逃亡
日本支部はどこか寒々しく、早春の冷気が立ち込めていた。
この近年、対アジア方面攻略の基点として、日本支部はその重要性を増してきている。
今年になってからだけでも、ハーレムの隊はすでに片手の指を超えるほどの出撃を、この場所から行っていた。
それにも関わらず、彼はこの一年余りの間、どうしても生まれたという二人の甥に会うことができなかった。
次に来た時は、次こそは、と思いながら後回しにしてしまう。
先程やっと意を決し、帰陣後に支部敷地内の隅に建てられた家にまで足を運んできたのだが。
二人の赤ん坊――もう一歳をとうに過ぎているから幼児と言うべきか――は愛らしく、人見知りをしない黒髪の方はハイハイをして自分の方に寄ってきた。
しきりに立ち上がろうとしては転んでいる。
金髪の方……自分が内心では顔を見たくなかったルーザーの子供の方は、怯えやすい質らしく、彼が触ろうとするとわんわん泣き出した。
少し自分は笑ってしまった。
いざ会ってみると彼らは普通に可愛らしく思え、ハーレムは今まで悩んでいた自分は何だったのかと思う。
子供は子供だ。その背後に親の面影を見てしまうのは汚い大人の責任だ。
無邪気な表情を見ると、心が洗われる。
自分の子供時代の楽しかった思い出までが蘇ってくる。
――来て、良かった。
心の重荷が少し軽くなったような気がした。
側に黒髪の母親である女がいたので、何気なくマジックも日本支部に来ていることを話すと、女は驚いたようだった。
何の連絡もしていないらしい。
「会ってきた」
そうぶっきらぼうに支部内の総帥室で言うと『誰に』と素で聞かれた。
「……ガキどもにだよ……」
アンタとルーザーの。
「――ああ」
やっと納得したのか、マジックはそのまま地図に目を落とし、作戦指令書を書いている。
上質紙にペンが滑る音と、書類をめくる音だけが室内に響く。
それだけか。
しばらくしてやっとハーレムの憮然とした表情に気付いたのか、兄はそのままの姿勢で話しかけてくる。
「黒髪黒目なんて珍しいだろう」
「……」
「金髪の方もね、どうやら虚弱の気があるみたいなんだ。高松がね……」
「もういいよ」
ハーレムがその声を遮ると、兄はちらりと自分を見、また黙って手元に視線をやる。
冷たい。
彼は兄のこういう一面を見る度、胸の奥がきりりと痛むのを感じる。
もともと戦場での冷酷さは知ってはいたが、肉親である自分や親族に対するこの兄の接し方には、温かさがあった。
そういう所が、ハーレムは好きだった。
だがルーザーとサービスの件以来、彼は素直にその愛情を信じることが出来なくなってしまっている。
結果的には彼ら二人を救わなかった長兄。
一人は心のバランスを失って壊れ、一人は眼を失って力をなくしていた。
一人は死んで、一人はあれから遠くに行って戻ってこない。
もう、マジックにとって、彼らはいらなかったんだろうか。
一族としての利用価値がなくなったから、切り捨てたんだろうか。
彼が弟たちを大事にしてくれたのは、一族の力を維持する責任感からのみでしかなかったんじゃないだろうか。
生まれた子供も黒髪黒目で力を宿していない。
だから価値がないから、自分の子なのに無関心なんだ。
できそこないだから。
――自分もこれからこの眼を失えば、出来損ないの烙印を押されて捨てられるんだろうか――
ハーレムは幾度も繰り返した問いをまた重ね、心を重くした。
彼はその素朴な心で兄を好きだったからこそ、それを信じたくなかったのだ。
「……俺は行くよ。またすぐ出撃だろ。それまで酒でも飲んで寝てる」
そう言い捨てて、この重い気持ちから逃れるように総帥室を出ようとした、その時だった。
慌てた司令部付きの兵士が入室してきた。ハーレムが先程会ったばかりの女が、子供を連れて姿を消したという。
「何故、いまさら」
軽く眉をひそめただけの兄の反応は、相変わらずだった。
しかしハーレムには直感で解った。自分のせいだ。
自分が、マジックが日本支部に来ていると女に知らせたせいだ。
「憲兵に追わせて連れ戻すように」
そう指示する兄に向かって彼は押し殺した声で呟いた。
「……俺が探しに行く」
「お前が? ……おい、待ちなさい」
不審気な声を置いて、彼は部屋を飛び出した。
酒を頭から被って大暴れしたい気分だった。
----------
女はあっさり捕まった。
足跡を残しすぎていたからだ。
私邸に放置されていたわざとらしいメモ書き。
そこに書いてあった地名の繁華街安ホテルに、女は本名で泊まっていた所を、ハーレムに押さえられた。
連れているのは黒髪の子供一人。金髪の方は高松に預けてきたらしい。
そのまま日本支部内の私邸に連れ帰った。
寝室に子供と二人で休ませた頃にマジックがやって来る。
「随分早かったな。ありがとう」
「……」
涼しい顔だ。
無言で女のメモ書きを渡す。
「ふうん。ここに行き先をわざわざ書いていた訳か」
兄は紙切れをひっくり返しながら眺めている。
地名の書かれた白紙の裏は軍内の官報で、兄の写真が載っていた。
それをテーブルの上に置くと、彼は居間のソファに腰掛けた。長い足を組んでいる。
「……会ってやれよ」
ハーレムが言うと『会うよ』という言葉だけが返ってきた。
私邸は小造りではあったが清潔で綺麗にしてある。
ハーレムにはよくわからないが、何やら日本風らしき庭まであって。ちょうど桜の花が美しく咲いていた。
でも兄は、ほとんどここへは来てはいないのだろうと思う。
春の夜は早い。窓の外はすっかり日が暮れていた。
白いカーテンが薄く開いた窓の風に、ゆらめいている。落ち着いた色の家具と淡いベージュの壁紙が目に優しかった。壁に掛けられた時計が規則正しく時間を刻んでいる。
無邪気なあの子。
……あの子供はここで暮らしているのだ。
ハーレムは考える。
自分にとっては、何の変哲もないただの部屋、庭、家。
だけど、あの子は成長してから多分一生の間、この風景を懐かしく思い出す。
捕らえるために追いかけてきた自分に、何も知らずに嬉しげな表情を見せた黒髪の子供。
他人には何でもない場所が、一人の人間にとってはかけがえのない場所になるのだ。
どんな事情があろうとも。
その場所を大切にしてやらないというのは、とても不幸なことだ。
その場所に親がいないというのは、とても悲しいことだ。
「兄貴」
かすれた声で口に出す。
すると相手も物思いに耽っていたのか、曖昧な返事をした。それでも構わず話し出す。
「……兄貴……俺、俺さぁ、あの子見て思い出したんだよ……ううん、本当はいっつも思い出す……夢にまで出やがって……」
「何を」
「親父が生きてた頃を」
ハーレムは息を切った。
口の中に苦い味と甘い味が広がっていた。
「……俺、ずっと走り回ってた。草がキラキラしてて、湖がピカピカ光ってた。キョロっとした動物がいて、カッコいい馬がいて……いっつも太陽が照ってて……時々夜になって暗くてコワいけど、それも昼間明るいから、だからコワかったんだ……」
「……」
「アンタは覚えてないのかよ……」
兄は顎に手を当て、無表情で自分を眺めていた。その顔を見ていたら、自分の頬に涙がつたうのがわかった。
「帰りたい……あの場所に帰りたいよ……」
自分の涙声が嫌になる。
「帰れないことなど、わかっているだろう」
「思い出すだけなら、いいだろ……ッ! それも無駄なのかよッ……」
あの日々には。
二度と帰れない。
父がいて、マジックがいて、ルーザーがいて、自分がいて、サービスがいて、みんな笑っていた。
幸せ。
その中にいる時は、それが永遠だと信じていたのに。
馬鹿みたくて恥ずかしいけど、俺、アンタのこといつまでも赤ちゃんみたいに『にーたん』って呼んでたんだぜ。
パーパも、マジックにーたんも、ルーザーおにいちゃんも、サービスも。
みんなみんな、大好きだったんだ。
『父さんは亡くなったんだよ』『ルーザーが戦死した』『お前には関係ない』
静かに響く言葉たちが、それを永遠に壊した。
でも、成長できない俺の気持ちだけは未練たらしく残ってて。
今だって、好きで好きでしょうがない。
ああ、好きさ、大好きさ。
悔しいぐらいに、アンタらがこんなに好きなんだよ、俺は。でも……。
「兄貴、アンタってさ」
こちらを見る冷たい青い瞳が怖い。
自分も左に同じものを持っているはずなのに、それはどうしてか昔から、刺すように怖かった。
本当の内面は絶対に見せない人。
震える背筋を堪えて、ハーレムは続けた。
「……アンタって何なんだよ……どうしてそんなに平気なんだよ……ッ」
最後は叩きつけるように訴える。
叫ぶことが辛い。
自分の弱さが突きつけられるからだ。
俺はアンタが大好き。みんな大好き。
でもアンタは俺を好きじゃないの? ルーザー兄貴も? サービスも?
みっともない。いつまでもガキ臭くて、アンタに追いつけない俺の寂しさ。俺の強がり。
押し込めていた言葉たちが溢れてきた。
「何でも自分だけがわかってるって顔しやがって! 何でもできるってのはそんなに偉いことかよ! 何でも自由になるって思いやがって……俺たち弟が、いっつもどんな思いでアンタに甘やかされて守られてたのか……そんなの知らない癖に……だからホントは何にもわかっちゃいない癖に……」
「ハーレム」
「俺はバカだよッ何にもできねーヤツだよっ。バカだから、バカはバカなりに、アンタが信じられない……」
「……お前は馬鹿じゃないよ」
「バカじゃなくっても、アンタは俺たちのコト、道具としてしか見ちゃいないんだ」
そう言ってしまった瞬間、彼は兄の顔を見ることができなかった。
椅子を蹴倒して、ハーレムは立ち上がる。そしてそのまま駆け出した。
この最後に残った兄弟から、生まれた時から自分に立ち塞がる壁から、幸福を思い出させる足枷から、ただとにかく逃げたかった。
ルーザーもサービスも、同じ想いを抱えて彼から去ったのだろうかと、ふと思った。
甘いはずの春の夜風が身を切り裂くようだった。
----------
「入りますよ」
手の甲で軽くノックをすると、マジックは寝室の扉を開けた。
女は椅子に座っている。
子供はベットの中にいたが起きているようだ。幼い黒い瞳だけが自分を見た。
「御久し振りです」
「……」
女は少しやつれた顔をしているが、全く変わってはいなかった。
「貴女と話す時はいつも事務的なことばかりで申し訳ないですが。この家を出てください。代わりの場所は用意します」
「……」
予期していたのだろうか、その目に感情の変化の色はない。
ベットに近づく。やんちゃな子供が手を伸ばしてきて、自分の袖をつかんだ。
「この子はこちらで預かりますよ」
相変わらずの無言。
その女の横顔に向かって、静かに言った。
「貴女には向こう見ずできつい所があるが、それだけに情の強い人だ。定期的に迎えをやりますから子供に会って下さい。体が弱くて療養施設にでもいることにしますか」
マジックはベットから黒髪の子供を抱え上げた。意外に重い。
その目がきょろきょろと周りを見回している。
「この子、名前は何といいましたっけ」
女は座ったままこちらを見ようともしなかったが、初めて口を開いた。
小さく聞こえる言葉をもう一度聞き直す。背を屈める。
すると突然女が向き直った。
できそこないを生んだからか、と問うてくる。
「質問の意味が解りません」
そう返すと、相手は強張った表情でまた顔を伏せる。静かな時が流れた。
「……それでは失礼します。今までこの子を育ててくださって、感謝しています」
マジックは部屋の扉を開ける。そしてそこで振り返って視線を遣った。
女は身動きすらしていない。
昔、言葉の一つでも、と感じたことをふと思い出し、最後に声をかけてみる。
「……我儘で強情で、気位が高く素直にならない。追いかけてきてほしくて逃げ、追われないことなど想像してさえいない。しかし私は……そういう人は、好みですよ。体に気をつけて」
扉を閉める。
背中に、女の気配がわずかに変わったのを感じていた。