総帥猫科

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 この異変に、大広間全体が凍りついた。
 だが最初に動いたのは、やはりマジックだった。
 彼は、シンタローとは逆方向に走り、『失礼』とクロークのカウンターの中に入って、預けておいたシンタローのコートを勝手に取り出し、凝固している係りの者の前に、チップを置いて再び戻り――この間、数十秒。
「シンタロー!」
 マジックは、割れたガラスの大穴から、後を追って飛び降りた。
 人々は呆然として、この二人を見送っているだけだった。



「……」
 冷たい夜の風が、頬に触れる。空には満月。近付く冬の色をしている。
 二階から、庭園に着地したマジックが視界の先に目にしたものは、飛び跳ねていく黒い影だった。
 影は、邸宅の背後に広がっている、森の中へと消えた。
 川を越えて、街の方へ向かわなかったのは、不幸中の幸いだ。
 何が起こったのかは不明だが、とにかく今は、シンタローを探すことが先決だった。
 だって、あの子は風邪をひいているんだから。
 早くコートを着せてやらないと。
 あったかくして、寝かしつけないと。
 マジックは、森へ向かった。



 そして、この事態を把握しておく必要があるのだ。
 森に向かって歩き出すと同時に、マジックは携帯電話を取り出し、ある人物との連絡を試みる。
 あまり気は進まなかったが、そうも言ってはいられない。こんな時に家族がつい思い至ってしまうのが、この男なのである。
 数度のコールの後、繋がった気配に、マジックは口を開く。
「私だが」
『フフ……マジック様を使おうたって、そうはいきませんよ』
 地を這うような一族専属医師の声が、聞こえてきた。



『マジック様……隠されたって無駄ですよ? 私には、ちゃあんとわかっておりますから! お二人に頼まれたんですよねえ?』
 いきなり言葉で詰め寄られ、窮するマジックであった。
 だから、今の高松と話すのは嫌だったのだ。
 電話口に、フフ、フフ、と相手の笑い声が漏れている。
『グンマ様、キンタロー様、お二人はマジック様の後ろにいらっしゃるんでしょう? そしてこの会話を聞いてらっしゃるのですよね?』
「……高松」
『そうですよねええ! グンマ様、キンタロー様! あなた方に言っておきますがね! 私は帰る気なんかありませんよ? ただどうしても、どうしてもというならっ! お二人で可愛くおねだりして下さるのならっ! ええ、ええ、そんなに私が必要でしたらっ! 私の存在が、どぉーんなにお二人にとって重要かということが、おわかりでしたらッ』
「高松。私には時間がない。緊急事態だ」
『いいえ、いいえ、隠されたってこの高松にはわかると言ったでしょうッ! 見えておりますよ! ああ見えますよ、はっきりと! お二人の<高松、ゴメンネ>っていう、うるうるした瞳をッ! その瞳に浮かぶ後悔の涙をををッッッ!!!』
「私の話を聞け――――ッ!!!」
 グンマとキンタローの、一人でできるもん宣言を受けて、ただいま別居中(というのだろうか?)の高松である。
 マジックと高松との間に、やっと意志の疎通が行われたのは、マジックが森に分け入ってからのことだった。



 森は、暗い。
 鬱蒼とした樹木が生い茂り、葉のざわめきでマジックを迎えた。
 おそらく昼間は木漏れ日が差し込んで、それなりの散歩道になるのだろうが、闇に包まれた今は迷路のように見える。
 繁華街からいくらも離れていない場所に位置し、近くを流れる川の岸辺には、ゆったりとした間隔で上品な店が立ち並んでいたりはするのであるが、それでもこの広大な敷地と樹木の数を見れば、森ということのできる風格がある。
 中世の魔女や亡霊といった人ならざる者たちが跋扈する魔の領域。そんな時代錯誤に陥りそうな妖しい気配に満ちている。
 これはこれで厄介な場所に飛び込んだものだと、短めの下草を掠めて、マジックは森に足を踏み入れる。どこからか野鳥の羽の音がする。
 耳元では高松が、心外だと声をあげている。
『ですから、私が何をしたというんです?』
「医務室の薬に何を仕込んだのだと聞いている」
 高松と話をする時は、まずこの地点から話を始めた方が早いことが多い。この男には、何かを『やった』という前提から出発させるのが順当であるとマジックは考えている。
 軍支給の標準的な錠剤を、医務室からシンタローが持ち出して、それを飲んだということは、高松に嫌疑をかけるに十分すぎるほどの材料であった。
 なにしろこの男には、無数の前科があるのだ。自分の総帥時代に、上までのぼってきた苦情だけで何百件あるだろうか。揉み消されたものは、もっと多いだろう。
『仕込んだとは人聞きの悪い。で、何が起きたんでしたっけ』
「くっ……お前、今まで私の話を何も聞いてなかったのか!」
『グンマ様とキンタロー様が、私のことを心配されていたということは伺いましたが。あとお昼寝中の<高松大好き>っていうお二人の寝言を、マジック様が偶然耳にされたという和みエピソードは、しかと』
「そんなことは、ひとっことも、言っとら――んっ!」
 さっきからあんなに説明しているのに、とマジックは肩を落とした。
 ああもう、ほんとに。うちのミドル共ときたら。



 シンタローが、なんだかニャンニャン言っている。月を見てたら猫耳が生えた。シッポまで生えた。興奮して飛び出していった。
 これらのことを、マジックは再び説明すると、
『ああ、ああ、マジック様もお盛んですね。プレイにも熱が。私特製のスペシャルドリンクなんかどうですか、ただしお高いですが』
「ちが――うっ! いつもはそうかもしれないけど、今回は違――う!」
 普段の素行が悪いのはマジックも同じであったので、なかなか話が進まない。
 だが、シンタローが猫化してしまったのは、遊びではなく本気らしい。
 その原因を知りたいのだ、とマジックがなんとか伝えると、相手は急に押し黙った。
 沈黙が降りた。風が森の木々を揺らす音だけが、響いている。



『多少、バイオ方面の話をさせて頂いてもよろしいですかね』
 高松が重い声で話し始めたのは、しばらくしてからのことだった。
『遺伝子とは歴史の記録帳のようなもので。例えば一般の人間の遺伝情報を解析すれば、進化の過程、つまりヒトと猿とがいつ分岐したのか等を読み取ることも可能なのです』
 何の話かと思えば、とマジックは、声を荒げた。今はそんな講釈を聞いているほど暇ではない。
「一般論はいい。私はシンタローの話をしているんだッ」
『ああもう、二人して、せっかちですねえ。前にシンタロー総帥が、貴方のことを私に尋ねられた時もそうでした……いいですか、私はマジック様の記憶を喚起しているのですよ。覚えておられますか、私がシンタロー総帥の遺伝子情報について、ご報告した時のことを』
 高松が言い、マジックは記憶に想いを浸す。そんなこともあった。
 確かにこの男には、自分の現役時代から、青の一族の研究を行わせており、そしてそれは今も続いている。
 だから現在も、研究成果の定例報告は受けていた。
 軍の表舞台を取り仕切るシンタローに対し、マジックはこうした裏の、自身が一族の長としてやらせていた仕事は、引き続いて取り仕切っていたのである。
 あの南国の島を経て、自分がこの男に、特に力を入れさせていたのは――。
『一族とは異なり、番人の身体はさらに特殊であると、申し上げました』
「……」
 一族の研究に加えて、番人の研究である。
 秘石がその祖先を作ったものの、後は繁殖によって生み出されてきた青の一族と、直接に秘石が作り出した番人とは、ゲノムの点において、構造を異にするのだと。
 研究をさせて間もない頃に、そう聞いた記憶はある。
『シンタロー総帥は、現在、赤の番人であったジャンの身体を使用されていますね』
「……ああ」
 少し間を置いて、マジックは言った。



『私の勝手な推量の部分が大きいですから、正式な報告を控えていたのですが……いずれ、確実な証拠が見つかってから、お話しするつもりでした』
「待て。シンタローの体に何か問題でもあるのか!」
 マジックの声が、鋭さを帯びた。
 自らの声で自らをえぐったように、ずきりと胸が痛んだ。
 翻弄される運命の中で、かつて自分は、シンタローの精神が、青の番人の影であることを知った。その時と同じ胸の痛みが、今、マジックの胸を刺す。
 シンタローの精神は青のものであり、その身体は、過去に赤の番人であったジャンのものである。
 青と赤の番人が交錯する一点に存在しているのが、現在のシンタローという存在で、考えれば考えるほどに危ういバランスの元で、彼は生きているのではないかと、マジックには思われてならない。
 マジックはその混濁が、シンタロー自身に何か悪影響を及ぼすのではないかと不安になっていたのだ。
 番人の身体を研究させていたのは、その不安からだ。
 シンタロー自身とは何か――勿論、それは心であり、体であるのだけれど。
 二十数年の長きに渡って側にあった、私の『シンタロー』。その日々。声。笑顔。思い出の集積体。
 とても言葉には尽くすことのできない、愛しさでできた心の塊が、マジックにとってのシンタローという存在であった。
 失えば、自分は気が狂うだろう。
 そのシンタローの身に、何が起こったというのか。
 夜の中で、マジックは苦しげに呟いた。
 愛する人が影に過ぎないのだと宣告された、あの時と同じように。
「シンタロー……」



 かつてこんなことがありました、と。
『お話させてください。あれはハロウィンの夜、その日も満月でした……』
 高松は、語り始めた。
 彼の士官学校時代の出来事だという。
 卒業も間近という頃である。遠隔地の占領国で模擬戦闘訓練を行った後、その打ち上げを寮で三人――高松、サービス、ジャン――で、したのだという。
 打ち上げといっても学生のことであるから、安くてなるべくアルコール度数の高い酒、売店のつまみ等を並べ、豪華なのは話のタネだけという風で、寮の一室で飲み交わしていた時のことである。
 まず、訓練地で風邪を貰ってきたらしいジャンが、やけに、くしゃみを繰り返していた。
 高松がさりげなく風邪薬を飲ませた。
 そしてジャンがトイレに行き、帰ってきた時には……。
『あの男、犬になってたんです』
「なんだと――っ!」
 マジックが大声を出したものだから、草むらの虫の音がぴたりと止まった。まったく虫たちも災難である。



『いやね、その前からジャンは、<くうんくうん>とかサービスに寄っていては、<キャウンキャウン!>と足蹴にされていたりはしたんですが、まあいつものコトだと思って、さして気に止めてはいなかったのですよね〜』
 ふっふー、と昔を思い出したのか、楽しげに高松の声が踊っている。
『でもね、トイレから四つんばいで帰ってきて、部屋の窓からジャンが月を見た途端、むくむくと耳とシッポが生えてきましてね!』
「なにッ! 詳しく話しなさい!」
 マジックは、電話口で詰め寄る。
 猫になるか、犬になるかが違うものの、シンタローの状況とまるで同じである。
『いや〜〜、ゾクゾクしましたねぇ。研究者の性ですかねえ、特異体質には目がない私ですからッ! これはもうどうにかして原因を追究したいと好奇心に胸打ち震え』
「や、それはいい。お前の興奮はどうでもいい……って! やっぱりお前の薬が原因なんじゃないのか、高松!」
『ですから違いますって。その時も、今回と似たような一般的な成分のものだったんですよ。仕込みの時間がなくって』
 言い訳にならない言い訳をした高松は、シンタロー総帥は飛び出してしまわれたそうですが、と話を続ける。
『まあジャンの場合は犬でしたから、飛び出していくようなこともなく、しかもえらく従順な犬でしてね! サービスの足元に、伏せをして、命令を待ってましたよー。いや面白かったですねえ』
「面白いで済むかぁっ!」
『まあ私もサービスもその時は、相当酔ってましたからね? ジャン犬を庭に連れ出して、芸を仕込んだり、物を取って来させたり、フリスビーをさせたり、障害物競走で走らせたり……』
「異常事態に、そんな接し方をするお前たちは何なんだ――!」
『若いって恐ろしいですねえ。つい調子に乗って。私なんかより、一番イキイキしていたのはサービスでしたが。女王の顔をしてました。いや懐かしい。つい昔話に浸ってしまいました』



 コホン、と高松が咳をする音が聞こえた。
『今でもサービスが、時々ジャンの散歩をしているのは、その名残です』
「あいつらのプレイの内容など、私は知ら――んっ!」
 はー、はー、と肩で息をついて、マジックは疲労を感じた。いつもはツッコミ慣れてないために、さすがに連続すると体が違和感を覚えるのである。
 ああ、シンちゃ〜ん。はやく元に戻って、パパにツッコんで! ま、ベッドでは逆だけど!
 パパ、眼魔砲が撃てないこの状況で、高松とお喋りするの、ツライよっ!
 心でそんな弱音を吐きながら、マジックは低い声で高松の饒舌を遮った。
「……重要なことを聞きたい。ジャンが元に戻ったのは、いつなのだ」



『え? ああ、犬の訓練疲れで、我々と一匹で部屋にぐったりゴロ寝して、朝になったら、いつの間にか戻ってましたよ』
 あっさりと高松は言い、残念そうに嘆息した。
『そうとわかってたら、早めに手術台に乗せておくべきでした! ああ今考えても、残念無念……おそらく直前に飲ませた風邪薬の持続時間と関係してたんでしょう。8時間ぐらいだったんですねえ……』
「やはり薬のせいじゃないか!」
『ですから! 薬はあくまで標準的なもので、それだけのせいではありません。様々な偶然が積み重なって、影響を及ぼしたのでしょう。今思えば……』
 特殊な番人の身体であること。
 アルコール。
 特定の地方に土着した特殊ウイルス。
 薬――NSAIDs、つまり比較的、遺伝子への危険因子性が高いと言われている非ステロイド性抗炎症薬の成分の影響。
 そして満月。
『人体に月が与える影響というのは、実はまだ解明されてはいないのです。ただ、その引力で潮の満ち引きを行うように、地球とそこに住む生物に、大きな影響を与えていることは歴然とした事実なのですよ。たとえば細菌などの原核生物から我々高等哺乳類に至るまで、月の周期リズムで体内時計が構成されている。人に限ってみても、太古の昔より、特に満月は何故か心を騒がせる。現代においても、満月の夜には犯罪・事故の発生率は高く、地震といった天災が起こることも多く、さらには新生児が最も多く生まれる時でもあります』
 今宵も満月だった。
 マジックは、夜空を見上げた。木々の狭間から、黄金色の輝きを零れ落としてくる満月。
『あとは、何らかの精神的な興奮ですね。精神的因子も考えられる。ジャンの場合はサービスが側にいたということで、まー、相変わらずときめいてたんでしょうネ! 熱い熱い』
「ほう」
『その様々な因子が相互に影響し合い、彼らの番人の遺伝子に眠る情報を引き出すトリガーになったのではないかというのが、私の考えです』
 高松の声が、響いた。



「遺伝子に眠る情報……シンタローとジャンに眠る情報ということか?」
『その通りです』
 そして高松は、とんでもないことを言い出した。
 どうも、私がジャンから採取した遺伝子情報を調べるに。
『赤の玉って、番人を、はじめは人間としてではなく、犬として作ろうとしたみたいなんですよねえ』
「なにイィィッ!!!」
『つまり、番犬』
 先刻、遺伝情報を解析すれば、進化の過程、つまりヒトと猿とがいつ分岐したのか等がわかると申し上げましたよね、と高松は言い、
『いやあ、ジャンの遺伝子解析をすると、どうもその根っこの方は、犬みたいなんですよねえ。その後に秘石は思い直して、人型にした。だからジャンが犬になったのは、偶然の危険因子が折り重なって、その初期モデルが一部出ちゃったみたいなんですよ〜 耳とシッポに! 先祖返りってやつですね、はっはっは――』
 と明るく笑った。
『最初は門の番犬だったんですネ
「……」
 マジックは、脱力して、森の中で膝を折った。
 犬って! だからジャン犬っていうのかぁ――! 
 そういえば、あの犬扱い! そんな秘密があったとは!
 知らなかった――!
『当時は、卒業間近のことだったので、そんなにジャンの体を調べることができなかったのですが……その後すぐに、あの男、戦死、ということになりましたからねえ。当時の本人にとっても、調べられるのは避けたいことだったんじゃないですか。ですが、ねえ……』
 ニヤリと笑う気配がした。
『今は、ね……その分。マジック様から、番人の身体を分析するよう命令も受けてますしね――! いやあ、大手を振って、ジャンで人体実験できるという訳ですよ! はっはっは! いえ、経費から対価は渡してますよ? ジャンは、いつまで経っても貧乏ですからねえ。ま! サービスに貢ぐ金はいくらあっても足りるもんじゃないですから。お互いの利益が一致したってヤツですネ。正々堂々と、ちょっとヤバげなコトも……』
「……」



 なんだか、ちょっと、ヤになった。
 このミドルたちの間には、ちょっと関りたくない世界が渦巻いている。
 まあいい。まあいい。こっちに害が及ばなければ。
 私が今、気になるのは、このことなのだから。
「シンタローの場合は……」
 マジックは、力なく聞いてみる。
 高松は、そらきた! という勢いだ。水を得た魚である。
『あ、これが推測なんですがね! シンタロー総帥の場合は、青の番人の精神が、身体に影響を及ぼしてる訳ですよね! 赤の玉に何でも対抗したがりの青の玉は、きっと猫、犬に対抗して猫を作ったんでしょうねー! 赤の番犬に対抗して、番猫だったんですよ! いや興味深い。太古の昔から、赤と青の対決はこんな形で続けられていたんですね!』
「……」
『しかしどっちもフェチですよね〜 青の玉は、金髪碧眼の男性のみで一族を作り、門の番をするのは猫! 赤の玉は黒髪黒目の……』
 イキイキしている高松は、まだ話し続けている。
 なんだか、あんまり聞きたくない話だった。
 秘石って。秘石って。秘石のヤツって。
 『秘石と私』に、こんなエピソード載せなくて良かった。
 なんでこう、秘石たちのバカバカしい気まぐれの余波が、いつも自分たちに。割りを食うのは、自分たちなのである。
 マジックは、心の中で叫んだ。
 とりあえず。こんな運命に翻弄されるシンちゃんが、かわいそう。
 猫になっちゃったのが、かわいそう。
 こんな寒い空の下で!
 シンちゃ――ん。
 シンちゃぁ――んっ! ドコ行っちゃったの――!!!



「8時間……とりあえず、薬の持続時間さえ切れれば、ジャンの例からして、シンタローは元に戻る訳だな」
 ぽつりとマジックが呟くと、高松は、おそらくはそうでしょう、と答える。
『いやしかし! これでジャンに続いて二例目とは、いっそう危険因子の特定が進みますねえ! そうですか、赤の犬ではなく、青の猫が出ましたか! これは実に興味深い! シンタロー総帥の身体には、まだ不明な点が多すぎるんです。ジャンと違って、直になかなか調べさせてくれないですし! 遺伝子解析の時点では、犬ではないなというのは感じてたんですがね? ああ、後で総帥が摂取した食事リストを作らせて、私に下さい。遠征地は確か、N国でしたねえ、あそこの風土病を調べてみなければ……』
 答えず、マジックは言った。
「それさえわかれば、今はいい。邪魔をした。知識の提供には礼を言う」
『あっあっあっ! 待ってくださいっ! 私が今からそちらに向かいます! 調べさせてくださいっ! 私が! 私がこの手でっ!』
「ダメ。お前は来るな」
 ブツリ、と電話を切り、マジックは満月に向かって溜息をついた。
 マッドサイエンティスト高松の手からもシンタローを守らなければいけないハメに陥ると、事態は一層ややこしくなるのである。
 そして思い直し、再び携帯を取り、秘書に連絡をする。
 大至急で本部から、人員と指定の道具を運んでくるように命じた。
 8時間なんて、待てるものか。今からだと、朝方になってしまうではないか。
 風邪をひいているのだから、それまで外にいたら、熱を出してしまうよ。
 大切なあの子は、あったかくして寝かしつけなくてはいけないのだから。
「シンタロー……」
 マジックは、シンタローの残したコートを、握り締めた。
 大作戦を決行するしかないようである。



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「シンタロー!」
 いくら呼んでも、森のざわめきばかりが答えを返す。
 木々は、夜空を支えるようにその枝を伸ばし、または諸手をあげてそこに佇む女王を賛美しているようにも見えた。
 黄金の月。その無情な顔。
 冴え冴えとした冷たい光。静かな濃淡を夜に落とす。
「シンちゃーん! 出ておいで――!」
 視線を周囲に配り、マジックはシンタローの姿を探す。
 動くものがあれば目を凝らしたが、それは飛び立つ鳥であったり、夜行性の小動物であったりした。
 探しても探しても、シンタローは見つからない。



 道脇の茂みを覗き込んでみたり、大木のうろの中を確かめてみたりする。
 焦茶色の背をしたリスが、飛び出していく。
「……」
 マジックは、溜息をついた。
 一体あの子は、どこにいるのだろう。
 寒くて震えてはいないだろうかと心配になる。
 くしゃみを随分としていたのだし。
 後悔の念が脳裏に過ぎる。思う。
 ああ、待ち合わせの場所で風邪気味だと気付いた時点で、私が強引にでも連れ帰るべきだった。
 そう考えると、一層のこと風の冷たさが感じられて、マジックは自分の腕を所在無くさすった。
 そのまま、歩く。自分の足音が響く。
 シンタローの名前を呼びながら、進んでいく。
 暗い森だ。その森を、月の光をたよりに歩く。下草を踏み分け、茂る木を避けていく。
 人気はない。
 なにも奥山の森ではなかったから、道は開かれてはいるのだけれど、それでも草の香り、葉ずれの音が物寂しさを思わせる。



「チチチチチチ……」
 試しに猫を呼ぶように舌を鳴らしてみたり、口笛を吹いてみたりもしたのだが、返事はない。
 闇に向かって、マジックは叫ぶ。
「シンタロー! どこにいるの――!」
 遠くへ遠くへと、自分の声は沈んでいくだけであった。
 すぐに消えて、後には微かな森のざわめきと、夜の静寂だけが残る。
 声を出す度に、胸がぞくりとするような寒さに襲われて、この感情は何だと考えれば、それは寂しいということであると、マジックは思った。
 ああ、寂しい。
 この感情を、暗い森の中で、彼は一人噛み締めている。
 勿論、どんな恐ろしい場所に行ったのだとしても、本来は寂しいなどとは感じるマジックではなかったのだけれど。そんな繊細な心は、子供時代に捨ててしまったはずだった。
 だが今は、一人きりで歩いていることが、寂しく感じられてならなかった。
 そうか、シンタローがいないからだ、とマジックは思った。
 シンタローがいないから、私は寂しいのだ。
 さっきまでは、一緒に手をつないで歩いていたのに。仲良く触れ合っていたのに。
 あの子の熱い手が、すぐ側にないからだ。だから私は、寂しい。
 シンタローのコートを握り締めながら、マジックは身を竦ませた。
 だから風が、こんなにも冷たいのだ……。
 つい昔が思い出されてしまう。



 ――幼い頃のシンタローは。
 ちっちゃなシンちゃんは、少し熱が出たぐらいじゃ、ひどく元気で。
 私が側についていないと、すぐにベッドから飛び出して、走り回っていた。逆に目が冴えてしまうらしいよ。はしゃいでしまうんだよね。
 それでいつも風邪を酷くして、ぐったりとして、寝込んでしまうんだ。
 だから私は、あの子についていなきゃと、仕事中も気がそぞろ、遠征も駆け足で、とにかく早く戦いを終わらせようとして、思えば手荒なことをしていたっけ。こんなことを今、あの子に知られたら、怒られてしまうね。
 そして、いつも飛ぶように、家に帰ったものだ。
『シンちゃん、ちゃんとあったかくして寝ていたかい?』
 やっと帰って、一番にそう尋ねると、あの子は神妙な顔をして毛布から顔を出し、『うん』と頷くのだけれど、散らばったおもちゃや、急いで潜り込んだベッドの形跡、留守居役の恐縮した表情、そして何よりもその後すぐに悪化する風邪の様子から、私はそれがすぐに嘘だとわかるのだ。
 高い熱を出して、泣きそうな黒い目で私を見上げてくることになるのだ。
 こんこんと咳をして、顔を熱に赤くしながら大人しくなってしまったあの子に、私はスプーンで薬を飲ませながら、聞いたものだ。
『シンちゃん。パパのこと、好き?』
 この質問への反応は、シンタローが年を重ねるにつれて、どんどんと移り変わっていくのだけれど。
 幼い頃は、こくんと頷いてくれたり、したんだよね。ちょっと大きくなってからもそうだったよ。熱が出て弱っている時には、意地を張る元気もなかったのかもしれないなあ。
 とにかく私は、枕元に頬を寄せて、次にこう言うんだ。
『パパのこと好きならね、あったかくして眠らなきゃいけないよ。シンちゃんに何かあったら、パパは死んでしまうよ。だから、私のためにも、早くよくなって』
 これは私のエゴだけれど。お前のこと、とてもとても、愛してるから。
 こんな卑怯な言い方をあえてしなければ、お前は言うことを聞いてはくれないから。
 言葉では何と反応しても、最後は大人しく目をつむって、眠ってくれるお前の側にいるのが好き。
 あったかい場所で、二人で身を寄せ合うのが好き。
 好きさ。大好きさ。シンタロー。
 なのに、お前は、どうしてここにはいないの。
 私を置いて、どこに行ってしまったの。
 早く――。



 ふと。マジックの肌が、ある気配を感じた。
 彼は導かれるように、すうっと視線を上げる。
 遥か上方、ひときわ背の高い樫の大木の天辺に、人影が闇を切りとって佇んでいるのが見える。
 人影……? いや、逆光でよくは見えないが、長い尻尾と……ぴんと空に向かって立った三角の耳、が……。
 全身に黄金色の光を浴びて、長い黒髪が、たなびいて……。
「シンタロー!」
 マジックがそう叫んだのと、シンタローが満月に向かって鳴いたのは、同時だった。
「ンナ――――ウ」
 見上げるマジックと、見下ろすシンタローの視線が合った、その瞬間に、影はさっと身を閃かせた。
 木々の枝を飛び移り、かろやかに夜空を駆け抜けていく。
 赤い総帥服を着たままであるのだが、そのしなやかな動作は猫そのものであった。
 シンタローが枝を移動する度に、枝がしなり、葉が音を立てる。
「待って! シンタロー!」
 秘石眼を使えば良いのかもしれないが、シンタローの体を傷つけてしまうことになる。
 それは嫌だった。
 マジックは、森を走る。走って、愛しい影を追った。
 そして、ついに見失ってしまったのである。







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