総帥猫科

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 待ち合わせに現れたシンタローは、少しイライラしているように、マジックには思われた。
 月明かりに照らされて、『待ったかよ』と呟く青年の顔を、眺める。その目元の黒い下睫の生え際が、わずかに薄赤いこと、首筋の産毛が、やや逆立っていることを見てとる。
 マジックは、指を伸ばした。そっとシンタローの頬に触れると、平熱の範囲内ではあるものの、常より少し体温が高いのだと感じた。
 風邪気味なのだろうか。どこかで貰ってきたか。
 ――マジックがシンタローに会うのは、数日振りのことだ。
 総帥であるシンタローは、短期の遠征から帰ってきたばかりだった。
 たった数日会わなかっただけだというのに、マジックは、ひどく懐かしくて青い目を細める。愛しい人の輪郭を、視線で、あまさずなぞる。なぞるだけでは足りず、思わず両手を広げて抱きしめると、彼は抵抗しなかったが、『……人目があるだろ』と小さく言った。
 帰還後の雑務を終えて、急いで本部を出てきたとみえて、シンタローは身に赤い軍服を纏ったままだ。
 夜の風に、羽織った黒いコートが、黒髪と一緒に揺れていた。街中での再会は、やけに新鮮でみずみずしい。
 マジックが腕を解くと、待ち合わせ場所にある犬の銅像をシンタローは撫でて、くしゃん、と一つ、大きなくしゃみをした。



 だから、今夜の食事をキャンセルにして、家で自分が何か温かいものでも作ろうかと、マジックが提案したのに。
 シンタローは、ひどくムキになって、何てことない、平気だと言い張った。
「薬もらってきたから、ちゃんと飲むし。平気。ヘーキ」
 そう言って、率先して歩き出してしまう。
「でも、シンタロー」
 マジックは、その後を追った。特に季節の変わり目は、大事にしておかないと。
 いつもは我がままなマジックだって、シンタローの体のことになると、とたんに良識家になるのだ。
 その過保護振りは、年季が入っている分、相当なものだ。
 なにしろシンタローが士官学校に入る前などは、ちょっと咳をしただけでも、厚着をさせて、もこもこにさせていたマジックなのである。
 今だって、嫌がらないなら、そうしたいぐらいなのだ。いつまでたっても、マジックの中でのシンタローは、子供なのかもしれなかった。
 それに。
「薬って……まさか高松が調合したものじゃないだろうね?」
 くるりと黒髪が振り返り、心外だという風に表情を作った。濃い目の眉毛が、きゅっとつりあがって、可愛い怒り顔になる。
「あのなあ、俺だって、ンなコトぐらい、わかってるっつーの」
 聞けば、軍支給の標準的な錠剤を、医務室で貰ってきたというから、まあ大丈夫だとは思うのだけれど。



 マジックは、歩くシンタローの隣に並んだ。そして肩を寄せて、囁く。
「やっぱり帰ろうよ、シンタロー」
 熱はないにしても、大切な体だから。
 マジックが尚もそう言い募ると、シンタローは舌打ちをする。
 そして口を尖らして、目を逸らしながら言った。
「こ、こーいうの……」
「え?」
「……久々だから……俺、楽しみに……してたんだからよ、いーじゃねえか」
「!」
 しかしすぐに、思わず相手を凝視したマジックに向かって、やけに怖い顔を作ってシンタローは、こう付け加えるのだった。
 楽しみにしてたのは、アンタと出かけるコトじゃなくって。
「食べに行くのが、な!」



 遠征の前にも、繁多な雑務に忙殺されていたシンタローであったし、マジックはマジックで忙しかったから、こうして二人で食事に出かけることは、しばらくなかったことだった。
 二人きりになることのできる時間は、意外に少ない。とても貴重だ。
 歩く二人、小道に入り静けさが周囲を満たし、すれ違う人の数も疎らになり、街灯のともる夜の空。
 繁華街を離れて、緑の多い方へと向かう。馴染みのない街だったが、迷いはしなかった。
 この街で待ち合わせをして食事をすることになったのは、シンタローが、二人の中間地点で会うことを主張したからだ。
 今日のマジックが仕事を終えた地は、そうたいして遠い場所でもなかったから、シンタローを迎えに行くと言ったのに、それは嫌だという。
 この頃のシンタローは、妙に対等であることに拘っているようにも見えて、なんだか面映かった。
 結果として、こうして二人きりで歩くことができたから、それはそれでマジックには、とても嬉しい。
 まるで普通の恋人のようだと思う。リムジンなんかで乗りつけたりせずに、街角で待ち合わせをして、デートなんかするみたいに。
 同居なんかしていない、付き合い始めの新鮮な恋人のように。
 マジックが傍らを、ちらりと見ると、シンタローはすぐにそれを察知して、
「フン」
 と、鼻を鳴らした。すでに肌寒い季節だ。風が冷たい。
「寒くないかい」
「大丈夫だっての」
「じゃあね、このスカーフ、巻いてなさいよ」
「やだって! アンタのなんか、俺に似合わねえし」



 今宵は満月だ。高貴な女王は、神々しいまでの輝きを虚空に放っていた。
 そういえば、あの時も月が出ていた、とマジックは思った。
 白銀を帯びた月の下、二人で喧嘩をしたことがあった。秋の頃である。そして仲直りをした。
 今、視界にあるのは黄金色に満ちた月だが、少し前のことを、やけに懐かしく思い出す。
 あの真夜中の騒動以来、ちょっぴりだけ、シンタローが優しくなったなと感じているマジックである。
 今だって。
「……シンちゃん」
「ム!」
 自分が手を握ると、シンタローはジロリと横目で睨みつけてきて、手を引っ込める素振りを数度するものの、それは素振りだけで、プイと他所を向いて、握らせたままにしておいてくれる。
 これはきっと、他に人通りがないからだけれど。
 暗い道だからだけれど。
 二人っきりだから、だけれど。
 人目を気にする所も、可愛いのだけれど。
 マジックは、静かに思う。
 愛してるから、こっちを向いてくれないかな、シンタロー。照れてる顔、私に見せてよ。
 そして熱い手を、大切な宝物のように、指で撫でた。



 やがて二人の前に、視界が開けた。
 美しい街路樹の先に明かりがともっていて、それが目指す店だとわかる。
 もう少し、二人っきりでいたかったな、という想いを込めて、強くシンタローの手を握ると、相手は今度は本当にその手を引っ込めてしまった。広い車寄せに、人影が見えたからだ。
 マジックが残念そうに肩をすくめると、シンタローは、所在無げに鼻の頭をかいた。そして言い訳のように、
「腹減った」
 と、呟いた。
 この店は、かつてのこの地の勢力者の邸宅を改築したものだという。手入れの行き届いた前庭を従え、重厚な煉瓦造りの三階建てに、ネオロマネスク様式の優美な半円アーチがシルエットを描いている。
 近付く二人を早くも認めて、すでに出迎えに立っていた立派な髭をたくわえた支配人らしき人物が、背後に従えたタキシード姿の男たちと共に、礼をしている。
 店選びに難渋していたマジックに、アメリカの親切な友人が、紹介してくれたのだ。本人も時々お忍びで通っているらしい。なかなかに雰囲気のいい店だという。
 まさか歩いてくるとは思わなかったのか、支配人たちは恐縮しながらも、二人を丁重に迎え入れてくれた。
 玄関ホールではヴェネチアングラスのシャンデリアが色鮮やかに、女神彫刻の施された円柱を照らし出している。
 毛足の長い赤絨毯を踏み、元は大広間なのだろう、白レースのかかった丸テーブルがゆったりと並ぶ一室へと、二人は足を運ぶ。
 先客は数組。淑女紳士が上品に会話を楽しみ、食事をし、控えめなバイオリンの演奏に耳を傾けていた。
 その中に知った顔を見つけて、マジックは会釈をした。某国の閣僚である。
「ったくさー。肩が凝るぜ。次は俺が店を選ぶからな。気を遣わねえようなとこ」
 シンタローが一緒に会釈をしながら、毎度の愚痴をぼそりと呟くのが聞こえた。
 そして次の食事は、シンタローの選ぶ気取らない店になり、その次はマジックが選ぶことになって、こうしたそれなりの店になるのだろう。この五分五分の均衡が、丁度いい。
 マジックは彼に笑いかけた。
「そう? でも落ち着くよ。ああ、夜景が綺麗だ」
 案内された席からは、濃紺にたゆたう夜の河が見え、向こう岸には砂金を散りばめたような街の灯が広がっていた。河岸には深い森が息を潜めている。森に続いて、彫刻像の立つ庭園が視界を彩る。そして空には輝く月。
 広い大窓のガラスは磨き抜かれていたし、その両脇を彩る淡いステンドグラスの造形も見事だ。
 テーブルに並べられた銀食器は、ゆかしい趣を漂わせていて、ウエイター達の挙措には隅々まで礼節が行き届いている。
 マジックは、満足げに溜息をついた。
 そして何よりも目の前には、可愛いシンタローがいる。
 素敵な夜になりそうだった。



 料理も素晴らしかった。メインディッシュは真鴨のローストで、ソースが絶品だった。
 味付けに煩いシンタローもこれには感心したらしく、途中で機嫌伺いに来たシェフに、色々と質問をしていた程だ。
 すっかりいい気持ちになって、流れるバイオリンの旋律に身を浸しながら、マジックは目を瞑って年代物のワインを口に含む。赤い液体は軽やかに舌を抜け、喉を潤していく。
 やがて目を開けるとマジックは、正面で同じ酒を飲む青年に、注意した。
「ねえ、可愛い子ちゃん。お前は風邪気味なんだから、アルコールはほどほどにしときなさいよ」
 いくら体が温まるとはいっても、過ごすと体調には勿論よくないはずである。
「ムッ」
 相手は不満そうな表情をして、『大丈夫だって』と瞬きをした。
「薬だって、さっき肉食った後に飲んだし。まったく、アンタは口うるさ……ハックション!」
「ほら、ご覧」
 やっぱりね、とマジックが言うと、シンタローはますますムキになった。
「大したことないって!」
「いーや、お前は、いつも自分の体のことになると、気を遣わないんだから」
「……ンなことねえ」
「さあ、坊や。今日は、あったかくして寝ようね。デザート食べたら、急いで帰ろう」
「ッ! あのなぁ……ヘックション!」
 普通に諭せば、勿論こうはならない。理にかなったことには、素直に従うシンタローである。
 ただ、こうして子供扱いされると、シンタローがつい反抗したくなる気持ちは、マジックにもわかっている。
 それでも反抗するシンタローの顔が見たい、という病的な嗜好も持ち合わせている身としては、ついつい、からかわずにはいられないのである。
 だって、可愛くて可愛くて、仕方がないんだから。



 確かに美味しいから、シンタローが飲みたがる気持ちもわかるけれど、等と考えながら、マジックはゆっくりとワインを味わった。
 シンタローが、眉を寄せて言ってくる。
「なんだよ、アンタだけ!」
 だから、勿体をつけて答えてみる。
「だってパパは、風邪なんかひいてないもの」
「ずりいんだよ! いっ、一緒にいるんなら、自分も控えるとか、そういう紳士要素はアンタにゃねえのか!」
「んん〜? だってこのワイン、美味しいからねえ。シンちゃん飲めなくって、残念だなあ。それに紳士って言うなら、シンちゃんだって。もっと声を小さくしなきゃ。礼儀に外れちゃうね」
「ぐう〜!」
「フフ。あんまりワガママ言うと、抱っこして連れ帰っちゃうよ」
 相手がいかにも怒りそうな台詞ばかりを選んで口にすると、果たしてシンタローの黒い瞳が燃え上がった。
 マジックの胸が、その目に突き刺されたように、つきんと震える。この目。私は、この目が好き。
 強気な黒曜石の輝き。
 目も好きだが、何とかして自分を言い負かそうと震える唇だって、マジックは勿論のこと愛してやまないのだった。
 私のシンタロー。
 可愛い。愛してる。口付けたい。やわらかく色づいた果実に触れてみたい。
 ほら、今だって。シンタローの唇は。一生懸命に言葉を紡ぎだそうとしている。
 その声は、甘美な響きを帯びて……。
「フ――!」



 一瞬、マジックの心中での、シンタロー礼賛は止まり、ややあって、首をかしげた。
「え。なに、今の」
「はぁ? 俺、なんか言ったかよ?」
 唇をひん曲げて、シンタローは乱暴に答えてくる。
「でもお前、今、フーって」
「なんだよソレ、もう耳まで遠くなったかよ! またアンタは違う話して、誤魔化そうとする!」
 いや、誤魔化してるんじゃないんだけれど。
 聞き間違えだったんだろうか。
 かしげた首を戻して、気を取り直し、マジックはワイングラスに口をつける。
 するとシンタローも対抗するように、テーブルのワイン瓶を掴み、自分のグラスに注ごうとし出した。
「こら。シンちゃん。ダーメ」
 指を伸ばして、彼の頬をつつくマジックに、シンタローは噛み付きそうな表情をした。
「あーもう、アンタはうっせえなあ、シャー!」
「……」
 間を置いて、マジックは聞き返す。
「シャー……?」
「しゃ? ああ、そうそう、しゃらくせえな!」
「ああ、しゃらくせえな、ね。江戸っ子? ねえ、どうして江戸っ子なの、シンちゃんてば」
「どーでもいいだろ」
 そしてシンタローは、ニャア、と溜息をついた。



「……シンちゃん」
 もはや突っ込んでいいのかダメなのかさえも判断がつかず、困ったマジックが、再び手を伸ばす。
 指先が、黒髪に触れる瞬間、
「フニャッ!」
 シンタローが、それを振り払った。
 叫ぶように言う。
「ンニャ――ッ! もーニャンニャンだよッ! 俺は大丈夫ニャって言ってンだニャ!」
「……」
 大丈夫と言いながら、丸めた手で、マジックの伸ばした指を、払ってくるシンタローである。
 まるで猫パンチ。猫じゃらしを追うような、猫パンチ。風を切る音が聞こえる。
「ンニャッ! ンニャニャッ!」
 そしてプンプン怒って――いや、ニャンニャン怒って、と言い換えた方が正確かもしれないシンタローは、
「アンタニャ、もー付き合ってらんニャイニャーッ! ……トイレ行ってくるニャ」
 そう言い捨てて、席を立ってしまった。



「……」
 相手が去ってから。マジックは、思わず周囲を見回した。
 品のよい貴婦人が、さっと目を逸らし、老紳士が空咳をしている。タキシード姿のウエイターが、そ知らぬ風で給仕をしていたが、しかしその額に玉の汗が浮かんでいるのを、マジックの鋭い目は見逃さなかった。
「ええと」
 正面に向き直ると、マジックは脚を組み直し、しばし黙考した。
 世界の未来を憂う男の顔で、エレガントに眉を顰めた。
 どうやらこれは、現実らしい。
 過去、どのような過酷な戦場でも、動じることのなかったマジックではあったが、こんな場合の対処の仕方は、経験がない。
 それとも、これは新手の冗談だろうか。
 自分のことは宇宙規模の棚に上げて、常々、シンタローの洒落のセンスは微妙だと感じていたマジックであったから、これはあり得ることだと思った。
 うん、そうだ。そうに違いない。
 あそこで、私は笑うべきだったのだろうか。
 『フニャッ!』って言われた時。いや、その前の、『シャー!』って言われた時。いやいやその前の、『フー!』まで遡るべきか。
 それとも、『ハハ、シンちゃん、今日はにゃんこプレイがお好みかな』なーんて言っちゃうべきだったんだろうか。
 そしたら運が良ければ、今夜は、にゃんこプレイに持ち込めたかもしれないのに……あっ、ああっ! 私のバカ! バカバカバカッ!
 猫耳シンちゃんがっ! シッポ付きシンちゃんのロマンがっ! あ、首輪は必須だよね。
 うーん、でもでも、今日のシンちゃんは風邪気味だから、そんなコトしちゃったら嫌われちゃうかなー。私は良識家だったはずだよねー。でもしたいなー。ダメかなー。
 だけどシンちゃんの方から、にゃんこのマネしてきたんだからなー。最近のシンちゃんったら、積極的だからなー。私も頑張らないとねー。
 うーん、うーん。
 マジックが真摯な表情で、脳細胞を総動員して思考を重ねていれば、思考はどんどんと欲望方面へと流れていき、そうこうする内に、シンタローがトイレから帰ってきてしまったのである。
 四つんばいで。



「……」
 優雅に流れていたバイオリンの音色が、ブツリと止まり、豪奢な室内は、水を打ったような静寂に包まれた。
 誰かがグラスを取り落としたのだろう、ガラスの割れる音がした。
 全員の視線が、明らかに一点に注がれている。
 ぺた、ぺた、と四本足で絨毯の上を進んでくる、世界最大規模の軍を率いる、ガンマ団総帥に、である。
 マジックが再び周囲を見回すと、それでも客たちは上流階級の人間らしく、全員がさっと目を逸らした。
 ぎこちないながらも音楽が、再開される。さすが超高級レストラン。
 その不自然な雰囲気の中を、悠然と、赤い軍服の青年は四つ足で歩んできたのである。
 そして。
「ンニャッ!」
 ぴょんと、マジックの正面の自席に、飛び乗った。
 何事もなかったかのように、
「ニャンだよ、アンタ。料理進んでニャいじゃニャいかよ」
 なんて言いながら。
「俺が食っちまうニャ?」
 両手をちょんと椅子の前方につき、後方にその両脚をついて――つまりは、猫のお座りポーズで――シンタローは、着席した。



「は、ははは」
 マジックは、にこやかに笑ってみた。なんとなく、そうするしかないと思ったのだ。
「まったくシンちゃんは、お茶目だなあ」
「フニャックション!」
 シンタローはくしゃみをし、右手――いや、右前足の先を丸めて、ペロペロなめている。
 どうやら綺麗好きらしい。
 前足をなめてから、くいくいと顔を擦り、俗に言う『顔を洗う』動作を繰り返している。
「シ、シンちゃん……?」
 マジックが声をかけても、
「ンニャ」
 ちらりと流し目をくれただけで、顔を洗い続けるシンタローである。
 そのうち器用に左足を曲げて、ブーツを履いたままの足先で、胸の辺りを掻きだした。ひどく体がやわらかいのだ。
 しゃかしゃかしゃか!
 足先を小刻みに震わせて、すっかり猫の仕草である。
「シン……」
 今度は救いを求めるように手を伸ばし、電流に打たれたように、マジックはある一つのことに気付いた。
 太股を広げ、なんだか気持ちよさそうに目を細めて、足で痒い所を掻いているシンタロー。
 こっ、この体勢はッ!!!
 エロい!



 ゴクリと唾を飲み込む。
 何が何だかわからないが、ひとまず、目の前のシンタローの姿に見入ってしまうマジックであるのだった。
 色々と考えなければならないことはあるのに、欲望に流されてしまう自分が、憎い。
 悲しいことに、シンタローのエロい仕草を見れば、まずはそれを堪能しなくてはならないように、マジックの仕組みはできていた。体が言うことを聞かない。
 ああ、シンちゃん。私を金縛りにさせちゃうのは、お前だけ。
 あっ、そんな、あられもなく足を上げちゃって! あああっ、そんなはしたない! はしたないよっ、シンちゃん!
 うーん、でも欲を言えば、服を着てるのがなー。丸見えなのになー。裸でやってくれたらなー。見たいなー。ダメかなー。
 って、コラ! マジック! 何を考えちゃってるんだ!
 いや、あえてここはチラリズムで、下だけ脱いで、軍服の上着だけで、この体勢を……って、負けるな、マジック! 考えちゃダメ!
 てか、この猫のポーズは、果たしてシンちゃんの冗談なのか、それとも本気なのか!
 これが猫プレイのお誘いだったら、ノってあげなかったら、私は千載一遇のチャンスを無にしてしまうことになる!
 クッ、考えたいが、あいにくこのエロいポーズがっ! エロいポーズが私の思考の邪魔をする!
 戦場に立って苦節ン十年、ここまで私を苦しめた強大な敵は、ほとんどいなかったよ、シンちゃん! 恐るべし!
 やめて! 早くシンちゃん、そのポーズ、やめてっ!
 いや、やめないで! やめないで、シンちゃん!
 ああ……自分で自分が、わからない……。
「ンナーウ」
 掻くだけ掻いて満足したらしいシンタローは、ぱたん、と足を下に降ろしてしまった。
 思わず身を乗り出していたマジックも、ほう、と息をついて、着席する。
「……フッ」
 額の汗をぬぐって、マジックは自嘲気味に笑った。
 そして思った。
 ――あ〜、カワイかった……。



 と、頃合を見計らったのか、カタカタと腕を震わせながらではあったが、ウエイターがデザートを運んできた。
 さすがにプロフェッショナルだけあって、顔は接客用に保っているものの、身体の統制はなかなかに難しいらしい。
 確かに猫ごっこ(?)は、20代も後半の立派な青年がやることではない。しかも歴戦のガンマ団総帥が。192センチの男前が。
「はは、少々、酒を過ごしてしまったようでね」
 爽やかにマジックが言うと、ウエイターは頑張って頬の筋肉を動かして、笑顔を作った。何とか答える。
「さ、さようでございますか」
「ウニャ」
 マジック自身のことを言っているとでも思ったのであろうか、シンタローの合いの手が聞こえた。
 並べられた彩も鮮やかな皿は、洋梨のコンポートスープで、脇にシャーベットが添えられている。
 マジックも、シンタローに笑顔を向ける。
「さ、食べよっか、シンちゃん」
「ニャア」
 ちゃんと返事をしたシンタローは、スプーンを手に取るのかと思いきや、バン! と両手を皿の脇につく。
 そして背を丸め、直にピチャピチャと、なめ始めた。
 マジックも、静かにデザートスープを食する。
 上品な味わいで、甘さも控えめだ。うん、この隠し味は紹興酒……? なんて思いながら、目の前の光景を観察している。
「ええっと」
 無心にスープをなめる、シンタローのその表情。赤い舌。頬に甘い汁が飛んでいる。
 再びあらぬ連想が及んで、ちょっと変な気分になったマジックであったが、いけない、いけない、とかぶりを振った。
 ストップ、私! ダメ、絶対!
 まずは、この現象の謎を解く方が、先なのである。



 とりあえず、またテーブルの向こうに腕を伸ばして、シンタローの黒髪を撫で撫でしてみた。
「ンニャッ」
 うるさそうにシンタローは、頭を伏せた。あまり体にベタベタ触られるのは、お気に召さないらしい。
 うーん、ええと。
 私は、この子をどうしよう。
「……シンちゃん。本気なの?」
 そう囁いてみたマジックはハンカチを取り出して、手早く折り、器用にネズミの形を作った。
 そしてテーブルの縁から、指でかさこそと震わせて、白いテーブルクロスの上を走らせる。
「!」
 果たして、びくっとシンタローの肩が震えた。反応している。
 獲物を狙う野生の目つきになった黒い目が、マジックの指先のネズミを油断なく追っている。
 皿の間をネズミが通り過ぎた時、矢のように鋭いシンタローの猫パンチが伸びた。
「ニャニャッ!」
 しかし間一髪で、マジックの指の方が早く、ネズミは皿の間の道を、無事に通り抜けてしまう。
「フギャ――――ッ!」
 好奇心が腹立ちに変わったらしいシンタローが、黒髪を逆立てて怒り出す。
 今度は丸めた両手を使って、懸命にネズミを追い始める。



 シンタローがネズミを捕まえようとする度に、バン、バン、とテーブルが揺れ、クロスは乱れ、燭台も倒れ、花瓶までもがカランと転げて辺りを濡らし、なんだかとても酷い有様になってしまったのである。
「ンニャッ! ンニャァッ!」
 必死なシンタローを見つめつつ、片手でネズミを動かしながらマジックは思った。
 このままでは、テーブルごと引っくり返ってしまう。
 椅子に両足で立って、半腰になり、柔軟な上半身を使ってネズミを捕らえようとしているシンタローは、紛れもなく真剣だった。
 マジックは、そのことを見極めると、
「そぉ〜ら、シンちゃん。高い高〜い」
 ぽーんと、ネズミを天井に向かって投げ上げる。
 すると、席からシンタローが、びよ〜んと跳躍した。
「ンニャ――ッ!」
 大広間にどよめきが起こる。
 空中で、サッとネズミを口でキャッチし、咥えたシンタローは、一回転して見事に絨毯に着地する。
 そして、床に丸くなり、嬉しげに手と口で、ネズミをもてあそび始めた。



「……とりあえず、シンちゃんは、私に猫プレイを仕掛けてきているのではない、ということがわかった」
 ニャアニャア戯れているシンタローを前に、慎重派のマジックなのである。
 後に、シンタローを救うために目指す島に辿り着いた時でさえ、急ぐハーレムに比して、慎重さを貫いたマジックである。
 シンタローが猫になったとて、その姿勢は変わることはなかった。
 考え込んでいるマジックの側で、シンタローはハンカチをすっかり解体してしまい、飽いたのか、また自席に戻って、ちょこんとお座りをした。
「クーア」
 あくびをしている。
「……」
 マジックは、乱れたテーブルの上を、眺めた。
 デザートは食べたことだし。食後のコーヒーは……たぶん猫舌だから、シンタローは飲めないんじゃないかなあ。
 そう冷静に判断を下すと、マジックはシンタローに笑いかけた。
「シンちゃん、とりあえず、帰ろっか」
「ンナーウ」
 いや、いや、という風に、シンタローは首を振る。
 デザートが気に入っていたらしく、すでに空っぽになった皿を、名残惜しそうになめている。



「……それじゃ」
 パチリ、と指を鳴らして、マジックは、もはやロボット歩きをしている給仕を呼びつけ、『もう一皿頼む』と命じる。
 するとなんだかシンタローは、キラキラと目を輝かせた。
 どうやら普段のシンタローより、本能に素直に従っているようだった。
 マジックの指先は震えた。冷や汗が額をつたう。
 くっ! カワイイ!
 つい条件反射で、100皿ぐらい追加を頼みそうになって、何とか思いとどまったマジックである。



 ハッ!
 そして、あることに気付いたマジックの脳髄に、衝撃が駆け抜ける。彼は、拳を握り締めた。
 普段よりも、本能に従うシンタローとな!
 まさかっ、まさかぁ! アッチの本能もッ! 夜の本能もォォッ!!!
 しかしここで、彼は、はたと思いとどまる。ワナワナと肩を震わせる。
 目の前のシンタローは、『ンニャ』と首を傾げていた。長い黒髪が垂れていた。
 マジックは苦しげに唇を噛み締める。
 ぐううっ! 愛らしい!
 なんといってもマジックは変態の気があったから、こういうのは大好きなのである。
 なにせ四半世紀以上も(マジックの認識)連れ添った恋人であったから、普段とは一風変わったプレイなんかには、それはもう目がないのである。
 いつもは相手の機嫌をとってとりまくって、半ば玉砕しながらも、ねだってねだりまくって、やっと実現するようなシチュエーションなのだ。
 それが今。自ら手を煩わせずとも、シンタローの方から、鴨がネギしょってやってきたのである。
 マジックは、欲望の点においては、勝利の雄たけびをあげたいぐらいの心地であった。
 我がシンタロー人生に悔いなし!
 でっ、でもでもでも! でもでもでもッ!!!
 彼は壮絶な誘惑に耐えながら、理性の点において、再び先日の事件を思い出したのだった。



 ……真夜中の事件といえば。
 何故だかはわからないが(あれが私の深層心理なんて御免こうむる!)、マジックが日本酒を飲んで、別の人格になってしまった事件なのである。
 同じように。
 ひょっとすると、シンタローも何かの作用で、冗談などではなく、本気でこうなってしまったのではないか?
 この店に入り、席に着き、料理を食べている頃までは、普通だったはずだ。マジックは、記憶を手繰り寄せる。
 ワインは年代物とはいえ、普段飲んでいるようなもので、さして珍しいものではないし。
 薬は、わざわざ医務室で一般的なものを持ってきたというし。
 頭は打ってはいないようだし。
 ――何が、原因なのだろうか。



 考え込んでいたマジックは、ふと、シンタローの様子がおかしいことに気付いた。
 おかしいといえば、もう十分におかしいのであるが、彼は椅子の上でお座りをしたまま、大窓の外を見ている。
「……シンタロー?」
 マジックが声をかけても、振り向きもしない。
 大窓の外には、煌々と黄金色の満月が輝いているのだった。
 まるで魅入られたように、月を見上げているシンタローである。
「ナ――ウ」
 シンタローが、高く鳴いた。
 その瞬間、まばゆい光にシンタローが包まれたように、マジックの目には映ったのである。
 繭のように薄い輝きの皮膜が、その黒髪を、横顔を、身体を覆っていた。
「……?」
 異変を感じて、思わず席を立ち上がったマジックの眼前で、シンタローの影が動く。
 ゆらめいた。
 月光に照らされて、その輪郭は妖しく蠢く。何か魔法の力が彼に取り憑いたようにも見える。
 人間であった輪郭から、猫に近い輪郭へと、影は形を変え――。
「シンタロー!」



 ガッシャァ――――ンッ!!!
 大窓が粉々に砕け散った。
 銀色の欠片を散らしながら、長い黒髪と長いシッポをたなびかせ、シンタローは外へと飛び出した。







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