砂の記憶

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 ここでは季節を、風で知る。
 シンタローは岩肌を這う指を止め、かすかに息をついて、頬を通り過ぎる冷気を感じた。崖下から這い登るように吹いてくる風は、素朴な芳香を乗せて、また遥か頂上へと舞い上がっていく。
 上半身の剥き出しの肌がひやりとしたのは、この谷底には川が流れている証拠で、わずかばかり懐かしい気持ちに襲われたのは、風が通り抜けた木々がざわめいている証拠でもある。
 澄んだ空気は、夢から覚めた朝の息吹に満ちていたが、シンタローの足下に口を開ける谷間は、いまだ深い陰に沈んだままだ。夜の精がまだ崖下では息づいている。闇の重い空気の名残が、彼のつまさきの辺りには漂っては掻き消える。
 彼の手元、岩石の割れ目の奥には、きらりと輝く水晶の断面が見える。
 周囲には、淡い朝霧。空間をつぎつぎと見え隠れさせ、ともすればこの現実こそが幻であると主張しているのかもしれなかった。
 シンタローは、頭を振った。彼は、額に赤い布を巻いていた。この荒地に来た時に着替えとして持ってきたシャツが、すぐに使い物にならなくなったので、裂いて他用にし、残りを鉢巻代わりにしている。
 身体の鍛錬と共に、精神を統一する技も磨けと叔父に言われたのは、もう数ヶ月前のことである。
 以来そのことを忘れぬように、気持ちを引き締めるために巻いている。加えて、髪が幾許か伸びたからという実際的な理由もある。なにしろこの荒地には、まともな刃物もないのだ。自然、手入れをするのが億劫になって、今では彼の黒髪は、肩を数センチばかり越える長さになっている。
 風の向きが微かに変わって、その赤布が後方にふわりと浮き上がった。



 ふと呼ばれたような気がして、シンタローが赤布の先を見遣った。背後の岩肌の美しい帯模様が目に飛び込んできて、彼は目を細めた。
 シンタローたちが知る限りでも、幾度起きたかわからないほどの山崩れによる岩塊が何世紀もの間に積み上がって、壮大なグラデーションを描いているのだ。
 岩肌の横の線を縦に寸断するような、黒く焼けただれたような筋は、先日の雷が打った痕に違いなかった。
 滅多に雨の降らない場所だが、いったん天が水粒を零すと、あとは豪雨が滝のように立ち込める。稲光が自分たちの手足を数秒おきに照らすのを、岩陰に身を潜めた自分と叔父は、静かに見ていた。
 近頃では、雨の雫を数えることができるようになった。
「……さて、と」
 シンタローは、深呼吸をすると、止めた指を再び動かし始めた。彼は朝の日課をこなしている最中だ。
 絶壁を降りて巨鳥の卵を手に入れ、崖上のビバーグ地へと登っている。背中の簡易リュックに入れた卵が、揺れてかちかち音をたてる。荒っぽく登れば、卵はすぐに割れてしまうことは、すでに経験済みのことだった。 
 だがシンタローの動きは、なめらかだ。素晴らしい速さで崖を登っていく。無駄な動きは一つもない。修行開始当初とは違い、岩壁を這うのに慣れた指は流れるように自然に動き、裂け目や突起を無意識に探し出して、体重移動を迅速にする。
 登る度に、シンタローの盛り上がった背中の筋肉が綺麗に動き、肩甲骨が規則正しく動いた。彼の肌に刻まれた沢山の傷が、引き攣れる。傷は、修行の激しさを物語っているのだった。
 風がそれをなぶる。彼はまるで、吹き上げる風と一緒に滑るように、絶壁を登っている。



 ――風。
 そしてここでは時の流れは、太陽の位置で知るのだった。
 すがめられたシンタローの黒い目に、目指す尖頂に向かって、はるかな東方から一条の光が差し込んでいるのが映る。
 青銅で空に刻まれた爪跡のようにも、回教寺院の華麗な尖塔のようにも思える、聳え立つ峰。山の稜線。
 朝の光は、荒涼とした岩肌に、黄金をまぶしていくのだ。光の刷毛で、淡い輝きを彩らせていくのだ。
 シンタローは、また深く呼吸をする。新鮮な空気が肺に流れ込んでいく。すると、山と自分が、一体化したような気持ちになる。
 すでに馴染み深いものになっている尾根、その厳つい姿に張り巡らされた裂け目は、まるで親しくなった老人の顔の皺のようで、そのひとすじひとすじが、いとおしい。
「よし」
 背負った卵の重みを確かめると、彼は目を瞑る。
「精神統一、集中、集中」
 お題目のようにそれを唱え、再び軽快な動作で、ひょいひょいと険しい崖を登っていく。頂上にまで来た時、最後は崖の縁に手をかけて、くるりと体を一回転させた。
 着地。



「お前も随分たくましくなったな」
 朝食の席で、サービスが独り言のように呟いた。
 褒め言葉と受け取って、シンタローは、『へへ』と答える。こういう時は、鼻の頭を掻きたかったが、右手にはフライパン、左手には卵を溶かした皿を持っていたから、我慢した。
 かわりに言う。子供っぽく得意げに見えないように、何でもない素振りで、だ。
「五ヶ月以上も野生生活してりゃね!」
 ザッザッと炒め物を手首の力だけで返しながら、シンタローは考える。
 叔父が『たくましくなった』と褒めてくれたのは、自分の一回り大きくなった体をあらためて見てのことだろうか、崖下の鳥の巣への往復時間を知ってのことだろうか――見ていないようで、この叔父がちゃんと自分の行動を把握していることを、シンタローは知っている――、それとも料理をしている今の様子を判断してのことだろうか、と。
 案外、最後が正解かもしれない。自分の思わぬ所から、いつも叔父の修行は始まるのだ。生活すべてが意識さえすれば、自分を鍛えることに繋がるのだと、シンタローは知っていた。
 そう、思わぬ所から――
 ……初めて組み手をした、あの夜もそうだった。
「料理だって上手くなったし!」
 椅子がわりの岩に腰掛けているサービスを、ちらりと見て、シンタローは言った。そして、ニッと笑った。
 料理。一番めざましい進歩を遂げたのは、実はこの分野かもしれない。フライパンの中では、野生鳥の肉が芳ばしい香りを漂わせている。
「さ、できたぜ」
 凹んだアルミ皿に炒め物をよそう。焼けたフライパンがパチパチと弾ける。
「はい、おじさ……」
 そう、サービスに皿を差し出した時に、シンタローはただならぬ悪寒を覚えた。背中にぴとっと貼りつかれている感じ。
『めし〜』
『わう〜』
 ぞくぞくうっ! あたふたして背後を見回すが、そこには何もいない。
「おっ……おじさん! 予知夢が! とっても嫌ーな予知夢がッ!」
「俺には何も見えん!」



 何だか最近、こういう変な感覚に襲われるんだよ、俺って霊感まで身につけちゃったのかな、参ったゼ、等と首をひねりながら思う。
 しっかし、何だろなー、この予感。シンタローは、首筋をぽんぽんと叩いた。
 まあいいや。考えてもしょうがない。溜息をついて、岩にどっかりと座る。
 そして自分も皿を引き寄せ、ぱくぱく空っぽの胃を満たしながら、シンタローは向かいで端然と食事をしているサービスの顔を眺めた。相変わらずのその整った美貌。
「……」
 数ヶ月前の夜のことを、シンタローは思い出している。
 ――叔父の心が不安定なのは、この荒地に降り立った時から、感じ取っていたのだ。
 シンタローだって馬鹿ではない。人の気持ちには、聡く敏感な性質だ、何もわからない訳がなかった。
 叔父がこの地を選んだのには、理由があるはずだった。何らかの因縁があり、必ず何かが起こるような気がしていた。
『……俺の旅が、始まった場所だよ』
 ヘリの中での自分の質問に、サービスはこう答えたのだから。
 そして気が満ちて――あの夜。
 シンタローは驚きはしたものの、何故かサービスへの不信は感じなかった。ただ、来るべきものが来た、と思った。今までの訓練だけでは、『修行』は終わるはずがなかったのだ。叔父と共に過ごすこと、つまり、彼の旅へと付き合うこと。そのことが修行。
 旅とは、実際に身を彷徨わせることと同時に、心の旅でもあるのだと思う。
 叔父が軍に入らない理由、顔の右半分を隠している理由、旅に出たっきりで、他の一族とあまり仲が良くない理由。シンタローがずっと不思議に感じていたことと、もしかしたら、関係があるのかもしれないと思った。



 考えることは多々ある。思考の迷路は、きりがない。
 ――この無人の地で暮らすということは、自分にとって、何をもたらしたのだろう?
 それは覚悟、なのかもしれない。
 この荒地には、自分が黒髪黒目であることに軽侮の色を見せる人間もいない。総帥の跡継ぎとして不適格であると馬鹿にする者もいない。
 ……マジックが、いない。
 シンタローにとっては、まっさらな自分というものを考え直す、初めての経験だった。生れ落ちた時から自分に定められていた、しがらみから解放されて過ごす時間。
 与えられた課題を日々こなしながら、ふと風が吹く時、立ち止まることがある。
 自分は何者であるのか。進むべき道は、本当にこれでいいのか。他にももっと道があるのではないか、と。
 シンタローは思い込んだら一直線の性格であったから、がむしゃらにもがきながら、士官学校と初年兵の年を過ごし、立ち止まることが、ほとんどなかった。
 目の前に続く道を、追うばかりで。その道の先には――



 だが、思考の迷路には出口があった。思い悩む度に、シンタローは最後には外界への光を見出す。
 自分は強くなりたいのだった。
 あの夜、叔父の豹変に戸惑いはしたものの、激しく動揺したものの、そう思った時、すっと心が楽になった。
 強くなるためになら、自分は何でもできるのだと感じた。
 強くなるために、シンタローは本部でマジックと別れ、ヘリに乗ったのだ。初めての叔父との遠出で、はしゃぎはしたものの、生半可の気持ちを抱いていたのではない。
 だから、叔父の攻撃を受け止めた。叔父がこの地にも増して、自分という存在にも何か思う所があるのだろうとは、わかっていた。理屈では測りきれない感覚の力で、シンタローにはわかっていたのだ。
 叔父の攻撃はすさまじく、自分は何度も息が止まった。言葉にできない恐怖というものを味わった。時間の観念というものを失った。どのくらいの時が経ったのかもわからなかった。
 身体が、鉛の塊のように重くなった。受け止めるだけで肌が痛んだ。骨がきしんだ。肉が裂けそうになった。
 そしてこちらの攻撃も、ほとんど歯が立たなかった。かわされた。叩き落された。
 戦いが終わった時、シンタローに残ったのは、高揚感であった。
 自分が自分らしく感じられた。これでいいのだと思った。俺が俺であるために、この道は、間違ってはいない。
 叔父も最後はいつもの叔父に戻った。
 だからシンタローにとっては、経緯など、もうどうでもよかった。サービスは、未熟な子供である自分と、本気で戦ってくれた。それだけで十分だった。
 もしかすると、あの冴えわたる月光の下で厳しい顔をした叔父が、本当の彼なのかもしれないと思ったが、だからこそ、そんな表情を見せてくれた叔父を憎むことなどできるはずがなかった。
 それほどにまでシンタローは真綿で包まれるような扱いに慣れ、真剣に接してくれる大人というものに飢えていた。
 拳に残る焼け付くような痛み、胸に残る張り詰めた気のなごり、それだけでよかった――



 あの戦いの後から、サービスが自分を見る視線が、変わったような気がしていた。具体的に何がどうとは言えなかったが、確かに以前とは異なっている。
 いくら考えてもわからないので、シンタローは、つまりは叔父はいくらかなりとも自分のことを認めてくれたのではないかと、そう思うことにしていた。
 異なると言えば、今朝からの叔父の所作からも、特別なものを感じるような気がしていたシンタローである。言葉の端々や纏う雰囲気が微かに重い。
 叔父は何か新しいことを考えている。五ヶ月も彼と一緒に暮らした経験から働く勘だ。
 朝の食事を終え、皿を布で拭って――後で湧き水にまとめて洗いにいくつもりだ――シンタローが一応の片づけを終えると、叔父が立ち上がる気配がした。
 やっぱり今日はいつもと違うぞ、そらきた、なんだなんだ、新たなテストか、それとも叱責されるのか、とシンタローがやや肩を緊張させて、慌ててサービスの前に立つと、正面から視線が合った。
 相手はシンタローの頭から足先までを、仔細ありげに眺めている。ややあって大きく歩を踏み出し、一気に近付いてきた。長い金髪の先が揺れた。
 叔父の左目が、自分の右目のすぐ側にある。頭一つ分はまだ身長差があるから、サービスは少し体を傾けているのだろうけれど、それすら視界に入らないほどの至近距離だった。
「体は十分、整った」
 思わず首を引きぎみにしてしまうシンタローの目を覗き込んで、サービスは言うと、くるりと背を見せた。
 力強い声が、響いた。
「教えてやろう。最高の技を!」
 その時シンタローの目には、叔父の手の上に、ぽうっと青い炎がともったように見えたのである。



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 力を放出したのは、幾年振りのことか。
 かつて秘石眼を有していた時のサービスが、青の血を感じたのは、眠りに堕ちる瞬間、目蓋を閉じて一人の世界に篭る時であった。
 暗闇の中で毛細血管の走らせるきらめきを見るたび、揺らぐ自分の心に触れた。
 血を巡らせているのは、気である。気が、青の心臓である秘石眼に流れ込んでいく、たゆたうような循環を、眠りの世界で感じていた。
 しかし、青の心臓を失った後のサービスは、全身の肌から吹き出るような青の血の奔流に苦しんだ。心臓を失った血は、巡るばかりで始点も終点も持たずに、出口を求めて荒れ狂う。
 だがある日、サービスは出口を――自ら意識して作り出すことを、覚えたのである。体内の気を統御できるようになるということは、青の力を操ることができるようになったということだった。
 事実は事実として、サービスはそのことを兄に告げ、一族の技として昇華させた。
 サービスの右手の中で、輝きを増した青い光は、彼の唇から漏れた鋭い声と共に、巨大な岩塊に向かって放たれた。
「はッ!」



 凄まじい音がした。空気をねじ切るように閃光はうなり、硬い岩石を砕く。乾いた土や石が吹き飛ばされていく。その場所だけ竜巻が起こったように砂塵が高く舞った。
 岩のあった場所には、大きな穴がぽっかりと口を開けていた。
 サービスは、自分の手を見て思う。調子は悪くないようだ。
 傍らのシンタローを見遣れば、地の穴と同じく、呆然と立ち尽くしたまま口を開けていた。
 ややあって、急に我に返ったのか、穴に向かって駆け出していく。自分の身長の数倍はあろうかという穴の直径に、瞬きをし、大声で叫ぶ。
「すす……す、すっげェ〜!」
 振り向いたシンタローは、息せき切って聞いてきた。
「おじさん! 今の、なんて技?」
「眼魔砲だ」
 ああ、やはりシンタローは、知らないのだ、と思う。見たことも聞いたこともないのだろう。
 心中に複雑な思いを抱えながら、サービスは言う。
「うちの一族なら、誰でも使えるぞ」
「え――ッ? 親父も?」
 素っ頓狂な声を出し、シンタローは今度は口を縦長に開けて、目を丸くした。
「もちろんだ。マジックのは俺なんかと比べモンにならん程、強いぞ」
「えー? あの親父が……信じらんねぇ」
 サービスは、シンタローの顔を見た。
 しかしその表情からは、驚き以外の何物をも読み取ることができなかった。



 シンタローは何も知らないのか、と聞いた時のマジックの反応を、サービスは忘れることができない。
 呼び出され、甥の修行を命じられた自分は、なかば皮肉のように口にしたのだ。マジックのシンタローへの態度は、サービスの目にはいつも痛々しく映った。
 兄は軽く眉を動かし、自分に背を向ける。そして何でもないように言ったのだった。
『ああ……息子の前で秘石を使ったことはないからね』
『どうして。シンタローはもう17だ。一族の秘密を知ってもいいはずだぞ』
 荒っぽく言い捨てて、サービスはふと過去を思い出す。17歳。士官学校に通う頃の自分は、すでに様々の一族にまつわることを知っていた。様々、といっても、それがごく一部であることはわかっていたのだけれど。
 亡き兄のことが、心を過ぎった。
 青の使命や秘石、一族について、繰り返し語り聞かせてくれた兄ルーザー。青の心臓は、眼にあるのだと。乾いた細い指先で頬を撫でてくれた、その温もり――
 そう、現在の自分も、すべてを知らされていないのだとサービスは感じている。
 僕も何も知らないけれど。だがシンタローは、あまりにも何も知らなすぎる。知らないままに放置……いや、知らないことで、むしろ守られるように温存されている。
 まるで青の一族であることが、醜いことであるかのように、マジックはシンタローには何も教えないのだった。
 問い詰めるサービスを、ちらと振り返り、案の定マジックは言った。予想通りの言葉だった。
「まだ子供だ。いずれ話すよ」
 いずれ、いずれだ。嫌なことは先延ばし。そして人任せ。徹底している。
 兄はようやくに、シンタローに青の一族としての知識を多少なりとも伝える気になったらしいが、それを自ら行うつもりはないらしい。サービスは、そのことにも不快を感じる。
 秘石眼を持たずとも青の力を統御できる人間はサービスだけであるという事実以外に、このマジックの逃避願望が、サービスにシンタローの修行という仕事を与えたのだった。
 睨むように兄の背中を眺めて息をついた後、自分は煽るように吐き捨てる。
『兄さん。あなたは――……怖いのか。シンタローの前で秘石を使うのが……』
 しかし言いよどむか戸惑うかするかと思った相手は、即答で返してきた。
『ああ、怖いよ! 我が子の前で化け物になるのが!』



『……子供には、甘いんだね』
 自分の声に含まれる響きを厭いながらも、サービスは言った。
『他人は平気で殺す癖に』
 殺す癖に。見殺しにする癖に。他人は……一族でさえも。あなたの道具でしかないのに。
 使えなくなれば、捨てるのか。
『無駄な人口は増えん方がいい』
 再び背中を見せた兄、その言葉は、サービスの確信を強めるには十分だった。
 サービスの視線の中で、マジックは柔らかい絨毯をゆっくりと踏みしめる。そして黄金色の台座に近付いた。長い指を伸ばす。彼が手に取ったのは、青い石。この石を使い、彼は幾多の人間を殺害してきたのだろうか。
 マジックは、二人の会話をまるで聞いているかのように佇んでいた秘石に、そっと口付けた。
 そして初めて笑った。
 凄みのある笑顔だった。言い切ったのだ。
『私は自分の野望とシンタローのためだったら、なァんでもするよ!』



 ――……。
「……さん!」
 現実の声。
「おじさん!」
 回想から呼び戻されるように、サービスは傍らを見下ろした。
 そこには甥の顔がある。
「……ああ」
 返事をすれば、相手は待ちきれないといった様子で、せがんでくる。
「そんなすげえ技なら、早いトコ教えてくれよ!」
 その技を会得すれば強くなれるのだと知ったら、もう一秒だって無駄にはしたくないのだろう。
 サービスは、ゆっくりと笑った。『わかったよ』と答える。答えながら思う。
 今の自分が失ったものは、この焦りなのだろうか。
 同じ17の頃の僕は、士官学校でジャンと共にあり、こんな理由のない全能感に満ちあふれていた。
 努力すれば、望むことは叶うのだと信じ込んでいた。
 挫折を知らない強さ。僕が失ったもの。その輝きが、僕には眩しくてならない。
 やがて、この子もさらなる挫折を知るだろう。
 その時シンタローは、このままの強さを持ち続けることができるのだろうか。
 もしくは、挫折から立ち直ることができるのか。



 ――高松の実験、というべきだろうか。
 士官学校生に対する特殊能力者の炙り出しが行われ、その結果、シンタローの身体が正常な青の一族のものである可能性が高いことは、事実としてすでにわかっている。他にもマジックの命により、密かに様々な検査がなされている。検査の結果のほとんどは、シンタローの身体の正常性を示していたのだと聞いた。
『彼の身体は特殊能力者の特徴を示してはいます。ただ、それが何かの原因で発動しない。黒髪と黒目を持つ、異端児のまま』
 腐れ縁の医者の声が、脳裏によみがえる。彼が手にかけていた、あの被験者の親子はどうなったか、とサービスは考えかけて、思考を止めた。それはもう忘れるべきことだった。
『お前とあの子は、似ている。その想いを……解消し、楽にしてやって欲しい、と。私は考えている』
 止めた思考に、今度は別の声が入り込んでくる。また長兄の声だ。
 似ている、と言われた。結局、自分がシンタローに対してできることは、何だったのだろうか。
 ――秘石眼はなくとも、力を引き出せるように鍛えてやること。
 体内の気を統御できるようになるということ。それは出口を見つけ出すこと。
 お前の出口は、何処にあるのだろうね? シンタロー。
「精神統一に励めと、お前には言っていたな」
 そう自分が確かめると、シンタローは大きく頷いた。
「その成果を、今、俺に見せてみろ」



 空気が張り詰めた。風が凪ぐ。
「俺が今やった通りだ。まず……できるだけ精神を集中するんだ」
 サービスが言うと、五ヶ月前とは見違えるような背中に、肩に、腕に、指先に、気が通ったのがわかった。
 見えぬ力が収斂されていく様を、サービスは確かに感じ取った。亡くした右眼の奥が、つきんと痛む。
 シンタローに、秘石眼――青の心臓はない。それはサービスと同じである。
 秘石眼を持っていた頃のサービスは、その気を統御する術を知ってはいなかった。知ったのは、皮肉にも眼を失ってから後のことである。
 青の力を暴発させたあの時……ジャンを死なせた時には。
 サービスは、全身にみなぎる衝動が、自身の右眼へと吸い込まれていく感覚を体験した。
 ジャンを救いたいという感情の高まりが、精神と身体の繋ぎ目もバラバラにし、すべて壊れてしまえと途方もない破壊衝動が全身を覆った。その頃の自分には、抗う術さえなく、肉体の強さすらもなく、すぐにその衝動に飲み込まれた。



 この技を為すためには、心身の修練が必要なのだった。特に身体が整わないと、力の制御に耐えることはできない。ひいては暴発を招く。
 自らの過去の過ちの上に、サービスはシンタローを訓練した。その成果が問われる瞬間である。
 別に兄に言われたから、自分はこのシンタローを鍛えたのではないと、サービスは思う。当初はどうにでもなれという気持ちでこの地に来た。甥のためというよりも、自分のためにこの場所に来たのだ。胸に燻る想いに決着をつけるために。
 だが今は――サービスの中で、何かが変わり始めている。そんな自分を、彼ははっきりと自覚していた。
 サービスの眼前で、甥は、精神を研ぎ澄ませていく。空間に立ち込めていく力の予感。力を暴発させることなく、一点に集中させて、解き放たなければならないのだが、その技がこの子にできるか。
 サービスは言う。
「そして狙いをさだめて……」
 シンタローは、サービスの手本と同じ姿勢で、すっと右手を前に突き出し、手の平を広げた。
 目に見えぬ力がその場所に、みるみる充満していく。
 臨界点まで来た時、ついに鋭い声がサービスの口から放たれる。
「撃て!」



 小さな破裂音が響いた。空気圧がわずかに変化し、そのひずみによって出た音だ。
 かすかな光が弾けて、シンタローの手の平から散って、一瞬で消えていった。
 しまったという顔をして、シンタローは不思議そうに自分の手の平を見ている。
「でー……ちゃちい〜!」
「……!」
 サービスは左目を見開いた。らしくなく、胸に昂揚の欠片が突き刺さっているのを自覚していた。
 やはりシンタローは青の一族だったのだと思う。情報を聞いていた時だけでは沸かなかった実感が、込み上げてきた。
 サービスは、決してシンタローが青の一族であるということを疑っていた訳ではない。何よりもあの……亡き兄ルーザーの忘れ形見であるはずなのだから……彼が青の血をひいていることは信じていた。
 だがこうして実際に、たった一瞬のきらめきであっても、目の前に閃いた青い光は、感慨を呼び起こす。
「はは、上出来、上出来!」
 自然にあたたかな視線を、サービスは叔父としてシンタローに向けていた。純粋に嬉しかったのだ。だから褒める。
「小さくても最初から撃てるなんて、大したものだぞ」
 すると戸惑う目をシンタローはし、少し照れくさそうにサービスの方を見た。
 見つめられて、サービスは思う。もしかして 兄さんは、シンタローが青の一族であることを疑っていたのだろうか、と。いや、はっきりと知ることが怖かったのか。
 だからシンタローの身に、青の一族である証を調べさせながら、最後の証を自ら確かめることはせず、自分に任せたのか。それは逃げではないのか。
 そして賭けではないのか。僕という存在への……。
 思考がマジックへと自然に流れ、サービスはついこう口にしてしまう。
「さすがマジックの息子だ」
 甥の表情に、さっと影が差した。



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『さすがマジックの息子だ』
 サービスの言葉に、シンタローは顔を曇らせる。そして、まだ熱の残る右手を、ぱたぱたと振った。変な感触がする。
「やめてくんない、その言い方」
 つい反射的に、口では、こう返していた。初めての技に触れた、心躍る瞬間であったというのに。叔父が折角褒めてくれたというのに、不意に心に黒い雨雲が立ち込めていく。
 叔父は先刻、こうも言ったのだ。これは『一族なら、誰でも使える』技なのだと。裏を返せば、この技を放つことができなければ、一族ではないということだ。
 自分はそのぎりぎりの糸を渡っていたのだと、シンタローは今さらながらに気付く。金髪碧眼という証さえない自分は、叔父に試されていたのかもしれないと、つい暗い考えまで脳裏に浮かんでしまう始末だ。
 何故か、急に寂しくなった。どうしてだろう。この五ヶ月の間、あんなに努力して、その結果として小さいながらも『大したものだ』と叔父に言わせるようなことができたのだというのに。
 俺の心は、何を切ないと感じているのだろう。
「みんな俺と親父とを比較して、おもしろくねえ」
 心の乱れを取り繕うように、やっとそれだけを、シンタローは口にした。
 するとサービスは、そのシンタローの態度を照れだと取ったのか、腕組みをし、優しく見下ろしてくる。
「すねるなよ。それだけお前の親父が、凄いってことさ」
 叔父がこんなことを言うのは、珍しいことだった。
 シンタローは、空を見上げた。俺がすねてる? もしかすると、そうなのかもしれない。だがそれだけじゃない。この感情は。
 黒い目に映る白雲の動きに、上空では風が激しく吹いているのだと思う。雲の端は粉々に千切れ、薄い青に溶けていく。
 ――思い出している。



 戦場の噂、とは、これもかたちのない風のようなものだった。
 あちらへ吹き、こちらへと流れ、季節の移り変わりと時勢とを教えてくれる。
 かつて士官学校時代に、シンタローは誘拐事件に巻き込まれたことがある。その時に、ある男が言った言葉の一つを、彼は忘れてはいない。
『他愛の無い戦場の噂だが、素手で数千人を殺せる人間も存在すると聞くぞ』
 これと同じ噂を、基地建設の設営隊として出動した時に、シンタローはある野営地で聞いたことがある。
 年嵩の兵士たちと一緒くたに詰め込まれた大型テントの中で、重労働からくる疲労で泥のように眠り込んでいた夜半、紙を爪で弾く音と話し声、コインの触れ合う響きを、夢の向こうでぼんやりと耳にした。
 疲れきっているため、意識だけはうっすらと醒めても、重い鉛でも詰め込まれたように身が重かった。
 誰ぞ酒でも持ち込んで、煙草の脂で黄味がかったカードで、バカラにでも興じているのだろうと、シンタローは寝返りをうつ。すると、近くに転がっていた仲間の足に、肩がぶつかった。相手は気付かない。これも眠り込んでいるようだ。
『……――』
 しばらくは、うとうととまどろんでいたシンタローであったが、『今日はどうもいけねえ。ツキがねえや』という大声で、ふと目が覚めてしまった。
 ごろりとまた寝返りをうつ。角材を担ぎ通しだった肩の筋肉が、ぎしぎしと痛んでいた。暗い部屋の隅に、薄目が橙色の明かりを捉えて、滲んだ。酒と汗と煙草のにおいが入り混じる異臭が鼻をつく。
 声を出したのは、首領格の男らしい。そのまま、雑談に縺れ込んだらしい話し声が、ひそひそと聞こえていた。



 彼らは、総帥の息子である自分が、この場にいることを知らないのだ。
 同級生たちは、シンタローの前では総帥や一族に関る話を、ほとんどすることはない。気を遣ってくれているのかと感じることもないではなかったが、大概は陽気な仲間たちの空気に紛れて、深くは考えないで済んだ。
 からっと明るい仲間たちや、学校という組織に、守られていたという面がある。
 新兵となったシンタローがまず直面したのは、噂話や中傷の類であった。どんな組織でも人間というものが集団になれば必ず、仮に上層部がいくら抑えようとしても、澱みはなくなることはないのである。むしろ抑えるほどに、水面下に潜んで悪化する。
 シンタローが道を歩けば、行き会う下士官たちは、シンタローの顔を見て、隣に肘打ちをしたり、にやついたりして、会話を止めたりするのだった。これが日常だ。
 酔って因縁をつけてくる兵士たちが投げつけてくる台詞の内には、汚い言葉に紛れて、血筋や外見のことをあざけるような物言いも当然含まれていた。
 いちいち気にしていれば身が持たないので、聞こえなかった振りをしてはいるけれど。正面から罵られれば、勝負を受けて立つことだってある。
 ただ、浮かない気分の時は、シンタローは出会う人間誰もが、自分が本当に『一族』なのかどうかを、探っているように感じることもあった。軽い被害妄想だと自分自身が嫌になる。
 シンタローは、決して鋼のような精神を持っている訳ではない。むしろ、ある一点を突かれると、脆い。未熟だ。
 ――だから、その夜に聞こえてきた『戦場の噂』も。
 普段は心の表面に出てくることはないが、気持ちの温度が下がれば、すぐに浮かび上がってくる刻印のように、奥底深くに喰い込んでいるものの、一つだった。



 ――人殺しの一族の象徴、秘石眼……。
 ――激戦の某地区は、総帥が一瞬で廃墟にして、片をつけたらしい……皆殺しだ……。
 ――総帥は一人息子を溺愛しているが、これがどうも、できそこないらしい……。
 ――できそこないに、跡を継がせたがっているらしいが、そうなれば内外の騒動は必死、俺たちも潮時だ……。
 ――バカな子ほど可愛いって奴だ。ガンマ団ももう終わりだな……。
 情報統制外の地域に出向く機会が、以前よりは格段に増えたシンタローであるから。当然、市井に溢れる情報に接することもある。
 だから、この類の話を耳にすることは、最近は頻繁にあった。士官学校卒業前だって、そりゃ、知らない話ではなかったけれど。いかに自分が温床でぬくぬくしていたかを身につまされる。
 気にしない。気にしない。こんな程度で気にしていてどうするんだ。子供の時からだって、こんなこと、よくあったじゃないか。
 上に行く度に、きっともっと噂は苛烈になものになるだろう。初陣だってまだ済ませてないのに、こんな所で立ち止まってどうする。
 そうしてシンタローは、気にしないことにしているのだ。
 しかしシンタローは、一人きりになった時、よく鏡を覗き込んでいる自分に気付く。
 何度見ても、自分の瞳は、普通の人間のそれに思えてならなかった。しかも黒い。青くない。
 シンタローは、グンマの瞳を覗き込んでみたこともある。自分と違う色。でも、『なぁに? シンちゃん、マジックおじ様みたいなことするー』と言われたあげく、自分にはよくわからなかった。
 『マジックおじ様みたい』
 ……マジックは、よくグンマの瞳を調べているということなのだろうか。俺にはそんなこと、しないのに。
 俺にはわからなかったけど、マジックが見れば、何かがわかるということなのだろうか。
 自分には何もかもが、隠されていて。わからない――



「でも人をいっぱい殺してる……」
 押し黙った後、シンタローの口からは淡々とした言葉が流れ出た。
「俺の前じゃヘラヘラしてるけど、わかるんだ」
 マジック。
 彼に、シンちゃん、シンちゃん、そう甘えた口調で呼ばれる時に、ふと気づく時がある。
「秘石眼って言うんだろ、親父の眼……あれ、すっごく冷たいよ」
 見つめられれば、何かが違うと直感する青い瞳。幼い頃から側にあった瞳。懐かしい記憶の込められた色。
 それでいて、突き放すように凍りつく色。
「おじさんも秘石眼なの?」
 そう聞いた時、叔父が空を見たのがわかった。叔父の繊細な横顔は、静かに頷いた。
「ああ……片方だけね」
 顔がこちらを振り返った。言葉が続く。
「俺だけじゃない。今まで一族の者は皆、片目だけ秘石眼だったんだ。でもマジックだけが、両目とも秘石眼を持って生まれてきた。だから奴の力はズバ抜けてるのさ」
「ふーん」
 シンタローは耳に入ってきた言葉を知覚し、少しの間、溜めていた。頬に吹く風を感じた。
 この五ヶ月の間、叔父とこういう話題をかわしたことはなかった。来るべき時が来たのかもしれないと思った。空気を吸い込む風船のように、いつかは限界が来る。黙っていること、聞かないでいること、話さないでいること――いつかは限界が来るのだ。
 弾かれるように、シンタローは思い切って言った。
「でも俺は両方とも、フツーの目だぜ!」



「なんて顔してんだよ、おじさん」
「みんな知ってることなんだろ。言わねえだけだろ」
「ンなことぐらい、わかってたさ」
「俺は別に、平気さ。ヘーキ」
 叔父が美しい眉を上げたので、シンタローは慌てて矢継ぎ早に言葉を重ねる。
 自分は、覚悟して外に出たものの、肌を刺す寒さに暖かい部屋に帰りたいと感じる人のようだと思った。
 俺は一歩、真綿でくるまれた虚実の場所から、冷たい真実の場所へと踏み出してしまった。
 彼はその事実に、内心怯えた。だが表面は強固になんでもない風を装った。そうしなければならないと思った。
「……お前にとって、マジックの存在は重荷か」
 叔父はそれだけ言った。
 意外なことを聞かれて、シンタローは戸惑った。
「いや、重荷っつうか……だってアイツいたら、何したって、シンちゃん、どこもケガしてなぁい? とか、ウゼぇコトばっかなんだもんよ。ガキ扱いされるのが……」
 通り一遍のことを口にし、鼻の頭をかいて、シンタローは他所を向く。
 でも何を聞かれても、自分は平気なのだと思った。平気なんだ。平気、ヘーキ。
 シンタローは外向的な性格であったけれど、その実、他人に自分の心を曝け出すということが苦手だった。特にこんな、自己の存在の根幹に関るような話題は苦手だ。
 どうしてこんな話をすることになったんだろう。でも、俺は平気だから。こんな話をするのって、初めてだけど。絶対に大丈夫だから。
 彼はそう自分に言い聞かせ、
「アイツがいると、思いきれねェことが、あんのかもしんない……」
 控えめに答えた。



 叔父は黙って、風に吹かれている。
 その様子を見ていたら、自分が嘘をついているような気がして、同時にマジックのことが腹立たしいような気がして、シンタローは言葉を捜した。
 俺は、俺らしくあるために、アイツのムカつくとこ、話すべきだ。
 シンタローは、唇を笑っているかたちに曲げて、サービスに向かって軽い口調で話し出す。
「俺がアイツの一番嫌いなトコは……」
 また、風が吹いた。風は、ひゅうとシンタローの胸を突き抜けて、心をばらばらの砂に砕いて、舞い上がらせる。
 この五ヶ月の間、シンタローが一番意外だったことは、あんなに自分にベタベタしてきて『シンちゃんがいないと一秒だってパパは生きていけないよ!』なんて言ってくるようなマジックが、一度もこの場所に顔を見せなかったことだった。
 勿論、マジックの言葉なんて自分は信じていたはずはないけれど。ないけれど。
 アイツ、来ねえじゃん。風が吹く度にシンタローはそう感じ、腹立たしくなったりして、そんな自分をバカだと感じる。
 マジックは、やはり他の誰もがいなくても、一人で大丈夫な人間なのだと、改めて感じている。
 あの男にとって、自分という存在は、一体何であるのか。
「アイツさ、俺が別に頑張らなくたっていいって、そんな態度ばっかりとりやがるんだ」
 テストで一番を取った時。訓練試合で一番になった時。その他様々な時、確かに出した結果を褒められはしたものの、それは結局、上から見下ろされて愛玩される以外の何物でもないのだと思う。
「俺が首席でもドベでも、何したって、アイツの態度は変わらねえんだ。そんでぬけぬけと、『お前はそのままで十分可愛いよ』だとか! 『そんなに頑張らなくていいんだよ』みたいに! 俺、俺、そういうのが一番……」
 今だって。最初の眼魔砲を撃つことができたのに。それでも俺が寂しくなったのは。
 俺がこんなに頑張っても、アイツが認める程に、俺はまだ強くなんかなれないからだ。
 おじさんは言った。マジックはもっと凄いって。
 俺は戦場のあの男を実際に見たことはないけど、口では信じられねえってバカにしたくなったりするけど、そう言われれば無条件に信じ込んでしまうほどの冷たい瞳を、アイツはしているんだ。
 俺は一族の秘密を、ちょびっとだけ教えて貰って。スタートラインにだってまだ着いちゃいないのかもしれないのに、マジックの奴は、もう背中が見えないぐらいの先にいる。
 走れば走るほど、アイツとの距離ばかりを感じる。



 何が起こったのかわからなかった。額から鼻筋にかけてが、かあっと熱くなって、突如として感情が染み出した。
 いつの間にか、シンタローは涙を零していた。おかしいよ。俺は平気なはずなのに。
 もう一つの心が自分を見下ろして、このガキが、みっともねえ、と蔑んでいる。いつまでたっても大人になれない。大人になりたいと思っているのに、どうして自分は、こんなに子供みたいに泣いてしまうんだろう。
 早く大人にならなければ。強い、誰にも心揺らされることのない、大人に……。
「アイツにだけは言われたくないのに」
 シンタローはこれ以上涙を零すまいと、歯を食いしばった。しかし食いしばるほどに、涙を溜めた心の泉が引き絞られて、ますますそれは溢れ出してくるのだった。
「俺は……アイツに優しくされるのが、一番傷つく……」



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 所詮は持たざる者同士の傷の舐めあいなのだろうか。
 サービスはふと想いに浸る。
 過去――無為に年を重ね、懐かしいものたちから取り残されていくと感じていた日々。
 失った体温、青の眼、自分に残るのは冷たい情念ばかりだと、絶望の中で膝を抱えていた日々。
 その通りだ。この自分の気持ちは、本質的にはいまだ変わらないのかもしれない。しかし。
 長い睫を上げて、サービスは甥の姿を見つめる。今、彼は涙を零している。泣いている。
 思う。この子に……シンタローに、自分の罪を重ねて見ていた僕は、決して許されることはないのだと。
 だがしかしどうだろう。今の自分の目には、もうこの子は罪とは見えない。
 そのかわりに、沢山の美しい思い出と、どこか遠くへと繋がる、細く開いた扉の隙間から漏れる光が、見えるような気がしている。
 まだあどけない表情をしていた頃の僕自身の輝き。罪のかわりに、過去の素晴らしかった日々を過ごした自分の姿を、重ねることができるような気がしている。
 重ねた淡いヴェールの向こうに、シンタロー自身の姿を見ることができるような気がしている。
 その本質は、まだ掴むことができないのだけれど。僕はまだ、シンタロー自身を完全には理解していない。することができない。



「対等な存在として、俺のことなんか、見ちゃいないんだ。バカにしてるんだ。認めてねえんだ」
 シンタローの足元の砂が、濃い色に姿を変えて模様を描く。落ちる涙は、何を物語るのか。
「アイツは、俺が何を考えてるとか、どんな気持ちで頑張ってるとか、そんなのどうでもいいんだ。結局、俺のこと認めてなくって、ただ、自分のものだと思ってるから、変に執着してくるんだ。玩具みたいに、俺のこと、思ってるんだ」
「……」
「最低なんだ。最悪なんだ、あいつは」
 足元の模様を、シンタローは焦ったように蹴りはじめた。涙模様が彼の心と同じに乱れて、乾いた砂と混じり合う。
 サービスは何も答えることができない。ただ想う。黙っている僕は、ずるいのかもしれない。
 僕はずるい。僕は頑張れなかったから。最後まで青として踏みとどまることができなかったから。こんな時、相応しい言葉を与えてやることができないのだ。
 ……青として……?
 黙って甥を見つめているサービスの思考も、共に乱れていくかのようだった。
 青とは、一体、何だろう。僕にとって本当に大切だったものは何だろう。
 ジャン……。
『サービスはそのままで十分……』
 十分、なに? 記憶の中のお前がまた、僕に語りかけてくる。
 僕がそのままでいることができなかったから、その先はもう永遠に聞くことができなくなってしまった。
 僕は、お前が死んだこの地で、立ち止まったままだよ。
 ああ……でも……僕はこの地で、いまだ渦を巻くお前の死の余韻に苛まれながらも、顔を上げることができるのだろうか。できると思うかい、ジャン。
 かつてマジックに訪れ、高松に訪れたのだろうメタモルフォーゼへの予感。
 死んだお前、そしてルーザー兄さん。それにかわって生まれた新しい命によって起こされた変化の波。その波の輝きに、ひどく遅れた僕も、ようやっと手を触れることができるのだろうか。
 ジャン。お前の記憶の呪縛は消えなくても、僕はこの場から歩き出すことができるのだろうか。いや、歩き出すことはできなくとも、予感のする方角へと、顔を向けることができるのだろうか。
 失った未来と、過去の他に、僕にも何か持つことができるものがあるのだろうか?
 僕がお前の死後も生きながらえたということは、無為ではなかったのか。お前が死んでからの時間を生きた証として、僕は今……この甥を見ることができるような気がしている……かもしれない。
 これはお前に許しを乞うべきことだろうか。お前に、ではなく……お前という僕の中にいる偶像、僕が喪に服し続けているつもりでいる、お前という幸せの記憶に。
 ――ジャン。やはり答えてはくれないね。



 サービスは、目の縁を赤くしたまま口を閉ざしてしまった甥を、見つめた。
 本当の意味での挫折をまだ知らない子だと思っていた。
 だがシンタローは、その生を受けてマジックと顔を合わせた瞬間から、挫折を知っていたのかもしれない、と感じた。
 きっと最初から彼は挫折を知っていた。薄い窓ガラスのように、心を砕かれる痛みを知っていた。
 僕は、シンタローの出口は何処にあるのかと、考えていた。そしてそれを早く見つけるようにと、願っていた。
 だが……お前の出口は、遥か高みにあって、お前はそれを最初から見つめていたのかもしれない。そうなのかい、シンタロー。
 そう、サービスは今度は亡くした人ではなく、甥に向かって、無言で語りかけてみた。



「よーするに俺は、一族のできそこないって訳ね」
 しばらく黙った後、シンタローは手の甲でいそがしく目を擦り、泣いたことを誤魔化すように、ヘッと笑った。
「きっとアイツが俺に優しくすんのも、俺が……できそこないだから……なのかもな!」
 眉根を寄せるサービスの前で、彼は両手を振った。
 手についていた涙の欠片が、乾いた大地に飛んで、吸い込まれていった。彼は言葉を続ける。無理にますます笑う。笑うことで、すべてを馬鹿話に変えたいと思ったのかもしれない。
 見かねてサービスは、声をかける。自分は彼に、ネガティヴな思考に囚われてほしくはないのだと、今さらながらに気付いた。自分自身は底の底まで堕ちている癖に、勝手なものだと自嘲しながら。
「シンタロー」
「はは、気ィ使わなくっていいよ、おじさん! 俺みてえな、できそこないが……」
「そんなことはないッ!」
 我知らず、語気を荒くしてサービスはシンタローの声を遮っていた。
 驚いた顔で、シンタローがこちらを見るのがわかる。
「逆に俺はお前に賭けてるんだ」
 サービス自身も、自分の唇から漏れる言葉に驚いていた。
「普通の瞳で生まれてきたからこそ……お前なら一族の運命を変えることができるかもしれない」
 力強く甥を励ます自分の言葉を、聞いていた。熱が篭る。運命、と口にした時、また右眼の空洞の奥が痛んだ。運命。僕のこれも、運命と言えるのだろうか。自ら選択しながらも、自然に流れ着いてしまう運命の楔……。
 若々しい声が問い返してきた。
「一族の運命?」
「――……いずれわかるさ」
 シンタローが青の一族として前へと進めば、必ずぶつかる障害。そしてさだめ。しかしサービス自身にも、いまだ明確に捉えることのできない漠然とした束縛。
 だがその中にある内は、誰も幸せになることのできない鎖で絡め取られているという諦念。絶望の繰り返しの茨の城。
 秘石眼を抉り取った自分も、決して逃れることのできない呪縛。
 その呪縛の外に、もしかするとシンタローは生まれながらに立っているのかもしれないと、サービスは直感的に思う。
 何よりこの子は健全な魂を持っていた。青の一族らしくない魂。あるいはハーレムがそれに近いのかもしれない。だがあの双子の兄は、破壊の中で生きることを選択した。
 この子は、果たしてどう生きるのか。
「確かに秘石眼の威力は凄まじいが、その力をコントロールしなければ自分の仲間すらも傷つけてしまう」
 サービスはある決意をしていた。
「おじさんは大丈夫だよね」
「いや……」
 成長していく者に対して、自分ができることは何か。
 ――過ちを犯した己の醜い姿を、見せること。
 自分という存在に幻想を抱いているこの子に、現実を見せること。
「若い頃に大切な人を傷つけてしまったよ……」
 顔の右半分を覆い隠して流れる金髪に手をやる。また風が吹いた。その風と一緒に、サービスは手をなぎ払った。
 さあっと長い髪が背後に閃き、淡い輝きがその場に満ちた。まだ早い朝の冷気がひやりと右頬を打ち、傷口を打つ。
「だから俺は秘石眼を捨てた!」



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 シンタローは息を飲んで、叔父の顔を見つめた。
 ずっと何故彼は顔の右半分を隠しているのだろうと不思議に思っていた。だが同時にそのミステリアスな匂いに憧れてもいた。
 尊敬する叔父の金髪の下に隠されていたものは、ケロイド皮膚に覆われた空洞だった。その美しい顔の右半分は赤黒く盛り上がり、ところどころが陥没し、剥がれた皮膚の跡が醜いひきつれを作っている。
 そこにあったのは、深い深い、今も癒えることのない傷口だった。
「……おじさん」
 シンタローの脳裏に、ある記憶が蘇る。
 数年前に士官学校を抜け出し、色々あって、結局は牧場に子馬を見に行った時のことだ。
 どうしておじさんは、軍人にならなかったんだろう、と聞く自分に向けて、もう一人の叔父であるハーレムが呟いた台詞。ひどく意味深だった。
『……アイツが教えてくれる気になったら、話してくれるだろーよ。オマエにはよ』
 この傷だ。この傷のことだ。
 シンタローは直感的に、サービスが軍人にならなかった理由は、この傷と直結しているのだと思った。



 ――ジャン。
 叔父が静かに語りだした。その語りの中で、シンタローがこの名を聞いたのは、これが初めてだった。
 彼は心に、その名を深く刻み込んだ。
 ――ジャン。
「……お前によく似た……男だった」
 叔父の声は静かで抑揚がない。それだけに、何故か胸に迫るものがあった。
 ジャンは叔父の親友だった。だが叔父の青の力の暴発に巻き込まれて、戦場で死んでしまった。つまり叔父が殺してしまった。
「戦場とは、この地だ」
 シンタローは、口を開く。何か言わなければと思ったが、何と言うべきかがわからなかった。大切な話なのに。大切すぎて、ちっぽけな自分が簡単には関ることができないような気がしている。
 しかし今まで知ることのなかった叔父の素顔が、多少なりとも見えたような気がしていた。
 この地? この地で、その男は死んだというのか。俺と似た男が。
 すぐには何の感慨も浮かんではこなかったが、おぼろげながらに、何かが了解できたような気もしていた。
 だがシンタローは、誰をも憎いとは思わなかった。誰が悪いとも感じなかった。あるがままを受け入れた、それだけだった。
「写真とか、ないの」
 やっと、そう言うと、
「ああ……」
 溜息をつくようなサービスの声に、シンタローの胸はずきずきと鳴る。さっき、泣いたのは自分であるのに、このサービスの声も泣いているように感じられた。その声は、常と同じの淡々とした声であるのに、切ない響きを帯びている。自分とサービスは、何処か似ているように思われた。
 写真、そんなものはないのだ。ジャンという男は、この叔父の胸の中に住んでいる。
 ジャン……おじさんの親友。俺によく似た男。
「俺はこうして、青の一族を降りようとした……」
 その言葉には含みがあったが、今のシンタローにはそこまではわからない。降りようとしても降りられるものではないことは、彼はまだ知る由もない。
 ただ、叔父が青の一族でありながら『秘石眼を持ってはいない』という事実に、愕然とした。
 そして――理解したのだ。



 どうして俺は、この叔父を身近に感じていたのだろう。
 憧れ、そのようになりたいと願った。その身に纏う雰囲気を慕った。
 この時、シンタローは初めてわかったのだ。
 自分が幼い頃から持ち続けていたひけめを、この人も持っているのだ、と。
 この人も、『持たない』ことで膝を折ったことがあるのだ。
 完璧な青の一族の高みから見下ろされて、打ちひしがれて涙を零したことがあるのだ。
 あの男に……。
 この込み上げる感情は何だろう。自分という存在への懐疑? 苦しみ? 執着?
 誰を憎むということもないシンタローは、たった一人だけの相手を、憎悪よりも強い感情で心に捉えた。
 捉えて見上げて視線を逸らすことができない。
 ――マジック!



 シンタローは、男を想った。
 倣岸に見下ろしてくる青い瞳は、いつもシンタローの知らない海の色をしていた。
 輝きを湛えた水面の、光の差さない奥底は深い闇。凍りつくような深海の暗黒。このままのシンタローでは、潜ることは叶わない。
 幼い頃から、常に『お前には無理だよ』と言われている気がしていた。あの眼は最後には俺を拒む。そんな絶対の確信と屈辱と無力さを感じ続けていた。
 お前なんかに、何がわかる。秘石眼も持たぬお前が、私に何程のことができる。
 ずっと側にあった瞳に、そう責められているような気がして、シンタローは悲しかったのだ。
 だからよく逃げ出した。心の中の砂時計が落ちきる度に、マジックから離れて、あちこちを彷徨った。
 自分には力がない。あの瞳に向かって、何をしてやることもできない。そう感じると、シンタローの心は不安定になった。ただ、早く大人になりたい。大人になって、強くなれば、いつか俺はあいつに……。
 この叔父との修行の間、精神統一に励むことができたのは、心を乱させるマジックという存在から恒常的に離れていたからなのかもしれないと、シンタローは考える。
 同時に、今この瞬間、あの男は何をしているのかということを考える。あいつは俺のことなんて、これっぽっちも考えやしないのか。
 死の匂いがする男。
 なんて奴なんだと思う。最低な男なんだ。
 でも、俺は――不意に見せる、あいつの哀しそうな目が、忘れられない。
 忘れられないから、俺は、あいつに立ち向かうしかないのだ。



 もう涙は乾いていた。
 シンタローは、思わず叫んでいた。
「おじさん!」
 叔父は陽の光を見つめていた。薄い金髪が透き通るように煌いている。
「俺、強くなるよ!」
 シンタローも太陽を見つめた。輪光は澄んだ空に輝きを増し、遥か彼方の山々の輪郭を美しく彩っていた。結晶をちりばめた尖塔岩がちかちかと照り映える。
「誰よりも! どんな奴よりも強くなる!」
 声が荒地に響き、濡れた砂地はもう照りつける日で乾いていた。
 シンタローは太陽が好きだった。太陽からは、生の香りがするからだ。生を見つめたまま、死に手を伸ばすことは可能なのだろうか。
「ああ、強くなれ。俺よりも、マジックよりも」
 叔父の声は、力強かった。もう叔父も、泣いてなんかいないと思った。
 その複雑な心は、すべて知ることは叶わなくても、彼は自分を強くしたいと心から思っている。それだけで十分だった。
 おじさんには、俺にはその重さが計り知れないような辛い過去があって。だから軍人の道を進まなかったのだ。だけど俺は、この道を進むことをもう決めている。決めてしまったからには、俺は突き進んでみせる。
 俺は強くなる。強くなって、もう泣く必要のない人間になる。もう誰も泣かせない。そんな人間になる。
 シンタローは、強い人間は絶対に泣かないのだと、考えていたのだ。
 強くなれ。その言葉に頷いた彼に対して、優しい目をした叔父は言った。
「信じているぞ、シンタロー。お前ならばたとえどんなことがあっても、たくましく生きるだろう」
「おじさん!」
 ――そしてシンタローはこの後、さらに一月の修行に明け暮れることになるのである。



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 大型ヘリの窓から外を眺めているのは、シンタロー、一人きりだった。
 プロペラの回転音は、風のそよぎや、雨が乾いた大地を叩く音、黒雲の向こうに走る稲妻を聞いて過ごした耳には、ひどく異質で無遠慮な人工音に聞こえたが、すぐに慣れた。自分は元はこちら側の人間だったのだと、ぼんやりと思う。
 まだシンタローの目の裏には、大自然の中で見た輝く星空が広がっている。澄んだ空気を覚えている。機械の箱に、半年を過ごした荒地の息吹と一緒に、運ばれていくと感じている。
 本部周辺数十キロの地形は覚えこんでいたから、すでに見覚えのある風景が自分の前には広がっている。
 懐かしい海岸線のかたちや道路の描く模様、遠くに見えるなだらかな山の尾根、密集する建物群のかたちにが見えると、彼は身を乗り出した。
 叔父は、『他に寄る所がある』と途中で機から降りてしまっていた。



 修行を終えた。この半年で、自分は何か変わっただろうか。
 シンタローは黒い目に、豆粒のような世界を映しながら、考える。
 得たことを箇条書きにして、頭の中で並べてみる。
 まず眼魔砲を撃てるようになったこと。
 料理が好きになったこと。
 自然の中でも自活できるようになったこと。
 初めて親父の側を離れて、半年を過ごしたこと。
 叔父の過去をわずかなりとも知ることができたこと。
 自分には覆い隠されていた『一族』に関る事情を、ほんの少し知ることができたこと。
 秘石眼、の存在を……はっきりと意識したこと。
 きりがない。シンタローは頭を振った。様々なことがあった。そして自分は、変わっただろうか。
 答えの出せないままに、これから半年振りに、マジックに会うことになる。



 ヘリが本部のポート上空で円形に旋回し、着陸準備を始めている。
 管制塔が静かに点滅し、シンタローは何故かそれを昼間の線香花火のようだと思った。幼い頃、夏の夜に花火をしようと約束したのに、マジックに夜から仕事が入ってしまって。仕方なく、日の照っている本部の英国式の庭で二人でした、小さな線香花火。
「シンちゃ――んっ!」
 プロペラの煽る風に伸びた髪をなぶられて、目をすがめるシンタローを、大きく腕を広げた赤い軍服の男が出迎えていた。
「おかえり、シンちゃん!」
「……ただいま」
 出会いは、別れた時と同じムードで始まった。身構えていたシンタローは、少々拍子抜けする思いだ。二人の関係は何も変わってはいないかのように思えた。
 久しぶりに見るその顔は、記憶の中の男と寸分の互いもなく、鋭角にナイフで削いだような輪郭をして、苛烈さを表面的な柔和さで包んだような魔物じみた気配を漂わせていた。
 男は短めの金髪を揺らし、ヘリから降りたシンタローを抱きしめた。
 そして肩に手を回したまま、シンタローの体を嬉しげに見回し始めた。しきりに話しかけてくる。
「あっ! シンちゃん、日焼けしてる! 一回り体が大きくなったねっ! 筋肉がついたのかなっ!」
 主人を迎えてはしゃぐ大型犬のように、まとわりついてくる。相変わらずだと、シンタローは苦笑する。
 やっぱりこの男、まったく変わっちゃいねえ。
 本部も、あんまり変わったって感じがしねえな。まあ半年だし、等とシンタローが周囲を見回していると、何やらごそごそとマジックは背後から取り出し始めた。
 差し出してくる。
「はい
 それはなんと、巨大なマジックのぬいぐるみだった。赤い軍服まで着せてある。
「じゃーん! 特製マジックぬいぐるみ あのシンちゃんの寝る時のヌイグルミが捨てられちゃったって聞いてたからさ! まったくもう、サービスめ! だから帰還のお祝いに作っておいたよ! まあ今夜はパパが添い寝するけどネ
 げ、とシンタローは後ずさり、うんざりする。そうだった。コイツは、そういうヤツだった。
 ずしっと疲れが、自分に圧し掛かる。
「いらねえよ!」
 添い寝だって、いらんわい。
 ぬいぐるみを押しのけると、ふにゃりとした感触がして、シンタローは顔をしかめる。しかめながら、言った。
「もう俺はンなのいらねーんだよ」
「ああっ! シンちゃんが大人になっちゃった!」
「るせー。俺はもうガキじゃねえ」
 頬を膨らませて言うと、相手は残念そうに巨大ぬいぐるみをしまい(どこにしまったのだろう?)、また纏いつきを再会し始めた。
 とにかく自分に会うことができて、マジックのヤツは嬉しいんだろうなと、シンタローは感じた。その姿に演技はないように見えた。
 ふーん。そっか、俺に会えて嬉しいのか……。
「シンちゃん、半年で身長、7cm5mm伸びたねっ! ああ筋肉ついたね、胸回りは18cm増加、腕回りは、えーと、ちょっと腕上げてみせて!」
「……」
 しかしこのマニアックさには閉口する。
 おそらく数字は合っている。見ただけで自分のサイズがわかってしまうとは、マジック恐るべし。
 ちょっとヤな気持ちに襲われて、シンタローが溜息をついていると、相手はフフフと笑った。
「ま、後はお風呂に一緒に入って、親子水入らず、確かめるとするか
「だ――! 入るかッ!」
「どうして! 久しぶりに背中の流しっこしようよ
「イヤだ――ッ!」
 体全体で拒否しても、それでもマジックは、そっかぁ、シンちゃんたら、お風呂より御飯が先だよねとルンルンのご様子だ。そしてすっと顔を寄せ、シンタローの顔を覗き込んできた。
 自分の身長が伸びたからだろうか。それでも相手の方がまだまだ背が高いけれど、前とはちょっと覗き込まれる角度が違って、シンタローはドキリとした。何だか、角度が深い。顔が近い。近い場所から響く声。
「お腹すいてないかい。もっちろん、シンちゃんの、だぁいスキなカレーを作っておいたよ 一緒に、た・べ・よ
「あー? べっつに、腹なんかそんなに……」
 しかし、『カレー』と聞いて、シンタローの腹がぐうと鳴る。
「……」
 腹を押さえ、赤くなるシンタローに、勿論その音は聞き逃したりなんかしないマジックは、またフフと笑った。
「それじゃ、早く部屋に行こうか」
「チッ」
「御飯もね、ちゃんと炊けてる」
「おうよ」
 仕方ねェな。
 ……ちょっとは……嬉しくないことなんかなかったりする。ずっと食べていなかった好物だから。ついホカホカと湯気を立てているカレーの様子を思い浮かべてしまい、沸いてきた唾液を飲み込む。腹、減った。生理的欲求には従うしかない。
 シンタローは肩を竦め、諦めたように深く息を吐いて、ポートを歩き出す。
 数歩歩いて、相手が背後からついてこないことに気付いた。
「……?」
 シンタローは振り返って、立ち尽くしたままの男を見た。
 奇妙な静けさが、二人の間に満ちていた。だがそれでいて目の前の男は、まるで沈黙を怖がっているかのように見えた。彼は押し黙りながらも、言葉の接ぎ穂ばかりを探しているように見えた。
 やがてマジックは、ぽつりと言った。
「……会いたかった」



「……」
 ホントかよ、と思った。シンタローは、マジックの眼の底をじっと見つめた。
 するとそこに一瞬だけ感情の光を見つけたような気がして、食い入るように見たけれども、だが海の底に落ちていったものは、もう何も見当たらない。
 あきらめたシンタローは、ぷいと横を向いた。傍から見れば、拗ねたように見えたかもしれない。いや実際にそうだった。
 彼は横を向いたから、その様子を見てマジックが、そっと唇の端に言葉を乗せたのに気付かなかったのだ。
「……たとえ、お前が私を重荷だと感じていたとしても……会いたかったんだ」
 その声は、ひどく小さかったから、シンタローの耳に入ることはなかった。



「眼魔砲、撃てるようになったんだってね」
 本部に入り、兵たちの敬礼を受けつつ廊下を進みながら、マジックがそんなことを言ってきた。自然な調子だった。
「ああ」
 答えつつも、シンタローは複雑な気持ちに見舞われる。
 『眼魔砲』って。
 俺は、サービスおじさんにその言葉を初めて聞いたのに。アンタの口から聞くのは、これが初めてなのに。まるで当たり前のことみたいに、簡単に言うんだな。
 おじさん、言ってたぜ。アンタだって普通に撃てるんだって。俺よりも、俺よりスゲエおじさんよりも、強いの、撃てるんだって。
 『俺に特殊能力があれば』
 それは、シンタローが士官学校に入学し、さらには今日までの日々において、心の隅に引っかかっていた望みだった。
 前は、あんなに欲しいと願った力だったのに。
 いざ手に入れてしまえば、ただの道具だという感触しかしない。いや、十分な達成感はあったが、それはヘリポートでこの男の姿を見た瞬間から、しゅるしゅると風船の萎んで、何処かに飛んでいってしまった。まだ足りないのだと、飢えを感じた。
 眼魔砲。それは一族であれば皆使うことができる能力なのだと教えられた。隠されていたそれを自分は使うことができるようになった、それだけだった。
 これでやっとスタートラインに立つことができたというにすぎない。
 サービスの訓練の下、この技を完成させた時は、途方もない達成感に満たされていたはずなのに。今、この男の前に出ると、それはなんて、ちっぽけなことなのかと恥ずかしくなる。
 何かを確かに俺は得たはずなのに、この目に見つめられれば、すぐにそれが十分ではないと知る。
 でも覚悟を。俺は覚悟をしたんだ。
 少し黙った後、シンタローは、答える。
「おうよ」
「……」
 相手は立ち止まった。つられてシンタローも歩みを止める。
 再び奇妙な沈黙が降りた。無機質な廊下、空間を切り分ける壁の狭間で、空気は滞留し、簡単には流れていかない。



「撃ってみて」
 やがて男は、そう言った。シンタローは戸惑う。
「ああん? ここでかよ」
 いやこのまま屋上訓練所にでも、どこに行ったっていいから。御飯の前に、ちょっと私に見せてみてよ。相手は本気らしく、迫ってくる。
 真剣な口調から、いつしか甘えたような響きを帯びて、言葉が重ねられる。
「ねえねえ、シンちゃん 撃ってみてよっ!」
「嫌だ」
「えー、サービスの前では撃てても、パパの前だと嫌なの? ひどーい、シンちゃん!」
 マジックの言葉を聞き流し、シンタローはさっさと彼を置いて、再び歩き出した。
「あっ、シンちゃん」
 追ってくる男を意識しながら、歩く。本部の廊下は長い。
「それとも……私の前では、撃てないの」
 すると相手は、こんなことを言い出した。カチンときて、勢いよく振り向くと、背後のマジックは妙に真剣な顔をしていた。また相手は口を開く。
「私がいると、できないの」
 何を言いやがるとシンタローは相手を睨んだのだが、その反面、心の奥がチクリとした。
 マジックがいると?
『アイツがいると、思いきれねェことが、あんのかもしんない』
 確かに自分はそう感じることがある。
 それに加えて、シンタロー自身は明確に自覚してはいないが、大人になりたいという願望の裏には、親の前ではいつまでも子供でいたいという願望も存在していることが常である。
 どうにも、やりにくかった。見られるというのが、気恥ずかしい。つい首を横に振ってしまった。
「……ッ……ヤだって!」
「どうして?」
「なんか、ヤだ」
「『なんか』じゃ、わかんないよ、シンちゃん!」
「いいじゃねえかよ。ヤだったら、ヤだ!」
「ちゅ
 すると久しぶりに、突然キスされた。



 びっくりした。すごく、びっくりした。奴にはこんな攻撃手段があるってことを、あんまりにも久しぶりで、予期していなかった。
 視界が陰って、唇にやわらかいものが触れて、そして離れていっても。シンタローは、しばらく目が点になったまま、硬直していたのだが、
「うあっ――――!!!」
 脳が事態を認識すると、まず声が出る。そして体が動く。それから毎日の特訓のせいで習い性になっているのか、体が熱くなって、右の手の平に熱が収斂していくのがわかって。シンタローは、マジックめがけて、思わず眼魔砲を発射していた。
 どごーん、と凄まじい衝撃音がフロアを包む。
 斜め上方に巨大な穴が開いた。元は壁だった瓦礫の山がガランと崩れ落ちる。パラパラと降ってくる
 ぜいぜい息を荒げながら、シンタローはハッとした。
 ああっ! マジック! どうなった!
 それにここは、だだっ広い荒地ではない。眼魔砲を撃てば、必ず何かが壊れる人工物の園である。
 むやみやたらに撃つなんて! むやみやたらに……。
 もうもうと沸き起こる煙の中に目を凝らせば、元いた場所から移動しているものの、立ったままの人影が見えて、シンタローは安心した。
 避けたのか、自分がはずしたのか。彼の実力を自分は目の当たりにしたことがないから、わからない。
 なんだか、またそれが寂しくなって、怖くなった。次第に白煙が晴れていく中を、見つめる。



 煙が晴れた。シンタローは、息を飲む。
 現れた男は、にこっと頬をほころばせた。
「やったね シンちゃーん
「はぶっ!」
 変に緊張していたところに、今度も突然に両手を大きく広げて、ぎゅむ〜と抱きついてきたマジックに、シンタローは足をよろめかせた。
 再び眼魔砲を撃ちそうになり、なんとか自制する。相手はいつもの行動を取っているだけなのに、いつもよりも何故か振り回されている気がする。長い間会わなかったから、距離のとり方がわからなくなっているのだろうか。
 くっ、マジック! マジックのヤツ!
「流石パパの子だよ! 自慢の息子だね
「なっ、やめろよ、おい」
 また抱きついてくるマジックだ。
 腕の中にくるめとられて、ハッ! とシンタローが気が付けば、『親子喧嘩だ……』『いやもう仲直りされてるみたいだ』等と、遠巻きでこちらを窺っている軍人多数。
 その中に見知った顔を見つけて、シンタローは舌打ちをした。あいつらだ。士官学校の後輩で、秘書見習いだかをやってたヤツ。と、その連れ。こんなとこに詰めていやがる。
 そういえば廊下で敬礼をかわす兵たちの面々も、半数は面代わりしているようだった。配置換えがあったのだろうか。半年という期間は、短いようで長い。
 くっ、とにかく恥を晒してしまった!
 シンタローは必死に男を振り切り、早足でスタスタと廊下を突き進む。
 ああっ、シンちゃん! とマジックもついてくる。なんだかもう、カッコ悪いこと、この上ないのである。



 だがマジックの構って攻撃をかわしながらも、その嬉しそうな笑顔を見れば、少しずつ気持ちが浮き立ってくるシンタローであった。なんだかんだで、それは確かな出来事だった。
 マジックが、こんなに喜んでくれるなんて。士官学校時代に成績で一番をとった時だって、マジックはここまでは喜んではくれなかった気がする。そんなことないかな。
 そう感じれば、じんわりと心があたたかくなっていく。半年会っていなかったせいもあるのだろうか、心がマジックの優しい言葉に飢えていた。
 しかしシンタローの頭は同時に、この喜びの裏にあるものを探ろうとしてしまう。本当はそんなことしないで、純粋に喜びを受け止めたいのに。彼の芯に根をはったコンプレックスがそれを許してはくれない。
 ――俺が眼魔砲を撃つことができた、という事実に喜ぶマジック。
 もしかして今までマジックは、俺のこと、自分の息子かどうか、疑ってたんだとしたら。そんなこと、ないかな。そんなこと……。俺があんまりにも、この男に似てないから。
 だからこんなに喜んでくれるのかな。
 いや。そこまでじゃなくても。
 俺が、青の一族としては、ひどい落ちこぼれで……秘石眼、なんて持たないで生まれてきたから。
 成績が一番だったぐらいじゃ、一族としては十分じゃないとマジックは思ってて。その上で眼魔砲が撃てたことで、やっと出発点に立ったと俺は認められたんだろうか。
 複雑な心境のシンタローは、今度は逃げ場のないエレベーターの中で、大仰な仕草で自分に抱きついてくるマジックを眺めて、考えている。
 するとなんだか、こんなわざとらしい喜び方を、マジックは前もって用意していたようにも思えてきた。
 修行中に、シンタローの心に差していた影。もやもやした気持ち。
 ――例えば、アンタは特殊能力者だったのか、とか。どうして俺にそれを黙ってたんだ、とか。
 何でアンタは、俺をサービスおじさんに預けたの、とか。
 秘石眼のこととか――
 こんな喜び方をされると、そんな色々のことは、もう聞けなくなってしまった。



 午後になって、叔父が到着するとの知らせが入り、シンタローは勿論のこと空港まで出迎えに行った。
 疲れてるだろうから、食後ぐらいはゆっくりしていればいいのに、というマジックの制止を振り切って、である。
 アンタも仕事に戻れよ、と、シンタローは言い残し、部屋の扉を開けて、書類を腕に抱えて廊下に並んで順番待ちをしているらしいマジックの部下たちを尤もらしい顔でねめつけて、外へ出た。その部下たちの中に、やはり後輩二人がいる。ぺこりと礼をしてきた。
「ああもう、シンちゃ〜ん! 久しぶりに会えたのに、冷たいんだから!」
 嘆き声が背中に被さってきたが、シンタローは構わず走り出した。
 少なくとも今日までは休職扱いの自分はともかく、まったくこんな昼間から、総帥が暇であるはずがないのだ。
 多忙な男を、別段望みもしないのに(ここ重要!)、自分が独占している状況になってしまっていることが、居たたまれなかった。
 それに何だか……マジックと半年振りに会ったら。幼い頃からずっと側にいたのに、半年も離れていたなんて初めてで、その自分の感覚が不思議で、彼と二人きりでいるのが、気恥ずかしかった。
「おじさん!」
 右手を上げて空港で迎える自分に、静かな笑みを見せたサービスは、『墓参りに行ってきた』と、告げてくれた。
 誰の墓なのかはわからなかったが、きっと亡くなった兄――つまりグンマの父親で自分の叔父――か、その親友のものなのだろうと、シンタローは推測する。
 こんな風に、サービスが、彼が足を向けた場所を教えてくれることは初めてだったから、シンタローは、今回の修行を経て、叔父と近しくなれたのだなと、嬉しかった。
 嬉しくて、空港から本部に戻る道すがら、近くの茂みがガサガサ動いていたことなんて、まったく気付かなかった。
 よく見れば、頭に鉢巻をしめて木枝を数本さし、両手にも枝を持って、隠れてシンタロー尾行中のマジックがいることに、気付かなかった。
 この二人、実は、どっちもどっちなのかもしれない。



「えっ、おじさん、すぐに行っちゃうのかよ!」
 驚くシンタローに、サービスは静かに頷く。今夜の内に、彼は再び旅立つのだという。
 今、ここに来たのは、マジックに修行の報告をするためなのだ、と叔父は言い、今度は自分が『ゆっくりしていけばいいのに』と主張するシンタローに向かって、肩を竦めた。
 早速総帥室に出向くというので、本部の前で、二人は別れたのだが。
「発つ前に、もう一度、お前の顔を見に来るよ」
 そう言われたので、シンタローは大人しく、本部の居住フロアの一角にある自室で、待っていることにしたのだった。



「はぁーあ」
 四角い自室。
 勢いをつけて、一人用ソファに座る。やたら妙な感じがする。こんなやわらかい椅子に、自分はまだ慣れない。
 硬い岩ばかりに接していた尻や背が、ふわりと沈む感触に不安を覚えている。ソファだけではなく、馴染んだ場所なのに、周囲全体に違和感を覚えている。
 半年前はそれが当たり前だったのに、どこか落ち着かない部屋。天井があることが不思議。壁があることが不思議。
 自分を取り巻くのは、どこまでも境などない荒地や空などではなく、人工物だということが、不思議。
 なぜ、人は空間を遮蔽するのだろう。上にも下にも、壁だらけ。狭っ苦しい空間。
 ぐるりと首を回し、肩を動かせば、カレーを食べる前にシャワーを浴びて着替えた衣服が、窮屈に思えるのだった。腕や脚の関節を、くいくいと動かしてみる。何だかやりにくい。
 実に周到と言うべきか、以前よりサイズが上のものをマジックが用意していたから、別に服が小さいという訳でもない。
 シンタローは、自分という存在が、人間という鋳型に流し込まれたのだという感覚を味わった。大自然の中は気楽だった。もしかすると本質的には、自然の中で生きる方が、自分の性に合っているのかもしれないとまで思う。
 だがすぐに自分は、この環境に再び慣れ親しんでいくのだろうか。いくのだろうな、とも一人思う。すぐに何の疑問も持たずに、俺は溶け込んでいく。自分にはそういう所があると、彼は自己を客観評価するようにもなっている。
 順応性が高いのって、いいことなんだろうか、悪いことなんだろうか。
 修行に明け暮れて過ごしたため、すっかり世界の動きに疎くなっている。空白の半年分の情報を仕入れるために買ってきた数冊の雑誌を、ぱらぱらとめくる。
 視界に飛び込んでくる、色取り取りの写真たち。知っていた国がなくなっている。半年前とは論調が逆の論説。憶測ばかりのゴシップ記事。着飾った人々。そうかと思えば、地味さを売りにする人々。泡沫のように弾けては消える流行の欠片。
「……」
 記事は脳みその裏側を滑り落ちていくようで、まるで興味を持つことができなかった。



 その内、廊下が騒がしいことに気付く。知っている軍靴の音が近付いてくる。
 どたばたと、非常に聞き苦しい。扉が開く前から、シンタローは今日一番の大きな溜息をついた。
 息を吐き終わった頃に、真っ赤な軍服を着た、デカい男が飛び込んでくる。
「シ、シ、シシシシシ、シンちゃんっっ! サービスに毎日料理作ってあげてたってホントッッ!!!」
 ……来たよ。
 げっそりせずにはいられない。
「パパにも作ってっ! 作ってよー! シンちゃんの手料理、食べたいよ――っ!」
「だからワカんねえかな、修行の一環だっつうの。それにそんなに作れ作れ言われたら、逆に作る気なくすわい。ホーント、逆効果親父だな、アンタは!」
「ハッ! しかもよく考えたら、お前はサービスと半年間も四六時中一緒にいたってことに! ずるい、ずるいよ、朝も昼も夜も一緒? 寝る時も一緒? ひどいよシンちゃん! くっ、負けるもんか! こうなったら私だって、半年間シンちゃんを抱っこして過ごすことにするよ!」
「アホかぁー! それにそんな事態、修行行く前から予測しとけよ、今さら何言ってんだ――!」
「ああもうシンちゃん、うっうっ。冷たいんだから。今夜はやっぱり添い寝して、半年も離れていた寂しい心を寄せ合って、あたため合うしか」
「だ――っ! やだっつうの! オレはもうガキじゃねえって、何度言ったら――!」



 しばらく騒いでいたマジックだが、面倒くさくなったシンタローが、我関せずとばかりに雑誌に目を落としていると、攻め方を変えてきたらしい。
 コホンと咳払いをし、勿体をつけて辺りをトコトコ歩き、やがて部屋隅からこちらに向かって近付いてくる。
 そして、シンタローのかけているソファの背もたれに、ゆっくりと背後から腕をかけてくる。妙に物分りのいいスマイルを顔に貼り付かせ、やけに猫なで声で、話しかけてきた。
 本人的には、さりげない風を装っているらしい。
「シンちゃんは、サービスがお気に入りのよーだね」
「……」
 何だ、一体。改まって、気味の悪い。とも思ったが。
 こんなに普通に正面から聞かれてしまうと、自分としても、答えることにはやぶさかではない。シンタローは、頷いた。
「ん……男の俺から見ても、魅力ある人だと思うヨ」
 急に、どよーんと雰囲気が篭る。男の眉が釣り上がり、青い目が深刻な様子で見開かれる。
「同性愛はいかんぞ! 非生産的な!」
「己の言動に責任持っとんのか、親父……」



 なーにがお風呂だ、添い寝だ、キスだ!
 べたべたベッタベッタしてきやがって、ホモ臭いのはそっちだろうがよ!
 シンタローのこめかみがピクピクしているのにも構わず、相手は畳み掛けてくる。
「ねえ、シンちゃん」
「あんだョ」
 にこっと笑った顔で、マジックが頬を寄せてくる。
「パパとサービスどっちが好き?」
「おじさん」
 ドウッ!



 間髪入れないシンタローの答えに、轟音が部屋を包んだ。
 壁が砕け、天井が砕け、この部屋は最上階だったから、青空が見える。パラパラと瓦礫と粉が落ちてくる。
 さっきの廊下と、同じ光景。しかし自分が撃ったのではない。とすると――
「はっはっはっ、テレ屋さんなんだから」
「てめェ……眼魔砲ぶっぱなしたな!」
 もうもうとした白い煙の中で、右腕を突き出していたマジックは、それから『私もお披露目』とあっさりと言った。
 シンちゃん、と。
 それからやけに小さな声で、呟いた。
「……シンちゃんが、眼魔砲、撃てるようになったから」
「――」
 その真剣な瞳に、一瞬、言葉に詰まってしまったシンタローだった。
 マジックが眼魔砲を撃つところを見たのは、初めてだった。胸の奥が、むずむずした。自分の感情に名前をつけることができなかった。
 しかし当のマジックは次の瞬間には、くるりと表情を変えてしまい、嬉しそうにニコニコと笑って、こんなことを言い始めるから、そんなシンタローの気持ちはぶった切られてしまうのだ。
「ようし! じゃあこれから、シンちゃんとの親子喧嘩は、派手にいこうか」
「なにィ! それだけかよ、アンタ! だからあんなに喜んでたのかよッ!」
「やー、ワクワクするなあ。ほら、成長した息子と一緒に酒を酌み交わしたい願望って、あるじゃない。あれが青の一族の場合は、一緒に眼魔砲を撃ち合いたいっていう願望に……」
「なんじゃそりゃ――ッ!!!」
「それじゃまたいこうか。パパと、サービス」
 じりじり、と金髪の男が迫ってくる。
「もう一度聞くけど、どっちが好き?」
 くぅ、とシンタローは、負けずに胸を張り、迫ってきた男と額を突き合わせ、大声で叫んだ。
「お・じ・さ・ん――!」
 どかーん、どごーん、ガシャア――ンッ!!!



 階下では、ティラミスたちが叫んでいた。冷静な彼も、初めて感じる激しい揺れに、表情を崩す。この辺がまだまだ青い。
 この時のティラミスは、若かった。幼い少年すぎた。秘書としての本格的な艱難辛苦を経る前だったのである。
 らしくなく、彼は叫んだ。
「うおおお! なんだこの揺れは〜〜〜〜!!!」
 ゴゴゴゴゴゴ……と本部が揺れている。凄まじく振動している。地震かとも思ったが、階上からは壮絶な爆発音が鳴り響いている。この音は――
 散らばった重要書類を掻き集めながら、窓の外を見れば、クッションが瓦礫と一緒に落下していった。次は焼け焦げたソファ。テレビ。雑誌、キャビネット。総帥用の最上階の居住フロアから、いわゆる家財道具が、バラバラと、弧を描いて投げ出されていく。
 天災ではない。明らかに人災。そんな状況確認をしている間にも、揺れはますます酷くなる。なにやら言い争いをする声までが聞こえてくるような気がする。穴が開いた分、防音効果も薄くなったのだろう。しかも二人分。あの声は――
 部下たちは思った。こんなことができるのは、マジック総帥しかいない。
 でも総帥が一人でこんな風に騒ぐだろうか?
 もしや! とガタガタ揺れる地面に這いつくばりながら、彼らの脳裏に一つの答えが閃く。
 総帥と――そして修行帰りのシンタロー様が。
 彼らは先程、目撃した光景に思い至る。親子ケンカの最中に、眼魔砲を放っていたのを、自分たちは確かに見た。
 修行前も、始終ケンカしていらっしゃった御二人だが。
 そうだ、シンタロー様が。
 シンタロー様が、パワーアップして、帰っていらっしゃったのだ――――!!!
 彼らは一斉に叫んだ。
「総帥が親子ゲンカしてるぞ〜〜〜!!!」
 後に、この叫びは、本部内においては、サイレンばりの避難警報として、恐れられることになるのである。
 ガンマ団名物、地震雷火事よりも怖い、親子ゲンカは本部の華。



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「しばらく……ここには来ない」
 清潔なだけの無機質な空間に、声は沈んだ。
「どうして。もうあの子の顔を見る必要はないということですか」
 さほど知りたくもないといった様子で、高松は右手の上でペンをくるりと回した。
 白衣の背中を一瞥すると、サービスは身を翻す。歩き出す。
「運命の波がくるまでは、な」
 そう誰にともなく呟いた時、背後でドアが閉まった。
 サービスが研究棟を出た所に、人影があった。
 その人物を認め、サービスは眉をしかめた。だが足を止めることはなかった。
「おい」
 通り過ぎたサービスに、壁に凭れていたハーレムは舌打ちをする。くわえていた煙草を吐き出し、靴の踵で踏み消す。そして大きく一歩を踏み出し、もう一度、
「……おい」
 サービスに声をかけ、他所を向いた。そのまま空に向かって言う。
「シンタローと、修行に行ったんだってな」
「……」
 止めるつもりはなかったサービスの足が、我知らず止まった。視界の隅にひっかかった、ハーレムの他所を向いた仕草に、既視感を誘われたのかもしれなかった。
 幼い頃、少年の頃。いつも隣にいたこのすぐ上の兄は、話しかけてくる時、こういう仕草をしたものだった。
 そう思い返し、逆にそんな仕草に気を取られてしまった自分が許せなくなり、サービスは再び歩き出そうとする。
 喉を硬直させてわざと抑揚のない声を作りながら。
「お前には関係のないことだ」
「へっ。相変わらずだな」
「……そうでもない」
 歩き出そうとした足が、また止まった。
 振り向いたサービスは、怪訝な表情を浮かべているハーレムを正面から見据える。
「……」
 サービスは、何かを言おうとした。だが、言おうとした言葉は胸のどこかで凍りついたまま、外に出ることを拒んでいるのだった。
 決して溶けない。このわだかまりは、溶けない。何よりも、何年振りかに見たハーレムの目が、自分のすべてを邪魔するのだと思った。この目を、僕は見ていたくない。
 かわりにサービスの口から出たのは、ひどくつまらない言葉だった。
「戦場の噂は……聞いている」
 目の前でハーレムは眉を動かし、だが動かしただけだった。
 戦場の鬼、特戦部隊。通称であるのか公称であるのかは知らないが、この双子の兄の名は、行く先々で耳にすることがあった。その度に自分は、不思議な気持ちになったものだ。
 僕がたった一人の人間を殺して、そのまま佇んでいる間に、僕の片割れは、遥かに多くの人を殺し続けている。
 口から言葉が滑り出た。
「人を……何のために殺す」
「走り続けるためにさ」
 相手は戸惑うかと思ったが、答えはあっさり返ってきた。瞳の色を濃くしたサービスに、ハーレムは叫んだ。
「走り続けるためにだよォ! 止めたら転んで、そこで止まっちまう!」
 サービスは指先で髪の上から、右目の空洞を押さえた。そして言った。
「……失わなければ、僕もそうやって走り続けていたのだろうか」
 静かに足を踏み出し、道を進む。もう何も言いたくないし、聞くつもりもなかった。背中に、次第に薄くなっていくハーレムの気配を感じながら歩いた。何も聞こえなかった。
 だからサービスは、自分が去った後に呟かれた言葉を、知らない。
 その言葉は小さく道端に落ちて、煙草の吸殻に紛れて消えていった。
「お前が壊れた時、俺が走れなかった分を……俺は、まだ走っている……」



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「おじさん、またすぐに来てくれるよね」
 そう言ったシンタローに対して直接は答えずに、サービスは薄く笑っただけだった。ぽん、とシンタローの肩を叩き、唇に艶を滲ませて、言う。
「次に会った時の、お前の成長が楽しみだよ、シンタロー。どんな顔をしているかな」
 軍用空港の発着ゲートに向かって去っていくサービスを見送った後、シンタローは思いっきり走って、近接する施設の屋上へと駆け上がった。
 立ち入り禁止、の札がすでに裏向きになっているドアを開けると、さあっと夕方の風が体を擦り抜けていった。
 煙草の吸殻、濡れて乾いてをくりかえして細切れになった新聞紙、しなびた菓子袋が、フェンスの下で震えている。
 水をたっぷり含ませた絵筆で描いたような、淡い夕闇が立ちこめはじめる西の空を、シンタローは目を細めて見つめた。
 赤と橙のライトを輝かせ、叔父を乗せた小型飛空艦は闇に向かって滑り出した。
 彼は、これから何処へ行くのだろうか。
 半年前に叔父は、あの荒地に向かう時、『俺の旅が始まった場所だ』と言ったのだ。
 サービスは旅をしているのだろうか。その旅はいつ終わるのだろうか。なんのために、彼は……。そして叔父の顔に走る傷跡を思い出し、語られた親友、というものをうっすらと考え、シンタローは物思いに耽る。
 シンタローは、すぐにまた、叔父と会うことができるのだと思った。
 しかしシンタローが次に彼と対面するまでには、7年の月日を要することになる。



 ひとすじの風が、屋上を渡っていった。長く伸びたシンタローの髪を、静かに揺らしていく。もう視界の中に、飛空艦の姿はない。
 風が吹くたびに、シンタローは思う。
 この漠然とした感覚は砂時計なのだ。体内で揺れ動く感覚。ひどく脆い。目を瞑れば、自分の芯がどこにあるのかさえわからなくなってしまいそうな焦燥感に苛まれていく。
 自分の体は砂でできていて、時間が経ち、風が吹くたびに、ほろほろと崩れていくのかもしれないと思う。
 肉体も経験も感情も、いつかは時間を刻む砂となって、ただ過去へと堆積していく。後になって振り返り、あの頃は良かったと感じる記憶となるのか。それとも。
 シンタローの砂時計は、時を刻み続ける。時は過ぎる。
 すべては砂の一粒となり、細いくびれを滑り落ち、透き通ったガラスの中に積み上がる。
 やがて訪れる葛藤の時期のために。くるりと一瞬で反転させられ、すべての砂も、記憶も、新たな奔流の渦へと巻き込まれていく時のために。
 彼は息をついた。塗り込められた夜の闇の中に、溶けていった。
 さっき昼間の線香花火だと思った管制塔の灯の、今は華やかなきらめきを、いつまでも眺めていた。
 ただ砂は粛々と滑り落ち……俺が生まれて、あの男と出会った時から、宿命への時間を刻んでいる――







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