
 さきほどからの自分の命中率の低さに唖然とする。夢中になって撃った弾は、どれも壁のモルタルを削って、跳弾していくばかりだ。ここでは士官学校首席卒業などという肩書きは、何の役にも立たない。
 落ち着け、落ち着け。そうシンタローは自らに言い聞かせた。
 今度の精神の阻害要因は、単なる力みすぎとは、また違った。落ち着け。彼は口の中で呪文のように呟いた。訓練通りにやればいいんだ。
 その一方で、自分は十分に落ち着いているという気もしている。ただ狙いすますための精神統一が足りない。心の水面は波打つばかりで、決して水平にはならなかった。
 心が波打つのは、次のような疑問が底から浮き上がってくるからである。
 俺の撃つ弾が当たったとして……一体それはどういうことなのか?
 シンタローは先刻の民兵の死体を思い出した。頭を割られて、屋根から逆さにずり落ちてきた惨めな屍。彼はどうしてああなったのだ? あれは俺がやったのか?
 殺したのか?
 殺すとは、どういうことだ? 俺が? 殺した? 人間を、もう動かない肉の塊に変えた?
「……チッ」
 シンタローは舌打ちをした。そしてまた撃った。
 俺は覚悟をしてここに来たのではなかったか。今頃どうして、そんなことを気にしている? 当たり前のことじゃないか。
 考えるな、考えるな。今はそんな暇はない。



 一ブロック向こうの通りでは、他班がプラスティック爆弾を家壁に仕掛けている。一際目立つ大きな建物は、この区域の中心的存在であるらしかった。
 敵の攻撃は、自然その方面に吸い寄せられていく。爆破を阻止しようとしたのか、大胆にも数人の民兵が道の中央に踊りだしてきて、銃を構えた。
 シンタローはその男の一人に狙いを定め、引き金をひいた。
 果実が割れるように、男の頭が割れた。他の男たちも、次々に仲間の銃によって撃たれ、倒れ付し、やがて動かなくなった。
 すうっと心が冷えていく。命中率は、時間が経つごとに上がっていた。その度に心が冷えた。冷えるということは、落ち着いたということなのかもしれない。
 自分は戦場に順応しようとしている。
 その事実を、シンタローは乾いた胸で受け止めた。受け止めただけで、咀嚼せずに、そのまま抱えていく。次に狙いを定める。
 短い間に沢山のことがありすぎて、自分が今ここで経験していることが、心に染み込んでいくには、時間がかかりそうだとだけ思った。
 器がどんどん、他人の血によって満ちていく。
 他班を援護しながら、シンタローたちの班はその道を護った。



 やがて赤い閃光が満ちて爆発し、石壁が崩れ落ちるのが見えた。男たちが侵入し、建物内部からは銃声がしばらく響いていた。
 内部が制圧されたのを見て取ると、班長が言った。
「ここの援護はもういい。九時の方向に進むと伝えろ」
 シンタローは仲間に向かって、手信号で班長の命令を伝えた。砂埃が視界を覆い、上手く伝わらない。しばらく待ち、また手を動かした。
 班員たちは交差点を抜け、住居らしき建物の並ぶ脇道へと入った。



 不意に弾が飛んできて、シンタローの足元に突き刺さる。周りの土が跳ねた。道隅にとめてあった旧式のトヨタの陰から男が飛び出してきて、こちらを撃ったのだ。
 ドラム状の弾倉を装着したAK47系列で連射してきた男は、十数メートル離れた先にある露店の陰に飛び込んで身を隠した。男の行動に勇気付けられたのか、それから後を追うようにして、シンタローたちをめがけて敵の一斉乱射が始まった。
 敵の射撃は正確ではないものの、その分、自らに当たらないように撃つのが上手かった。銃口だけを遮蔽物の裏から突き出しては、一瞬だけ頭を見せて狙いを絞り、引き金を引く。そしてすぐに頭を引っ込める。
 頭を見せた瞬間に引き金を引くこちらの弾は、空を切る。相手の出方を予測して、数秒早く撃ってみたり、遅く撃ってみたりしたものの、上手くいかない。遮蔽物を掠めるだけだ。
 特に最初に飛び出してきて、今は露店の陰にいる男の位置はいやらしかった。
 角度が悪かった。相手の場所取りが的確であったともいえるが、こちらが全身を露出させなければ、狙いづらい位置に敵がいたのである。そこから、撃ってくる。
 これでは埒があかない。先へと進めない。それに敵に馬鹿にされているような気持ちにもなった。
 仲間たちが苛立たしそうに拳で壁を打つ音が聞こえた時、シンタローはとっさに決意を固めた。瞬間的な判断だった。
 弾の飛んでくる頃合を見計らい、こちらが臆病者でない証拠に、彼も道の真ん中に飛び出したのである。
 素早い動作で正面から、たった今、銃口炎が見えた方に向けて撃った。露店の布が巻き上がり、奥に放った弾が突き刺さった。
 すぐにシンタローの身体を敵の無数の弾が狙ったが、その弾が到達するよりも先に、彼は道を横断しきった。隣側の角へと滑り込む。そこには仲間の一人である古参兵がいた。
 敵も味方も、しんと静かになった。少なくとも、露店の陰からの銃撃は止んだ。
 仲間たちは遮蔽物の陰で、班長以外は皆、表情を止めていた。
 少しでも判断を誤り、また運が悪ければ、シンタローは格好の的になっていただろう。いや、現に的になっていた。足が素晴らしく速くなければ、死んでいた。無謀とも思える行為だった。
 だがシンタローは、仲間たちのその表情は、もしかして自分の出自によるもの――総帥の息子であること――ではないかと、はがゆく思った。班長のことは信頼していたが、他の仲間たちは、演習の時からも、自分にどこか距離を置いて行動を共にしているような気がしていた。
 他の皆は、俺を死なしちゃならねえ、適当に戦争ごっこを経験させておけばいいと、そう思ってやがるのかと、その時のシンタローは若い怒りを覚えた。それはある意味、自分勝手な怒りであった。思い通りの働きができていない自分への腹立ちも、入り混じっていたのかもしれない。
 しかし、
「坊や、無理すんな」
 肩を叩かれて、振り返った時、その憤りはあっさりと消えてなくなった。
 よくやった、という顔をしながらも、機関銃を胸に抱いた仲間の古参兵は、言ったのだ。
 坊や、それはシンタローにとって口にされれば腹の立つ言葉の一つであったが、なぜかこの時は逆に嬉しささえ込み上げてきたのが不思議だった。
 総帥の息子だからではなく、単に鼻っ柱の強いひよっ子が大胆な行動をとったことを、彼らは心配してくれたのだと、感じ取ったからだ。同じ戦場に立っていれば、その真実は肌でわかった。
 すぐに周囲からも、『お前の死体をおんぶしてやるのは御免だぜ』『俺たちにもイイ格好させろよ』等と素直ではない声がかかった。だがその声たちにはやはり、好意と仲間意識とが滲み出ていたのである。
 彼らはこの無謀行為によって、自分を仲間として認めてくれたのだと、シンタローは思った。訓練や演習では覚えることのなかった連帯感が、はじめて身に染みた。班長には後で叱責を受けるかもしれなかったが。
 親しげに肩を叩いてくれた古参兵が、こちらを見てウインクをした。シンタローと彼は、互いの手の平を打ち合わせた。彼の目の淵には笑い皺が、よく日に焼けて、鳥の足跡のようにくっきりとついていた。



 その通路での戦闘を制し、道の先へと進む。背の高い木の向こうには、他班の援護射撃を行うために低空飛行をしている軍用ヘリの姿が見えた。
 その辺りからは細長い煙が、空にたなびいている。バリケードが燃えているのか、風向きによっては焦げた臭気が流れてくる。
 日暮れと共に、敵の狙いがあてずっぽうになっていくのを、シンタローは感じていた。
 シンタローはすでに、暗視装置をヘルメットに装着している。遠近感のずれと、視界が狭まることに多少の難はあったものの、夜でも敵を捉えることができる。対して、敵は肉眼である。暗視装置は非常に高価だから、小国の兵やましてや民兵は買うことができない。ここにれっきとした格差がある。
 軍事力の差であり、恵まれた者が恵まれない者を負かすことのできる理由の一つだった。
 兵士たちの目的は、掃討、であるのだ。はじめから勝利は誰もが疑わなかった。だがそれをどう演出するか、ということだと全員が思っていた。
 戦略的には勿論のこと、自分たちの区域における局地戦術的にも、作戦は順調に進んでいる、とシンタローも考えていたし、班員の誰もがそう思っていたに違いない。
 このまま、とっぷりと日が暮れれば、ますますこちらが有利になる。
 行く道は、敵の死体ばかりで満ちていた。
 だが、遮蔽物の陰で伏して狙い撃ちをしていたシンタローの視界に、不意に何か白いものが飛んでくるのが映った。耳が馬鹿になっていたのか、音は聞こえなかった。
 RPG-7ロケットランチャーだ。気が付いた時にはもう、向かい側の壁が爆発していた。



 細かい砂塵が晴れた。爆発で壁が崩れ、積み上がったトタンの山が四散していた。その残骸に埋もれて、さっきシンタローの肩を叩いてくれた古参兵が、左足を奇妙な方向に曲げて、うつ伏せに倒れていた。
「……!」
 シンタローは息を飲んだ。一瞬、手が止まる。
 パラパラと瓦礫の崩れる音が、今度ははっきりと聞こえてきた。HE弾が装填されていたらしく、TNT爆薬特有の化学薬品じみた臭いが漂ってくる。
 シンタローと同じ側にいた衛生兵が、勢いづいた弾丸の雨が降る中を駆け寄って、仲間の両脇を抱えた。そのままずるずると後ろ向きに体を引き摺っていき、廃材の山を遮蔽物にして、その陰で傷の具合を確かめている。
 古参兵の歪曲した左足の下には、血溜まりが広がっていった。
 班長は表情を変えずに、残りの仲間に対して、道の先にある家屋を親指でさししめす。道はやや上り坂になっていて、数十メートル先の角に、白壁の建物がぼうっと浮き上がっていた。
 他と比べると堅固な造りをした、この地域によくある平屋ではなく二階立ての建物で、舗装された大通りに面している。窓から灯は漏れてはいないが、確かにあそこからだ、と注意深い隊長は表情で全員に伝えた。
 シンタローは自分を恥ずかしく感じた。自分は命中場所にしか視線をやらず、また気をとられていたが、経験を積んだ男はその僅かな瞬間に、正確に凶器の発射された方向を観察していた。
 ともかくも厄介な敵は、そこに陣取っているらしい。こちらの戦力を奪ったものの、RPGを発射してこちらに居場所を教えたことが、彼らの運の尽きだった。
 シンタローの次に若い男が、背負っていた使い捨てのロケット発射機を無言で下ろした。折り畳み式のそれは対戦車用で、有効距離は200メートルにも及ぶ。アルミニウムのチューブが不気味に輝いた。
 光学照準器を立ち上げたとみるや、すぐに、カチリ、と音がした。発射の反動で、男は反った体をすぐ元に戻した。
 弾道は細く長い煙を引き、みるみる白壁の建物、その窓に向かって吸い込まれていく。轟音が響き、壁が震えた。閃光が窓から、すでに暗くなった外に漏れて輝いた。



 班長は衛生兵の報告を受けている。大腿骨が折れたようで、飛び出た骨がそのまま応急措置として固定されている。神経組織や血管の損傷を避けるためだ。止血され、腕から輸血もされていたものの、古参兵の顔は蒼白だった。唇が紫色で、ショック症状にある。血の気の引いた頬をしていた。
 大腿部の骨折の場合は、骨の内部からだけでも1リットル近くの出血があることを、シンタローは学んでいた。しかも彼は外傷も負ってそこから出血しており、またこのような開放性骨折の場合は、感染症の危険も高い。後送するか、または安全な場所で寝かせておくことが必要だった。
 シンタローは彼の目尻の皺を見た。たった今まで、元気に戦っていた男であるのに。その側にある、輸血用パックから伸びるチューブだけが、生きているように見えた。
 突如、周囲の気圧が変わった。シンタローは上空を見上げ、強化プラスティック製のヘルメットを押さえた。
 回転翼の風で周囲の土埃が巻き上がり、煉瓦のかけらが空を舞う。自ら援護に来てくれたのか、あるいはシンタローの気付かない内に、無線を持つ班長が呼んだのか。
 ヘリが現れたのだ。空飛ぶ戦車と呼ばれるAH-64アパッチは、自動式機関砲による一斉掃射を行った。ガガガガガ、と無慈悲に鉄槌が打ち下ろされる音が聞こえ、荒く地と空気を震わせて、味方の誰もが、その槌を受けた者が自分たちではなかったことを幸せに思う。
 道の先からは、もう弾が飛んでくる気配はなかった。機関砲を浴びて生きていられる訳がなかった。敵のいたポイントでは、ずたずたに引き裂かれ、中身を露出させた人体が転がっているのが見えた。
 ヘリは空高く舞い上がり、次の戦場へと飛び去っていく。
 活路が開けた。



「行くぞ!」
 勇気を得た班員は道を進み、次の四辻の確保を指示した後の頃である。
 班長がシンタローに声をかけた。
「俺と一緒に来い」
 班長が向かったのは、新たな前線の背後、つまりすでに安全地帯となった区域に立つ、例の白壁の建物だった。実際に確かめてはいなかったが、中にいてRPGを発射し古参兵を戦闘不能にした敵は、死んでいると思われる。だが油断はならない。
 入り口の壁に背をつけると、班長の指示に従ってシンタローは、割れた窓ガラスから音響閃光手榴弾を投げ込んだ。
 その炸裂と同時に、二人は間髪入れずに中に突入する。
 床にはRPGの発射機が転がっていた。部屋隅に三人の男の死体を発見する。一番上になった死体は、直撃を受けたのか原型をとどめてはいない。先刻のロケット弾が密室で威力を発揮したのだろう。石壁にはひびが入っていたが、崩れることはなさそうだった。
 床は陥没し、血でぬるぬると滑る。ついさっきまでは、生ある身体の中を循環していたばかりの血だ。その上に、班長は小型非常灯を置いた。周囲がぼうっと明るくなる。
 部屋隅には、大ぶりのテーブルが転がり、腹を晒していた。粉々になった機械の欠片は、おそらく元は電話機であった代物か。焦げたゴムの悪臭を放つコードが、その面影を残す。
 慌しく班長とシンタローは部屋中を点検し、奥の階段を駆け上がって二階部分も調べた。二階は無人で、異常はない。
 二人は再び一階部分に戻ってくると、部屋隅にあるドアに視線を送った。
 隣家につながっていると思われる。この辺りはいわゆる長屋式になっていて、隣の世帯と壁一枚、ドア一つで隔てられた建物が多かった。だからこそ、ここに敵が潜んでいれば容易に襲撃を受けること明白であった。
 班長が目で合図をした。シンタローはドアの錠部分を狙って撃ち、金属が弾け飛ぶ。
 間髪入れずに班長がドアを蹴破り、二人は中に侵入した。
「……ッ!」
 あやうく撃ちそうになってシンタローは、ギリギリの瞬間で引き金にかかる指に込めた力を抜いた。
 隣家にいたのは女と子供であった。女は、怯えた目で侵入者たちを見遣り、首を振った。
 痩せた子供はベッドに寝ている。子供が病気で逃げ遅れたのだろうか。床には粗末な衣服が散らばっていた。
 シンタローは彼女に手を上げさせ、手錠をかけて大部屋脇の物置らしき場所に押し込めた。子供も毛布に包み、同じ場所に入れる。情けをかける訳にはいかなかった。小さなミス、それがこちらの命取りになる。
 室内の安全を確認し、二人は元の建物に戻って、そこから外に出た。負傷した古参兵を運び入れ、建物内部に寝かせた。
 鎮痛剤が効いたのか、古参兵の意識は虚ろだ。しかし呼吸は早かった。声をかけると、うっすらと目を開けて、唇を動かし、『すまん』と呟いた。
 班長は窓の外から目をすがめた。彼はヘルメットの下にヘッドセットをつけており、無線で連絡をとることができる。スイッチを入れてから、数語を叩きつけるように叫んだ後、彼はシンタローに向かって言った。
「ここを確保していろ。俺は入れ込みすぎたバカを連れてくる」
 バカ、とは仲間の班員のことかもしれず――ヘリの援護射撃で活気付き、先へと進みすぎたのだろうか――、もしくは他班との合流地点が近かったから、彼らのことかもしれなかった。
 何にしろ自分たちは与えられた任務を着実にこなしつつあるのだから、とシンタローは考えた。予定区域はほぼ制覇している。言い換えれば……この区域の戦闘員は、すべて殺害しかけている。
 そして班長は、この建物から今後の指揮をとるつもりなのかもしれないと予想した。負傷者を後送する車両なり何なりが到着し、新たな命令を司令部から受けるまでは、彼はそうするだろう。



 シンタローは窓から外を見た。この窓は表通りを撃つのに都合がよいと考えた。射界が広く、角度的に有利だ。班長も同じことを考えたに違いなかった。
 それから少ししゃがんで、暗視装置を外し、横たわる古参兵の様子を見た。声をかけようとした。時々声をかけて元気付けることが、負傷者への鉄則であったし、何よりもそうしたいと思ったからであった。
 頬を叩くために、指を伸ばす。彼がまた薄く目を開けたので、水を飲ませてやろうと、腰の水筒を取り出す。蓋を開ける。浄水用のヨード錠剤を入れた水は不味いが、ないよりましだ。
 シンタローは古参兵の乾いた唇に、水筒の口を傾けた。
 そこに隙が生まれた。
 背後で、部屋隅に積み上がっていた死体の山が動いたことに、シンタローは気付かなかった。



 そんな偶然があるはずはない。
 瞬間、シンタローは動揺した。心臓がばくばく打ち鳴らされて、頭が真っ白になった。
 これは幻覚であるのだろうか? 深層意識が作り上げた恐怖の幻影か?
 ――傷が。
 若い男だった。その首には、茶色く引きつれたような、大きな傷跡があった。爆風で布が裂けて露出した足にも同じ、惨たらしい傷跡がある。その特徴的な傷には見覚えがあった。あの日のことがはっきりと蘇ってくる。
 幼い頃、別荘から石畳の敷き詰められた街に抜け出したシンタローは、丸い瞳をした少年と出会い、友達になった。
 古びた孤児院の一室で、手垢のついたファイルを見た。切り抜かれたマジックの写真を殴りながら少年は、シンタローに向かって言ったのだ。
『僕のお父さんも、お母さんも。お兄ちゃんも妹も。僕の足と、この傷も。そいつの軍隊にやられたんだ。全部、そいつのせいなんだよ』
『だから僕は、仇を取るのさ。いつか絶対にやっつけてやる』
『お前も、僕の友達だから、わかってくれるよな?』
 少年の体には、酷い傷跡があった。
 ――あの時の、傷が。今、俺の目の前に。
 異変を感じた瞬間、振り向いたシンタローの視界の中では、折れ曲がった旧式ライフルの先についた銃剣で、飛びかかってきた男の姿が大写しになって閃いたのだ。



 殺される、と思った。
 男の動きがスローモーションのように見えた。しかしその血走った目、引きつった頬の上に、今度は違う鮮やかな映像が重なる。
 ああ、あいつの声が聞こえる、とシンタローは考えている。笑顔が。
 鼻を、すん、と鳴らす。
 カレーの匂いだ。
 これもまた幻覚か。
 俺は死ぬ時には走馬灯を見て死ぬのではなく、きっとあの香りに包まれて死ぬ。静かな思い出の中で死ぬ。
 刹那、シンタローは声を上げた。
「あ……」
 肉を切る感触が、手に伝わってきた。
 反射的にシンタローが突き出していた腕、その先に握られたナイフは、若い男の首筋の動脈をかき切っている。S&Wフォールディングナイフの、グリップと共に黒く塗装された刃が、吹き上げる血を弾く。
 無意識にシンタローはナイフをホルダーから抜き取り、自らの命を救い、相手の命を奪ったのだった。
 そこには思考はなかった。心の動きもなく、陶酔もなく罪の意識もなく快楽もなく、シンタローは人を殺した。
 零の世界だ、となぜかそんなことを考えた。



 びしゃりと自分の顔に生温かいものが飛んできたのを、シンタローは意識した。血だ、と頭の隅で理解した。
 赤い。赤すぎる血だ。動脈の血だ。非常灯だけの暗がりでは、血は暗闇に輝く花火のように見えた。
 鮮血は激しくほとばしり、天井と壁を染め上げ、やがて雫となって床へと落ちた。血の雨が、ぽつりぽつりと降ってくる。
 自分のヘルメットの縁から垂れてくる血を、シンタローは呆然として見つめた。
 血の滴りの向こうでは、襲撃者が仰向けに倒れ、眼球はぐるんと回転して裏側を向いていた。死体の山の一番下にいた男は気を失っていただけで、やがて意識を取り戻し、反撃の機会を窺っていたに違いなかった。
 男の口元からは、泡が沸いた。びくびくと沖に上がった魚のように、全身で痙攣を繰り返していた。
 シンタローはその様を見ながら、無意識の内に人を殺すことのできる生き物に、俺はなってしまっていたのだと、今さらながらにハッと胸を打たれた。
 士官学校入学以来、俺は訓練に打ち込んだ。強くなれると思ったからだ。
 だがそれは、人を殺すためのものだった。こうやって、正確に相手の命を断つための――。
 はじめてのその実感が、シンタローを掴んで揺さぶる。
 突風がうなる度に、枝が窓ガラスを叩くのに似た、乾いた音が屋外からは聞こえていた。もうその音は知っている。弾の音だ。
 戦況が変わったらしいとシンタローは感じたのだが、足腰は震え、立ち上がることができない。



 長い時間が経ったように思えたが、それは数秒の間の出来事であったのかもしれない。
 のろのろと泳いだシンタローの目は、襲撃者の死体に注がれた。その首筋と足に刻まれた傷を見ようとした。自分が見たものが、実際のものであるのか、それとも意識が作り上げた幻覚であったのかを確かめようとしたのだ。
 だが、どちらであったのかは、永久にわからなくなってしまった。
 なぜならすぐに爆発が起こったからだ。
 床に座り込んでしまっているシンタローの側で、カチッと何か留め金を外すような音がした。
 恐ろしいほど緊迫感の中、シンタローは、息絶えたかに見えた男の指が、その懐に潜り込んでいるのを見た。懐からは、細い鉛筆のような柄が顔をのぞかせていた。
 手榴弾だ、と思った。死にゆく男は最後の力を振り絞って、手榴弾のピンを抜いたのだ。



 認識が雫となって、シンタローの身体へと流し込まれるには、どれだけの時間がかかったのか。
 これも、せいぜいは炸薬が引火するまでの数秒であったに違いなかった。
 ともかくもギリギリのタイミングで、シンタローは古参兵に飛びついて、同時に片手でひっくり返っているテーブルを寄せ、部屋隅でその背後に滑り込んだ。古参兵の上に覆い被さるように、身を低くして伏せた。
 爆発音が耳をつんざいた。爆風が渦巻いた。息ができなくなった。体中の皮膚が焼けるような感覚に襲われて、背中と、テーブルを押さえている腕と手の甲が、びりびりと震えた。煤がその震えた部分を黒く覆った。
 破片がテーブルに突き刺さる音が聞こえた。手榴弾の破壊力は、距離を保てばさほどではないが、この飛び散る破片の殺傷力は馬鹿にはできない。シンタローは爆風で揺れるテーブルの脚を、必死で押さえた。
 幸いなことに手榴弾は途上国で大量生産された安物らしく、鋭い破片が、テーブルのこちら側まで貫き通してくることは、なかった。
 喉が痛い。水分という水分を、一瞬で蒸発させられたみたいだ。
 咳を漏らしながら、仲間の安全を確認すると、シンタローは立ち上がる。テーブルから手を放すと、それはガランと音を立てて床に転がり、脚がもげた。
 濃い煙が室内に充満していた。火薬の臭気が鼻をつく。床と壁に染み込んでいた大量の血は、焼け焦げて黒く痣のようになっていた。
 あの男がいた場所には、血ばかりか、肉片と内臓がこびりついている。混じりこんでいる尖った金属片は、手榴弾の残骸か。
 耳鳴りを止めるために耳元を叩きながら、シンタローは死体の欠片を見下ろした。
 その肉片からはもう、記憶の中の傷跡を判別する術がなかった。



 数時間後、シンタローの属する班はその区域を完全に制圧し、任務を果たした。
 その後すぐにやってきた搬送用ヘリによって、古参兵は無事に護送された。すぐに搬送先の病院で手術が行われ、半年は松葉杖と、埋め込まれたボルトの不快さに耐えなければいけないが、まず回復するであろうという見込みが、大分後になってから告げられた。
 仲間内からは死者は出なかった。だが仲間たちは、その人数の数十倍もの敵を殺していた。明らかに戦場の論理は、不均衡であった。悪魔の天秤は一方向ばかりに傾いているとしか思えなかった。
 死とは、増殖し続けるものなのだ、とシンタローは思う。
 その場所に呼ばれ、翼を広げる鳥のように、荒地に染み出していつか大河になる湧き水のように、増える。あとからあとから増える。
 ひとつ死が染みのように落ちれば、そこから増える。ただ、増える。
 人はそれをコントロールすることができない。
 戦場には死体と瓦礫の山と、硝煙の臭いしか残らない。
 やがてやって来た車両隊に、シンタローの班は回収された。
 シンタローはその後、数箇所の激戦区を巡り、基地に戻ったのは数日が過ぎてから、一方的な『戦争』が終局に近付いてからのことだった。



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 大型ジープで検問所を通り過ぎ、いかついフェンスに囲まれた基地の姿を視界に入れた頃、シンタローは、無性に空腹を感じた。携帯食を続けて口にしていたからだと思った。
 その国に侵攻してから、占領するまでの僅かな期間のために作られた、何の個性もない基地である。だがそれでも、立ち並ぶ倉庫や軍用施設の一角に、兵士の再生産活動に必要な建物群が存在していた。飲食店や、いわゆる歓楽施設である。
 すでに日も暮れていたので、無愛想な街灯がちらちらと輝き、安っぽいネオンの色と入り混じって、一種の異様な空間を作り出している。戦場のすぐ側で、フェンスのかたちに切り取られた異空間。
 彼は仲間と一緒に酒場に入った。煤けた店内は、だらしなく軍服をひっかけた男たちで一杯だった。
 適当な席に割り込んで座り、ありったけの料理を注文して胃袋を満たす。
 だが空腹感は治まらなかった。自分が求めているものは、他にある、という気がした。
 シンタローは食べるのを止めて、かわりに浴びるように酒を飲んだ。テンポの速い音楽がかかり、酒を流し込むたびに臓腑が踊るような錯覚に囚われる。隣の男が小刻みに膝を揺らしていて、斜め前の男は、ステップを踏むように軍靴で床を鳴らしていた。
 誰かが煙草を吸っていた。自然に手を伸ばして、シンタローも煙草をくわえ、火をつけて吸った。安い紙煙草だ。
 士官学校時代に数度吸ってみたことがあったが、別に美味いとも思わず、その後は関心がなかった。今も味がしないと思った。匂いはいわゆる『煙草臭い』だけだと感じた。
 性に合っているのか、むせることもない。
 吸い続けた。テーブルの真ん中に置かれた箱が空になると、席を立って今度は自分で買いに行った。
 口寂しいだけなのかもしれないと、酔った頭の隅で考える。
 喧騒の中で、彼は椅子に深く腰掛けて、汚れたテーブルクロスの端を眺めている。空っぽの皿の底に光が溜まって、きらめいている。灰皿代わりの空き缶の縁が、鈍く輝いている。誰かが身を乗り出して、向かいの者に雑言を吐いたので、缶は揺れて、灰が零れた。
 グラスの触れ合う音がする。カウンター内では、ろくな注文が来ないバーテンは、同じカクテルばかりを作っていた。銀色に光るシェーカーは宝の持ち腐れ。氷ばかりが必要になる。
 みんな酒の味がもうわからない。だから夜更けに出る酒は、水で薄められたり粗悪品を混ぜられたりしていることが多い。コリンズグラスに氷を入れて乱暴にかき混ぜる音が、濃い酒と煙草の霧の中で、やたらと耳に響く。
 どこかのテーブルで、床に取り落としたのだろうか、もしくは誰かに投げつけたのだろうか、皿かなにかが割れる音がした。それを契機に、狂気じみた笑い声が始まった。何がおかしいのか、複数の男たちが裏返ったような声を出しながら、喉を痙攣させている。
 笑いは伝染し、今ではシンタローの周りを囲む男たちも笑っていた。
 何がおかしいのだろう、とシンタローは思った。ここには面白いことなど、一つもないのに。
 そしてシンタローも、笑い声を立てた。
 ぐるぐると酔いが描く円は、まるで渦のように回転を早め、シンタローは、髪の毛の先からアルコールが這い上がってくるような錯覚に囚われていく。



 いつの間にかシンタローは外に出て、一人きりで夜風に吹かれていた。
 黒髪をなぶる風は冷たく、遠くにも近くにも揺れる灯を揺らした。この地は、元は牧草地だったものを収用したもので、鉄条網の向こうには草原が広がっていた。
 闇色に塗られた草原は、さわさわと波のように身を寄せ、また引いていく。
 波の中では、空っぽの牛小屋がまるで沖の小島であるといった風情で、痩せた姿を晒している。
「……」
 シンタローは黙って、視線を自分のいる鉄条網の内側へと向けた。
 目の前の道を行って裏に入れば、兵士たちを慰めてくれる女性のいる店もあることは勿論知っていたし、仲間たちの何人かはそんな場所にいそいそとしけこんだということも知っている。
 だがシンタローは、そんな場所に足を向けようとは思わなかった。別に潔癖症という訳ではないが、何となく気が進まない。その気になれない。そんなことをしている暇はないような気持ちになる。
 後方勤務の際にも、年配の兵士たちに誘われることは多かったが、そのつど無視していたら、『お高くとまってやがる』と陰口を叩かれるようになった。『お坊ちゃまは、俺たちと一緒に、こんな場末で盛るのはお嫌だとよ』
 寂しい時、男は女を抱くのだという。
 自分にもいつかそんな気持ちになる日が来るのだろうか、とシンタローはぼんやりと考える。まだ自分は、皆の言う通りに『お子様』だということなのか。俺はまだやっぱり坊やで、お子様なのか。
 慰めに溺れるつもりはない。
 だが恋しかった。



 足元がもつれた。
 すぐ側にあった、粗末な板を並べただけの塀に、したたかに肩を打ち、そのまま寄り掛かる。頭がひどく重くて、首の骨がやわらかくなったような心地がし、だらんと頭まで塀に押し付ける。
 ずるずると軍服と木塀が嫌な摩擦音をたてて、シンタローの身体を重力の引く方向に、ずり落ちさせていくのだった。
 ひやりと尻が冷たくなって、彼ははじめて自分が、地べたに座り込んだことに気付く。脚を不自然な格好に折り曲げたままだったが、直す気にもならない。
 舗装などされていない、土がならされただけの道は、すぐに体温を吸って生温かくなった。
 少なくともこの場所は、血に塗れてはいなかった。硝煙の臭いも肉の焦げる臭いもしなかった。
 しばらくそのまま、シンタローは身動きしなかった。
 ただ黒髪の先だけが、風に揺れた。
 やがてシンタローは顔を上げ、誰にともなく呟いた。夜空には星が瞬いている。
「俺は、アンタに近付けるのか」



 きっと俺は、人を殺せば、それだけで壁の向こう側が見えると思っていたのだ、とシンタローは一人自嘲した。
 人を殺していること、殺していないこと、それはあの男と自分とを隔てる壁のようなもので、殺人の通過儀礼を受ければ、新しい視界が開けるはずであると。心の奥底で、なぜか信じ込んでいたような気がしている。
 騙し絵の世界が崩れて、同じ世界を見ることができると思った。
 だが実際は、こうだ。
 地に投げ出された自分の手の平を見て、彼は思う。何もつかんではいない。
 俺にとっては戦場なんて、そんなものだったのだ。口元だけでシンタローは笑った。
 身を焦がすような陶酔もなく、骨の髄まで震えるような自己実現の喜びもなく、俺にとって戦場は、どんな価値を持つというのか。
 なるほど、戦場で味方との連帯感を覚え、それを心地よく感じたことは確かだった。目の前の課題を上手くこなした時は、それなりに嬉しかった。
 だがそれが結局のところ、何になる? 俺が戦場に住み込む気なら、それもいい。だが俺は、本当にそうするつもりなのか?
 これからたゆまず死を生み出し続け、ヘマをすれば殺されるつもりなのか?
 俺は何のために、戦場に来た?
 シンタローは夜に向かって、酒臭い息を吐いた。
『そいつの軍隊にやられたんだ。全部、そいつのせいなんだよ』
『だから僕は、仇を取るのさ。いつか絶対にやっつけてやる。殺してやるよ』
『殺してやるよ。その男を、殺してやるよ。この孤児院にいるヤツらも、みんなそう言ってるんだ。みんな、みんな――』
 脳裏に刻み込まれた幼い声が響く。
 あの白壁の建物の中で。シンタローがナイフで殺した男が、本当に過去に出会った少年であったのか、それとも全く別の男に傷の幻影を見たのかはわからない。
 だがとにかく、あの血を吹き上げて死んだ男には、マジックを殺したいと願う正当な理由があったのだろうと、シンタローは思っている。これは確信に近かった。
 もしあの傷跡が幻影であったというなら、その確信が自分にまぼろしを見せたのだろう。敵とは、つまりはマジックに刃向かう人間たちのことであった。正当な理由を持つ人々を、自分は戦場で殺してきた。
 ……マジックを憎み殺害を望む人間の方が、たとえ弱くとも、正しい人間であったのかもしれないのに。
 俺は、殺したんだ。
 シンタローは、低く呻いた。あらん限りの力を込めて、指を動かして握り締めた。拳のかたちになった手で、左胸を叩く。
『お前の夢は、何? 僕の夢は、家族の仇を取ることなんだ』
 心を引き絞るようにして思う。
 ――でも最後は……憎んだ仇の息子、俺に殺されたじゃないか。夢は叶わなかったじゃないか。
 シンタローは自らに問いかける。
 俺は何のために、人を殺した? 俺の夢は、何?



 一瞬だけ――零の世界を見たことは覚えている。
 ゼロの世界とは、感情も時間も夢も絶望も存在しない、秒針が6度の幅で揺れるその前に、すべてが運命論的正確さで決定されている世界のことだ。残酷な秩序のみが空間を定める。
 すべては決められているのだ。殺す者と殺される者との間には、永遠とも思われる隔たりがあって、決して入れ替わることがないのだ。
 強い者が弱い者を殺す。
 殺す者であるから殺す、殺される者であるから殺される。それだけのことだ。
 自分が傷を見た男の、動脈を断ち切った瞬間。ほんの一瞬だけ、シンタローは理に触れたのだと思った。
 その時シンタローは、自分はマジックの世界を見たのだという気がした。不思議にそう感じたのだ。
 だがすぐにその確信は指の間からこぼれ落ち、今では何も残ってはいない。
 見たからといって、どうだというのだ。ますます遠ざかる背中への距離を感じただけじゃないか。
 シンタローは固く握りしめていた拳を開いた。やはり中はからっぽであった。ただ爪の間に、煙草の灰と土が挟まっていた。弾くと、ぱらぱらと落ちた。
 乾いた笑い声が、シンタローの喉の奥から這い上がってきた。
 今度は彼は、一人きりで笑った。掠れた声音で笑いながら、自分の笑いが夜に伝染していきはしないかと恐れた。
 右手で胸を押さえ、予想外の重労働に驚いている鼓動をなだめる。それから最後に、こめかみを押さえた。笑いの淵から這い上がってきたものは、静かな問いかけであった。
 アンタが生きているのは、あの零の世界なのか。何が楽しくてこんな世界で生きる?
 俺は、人を殺した。俺も人を殺したんだよ。もしあの世というものがあるのなら、これで俺は、アンタと同じ地獄行きの切符を手に入れたのかもしれない。
 だがそれは単に、自分だけが罪深いと考えているアンタを、鼻先で笑ってやれるというだけだけのことだ。
 こんな俺に殺された人間は一体どうなる。これが罪深いということか。俺は自分を清い人間だと考えたことはないけれど、今この瞬間は、自分をかつてない程に醜い生き物だと感じている。
 これがアンタに近付くということなのか。背中を追うということなのか。
 俺はそのことを、真剣に考えていたつもりで、浮き足立った夢物語として、現実のこととしては考えてはいなかったのじゃないか。
 だけどガキはガキなりに必死で、訓練ばかりしていたから、人殺しの技術だけはなんとか身に付けた。
 俺はなぜ、戦場に来た?




 ただ俺は。
『シンタローは可愛いね』
 まるで俺が何も知らないという風に、無垢だというように、戦場から帰ってきたアンタが、笑って呟く声が――。
 シンタローは同時に、でもどうしてだろう、と考えている。
 でも――俺がアンタを想う時は、優しいカレーの匂いしかしない。



 酒場の隣には、掘立小屋に毛が生えたような建物があり、それは映画館ということになっていた。
 三種類しか上映品目がなく、しかも朝の映画、昼の映画、夜の映画という風に決まっていた。兵士の勤務は基本的には交代制であるから、実はこれが最も効率的なのである。
 夜の映画には多少色気をまぶしてあるらしく、スクリーンにアップになった女優が、なやましげに姿態をくねらせていた。そして男と女が付き合って、別れた。別れた後で、また何かけたたましく笑いあっている。これを一晩中、くりかえしくりかえし流している。
 まるで白い霧がでているようで、薄灯の周囲には丸い光の輪がでているように見えた。館内はむっとした湿気に満ち、煤けている。
 シンタローは一番後ろの座席に座った。腰を下ろすと、固い背もたれに自分がめり込んでいくような感覚を味わった。
 前の方で、誰かがしきりに喋っている。
 館内全体が揺れているように見えた。瞬きをすれば、今度はさらに大きく波を描くように、世界が揺れた。
 ただ白光に輝くスクリーンばかりが、不動の空間を演出し、真実を語っているように思えた。観客から見れば馬鹿馬鹿しい内容でも、登場人物にとっては、真実そのものなのである。数度くりかえし見つめる内に、人形のようだと思った女優も男優も、これこそが本物の人間なのではないか、逆にスクリーンのこちら側にいる自分たちが虚実なのではないかという気がしてくる。
 俺の人生も、傍から見れば、こんなのっぺりしたスクリーンに映る一幕にすぎないのだろうか。



 同じ内容を二回と半分は眺めた後、映画館から出たシンタローは再び酒場に戻り、酔い潰れている仲間と一緒に床に転がって、そのまま寝た。
 夢も見なかった。また一度も目覚めなかった。
 翌朝はそれでも時間通りに目覚めて、染み付いた軍隊生活の性にうんざりし、体の節々の痛みをこらえながら起き上がる。首を捻り、周囲に視線を遣る。
 汚れた角窓から差し込む朝の光に照らされて、酒場は一層のこと、薄汚く見えた。四角い空間にのそこかしこで、小さなうめき声をあげている男たちが横たわっている。波に打ち上げられた海豹の群れを、シンタローは思わず連想してしまう。
 自分の喉はからからで、咳き込めば舌に埃とも黴ともつかないような味が広がっていった。
 のろのろと手を伸ばし、指先で転がっている酒瓶をたぐりよせ、わずかに残っている液体で乾いた口を潤した。途端にきつい刺激が鼻をついたから、飲み込むのは止めて、自分の汚れた軍服の袖めがけて吐きとばす。
 頭を振って立ち上がると、シンタローは酒の臭いの充満した、夜の墓場から外に出るため、扉を押した。
 蝶番をきしませて木製の扉を開けると、すでに昇った太陽が蛍光灯のような白い光を放っていた。
 空は静かに晴れ上がり、風もない。体内に吸い込まれていく空気は、しんとして冷たかった。
 宿舎――といっても、格納庫に折り畳み式の簡易ベッドが並べてあるだけなのだが――に回り、屋外洗面所で水道の蛇口をひねる。水音に、はじめて現実世界の音を聞いたと感じた。
 うがいをし、飛沫を立てながら顔を洗う。
 上着を抜いてシャツ一枚になり、首回りをぬぐう。指の股をこすり、爪の間を探った。肌に酒気が染み付いているような気がして、濡らしてタオル代わりにした上着で、何度も腕や体を拭いた。
 ふと顔を上げて、自分を見下ろす太陽を見つめながら、シンタロは思う。
 人が死んでも、世界は変わらない。ただ静かにいつものように時間は流れ、同じ一日が始まるだけだ。死者は忘れられていくだけだ。
 いつか俺が死んでも、世界は変わらない。
 数日後、部隊は本部へと帰還した。



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 黄昏の風には、やがて来る冬のしめやかさが含まれていた。落ちる陽の色で染まる空に、本部の鉄塔が長い影を落とす。
 夕闇の中で帰還式が行われ、シンタローは久方ぶりにその壇上でマジックの姿を見た。
 実際に彼の声を聞いたのは、久方ぶりであるはずなのに、いつも聞いていたような気がしていた。低い声。
 整列した兵士たちに向かって、金髪の男はその労をねぎらった。遥か後方のシンタローからは彼の姿は拳大ほどにしか見えなかったが、巨大スクリーンに大きく映るその顔は厳しく、瞳の色は冷たく、薄い唇が静かに動く様は酷薄に感じられた。
 マジックも同じ戦地に赴いていたのだが、今回は司令部で全体の指揮をとっていたのみで――勿論これが総帥の本来の職務であるのだが――実際に戦場に立つことはなかったのだと聞く。
 幹部による戦勝報告が、淡々となされていく。読み上げられる原稿は事実であったものの、戦争が始まる前から製作されていたものではないかと思った。
 首魁を捕らえたのだという班が表彰されている。ちなみにその部族の長は、拘束後に自殺したという。これもまた、事実、だ。
 戦争とは、強者のための儀式であるのだろうか。



 班長や班員たちに挨拶をかわし、本部の居住フロアに戻ると、驚いたことにもうマジックがそこにいて、玄関先でシンタローを出迎えた。帰還式に出席した後、大急ぎでキッチンに向かったらしく、赤い総帥服の上からエプロンをつけていた。
 目が合うと、彼は、にこっと微笑んだ。
 マジックは、よくやったとも、どうだったかとも、何も言わなかった。
 よく生きて戻ってきてくれた等とも、その類のことは、いっさい口にしない。
 ただ、『ちょっと待ってね、シンタロー』と言った。
 すぐにキッチンに入って調理を再開したマジックは、側で立ち尽くしているシンタローに視線を向けて、またこう声をかけた。
「もうすぐできるから」
 シンタローは彼を見つめた。すると何を勘違いしたのか、マジックは大きく頷いた。腹でも空いて、できるのを待ちかねているとでも思ったのだろうか。
 彼は鍋を一すくいして、シンタローに向かって小皿を差し出す。
「味見してごらん。今日のは上手くできたと思うから」
 と笑う。
 なんてことだ。
 困ったシンタローは、相手に合わせて笑おうと思った。だが上手く笑うことができない。



「熱いから、火傷しないように気をつけて」
「……」
 湯気の立つ小皿を受け取ったシンタローは、そっとその縁に口をつけた。
 口に含む。溜息が出る。じわりと身体に染み渡っていく。
 シンタローの成長に合わせてマジックは味付けを変えていたから、幼い頃とは味も香りも違うはずであるのに、なぜか同じ味がすると感じた。同じ匂いがすると感じた。
 この男の作るカレーの香りは、一つしかないのだと思わずにはいられない。
 どんな材料を使ったとしても、この男が作る限りは、シンタローにとっては同じ味がする。匂いがする。
 シンタローは、すん、と鼻を鳴らした。



「おいしい?」
 相手の青い瞳が自分を見ている。先刻スクリーンで見た瞳とは、違う色をしているようにも、同じであるようにも思えた。シンタローはその瞳に対して答えることができない。俯いてしまう。
 だがマジックは、それ以上の返事を強要してはこなかった。かわりに彼はくすりと笑った。
 笑って鍋に向かい、こちらに背を向けた。
 その広い背中を目にして、シンタローは思う。昔からこの男は、戦場から帰ってすぐに、笑顔を幼い俺に向けることができたのだ。『お仕事』から帰るとすぐに、今のようにカレーを作って。俺をあやしていた。
 今だって同じ戦場から帰ってきたはずであるのに、俺にごく普通の笑顔を向けている。普通に会話をしている。
 俺にもできるはずだ。俺にも。
 笑え。笑うんだ。
 しかしやはり口元は、上手く弧を描いてはくれないのだった。言葉すら出ない。
 沈黙するシンタローを振り返り、20代の頃と同じように、マジックはわざとらしく腰を叩いた。そうすることによって彼としては、苦労した、ということを表現しているらしかった。
 そしてまた、こう口にしたのだ。
「シンちゃんは、パパのカレーが一番好きだもんね」



「……」
 シンタローはびくりと身を震わせた。指先が急に麻痺したようになり、持っていた小皿を取り落としてしまう。音がした。割れずに転がっていった。
 マジックが、こちらを見つめていた。その目には、今は様々な表情が浮かんでいた。
 突然にシンタローの身の内に、子供の頃の情感が込み上げてきた。熱くほとばしり、胸の内を濡らす。
 何が起こったのかが、すぐにはわからなかった。
「……ッ……」
 唇を噛み締めたが、もう遅かった。
 自分の黒い目の縁からは、涙が零れ落ちているのだった。
 マジックが驚いたような声を出した。
「シンタロー」
 しかしすぐに男は、鍋を混ぜていたレードルを置き、シンタローに近付いてきた。
 指を伸ばしてくる。触れられた。黒髪を撫でられる。優しく言われた。
「ごめんね。熱かったよね」
「ふ……く、う……」
 熱かった。胸が熱い。
 涙の中に記憶が埋もれていく。涙の一粒一粒が頬をつたい、落ちていく音が聞こえるような気がしている。
 自分は生きているのだと感じている。生きて、この人のいる場所に帰ってきた。
 カレーの匂いがする。
「……ひくっ……」
 あやすように頭を撫でられて、引き寄せられてマジックの胸に顔を埋め、またシンタローはしゃくりあげた。涙はあとからあとから流れ落ちた。
 少年であった時間が終わって、大人への道が始まったのだと思った。







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