総帥猫科
くすん、くすん。シンちゃん、ひどいよ。
これじゃ、パパ、落ち着けない。
パパの生活三原則、衣食住のうち、食と住がヤバいことになっちゃったよ。
ハッ! 私ったら、これで服まで何かされちゃったらどうしよう。いやすでに泥がついてるんだけど。シンちゃんに無理矢理、身ぐるみ剥がれちゃったりして。あっ、そうか! シンちゃんだって、パパの体狙い? 体が目的?
まあそうであるなら、パパはやぶさかではない。早く言ってくれればいいのに!
シンちゃんったらねー、いっつも言葉で言わないのに、行動で示してくれるんだよねー、なんだあ、そうか、早く愛し合おうよ! ちょっと生ゴミとか巨大ヘビとかチンピラさんたちがいるけどさ!
等と、巨大トーテムポールの側で体育座り、妄想が一回りしたのか妙にピンク色の思考に浸っているマジックの耳に、やがて、もっと妙な音が聞こえてくるのである。
地上からだ。
ズシン、ズシン、と壮絶な重量をもった個体が、シコを踏んで相撲をしているような地響きがする。
「……」
マジックは無言で、穴の壁に手をやった。指先から石くれが落ちる。揺れている。これは錯覚ではない。明らかに揺れている。
グオオオ! と咆哮がした。ガツッ、ガツッと何かがぶつかり合う音。はふー、はふー、と荒い息遣いの音。乱れた息づかい。
幸いにもマジックは、シンタローの声なら100km先の音も聞き分けられるという、マジカル耳を有していたので、一番最後の乱れた息のみをより分けて、あ、なんかエロいとか思いながら、それでも頑なにピンクモードで膝を抱えて、穴の底に潜んでいたのであるが。
やがて事態は、じっとしていればいい、というものではないことに、マジックは気付くのである。
今ここにある危機。
振動で、ぐらぐらと獲物トーテムポールが揺れ始めた。もとより積み重ねただけであるから、各獲物が段違いにずれてきたのである。
「むっ! いかん、崩れる……!」
マジックは慌てて立ち上がり、意味もなく両手を広げて、穴の縁に貼りついたが、そんなことをしたって狭い穴の中、どこにも逃げ場なんてないのである。
ぐらぐらと揺れる異様なオブジェ。すると巨大ヘビが身動きしたかで、オブジェの一番下だと思ったダンディ倶楽部の、さらに下に、果物の皮や魚の骨が顔を見せて、ああ、このトーテムポールの根元はこれだったかと、またどうでもいい発見をしながら、マジックは困った。
とってもとっても、困った。
いくらなんでも、こんなのの下敷きになりたくない。『こんなの』呼ばわりされる獲物たちには気の毒なことであったが、普通は誰もがそう考えるであろう。
彼は、地上に向かって叫んだ。
「シンちゃ――んっ! 何やってるの――! 今度は何と戦ってるんだい――!」
答えはない。
「あんまり揺らさないで――ッ! 頼むから――――!!!」
やはり答えはない。
相変わらず、ガフッ、グフッと猛獣のうなり声や、叩きつけるような、殴りつけるような、物騒な物音が、揺れの狭間から聞こえてくるばかりである。
そうこうしている内に、獲物トーテムポールが、大きく傾いた。
「ッ!」
こちらに崩れ落ちてくるかとマジックは身構えたが、運良くトーテムポールは、どっと穴壁に寄りかかり、そこで崩れることなく止まった。
とりあえずは一安心という所か、とマジックは胸を撫で下ろす。
それからまた、まじまじと物体を眺めた。
無機物はともかく、気絶している巨大ヘビや男たちが目を覚まさないのは、凄いことかもしれない。どれも見事に白目をむいたままである。総帥猫シンタローの手並みは流石というべきか、なんとも鮮やかであった。
「ん?」
よく見れば男たちの白目が、やや黄色味を帯びていることに気付いて、この人たち栄養状態悪いのかなあ、貧血じゃないの、等とボンヤリと考えていたら、ふとある発見をしてしまう。
斜めに傾いだトーテムポールは、獲物ごとに段々にずれて、まるで穴の上まで続く階段のようになっていたのである。
少し天辺までは高さが足りないが、それでもマジックの身長(というか長い足ね☆)をもってすれば、十分地上に出られそうである。
「……もうそろそろ、出ようかなあ……」
穴の底も、あんまり静かじゃないことがわかったから。
憂鬱に浸っている暇さえないのだ。それに、ちょっと生臭いし。ヘビ臭いし。うーん、あとこの人相悪い人たち、あんまり頻繁にお風呂入ってないんじゃないかなあ。失礼だけど。
マジックは右に左に頭をひねり、ふう、と溜息をつく。
地上ではまだ物騒な物音が聞こえてくる。ドシンバタンと荒々しい様子。
シンタローの様子が、とても気になるのだ。なにせ総帥であるから、たいていのことは大丈夫だとは思っているのだが。
彼は考えた。
今、シンちゃんは一体、何をやっているのだろう。このトーテムポールの上に、さらに何を据える気なのだろうか。何を狩っているのだろうか。悪い予感がする。
獲物の塔の上に、またスゴいものを置かれてしまったら、今度こそ崩れて、マジックが下敷きになること必定であった。その前に穴から脱出するより他に、道はない。
「あーあ」
仕方なくマジックは、巨大ヘビを、ぎゅむうと踏んだ。何だか柔らかい感触がした。あまり気持ちのいいものではない。
「うーん、やな感じ」
そして次に、一人目の男を、きゅっと踏んだ。これも嫌な感触がした。
「うわ。ヤダ」
二人目を踏んだ。
「やだやだ」
三人目を踏んだ。
「ヤダヤダヤダ」
そうやってマジックは、獲物トーテムポールの階段を登って、地上へとぴょっこりと顔を出したのである。
「おおおッ! 何だ、これは――ッ!」
そして目の前の光景に、思わず叫んだ。
なんと穴の近くで、黒猫は、巨大なヒグマと戦っていたのである。
体長2メートル以上、数百キロはありそうな黒毛に覆われた、巨大クマ。
それが仁王立ちで、シンタローに挑みかかっている。
「なんなんだ、この森はッッッ!!!」
アナコンダと同様、どこかの酔狂な金持ちが捨てていったとでもいうのだろうか。
――ヒグマ:寒冷地域にのみ生息すると思われがちであるが、もとは南方に住んでいたものが、人間の乱獲によって追われて、人口密度の少ない寒冷地域に住むようになったと考えるのが一般的である。雑食であるが肉食を好み、栄養状態の良い個体では、体重は600キロを超えるものもあるという……。
って、うろ覚え辞典はいいとして!
「森の主か!」
クマが前足を振り下ろし、びゅうんと風を切る音がした。シンタローが身を閃かせて攻撃をかわせば、ドッとその場所に土埃がたち、クマの鋭い爪が大地に突き刺さっている。
その突き刺さった爪めがけて、今度はシンタローの猫パンチが炸裂した。神経過敏な急所を、猫足で素早く叩く。叩いて、長いシッポを揺らして、さっと離れて距離をとる。
クマが吼えた。
「ぐおおおおおおお!」
四つんばいで睨み合ったシンタローも、負けずに威嚇した。
「フウ――――――ッ!!!」
黒猫とヒグマ、激しい戦いである。両者互角、の呈であるように見えた。
呆気にとられていたマジックではあるが、その熱い攻防戦を目にしている内に、まるで紙に落とした水滴がじんわりと滲んでいくように、ある一つの考えに心を占められていくのだった。
彼は呟いた。
「シンタロー……もしかして、今まで……私を守ってくれていたのかい?」
私は知らない内に、危険に晒されていたのだろうか。
マジックは考える。
人相の悪い男たちは、よくいる賞金稼ぎだろうか。これはわかる。では、猛獣たちはどうだろう?
そう想いを馳せてみれば、ヒグマも巨大ヘビのアナコンダも、冬眠する動物である。冬の近付くこの時期に、手ごろな穴を探していたのだとしたら。
そして私の匂いを嗅ぎつけて、食料入りの宿を見つけたとばかりに、接近してきていたのだとしたら。
「……シンタロー……」
マジックは胸を熱くして、目の前で闘いに身を置く黒猫を見つめた。
お前は、私を守ってくれていたのか。
感動が彼を満たしていく。
「ニャア――――ッ!」
毛を逆立てた黒猫は、後ろ足で地面を勢いよく蹴り、高く跳躍した。小山のようにどっしり構えたヒグマに向かって、勇ましく飛び掛っていったのだ。
ヒグマの胸元に飛び込み、どっと相手を組み敷いて、もみ合いになっている。
「グフウ! グオオオ!」
押し倒されて喘いだ巨大クマがまた吼えて、これは丸太のような腕を振りかざし、シンタローに打撃を加えようと焦っている。
長い黒髪がぱっと散り、クマの爪によって裂かれて、地に舞い落ちる。
「シンタロー、危なっ……」
思わずマジックは手を伸ばして、助けに入ろうとしたが、ぴたりとその手を止めた。そして穴から上半身だけを出したまま、二匹の戦いに魅入られるように立ち竦んだ。
マジックの背筋を、戦慄が駆け抜けていく。この感覚は、まるで戦場で覚える、張り詰めた緊張感そのものであった。
クマの一撃を避けて、また空中に飛んで一回転したシンタローは、綺麗に四本足で着地し、燃える目で巨大な敵を見据えている。
耳を立て、シッポを大きく左右に振り、闘争心を露わにしながらも堂々たるその姿。赤い総帥服。猫ながら、彼は紛れもなく一己の若武者であった。
マジックは、息を飲んだ。
黒猫からは確かに、総帥の雄雄しいオーラが立ち昇っている。月光に照らし出されて、凛と立つ姿。
「……ッ!」
きゅん、とマジックの胸が鳴る。彼は愛しいものの勇姿に見惚れた。
カッコいい。カッコいいよ、シンタロー。
それにしてもシンタローが眼魔砲、いや現在はニャンマ砲を使わないのは、獲物を吹き飛ばしたくないためか、命を奪いたくないためか。いや……イキのいい状態で私に食べさせたいためだったりして……ヒグマの踊り食い……それはないか。いやいや、とマジックは、金髪を振った。とにかく。
シンタローは必殺技を自ら封印し、純粋な格闘能力のみで、この森の主、野生動物の王者ヒグマと相対しているように見えた。
二匹は互いの誇りをかけて戦っていた。二匹の間に満ちた空気は、どこか荘厳ささえ湛えていたのである。
「シンタロー……」
マジックは思った。これは神聖な闘いであるのだと。
余人が入り込む隙のない、男と男の勝負であった。えっと、多分。このヒグマ、オスなのかメスなのか。
「グオオオ――ッ!」
「シャ――――ッ!」
ともかくも、もつれ合う二匹を、ただ固唾を飲んで見守るマジックである。次第に感情移入してしまい、拳を握りしめて応援し始めてしまう。
「そうだ、そこっ! シンちゃん、いけ! ゴー! シンちゃん、ゴー!」
幼いシンタローの運動会でも、金ぴかの椅子を据えた保護者特別席から、こうしてマジックは必死に応援していたものである。ちょっと懐かしい。
そういえば、得意のかけっこで。シンちゃんは途中まで一等で走ってたのに、ゴール間近で転んじゃって、ビリになっちゃったこと、あったなあ。
小さいシンちゃんは目を赤くして、膝小僧のすり傷の手当てもしないまま、私を避けて隠れてしまったっけ。
ずいぶん探したなあ。やっと学校の倉庫、跳び箱の中で眠ってるシンちゃんを見つけて、家に連れ帰ってベッドに寝かせて。そして私は眠るあの子に向かって、言ったものさ。
『シンタロー、お前はね、いつだって私の一等賞だよ』って。
頑張れ。頑張って、私のシンちゃん。お前は私の誇りさ。
フレー、フレー、シンタロー! ファイトだ、ガンガンいこうぜ、シンタロー!
――と。
襲いくるヒグマの突進をひらりとかわし、攻撃をしかけようとしていたシンタローの鼻が、ひくっと動いた。むずむずするのか、瞬きを数度重ねる。
「フニャ……ニャウッ……」
一度は我慢することに成功する。しかし安心した瞬間に、次の波が来た。もういけない。
「ニャ……ニャフッ……フニャックション!」
シンタローは、大きなくしゃみをしてしまった。はずみで目をつむる。
その隙を見逃すヒグマではない。
「グオ――――ッ!」
ヒグマの腕がしなり、シンタロー目がけて、振り下ろされる。鋭い爪が、黒猫のやわい頭部を狙う。
「危ない!」
さすがに思わず熱くなり、目からビームをマジックが放とうとした、その時であった。
シンタローは、スッと体を沈めた。巨大クマの爪が、頭から数ミリ先を掠めていく。
そして信じられないことが起こった。なんとヒグマの体が、上下に反転したのである。
身を低くしたシンタローは、ヒグマの両足を取って力いっぱい真上に持ち上げ、相手の突進の勢いを利用して、敵をくるりと逆さまにしたのである。そして自ら後ろに反って倒れ込み、大地にヒグマの脳天を垂直落下させ、叩きつけたのだ。
「ブレーンバスター!」
マジックが叫ぶと同時に、ゴオオオオンと鈍い音がし、見事に派手なプロレス技が決まる。
逆さ落としにされたヒグマは、白目をむいて、再び激しい音を立てて大地に倒れこんだ。もうもうと土埃が舞い上がる。
マジックは、唸った。
ううむ、ヒグマ相手にこんな大技を決めるとは! 見事だ、シンタロー!
うん、うん、と何度も頷きながら、マジックは思う。
それにしても、なんという強靭なシンタローの腰! いくらヒグマの勢いを利用したとはいえ、並大抵の者にできることではない。
さすが毎晩ベッドで、私が腰を鍛えるための特訓に付き合っているだけあるぞとマジックは感動し、より一層の努力を今後も尽くすことを誓った。
この男マジック、お前の役に立てるのなら、こんなに嬉しいことはない。
感動に浸っているマジックを他所に、シンタローは早速、地面に大の字で伸びているヒグマを、穴に運ぼうとしていた。
まず、ヒグマの腕をくわえ、懸命に引っ張ろうとする。
しかし数百キロの巨体は、ビクともしなかった。運搬するのは、戦闘より難しかったらしい。
「ンニャ、ンニャニャ」
引っ張っても無理だとわかると、黒猫はやわらかい肉球で音もなく歩いて、ヒグマの後ろ側に回り、その巨大な胴体に自分の頭を押し当てて、よいしょ、よいしょと頭で押し始めた。
「ンナ――ッ! ンンンナ――――ッ!!!」
必死なシンタローは、次第に顔が真っ赤になってくる。それでもあきらめずに、押し続けている。
「……!」
その懸命な姿に、再びマジックは、心打たれてしまうのである。
そこまでして、獲物を自分に見せたいのかと思えば、どうしようもない愛しさが沸き起こってくる。
でもね、シンちゃん。そんなヒグマ、思いっきり穴に落としてトーテムポールの上に乗せたら、全部崩れて、私は圧死していたよ。ははは。ははははは。こーの、お茶目さんめ。
「シンタロー」
思わずマジックが呼ぶと、ビクッと黒猫が身を震わせた。しばらくそのままで、凝固している。
それから、おそるおそるといった風に、ヒグマに押し当てていた頭を上げて、こちらを見た。
「ンニャッ!」
黒い目が大きく見開き、瞳が縦に細くなった。明らかに驚いている。垂れていたシッポも、ぴーんと伸びた。
あまりに一生懸命すぎて、今までマジックがいることに、気付いていなかったようである。
黒猫は、何だかあたふたしている。この場をとりつくろいたいが、どうとりつくろえばいいのかわからないといった様子。
どうも、『余裕で狩ってきたゼ!』みたいな感じで、獲物をマジックに見せたかったらしい。
シンタローは辺りをキョロキョロ見回し、ぴくぴくと猫耳を震わせ、とりあえず横を向いた。ヒグマの側で、ぺたんとおすわりをする。心を落ち着けるためだろうか、前足をなめた。
ひたすらなめている。
マジックは、また呼んだ。
「シンタロー」
「……ンナウ」
決まり悪げに、上目遣いでシンタローはマジックの方を見る。
その様子を見て、マジックは、フッと笑った。なんだか、おかしくなった。
手招きをしてみる。
「シンタロー。おいで。こっちにおいで」
「……」
相手は、マジックの方をじっと見ている。
「おいで、シンちゃん」
「……ニャッ」
困った顔をして、目を逸らした。
「おいで……」
ついにシンタローは、立ち上がる。そして視線は逸らしたまま、イヤイヤといった風で、のろのろと四つ足で歩いてくる。黒いシッポは不安げにしおれていた。
そしてピタリと、マジックの1m手前で止まった。
マジックは、もう一度言う。
「おいで」
「……」
迷った猫足が、そっと前に出て、少しだけマジックに近付く。
マジックは思う。まだ足りない。だから言葉を重ねる。シンタローを呼ぶ。
「おいで」
猫耳が後ろに引かれて、ぺたりと寝ていた。
またもう少しだけ、シンタローが近付く。マジックがまた呼ぶ。
「シンタロー。おいで……」
何度目の呼びかけの後だろうか。
マジックは、静かに手を伸ばした。そして、腕の中に黒猫の頭を引き寄せた。
「ンニャッ!」
シンタローの体が大きく震える。
「逃げないで」
「……」
マジックは、シンタローに頬を寄せた。言った。今度こそ、心からの言葉だった。
「ありがとう」
強く強くシンタローを抱きしめる。懐かしい香りがした。ああ、私の大好きな匂いだ。シンタローの匂い。
「……」
黒猫が無言のままだったので、マジックは少し腕を緩め、相手の顔を覗き込む。
するとシンタローは、ぱちぱちと瞬きをして、マジックを見た。そして少しのためらいの後、
「……ナウ」
赤い舌を伸ばし、マジックの鼻先を、ぺろりとなめた。
どきりとマジックの心が波打った。
「シンタロー、大好きだよ」
思わず口から、愛の言葉が零れ落ちる。
冷たくなっているシンタローの体を、マジックは、ぎゅっと抱きしめた。
すると相手の吐息を耳元に感じる。体は冷たくても、シンタローの息は、あたたかいのだった。不思議にそのことが嬉しくてならない。
なにしろマジックは例のトーテムポールの上に立ったまま、穴から上半身だけを出した状態だったから、四つ足のシンタローを抱きしめれば、自然、顔が近くなる。
かがんだり、無理な姿勢をとらなくたって、猫のシンタローと顔を触れ合わせることができるのだ。なんて素晴らしい。これだったら、踏み心地の悪い獲物トーテムポールも悪くない。
そっと指を伸ばし、やわらかい猫耳の裏側を撫でてみた。
猫耳は、ぴくん、と反応して、マジックの指の動きに合わせて、ピンと立ったり横に伏せたりした。
「シンタロー。可愛い子だね」
そう囁いて、今度はマジックがシンタローの鼻先に、チュッとキスを返してやる。耳の裏を撫でていた指を、顔の輪郭をたどってゆっくりと下ろしてきて、今度は喉の辺りを撫でてやった。優しく、優しく、指をすべらせる。
すると、シンタローは目を半分閉じて、うっとりしたような表情をした。
やはり猫だ。やがてシンタローは、クウ、と声を出した。それから、ゴロゴロゴロと喉を鳴らし始める。
二人の間には、穏やかな時間が流れていた。戦いの後の、安らぎの空間。戦士の休息は何者にも替え難い真紅の宝石。
側でノビている巨大ヒグマなんて、彼らにとっては、どうでもいいのであった。気にしない。月の光の中、二人の愛は静かに紡がれるのであった。
夜の森のさざめき、薄い風の香りは、二人、いや一人と一匹を甘いムードで満たしていく。とろけていくようなハートせつなく、幸せのラブいムード。
しかし――困ったことが起きたのだ。まったく幸せとは、蜻蛉のようにはかない命なのである。
マジックの腕に包まれて、シンタローの体温が上がると、出てしまうものは何か。
それは、くしゃみ。
「フニャ……フニャッ……」
シンタローの鼻が、ひくひくと動いた。そして一発、大きなくしゃみが出た。
「フニャックション!」
マジックは、そっと微笑んだ。懐からポケットティッシュを取り出し、紙をシンタローの鼻にあてがってやる。
「ほら、シンちゃん。チーン、しなさい」
「……ニャウ」
大人しく、チーンと鼻をかんだシンタローであったが、困ったことに、さらに連続して、くしゃみが出てしまうのである。
「フニャックショッ! フニャックション……ニャフッ!」
「ははは、シンちゃん、風邪ひいてたこと、今頃思い出しちゃったみたいだね。早くあったかくして、おうちに……」
帰ろうよ、とマジックが、言いかけた瞬間であった。
腕の中のシンタローが何度もくしゃみをしたおかげで、自然、マジックの身体も揺れる。
穴の底から伸びた獲物トーテムポールは、もともと崩れかかっていたのであるが。
それが、天辺のマジックが揺れたせいで、今度こそ、ぐらりと大きく傾いだ。正確に言えば、積み上がっていた男たちのバランスが崩れて、一人、二人と脇にずり落ち、塔はバラバラに崩壊し始めたのである。
「くっ!」
シンタローと一緒になって、うっとりしていたため、予期していない出来事に対処が遅れるマジックだ。
足元が、右に大きく揺らぐ。慌ててマジックがバランスをとろうと、踏みしめる足に力を込めれば、今度は左に大きく揺らいだ。
もう、いけなかった。
「……危ない……っ!」
穴底に転落しそうになって、無意識にマジックは、手を伸ばす。
そして、つい、そこにあるものを、ぎゅっと掴んでしまったのである。
なにしろ、ついさっきまで抱きしめていたのであるから、すぐ手近にあったのだ。とっても、つかまりやすかったのだ。
誰も彼を責められまい。彼は、触れてしまったのだ。
シンタローの首筋に。
「ニャッ! ニャアア……ッ!」
鋭敏な首筋をつかまれて、びくっと身を震わせたシンタローは、喘いだ。
「ン……ンアッ……!」
ぞくぞくする感覚に、身も世もないといった風に、身体をくねらせてしまうシンタローである。黒く長いシッポが、ピーンと立ち上がった。艶のある長い髪が揺れる。
これはマズい、とマジックは瞬間的に考えた。同じ轍は踏みたくないのである。先ほどはシンタローの首筋を掴んでしまったばかりに、セクハラ(?)だと誤解され、怒らせて逃げられてしまったのである。
違う。違うんだ、シンタロー。私はお前にセクハラをしたい訳ではない。いや自分の心に正直になってみれば、そりゃしたいけれども、いやいやマジック、大人になれ。よし、マジック理性でフルパワー。やり直し。
私はお前に邪な想いを抱いて、家に連れ帰りたい訳ではなく!
うわ、なんだかヤラしいな、付き合いはじめの恋人たちが、相手をどう家に連れ帰ろうかと画策するみたいで、なんだか胸がドキドキするっていうか、また脱線しかける悪寒、頑張れマジック。うん、そうだ。本旨に立ち返ろう。
私は風邪ひきのシンタローを、あったかくして眠らせたいのだよ!
寒空の下、遊ばせておいたら、どんなことになるか!
だからね、シンちゃん。わざとじゃないんだよ、わざとじゃ!
今ね、パパはね、落っこちそうになって、無意識にお前の首筋に手をかけちゃったんだよ!
ほんとにわざとじゃないんだから。不可抗力。
と、そのようなことを0.1秒の間くらいで光速処理して考えて、マジックのやったことといえば、パッと両手を離したことだった。掴んでいたシンタローの首筋から、彼は手を離す。
すると勿論、構成要素であるチンピラさんたちがボトリボトリと穴底に落ち始めたため、すでに高さがどんどんと目減りしていっているトーテムポールであったから、天辺に立つマジックの身体は、下方へと落ちる。
これぞ世界を統べる万有引力の法則である。
マジックは、再び思った。
マズい。シンタローの首筋じゃなく、別の何かに捕まらなければ。
そして――
落ちていくマジックが、次に反射的につかまった所は、おすわりの姿勢で身悶えていたシンタローの、腰だった。
「ニャフ――ッ! ニャッ! ニャァ、アァァ……ッ!」
ぐいっと掴めば、やわらかい感触。シッポの付け根。シンタローの尻を、ぎゅむうと握りしめたマジックは、これまたさすがに、マズいと気付いた。
そうか、首筋もだけど、シッポの付け根だって、急所っていうか性感帯
だった。そんな所を触ってしまえば、あらぬ誤解をされてしまう。
マジックの眼前では、シンタローはますます、顎を反らせて、悩ましげに喘いでいる。
マズい。ヤバい。いかんぞ、これは。私ったら、シンちゃんに嫌われちゃう。
しかし落下する体、その迫り来る危機に対して、マジックの反射神経は非常に優秀なのであった。こんな時ばっかり、無駄に優秀。
彼の両腕は、右手でと左手で、がっしりシンタローの尻をホールドしたまま、さらなる安定を求めて、相手の身体を引き寄せた。
自然、マジックの顔は、シンタローの股間に、思いっきり押し付けられることとなった。
「……ッ!」
シンタローは硬直した。しかしピンと立ったシッポの先が、ぷるぷる震えている。心なしか、両肩も小刻みに揺れているようだ。
マズい。マジックはまた思った。何とか言い訳をしようと、彼は慌てて口を開く。
「シ、シンタロー」
「……ンニャッ!」
マジックが口を動かすと、何だか感覚が過敏になるらしく、手足を突っ張らせるシンタローである。
口を動かすと、どうやら感じてしまうらしい。うーん、予想外。
いけない。期せずして、エロい事態になってしまった。
マジックだって、あ、私の口に、何かあたってる
とか思う。そりゃあ朴念仁じゃないから、思うのである。しかしここで言い訳をしなければ、自分は誤解されたままだとも強く思った。
仕方ない。喋るしかないよ。だって私は、シンタローに誤解されたくないんだもの。
こんなに真面目な私なんだから、話せばきっと、わかってくれるはず!
これは決して、煩悩から来る行為ではないことを、シンタローにはわかってもらいたい!
「違うニャ、シンにゃん、違うニャニャーン……って、あっ、またもやうつってしまった! しかも悪化! 違う、違うんだ、シンタロー!」
「……アッ」
ここは頑張って言い訳をして、シンちゃんの誤解を解くしかない!
マジックは必死になった。しかしその一方で、こうも思った。
あっ、でもなんだか、口が、ムニュムニュする。
「違うッ! 信じておくれ、シンタロー! これは私の生存本能が勝手にやったことであって、決してエッチな欲求からムラムラきてやってしまったことでは!」
マジックが唇を動かせば動かす程、耐えられないとイヤイヤ首を振るシンタロー。
「……アッアッ」
「あのね! パパはね! シンちゃんにヤらしいコトいつもしたいって思ってるけど、今もそうだけど、でもね、これはお前を連れ帰りたいっていう真摯な目的に付随する行為、その一環であって」
「……アッアッアッ」
「あれー、まあそれは置いといて、なんだかシンちゃん、硬くなってない〜? パパのお口に、あたるよ? って、私まで、あっあっあっ、落ちるニャー」
「……」
ついに堪忍袋の緒が、切れた。
小刻みに震えていたシンタローは、一度大きく、ぶるりと震えた。そして、大きく息を吸った。
次の瞬間、
「シギャ――――!!!」
ばりばりばりばり!
再度、不幸がマジックを襲う。銀色の爪が、月下でギラリと光った。もう繰言は聞きたくないとばかりに、猫爪攻撃が炸裂する。
「イタタタタタ! 痛――いっ! シンちゃぁんッ!」
怒り心頭のシンタローに、ほっぺたを激しく引っかかれて、マジックの腕から力が抜ける。力の抜けた指は、するすると黒猫の長いシッポを辿ってスポンと抜けて、黒猫に最後の身悶えをさせる。
「ンナア……ッ! イイカゲンニシロニャ――! アッ、アンタニャンカ、サイテイニャ――!」
「うわっ! とっとっとっ!」
先刻と同じく、マジックは思わず仰向けにのけぞりそうになる。今度は『そうになる』どころか、本当にのけぞった。
勿論足元は、崩れかけのトーテムポール。更なる衝撃で、それはもう、ぐらぐらっと見事に揺れて、完全に崩壊した。
それまでこの獲物タワーを構成していた巨大ヘビとチンピラさんたち、生ゴミ、ダンディ倶楽部等等が、一斉に潰れた。
マジックの足場が、崩れる。
「ぐぉわっ!」
「バカニャロ――――ッ!!!」
駆け去ってしまうシンタロー。ふっとマジックの視界が暗くなって、反転した。
そしてマジックは穴の底、巨大ヘビと男たちが織り成す、暑苦しい肉布団の上に、転げ落ちてしまったのである。
勿論、肉布団の上だから、痛くはなかったが、不快だった。
ああ無情。背中の嫌な感触は、トーテムポールを登った時の数十倍にも値するゴージャスな気持ち悪さ。
地上から漏れる月の光が、引きつったマジックの顔を、照らし出していた。
「ああ……シンちゃん……」
またこのパターンか。
失意の内に、マジックはぼんやりと夜空を見上げた。
どうして私はこうなのだろう。
睫の向こうに瞬く星を眺める。満月は最初に見た時とは位置を変え、やや北寄りに傾いでいた。
しばらく空を見つめていれば、やがて穴の縁から、するすると降りてくるものがある。丈夫な麻ロープでできた縄梯子であった。
ややあって人影が穴の縁に映り、明るい色の髪をした青年が顔を見せた。ティラミスである。彼は、マジックの惨憺たる状況に、1ミリグラムの動揺すら見せることなく、淡々と言った。
「そろそろ頃合かと思いまして」
――頃合って。
「……」
憮然とするマジックである。このまま彼を無視して、穴底に横たわっていようかとも思ったが、なにしろ背中の感触が不快きわまりない。
ヘビと男たちと生ゴミとダンディ倶楽部の入り混じる、汗くさい肉布団。ちょっと、いやかなり耐え難いものがある。
しぶしぶマジックは身を起こし、傍らにまで降りてきた縄梯子を手に取った。
丈夫な縄梯子を一足一足踏みしめて、マジックが穴から外に出ると、秘書たちが整列していた。
彼らは礼儀正しく、控えめな視線を上司に向けていたものの、マジックとしては、なにしろ穴から上がる所を一斉に見つめられていたので、どうにもきまりが悪い。
誤魔化すように、肩の埃を払ったり、少し汚れた両手を振ったりしながら、マジックは地上に立った。
さっと脇からお手ふきが差し出されたので、それを受け取って手を拭きながら、マジックはさりげない風に聞いた。
「……どうして私の状況がわかった」
秘書たちにしてみれば、マジックとシンタローが、じゃれている場面を運悪く邪魔したりすると、とんでもないことになりかねないと、骨の髄まで知っている。幸せな場面を邪魔しても雷、険悪な場面を邪魔しても、もっと雷。中庸の場面や、彼らが単独でいる場面を狙わなければならないのである。
よって、正確な状況判断のために、二人の仲についての情報収集は、秘書業務の最重要事項であったのだが、あいにくマジックはそんなことまで気が回らない。
ティラミスは、にこりともせずに言う。
「お忘れかもしれませんが、落とし穴の側には監視カメラを設置していましたから」
「……」
しまった、とマジックは心の中で唇を噛んだ。だが顔はポーカーフェイスのままである。少し癪だったからだ。
そうか、でもまあ、逐一見られていたのなら仕方ない。
マジックは少し肩を竦め、フン、と鼻で笑ってから、使用済みのお手ふきをポンと投げる。
彼は開き直りの早い男であった。しかも少年時代に総帥となって以来、常に衆人環視に晒されることに慣れきっていたから、見られるということに対して、もともとさして羞恥心というものが存在しない。テレビカメラに映されていることの方が、マジックにとっては日常だったのである。
手早く用意された豪華椅子に、さっさと脚を組んで座り、熱い紅茶で喉を潤す。
夜の風が頬を撫でる。閉塞した空間にいた身には、ひどく開放的に感じられた。淡いルビー色をした液体が、口の中で溶け、冷えた身体に滴り落ちていく。
マジックの落ち込んでいた気分が、少し和らいだ。穴の中にいるよりも、こっちの方が遥かに快適であった。
ただ一つ――シンタローがいないことを除いては。
また寂しい気分になったマジックは、夜空を見上げ静かに呟いた。
「なんだかね、私は今度こそ、ほとほと自分というものが嫌になった」
「いつものことだと思います」
合いの手を入れるのは、ティラミスである。彼は素晴らしい手際で、紅茶を入れたりテーブルに花を飾ったりと、マジックの居場所をセッティングしながら、受け答えをしている。
なんと軽食までがテーブルの上に乗った。先刻、黒猫に食料は、食べかけもしくは泥まみれにされたはずであるのに。
聞けば、すでに例のレストランは閉店していたが、森の側を流れる川沿いに、夜遅くまで営業している大衆向けのレストランや飲み屋があったので、そこから分けてもらってきたのだという。
ソーセージを一口食べて、『……美味い』と言うと、『なかなか盛況な店でしたから、味が良いのでしょう』等と、この秘書は言う。
マジックとしては、彼らの労をねぎらいたかったのであるが、何だか機を逸してしまった。
色々と複雑な想いを抱えながら、残りのソーセージを咀嚼すると、マジックは話題を続けた。
「シンタローは、一生懸命に私のために戦ってくれたのに、私ときたら」
ほう、と深々と溜息をつく。そして回想に浸った。
「いや、シンちゃんを、ぎゅっとした時まではよかったんだよ。そこで劣情は催さなかった。うん、劣情は」
「劣情とは、ぴったりした表現をなさいますね、マジック様」
「でもね、その後がいけなかった……どこからなのだろう、私が道を間違えたのは……」
「おそらく途中で間違えたというより、最初からマジック様の進まれる道が、普通とは違うのだと思います」
「最後に落ちそうになった時、こう、シンタローの、そのね、あの場所を、ほっぺたや唇に感じた瞬間、なんというかね、ああ私は自分に正直にならないといけないな。なんだかね、まず、ムニュムニュしたんだよ。そこで、ちょっとおかしいなって思ってね、いやだって誰しもああいう場面に遭遇したら、そう思うだろう? 唇に当たるんだけど、それでも私は、ちゃんと自分の気持ちを説明しなきゃダメかなって! だっていつもシンタローには『アンタは何も話してくれない』って言われるからね! だから話そうとしたんだけど、そうしたら、ムニュムニュが、今度は何だかカチカチになって……」
「すみませんが、未成年も同席しておりますので、発言にはお気をつけください」
ティラミスの背後では、『わわ、オトナの話だっぺか!?』『はは、津軽君は聞かない方がイイよ〜』と、オタオタしている津軽少年に、チョコレートロマンスが耳栓をしている。
「それはともかくとして、マジック様」
苦悩の吐露を、『それはともかく』扱いにされてしまったマジックは、やや口角を下げて唇を、への字にし、抗議の意を示してみた。だが歴戦の秘書たちに対しては、全く効果がないようだ。
頃合、と表現したのは、主にこのためであると、有能なる秘書は無表情に告げた。
「ドクター高松が、接近しております」
「やっぱりね。そろそろだと思ったよ。悪いことには悪いことが重なるもんなんだよ。もうグンマとキンタローのカードは使い果たしてしまったよ。ああ、もうね、絶対来ると思った。そう思ってた」