クリスマス・キャロル

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4. 未来の亡霊






 また……鐘が……鳴っている……。
 頭が、割れるように痛かった。意識が、黒い霧のかかったような酩酊から、抜け出すことができない。
 指先と足先が、凍りついたように悴んでいた。
 噎せ返るような血の臭いは、まだ鼻腔に残る。
 喉の奥が、焼け付くようにひりついた。
 まるで自分の舌が、紙切れにでもなってしまったように感じられた。
 マジックは重い目蓋を上げ、置時計の針を見る。
 午前三時だ。
 それは、最初に自分が眠りについた時間と、酷似していた。



 依然として、この空間には、静かな夜しかなかった。
 彼は濁った意識の中で、再び小さな言葉を思い出す。
『三人の亡霊が、やってくるよ』
 過去の亡霊、現在の亡霊。
 最初に、幼いシンタローが言った通りに、二人は現れ、消えて去った。
 こうなったからには、どんなに自分が嫌がろうとも、三番目の亡霊とやらも、やがてやって来るのだろう。
 ただ……。
 その正体は。次の死者とは、一体誰だろう?
 マジックには、心当たりがなかった。
 顔も記憶してはいないような死者など、彼の人生には無数に存在したが、父親、ルーザーに続くような、自分の人生に巨大な影響を与える死者など、いようはずもなかったのだ。
「……」
 彼は、深く溜息をついた。
 口元のシーツを噛む。唾液は出なかったので、布の柔らかい感触だけが舌に伝わってきた。
 血の味は、消えなかった。
 固く、目を瞑る。



 頭の奥が、痺れるようだった。鈍い痛みと切り裂かれるような痛みが、交互に走る。
 鐘の音が響き渡る。
 厳かな鐘の音が、彼の意識を打ち震わせる。苛んでいく。
 そして、三つ目の鐘の音。最後のそれが、響き止んだ時、それでも彼は、何か異変はないかと、微かに睫毛を上げた。
 暗い部屋には、何もなかった。静けさ。
 じんじんとするこめかみを押さえて、彼は気怠い身を起こす。
 冷たいベッドが、ぎしりと揺れた。
 微動だにしないカーテン。陰影を刻ませる調度品。
 何の変化もない。
 ……誰も、来ない。
 ただ薄闇の中、床に、淡く自分の影が落ちていた。
「……」
 マジックはそれを見つめている。
 見つめていると、次第に、その影の色が濃くなっていくのだった。
 深く深く。黒は濃くなる。
 マジックは、これは自分の意識にかかっていた、黒い霧ではないのかと思う。
 意識と、眼前の光景が、混在していくのだ。
 その境界が曖昧になり、朧となって、こうして自分は夢の中へと囚われていく……。
 黒い影は、自分の影の中で蠢き、躍動し、やがて一つの形となって。
 地を這うように。音もなく。
 人の姿が――
 彼の目の前に、黒い訪問者が姿を現した。
 先の二人の亡霊のように、その存在は、光り輝いてはいなかった。
 その幽玄のかたちは、黒い衣を纏っており、光の粉の代わりに、黒い陰鬱と神秘とを撒き散らしているようだった。



「過去……現在……そして、貴方は」
 マジックは乾いた口を開く。もうどうにでもなれという心持だった。
 この最後の訪問者は、まるで死神のような姿をしていた。
 相変わらず、その輪郭は、おぼろげで捉えることは叶わないのであるが、その空気の陰影、雰囲気の襞が、ひどく悲しみに満ちているのだ。
 零れる黒い燐粉が、ひどく切なさに震えているのだ。
 亡霊は、自分の問いかけに、ただ一言、こう答えた。
「未来……」
 心の奥底にまで、響き渡るような声だった。
 未来。
 未来の亡霊。マジックは、その言葉を口の中で反芻する。
 一体、どういうことだろうか。
 将来起きることの幻影でも、この訪問者は自分に見せようというのだろうか?
 明日の方向に、時を越えて。
 ただ無言で、亡霊は自分の手を取る。あまりに素早く自然な動作だったので、マジックはされるがままだった。
 手を、強く握られた時。その瞬間から、黒い霧が噴出して、世界が、暗闇に包まれて。
 再び、寝室から時間と空間が転移した。



----------



 泣いている。
 引き裂かれる兄弟は、そのことを悲しんでいる。
 当然のことだ。彼らはお互いに、一番、愛し合っているのだから。
『お兄ちゃん!』
 幼い声。助けを求める声。
『コタロー!』
 あの子の声。必死に叫ぶ声。
『親父! コタローを何処に連れて行くんだよ! 親父ッ……!』
 かつて見た光景。すぐ側にある過去。
 この場所は軍本部。
 私の、やったこと。
 それが今、自分の目の前にある。



 兵士に連れ去られる子供。追いすがるシンタロー。
 それを容赦なく気絶させる私の姿。
『お兄ちゃん!』
 崩れ落ちる兄を目にし、金髪の子供が悲鳴のような声をあげる。
 手を伸ばしている。それを断ち切るように、その子に向かって言う私。
『コタロー、お前は危険だ……』
 冷たい。
 それが真実であるにしても、頑是無い、まだ小さな子供であるのに。



 場面が移り変わる。
『秘石に興味があるのか? シンタロー』
 総帥室だった。
 椅子にかけ、青い石に触れている私。
 その前に、暗い顔をした青年が力無く立っている。
 もう笑ってはくれなくなった、あの子。
 でも、この日は、久し振りに話しかけてきてくれたから。
 彼が話しかけてきてくれたということだけで、私は嬉しかったのだ。
 だから、石が欲しいのかと、私は言った。気分が良かった。
 いいよ。欲しいのなら、お前になら何だってあげるよ。
 だって、愛してるんだもの。
『私の物は全てシンタロー。お前にあげるよ』



『だからね。そんなことより、パパと遊ぼうよ、シンちゃん。最近、全然構ってくれないから』
『……ッ……アンタは! ちゃんと俺の話を聞いてくれよ! 取り合ってもくれないじゃないか! 全然わかってくれないだろ!』
『お前の話なんて、聞いたってしょうがない。私にわかるはずがないんだから』
『どうしてだよ! どうして最初からそんな全否定すんだよ! どうしてアンタは、いっつも、そんな……』
『お前が私のことをわからないのと同じだよ。お前と私とは違う。そもそも、言葉なんて目に見えない。意味ないよ』
『そんなこと言うなよ! そんなこと言ったら、アンタの言葉だって! 嘘ばっかで……俺に、嘘ばっかりで、本当のこと、教えてくれなくて、』
『だから私は、お前に何だってあげるって、言ってるでしょ。愛を形にして示してるでしょ。それなのにお前は、つれないから。だからパパは、いっつもね……』
『あげるとかって。俺は、そんなの、欲しくないんだよ! モノなんて欲しくないの!』
『ねえ、シンちゃん。パパのこと、好き……? お前が私の物を貰ってくれないんだったら、私は好きってこと、どうやって伝えればいいの。どうやってお前に証明すればいいの? そしてお前は、私のことを、どうやったら好きになってくれるの……?』



 そして切りかわった次の場面は、何もない部屋で、一人、取り残された私が佇んでいた。
 愛するシンタローは南の島に去った。
 自分から、青い石を奪って。
『シンタロー……コタローのことは忘れろ』
『私はお前さえいればいいんだ』
 かつて囁いた言葉だけが、無機質な顔をした私の記憶に、響いている。
 そうだ。こうして、今の自分は、取り残されたのだ。



 シンタロー。
 自分は、呼びかける。
 ねえ、シンちゃん。
 私が、こんなこと言ったから、お前は怒って逃げたんでしょ。
 嫌だった? そうだよね、嫌だったんだよね。
 私の存在は、お前にとって、悪いことしかもたらさなくて。
 不快でさえあるのだろうと思う。
 ごめんね。
 私はいつも、その事実に気付く度に、何かが麻痺していくのを感じている。
 雨に濡れるように温度が奪われて、どんどんと手は冷たくなっていく。
 最初は針を刺すような痛みが走り、次には感覚が奪われ、硬くなり、最後は麻痺してしまう。
 自分自身が、誰からも忘れられた、玩具のようなものだった。
 また、繰り返しだ。
 私は何時まで経っても進歩のない。
 そして最後には、何も残らない。



 シンちゃん。パパに、秘石、返してよ。
 それがないと、私は、上手く人を殺せない。
 私は、石で、力を手に入れた。
 石と一緒に、覇王への道を歩んできたんだよ。家族を支えてきたんだよ。
 それがないと、私は……。
 私は、秘石とお前のためなら、何だってするんだ。
 お前のために、世界だって、手に入れるんだ。
 そのために、石を……。
 いや……。
 秘石……。
 違うんだよ。また、これも違うんだ。
 どうしてお前は、一人で逃げずに、石まで持って遠くに逃げたの。
 そんなの、なくたって。私はお前を追いかけるんだよ。
 いつだって、私は追いかける。
 シンタロー。パパの所に、帰ってきてよ。お前がいないと、私は。
 確かに、私にとって、石は大切だよ。
 だからお前は、それを奪って、私から逃げた。
 でもね。お前は考え違いをしている。
 私はお前が一番大切なんだよ。
 私は、お前がいたからこそ、自分を手に入れた。
 一緒に24年の月日を、過ごしたんだよ。
 お前を愛してるんだよ。
 お前がいないと、私は……。



「……ッ……」
 深く沈み込まされた海底から、急激に水面に引き上げられる感覚。
 幻想の水圧からの解放。自分が自分であるという意識。
 記憶の夢から醒めるように、過去と同一化した自分を再び取り戻したマジックは、いつしか、自分が一人きりで立ち尽くしていることに気付いた。
 傍らで自分の手を握っていたはずの亡霊は、消えていた。
 辺りは、黒い霧に包まれている。
 マジックは、その霧を、ぼんやりと見つめていた。
 霧は、まるで生物のように蠢いているのだ。
 伸縮し、うねり、漂いながら、自分を何処かへと導こうとしているかのように見えた。
 誘われるようにマジックは、霧と共に、歩き出した。
 鈍い頭痛は続いていた。



 突然、視界が開ける。黒い霧を抜けた先には、鉄の門があった。
 淡い白さと人気のない空間。清涼な空気の元に、薄い雪。踏みしめる感触が柔らかい。
 見上げれば、厚い雲の切れ間から、光が差し込んでいた。緩やかに風が吹き、木々が雪を落とす音がひそやかに鳴る。
 何処からか鳥の声までして、嘘のような穏やかな光景が広がっていた。
 それは、冬の晴れ間だった。
「……」
 マジックは、そっと呼吸をする。
 新鮮な空気が肺に流れ込み、血の汚れが洗い流されていくのを感じる。
 少しだけ、頭の痛みが和らぐような気がしたが、それは一瞬のことなのだろうと思う。
 彼は、周囲を見回して、考えた。ここは覚えのある場所であると。
 その場所は、青の一族の墓地だった。



 見渡せば、教会の塔の向こう、小高い丘の上に、あの黒い亡霊が、立っている。
 黒い衣は、風が吹く度に、揺らめき、なびき、白い雪の上に、黒い霧を振り撒いていく。
 この亡霊が、自分の頭痛の原因であるのだろうと、マジックは感じている。
 自分の意識を覆う、黒い闇。自分を導く、幻の影。
 今、それは一つの形を取って、丘の上に佇んでいる。
 黒い姿の傍らには、亡き父の墓があるのだった。亡き弟の墓があるのだった。
 そしてその隣に、自分がまだ見たこともない、真新しい墓石がある。
 亡霊は、上衣から突き出した指で、それを指し示している。



 マジックは、表情を変えなかった。
 意図的にそうしたというより、本当にさして心が動かなかったのだ。
 まるで他人事のようだった。ただ、こんな光景を見ている、自分は馬鹿なのだと思った。
 どうして私は、こんな場所にいるんだろう。
 どうして亡霊に導かれたのだろう。こうして大人しく従っているのだろう。
 過去。現在の亡霊が眠る墓地。
 そして、未来の亡霊。
 その墓は誰の墓だ……?
 墓地――マジックは過去、この場所に、死者を葬ってきた。
 幾度も訪れた。そしてここから、生ある場所に、幾度も帰った。
 ああ、自分は、死した彼らに依存する情けない男なのだと感じながら、日常において、自分が忘れようとしてきた者たちが眠る場を去り、現実へと帰っていった。
 ここは死者だけが土の下に横たわっている場所だった。
 死者が、冷たい土に、がんじがらめになる場所だった。
 永遠に。



 亡霊は、そこにいた。
 父親と弟の墓石の間に立って、新しく土を盛った、見慣れない一つの墓を指差していた。
 マジックは、その石に目を遣り、そして口を開いた。
「貴方が示す、その墓石に近付く前に」
 自分の舌は、まるで道具のように動く、とマジックは思った。
 いつも私はそうだ。自分を馬鹿だと感じる時、いつも私は、道具のように身体を動かす。それだけしかできない。
 くだらない。
「教えて欲しい。貴方は自ら、未来の亡霊であると名乗った。これまで私が見せられて来た光景は、全て過去にあったことだった。しかし、この墓地の風景は違う。その墓石は違う。これから貴方が私に見せるものは……将来起こることの幻影ですか……?」
 しかし、そう尋ねても、目の前の亡霊は、依然として一つの墓を指差している。
 微動すらしない。
「しかも、すぐ先の未来という訳ですか」
 今迄見た光景は、全て時間的に連続していたのだから、自分は今夜、このまま現実世界に戻ることができずに、死ぬということなのかもしれないな、と彼は考える。
 様々な想いを駆け巡らせた後、微動だにしない相手をマジックはもう一度眺め、静かに丘に足を向ける。
 歩み寄り、亡霊の示す、それを見下ろす。
 外装だけは豪華で、しかし人を寄せ付けない冷たい石。
 ……何故か、小さなクリスマスリースだけが、隅に控えめに置かれていて、半分雪に埋もれながら、風にリボンをはためかせている。
 この日も、クリスマスであるのだろうか。
 その見捨てられた墓石の上に、自分の名が読み取れた。



「こういう、人生の終りも、いいさ」
 マジックは呟く。
「最後には何も残らない……私の人生そのままだ……でも墓石は残ったから、よしとしようか。上出来だ」
 そう言った自分の声も、風に消えていくのだった。
 あまりにも多くの命を殺した人間が、あまりにも多くの心を傷付けた人間が、こうして、あっさり死んでしまうというのも、また一興だった。
 運命とはそういうものなのだろう。
 大して意味もなく、理由もなく、ただ巡り続ける。
 何かの拍子に零れ落ちた歯車は、そのまま忘れ去られていく。
 人一人消えたとて、何の変わりもない世界は、そのまま続いていく。
 そういうものであるべきなのだ。
 そう結論付ける自分に。
「……本当にそれでいいのか」



 亡霊の声が聞こえた。
 マジックは、どうしてか、自分はその声を、今この瞬間、初めて聞いたと思った。
 それは幽玄の響きではなく、人間の肉声だった。
「いいよ。構わない」
 自分は答える。
 そして、マジックは正面から、黒い亡霊を見つめた。とても自分の近くに、亡霊はいた。
 相手は更に問いを重ねてくる。
「過去……現在……そしてこれからの未来……その旅を続けて……」
 マジックは声を聞いている。
「今ある感情は何だ。今、胸にある感情は何だ」
 そんな自分に、指を突きつけてくる黒い亡霊。
「今ある感情……私の胸に……?」



 突飛なことを聞かれたと思った。
「そんなことを言われても」
 そう言いながらも、マジックは、考えようとしたのだ。
 私はいつも。
 感情?
 ……頭が痛い。
 再び頭痛に襲われて、彼は目を瞑った。意識を取り巻く黒い霧は、彼が考えようとする度に、彼の心を締め付けていくのだった。
 心の奥底に辿り着こうとする度に、マジックは、針が刺すような痛みに堪え、唇を噛み締める。
 心の奥底に辿り着こうとする度に――
 私はいつも、何かが麻痺していくのを感じている。
 思考が妨害され、考えることを止め、ただ流されていく自分を感じている。
 あえて言うなら、どうでも良かった。
 自分自身を考えることから、逃げ出したかった。



 墓地に、いつしか雨が降り注いでいる。
 薄い雪は、透明になり、いつしか同じ液体へと変わっていくのだった。
 マジックは雨に濡れながら、額を押さえている。目の前の亡霊は、微動だにせず佇んでいる。
 まるで、逃げることを阻もうとでもいうのか。
 雨。
 雨に濡れるように。
 マジックは、呟くと、止め処のない思考を続けようとする。
 温度が奪われて、どんどんと私の手は冷たくなっていく。
 最初は針を刺すような痛みが走り、次には感覚が奪われ、硬くなり、最後は麻痺してしまう。
 誰からも忘れ去られてしまう。存在したことさえ、消えてしまう。
 最後には、何も残らない。
 この感情とは。
 この感情とは、何だ……?
 無だと、私は思ってきた。
 しかし、無ではないのか?
 諦め?
 違う?
 他にまだ何かあるのか?



「憎しみだ」
 研ぎ澄まされたような亡霊の声。
 突如としてマジックは、この自分の心にある感情が、憎しみであることを理解する。
 手の平で胸元を押さえる。爪を立てて、引き裂く形にする。
 そうだ。マジックは、乾いた心に水が染みとおるように思った。
 私は、憎いのだ。この感情は、憎しみだ。
 最後に私に残るのは、憎しみだ。
 だが彼は、自分が何を憎んでいるのかがわからなかった。
 しかし、何かが憎いのだ。憎くて堪らないのだ。
 私は一体、何が憎いのだ?
 父さんを奪った誰かが憎い?
 私に覆い被さる責任が憎い?
 私に全てを押し付ける、周りの者全てが憎い?
 自分が味わうことのできない幸せを持つ人間が憎い?
 私を犠牲にして、何も知らず安穏と暮らす人間が憎い?
 私に力を与えた、何かが憎い?
 ……私を愛してくれない、全ての人間が憎い……?



「言ってやろうか」
 マジックは、痛みの中で黒い亡霊を見つめている。
 鼓膜の奥で、鐘が鳴っているようで。痛覚の交錯と、混迷する思考と、戸惑いにぼやける視界。
 しかし、自分は必死に目を凝らす。
 亡霊の幽玄の姿を、捉えようとする。
「アンタが憎いのは、自分自身だ」



「アンタの人生にあったのは、自分への憎しみ、逃避。そして自分を忘れようとする気持ち。思い出せよ。全部、思い出せよ! 忘れようとすんな!」
 亡霊は叫ぶ。青年の声で。
「自分を憎むのをやめろよ……アンタ自身を受け止めろよ……!」
 そう、言ってくるから。
「こういう、人生の終りも、いいさ」
 自分は、再びこう返した。
 この痛みが、自分への思考を麻痺させてくれるのなら、それでいいと思った。
 それなら、このまま、雨に打たれていたいと思った。
「あ、アンタはいいかもしれないけどな! 俺は……」
 亡霊の黒い姿も、濡れている。黒い霧は雨を弾き、輝いていた。
 それを見たマジックは、美しいと感じた。
 何をやったって。
 何を言ったって、この子は、いつもこうなんだ。
「俺は嫌なんだよ! こんなの……こんな墓石……アンタは間違ってるんだ……」
 いつだって、人のことに、一生懸命なんだ。
「アンタ、間違ってるんだよ……!」



「だが……お前は死者ではないはずだ」
 マジックは言った。
「どうして、私の前に、亡霊の姿をして現れる……?」
 黒い影は、いまや、光を放ち始めているのだった。
 白い雪の中、そぼ降る雨の中。黒は水分を含んだように艶を帯び、その幽玄の輪郭を、一層輝かせている。
「俺は、未来の亡霊」
 雨が、自分の身体を滴っていくのを、マジックは感じている。
 雨はいつも、自分を、こうして冷たく濡らしていくのだ。
 この、雨を弾く目の前の亡霊と、自分との違いは、一体何なのだろう。
 自分はいつも、こうして、身体が重くなっていくというのに。
 湿った金髪が、肌に張り付いていく感触が、いとわしくて堪らないというのに。
 醜くなっていくばかりだというのに。
 目の前の子は、どんどん光り輝いて……。
 そうか、憎しみ。
 マジックは、またもう一つの事実に気付く。
 私の、この子への感情。
 そこに、憎しみはなかったが、嫉妬はあった。私は、この子に焦がれながらも、嫉妬している。
 この子は、自分にないものばかりを持つ。
 自分は、この子にないものばかりを持つ。
 私は、余計なものばかり。人間として。
「……アンタの未来で」
 そんなマジックの目の前で、亡霊は、自分の胸元を掴む。乱暴に、引きちぎる。
 その瞬間、亡霊の纏う上衣が、舞い上がって閃く。
 黒い光が四散した。黒い霧も四散した。
 そこに現れた姿が、言った。
「俺は、二度死ぬ男」



----------



「お、俺は……アンタのために、死んで……それなのに、当のアンタがそんなんじゃ……俺は、何のために……」
 世界が、暗転した。
 墓地も教会も木々も消え失せ、マジックは、再び闇の中にいた。
 黒い霧ばかりが視界を塞ぐ。自分一人を包む、黒い霧。
「……シンタロー……?」
 彼は消えていた。
「シンタロー!」
 マジックは見回す。何も視界に映らない。
 だから、名前を呼ぶ。返答はない。ただ黒い霧が行く手を遮るばかりだ。
 仕方がないので、手探りで、マジックは歩き出す。
 おかしなことを言うね、と呟きながら。
 シンタロー。
 お前が死ぬって。
 私のために死ぬって、どういうこと……?



 だんだんと。
 だんだんと。
 闇に。マジックの目の前に、ぼんやりとした光が滲み出す。揺らめき出す。
 その中に、最初に現れた、幼いシンタローの姿が浮かび上がる。
 また、幻だ。遠くへと駆けて行く。
『パパー!』
 黒髪が、可愛らしくこちらを振り返る。
 手探りでしか歩くことのできない自分に、無邪気に笑いかけてくる。
 呼びかけてくる。
『シンタローねぇ、パパ、大好きだよ!』
 また、そんなことを。マジックは、溜息をつくしかない。
 好きなんて。私は、言葉で言われたって、わからない。
『パパー! こっちにおいで!』
 ああ、どうしてだろう。
 この子は、自分を呼ぶのに。自分は、追いつくことができない。
 私の足は、鉛のように重くなってしまった。
『シンちゃん……どこに行くの』
 追いかけても、届かない。
 小さな足音ばかりが響いて、私から、去って行く。
 それでも追いかける……自分は。
 ――惨めだ。
『シンちゃん……パパを置いて行かないで』
『パパー! こっちだよー!』
『シンちゃん、待って』
『こっちだよ、こっち!』
『シンちゃん、パパから』
 遠ざかっていく。
『パパから、逃げないで……』
 その後姿は、より大きな光の方へと走っていく。
『私から逃げないで……シンタロー……』
 私は、惨めだ。
 不意に、その大きな光が近付いてくる。
 シンタローと、自分を、包んで行く。
 飲み込まれて、視界が開けた。



 無機質なフロアが広がっている。灰色のダクトが這う壁、衝撃で砕け散ったパネル群。
 ここは日本支部だった。
 目の前に、青年へと成長したシンタローがいる。サービスがいる。
 自分がいる。
『シンタロー……危険だからどいていなさい!』
『コタロー!』
『よせ、シンタロー! かなう相手じゃない!』
 緊迫した空気。
 そして三人の視線の先、瓦礫の中に――監禁したはずの子供、コタローがぬいぐるみを抱えて立っている。
 サービスに連れ戻されたシンタローが、扉を壊して開けたのだ。
 マジックの意識は、すでにこの風景に溶け込んでいる。
 未来の自分と一体化している。だから、この状況の全てを把握している。
 彼はコタローとシンタローの間に、立ちはだかりながら、険しい顔をして、こう考えている。
 シンタロー。
 そうだよね。
 サービスの言うことだったら、お前は聞くんだよね。
 そしてコタローのためだったら。お前は。
 コタロー……。



『パパなんか大嫌いさ!』
 言い放つ幼い声が、マジックの鼓膜に響く。その言葉の意味が、心の芯に強く響いた。
 そうだ。私が、一番嫌いなのは、自分自身。
『嫌いで構わん、部屋に戻れ』
 そうだ。私はいつか、この子に殺される。
 この子は確かに自分の子。紛れもなく自分の子。
 私を睨みつけてくる幼い両の瞳は、秘石眼。私と同じ身体を持ち、ルーザーと同じ精神を持つ子。
 コタロー。
 私はいつか、自分自身に、嫌われて、殺される。
 私は、この子を、どう扱えば良いのか、わからない。どんな気持ちを持てばいいのかさえ、わからない。
 ただ、見ていたくはないのだ。
 いつも、この子を見つめる度に、自分の心の奥底が凍りついていくような気持ちに囚われる。
 それは生まれて初めて、具体的な形となって、私に浮かび上がる感情。
 私は――この子が、怖い。



『パパなんか、死んじゃえー』
 強大な潜在能力を感じさせる青色が弾けて、世界が揺れる。
 吹きすさぶ爆風、振動、粉塵。物理攻撃、それを凌ぐ脅威、精神の耐圧。
 冷たい雨が私を通り過ぎていく時間。
 針を刺すような痛み、薄れ硬くなる感覚、そして麻痺。
 私は、この子に関わろうとする度に、まるで自分自身であることが、道具を動かしているような心持になってしまうのだ。
 今も、そうだ。
 冷たい言葉を投げかけながら、私は、ぼんやりと、この子コタローを、眺めている。
 早く元通りに閉じ込めなければとばかり、考えている。飛び散る金属片が、私の顔を掠めた。
 ……まだ、未熟な攻撃でしかないが。
 これを繰り返していけば、私は、いつか、この子に殺される。
 嫌われたままで、殺される。
 でもそれが、運命だというのなら、仕方のないことだ。
 こういう、人生の終りも、いいさ。



『今度は、はずさないよー!』
 ただ、今は止めなければ。今は止めて、この子をまた閉じ込めなければ。
 いつかは、崩れるのだとしても、この場は閉じ込めて、その部屋の壁を塗り固めるべきなのだ。
 私はいつもそうさ。
 いつか終わるという予感。そればかりを積み上げていく。
 幻が消えてしまわないように、作り事や嘘で、全てを塗り固めようとする。
 空中楼閣に住みたがる。
 シンタローが、いつもその扉を開けて壊そうとするから。
 私は、また、繰り返す。
『ばいばーい、パパ!』
 コタローの手に、自分を狙う青い炎。
 マジックは、それを防ごうと身構える。
 監禁した部屋の中で、密かに繰り広げられてきた、二人のいがみ合い。
 いつも最後は、自分はこの子を力で抑え付けて、終わらせる。
 その儀式が、室外で行われただけのことだった。
 ……雪と雨とを繰り返す、冷たい水のように。嘘は降り積もっては溶け、溶けてから降り積もる。
 無益な繰り返し。
 最後には、何も残らない……。



 瞬間。目の前に、黒い影が閃いた。
 マジックは、自分に起こった出来事に、呆然とした。
 本当に、身動き一つできなかった。



 ……シンタロー。
 大きくなったお前はもう、私に何か言うのを、やめてしまったのだと思っていたよ。
 諦めて……去ってしまったのだと。
 遠い南の島へと、私を捨てて。
『言葉なんて目に見えない。意味ないよ』
 確かに、私に言ったって、しょうがないものね。
 だって私が、言葉なんて、信じる訳がない。
 信じられないよ。
 好きなんて。
 愛なんて。
 いつか消えるという予感しかもたらさない。
 シンタロー。形にしてよ。
 形にしてくれないと、私は信じることができない。
 でも、嘘だろう?
 私は嘘ばかりついてきたけど、今度はお前が最大の嘘をつく。
 嘘なんだろう。
 こんなこと。こんな形にしろだなんて。
 私は、頼んでないよ……!
『父さん!』
 私は、シンタローが、私を庇って、命を失うのを、見た。



 世界が、また暗くなる。
 全ての光景が消え、深かった。
 ただ、深かった。今までで一番、深かった。
 日の差さない、地の真底。まるで出口のない回廊。果てのない道。
 闇ばかりが続いている。
 自分はまた、どうしてこんな場所に嵌り込んでしまったのだろう。
 迷うばかりだ。
 しかしマジックは、自分の足が動いていることに気付く。当て所もなく自分が歩いていることに気付く。
 ここは、暗くて、寒いのだ。
 何処かへと進まないと、自分は凍えてしまう。
 だが、何処へ? 何処へ行けばいいのだ……?



 
『パパは、コタローに、ひどいことをしたの』
『パパ、さいてぇ』
『アンタが一番最低な所は、自分が嫌いな所だ』
 いつしかシンタローの声が、幼い声と青年の声が、どれも同じ人の声が、闇の中を交差する。響き合う。
『パパ、クリスマスを思い出して』
 マジックはそっと答える。答えながら、歩く。
 思い出してって、お前は言うけれど。
 でもクリスマスって。クリスマスって、何だい、シンタロー?
 そう問いかけた瞬間、足元が崩れる。
 マジックは、更なる回廊の底へと、堕ちて行った。



 堕ちた先でも、彼は、また歩いていた。そうせざるを得なかった。
 ふと、回廊の全方位に、また映像が映し出されていることに気付く。
 未来の光景だった。
 自分とサービスがいる。青の中でも、憎しみを糧にする二人が、崖の上に佇んでいた。
『シンタローが戻ってきたら……どうしますか、兄さん……』
『殺すよ』
 シンタロー。
 マジックは、その未来を眺めながら、問いかける。
 未来のことは、もう、手に取るようにわかっていた。
 この地の底にありながらも、自分には、全てがわかる。
 時間の一場面中にいる時はわからないことが、まるで一本の映画を見ている観客のように、客観的に、今のマジックには理解できるのだ。
 シンタロー。
 そう問いかけながら、マジックは歩き続けている。
 シンタロー。
 聞いてくれる……?



 私はね、かつて、お前と同じ顔の男を、殺そうとした。
 そうだよ。お前の、その身体。その同じ身体に、違う魂を持っていた男のことだよ。
 私はその顔が、憎かった。
 他に心を向けながら、簡単に私に抱かれる、その身体が憎かった。
 もうその身体は、粉々にされたのだと思っていたのに。
 今度は……。
 いや、再び。私が愛する人の身体として、現れた。
 酷いよね。酷いよ。
 お前がお前であることを、一番必要とする瞬間に、そうなってしまったんだ。
 酷いよ。
 私が一番嫌いな身体に、どうして一番好きな人の心が入ってしまったの。
 それに折角……。
 お前が……。
 そうだ、シンちゃん。さっきの、どういうこと?
 コタローが私を撃った時に。
 目の前に飛び出して来たのって、どういうこと……?



 流れる映像は、移り変わる。矢のように映っては飛び去った。
『ねえ……シンタローさん、起きてよ……』
『シンタローさん!』
 ジャンがお前を殺して、お前はまた死んだ。
 でも起き上がるんだよね。最後はお前は、起き上がるんだ。
 そういう運命の子なんだよ。そういう力を持った子なんだ。
『影――……あの子は影だったのか……』
 お前の正体を。
『シンタロー……』
 私は知った時、ただお前を可哀想だと感じた。
 あんなにお前は一生懸命に生きてきたのに。
 影だなんて。影ってのはね、いつか消えるものなんだよ。実体のない映し絵にすぎないのだから、消えるものなのだよ。
『行かれるおつもりですか、マジック総帥』
 でもお前は消えなかった。
 そういう力を持った子なんだよね。
『ティラミス……私は』
 お前の24年間は、消えなかったよ。私がお前と過ごした24年間も、消えなかった。
 私は、もう、どうだっていいんだよ。
 お前の正体が、身体が、何だっていいんだよ。
 お前の心が。お前でさえあるならば……。
『総帥であり父であり兄であり――青い一族の男だ!』



 でもね。そのままのお前が、私の前に立ち塞がるのなら。
 私は、やっぱり、お前を殺さなければならないんだよ。
 それが私の運命だから。そういう、ものなんだよ。
 マジックが呟いた刹那、また、足元が崩れ、彼は更なる地底へと堕ちて行く。



 堕ちた先で、また歩いている。歩き続けている。
 その内に再び声が聞こえてくる。
『アンタは、本当にそれでいいのか』
 自分は答える。
「いいよ。シンタロー」
 いつも最後には、何も残らないんだ。
「こういう、お前との終りも、いいさ」



『……アンタはそれで、幸せなのか』
 幸せ? 私はそんなの。そんなの、望んだこと、ない。
 何時だって、すぐに崩れ落ちる空中楼閣にしか、住んだことがないからね。
 いつかは消えるものしか、この世にはないんだよ。
 何だって……。
 そんなもの、貰ったって、仕方ないじゃないか。
 ……いや。私はそれに値しない人間だから。
 お前の言う通り、最低で酷い男だよ。
 だから、そんなの。
 望んだって、与えられる訳、ない……。
『アンタが一番最低な所は、自分が嫌いな所だ』
 嫌い? ああ、嫌いさ。
 憎いよ。
 こんな生き方しかできない自分が憎い。
 全てを運命で片付けて、言い訳しようとする自分が、憎い。
 いっそのこと、早く終わらせてくれたって、それはそれで構わない。
 自分自身に殺されるのなら、馬鹿らしくて、それでいい。
 そうだ、シンちゃん。
 さっきの、どういうこと?
 コタローが私を撃った時に。
 目の前に飛び出して来たのって、どういうこと。
 私を守るように、抱き締めてきたのって、どういうこと。
 私を庇って死んだのって、どういうこと……?
『思い出せよ……! その自分自身を!』
 突然、暗闇は、光に包まれた。辺りが照らされる。
 マジックは、歩き続けていた足を止めた。
 見上げる。



 荘厳の光の中、過去の亡霊の声が……する……。
『私はお前のあるがままを見せるだけ……なぜなら、それがお前にとって必要なことだからだ。そして、生きながらお前を想う人間が、そう願ったからだ。私はその心に、遣わされているに過ぎない……』
 先刻、告げられた言葉。
 マジックは目を瞑る。
 そして開く。心で語りかける。
 でも父さん。
 私は、あなたを思い出すのが怖い。
 自分自身の根源。あなたを思い出せば、私は弱くなる。
 だから。
 だから、ずっと忘れようとしてきたのに……。
『マジック……』
 父さん。怒っていますか?
 僕は、あなたに顔向けができない。
 あなたの跡を継いだのに、こんなになってしまった自分を、あなたに見せたくない。
『私は、お前が家族を守るんだ、と言った。しかしお前は勘違いしていることがある』
 ああ……あなたの声は、こうでしたね。
 忘れようとしてきた声は。
『その『家族』には、お前も入るんだよ。お前も、守られていいんだよ』
 こんなにも、暖かい……。



『助けて兄さん……』
 重なるように、現在の亡霊の声が響く。
 ルーザーの声だ。
 今度は闇にではなく、光の中に、映像が浮かび上がる。
『やめろォオ! 撃つなぁ!!!』
『撃て! 息子よ! 青の呪縛と共に、私を撃ち抜け!』
 ルーザー。私は止めたのに。
 お前は、あの諦念の中の孤独な死から。
 冷たい雪に埋もれていく、あの死から。
 もう一度、尊厳ある死に、やり直すことを望んだ。
『私は罰せられる人間だ……お前は敗北者になるな……』
 でもルーザー、お前は。
『自分がしてきたことを、やり直しに戻ることはできない』
 間違った人間として、最後まで死のうとするんだね。
『進め……怖がらずに進め……』
 その子供に……希望を託して。
 お前に正しいと言われ続けた私に、自省の道を与えて。
 自らを反面教師として、私に道を説こうとする……。
 幼い時から共に過ごした、私の自分自身と似た人よ。



 そして、映像は消え、光と闇が混じり合い、静寂が訪れる。
 幽玄の空間。
 その不可思議な場所で、我知らず、マジックは待った。
 彼を。
 しかし何の兆しもなく、その空間は音一つない。空気の揺れ一つない。
 今迄の順番通りで行くと、次に語りかけてくれるのは、未来の亡霊の番であるはずなのに。
 すでに慣れたパターンを崩されると、不安がマジックを襲った。
 彼は、自分を見捨ててしまったのではないかと。
 もう、出て来てくれはしないのではないかと。
「シンタロー……」
 声は聞こえてはこない。私に、語りかけてはくれない。
 マジックは、溜息をつき、軽く長めの前髪を弄った。
「……」
 私は、待っているだけでは、駄目なのか……。
 だから、マジックはまた歩き出す。問いかけながら、歩き出す。
 歩くのにも、語りかけるのにも、もう飽きたと思いながら。
 しかし、繰り返す。
 シンタロー。あのね、シンタロー。
 クリスマスを思い出せと、お前は言った。
 クリスマス。神に祈りを捧げる喜びの日だよね。
 神の愛に感謝する日さ。
 私は、もうお前に、ただ語りかけるのは、飽きてしまった。



 私は、神に祈ったことなんてない。
 いつも目を瞑って、時間を潰していただけだ。
 だから、お前がクリスマスを思い出せと言っても、神になんて祈りたくはない。
 まっぴらだ。
 第一、神なんて、存在するとは思えないし。
 仮に存在するとしたって、私は神に愛された記憶はない。
 だから神なんてどうでもいい。
 神なんて、与えもするが、奪うばかりで。
 その釣り合いの取れない采配に、感謝する義理なんか、私にはないよ。
 でもね。今、私は、祈りたいと思う
 祈るよ。
 クリスマスに自分を捧げて、愛に祈るよ。
 神に、なんかじゃない。
 シンタロー、お前に祈るんだ。
 お前に、祈るんだよ。



「シンタロー……私のこと、助けてよ」
 パパのこと、助けて。
 シンちゃん。
 さっきの、どういうこと?
 コタローが私を撃った時に。
 目の前に飛び出して来たのって。
 私を守るように、抱き締めてきたのって
 私を庇って死んだのって。
 ……。
 シンちゃん。
 わかったよ。
 私は、クリスマスを思い出すから。思い出して、祈るから。
 クリスマス・イヴに生まれた、あの子のことも思い出すから。
 シンちゃん……。
 また、あんな風に、私のこと、守ってよ。
 庇って欲しい。
 お前が守ってくれないと、私は、何処かへと堕ちてしまうんだよ。
 私を、好きになって。
 私を、愛して。
 救ってよ。
 いつか消えないって、信じさせて。
 奪うよりも、与えてよ。
 こうやって私が祈るのは、ただ一人だけ。
 世界で、お前、ただ一人だけだよ。



 私のお前への愛は、信仰であるのだと思う。
 救って欲しいと願う。
 信じさせて欲しいと求める。光を見せて欲しいと望む。
 お前が欲しいと飢える。
 その無償の愛に、身を任せたい。
 シンちゃん。ねえ、シンちゃん。
 聞いてよ。
 私は、お前に向かって、歩くよ。
 だから、姿を見せて。
 私の祈る、歩く方向を教えてよ。
 私の所に、戻って来て。
 全てを、思い出すから。
 自分を、思い出すから……!



 沈んだものが浮き上がるように、再び目の前の光の中に、映像が滲んで現れる。
「シンタロー……」
 マジックは、それを見上げ、呟いた。
 私の未来……。
 涙を零すシンタローの姿が映し出される。彼は絶叫した。
『行くなァア! 父さぁん!』
 未来のマジックは、この時に、過去の自分の犯してきた間違いを思い出したのだ。
 そして、最も犠牲にしてきた子のことを、思い出したのだ。
 コタロー。島を破壊しようと、青の力を暴発させる子。
 その子へと歩み寄った自分は、小さな身体を抱き締める。
 ……ひょっとすると。
 こんなに強く抱き締めたのは、この子が生まれて初めてのことだったのかもしれなかった。
 小さなコタローは、震えていたよ。
 それでも精一杯に、力を放出して、私を拒否しようとしていた。
『放せぇええ! パパなんか嫌いだぁあ!!』
 この時の私には、もう、わかっていた。
 コタローは、私に嫌われていると思い込んでいたから。
 こんなにも、私を拒否して、嫌いだと言うのだ。
 全てを拒否して、全てを壊して、全てを消滅させようとするのだ。
 そして、コタローは、自分自身が、嫌い。
 私自身の姿が、そこにいた。
 私は、この子に、酷いことをした。
 自分自身の姿と、真正面から向き合うのが、怖かった。
 そして私は、自分が言って欲しかった言葉を、与え続ける。
 ずっと。
『お前がやっているのは、悪いことだよ』
 間違っていることは、間違っていると、教えてくれる人が欲しかった。
『そして私がお前にしたことも、やってはいけないことだった』
 誰かに、こうして、謝って欲しかった。
『コタロー……疲れただろう、もう休みなさい……』
 ずっと。
『誰も、お前を閉じ込めたりしないから……』
『パパ……』
 ずっと、こうして。
 ただ、抱き締めてくれる人が、欲しかった。



 鐘が鳴っている。
 マジックの意識は、再び無の空間に落ちている。
 時空を越えた、誰もいない光の中に、鐘の音だけが、聞こえる。
 シンタロー。
 それでも彼は、光の差す方に向かって、呼びかける。
 シンタロー。
 あの鐘が鳴っているよ。
 知ってるさ。これは、時間が終わる合図なんだよね。
『シンタローのこころのじかんは、おわりかけてるの』
 最初にお前は、そう言った。
 まだ、間に合うかい?
 今、この瞬間。お前の心の時間は、終わってないよね?
 まだ、私は間に合うよね……?
 この鐘は、終りと同時に、始まりを告げる鐘でもあるんだよね……?
 幼い頃、私の街に鳴り響いていた鐘の音は、そうだった。



『マジック!』
 鐘の音の中から呼ぶ声がする。
『手、伸ばせよ! そこから引き上げてやるから!』
 求めていた声がする。
 祈りが通じた瞬間だと、マジックは思った。
 声は言った。
『俺も……一緒に……受け止めるから!』
 しかし、いざという時に、マジックは躊躇してしまう。
 思わず、自分の手を見た。
 それは、傷一つ無い、温色のない青ざめた形をしていた。
 手。
『パパの手、きたなくなんか、ないよ』
 過去にお前は、そう言った。
 でも今は……? 今でも本当に、そう思ってくれる? すべてを知った今でも、そう思ってくれる?
『バカ! 助けてとか言いやがる癖に、何でいっつもグズグズしてんだよっ! アンタは!』
 シンタロー。私は、お前の身体が何であろうと、それでいいんだ。
 お前の心がお前でさえあれば。
 私との間に、どんな過去があった身体であろうと。
 心がお前なら、いいんだよ。
『だー! 早くって! くっ……つーか! 何を迷ってんだよ! ああ、もうなぁ! 俺となぁ、俺とアンタは違うけど、同じなんだよ!』
 同じ? どこが?
『俺は、アンタの手が、汚かろーと綺麗だろーと、何でもいいの! 何だっていいの! だから、早く手、出せってば!』
 同じ……違うけど、そこは同じ……。
 鳴り響く鐘の音は、すでに余韻へと移り変わろうとしていた。
『アンタなら、どーだっていいの! 早く、手、出せ! 未来に連れてってやるから!』
 未来……一緒に……これから、未来に?
『アンタの、その厄介で困ったどーしょうもない自分自身……俺も一緒に、受け止めてやるから!』
 本当に……?
 いいの? 信じるよ?
『早く! 鐘の音が終わる! 早く!』
 私は、ずっと、お前を追いかけて来たんだよ。
『アホか! 俺の方が追いかけて来たんだよ! 相変わらずわかってねーな……だから早く!』
 やっと伸ばすことのできたマジックの手が、未来の亡霊の光に包まれる。
 暖かいと思った
 シンタロー……。
『父さん……!』



----------



「父さん……!」
 その声が、自分の闇を切り裂く。
 意識が時間を越えて、過去と現在を越えて、その場所に辿り付く。
 淡い覚醒。意識が戻る。世界が揺れていた。
 身体が揺す振られているのだと気付くのに、時間が必要だった。



 窓から漏れる薄明かり。
 しんとした寝室で、懸命に自分を呼ぶ声。
 幻から醒めた後の、戸惑い。
 再び、冷たいシーツの感覚。
「……」
 自分は、ベッドに倒れ込むように、仰向きになっていて、そのまま横から抱き起こされて、揺さ振られている。
 傍らに自分のものではない赤い軍服の裾が目に入って、その腕の背後に見える、脇のサイドボードに、マジックは視線を遣る。
 置時計、小さなクリスマスリース。
 午前三時を過ぎた頃だ。最初に眠りについた時刻と同じ。
 時刻は同じ。おそらく、日付も同じ。
『未来に連れてってやるから……』
 先程のシンタローの声が、意識の奥で木霊している。
 未来……。
 そうか……。
 ここは……。



 マジックは、未来の世界で、軽く目を擦った。
 そっと瞬きをする。静かな同じ夜。
 そして、自分が、黒い瞳に凝視されていることを意識する。
 赤い服を着た人に。
 軽く息をついて、その相手に顔を向けると、彼は、とんでもなく引き攣った、今にも卒倒しそうな顔をしていたので。
 どうしたのかと。マジックは、その人に向かって、口を開こうとした。
 その瞬間。
「……ッ……父さ……」
 凄い勢いで、抱き付かれた。
 シンタロー。
 半ば身体を起こしていたマジックは、また、そのままベッドに倒れこんだ。
 背中のマットの感触が、柔らかい。
 飛び込んできた身体が、暖かい。
 マジックは、微かに笑う。
 何だかこの雰囲気は、あの時に似ていると思いながら。
 あの、コタローの攻撃から、シンタローが自分を庇ってくれた時に。



「アンタ、大丈夫なのかよっ!! ぜ、ぜ、全然、動かねーし! 息もしてないみたいだし! お、俺、帰ってきたら、びっくりして! びっくりして……」
「……」
「死んでるみたいで! 手も冷たいし! 目ぇ、開けないし! 何なんだよっ! クッソ、何なんだよ……生きてんの? 心臓動いてんの? なぁ!」
「……」
「な、何、笑ってやがんだ! いい加減にしろ!」
 息つく間もない程に、堰を切ったように喋り出すシンタローの、身体の重みを感じる。
 必死な顔が、上から自分を覗きこんでくる。
 本当に生きているのか、確かめるように、指で触れてくる。
 目を開けたはいいが、自分が黙っているから、彼は不安なのだろうか。
 不安……。
 私がいないと、お前は、不安?



 南の島での一件の後に、マジックは、総帥職をシンタローに譲った。
 青の未来を託したのだ。
 それ以来、この子は東奔西走、休む間もなく世界中を駆けずり回っている。
 青の未来を変えるためと……自分のやったことの後始末を、するために。
 今日のクリスマスだって、本部に戻れるかどうか、わからないと言っていたね。
 でも、コタローの誕生日のイヴに、どうしても間に合いたいんだと。
 だから今晩。
 ……帰ってきてくれたんだ。
 きっと、コタローの寝顔を見た後に、私の所にも来てくれたんだね。
 そして、意識のない私を見て、驚いたんだろう。
 でも私は、幻の中で、いくつものお前に会ってきていたというのに。
 たくさんのお前に会ったよ。
 私、頑張ったなあ。
 最後に、こうして、未来のお前と会えた。
 長かったよ。
 だから、マジックはその黒い瞳に呟いた。
「シンちゃん。パパのこと、好き……?」
 覗き込んで来るシンタローの眉が、吊り上った。
「あああ? 何でこんな時に、そんなこと聞くんだよっ! 俺は真面目に……」
 マジックは腕を伸ばすと、自分に覆い被さる形になっているシンタローを抱き寄せた。
 顔を近くに寄せて、視線を合わせる。至近距離。
 長い黒髪に、マジックは手を差し入れた。
 相手は動揺したままなのか、大人しい。
 優しくその髪と背中を撫でながら、自分は問いかける。
「シンちゃん、今、パパが死んだかもって思った時、どう感じた?」
「知るかよ! 茶化すな! くっ……アンタ、本当に大丈夫なのか……よ……」
「……何故、泣いてるの……?」
「知るかよ……」
 彼の目の端に溜まる透明な涙に、自分はそっと、唇を寄せる。
 舌で舐め取る。甘い味がした。
 目元から睫毛へ、睫毛から眉へ、眉から頬へ。
 シンタローの顔の造作は、全てを知り過ぎる程に知っていた。
 例え、どんな闇の中でだって、自分は舌先の感触だけで、何処を舐めているのかがわかるのだと思う。
「……っ……」
 彼は、微かに身を捩ったが、涙で濡れた頬から、僅かに吐息の漏れる唇へと、構わず、自分は迫る。
 そして聞く。
「シンちゃん、私のこと……好き……?」
 カーテンの隙間から漏れる、月と雪の微かな灯りに、先程まで、どうしようもないぐらいに青ざめていたのに、シンタローの頬は、薄く上気している。
「……」
 それでも答えず、閉じられたままの唇。
 かわりに、ぽろりと、大粒の涙が零れ落ちてきたので、マジックは、その言葉を紡がない唇に、口付けた。
 そして強く抱き締める。
 いつも、言ってはくれないけれど。
 言葉じゃないんだよね、お前は。
 言葉で聞いても、決して口を開いてはくれないのに。
 こうやってキスしたら、素直に口を開いてくれるのは、どうして?
 言葉は冷たいのに。
 口の中は、唇は、舌は、唾液は、すごく、熱くて甘いんだよ。



 マジックは、上唇を軽く何度も吸い、下唇を同じように優しく弄る。
 お互いの熱い息が漏れて、角度を変えると、今度は相手が激しく吸いついて来た。
「んぅ……っ……」
 まるでマジックが本当に生きているのかを確かめるように、シンタローの濡れた舌は、必死に口内に滑り込んで来ようとしているのだ。
 自分が回した右手で、その背中の稜線を擦ってやると、簡単に相手の腰が震えた。
「……あ」
 同じく、しがみついてくるシンタローの腕。
 蠢く柔らかい舌が、絡み合わされる度に、けだるい痺れが身体を襲う。
 深くなっていく口付け。酩酊に似た眩暈。指先まで溶けそうになる恍惚。
 でも、戻れなくなる前に。
「……」
 マジックは、その限界地点で止める。暖かい身体を、離す。
 繋がっていた唇が、薄い残滓の糸を引いた。
 熱を含んで潤んだ、お前の瞳が、驚いたような色をしている。ここでやめるなんて確かに私らしくない。
 私だって、続けたいけれど。でもね。だって、私は、これを言わなければ。
 マジックは身を起こすと、なだめた相手をベッドの端に座らせる。
 そして、言う。
「良かった、シンちゃん」
 お前が一番、頑張ってくれたよね。長い夜だった。
「また、会えたよ」
「……?」
 未だ口付けの余韻を残した、不思議そうな顔が愛しい。
「シンちゃん、私のこと、好きになって。そうしたら、私は自分のこと、少しは好きになってもいい」
 そう、自分に言われた相手は、黙っていた。
 黒い睫毛を伏せて、無言の後。
「……アンタが……信じなかっただけで……俺は……俺は、最初から……」
 そんな言葉が、愛しい唇から零れ落ちた。
「シンちゃん、あのね」
 また、抱き寄せる。
「ありがとう……」
 お前は。好きという言葉よりも、かたちをくれる。
 だから私は、信じたっていい。
 今夜は、お前の私への心が、過去、現在、未来の私を助けてくれたんだろう?
 だからお前に、私は信仰を捧げる。
 その祝福を、感謝したい。
 祈るよ。
 愛していると、お前に祈るよ。



 この長い夜の最初に聞こえた、あの嘆きの歌は、もう聞こえなかった。
 聞こえるのは喜びの歌。
 人は、クリスマスに、自らの罪の贖いを誓い、救われた喜びを歌う。
 その歌、賛美歌、クリスマス・キャロル。
 自分にも、初めてこの歌が本当に聞こえたと、マジックは、思った。
 部屋のデスクの上には、クリスマスリースがある。
 変わらず仕えてくれる部下の顔を思い出して、朝になったら、『ありがとう』と言ってやろうと、マジックは考える。
 誰かに、大切に想われているという感覚は、私の全てを、変えるだろう。
 それだけで。もう、世界なんていらないのだと感じる。
 他の何も、いらない。



 マジックは。
 しゅんとして、やけに大人しく自分の腕の中に収まっている、その子に、心の中で語りかける。
 あのね、シンちゃん。
 ずっとね。早く朝が来ないだろうかと、昔、私は思っていたよ。
 クリスマスの夜にね。
 いや、朝は来なくてもいいから、早くこの夜が終わって欲しいと願っていた。
 でも今は。この夜は、終わって欲しくはない。
 でも、そう言ったら、お前は怒るだろうね。
 私だって……朝が来るのには賛成するよ。
 一日遅れだけれど。お前と一緒に祝うことのできる、特別な日だからね。
「シンタロー。朝になったら……一緒に、コタローの寝顔、見に行こうね」
 そう言うとマジックは、子供にするように、シンタローの頭を撫でた。
 朝が来たって。また、すぐに夜が来るのだと、今の私には、わかっているから。
「あ、あ、あったり前だろ! 絶対行くぞ! って、よーやくアンタも……俺は、もうさっき、行ったけどな! ギリギリで間に合わなくって……誕生日に……24日に……」
「シンちゃん」
 やっと元気が出てきたらしい彼に、マジックは悪戯っぽく笑って言った。
「私より、コタローの所に先に行ったこと、さっき、実は後悔してたでしょ? 私が死んでるって思って。私の方に先に来ておけば、もっと早くにこうなってるのを見つけられたって、」
「あーもう! うっさいんだよ! あ! アンタ、もしかして死んだマネとかじゃないだろうな! 後でヒドいからな!」
「そんなマネする訳ないだろう……いいよ。私よりあの子を優先しても。その後で、必ずこうして私の所に来てくれるんだから」
「……」
 シンタローは、再び黙り込んだ。
 そして、少し経って、押し殺した声で呟いた。
「わかってんだろ……アンタは、コタローに、酷いことをした」
「うん……」
 相槌の後、マジックは言う。
「私は、忘れてなんかいないよ」
 また、間があって。
「つーかさ。明日、サービスおじさんと! ハーレムのおっさんが……金使い込みやがった癖にさー、どーいう神経してるんだか……明日来るって」
「ああ、知ってる」
 そう、明るい声を出したシンタローだったが。
 マジックの目の端に映った彼の手は、わずかに震えていた。
 ただ思う。
 ごめんね。私は、お前にも酷いことをしたよ。
 シンタロー。



「ねえ、シンちゃん」
「あんだよ」
 ぶっきら棒に答えたシンタローは、身体を離し、脇の方を向いてしまっている。
 ベッド端に座ったままだ。窓はカーテンに締め切られていて、何も見えないというのに。
 自分の前では不機嫌な振りをするのを、やっと思い出したらしいなと、マジックは思う。
 いつものことだ。
「もっかい聞くよ。シンちゃんさぁ……パパのこと、好き?」
「だ、だから! んな質問するなって! うざいから!」
「さっき『俺は、最初から……』って言ったでしょ。その先を言ってよ、シンタロー」
「何が言ってよだ! その突然、自信満々になる所がムカつく! 根拠のない自信がムカつく!」
「根拠って。昔、お前はねえ、パパのこと『大好き!』ってねえ、」
「とんでもなく昔のコト持ち出すんじゃねえよ! ガキの言った言葉なんて覚えてんなよ!」
「それにねえ、パパが危ない時にねえ、パパの前に、さっとカッコ良く現れてねえ、パパのこと、ぎゅっとしてねえ、庇ってくれてねえ、」
「わーわーわーわー!!! アホだろバカだろアンポンタンだろアンタはぁぁ!!! もーさっさと寝てしまえ! 具合悪いんじゃねーのか……って、わっ!」
 マジックは、ベッド端に腰掛けたまま、微妙に目を逸らしてばかりのシンタローの顎に、手で触れた。
 自分の方を向かせてしまう。
 焦っているシンタロー。さっきは、あんなに甘い雰囲気だったのに、とマジックは思う。
 どうして今は、これくらいで恥ずかしがるんだろう。
 切り替えのよくわからない子だな。
「な、なんだよっ!」
 やれやれ、警戒心バリバリだ。
「お前は一途な子だから……一度好きになったら、ずっと好きでしょ。最初から最後まで好きでしょ。だから、過去だろうと今だろうと、好きなものはずっと好きでしょ。だから、一度『大好き』って言ったら、今だって同じ気持ちなんだよね」
「なっ……」
「一度拾ったら、絶対に捨てたりなんか、しないタイプだよね」
「……」
「だって、シンちゃん、ケチんぼだし」
「ああ? 節約の達人と言え。それか、やりくり上手と!」
 何とか話を逸らそうとしているシンタローは。
「そ、そーいえば!」
 ここぞとばかりに、あっと言う間に、どんどんと、聞いてもいないことを喋り出してしまう。照れ隠しなのだろうか。
 料理の時に、アンタはあれを捨てるのは勿体無い、これを買うのは贅沢だ、とか。
 こんなリサイクル術を編み出したから、アンタもやれだとか。
 この間の休みに、本邸の倉庫を漁ってみた、地下室を探索してみた、使えそうなものがたくさんあったとか、何とかかんとか。
 まったく、そういうの、大好きなんだから。
 そんな話は続いて、最後に行き着くのは、やっぱり大好きなコタローのこと。
 コタローが目覚めた時のために、色々用意しといてやんなきゃ!
 普通に学校行かせてやりたいしさぁ、洋服だって、一杯いるだろうしさぁ。
 コタロー用に、昔のイイモノを作り直したり、綺麗にしといてやるんだ! なんて。
 マジックは、それを聞きながら、一人肩を竦めた。
 こういう話を逸らされるのは、いつものことで、慣れていたけれど。
 でも、今夜は、どうしても言って欲しかったのに。今じゃなくたっていいのに。
 だから、そのお喋りに、割り込もうとしたのだが。
「……んでさ、ちょうどいい昔の鞄とかも見つけてさ、子供用の肩から掛けるヤツでさ……」
「鞄?」
 聞き返すと、シンタローが嬉しそうに頷いた。
「それ、二つあった? 白くて……」
「うん。それそれ。二つとも持ってきた。モノがいいからよ、綺麗にすれば使えるよな。ちょっとしたアンティークっぽくって。逆にカッコいーよ! 最近あんなの、滅多に売ってないし、売ってても高いしさ……」
「……」
 マジックは、コタローがどちらでもいいから、それを使ってくれたら嬉しいなあと、考えた。
 それでね。
 私も捨てないでね、シンちゃん。



 シンタローの話は続いている。
 コタローに関することだと、止まらなくなるのだ。その姿を見るのは、好きだったのだが。
 ……私に早く寝ろとか言った癖に。どうも釈然としない。
 焦れたマジックは、『わかったよ、シンちゃん』と言った。
「は?」
 黒い目が、丸くなっている。
「お前、大きくなってからは、言葉で言ってくれなくなったけれど」
 余りにも無警戒な顔をしていたので。
 そのよく動く唇に、マジックは今度は、触れるだけの口付けをした。
「態度で、私に『好き』って示してくれるよね。そういうお前が、私は好きさ」
「なっ……!」
 さっと、またシンタローは、顔を赤くしている。条件反射だろうか。
 そして、『アンタ、具合悪いんだろーが! 早く寝ろ!』等と言って、立ち上がろうとするから。
 自分は、その赤い袖を引く。
「……もう!」
 相手を再び、目の前に座らせる。
 赤い軍服。受け継がれてきた総帥としての証。
 それを、今は、この子が。



「昔、お前のサンタクロースは、赤い服を着た私だったよね」
 怒っている振りをしているシンタローに、マジックは言う。
「……?」
「覚えてるでしょ……? お前は、ずっと私を待ってた」
「……」
 シンタローは、一瞬、遠くを見るように瞬きをした。
 マジックは、言葉を続ける。
「遠い昔、私には、偉大なサンタクロースが一人いて」
 すると、シンタローは、探るような瞳を自分に向けてきた。
 ああ、とマジックは思う。
 いつも、お前、このことは。気を遣ってか、私に聞いてはこないね。
 それだけ……私が、無意識の内に……死んだあの人のことを、タブーにしていたのかもしれない。
 忘れようとして来たのを、お前は感じ取っていたのかもしれないね。
「そして今、私のサンタクロースは、赤い服を着たお前だよ」
 あの人、私、お前と。
 クリスマスのサンタクロースは、受け継がれていくのさ。
 ずっと……。
 想いも、受け継がれていくんだよ。過去、現在、未来へとね。
「ねえ、シンちゃん」
 自分は、呼びかける。
「お願い。父さんって、私のこと、もう一回、呼んで」
「……やだよ。もう呼ばない」
「クリスマスでしょ……呼んで欲しいんだ。そして、また抱き締めて」
 自分の雰囲気に、シンタローは戸惑っている。
 これもそうだね。いつもそうだね。
 私が、ふざける時は、お前は私に怒っていればいいのだけれど。
 私が真面目になると、お前は、どうしたらいいのか、わからなくなるんだよね。
 そういう所が、可愛いよ。
 好きだよ。愛してる。
 でも、真面目な私だって、本当の私なんだから。
 それも含めて、受け止めて。
「サンタクロースからのプレゼント、それでいいから。私のこと、ぎゅっとして。抱き締めて」



「父さん……」
 幾分の躊躇の後、そう呟いたシンタローは、すうっとマジックを抱き締めてくる。
 その暖かい腕に、マジックは目を瞑る。
 父さん……。
 同じ言葉を、今度はお前が呟く。
 懐かしかった。
 繰り返しが。
 懐かしかった。



 こうしていると、全てが溶かされて、当り前の自分に戻っていくのだった。
 全部が何でもないことに思えていくのだった。
 自分の弱さを、弱さとして受け止めることができる。
 そんな場所なんだよ。
 お前の、優しい腕の中は……。
 父さん……。
 過去の私と同じ言葉を、現在のお前が呟く。
 そして私は、同じく、目を瞑る。愛を感じながら。
 失って、また手に入れる。
 この言葉だって。
 受け継がれてきたんだね。



 長い道を歩いて来たよ。
 暖かい腕の中で、こう、私が呟く。
「私の未来は、お前にあるんだ」
 おかしいな。私は今、お前を手に入れているんだよね。
 物事の価値そのものよりも、手に入れることだけに憑かれていた自分。
 伸ばした指先が届かない所にしか、存在しなかったあの熱情。
 ずっと自分は、手に入らないという喪失感こそを愛しているのだと、思っていた。
 手に入れてしまえば、きっと自分の執着は消える。
 興味がなくなり、また再び乾燥した色のない世界が始まる。
 単調な私一人の世界。
 それが、嫌だった。
 自分が愛することをやめてしまうことだけが、怖かった。
 ずっと、そう思い込んで来たんだよ。
 でもお前だけは。
 手に入れたって、私の心からは消えないね。
 昔と同じように、いつだって、愛しているだけだよ。
 支配、じゃないんだよね。支配じゃないんだよ。奪う、とかでもないんだよね。
 もっと。
 近くに。
 ただ、側にいて。



「クリスマス、思い出した」
 私は、過去、現在、未来に生きるだろう。
 時間は、まだある。償いをする時間が、この子の側で。
 窓の外では、雪が降っているのだろうか。
 でも、この場所は暖かかった。
 全てが晴れやかで。全てが静かで。
 だが、耳をすませば、何処からか鐘の音が聞こえてくるような気がしていた。
 そして、喜びの歌、神を称える賛歌。
 その与えられる無償の愛を感謝する歌。
 クリスマス・キャロルが。



「ずっとお前を愛している。私の、最後の人」
 私を抱き締めたままのお前も、目を瞑っている。
 どんなことがあっても。雪が降り、雨が降った後にも。
 最後には、お前が残る。
 愛していると、祈らせて。
 信じさせて。
 許して。
 お前が、私の最後に残った全て。



 私は。
 誰かを愛したい。
 ずっと。
 ずっと、誰かを愛することに、憧れていた。
「……父さん……」
 そして、途方もなく長い間。



 誰かに愛されたい。
 ずっと。
 ずっと、誰かに愛されることに、憧れていたよ。















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「クリスマス・キャロル」(C・ディケンズ)[HTML版/PDF版]