クリスマス・キャロル

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 誰かを愛したい。
 ずっと。
 ずっと、誰かを愛することに、憧れていたよ。




1. クリスマスの亡霊





 白い雪の海原だった。
 悲鳴が掻き消された後の静寂が、その空間を支配している。
 閃光の名残。色彩のコントラスト。赤濁した血。黒い残骸。
 指先を掠める、錆びた鉄のように素っ気無い風。
 溶けた金属片、弾けた機械油、一瞬前はそこに命があったという痕跡。
 立ち込める硝煙と、焦げた生き物の肉の臭いと、薄闇に染まる空。
 空。
 その空を仰いだマジックは、僅かに眉を顰めた。
 少しやりすぎた。
 自らの足場さえ、消炭にしてしまう所だった。



 暴力的な蹂躙こそが、戦場では一番簡潔で、美しかった。
 ここには、死はすぐ側に存在したが、自分からは遠い存在でしかない。
 群れた命は土に還り、またすぐに蠢き出すだろう。
 自分は絶対者として、その永遠の生命連鎖を速めてやっているにすぎない。
 奪う者が奪っただけのことだ。何の感慨もない。
 ただ彼は、自らの力の不安定さだけが、気になった。
 ここには制御力を増幅する秘石がないので、微妙な加減を見誤る。
 マジックは、自分の手を見た。
 それは、傷一つ無い、温色のない青ざめた形をしていた。
 そう、この手が。
 この手が常に触れていた、青い石がない。
 奪われた。
 ……あの子に。



「……凄まじ……破壊……総帥! これで……版図に……」
 背後で部下が確認報告をしている。
 その声音に喜色を感じ、乾燥した砂を想い、睫毛の先に残り火を見る。
 そうか。私は、この地も手に入れたのか。
 そう思い、周囲の焦土を見渡してみたが、枯れた大地にはすでに何の魅力も感じなかった。
 雪と、かつて命あったものの残骸で染まった大地。
 ひとつの大地。それは、破壊するまでは、自分にとってはそれなりの価値があるように見えた。
 しかし手に入れた瞬間、その価値は、途端に失われてしまう。
 マジックの執着は、今この手に触れる淡雪のように、溶けて消える。
 興味がなくなってしまう。そして次の獲物に関心が移る。
 つまるところ自分は、物事の価値そのものよりも、それを手に入れることだけに憑かれているのだと思う。
 熱情は、伸ばした指先が届かない所にしか、存在しない。
 世界は、大地は。広すぎれば広すぎる程、自分を駆り立てるのだと思う。



 だからきっと。
 あの子をこうして奪うことができないということが、自分にとっての幸せなのかもしれなかった。
 手に入れることができないから。私はいつまでもあの子を、愛することができる。
 何かを欲しいと思っても、それはすぐに私の手の内に入ってしまうから。
 熱は消え失せ、刹那的な執着は消え失せ、私の心はいつもお前へと還る。
 何かを支配した後の空虚感、陶酔の後の徒労とやるせなさ。
 溜息の世界。
 そんな瞬間、いつも最後に私が行き着くのは、お前の面影。
 お前にばかり。
 私は焦がれて身を焼き尽くす。



 日は落ち、海の下に堕ち、遠くなる戦場の鼓動。
 船は翼を広げ、大地を飛び立ち、来た場所へと向かう。
 陰陽の揺らめきでしかない日常。際限のない、繰り返しの日々。
 地表で。暗い闇の中で。都市の光は明滅し、交錯し、享楽の華やぎと喪失の陰りを伝える。
 極彩色のイルミネーション。眠らない街。
 遥か上空、飛空挺の窓からマジックはそれを目にし、今日という日を知る。
 そうか。今宵はクリスマス・イヴ。
 しかし、現在の自分には、それは何の意味も持たない言葉だった。
 微かに昔を思い出しかけたが、すぐにやめた。
 息をつく。
 それから、もう窓の外は見なかった。



 本部に戻ると、彼は自室に何処か違和感を覚えた。先程と違う。
 柔い絨毯を踏みしめた数歩先で、すぐにその原因を理解する。
 デスクの上に、小さなクリスマスリース。
 定番のヒイラギやネズエダを絡ませ、銀のリボンと赤い薔薇で作られた輪。
 ティラミスとチョコレートロマンスの仕業だなと思ったが、今のマジックは、それを煩わしいとさえ感じる。
 そんな気分ではなかった。



 その後二人が、夜の定例報告に来たが、相手も心得たもので、全く表情にも出さない。
 不機嫌な自分に対して、部下は部下なりに気を使っているようだ。
 読み上げられる過去三時間分の戦況報告。
 自軍損傷率と死傷率、そして航空偵察と衛星等から割り出した、敵軍の同じ台所事情。
 南方戦線では、市街地に、武装勢力が市民を盾に強固な防御陣地を築いているとのことで、装甲車を突入させて、威力偵察の遂行を命じた。
 最低でも、地雷原と築城構造物の位置情報だけは入手する必要があった。
 自分の出陣時期は、それ次第。
 ……そして先刻、自分が敵主力を破壊したばかりの戦場では、敗残兵の掃討戦が佳境に入ったようだ。
 あの国では、宗教による統治が行われていて、その最高権力者は自らを大司教と名乗っていた。
 その大司教閣下の高貴なる御口には、身柄拘束の後に大量の自白罪を投与してあったが、数度目の致死ラインで、やっと情報を漏らし始めたという。
 確かその宗教はキリスト教亜種で、彼らにとっても、クリスマスやイヴは特別な日であったはずだ。
 救世主の祭日が、自らの最後の日。
 皮肉なものだと、マジックはぼんやりと赤く燃える暖炉の火に、青い目をやった。
 報告は淡々としてまだ続いている。
 早く、一人になりたかった。



 夜が更け、マジックは安楽椅子に身を埋め、ゆっくりと目を瞑る。
 望んでいた一人の世界は静寂に満ちていたが、思考の掻き乱れる深淵だった。
 浮かぶのは、微かな幸せの記憶。
 暖炉の火が、ごうと燃えた。
 赤い炎と、側の燭台の、蝋燭の揺らめき。窓の外の、夜の息使い。
 自分が、こんな時。心に描くのは、いつもただ一人。
 お前の顔。お前の記憶。
 私から去ってしまった、愛しい影。



 笑い声が聞こえる。浮かんでくる幼い顔。
 遠い昔の出来事。
『パパー! こっちだよ! こっち!』
 甘く脳裏に響く過去の声。それに自分は、語りかけずにはいられない。
 ねえ、シンタロー。小さい頃はよく一緒に遊んだね。
 追いかけっこ、したよね。笑い合いながら。
 お前は、私を大好きって。私もお前を、大好きって。
 楽しかった?
 私は……楽しかったよ。
 とても、楽しかった。幸せだと感じていた。
 ほら、今だって。こうして、目を瞑って。
 私は、その幸せの名残を懐かしむ。あの頃を――
 ねえ……シンタロー。お前は……私といて、楽しかった……?
 幸せだった……?
 そんなの。お前は聞いても、答えてくれるかな。答えてはくれないよね。
 そう空虚な内面に、いつも通りに問いを繰り返すと、目の前に、幼い黒髪黒目の子供が。
 おぼろげだったその面影が、はっきりとその姿を現した。
 明瞭な存在感が傍らにある。
 今、小さなシンタローが自分の側にいる。
 ああ、ここは夢の中の世界なんだと、マジックは思った。



「あのね、パパ」
 3、4歳くらいだろうか。
 過去のシンタローは、小さな手を一生懸命に振って、椅子から立ち上がった、背の高い自分に訴えかけてくる。
 そんな姿を見て、マジックは、腰を屈めると、幼い子供に視線を合わせて、少し笑った。
 いつもそうだね、シンちゃん。お前は、いつも、一生懸命。
 いつも私を、真っ直ぐな瞳で見つめてくる。
 一族誰もが持っていない、その黒いお前だけの瞳で。
「あのね、パパ」
 そう、こうやって必死に、私に何か言おうとするのさ。
 私はそんなお前が、好きだった。
 今だって。でも今は。
 大きくなったお前はもう、私に何か言うのを、やめてしまったんだね。
 諦めて……去ってしまった。遠い南の島へと。
 私を捨てて。
「あのね、パパは、ひどいことをしてるよ」
「……」
「そんなパパは、きらわれても、しかたないの」
「……」
 マジックは、幼子の小さな動く口を見ていただけだった。
 ああ、昔は。この口が次は何を喋るか、そればかりが楽しみで。
 ずっと眺めていたよ。飽きなくて、飽きなくて。
 可愛らしい声と、可愛らしい台詞と、可愛らしい唇。
 もう、お前とは夢の中でしか、会えないんだね。
 マジックは、その唇に手を伸ばし、そっと触った。
 柔らかかった。
 ねえ、シンちゃん。
 歌うように口ずさみながら、指でその感触を確かめる。
 大きくならないで、シンちゃん。
 こんな、何も知らない小さいままでいて。
 だって、大きくなったら、お前は私から、逃げてしまうよね?
「酷い? 何も、酷くなんてないさ」
 自分の口が勝手に言葉を紡いで、幻に向かって返事をした。
 何でもいいから会話を続けて、この存在を少しでも長く引き止めておきたかった。



「私は何も酷いことなんて、していない。酷いと言うなら、私から逃げたお前が一番酷いでしょ」
 ねえ? シンちゃん。
 そう言ってやると、幻の子供は黒い瞳を揺らめかせた後、また薄桃色の唇を開く。
 マジックは、目を細めてそれを見守った。
「パパは、コタローに、ひどいことをしたの」
 やはり、この黒髪の子供は、可愛い顔をしていると思う。
 何を言っても可愛い。どんな台詞を言っても、同じ。
 そして、自分はこの顔に笑って欲しいなと思うけれども。
 子供は、懸命に喋っているので、それは望めなそうな雰囲気だった。
 でも、この顔が。紅潮した頬が、もっともらしく顰めた眉が、真剣な黒い目が。
 とても可愛い。
「パパ! きいて! シンタローのはなしを、きいて!」
「どうして。聞いてるよ。ちゃんと、聞いてる」
 マジックは陶然として呟いた。



「いま、パパの、めのまえにいる、シンタローはね。むかしのね。シンタローが、パパを好きだったときの、こころだよ」
 聞いてと言うから、ちゃんと聞いてみたが。
 この子供は、おかしなことを言い出す。夢の中の存在の癖に。
 昔、お前が、私を好きだったなんて。そんなことを言い出す。
 マジックが黙っていると、また、パパ、きいて! と必死に言い募ってくるので、聞いていた証に、言葉を返す。
「……シンタローが私を好きだった時の……心?」
 初めてまともに自分の反応を得た子供は、嬉しそうな表情を見せた。
 それを見てマジックは、こうやって自分が答えてやると、この子の喜ぶ顔を見ることができるのかと思った。
「パパがひどいことをしたから」
 だから、幼い声に優しく答えてやろうと決める。
「そうだね、酷いことをしたからね」
「パパがひどいことをしたから、シンタローは、パパを好きだったときのこころを、おとして、なくしちゃったの」
「そうだろうね、落として無くしちゃったんだろうね」
「だから、パパを好きだったときの、こころは、ずっと、こうやってまいごになってるの。ずっと、いくばしょがないの」
「大きくなったシンタローは、全てを捨てて南の島に去ってしまったからね……」
「ずっと、まいごなの」
 小さなシンタローの黒目がちな瞳は、澄み切っていた。
 細い肩と足が、懐かしかった。
 その姿を見ていると、マジックは、その子を抱き締めたいという衝動に駆られる。
 過去、よくしていたように。
 しかし思い止まり、じっと子供を見つめている。
 抱き締めると、幻の子供は、消えてしまいそうだったから。
 だから、ただ、じっと。見つめる。
 心の中で、語りかけるように。
 でもね、シンタロー。



 シンタロー。
 私を大好きだと、確かに昔のお前は言った。
 覚えているさ。懐かしい。
 あの頃のお前に、私はこうして会いたくて堪らない。自分が哀れな程さ。
 でもね。
 お前が幼い頃に好きだったのは、本当の私の姿ではない。
 私はお前を騙していたし。お前だって、見ない振りをしていた。
 それでも何も知らない子供で、幼さしか持ち合わせていなかったお前は。
 私しか頼るものがなくて、他に選択肢がなかったから。
 私が父親という立場だったから。
 それだけの理由で、無邪気に私を好きだと言っていたんだよね。



 お前が本当に私を好きだったことなんて、一度だってないのだと、私は思う。
 私は何十億人の中からだって、お前一人を選ぶけれども。
 お前は、数人の中からだって、私を選ばないような気がする。
 だから、私はお前を縛りたいと感じるけれども。
 そうすれば、そうする程、私はお前に嫌われていくのだろう。
 だけど、そうするしかないんだよ。
 どうしてだろうね?
 でも、私はそうする他に。
 どうすることもできないんだよ。



「だからね、シンタローのこころは、かなしい」
 目の前の懐かしい子供は、言葉を続ける。
 悲しい。
 マジックは、ゆっくりと口の中で、その言葉を反芻する。
 哀しい。
 私に騙されたことが……?
 そうだろうね。
 私は自分の特殊能力だって、眼のことだって、一族のことだって、あの……コタローのことだって……。
 全て、お前に隠してきたよ。
 それが最善の道だった等と、戯言を呟くつもりはない。
 ああ、そうさ。怖かったからだよ。
 お前に、少しでも長くの間、偽の私でもいいから、好かれたままでいたかった。
 全てはつながっているから。一つ明かせば、全てを明かすことになる。
 真実は鎖のように連なり繋がり、私とお前を縛るのさ。
 その鎖の一端をお前が握ってしまえば、お前は、全てを知ろうとし、束縛を解こうとするだろう。
 常に光の差す方へしか、歩めない子。
 私はそんなお前が好きだよ。
 だがね。そうしたら、きっとお前は、死んでしまうよ。
 賭けてもいい。
 お前は、その愛する弟に、殺される。
 確実にコタローを助けようとするお前は、その暴走した力に、いつか殺される。
 そんな残酷な未来を、私がお前に告げられると、思うかい……?



「パパ。パパ!」
 幼子の黒い瞳は、自分を飲み込んでいくようだと、マジックは思った。
 黒。
 どうしてか、私はこの色に惹かれる……。
 この色は、私を煽り、狂おしい想いを呼び起こす。
「パパ。パパ、クリスマスを思い出して」
 その中で、言葉を繰り返す頑是無い声。
 シンタロー。私の可愛い子。
 思い出せと言われても。何を?
「パパ。パパ、コタローのこと、思い出して」
 黒い睫毛が、忙しく瞬きをし、光を弾く。
 だが弾けた光は、自分が指を伸ばすと、消えてしまう。
 私には、一生届かない光。
 それがお前の光。
「パパ、思い出して」
 その必死な姿に、マジックは再び口を開く。
「……どうして。折角、忘れようとしているのに。お前もコタローのことは、忘れなさい」
「忘れないよ! シンタローは、コタローのことは忘れないよ!」
「私のことは忘れても、コタローのことは忘れないんだね、お前は」
「忘れない。シンタローは、みんな、忘れないよ!」
「可愛い顔をして、嘘ばかりさ、お前は……」



「パパ、聞いて」
 黒髪の子は言い募る。握りしめた、小さな手を振る。
「シンタローのこころのじかんは、おわりかけてるの」
 マジックは、この台詞には形の良い眉を顰めた。
「時間が……終わりかけている? それはどういうことかな」
 彼は目の前の幻が消えようとしているのではないかと、そのことだけに焦りを持った。
「パパを好きだったときの、シンタローのこころが。きえそうなの」
 子供が説明することは、よく理解ができなかった。
 私を好きだった時の、シンタローの心が。
 現在のシンタローが、落として無くしてしまった心が。
 消えてしまう……?
「そうなったら、もう、おしまいなの。もう、もどれないの」
 時間は終わる。
 そうなったら、パパを好きだった時のシンタローに、もう戻れない。
 そう、幻は告げた。



「シンタローは、それがいや。だから、きょう、ここにきたんだよ」
 夢とは理解できないことで満ちている世界だから。
 そうやってマジックは、この非現実的な状況に結論付けようとするのだが。
 人は、夢を見て願望充足をするのだという心理学的知識が脳裏を掠め、うんざりした気持ちになった。
 シンタローが、私を好きだった時。いや、少なくとも好きだという、言葉をくれたあの時に。
 私は……。こんなにも戻りたいのだろうか。
 何でもいいから、あの子の言葉が欲しい。
 ああ、私は物乞いにまで堕ちてしまったのだと、マジックは溜息をつく。
 しかし、今更のことだった。
 自分は信じられないくらいに、惨めで、浅ましい人間だった。
 あの子の気持ちを、手に入れることは不可能だということを、とっくの昔に、自分は受け入れていたはずだったのにと、自らを情けなく思う。
「あのね、パパのところに」
 子供は、そんな自分の心境を他所に、言葉を続けていく。
「三人の亡霊が、やってくるよ」



「パパ、おねがい。その三人と、あって」
 パパが三人の亡霊と会ってくれないと。
 シンタローの心は、消えてしまう。
 何を馬鹿馬鹿しい、とマジックは感じたが、必死な幼い顔を見ていると、胸が締め付けられた。
 その黒い目の淵に、涙が溜まっていた。それは、とても綺麗な液体だと感じた。
 お馬鹿さんだね、シンタロー。
 いつだって。お前、すぐに、泣いちゃうんだね。
 私は、すぐに、泣かせてしまう。
 私はお前を泣かせたくて仕方なくて、そして泣かせたくなくて仕方がない。
 お前が泣くのを見るのが、辛いんだ。
 そして泣くのを見るのが、楽しいんだ。
 そんな浮き沈み。感情の明滅と、甘い味と苦い味。
 どちらにしても、私はお前に囚われる。お前が去った後も、囚われている。
「パパ……三人とあって……クリスマス、思い出して……」
 潤んだ泣き声すら、自分は可愛いと感じる。
「……」
 マジックは、微かに鼻で笑った。思い出すなんて。
 私の人生は、忘れることばかりだよ。
 ただ、お前のことだけを。
 私は胸に浮かべ、夢の中に浸り続ける。



「シンタローは、また、パパとあいたい……」
 会いたい? 私だって会いたいさ。
 お前は自分から逃げ出した癖に、よくそんなことを言える。
 しかも、あの青の石を私から奪って。
「もういっかい、パパを好きになりたい……」
 また私に嘘をつけと?
 そうしたら、お前は騙されてくれるの? 私が化け物だということを忘れてくれるの?
 それは無理でしょ。いつも不可能なことばかりで、私を困らせないで。
 お前は、我儘な子だね。
「だから、忘れたこと……ぜんぶ、思い出して……おねがい」
 そう言って、泣くのを我慢しようと口を引き結んだ、幼い子供の幻は、小さな右手を上げた。
 その瞬間、何処かから、音楽が聞こえたような気がした。
 悲嘆と後悔の泣き声、混乱した物音、金属の冷たい擦過音。
 幼いシンタローはその音楽にちょっとの間、耳を傾けてから、その悲しい嘆きの歌に自らも加わるように、すうっと体を浮き上がらせる。
 マジックの背後の窓の方へと、冷たく暗い夜の中へと、溶けるように身を滑らす。
 消えていく。
「……シンタロー! 何処へ……!」
 彼は追いすがるように、窓へと駆け寄ったが、窓の外には、薄い霧に包まれた闇があるだけだった。



 不意に安楽椅子の上で、意識が弾ける。
 マジックは、瞑っていた目を開いた。
 自室は薄暗く、ぼんやりと視界にうつろっている。いつもの空間。
 暖炉の火は消え、蝋燭の灯は消え、静けさだけが夜の色だった。
 傍らのデスクには、小さなクリスマスリース。
 夢から覚めた後の疲労感と、乾いた舌。
 幻の残滓。気怠い身体。
「……愚かな」
 マジックは、そう自嘲を含んだ声音で呟くと、壁の掛時計に目をやる。
 真鍮の振り子は規則正しく揺れ、鈍い輝きを放ち、何食わぬ顔で時を刻んでいた。
 すでに午前三時を回っている。
 窓から零れる、冷たい月明かり。青白い光。
 マジックはしばらくその光の中で、目を瞑っていた。
 そして立ち上がり、続きの間の寝室へと、向かった。
 椅子の軋む音と、足音が、いやに耳についた。
 彼は、やはり自分は愚かな男だと、思った。










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