クリスマス・キャロル

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2. 過去の亡霊



 マジックが目を覚ました時、辺りは闇だった。
 彼は息をつく。そのまま、冷たいシーツに頬を当てている。
 体が重かった。
 薄目に赤い色の袖を見て、彼は疲れを覚える。
 自分は軍服のまま、寝入り込んでしまったらしい。
 沈み込んだベッドは柔らかかったが、いつも通りに素っ気無かった。
 何とはなしに、彼は暗がりを見つめていた。
 ひどく寒かった。
 閉め切った厚いカーテンの向こうには、白い花が咲いたように、窓霜ができているのだろうと思う。
 再び目を瞑る。
 そして、不思議だと感じた。



 ……何処かで、鐘が鳴っていた。
 ここは軍本部。寝室だ。こんな所に、時鐘があるはずはないから、自分はまた夢の中にいるのかと思索を巡らす。
 しかし、この音を、自分は知っているとも感じている。
 郷愁と胸のざわめき、揺れる無為。
 それは心の奥底に沈めたものを、呼び覚ますかのように、響き渡る。
 幼い頃、自分たち兄弟が住んでいた街の、時計台の鐘の音だった。



 最後に一つ、大きく鐘が鳴った。
 鈍い響き、長く尾を引くような余韻が空気を震わせる。
 じわじわとしたその音が、途切れた時。
 その瞬間。部屋の闇に、さっと光が閃いた。
 闇の切れ目は広がり、辺りは眩しい輝きに包まれる。
 マジックは、目を見開いた。何者かの手が、カーテンを引いていた。
 溢れくる光。まばゆさの燐粉。
 そしてあろうことか、光の中に、人のかたちが、佇んでいた。



 それ、は奇妙な姿をしていた。
 彼? 彼女? 子供? 青年? 老人……? それすらわからない。
 何か超自然の媒介を通してでもいるのだろうか。
 その姿自体を、マジックははっきりと捉えることができない。
 ただ、輝く純白の上衣、深く被ったフード。銀製のベルト。
 その片手に持った、ヒイラギの緑の若枝が目に映る。
 一番奇妙なことは、その訪問者の頭上から明るい光が煌々と溢れ出していることであり、そのためにこうした、いっさいのことが見えているのだった。
 マジックは、ぼんやりとその訪問者の輪郭を追っている。
 じっと見つめていると、形は揺らめき、背後の闇に溶け込んでしまう。
 さらに見つめていると、また元のようにはっきりと明確に見えてくる。
 明滅するかのような、その姿はこの世の存在であると、到底考えることはできなかった。
 やがて、一つのことが脳裏に閃き、マジックは瞬きをする。
 そして、そっと口を開いた。
 自分は夢に付き合わなければいけないようだと、溜息をつきながら。
 長い夢だ。きっと自分は、かつてない程に疲れ、落ち込んでいるのだと自嘲しながら。
「……あなたは。あの子が……幼いシンタローが会えと言った存在ですか……?」



「そうだ」
 返って来た声は、穏やかで、優しかった。
 すぐ近くにいるのではなく、遠くにいるように。遠くにいるのではなく、すぐ側にいるように。
 声音は不可思議に響く。
 この声は――耳で聞こえるのではなく、自分の頭の中に直接伝わって来ているようだった。
「私は、過去のクリスマスの亡霊」
「……過去の……?」
 マジックは眩しげに眉を顰め、小さな声で言った。
 この透明な空間の中では、自分の声だけが苦い味を含んでいる気がする。
「お前の、過去だよ」
 そう、訪問者は呟く。
 自らを亡霊と呼んだ存在は、静かにその手を、ベットで起き上がる自分に伸ばしてきた。
 まるで白磁で作られたように、まろい乳白色をしている手だった。
 指は長いようにも短いようにも感じられた。幽玄のかたち。
 目の前に差し出されたそれを、ただ見つめているだけの自分に、亡霊が、少し笑ったような気配がした。
 訳がわからない、馬鹿馬鹿しい。
 そんな自分の考えを、その光の存在は読み取ったのだと、マジックは感じる。
 変わらず内面に響いてくる声。
「心するがいい。私は、お前のために、ここに来た」



 不意にマジックの手が、強い力で握られた。ぐいと引かれる。
 彼は新鮮な驚きを覚えた。こんな風に、他人から行為を強制されるのは、久しくなかったことだった。
 いつもは命じ、抑え付けるることしかない自分の手。この数十年の長きに渡り、支配に慣れた手。
 亡霊はそれを何でもないように、当り前のように引く。
 異様なまでの暖かさが、触れた部分から自分に染み込んでくるのを、マジックは感じた。
「立ちなさい。そして、私と一緒に来るがいい」
 こうして命令されるのも、ひどく懐かしい心地がする。
 何故だろう。決して不快ではなかった。
 どうしてか、自分の乾いた心の中に、この手は入り込んでくる。
 そんな潤いを、この亡霊の白い手は、含んでいた。



 我知らずマジックは立ち上がったが、そのまま亡霊が、寝室の大窓に向かうのに気付き、話しかける。
 先刻のシンタローのように、窓から外に出ようというのだろうか。
「待って下さい。私は貴方とは違って幻の存在ではない。どうしようというのです」
 光の亡霊は振り返った。
 木漏れ日を思わせる、その動作は緩やかだった。
「手を……」
 そう言いながら、幻は繋いだ手を、マジックの軍服の胸に当てる。
「手をこうしていれば、私が支える。心配は無用」
 その時、二人の身体はすうっと窓を通り抜けた。
 まるで太陽の光が、薄いレースのカーテンを通り過ぎるように。
 クリスマスとは不思議だ。
 今夜は私まで幻になってしまったようだと、マジックは思った。



 光のきらめきの、ほんの一瞬で寝室の暗闇は消えて、跡形もない。
 自分と亡霊は、一つの光景に降り立っていた。
 すぐにマジックは、この場所には、様々な匂いが立ち込めていることに気付く。
 その匂いは、遥か昔に忘れてしまった数々の物思い、希望、喜び、不安と結びついていた。
 これが夢であるのなら。
 彼は思う。
 これが夢なら、美とは、私の奥底にあるものなのだろう。
 彼はゆっくりと周囲を見渡す。
 穏やかながらも、風景は淡い幸福に満ちているかのように、佇んでいた。
 石畳の敷かれた、古い街並。ミズナラの街路樹、立ち並ぶ石造りの建物の、落ち着いた色。
 木々の向こうに見える緩やかな丘陵、美しい森、薄青の空。鳥たちの住み着いた時計台。鐘が揺れ、優しい音で時を告げている。
 その景色全体に、ヴェールのように淡く積もる、雪。白い雪。
 明るく冷たい冬の昼間。
 その道を、駆ける子供の足音。



「……ここは、私の育った場所ですね」
 そう誰ともなしに彼が呟くと。
 亡霊はマジックを優しく見つめた。
「道を覚えているか」
 そう聞いてくるので。
「ええ」
 自分は頷いた。
 幼い自分が、毎日のように通り抜けた道。
 遠い昔に、馴染んだ場所。今、目にする風景は、記憶の中のそれよりも、やけに小造りに感じられた。
 こんなに、ちっぽけな場所だったなんて。
 そう彼は静かに思う。
 ……道の向こうから、子供が二人駆けて来る。



 声が聞こえた。
 何か楽しそうに笑いながら、石畳を駆けて来る。
 一目で兄弟だとわかる、そんな容姿をその子供たちはしていた。
 金髪で青い目。似た背格好。似たコート。肩から提げた、お揃いの鞄。
 あの鞄は……そういえば、何処に失くしたのだろうか。
『兄さん! そろそろ歩きましょうよ! 何だってこんなに全速力なんですか!』
『馬鹿、ルーザー、お前、もうすぐクリスマスなんだよ! 準備をするんだ! 一秒だって無駄にできやしないよ!』
『もう! こんなに走ったって、大して時間は変わりゃしませんって! それに、どうして僕まで……』
『クリスマスだからだよ! 決まってるだろ! よーし、家まで競争だ!』
『嫌ですって! 僕は……!』
 常に不満そうだが、それでも必ず付き合ってくれる弟と一緒に、その少年は元気一杯に、自分の前を通り過ぎて行く。
 マジックは、二人の小さな後姿を見送った。
 全速力だと言った通りに、荒い息に波打つ二つの背中が、弾むようだった。
「ほら、お前がいる」
 ようやく、これも同じく子供を見つめていた亡霊が、言った。



『そうだ、ルーザー、フェンシングの試合、勝った?』
『僕が負ける訳ないでしょうに』
『……もう、まったくお前は!』
 道の向こうへと消えて行く、学校帰りの子供たちのさざめき。
 あの先には、小川がある。石橋が架かっていて。
 川岸には、小さな風見鶏のついた円屋根の塔があって。風が吹く度、くるくると回るのだ……。
「これらは昔あったものの影にすぎない」
 そう亡霊が言った。
 マジックは、側の存在に目をやる。
 その言葉を、聞いていた。
「彼らには、私たちがここにいることがわからないのだ」



 マジックと亡霊は、懐かしい家路を辿った。
 時計台の鐘の音に合わせて、小鳥たちが嬉しげに木や建物へと飛び移る。
 雪化粧をした川沿いの道は、冬の太陽に照らされて、きらきらと輝いていて、木々は、日差しに薄っすらと枝の氷を溶かし、雫として大地に落とす。
 ふと、それに気付いて彼は、掬う形にして、その手を差し出したが、透明な水は、彼の手を通り抜け、ぱしゃんと足元に弾けた。
 輝く亡霊は、この風景は影にすぎないと言ったが、マジックは、自分たちこそが影なのではないかと感じる。
 日差しを仰ぐ。
 現在の自分こそが、遠くに去りし、美しき日々の幻影であるのかもしれない。
 あの頃は、自分がこんな人間になるとは、思ってもみなかった。
 宗教彫刻の施された石橋。冷たい清流。柔い土肌を所々に見せる、白い川原。
 そうだ、春になれば、この場所には一面に野の花が咲き乱れるのだ。
 若葉の季節に向け、彼らが雪下に息を潜めている様子まで、ありありと感じられて。
 この場所の、雪は――
 薄黄がかった水色、淡い綿菓子を溶かし込んだような空を、マジックは見上げる。
 そして見下ろす。
 自分が常に在る戦場とは違って、この場所の雪は、優しい色をしている。
 決して赤く染まることのない雪。



 四つ辻を曲がり、長い壁を過ぎ、門へと歩を進める。
 広がるアプローチ、美しく手入れされた前庭、豊かに茂る樹木。
 それらを通り過ぎ、足を踏み入れた邸内は、何処か甘い匂いが漂っていた。
 子供の話し声がする居間。玄関ホールにまで聞こえてくる、笑い声。
 亡霊は、相変わらずマジックの手を取ったままだ。柔らかな動作で彼を導いて行く。
 その頭上から零れる光が、亡霊が歩く度に、家中に撒き散らされていくのだった。
 すると、ぱたぱたと、小鳥が羽を震わすような足音がして、マジックは、首をかしげて、長身から傍らを見下ろす。
 そこには、濃い豊かな金髪、赤い頬。大きく丸い、悪戯っぽい青い瞳。
 幼児が、自分を、じっと見上げている。



 しばらく幼児は自分を見つめていたが。
 やがて意を決したように唇を引き結び、小さな手に抱えていた木椅子を、マジックの足元に置く。
 そして、それに、ひょいと飛び乗ったかと思うと、背伸びをして、マジックの方に、手を伸ばしてきた。
「……?」
 彼は、自分の姿が幼児に見えたのかと思った。
 しかし、その紅葉のような手は、マジックの幻の身体を擦り抜ける。
 マジックは自らの背後を振り返った。
 幼児の手が掴んでいたものは、壁飾りの剣、クレイモア。
 いつもこの場所に掛けてあった、装飾品だ。しかし両手剣だけに、十字型の柄は幼児の手には余る程大きい。
 案の定、危なっかしく手元が滑り、ガシャンと大きな音を立てて、剣は床へと落ちる。
 剣先についた輪状飾りが、弾けて転がっていく。
『む〜』
 それを見下ろした幼児が、しまった、という顔をした。
 その時。
『ハーレム! 何やってるんだお前! そんなの外しちゃダメだろっ!』
 すかさず、叱責する声がやってくる。慌しい靴音がする。
 子供は、素早く木椅子から飛び降り、落ちた剣を胸に抱えると、逃げるように走り出した。
『ハーレム! こらぁ! 待ちなさい!』
『やだよぉー! おにーたん、おこるもん!』
『お前が怒るようなこと、するからだろっ! そんな危ないモノ、ツリーに吊るすなんて絶対ダメ!』
『だってぇ〜! なんでも好きなモノ、つるしていいって、ゆったぁ!』
『何でもなんて言ってません! 何時何分何秒だよ! お前こそ言ってみろ……って、こら! 何てすばしっこいんだ、お前はぁ!』
 小さな三男は懸命にちょろちょろと走り、兄をかわして、居間に滑り込む。
「……」
 マジックは、その光景を黙って眺めていたのだが、これも立ち止まっていた亡霊が、自分の手を引いたので、自分も居間へと向かう。



『ふぇーしぐ! えーい! ルーザーおにーちゃん、えーい!』
 暖炉の前に、サービスと並んでクリスマスツリーを飾る、金色のリボンの細工をしている次男に、ハーレムは果敢に向かっていく。
 しかしルーザーは、その弟を面倒臭げに一瞥し、こう言っただけだった。
『ハーレム。それはフェンシングの剣じゃないよ。邪魔しないでくれないかい。この細工は案外難しいんだ』
『ふぇーしぐ! えーい、サービスぅ! しょーぶ! ルーザーおにーちゃん、しょーぶ!』
 勿論、剣は安全処置が施してあるものだが。
 暖炉の火に、きらりと子供が振り回した刃先が光って、一瞬、それにサービスが怯えた目をする。
『……勝負だって?』
 次男が、白い顔のまま、すっくと立ち上がった。
『そう……ハーレム、お前は僕と勝負したいの……いい度胸だね』
『……う……?』
 子供は、兄の雰囲気が変わったことに気付いたようだが、止まったままだ。
 小さな足が震え出している。
 飲まれてしまって、動けないらしい。
 ルーザーの背後から、サービスが金色の頭を覗かせた。
 すると、その顔を見たハーレムの顔に、生気が戻る。みっともない所は見せたくないという気持ちが働くのだろう。
 怯えを滲ませながらも、三男は口を開く。
『むー! ルーザーおにーちゃん……しょ、しょーぶ! しょーぶ!』
 マジックは、その光景に目を細めた。
 ああ、お前たちは、こうだったね、と呟きながら。
 三人の弟たちは、いつもこうだった。
 失われた光景がここにある。



『こらぁー! ルーザーまで! なぁにやってるんだよ! お前らは!』
 そして、これが四人の風景になる。
 必ず大騒ぎになり、必ず厄介なことになって、最後は必ず優しい気分になって、御飯を食べる。
 そして、この日はきっと、クリスマス当日とイヴを楽しみにして、眠る。
 指折り数えながら、クリスマスの時間を過ごす。
 彼らは自分では気付いてはいないだろうが、四人は四人共が、ひどく幼い顔をしていた。
 年長振っている自分も、冷めた人格を気取っているルーザーも。
 あどけない瞳の、双子も無論、とても幼い。
 守られるべき年齢をした、ただの子供たちだった。
 無邪気に笑うことのできる、可愛らしい子供たち。
 あの頃は、毎日が一生懸命で、はちきれそうで、輝いていたから。
 マジックは思う。
 輝いていたから、自分たちの姿を顧みる必要なんて、なかった。
 それだけで、幸せだったのだ。



 今、自分の時間では、一人は死に、一人は罪を負わせたまま共に在り、一人は遠い場所にいる。
 もう戻ることはないクリスマスの風景。
「できることなら」
 そう感じた時、マジックは口を開いていた。
「できることなら、この子供たちの幸せが、続けば良かった」
 亡霊が、そっと自分を見つめてくる。
 そして、手にしたヒイラギの枝を振った。
「また別のクリスマスを見ようか」
 青々とした葉のついた枝から、砂のように光がきらめいて。
 次の瞬間、空間が弾けるような感覚と共に、マジックと亡霊は、暗い部屋に立っていた。



 その場所は、静寂に包まれていた。
 見覚えのある寝室。柔らかな香り。
 落ち着いた色合いのマホガニー製サイドボードには、綺麗に整頓された書類。
 銀の懐中時計、呼び鈴。
 ペン立て、べっ甲のペーパーナイフ、インク瓶と真鍮でできた文鎮。
 ベッド。薄い天蓋の奥に、人影。
 その人を、マジックは知っていた。
 そう意識した時、喉の奥が、乾き切ってしまったようだった。
 我知らず、指先が震えた。
 もう四十年近くの間、自分が口にしたことのない言葉だった。
 忘れようとしてきた人。
 心の空白。
「父さん……」
 マジックが、そう呟いた時に、寝室の扉を、控えめにノックする音が聞こえた。



『入りなさい』
 天蓋の奥から、声が響く。記憶の淵に沈めた、低音の懐かしい声。
 マジックは思わず目を瞑る。
 聞いていたくはなかった。
 抗議するように振り返ったが、亡霊は、ただ端然と佇んでいるだけだった。
 ……ノックの主が、寝室の扉をそっと開く。
 ぎいっと音がして、薄明かりが暗い部屋に差し込んだ。
 そこにあったのは、幼い顔だった。だが、戸惑うように、その子供は、廊下に立ち尽くしている。
『どうした……マジック』
 遂に、その名が呼ばれて。
 その子供時代と同じように立ち尽くしていたマジックは、閉じていた目を開く。
 起き上がった、その人の顔を見る。微かに息を吐く。
 そして、目の前にいる、過去の自分と同じく、足が杭で打ち付けられたように、動かなかった。



『……父さん……ごめんなさい、えっと……』
 冷たい廊下で、扉に手を掛けたまま口ごもっている四人兄弟の長男は、弟たちを叱り付けている時とは、全く違う表情をしていた。
 寝間着とガウン。寒い冬の日。
 マジックは、ぼんやりとそれを思い出す。
 この日の朝に父親は、家族とクリスマスを過ごすために、遠征の合間を縫って帰ってきていたのだった。
 そして翌日には、また慌しく旅立ったはずだ。
 いつもはこの部屋には、主は、留守がちで。ただ、その存在を主張する、香りだけがしているのだ。
 過去の自分は――主に双子たちが眠った後――こっそりとこの部屋に入っては、しばらく時を過ごしていたものだった。
 安らぎをくれた人。
 会える時は短くても。
 あなたが、いてくれたという、それだけで。
 ――父さん。
 今度は口の中で、マジックはその言葉を繰り返した。
『父さん』
 少年の声が、それと同時に重なる。
『ごめんなさい……何にもない、です……おやすみなさい』
 赤面して、去ろうとする少年。
 それを、再びあの声が呼び止めた。



『待ちなさい。またあの夢を見たんだろう……こっちにおいで』
 図星を指された少年の耳は、ますます赤くなったが。
 しばし躊躇した後、大人しく父親のベッドの側に行く。
 そして、隙間を空けて貰った毛布の中に、遠慮がちに潜り込んだ。
『父さん……』
 そう言った少年は、すうっと抱き締められる。
 その暖かい腕に、少年は目を瞑る。
 こうしていると、青の力の覚醒、日常の様々なこと、強がっている普段の自分が、全て溶かされて、当り前の自分に戻っていくのだった。
 悩んでいたことや、悲しいこと、全部が何でもないことに思えていくのだった。
 自分の弱さを、弱さとして受け止めることができる。
 そんな場所だった。
 あの人の、優しい腕の中は……。



「……どうして」
 今はこうして、届かない場所から見ていることしかできない……。
 立ち尽くしていたマジックは唇を噛み締め、傍らの亡霊に言う。
「どうして、私にこんな光景を見せる……何が目的なのだ。亡霊よ、そもそもお前は、何者なのだ」
 苛立ちが、自分の言葉を荒くする。
 繋いだままの手を振り解こうとしたが、何故かそれはどうやっても解けない。
 そして輝く存在は、静かに告げただけだった。
「目的などない。ただ、私はお前のあるがままを見せるだけ」
 そして続ける。
「過去がそのようなものだからといって、お前は私を責めることはできない」
 しかしそう言い切った後、亡霊は微かに躊躇したようだった。
 その不自然な間を、マジックはおかしいと感じた。
 亡霊は、無機質で生気を感じさせない存在だったが。
 ごくたまに、こういう瞬間があることに、気付いていた。
 この存在からは、僅かに、何かの香りがするのだった。
 輝く光の眩さによって、紛れてはいるが。
「……次の場所へと行こう」
 静かに亡霊が、それだけを言った時、またぐらりと空間が変化した。



「……?」
 マジックは、次の空間で、辺りを見回した。
 同じ場所ではないか。
 ここは、先程と同じ、父親の部屋だった。
 確かに何かが変化した感じがしたのに。
 カーテンは締め切られ、これも暗闇だ。だが、無人のようだ。真夜中の静けさが漂っている。
 マジックが、不審気に側の存在を見遣ると、そっと亡霊は、その手にしたヒイラギの枝を、揺らした。
 枝が指し示した先には、無人のベッドに背をもたせ、床に膝を抱えて座り込んだ、小さな自分の姿があった。
 黒いスーツを着ている。泣き腫らして、赤くなった目の縁をしている。
 空虚な瞳。
 マジックは息を呑んだ。



『僕は弱くて、何もできなかった』
 少年の心の声が、聞き取れる。
 亡霊との会話と同じように、その声はマジックの内面に響き渡っていく。
 まるで、現在の自分が、同じ思考をしているかのようだった。
 自分の精神が同調していく。
 心が奪われる。
 あの時の心に、時を重ねたはずの自分が囚われていく。
 マジックはこめかみに手を遣り、亡霊を睨みつけた。
「どうして……私にこんな光景を見せる……」
『目の前で、父さんが死んでいくのを、見ていることしかできなかった』
 それでも声は淡々と続いていく。
 際限のない思索の海の水平線を、目指している。
『……お前が家族を守るんだ……』
 反芻されていく、父親が残した言葉。
 その少年の唇からは、血が滴り落ちていた。
 マジックは知っている。
 幼い彼にとって、家族とは、父が支えたもの全てだった。
 受け継いだものが、全てだった。
『力が欲しい……』
 少年は願う。
 どんな力でもいい。間違っていたっていい。
 全てを支える力が欲しい。
 弱くて幼くて、ちっぽけでしかない自分が。
 全てを背負って立ち上がる、力が欲しい。



 ――あの時。
 そうだ、あの時。
 葬儀の後、弟たちを部屋にやっと寝かしつけた後。
 主を失った、その部屋に入り込み、自分は一人、どうすることもできずに、うずくまっていたのだった。
 もう何も、自分が頼るものなどないのだと思った。
 優しく触れて、抱き締めてくれる人など、いないのだと思った。
 この部屋に残る香りも、すぐに消えて行くのだと思った。
 すると、いつしか暗闇の中で、青い光が、そんな自分の傍らで、輝きを増していったのだった。
 青い石。
 自分は、微かに、その声を聞いたような気がした。
 求めるものはこれなのだという予感に、幼い身を震わせた。
 いつも父の傍らにあったそれは、これからは自分の側にあるのだ――



 今、マジックの目の前で、過去の少年は、恐る恐る、青い輝きに向かって、その手を伸ばし始めていた。
 短いようにも長いようにも感じられる時間の後に。
 遂に、細い指先が、石に触れる……。
 爪の鳴る微かな音。
『僕は、力が欲しい……』
 少年の呟きに答えるかのように、石はますます輝きを増していく。
 僕は、と憑かれたように呟きながら、虚ろな目をして少年は、石を手に取る。
 握り締める。
 そのすべらかで冷たい感触は……。
 ……それからの彼の拠り所となっていくのだった……。
 ――あの子に、奪われるまで。



 マジックは、肌を総毛立たせた。
 悪寒がする。倒れ込みそうになる足を、必死に支える。
 目の前の少年と同調した自分の精神は揺れ、惑い、混濁する。
 石と共に。何処かへと堕ちていく感覚。
 後から後から込み上げてくる、激しい感情。
 邪悪な力。そして青い光に縛られていく快感。
 何かを滅ぼしたい、滅ぼされたい、何かに自分を埋めたい、奪いたい、奪ったもので自分を埋め尽くして見えなくしてしまいたい、失ったもののいた場所を埋めたい、壊したい、壊して全てのものを支配したい、綺麗なものを汚したい……。
 憎いよ。
 父さん。
 あなたを奪った全てが、憎いよ。
 僕に力を与えた全てが、憎いよ。
 突き上げてくる衝動に身を委ねることは、甘い陶酔を伴っていて。まるで悪魔の誘惑のように、全身を麻痺させる。
 憎悪と負の感情を増幅していく青い石は、少年の未だ無色な力を染め上げていく。



 父さん。
 息が苦しいよ。
 苦痛に歪む少年の顔。
 マジックも自らの鳩尾に手を当てたが、胸はますます締め付けられていくようだった。
 囚われていく。
 父さん……。
 目の前の少年の心と共に、彼は呟かずにはいられない。
 自分の声と、少年の声とが重なり合って木霊する。
 父さん。
 僕は、あなたがいないことが、悲しい。
 寂しくて、堪らない。
 あなたは、何処に行ってしまったのですか。
 僕は一人、ここで何をするべきなのですか。
 こんな、ただの子供でしかない僕が……。
 するとその問いかけに答えるように、小さな手の内の、秘石の奥に、少年が味わったばかりの、そして現在の自分が忘れようとしてきた、あの記憶が浮かび上がる。
 それから秘石が、繰り返し映し出すことになる、自分の全てを縛る映像だった。
 ああ、これは。
 マジックと少年は同時に呟く。
 あなたの死の瞬間。太陽に照らされるその笑顔。
 あなたの死を見た時、僕は、幼年時代の愛の夢から醒めた。
 あなたの美しい死に顔に、僕は弱い自分を捧げた。
 全てを諦めたのです。



「もういいだろう……」
 小さな手に青い石を乗せ、それを一心に見つめている少年から、忌々しげに目を背けると、マジックは厭わしげに頭を振った。
 同調してしまった自分に、どうしようもない疲労感を感じていた。
「……もう私に何も見せないでくれ……私を元の時間に帰して欲しい……」
 白い上衣を着た存在は、沈黙したままだった。
「亡霊よ、どうして私を苦しめて喜ぶ……?」
 視線を向けると、その目深に被ったフードの下が、小さく動いたような気がした。
「先刻も告げたように。私はお前のあるがままを見せるだけ……なぜなら、それがお前にとって必要なことだからだ。そして、生きながらお前を想う人間が、そう願ったからだ。私はその心に、遣わされているに過ぎない……」
 亡霊は、囁くようにマジックに語りかけた後、再び口を閉ざした。



 その時、鐘が鳴る。
 高く低く、それは悲しい音色をしていた。
 膝を抱えたまま動かない少年の空間を、亡霊とマジックの存在する幽玄の空間を。
 等しく切り裂いていく。
 切り裂いて粉々にして、混ぜ合わせるように、鐘の音は世界を揺らし始める。
 言葉が響く。
「私の時間は、終わりかけているようだ……」



 鐘の音と共に、空間は歪み、時間は歪み、全てが縺れ合い始める。
 いつしか傍らにいた少年は闇に消え、石も消え、何もかもが溶け。
 いまやマジックの側には亡霊の姿しかなかった。
 来た時と同じように、また自分は時を越えて、元いた時間へと帰って行くのかもしれなかった。
 遠くから呼ばれている。
 自分は時間に、呼び戻されている。
 亡霊の頭上から溢れる光は輝きを増し、きらめきを撒き散らし、正視することができない。
 世界は流れる混沌の中にあった。
 しかし、その精神的喧騒においても。それでも、自分たちは、手は握ったままだった。



 今。マジックは、その手の肌触りだけを感じている。
 これ迄、おぼろげな像でしかなかった、亡霊の手。
 どうしてかこの瞬間、自分は、はっきりとその存在を感じ取ることができる。
 そしてマジックは、この手を知っている、と思った。
 何故今まで、気付かなかったのだろう。
 ひどく懐かしい。
 亡霊よ。私は、あなたの手を、知っている。
 この感触を、知っている。
 私はこの手を……ずっと……。



 溢れ来る光。黄金色の荘厳。
 眩さの中で、ゆっくりと、亡霊が、マジックを振り向いた。
 時の逆流の中で、亡霊の輝く上衣は溶けて消え去り、覆い隠すフードは跡形もなかった。
 あの時のまま。命を失った時と同じ、美しい顔。
 優しい笑顔。
「父さん……」
 今夜何度目かの、その自分の言葉に、初めて亡霊は答えた。
「マジック」



 そうだ。
 僕は……。
 僕は、いつだって、あなたを探していた。
 父さん。
 世界中で、あなたを探していたんです。
 雪の地でも、枯れた荒野でも、豊かに実る高原でも、遠い海の果てまでも。
 こう問い続けていたんです。
 あなたは、何処にいるのですか。
 いつか、全ての大地を手に入れたら、あなたが、見つかりますか。
 また……出会うことができますか。
 全てを手に入れたら、最後に、あなたが手に入りますか。
 あなたを失ってから、ずっと僕は。
 途方もない喪失感と無力感に、征服欲を駆り立てられていた。
 奪えば奪う程、あなたに近付いて行くのだと思った。
 あなたを失ってから、ずっと私は。
 ずっと、誰かを愛することに、憧れていた。



 鐘が鳴る。
「私の時間は、終わりかけている」
 懐かしい姿が再び厳かに告げ、白い上衣がふわりと揺れ、彼が身を翻す。
 握り締められていた手が、初めて離される。
 失う感触にマジックは、その手を伸ばした。
 絞り出すような声が、自分の唇から漏れるのを、聞いていた。
「……待って下さい!」
 父さん。
 私が最初に出会った人。
 行かないで下さい。
 光の人。
 私の、最初の人。



 去ろうとする人の、流れるような金髪は、その自ら放つ光で美しく輝いていた。
 かつて自分が百獣の王にも例えたその人は、最後に。
 また、微笑んだように見えた。
 光は燃え上がるようにその輝きで、全てを燃やし尽くしていく。
 覆い尽くされていく。
 私の過去が……燃える……。
「父さん……!」
 そう叫んだ瞬間に、マジックは、その頬に冷たい夜を感じた。








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