闇に咲く花

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 マジックが外に出ると、月が出る前の薄い宵闇が立ち込めていた。
 咲き乱れる桜がまるで明かりを灯したように輝いている。
 柔らかく吹く夜風が鼻先をかすめ、花びらを舞い上げた。
 それを受け止めようとするかのように、腕の中の子供がこれまた自分の花びらのような手を天にかざしている。
 小さな日本庭園が目の前には広がっていた。
 この庭は、ずっと見たくなかった。
 ルーザーを見る時と同じように、自分の心が見えてしまう。
 お前の嫌いな……情の世界。



 桜が散る。
 この桜になることができたなら――
 どこか遠い所に待つ人の元へと、ただ散って逝けたなら。
 そんな自由への衝動が胸の内に生まれたのは、初めてだった。
 桜は死者と思い出を呼ぶという。花の盛り、その絶頂にこそ、死を感じる。
 父の死を知った幼い頃から、振り返らずに邁進してきた自分。
 強い兄、完璧な一族の長の役割を果たしてきた自分。
 その知らずの束縛に、感じることさえ忘れていた、心の奥底。
『何でもできるってのはそんなに偉いことかよ! 何でも自由になるって思いやがって!』
『アンタは俺たちのコト、道具としてしか見ちゃいないんだ』
『マジック兄さんは強いから、わかんないんだよッ! 僕やルーザー兄さんの気持ちなんて全くわかっちゃくれないんだ……ッ』
『化け物』
『それは兄さんが生まれながらの強者だからですよ』
『僕はあなたとは違うんです』
『寂しそうですね』
 ハーレム、お前の真っ直ぐさが憎い。
 どうしてそんなに健やかな心で生きられる。人の心に踏み込める。
 でもお前は、いつも正しい。
 情の狭間で――
 私はルーザーの無垢な瞳を汚してしまいたかった。
 哀れだとは思いながら、その純粋さに憎悪を感じていた。
 頼ってくる心を突き放すことに、弱者への憤りとあざけりがあった。
 自分の分身のような白い花の美しさが、あっけなく散るのを見てみたかった。
 そしてルーザーが殺した男。
 私は何も知らないサービスの幸せな世界を、壊すことに暗い喜びを感じていた。
 部屋のカーテンの隙間から見る『学生生活』はどこか甘ったるく馬鹿らしく、そして羨ましかった。
 その平凡さに嫉妬していた。無邪気な幼さが憎かった。
 嫉妬と総帥である自分との間の葛藤が、執着をより深く濁らせた。
 例えそれが赤の男でも。騙す酷い男でも。
 私を特別視しない、恐れない人間をいつも探していた。
 ……腕の中の子供が身動きしている。
 私はこうして過去を想うことが怖かった。
 過去に浸って強いままでいることは難しい。
 だからこの子さえ避けたかった。
 何の罪もないのに、悪いことをしたね。
「シンタロー」
 初めてその名を呼ぶ。
 不思議な予感が胸を駆け抜けた。



「……シンタロー……私は寂しいよ」
 私は本当は強くなんかない。
 自分の心の中身にさえ気付かない、愚かな男だ。
 あの男に興味を持ち私情で放置した。
 あの女と関係した。
 末っ子の一生を台無しにした。
 死に行く弟と向き合わず、力ずくで止めなかった。
 いつも弟たちを傷つけていた。
 無自覚の寂しさが、私を衝動に突き動かし、邪魔をし、責任を放棄させた。
 過去の幾つもの場面で、私が自分の寂しさに気付いていたなら、道は違っていたのかもしれない。
 私が、強さに溺れて弱くなることを恐れなければ……。
 結果として皆、私から去っていった。
 今は私一人だけが、ここで青い石と血に呪縛されている。
 死んだ父が、死んだ弟が、死んだあの男が、去っていった弟たちが、過去の幾多の人間たちが。
 ――今は恋しい。



 私だって、覚えているよハーレム。
 忘れる訳、ないじゃないか。
 あの光の世界を。
 お前はいつだって湖で水遊び。
 どろんこのお前を綺麗にしてやっと連れ帰ると、今度はルーザーがいなくなる。
 あの子は虫や植物が好きだから、いつも草の中に隠れているんだ。
 それを探して連れ帰ると、今度はサービスの番。
 暗い場所や一人になるのを怖がってひどく困った。
 だからずっと抱っこしてなきゃいけないんだよ。
 それをお前が羨ましがって、またごねて喧嘩になる。
 最後は二人とも泣き虫だから、さんざん泣いて疲れて眠っちゃうんだ。
 そしてその寝顔に向かって僕は笑う。ルーザーと顔を見合わせて。
 馬鹿だな。みんな大好きだよ。みんなお前たちを大好きだよ。
 ……それを暖炉の前で笑って見ている父さん。
 それが、僕らの原風景。
 父さんが見ていてくれたから、僕は何でもできたんだ。
 僕が一番年長なんだよ。一番覚えてるに決まってる。
 父さん……。
 あなたの葬儀は四人で泣いた。
 それ以来、僕はずっと涙を流せずにここまで歩いてきたよ。
 父さん……失われた光の中の人。
 闇の中を生きる僕には、あなたが眩しい。
 世界を。
 だから、太陽に照らされるあなたのいた世界が欲しい。
 いつかあなたへと続く大地が欲しい。
 焦がれる。
 焦がれる想いに身を焼き続ける。
 この手にもう一度光の世界を。
 それが今の僕の向かう道。
 覇王への道。
 でも、父さん……。
 あなたが生きていてくれたなら。
 僕は。
 僕らは――



 だが、私一人だけは、最後まで逃げる訳にはいかない。
 ひとたび生を受けたからには、背負わなければならない業というものがこの世にはあるからだ。
 欲望の中で生と死を繰り返しながら、代々受け継がれてきた血の重みがこの体には流れている。
 何かを欲望し、奪えと命じ続けるこの血が私の全存在であるという生き方は、変えることができない。
 しかし……私は自分の汚さと未熟さを、業という言葉にすりかえて正当化していることもまた事実なのだ。
 弱い。弱すぎる。この身一人では立っていられない程に本当は弱いのに。
 腕の中の小さな子供でさえ重く感じるというのに。
 マジックは空を見上げた。
 花明かりの中で、虚空には静かに星が瞬いていた。
「お前も、こんな私から逃げるかい」
 何気なく呟いた独り言は、淡く花吹雪に溶けていく。
 きょとんとした黒髪の子供の頬には、いつの間にか桜の花びらがついていた。
 指を伸ばして取ってやると、くすぐったそうに微笑んだ。
 まだ命浅い者だけに可能な、無邪気な笑顔。
 この子はこれから、その生の間にどんな思い出と過去とを作るのだろう。
 願わくば、それが幸せなものであるといい。
 子供がまた彼の手をつかんだ。上下に腕を振りながら、じっとこちらの方を見つめている。
 黒い瞳に自分の青い瞳が映っている。
 薄桃色の花びらが数枚、二人の間を通り抜けていった。
 しばらくして、何かに得心がいったのか、子供は初めて声を発する。
「……パパ」
 その瞬間、マジックは自分の中の何かが瓦解していく音を聞いていた。



 私は何一つ自由にしたことがない。
 息をする度に、生きているのは自らの体ではないと教えられる。
 青い石のために生かされ、その欲望によって操られる人形。
 石が走れと教え、祖先の代から理由も知らずにただその血の保存と繁栄を目指す生き物。
 そうしなければならないという責任感だけで歩みを止められない木偶。
 命を殺し傷つけることしかできない。
 私とは、一体何者だ。
「パパ」
「ああ……お前の、パパだよ……」
 女はあの一枚の写真で、この子に自分を教え続けていたのだろうか。
 体温の高い子供の、小さな熱い手が探るように、自分の冷たい頬に触れてくる。
 じんわりと体中に温もりが染み透っていく。
 目を閉じる。この手をずっと感じていたかった。
 ただそこに自分と小さな手の命があるという体の芯が溶けるような感覚。
 どうしてだろう。
 私が、今ここに存在する。
 こんなにもか弱い手が、こんなにも簡単なことが私を救う。
 凍えていた。



 シンタロー、私の体は、冷たいよ。
 熱い手は今まで他にもあった。
 だけどこの手は、気付きそうで気付かなかった真実、それを私に初めて教えてくれる手。
 一族の資格を持たない不憫な子。
 できそこないと言われる子。
 しかしその手はこれ以上ない程に、熱く私を支配している。
 弱者と呼ばれる存在が、強者と呼ばれる私を溶かす。
 青い血以外に支配されているという感覚は、マジックにとっては、人生において初めての衝撃だった。
「……お前は、私の側にいてくれるの」
 この手を離さないで。
 私を青い闇の海から引きあげて。
 ――私を愛して。
 初めて愛されたいと思った。
 この子の前でだけは、ただの弱い男でいたいと思った。
「お前だけは、私を助けて」
 散りもせず、ただゆっくりと朽ちることだけが残る者の現実ではあっても。
 この未知の感情は舞う花びらのように胸に降り積もっていく。
 心が埋め尽くされていくよ。
 不思議だね。
 ――私はお前を愛してる。



 子供が、笑った。
 この時のことを、彼はその最後の瞬間まで忘れることができなかった。








第一部・終




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