クリスマス・キャロル

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3. 現在の亡霊



 伸ばした手が当て所もなく彷徨って、落ちる音。頬に冷たいシーツの感触。
 見慣れた闇。先程、目覚めた時と同じように、いつの間にかマジックは、ベッドの中から暗がりを見つめていた。
 元の寝室だ。沈む静寂。
「……」
 彼は、自分が夢を見ていたのか、現実を見ていたのかが、よくわからなかった。
 汗が滲み、額に長めの前髪が貼り付いているのが、煩わしくて。
 際限のない焦燥感が、もどかしくて。
 ただ――
 握った手の感触だけは、現実として肌に残っている。あの手の感触……。
 この自分が、あの手を見違えようもなかったのだ。
 サイドボードの置時計に目を遣ると、針は午前二時前をさしている。
 午前二時?
 自分が最初に眠りについた時には、午前三時を回っていたはずだ、と彼は思った。
 時計の時間が狂っている……?
 それとも、私の時間が狂っている……?



 冷たい寝床で。マジックは一番最初に自分を訪れた、幼いシンタローの言葉を思い出している。
『三人の亡霊が、やってくるよ』
『パパ、おねがい。その三人と、あって』
 三人……。
 先刻の亡霊が……一人目……だとすれば。
 二人目の亡霊が、これからやって来るということだろうか……?
 何ということだ。この長い夢は、これで終わった訳ではないのか?
 マジックは身を起こす。来るべきものに備えようと、闇を見据える。
 すると、その時。何処か遠くで、鐘が、鳴った。
 一度、二度……。午前二時を、時鐘は告げる。
 また、あの全てを痺れさせていくかのような余韻が、暗い部屋を支配して。
 引き裂くように、鳴り響いて、消えた。
 そのまま。マジックは、待った。
 しかし、何事も起こらなかった。



「……」
 やはり、夢だったのかとも思う。
 マジックはベッドに腰掛けたまま、自分の手を眺めた。
 だが、あの優しい感触は、消え失せていくどころか、ますます自分の心の中で、明確な形をとって、その居場所を確保しようと蠢いていくのだった。
 彼は溜息をつく。
 囚われるものが多い程、人が惨めであるのなら。私は、どんどん奈落へと堕ちて行く。
 取り返しが付かない程に。弱者へと、堕ちて行く。
 ふと彼は、闇の中の自分の白い手が、青ざめていることに気が付く。
 まるで血の通わない、蝋人形のような余所余所しさに、その手は陰っていた。
 マジックは、ゆっくりと顔を上げ、正面を見つめる。
 すると、いつの間にか、カーテンの隙間から。先刻のように、誰かの手によって開けられることはなかったが、不思議な青い光が、漏れてきているのだった。



 彼は立ち上がると、迷わず大窓に歩み寄り、厚いカーテンを開けた。
「……っ」
 彼は思わず、目を眇める。
 圧倒的な光量が、部屋の闇に雪崩れ込んでくる。
 全てを飲み込むかのような、青白い光。吹雪のように冷たく吹きすさぶ、輝きの粒。
 ようやく目が慣れた時、彼は、窓の外に広がる光景を、理解する。
 カーテンの向こうには、冷たい窓が、いつの間にか大開きになっており、強い風が通り抜けていて。
 そこには、マジックが、半日前に無人に変えたばかりの、雪の荒野が続いていた。



 地平線の果てまでも。白い焦土は、どこまでもどこまでも続いている。
 生き物たちの残骸の上に、静かに雪が降り積もり、大地は白一色に埋め尽くされている。それは何処か、厳かで、美しい光景に、マジックには見えた。
 その白は、青のオーラを纏って、淡く発光しているのだ。
 まるで、凍てついた氷の女王が、青いシルクのショールを掛けているかのように。
 彼女の微笑みは、死の微笑み。命を失いし者どもの、夢の跡。
 この、音のない白い地には、ぼうっと、無数の青い光が彷徨っているのだった。
 青い蛍のよう、青い星のように、弾ける海の飛沫のように。行き場を失くした光たちは、惑う。
 各々に流れるような線を描いて、巡り合いながら、混じり合いながら、漂い続けている……。
 マジックは、その光景をしばらく見つめていた。
 これが世に言う、死地に留まる霊魂というものなのかもしれないと思ったが。
 彼は、全くそんな非科学的存在を信じてはいなかったので、これもまた幻だろうかと考えた。
 しかし、やはり、その度に――先程の、懐かしい姿が目に浮かんで。
 目蓋に焼き付いて離れない、あの姿を想うと。
 自分は、いっそのこと、この幻に取り込まれてしまった方が、気楽なのではないかとまで思い始める始末であったのだ。
 この、私が、と。マジックは、本日何度目かの嘆息を、禁じ得ない。



 その時。すうっと。
 当て所なく戦場を彷徨う、青い残り火たちの中から、一筋の強烈な光が、こちらに向かってくる。
 長く尾を引いたそれは、眼前で、弾けた。
 青が弾けて、人のかたちになり。再び、輝く存在が、彼の側に降り立っていた。



「……貴方が、二番目の亡霊か……?」
 相手に先んじて、マジックは、そう尋ねてみた。
 今度の訪問者も、その形をはっきりと捉えることはできない。
 眩い輪郭が、おぼろげにわかるだけだ。
 そこに、誰かがいるということを、曖昧に感じ取ることができるだけ。
「……」
 問われて、訪問者は、ゆっくりと頷いた。白装束が、淡く空気に舞うようで。
 そして輝ける者は、大窓の外、雪の野を、同じく手にした、ヒイラギの枝でさし示した。
 口を開く。
「これらは、戦場で無慈悲に殺された、惑う魂たち……」
 マジックは、眉を顰めた。やはりその声も、自分の内面に響くばかりだ。
 そして、その言葉に、小さく鼻で笑った。
 稚拙だと、思った。
「……こんな光景を見せて、どうしようというんです。まさか私に、改心せよとでも?」
 すると、意外にも亡霊は、かぶりを振った。
 しばらくそのまま、佇んでいる。
 間があった。
「貴方は……今日、私に殺された人間の内の一人か……?」
 あの戦場を彷徨う青い光の一つであったのだから。
 だがマジックが、そう聞いても、亡霊は答えなかった。
 ただ、こう言った。
「私は……現在の亡霊……現在のあなたへと続く、時間の亡霊」
 そして、柔らかく手を差し出してくる。
 自然な動作で、するりとマジックの手を取った。
 マジックは拒否しようとしたが、今度も叶わなかった。
 また、亡霊の手のヒイラギの枝が振られて、ぱあっと光の粉が舞った。
 マジックは、再び世界が、ぐにゃりと歪むのを感じていた。



 次に、彼がいた空間は、ひんやりとした石の持つ空気。
 白壁、大理石の柱、洗練されていながらも、何処かざわめきが伴う場所。
 マジックは、周囲に目を遣った。その見覚えのある調度品。
「……」
 士官学校校舎。入念に磨き上げられた、長い廊下の先の、オークの扉に閉ざされた、理事長室。
 彼と亡霊は、その前に立っている。
 校舎の内外では、ざわめきの中にも、やけに華やいだ雰囲気が感じ取れて。
 窓下に、ちらりと見える、行き交う学生たちの様子や飾り付けから。
 おそらく今日この日も、いわゆる聖なる日であるのだろうと、マジックは思った。
 ……自分の過去の。
 溜息が漏れる。側の亡霊は、突っ立ったまま、身動き一つしない。
 すると、廊下の曲がり角から突然、緊張した空気が伝わってくる。
 高い軍靴の音。声。



『この度の御勝利、早くの御帰還、我々ひとしく歓喜に堪えぬところでありまして……』
『ああ、予定より二日は早かったね。君たちも羽を伸ばす時間が減って、気の毒だ』
 廊下を曲がって、靴音と共に、こちらに向かって来たのは。
 背の高い、若い金髪の男と、背後に付き従った、媚びを笑みに含ませた中年の男たち。
 男のきびきびした動作と、それを上目で見上げる彼らとが、やけに対称的に見えた。
 赤い軍服。
『こ、これは存外な仰りよう……』
『冗談だよ。怯えるな。君たちの青少年に対する管理能力には、常々感心しているよ。安心して留守を任せることが出来る』
 こんな若者の口から、青少年、ときたか。
 マジックは、肩を竦めると、傍らの亡霊に目を遣る。相変わらず、静かに佇んだままだ。
 やれやれ、今度の私の連行者は、無駄な動作がお嫌いらしい。
 彼がそう呟いた時、目の前の一行が、マジックたちの前まで来た。
 青年への追従はまだ続いている。
『何分、急な御帰還の為、学生への連絡が遅れまして、送迎準備に不手際があったこと、誠に慙愧に……』
『構わない。どうせ学生はクリスマス休暇で帰省している者が多いだろう。ああ、私は本当に君たちには感心しているよ……』
 若くして総帥の座にある男はそう言った後、慣れた動作で、理事長室の扉を開ける。
 振り返る。
『だが、その無駄の多い口を噤んでくれたら、もっといいね。実に魅力的だ。それでは失礼。よいクリスマスを』
 遮るように扉は閉まり、学校業務を預かる幹部職員たちは、ぽつんと取り残された。
 しばらく、右往左往していた後に、口々に小声で何か囁き合いながら、彼らは来た道を戻って行く。
 その光景に、マジックは、亡霊に話しかけてみた。
「どうもアンバランスだね。喜劇さ。大の大人が、あんな若造に媚びるなんて。貴方はどう思う」
「……別段」
 相も変わらず、亡霊は素っ気無く答えただけだった。
 マジック自身も、こんな光景は覚えてもいない。ただ、そんなこともあったかな、と頭の隅で考えただけだ。
 しかし、この時の自分は、部下に『よいクリスマスを』等と口にする余裕があったのだと、それだけは意外に感じた。
 なぜなら……おそらく。
 この時の自分は……。



 先刻。あのクリスマスリース。
 ティラミスとチョコレートロマンスの心遣いを、無視した自分。
 ああ、この時よりも、年月を重ねたはずの自分は余裕がなくなってしまっているのだと、彼は独りごちた。
『行きましょう』
 亡霊はそう言うと、マジックの手を引き、閉ざされた理事長室の扉に歩を向ける。
 そして、また影のように二人は、分厚い扉を、するりと通り抜けた。



 豪奢な理事長室では、青年は黙々と執務机で、遠征中に溜まった仕事を片付けているようだった。
 何の変哲もない、何の面白みもない光景だった。
 表情のない、横顔。幾分、鋭角気味の輪郭。それらを眺めながら、マジックは、この時の自分は、22、3歳ぐらいであるのだろうと思う。
 なぜなら、窓の外では雨が、降り続いているからだった。
 自分が本部に戻っていて、雨が降っていたクリスマスといえば、記憶にあるのは、ただ一度きりだった。
 彼は、これから亡霊が見せようとしている光景を予想し、憤りを覚えた。
 その後、やるせのない倦怠が自分を襲うのを感じ、この悪夢から逃れる術はないのかと、傍らの亡霊を窺う。
 亡霊は、依然、沈黙したままだった。
 マジックは、この存在は、あの戦場で自分が殺した者なのだろうと、憎憎しく思った。
 だから、嫌な光景を選んで見せようとする。しかし、どうにもならなかった。
 繋がれた手は、決して解けはしないことは、何度も実証済みであったからだ。
 この時間の狭間にいる限りは、自分は、何の力も持てないのだった。



 透明な窓ガラスに這う、雨粒の筋。
 水の雫は、外の景色を湾曲して見せる。
 過去の自分が、書類に黙々と文字を書き込む音が、静かに響く。彼一人だけの空間。
 そう。
 この年のクリスマスは、雨だった。



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 ――雨が降っていて。
 この時の私は、それがとても気になっていたのだ。
 滴る水音を聞きながら、ただ紙にペンを走らせていた。全く、機械作業も甚だしい。
 すると突然に荒々しい足音が廊下の方でして、部屋の扉がきしみ、しなり、勢いよく開く。
『おお〜〜! 兄貴ぃ! 帰ったかぁ! オツトメ、ご苦労ご苦労ッ!』
 飛び込んできたのは、相も変わらず、兄弟の内で一番落ち着きのない弟だ。
『……ハーレム』
 私は聞こえるように大きく溜息をついた後、小言を口にする。
『また酒を飲んでいるな。先進国のほとんどでは、お前は飲酒年齢に足りていない』
『てやんでえ! クリスマスに年なんて関係ねーヨっ! 楽しくやろうぜぇ!』
 赤い顔をした弟は、着崩した軍服に小さな万国旗のついた紐を巻きつけ、すっかり出来上がっている風だ。
 抱えている幾本かの酒瓶が、擦れ合って、高い音を立てていた。せめて、ここでは割らないで欲しいと、私は眉を顰める。
『ほらよぅ、兄貴、カンパ〜イ! 乾杯!』
 彼はそんな私の素振りに構わず、眼前に、グラスを差し出してくる。
 余りに煩いので、私は仕方なく椅子に座ったまま、それを受け取ってやる。互いに、クリスタルの縁を、かちんと合わせると、液体の水面が踊った。
 私たちは、なみなみと注がれた赤い酒を呷る。
 ひどく嬉しそうなハーレムの顔が、印象的だった。
『へへー!』
 空になった透明なグラスを受け取った彼は、執務机の傍らにあるソファに、行儀悪く胡坐をかいて座り、一人で酒盛りを始めてしまう。
 騒がしい。飲む合間に喋るのか、喋る合間に飲んでいるのかが、わからない有様だ。
 やれやれと思いながら、私は適当に彼に合わせつつ、書類に目を通している。
『なんでぃ。早く遠征から帰るんなら、知らせておいてくれりゃあ、良かったのによォ!』
『意外にあっさり片が付いたんだよ。私だって驚いた』
『あーあ、今年も戻って来ねぇっていうから、俺、ダチと街角の、なんつったかな、とにかく飲み屋を飲み潰してやるっつー予定、入れちまったぜ。ルーザー兄貴も今夜は研究所泊りだっつーし、サービスだって……』
『まぁ……もうそんな年じゃないだろう』
『……へっ……』
 不満そうにハーレムは顔を歪めると、また、ぐびりと酒を口に含んだ。
 兄弟四人でクリスマスを過ごしたことは、私が軍務に就いてからは、何度あったか。



『あのさ』
 しばらく、くだを巻いた後のことである。
 ハーレムが、鼻の頭を掻きながら、言い出した。
『兄貴も、俺らンとこ、来ねぇ? 一緒に街中の飲み屋を営業停止にしてやろうぜっ! いっぺん俺と勝負してくれよ! 飲み比べ! 俺、めっちゃくちゃ強くてよォ? もぉアイツらじゃあ、物足りなくってよォ……へへ、もし兄貴が来たら、連中も飲み屋のオヤジも、腰抜かすぜ!』
『私が?』
 またお前は突飛なことを言い出す、と私は肩を竦める。
 手元の書類を捲る。馬鹿馬鹿しかった。
『……お前はいいだろうが。進んで他人の居心地を悪くしたって、つまらない』
『たまには、いいじゃねぇかよう〜 兄貴ぃ〜』
『それよりお前、今からそんなに飲んで大丈夫なのか』
『ハッハーッ! 景気づけだぜ! アンタももう一杯イケよっ! ホラ、ンな紙切れ見てねぇでよ!』
『遠慮しておく』
『ク・リ・ス・マ・ス! クリスマスだってぇのに、兄貴!』



 散々、絡んでから。
 これから街に繰り出すのだと、アルコールの香りを残し、ハーレムは、去っていった。
 始終、私のことを気にしながら。何度も、『仕事終わって、その気になったら、いつでも来いよな!』と繰り返しながら。
 ……私としては。
 その気持ちは有り難いと思うべきなのだろうが、どうしても、そんな気分にはなれなかった。
 だが静寂が部屋に満ちてからも、それまでは早く静かになって欲しいものだと願っていたにも関わらず、仕事を続ける気にもなれない。気が殺がれたとでもいうのだろうか。
 急を要するものは、すでに処理済みだったので、手元の呼び鈴を鳴らし、部下に、書類と共に幾許かの指示をし、下がらせてから。
 私は、酒の甘い匂いを追い出そうと、執務机を離れ、大窓を開けた。



 雨が、降っている。
 その年は暖冬で、僅かに降った雪すらも、この雨で溶け、大窓の外、バルコニーの格子の向こうには、ただの寒々しい風景が広がっているだけだった。
 辺りは暗くなり始めている。
 私は足を踏み出し、空を仰ぎ、そして正面に視線を戻して、雨を見つめた。先程からこの音が、ずっと気になっていたのだ。
 みぞれ混じりの冷たい雨は、重く鈍い。
 冬の雨は、とても……。
 沈鬱な、音をしている。



 私は湿った白い格子に手をつき、眼下の小道を眺める。
 ちょうどクリスマスイヴの礼拝が終わった所なのか、学生たちが楽しげに聖堂の方から歩いて来るのが、目に入る。
 何らかの事情で、休暇に帰省せず寮に残る者は、大概これに出るのが習慣だった。
 賛美歌、この日だけのクリスマス・キャロル。
 『あなたは愛されるために生まれて来たのです』等という、お決まりの牧師の説教。
 数回、義理で出席した時のそれを、思い起こしながら、自分と大して年の変わらない少年たちの、笑い合う顔を、視線で追っていた。
 私は、彼らは何をそんなに喜ぶことがあるのだろうと、常々不思議に感じている。
 同等な友人たちと一緒にいるというだけで、そこまで楽しい気持ちになることができるものなのだろうか等と、首を傾げる。
 他愛のない会話。小さな仕草、大きな動作、くるくる変わる表情。
 未だ自らの限界を知らない、自信過剰と甘えと初々しさの香り。
 この理事長室は、三階で。
 私はいつも、何とはなしに、遠いこの場所から、十代の少年の学校生活というものを、ある種の憧憬と軽蔑とをもって、眺めるのが好きだった。



 そぼ降る雨。色取り取りの傘。人の群れ。その中に、一筋の光が見えたような気がした。
 傘を持って寮を出なかったのか、密集した傘たちの合間を流れるように、通り抜けていく美しい金髪。闇と雨を弾く色。
 サービス。遠目でもすぐに、それとわかる。
 彼は、白い手を申し訳程度に頭上に乗せ、走っている。
 始終振り向き、何事かを喋り、笑い合いながら。嬉しげに。
 そして彼の背後には、いつも、黒髪の男がいるのだった。
 二人は、互いにしか見せないのだろう、明るい笑顔をしながら、ぱしゃぱしゃと足元の水を跳ね上げて。
 理事長室の下を通り過ぎ、遊びさざめく小鳥のように、道の先へと消えて行く。
 霞む雨の中へと、消えて行く。



 やがて、大勢の少年たちの姿も、同じ霞の先に消えて行く。
 風が強くなった。雨は角度を変え、勢いを増し、私の立つバルコニーまで吹き込んで来る。
 木々がざわりと揺れ、氷を含んだ雨に、身を震わせる。
 私の格子に置いたままの右手の甲が、濡れていく。
 透明な水が滴り、指先を伝って流れ落ちる。
 温度が奪われて、どんどんと手は冷たくなっていく。
 凍える肌というものは、最初は針を刺すような痛みが走り、次には感覚が奪われ、硬くなり、最後は麻痺してしまう。
 自分の手を動かすということが、まるで道具を動かしているような心持になってしまうのだ。
 だからそのまま、手は雨に打たれるに任せておいた。
 誰からも忘れられた、玩具のようなものだった。
 そして私は、ただぼんやりと。
 長い間。
 人影の消えた、夜景となった空間を、眺めていた。



 夜も更けてから、ふと、そんな気になって。
 理事長室を出、軍本部の総帥室に行き、そこでも仕事を終わらせてから。私は、聖堂へと足を向けた。
 ハーレムの誘いは、思い出しはしたものの、全く乗る気はなかった。
 雨はいつしか雪に変わり、ちらちらと、冷たい欠片が天空から舞い落ちている。
 数時間前は、少年たちの笑顔で満ちていた場所。
 今は、もう誰もいない。
 私は、すでに締め切られた聖堂の扉を開けると、その無人の空間へと入る。
 立ち並ぶ彫刻と荘厳な壁画が、私を出迎えた。
 外の闇は、ステンドグラスの窓を通して、何処か不思議な色となって、この場所を染め上げている。
 中央祭壇の十字架。金色のパイプオルガン。その隣に立つ、クリスマスツリー。
 私は、それらを三方から取り囲むようにして配置されている、信者席の一つに腰掛けた。
 ひんやりと冷たく固い感触が身を包む。
 高いアーチ型の天井を見上げ、それから祭壇を見つめる。
 輝くツリーは、金銀と共に、赤を基調とした装飾が施されていた。
 豪奢で、美しかった。



 このクリスマスの赤には、キリストが生きとし生ける者の犯した罪の許しを乞うために、流した血が象徴されているのだという。
 人はこの木の下で、この聖なる日に、自らの罪の贖いを誓い、救われた喜びを歌う。
 その歌、賛美歌、クリスマス・キャロル。
 ……くだらない。私はそう、心の中で呟いた。
 人は、歓喜を歌い、その翌日には平気で再び罪を犯す。
 そして何食わぬ顔で、一年を過ごす。次の年のクリスマスに、またキャロルを歌う。
 その繰り返し。
 何時まで経っても進歩のない、無駄な営みなのだと思う。
 しかし私は、趣旨は無益だと思っていたものの、その円を描くような美しい旋律は気に入っていた。
 芸術とは、その生み出される動機が何であれ、結果として美しければそれで良い。
 だから礼拝にちらりとでも顔を出して、その歌を聞いておけば、多少は気も晴れていただろうかと、一人考えた。
 そうしていれば、雨に濡れることもなかっただろうに。
 物思いに耽りながら、私は目を瞑っていた。
 もし誰かがこの姿を見たら、私が祈っているのだと誤解をしただろうと思う。
 だが私は、時間を潰していただけだった。
 しばらく、大聖堂でそんな時を過ごした後。
 私は、ジャンの部屋を訪ねた。



 裏庭から見る、彼の寮室の灯りは消えていた。暗い窓の向こうには、気配は一つきり。
 そのことに、自分の心が僅かなりとも軽くなったことに気付き、私は嫌になる。
 このまま戻ろうかとも思う。
 しかし、同じことだった。何をしようと同じ。
 繰り返し。無駄な営みだ。
 そう、私は自嘲しながら足元の小石を拾うと、その窓に向かって、軽く投げた。
 こつんと音がして。やがて、反応がある。静かに、窓が開く。
 先程、遠くから見た、黒髪黒目の姿が現れる。
 勿論あの笑顔では、決してないのだが。



 何時、御帰還なさったんですか、こんな時間まで詰めていらっしゃったんですか。
 ……どうして、ここに来られたんですか。
 等と聞いてくる彼。
 適当に答えを返しながら、私は窓から侵入したばかりの、静かな空間を見渡す。
 いつもは呼ぶばかりで、私がこの部屋に来たことは、今まで一度もなかった。
 初めて目にするその場所は、意外に寒々しく、物のない部屋だった。
 日用品は、入学当時に支給されたものだけを、使っているようで。
 灯りが消えたままの、薄暗い部屋。そして狭い。
 座る場所すら見当たらなかったので、私は、毛布の捲れたベッドの端に、腰掛ける。
 すると、少し離れた場所に、相手も掛ける。
 それを見て、私は疲れた溜息をついた。
 部屋に来てはみたものの、別段、大した目的がある訳でもなく、何となく自分から口を開くべきだという気がしたので。
『君はサービスといるかと思ったよ』
 と、話しかけてみる。
 ジャンは肩を竦める。
『恋人たちの夜だからですか』
 そう、笑う。
 闇の中で、その黒い瞳は、更なる深い闇に見えた。
『もしそうだったら、貴方はどうされたんです』
『さて……どうしただろうね。素直に退散したんじゃないかな』
 それが偽りのない本当の私の気持ちだった。



 隣に座る相手を、抱き寄せなければいけないような気持ちに襲われる。
 だからそうした。
 そして、相手が目を瞑るから。
 私も目を瞑る。



 私はいつも、彼に触れる時、何かが麻痺していくのを感じている。
 雨に濡れるように。
 温度が奪われて、どんどんと手は冷たくなっていく。
 最初は針を刺すような痛みが走り、次には感覚が奪われ、硬くなり、最後は麻痺してしまう。
 自分の手を動かすということが、まるで道具を動かしているような心持になってしまうのだ。
 だからそのまま、流れに身を任せてしまう。
 自分自身が、誰からも忘れられた、玩具のようなものだった。
 また、繰り返しだ。
 何時まで経っても進歩のない、無駄な営みなのだと思う。
 くだらない。
 今夜もきっと、そうなのだろう。
 私は、ただぼんやりと。長い間。
 これから、遠くを見つめているばかりの君との時間を、過ごすことになる。



 ――君が。
 私より、サービスを愛する気持ちは、わかるよ。
 大事な弟だから。我が家で一番、可愛がられてきた子なんだよ。
 十分承知だろうが、あの子はいい子だ。
 根は素直で純粋だ。綺麗で。
 そこにいるだけで、誰からも、愛を集める子だよ。
 私とは違う。



 君は、私のことなんて、何とも思ってはいないのだろうということも、わかる。
 こんなに近くにいるのだもの、それはわかるさ。
 君にとって私は、不快であるのだろうかとさえ思う。
 嫌なんだろう……?
 それでも君が、私にこうして身を任せるのは、何か思惑があってのことなのかもしれないね。
 いつか何かの目的に、私を利用できるとでも思っているのか。
 愛するサービスの兄だからなのか。
 関係を断れば、私がサービスに全てを告げるとでもいうのか。
 それとも、ただのなし崩しで、惰性で、自分の身体なんてどうでもいい人間であるのか。
 ただ単に、私の権力に従っているだけなのか。
 ……いや、それは違うね。
 なぜなら、君は最初から、私を怖がらなかったから。
 追従だって、言わなかった。混じり気のない目で、じっと見据えてきたよ。
 だから私には、きっと。
 君が、他とは違って見えた……。



 そして私は。自分は、喪失感を求めているだけなのかもしれないと、一人冷笑する。
 容易に手に入る、この世の、ありとあらゆるものよりも、手に入らない、ただ一つのものが欲しくなる。
 幼い頃から頂上に立ってきたが故の、奇妙な性癖かもしれなかった。
 簡単に得てばかりきたために。
 何かを得ることができないという、その喪失感に、無力感に、私は焦がれてならない……。
 だから、禁じられているものばかりが、欲しくなる。
 愚かな。
 でも、それでもいいのだと。
 自分は、この喪失感こそを愛しているのだと、この時の私は思っていた。
 手に入れてしまえば、きっと自分の執着は消える。
 興味がなくなり、また再び乾燥した色のない世界が始まる。
 単調な私一人の世界。
 それが、嫌だった。
 自分が愛することをやめてしまうことだけが、怖かった。



 その時、扉の外で、人の気配を感じた。
 私は、相手の身体を離すと、咄嗟に壁とベッドの僅かな隙間に身を滑り込ませる。
 自分の気配を消す。
 すると隠すように、自分の上に毛布が掛けられるのを感じる。
 カチャリと、鍵のかからない扉が開く音。近付いて来る、忍ばせた足音。
 部屋に入ってくる。
『……高松。何のつもりだよ?』
 これも急いで身を整えたらしい、ジャンの声。
 侵入者は、いつもの人を食ったような台詞を吐く。
『しまった、起きてましたか、アナタ』
『しまったじゃないよ……ナンだよ、その袋』
『おやあ、見てわからないんですか? もっと文化習俗の勉強をすべきです』
『いや、わかるとかわからないじゃなくてさ。それに袋、担いでるだけだし。部屋着のままじゃないか』
『フッフー。即席サンタですよ。はい、ちょっとお部屋拝見』
『あのな、俺は普通に寝てただけだよ!』
『はいはい。失礼しました。よし、ジャンはオッケー……イヴの夜も、清く正しい少年でした、と。サービス! 安心して下さい、ジャンは合格ですよ!』
 その台詞の後に、弟の声が聞こえた。



 足音。これも部屋に入ってくる。
『何が安心だ……ジャン、呆れたろう。高松の奴、他人の弱みを握るために、サンタと称して各部屋を回ってチェックしてるんだ。まったく腹黒い男さ。その上、僕に付き合えってうるさくって』
 ベッドの下から、サービスと高松の足が見えた。
『サービスがいてくれれば、後日、仮に問題になっても上手く切り抜けられますからねぇ……って、これは心外な! 私は学生諸君に日頃の感謝の意を込めて、プレゼントを配って回っているだけですよ』
『例の手製の錠剤だろう? 人体実験も大概にしたら』
『さあてジャン、今夜はこれから、あなたにも付き合って貰いますよ! 恋人を連れ込んでいたり、部屋を抜け出していそうな人間は、前もってリストアップしているんです。大部屋で、帰省者が多くて一人部屋状態の所が怪しい……ほら、起きた起きた!』
 この三人は、何だかんだでとても仲が良いのだ。
 常に一緒にいるのだと聞くし、実際に姿を見かけもする。
 その中でジャンは、私といる時とは違い、少し抜けた所のある、お人良しなキャラクターをしているようだった。
 もっとも、こちらの方が本当の彼なのかもしれなかったが。
 いや……サービスと二人でいる時の、あの笑顔の方が……。
『わ、わかったって! 今着替えて行くから。先行っててくれよ』
 そんなジャンに、またサービスの声。
『まったく、とんだクリスマスイヴさ……まあ、眠れなかったから、こういうのもいいけどね……そうだよジャン、お前が付き合ってくれないと、僕ばっかりが、とばっちりを食って不公平だ』
 そう言った弟の靴先は、やけに軽く、嬉しそうに、私には見えた。
 二人の侵入者は、高松のメモか何かを見ながら、これからの計画を喋っている。
 扉から廊下に出ようと、歩き出す。
 隙を見て、ジャンが私に小声で話しかけてきた。
『あの……俺……』
 気まずそうな彼に、私は答える。
『最初に言っただろう。私は退散するよ』



 三人が出て行った後。私は身を起こし、一人ベッドに座って、その他人の部屋で、しばらく部屋の隅を見ていた。
 やっぱり、何もない部屋だと、感じた。
 そして、来た時と同じように、窓から外に出る。
 雪が静かに降り積もり、夜を銀色に輝かせていた。歩くと、さくさくという音がした。
 新雪で、私の足跡の他は、何もない。その美しさと快感と、微かな後悔。
 この足跡も、すぐに埋められていくのだろう。
 手の平を差し出すと、白い粉はあとからあとから私に触れてくる。
 そして溶けていく。
 私の手には、透明な雫ばかりが、残っていく。滴り落ちる。
 結局、雪も、雨と同じ。
 だが、雨の方が冷たいと感じるのは、どうしてだろう。
 夜は深みを増していたが、朝までは遥か遠かった。
 白い雪の中。立ち尽くしたまま、漠然と。
 早く、朝が来ないだろうかと、私は思う。
 いや、朝は来なくてもいいから、早くこの夜が終わって欲しいと願っていた。



 それから私は、軍付設の研究所へと足を向ける。
 その部屋は、常と同じように灯りが煌々とついていて、私はそれを目にし、心ならずも微かに安堵する。
 いつもと同じ顔で、私を出迎えたルーザーは、今夜は泊り込みなのだと言った。
 このところ、ずっとそうなのだという。
 白衣の弟。彼は一つの物事に熱中したら、それしか見えなくなる人間だった。
 外は雪が降ってきたよ、と言ったら、初めて知ったという顔をしていた。
 まあ、彼にしてみれば、雪は寒くて邪魔なだけの、冬の厄介事なのだ。
 気にせず作業を続けるようにと告げてから私は、しばらく、顕微鏡を覗き込んでいる彼の、側に座っていた。
 何をするでもなく、ただ座っている。
 そしてルーザーは、そんな私を気にするでもなく、仕事に没頭している。
 消毒薬の漂う白い部屋に、試験管や液体の乾いた音だけが響く。
 白熱灯の光に、薄い色の金髪が輝いている。横顔。
 私もルーザーも、何も喋らなかった。
 これも、いつもと同じ沈黙だった。
 この研究所だけは、一年を通して、何も変わらない。
 外界と異なり、クリスマスの雰囲気を匂わせるものなど、一つも無かった。
 そしてルーザーも変わらない。
 このすぐ下の弟にとっては、一日とは一年の均等な1/365でしかなく、ただの無味無臭な時間の単位だった。
 私が密かに恐れる、単調な世界が、このルーザーの世界そのもので。
 私は、彼のそんな性格が、時にはもどかしくもあり、時には気楽でもあった。
 今日は、後者の気分だった。



 夜は、なかなか終わろうとはしない。
 暗色の窓の外を眺めてから。私は、ついに、口を開いた。
『ルーザー。私は……間違っているか』
 彼は、手を止める。その白皙の顔が、静かにこちらを振り向く。
 私の目をじっと見つめる。
 この弟にしかできない、名状しがたい表情で、微笑む。
『どうしたんです。兄さん。あなたらしくない』
 そして、またその手が動き出す。作業を続ける。言う。
『あなたがおやりになることは、いつも正しいですよ』
 僕は、常に、そう信じています。
 きっぱりと言い切られて、私は。
 急に眠くなった、少しここで休んで行っていいかと、彼に尋ねてしまう。
『……? ええ……その長椅子でよろしければ。僕はいつも、そこで仮眠をとっているんですよ。肩掛けを被ってね。でも兄さん、お疲れのようですから、家に戻られた方が……戦地から御帰還になったばかりじゃあ、ありませんか』
『いや、いい。少し眠くなっただけだから。お前は気にせず、作業を続けてくれ。ちょっとの間だけだから』
『そうですか?』
『ああ。邪魔してすまないね。おやすみ』
『おやすみなさい、兄さん』
 そうして私は、堅い長椅子で、目を瞑る。
 微かな物音を聞いている。自分ではない人間が生み出す、空気の揺れる音を聞いている。
 弟の香りがする肩掛けが、柔らかかった。



 ……また、雨が降っているのだろうか?
 雪が再び雨に変わったのだろうか?
 降り積もっては溶け、溶けてから降り積もる。
 無益な繰り返し。
 最後には、何も残らない……。
 混濁する意識は、いつしか雨音と混じり合う。
 優しいようにも、囁くようにも、胸に滴り落ちていくのだった。
 そう。
 この年のクリスマスは、雨だった――



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 マジックは目を見開いた。
 世界が二重に揺れ、やがて一重になった。
 自分の指先に力が戻り始める。額を指で押さえ、息をつく。磨り減りそうな心を、何とか支える。
 混乱しそうになる自我同一性。
 そうだ、これが、今の私だ。
 整理しようと、彼は唇を噛む。
 目の前で眠りに落ちかけているのは、過去の自分であって。
 今の私は、こうして亡霊に手を引かれ、この部屋の隅に突っ立っている存在であるはずなのだ。
 過去の影を、眺めているだけの存在。



「……」
 過去の自分と同一化した意識を、やっとのことで引き戻したマジックは、傍らの亡霊を見遣った。
 自分は、過去の自分の行動を追って、始終この存在に引き回されていたのだ。
 相も変わらず、端然と佇んでいる亡霊。
 目の前の、遥か昔の兄弟の姿を、じっと見つめている亡霊。
 研究室の窓を叩く雨音が、少し強くなった。
 長椅子の男が、僅かに身動きしている。
 顕微鏡を覗く男は、一瞬手を止め、それからまた作業を続ける。同じ時間ばかりが、続く。
 そんな光景。失われた光景。
「……お前は」
 それを横目で見ながら、マジックは口を開く。
 自分の側の存在に、語りかけようとする。
 すると、亡霊はそんな自分の先を制するように、静かに呟いた。
「あなたがおやりになることは、いつも正しいですよ」
「お前は……今でも、そう思っているのか……?」



 亡霊は沈黙していた。
 眩い輝き、幽玄の幻、緩やかな透明感を纏い、この世のものではない静かな威圧を醸し出している
 そしてマジックの眼前で、再び亡霊は、その手の内の枝を振る。
 瞬間。反転した世界は、凄惨な戦場へと姿を変える。
 血まみれの岩場。壮絶な力の暴発の跡。大地に、気絶して横たわる弟、サービス。
 そして、黒い目を見開いた形で、座り込む一つの死体。
 ――ジャンの死体。
 その前で言い争う、過去のマジックとルーザー。
 二人の声は、よく聞き取ることができない。
『……今すぐ……こ……から立ち去れ』
『どうして……ですか? サー……のに』
『……赤……は……憎む……一族……で争うこと……は避けろ……』
「いつだって」
 呟く声。
「あなたは正しいんです」



 その台詞と共に、マジックの視界を、黄金色の閃光が貫く。
 亡霊の纏う、輝く上衣が四散して、光の粉になって撒き散らされる。
 白い花びらが舞い散るかのように、闇を照らす。
 その懐かしい面影が、目の前に姿を現す。
 ルーザー。彼岸の彼方の、白い花。
 最後に別れた時の、青年時代のあの日のままで。
「あなたは正しい。いつだって……僕が、この赤の男を殺めた時さえも、あなたが、それをサービスに隠そうとした時さえも……そして」
 繊細なガラス細工のような表情。あの時のままの微笑みを浮かべ、言葉を続ける彼。
「この……僕の最後の時だって。僕はずっと、そう思い続けていた」
 また、光がきらめいて、場面が移り変わる。



 白い荒野だった。
 雪が止め処なく、しんしんと降り続いていた。全てを、埋め尽くしているのだった。
 この現在の亡霊が現れた時に。あの、窓を開け放った時に、最初に見た光景だった。
 自分の手が、無人と変えた大地。
 大量虐殺の跡を覆い隠す、美しい銀の雪。一面の雪。
 そして、彷徨う青い光たち。
 この目の前に立つ亡霊は、その光の群れから、現れた。
 ……自分はずっと。
 この存在は、あの戦場で自分が殺した者なのだろうと……。
 あの戦場。白い雪に包まれた戦場……。
「僕が命を落としたのも、こんな白く美しい戦場でのことでした」
 懐かしい人が、懐かしい声で、懐かしい唇を開いて言う。



 ルーザーが、静かに指で示した先。
 そこには、冷たく凍りかけている一つの死体が、眠るように雪の中にいた。
 その閉じられた瞼の縁や、整った鼻梁や、金色の睫の先が。
 埋もれていく。
 もはや熱を失い、雪を水に変えることのできない身体。
 かつて人間であり、自分の弟として生きた身体。幼い頃から共にあった人。
 天上から降り注ぐ、白いかけらたちは、その、同じくらいに白い肌を消し去っていく。
 まるで、火葬の火の粉が舞い上がり、天まで焦がすように。
 雪の粉は舞い上がり、美しい人の死を悼んでいるかのように見えた。
 彼は、一人きりで死んだ。
 こうして死んでいったのだ。
 誰も、その死の瞬間に、手を握ってやることはなかった。
 諦念だ。
 ここにあるのは諦念だ、とマジックは、その光景を無言で見つめている。
 あきらめの中の、それは孤独な死の姿だった。



「あなたは正しい。そして自ら死を選んだ僕は、間違っています。僕を引き止めたあなたが正しい。そして、最後は僕の死を許可したあなたは、」
 マジックは、傍らの横顔を見遣る。
 その顔は無表情で、彫像のようで、生気がなくて。そして依然として、美しかった。
「正しい」
 そう、ルーザーは初めて自分を正面から見据えてきた。
 雪の世界。
 埋もれた死体はもはや、輪郭すらおぼろげに、そこには最初から何もなかったかのように、白に塗り固められ、消えていた。
 まるで、彼がこの世に存在していたという事実さえも、消し去るように。
 最後には、何も残らない……。
「……」
 沈黙で答えるしかない自分。無人の荒野に、佇む二人。
 全ての命を無に帰すために、雪は、降ることをやめようとはしなかった。



「先程、あなたは『お前は今でも、そう思っているのか』と僕に尋ねましたね」
「……ああ」
 マジックは、自分がこの亡き弟と、自然に言葉を交わしていることに驚く。
 もうすでに自分は、この幻の世界に、夢の世界に、取り込まれているのかもしれなかった。
 亡霊の世界。そこに馴染んでいくということは、自分もまた命を失ったのではないだろうか。
 人は死ぬ時、その人生の走馬灯を見るという。
 もはや自分は、現実世界に戻ることは叶わないのではないだろうか、という疑問が胸を掠めたが。
 それもまた、いいのかもしれないと。この時、マジックは思った。
 それもまた諦念だった。
 雪は降り続いていた。
「僕は……」
 ルーザーの声は続く。弟の声は淡々として、それでいながら重く。
 この雪のように、しんしんと大地に落ちていくのだ。
「僕は、今でもあなたは正しいのだと思っています。ただ……」
「ただ?」
 マジックは、弟に比べて、自分の声は澄んではいない、と感じた。
 弟が、彼の死を最終的に許可した自分を、恨んではいないことには確信があった。彼はそのような人間ではない。
 ルーザーの死を、後悔し続けているのは、マジック自身の方だった。
 そしてサービスに罪を負わせ、その一生を台無しにした。
 明るい正直さが魅力だったハーレムに、真実に対して口を噤むかどうかの選択をさせた。
 二つの命が消えて、二つの命が生まれた。
 様々な現在世界のわだかまりが、全て、ルーザーの死へと結びついていくのだ。
 現在世界の亡霊とでも言うべき存在が、まさにルーザーだった。
 ……いや、そう表現するよりも。
 マジックは、その後悔に囚われる自分が、嫌だった。



「今の僕は、こう思っています。あなたは正しいけれど、ただ……惑う人でもあった……僕は生前……この言い方はおかしいですか? 生前、僕は若すぎて、未熟すぎて、自分自身の役目を果たすことで精一杯で。そんなあなたに気付くことができなかった」
 透き通る表情。
 朝に生まれ、夕に生涯を閉じる、蜻蛉の羽。
「惑う……」
「兄さん。あなたは、つまらないことで後悔しないで下さい。惑わないで下さい。囚われないで下さい。僕は、そんなために死んだのではない。僕はあなたにそれを告げるために、今日ここに来た」
 また、光がきらめく。
 場所が移った。



 見慣れた部屋だった。落ち着いた色の家具、優しい香り。
 ――日本。
 棚にきちんと並べられた人形やぬいぐるみ。
 子供部屋。静かな寝息と、窓から雪灯りの差し込む薄闇。
 小さなベッドだった。
 小さな毛布がかけられていて。ゆっくりと、寝息に合わせて上下するのだった。
 小さなふくらみ。
「……」
 言葉が、出なかった。
 マジックは、自分が、呆然としていることに気付いた。
 見つめていることしかできなくて。
 この光景を永遠に眺めていることができるのなら、元の世界に戻らなくてもいいとまで思った。
 それ程までに、その存在が自分の全てだった。
 傍らに立つルーザーが、その美しい顔をしかめたのが感じ取れた。



 ベッドの脇には、可愛らしい細工のぶら下がった、クリスマスツリーがあった。
 そしてゆるやかに弧を描くヘッドボードの端に。
 ちょこんと吊るされている、靴下。毛布から覗いている黒い髪。
 クリスマス・イヴの夜。
 ……微かに気配がする。
 靴音。
 かちゃりと、ノブが回って。そっと、子供部屋の扉が開く。
 マジックは、振り返らなかった。
 そうせずとも、それが誰かはわかっていた。
 過去の自分が、現れたのだ。



 20代も終りの頃だろうか。
 若々しい顔は、たった今迄あったはずの戦地の名残で、未だ険しい。
 その赤い軍服の肩先に、雪の欠片がついていた。急いで戻って来たのだろう、微かに息が乱れている。
 この頃は……長期遠征が重なった時期でもあった。
 過去の自分は、白い息を一つ吐くと、それでも静かにベッド脇に立った。
 子供を見下ろした。
 その、見つめる瞳。子供に触れずに、ただ見つめるだけの瞳。
 つい先刻まで、その同じ目で人を殺してきたのだろうに。
 マジックは、その過去の自分の目を、眺めることができなかった。
 思わず、顔を逸らす。
 すると、同じように顔を背けたルーザーと、視線が合った。
「どうです、兄さん。ひどいものです」
 亡霊が呟く。
「あなたは、こんなちっぽけな場所で、立ち止まっていい人間ではないのに」
 マジックは、ただ黙っていた。



 しばらくそのままの時間が過ぎて。
 過去の自分は、子供を見つめたまま、立ち尽くしていたが、ふと我に返ったように、踵を返そうとした。
 これから、クリスマスのプレゼントでも持って来ようというのだろう。
 すると毛布の下から、小さな手が伸びてきて、彼の手を、ぎゅっと握った。
『……っ!』
 ぱちん、と軽く音がして。過去の自分は、咄嗟にその手を振り解いてしまう。
 その動作は荒々しく、子供の手は叩き落とされたようにも見えた。
『……?』
 毛布が捲れた。幼い顔が、現れる。
 その黒い瞳が、不思議そうな顔で、その手を拒否した人間を見ている。
『ご、ごめんね、シンちゃん……起きちゃったんだね』
 過去の自分は、自らの反射的な行動に、驚いているようだった。明らかに動揺していた。
『痛かった? パパ、びっくりしちゃって……』
 子供に向かって、必死に説明しようとしている。
『ごめん、パパの手、汚いから』
 彼は、人を殺したままの手で、子供に触れることが嫌だった。
 いつもは肌が剥ける程に洗ってくるのだが、この日はそんな時間はなかったのだ。
 そのままの手だった。



『……どうして、パパ』
 幼い声が響く。
『パパの手、きたなくなんか、ないよ』
 そう黒い瞳が言って、再び、過去の自分の手を取る。小さな手で、しっかりと握った。
 ぱあっと光が零れるように笑う。
『シンタローが、ねてるあいだに……サンタさん、きたんだぁ……』
 そして、そう嬉しそうに子供は言っているから。
 過去の自分は、手を握られたことに加えて、サンタクロースの正体まで知られてしまったのかと。
 どうすればいいのかわからず、ただ戸惑っている。
『パパ、くつしたから、でちゃったの?』
『……? なぁに、シンちゃん、靴下って。パパが出るって、どういう意味?』
 無邪気な声が、愛しかった。
『だってシンタローはね。サンタさんに、プレゼントは、パパがいいって。こころのなかで、おねがい、してたんだよ』
『……』
『サンタさん、おねがい、きいてくれたんだぁ!』



 大人と子供の会話は続いている。子供部屋での、過去の出来事。
 小さなクリスマス。
 それを見つめているマジックに、ルーザーの声が聞こえる。
「兄さん。あなたは惑わされすぎる……」
 瞬間、世界は揺らめいた。
 具体的な光景は消え、裁断され、紡ぎ合わされ、七色に輝き始める。
 異空間の中に、マジックはいた。
 いつの間にか周囲には、まるで回転木馬から眺める景色のように、自分とシンタローが過ごした日々が、流れていく。
 笑ったり、泣いたり、怒ったり、拗ねたり。
 くるくる変わる黒髪の子供の表情が、うねりとなって時間に漂う。
 シンタロー。
 彼は、陶酔するように、名前を呼んだ。
 24年の間、私が心に描き続けた人。
 私が生涯の間で、最も長く側にいた人。
 シンタロー。
 マジックは、その時の奔流の中で、それに見とれるしかないのだ。



 だって、シンタロー。
 お前は、最初から、私に笑いかけてくれたじゃないか。
 その顔は、昔は、お前が生まれる前は、決して心から笑いかけてはくれなかったのに。
 ……違う。
 そんなの、関係ないよ。
 顔なんか、どうでもいいんだ。
 違うんだよ。
 お前が好きなんだよ。
 笑ったり、泣いたり、怒ったり、拗ねたり。一緒に過ごした何でもない日々。
 たくさん喧嘩もしたよ。
 意地悪もしたし、優しくしたり、されなかったりしたよ。
 お前のこと一つで、私は幸せになったり、不幸になったりする。
 その繰り返しさ。
 でも、最後はお前、いつも笑ってくれたから。
 最後はいつも、私は幸せになる。
 何も残らないなんてこと、絶対になかった。
 どんなに繰り返したって、いつも最後には幸せが残る。
 何でもないつまらないことが、お前といると、幸せに変わるんだ。



「シンタロー……」
 マジックの目の前で、歳月は過ぎて行く。
 幼い顔は次第に大人び、少年から青年の顔になり、それでも愛しい同じ顔だった。
 シンちゃん、大きくならないで、なんて。
 そんなこと、さっき、私は言ってしまったけれど。
 嘘だよ。
 どんな姿だって、お前はお前。私の可愛いシンタローだよ。
 大好きさ。私はお前を愛してる。
 でも……お前は……。
 流れる日々は巡り、あの時へと近付く。
 刻々と。あの時の、クリスマスへ。
 血の……。
 シンタロー。
 お前が、私のことを、大好きなんて、言うから。
 私は、その幻が消えてしまわないように、作り事や嘘で、全てを塗り固めようとした。
 青の血のこと、化け物じみた特殊能力のこと、私がやっていること……全て、隠しておきたかったんだ。
 願望の空中楼閣さ。
 愛の幻。それが崩れただけなんだよ。
 ただ、来るべき時が来ただけなんだ。自業自得だよ。
 いつその日が来るんだろうと、ずっと思っていた。
 いつ、この子は、私の手が汚れていることに、気付くのだろうと……。
 もう、手を握ってくれなくなるのだろうと……。



「その日が、来たんですよね」
 冷たく響く声に、マジックは忘我の淵から引き戻される。
 傍らに立つルーザーは彼を見つめ、鬱蒼として微笑んだ。
 その金髪は、眩い光に輝いていた。
「あなたは、惑いから醒めることになる。兄さんは、あんな出来損ないの子供に囚われてはいけません」
「何を……」
「結局、こんな生活や関係は、幻想だったということが、すぐに判明したんですよね。覇王を目指すあなたの、足枷にすぎない」
「……お前は……」
「おわかりでしょう。これが僕の見せる、最後のクリスマスです。完璧な子供を、あなたは手に入れたじゃないですか……!」



 鮮血のクリスマス。
 今、マジックは、血の海の中に立っている。
 この日は12月24日、聖夜だった。
 白い部屋は赤く染まっていた。壁、窓、床。
 そこかしこに、こびり付いているのは、人の肉片だった。
 絶大な力が放出された跡。禍々しい青い力。
 その鮮血の中で、赤ん坊が産声をあげていた。
「完璧な子供を、あなたは手に入れたじゃないですか……!」
 ルーザーが、また耳元で囁く。
「あの出来損ないとは違って、金髪碧眼、両眼秘石眼。僕が追い求めた、最良の青の血族。何が御不満なんですか? 何が悪いというんです?」
 シンタローとの幻想を破り、この子は生まれることによって、自分に現実を突き付けてきたのだった。
 青の呪縛から、逃避しようとしていた自分に。
 青そのものを体現する子、コタロー。
 だが、この子は。
「この子は……コタローは……」
 マジックは、しなだれかかってくる弟を、弱った瞳で見つめた。
 言う。
「だが……この子の精神は、お前そのものだった……」



 世界が、真っ赤に染まった。
 マジックの目の前から、ルーザーの姿が消える。
 凄惨な白い部屋も消える。赤ん坊の姿も消える。
 全ての風景が捨象された無の世界。
 ただ、赤ん坊の泣き声だけが響き渡っている。
 その中で一人、マジックは思う。
 コタロー。
 あの子に出会った時、私はこう感じた。
 私は、いつか、この子に殺される。
 そして、シンタローも、この子に殺される。
 このルーザーと精神を同一にする子供にとって、それはとても簡単なことであるはずだった。
 善悪の区別がつかない上に、暴発する最大級の力を持つ、危険な子。
 仕方のないことだったんだよ。だから、私はコタローを閉じ込めて。
 ……いや。これも逃避か……?
 私は、ただ、あの子の側にはいたくはないから。
 コタローは、ルーザーと似ていて、そして自分とも似ていて……。
 まるで、暴発していく自分自身を見ているようで……
 だから私は……ルーザーの死の時と同じように……。
 正面から受け止めることをせずに……。
 ……。
 止め処ない思考は、いつしか鐘の音となり、空間を揺さぶり出すのだった。
 鐘が……鳴る……。
 赤ん坊の悲痛な泣き声と混じり合い、あの鐘が鳴る……。



「……僕の時間は……終わりかけています……」
 何処からか亡き弟の声がする。
「さようなら、兄さん。僕の時間は終わった……これからは……目を覚まして……その優秀な子供と正しい道を……」
「待て、ルーザー!」
 マジックは叫んだ。
 自分を残して、勝手に自己完結して、去ろうとしていく弟が、許せなかった。
 繋いできた手の空虚感が、寂しかった。
 いつだって、お前はそうだ。いつだって、責任は私に。
 面倒臭いことが大嫌いで、何でも私に押し付ける。
 でも、私は、ずっと……。
 幼い頃は、一緒に、弟たちの面倒をみたいと思い続けてきて……。
 長じてからだって。
 一緒に、お前と一緒に、やりたいことが、たくさんあった!



 優秀だとか。正しいとか。完璧だとか、出来損ないだとか。
 この機械のような思考をする弟が、こだわってきたもの。
 私は、お前を失うまで。それはそういうものなのだろうと、思ってきた。
 一族を支えるためには、歪んだ力であろうと、間違った力であろうと、利用して、強くあるべきだと考えてきた。
 そのためには、誰が死のうと、悲しもうと、傷付こうと。
 仕方のないことだと、諦めていた。
 しかし、ある時、気付いたんだ。
 優秀だとか。正しいとか。完璧だとか、出来損ないだとか。
 それは、幸せと、関係があるのか……?
 私が今迄、選んできた道。その一つ一つ。
 精神に失調をきたし、使い物にならなくなったお前を切り捨てたこと。
 お前を、あの冷たい雪の戦場で、たった一人、寂しく死なせたこと。
 それでも、お前は、私が正しいと言う。
 そのまま進めと言う。
 一言でいい。
 お前の口から、私は間違っていたと言って。
 ルーザー。
「さようなら、兄さん……亡霊としてですが……お会いできて、嬉しかった」
 私を恨んでいると、言って。
「ルーザー……!」



 そう叫んだ時、また大きく鐘の音が響き渡る。
 世界が何重にも滲んで、その輪郭が波のように揺らめいていく。
 黄金色の淡いもや。目の眩む光。
 一瞬だけの強烈な浮遊感。折り返した後の、果てのない沈落感。
 どこまでも、どこまでも。
 ……落ちていく……。
 そして、マジックは再び、静かな寝室に身を横たえている自分に、気が付いた。











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