総帥猫科

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「……」
 暗い穴の中である。
 自力で地上へと這い上がる気力もない。脱力感が全身を支配していた。
 マジックは仰向けになったまま、穴の底から暗い夜空を眺めていた。
 溜息が出る。じっと手を見る。この惨事の原因となった指は、穴から漏れ込む薄い星明りの下で、しれっとして大人しい風を装っているように見えた。
 まったく。お前が原因なんだぞ。
「マジカル小指め……」
 冗談とも本気ともつかない呟きを吐いて、マジックはごろりと体を横向きにし、引き寄せた毛布に包まった。
 彼は、なんだか、やけっぱちな気分になっている。
 あんなに強く純愛に生きると誓ったのに、すぐにエロスの誘惑に負けてしまう自分の不甲斐なさに、うんざりしている。途方もなく落ち込んでいるのである。
 私って……ダメな人間だ。
 わかってはいたけれど、それを目の当たりにした心地がする。白日の下に……いや、今は夜だけれどね、ババンと晒された感じ。こう、反論の余地なく、ババーンと。
 ババン。パパン。あっ、新しいギャグができそうな予感。今度グンちゃんに聞いてもらおう。まあそれはそれとして。
「ああ……」
 シンタローのために用意した毛布を、またぎゅっと肩まで引き寄せれば、肩先に、これもシンタローのために用意した読み物『ダンディ倶楽部』が触れる。
 それを枕にし、本格的に、ふて寝の体勢に入ったマジックである。彼は男にしては長い睫を伏せた。



 ――目をつむれば。
 先刻の白昼夢が蘇る。私が落とし穴に落ちるのは、初めてなんかじゃない。
 幼いシンタローが作った落とし穴には、いつも必ず落ちたものだった。絶対にひっかかってしまう。わかってはいても、つい、見事に罠にかかってしまうのだ。
 今回だけじゃない。シンタローだけを見つめて追いかけていれば、恥ずかしいほどに私は必ず、隙だらけの男になってしまう。
 私はいつだって、シンタロー。お前のことになると、つい一生懸命になりすぎて、周囲のことが見えなくなってしまうんだ。
 恥ずかしい事態の多いこと、多いこと。
 情けなさで一杯だ。
 ああ、穴があったら入りたい。いやもう入ってるか。転ばぬ先の穴。
 さっき……シンちゃんに『サイテイニャー!』って言われちゃったよ。言われちゃったさ。その通りさ。
 そりゃ、穴にだって落ちるさ。パンジステーク入れ食いさ。踊り食いさ。時にはスリルも愛の調味料さ。って言ったって。
 ああもう。
 こうしている内にも、シンタローの風邪が悪化していくかもしれないというのに。何もできないなんて。
 愛する子一人、連れ帰ることができないなんて。何が覇王だ。
 最低だ……。



 でも一人じゃなくて一匹かな、等とマジックが悔恨に浸っていると、気配がした。
「……?」
 これはシンタローの気配だぞと、マジックは我に返る。てっきり呆れて、森に遊びに出かけてしまったのだと思っていたのに。戻ってきてくれたのだろうか。
 マジックは、枕にしていた雑誌から、頭を上げる。
「シンちゃ……」
 ん、と名を呼ぼうとした唇は、ボタボターッと落ちてきた何かに塞がれた。穴の上から、マジックの身体めがけて、何かが降ってくる。
「うわっ、何だこれはッ!」
 異臭がする。生臭い。甘く発酵したような微妙なかぐわしさ。ぬる、とマジックの頬を、半乾きになったような異物が滑っていった。
 たまらずマジックは手の甲で顔を拭き、慌てて起き上がった。見上げる。
「シンタロー!」
「ンニャ
 やけに嬉しそうな顔をして、穴を覗き込んできているシンタローと目が合う。
 よく見てみれば、落ちてきたものは――。
 魚の御頭つきの骨、パンのミミ、果物の皮。カメラ映像で見た時は判然としなかったのであるが、手元で見ればやはり洋梨の皮のようである。
 先刻シンタローが、レストラン裏のゴミ箱から失敬してきたお宝が、マジックの周囲には散らばっていた。
 くわえて、ここまで運んできたらしい。
 埋めてあったものを掘り返してきたのだろうか。秘書たちにカメラに映った穴は掘り返すようにと指示していたのだが、その他にも沢山隠し場所はあったのか。とにかくも猫の宝物である。
 しかし人間にとっては……宝物というより。その……。
 困ったマジックが再びシンタローに視線を遣ると、シンタローは穴の縁から自信満々な顔つきで、少し顎を突き出し、促す仕草をした。
「ニャ」
「え……これを食べろって……?」
「ウニャ
「……」



 困った状況に追い込まれたマジックである。
 いやこれ、シンちゃん……ちょっとそんな。これって、何のプレイ?
 シンちゃんは、私がこんな生ゴミ食べるの見て、興奮したりするんだろうか。あ、不味い。こんなこと考えたら、また元の木阿弥に。
 しかし、これを食べろって。
 参ったなあ。私は自慢じゃないけど、舌には自信があるんだよ。シンちゃん、わかってる癖に。舌の技にも自信があって、それもシンちゃんは夜にわかってるはずなんだけど、まあ、置いといて。
 これ、どうしても食べないとダメかなあ。
 しなびた黄土色の皮を指でつまみ、マジックは首をかしげた。
 皮でも、ちゃんとそれ用に調理してあれば別なんだけれどね。プティングに果物の皮を混ぜたりするのは、私だってよくやる。しかし。
 これは……どう見ても。私の口には、合わなそうなんだけど……。
 ぺらん、と長い指の間から垂れ下がった皮は、いかにも不味そうだった。しかも一旦ゴミ箱を経由したらしきものである。
 彼は、口篭る。とても口には運びたくない代物だ。
「く……う……あのね、シンちゃん……」
 マジックが、いっこうに皮を口にしないのを見て、しびれを切らしたシンタローが、穴の縁で怒り出した。
 猫足を踏み鳴らしている。早く食べろ、とせかしているのだろう。
 早く、早く、と足踏みしている。
 それでもマジックがまだ思い切らないので、
「シャ――ッ!」
 犬歯をギラッと見せて口を開けたシンタローは、怖い顔をした。瞳孔をまんまるにして、背を丸くして自分を大きく見せ、威嚇してくる。
 だが――それから急に、黒猫は、フッと悲しそうな顔をしたのである。
 目を伏せ、猫耳を伏せ、肩を落としている。シッポはここからは見えないが、おそらく垂れていることだろう。
 しゅん、として、悲しげに鳴いた。
「ニャーン……」
「うっ」
 マジックは、息を詰まらせる。こんな表情をされると弱い。



 溜息をつき、上方への視線を下ろして、自分の手元を眺める。
 洋梨の皮。熟練の技なのであろう、相当に薄く剥いてあるそれは、よく見れば、うっすらと実が裏についているようでもあり、でも実がついているだけに、何だか、ぬるぬるしてあまり気持ちがよろしくないものでもあり。
 しかしマジックは、思う。
 そうだ。シンタローには悪気はないんだ。好意からやってくれているんだ。その気持ちを無下にする訳にはいかないよ。
 猫の大切な宝物を、私にくれた訳だし……。
 何よりこうして戻ってきてくれたなんて。私の世話をしようとしてくれているのだろうか。
「じゃあ……いただこうかな」
 やがて意を決し、マジックがそう口にすると、『ニャ!』とシンタローの猫耳がぴんと立ち上がった。
 そして穴の縁から身を乗り出して、じいっとマジックの口元を見つめてくる。
 黒いピュアな瞳で、じい――――っと、である。やけに澄んだ瞳。純粋な瞳。
 じい――っ。
 じいいい――――っ。
 黒猫の瞳。
「……う……」
 マジックの頬が引きつる。
 ああっ、そんなに見つめないで! 見つめないで、シンちゃん!
 食べる振りをしようかとも思ったが、ここまで凝視されては、それも叶わない。
 ええい、ままよ!
 ついにマジックは、洋梨の皮を持ち上げ、その端を、口に含んだ。



 鼻が臭いをキャッチしそうになって、慌てて息を止める。口を動かせば、しゃり、しゃり、と噛む音がする。なるべく奥歯だけで噛むようにする。含んだものが舌に触れないように、味を感じないように意識をコントロールしながら、なんとか一端を飲み込むことに成功する。ごくん、と異物が喉を下っていった。
 うっ、うっ。私は美食アカデミー主宰なのに。これ、何の拷問なの、シンちゃんったら。
 心中で嘆いてみせて、頬を強張らせたまま、マジックは、穴の縁を見上げる。
 そこにいた黒猫は、今度も期待に満ちた目をしていた。声が降ってくる。
「ンニャイ?」
 一瞬、何を聞かれたのかわからなかったが、マジックは黒猫の表情で理解してしまった。
 うまい? とシンタローは聞いてきたのである。
 ここまで来れば、もう相手に乗るしかない。
 マジックは強張った頬に、さらに笑顔を貼りつかせて、何とか答える。
「ああ、おいしいよ」
 すると、ぱあっとシンタローの顔が輝いた。得意げに耳が、ぴこぴこと動く。
 さらにその黒い目は、褒めて、褒めて……いや、褒めろ、褒めやがれ、と訴えている。
 その無言の圧力。
 はは、と乾いた笑い声を、マジックは喉の奥から何とか搾り出した。そして言った。
「えらい、えらい」
「ニャフ――――!!!」
 ご機嫌になったシンタローは、ぴょんぴょん飛び跳ねて、また何処かへと駆けて行ってしまったのである。



「……やれやれ」
 何だかよくわからないけれど。まあ、シンちゃん、喜んでくれたみたいだし、いいか。
 しかしこのことが、さらに面倒くさい事態を呼んでしまうことに、この時点では気付かないマジックである。
 マジックは、疲れていた。
 だがちょっと、さっきよりは満たされた気持ちが、胸に広がっていた。
 ああ、シンちゃんの本当に本当に小さい頃みたいだよ、昔はね、シンちゃんはね、砂場で作った泥だんごなんか、『パパ食べて』って持ってきてね、ハハ、ばっちり食べたけどね、今みたいに。
 シンタローが喜ぶのなら。ちょっとジャリジャリしようが、皮だろうが何だって。
 ほわん、と、やや幸せな気分になって、再び毛布を引き寄せて、穴底に横になった。
 相変わらず、労力を使って穴から這い上がる気はないのである。ネガティヴモードに入ったマジックの欝は、そう簡単に回復するものでもなかった。
 彼は、耳元辺りに散らばる梨の皮や、パンの耳を端に追いやり、魚の骨をできるだけ遠くへと指先で弾いて、呟いた。
「でも、シンちゃん、やっぱり生臭いよ……」



 そしてお約束の展開が始まったのであった。
 星明りがうっすらと差し込む穴の底、毛布にくるまったマジックの耳に、ずる、ずる、と何か大きな物を引き摺るような音が聞こえ出すのである。
 ずる、ずる。ずる、ずる。地上の遥か向こうから、大地を伝わって響く音。
 その内、鈍い擦過音と共に、ニャフウ、ニャフウ、と息遣いまでが聞こえてくる。やたら一生懸命な気配。妙に重労働やってる感じ。
「……」
 だんだんと悪い予感に苛まれはじめるマジックである。ぎゅっと毛布を握り締める。
 マジックは、なんだか目を開けることをためらっている。ためらいながら、次のようなことを思った。
 ――概して、猫は飼主にいわゆる『おみやげ』を持ってくるものである。
 それはネズミなどの小動物であったり、昆虫であったりする。不甲斐ない主人に狩猟を教えてやるためであったり、エサを食べさせてやろうという猫の気持ちの発露であるという。
 しょうがないから、コイツの面倒見てやらなきゃ。
 なんてことを世の猫たちは考えているというが、本当だろうか。
 ははは、ニャン族って基本的に、人間族やご主人様を、自分より下だと思ってるんだよね。ハハハ。
 可愛いものじゃないか。ニャンコって。
 ここは、ご主人様としては……ああ、いいね、この響き。なんかエロいね。気に入ったよ。そう、ご主人様としては、私はシンちゃんを、海のような広い度量で迎えてやらなければならないのだ。
 そうだ。果物の皮だって、私は食べたじゃないか。何が来たって。シンタローが喜ぶならば、私はそれでいいんだ。
 どんとこい。お前の好意、私は見事受け止めてみせよう。
 例のごとくミスター・マジックのうろ覚え辞典を脳内で紐解きながら、彼は己を鼓舞し、一つ溜息をつく。
 それからやっとマジックは、目を開ける決心をしたのである。



 目を開けた瞬間に、眼前を通り過ぎたものは、パラパラと降ってきた土だった。穴の縁が崩れたのだろう。
 星明りが、猫型に翳った。マジックは寝床から、頭上を仰ぎ見る。
「かふっ!」
 すると達成感に溢れた黒い瞳と出会い、相手は獲物を口にくわえたままで、嬉しげに応答した。勿論くわえたままなので、幾分くぐもった声である。
 マジックは数度、瞬きをした。そして言った。
「シ、シンちゃん……それ……」
「かふかふっ!」
 運んできた獲物をもっとマジックによく見せようと、穴の縁から身を乗り出してくるシンタローである。ぐいぐいと顔を前に突き出してくる。
 マジックは、ハハ、と乾いた笑い声をたてた。
「あ、あのね、シンちゃん……あのさ、パパ嬉しいんだけどさ、えっとね、あのね……危ないからさ、それさ……」
「かふかふかふっ!」
「ありがとう、シンちゃん、でもね、そんなよく見せようとしなくたって、嫌でも見えるから……いや、大丈夫だから……落ちるから……そんなに前に出したら、ソレ、落ちてくるから……危ないから……」
「かふっ……ンニャア」
 マジックの危惧通り、『ソレ』は長くて重かったから、重心を失って、ぐうんとしなるように落下した。
 重みを支えきれなくなったシンタローは、あっさり口から獲物を放す。元々やっぱり、落とすつもりだったのかもしれない。
 ボト――ッ! と頭上に落ちてきた巨大なソレを、間一髪でかわしたマジックは、思わず叫んだ。
「くおお! アナコンダ!」



 てらてらとぬめる錦色の背は、数メートルはあろうか。太さは丸太並だ。
 巨大ヘビはだらーんと力なくのびて、どうやら気絶しているようだ。落下の衝撃か、白い腹の部分がびくんびくんと震えていた。家畜だって飲み込みそうな、縄跳びだってできそうな、スーパー爬虫類。
 ネズミどころか、この黒猫は192cmの総帥だけあって、獲物も総帥級。
「シ、シンちゃんっ!」
「ニャフ――
 しかし黒猫の得意げな顔を見れば、ダメだと言うこともできない。マジックは続く言葉を、ごくりと飲み込み、それにしても、と側に横たわるアナコンダを眺めてみる。
 何故にこんな所に生息! この森って一体!
 金持ちのペットが逃げ出したのか? 近くには高級住宅街があるから、その可能性は高いが。
 しかも、どーやって捕まえたの! 暴れるでしょ、これ! 危険でしょ、これ!
 ああ、シンちゃん。シンちゃんったら! ハードすぎるよ!
「……えっ。まさか」
 ふとマジックが気付けば、自分に注がれる熱い視線。
 先刻と同じく、じ――っと期待の目を、穴から覗き込むようにして、シンタローはマジックに送っているのである。
 まさか。これは。
 冷や汗がこめかみにつたうのを感じながら、マジックはもう一度、ヘビのドでかい巨体を見つめてみる。
 これを。これを、食べろというのか。
 まさかシンちゃん。私にこれを食べろというのか。
 ヘビから視線を外し、見上げれば、また熱い黒瞳。それは明らかにマジックの口元に注がれている。
 じい――っ。
「……ッ!」
 じいいい――――っ。
「……くぅッ!」



 ぱちん、とマジックは両手を打ち鳴らした。黒猫の耳が音に反応して、ぴくんと動いた。
 彼は気をそらす作戦に出たのである。いくら私でも、アナコンダはちょっと無理。お口に入らないっていうか、かなりダメ。だってダメだろ! 明らかに無理だろう!
 ごめんね、シンちゃん! これはちょっとムリだよ――っ! せめて小型ならまだ……って! 想像したくないッ! 料理してあるならまだ……って、生なのもイヤ――ッ!
 悪いけどパパ、逆ギレしちゃうよ! こっそりだけどさ! プンプン!
 だいたいシンちゃん、こんなの、どーやって運んできたの! 戦ったの? ねえ、戦って勝ったの! 拳と拳の……いや、肉球と鋭い牙の勝負で勝ったの? ていうか、凄いよ、シンちゃん!
「ありがとう! ありがとう、シンちゃん!」
 マジックは両腕を大きく広げ、シンタローに向かって呼びかけた。
「えらい、えらいよ、こんなの取ってくるなんて、凄いな〜、シンちゃん。さすがだよ、シンちゃん、大好き!」
「……ナフッ」
 シンタローは、ぷいと横を向いた。でも、穴の縁におすわりをしたままである。耳がぴくぴくと動いたままである。
 そしていかにも興味なさそうに、前足をなめた。なめ続けている。
 相手の仕草にも構わず、マジックは続けた。
「ああ、私は幸せ者だよ、お前がいてくれて! 穴に落ちたって、お前がいてくれさえすれば、どこだって天国! パラダイスさ!」
 全部、本当のことなので、マジックの口からは、すらすらと言葉が滑り出てくる。
「……ンナウ」
 あくびをし、シンタローは地面で爪とぎを始めた。ガリガリ、ガリガリとかいている。ちらり、と一瞬だけマジックを見下ろして、それからまた爪を熱心に手入れしている。まるで、ついでだから聞いてやってんだぜ、とでも言いたげな様子だ。
「シンちゃん、最高! シンちゃん、ラーブ!」
「フンッ」
 シンタローは、鼻で笑うような声を出した。
「ああ、シンちゃん、愛してる! 愛してるよー! 私のオンリーワン!」
「ニャーウ」
「世界で一番愛してるよ
 黒髪を揺らし、すくっとシンタローは立ち上がった。そしてさりげなさそうに、穴の縁を歩き回りながら、ちらちらとマジックの方に視線を遣っていた。
 しかしその長いシッポが、なんだかムズムズしているのが見える。歩き方が軽やかで、やけに機嫌が良くなったのがわかる。
 しばらく、ぐるぐると穴の縁を歩いた後、シンタローは胸を張って悠然といった風で、立ち去ってしまった。
 地面から伝わってくる音で、数歩ゆったりと歩いて、それからダッシュで走り出したのがわかった。
 声が聞こえてきた。
「ニャフ――――ッ!!!」
 黒猫は、はりきって森へと狩猟に出かけたのだろうか。新たな獲物めざして。



「……」
 とりあえず、目先のことからは助かった。
 やっとのことで難を逃れたマジックは、深い深い溜息をついて、毛布の上へと腰を下ろした。
 シンタローが駆け去ってしまった後は、穴の中は、静寂に包まれていた。
 すぐ側で、巨大ヘビが身動きした。
 マジックは、一人呟いた。
「閃いた。『アナコンダと、穴の中』はどうだろう。今度、グンちゃんに聞いてもらおう」



 そんな風にマジックが穴の中で、巨大ヘビ、アナコンダと共生を模索している頃のことである。
 場所は百数十メートル程ずれるが、やはりここも森の中。
 日中は陽のあたる森の南側、背高く生い茂った木々の狭間に、こっそりと潜んでいる怪しげな集団がいた。
 きちんと説明すれば長くなるような、いや別に大したことではないから短くて済むような。
 とにかくいかにも人相の悪い彼らは、正面から見ても、横から見ても、ななめ後ろから見ても、チンピラ。たぶん縦に切っても横に切っても、大阪の方言が転じたとも、中国の稀代の策士・陳平が語源だともいう、ほんとか嘘か民明書房かわからない説を持つ、チンピラ。
 さあっと星明りがそんな彼らの横顔をなめしたが、やっぱりよくあるチンピラの横顔だった。
 と、首領格らしき男が、呟いた。彼こそチンピラの中のチンピラ、チンピラ オブ チンピラズ、ともうしつこいからやめるが、とにかく一座の中のボスが、斜に構えながら、こう呟いたのである。
「クックック……ついにチャンスがやってきたぜ……ガンマ団元総帥マジックさんよォ〜」
 彼はつい興奮して、太い木の幹に包帯だらけの腕をつき、イテッと声をあげ、なお斜に構えていた。
 いまだ癒えない体を引き摺り、彼はやっとのことで、この木に登り、マジックの様子を遠くから双眼鏡で窺っているのである。破れた黒い帽子が、少しずれた。
 そんな痛々しいボスの姿に、これまた同じく痛々しい姿をした子分たちが、うんうんと頷いている。
「おのれマジック、忘れたとは言わさねえ!」
 拳を握りしめる彼らは一体、何者であるのか。



 やっぱり説明しよう。
 彼らは真夜中の事件で、賞金首のハーレムを狙う最中に、マジックとシンタローの酔っ払い親子に目的を阻まれ、それ以来、チンピラの意地にかけて、W総帥をつけ狙うようになった男たちである。
 かつて男たちは、W総帥と戦った(本人たち談)。
 そして、わずかながら力及ばず、苦杯を舐めた(同上)。
 空へと弾き飛ばされ、まとめて空にキラリと星になった後。彼らは臥薪嘗胆、雨の日も風の日も、豪邸近くの電柱の陰で、復讐のチャンスを待った。二人がSPもつけないで勝手に出歩くチャンスを、窺っていた。
 また世界各地の小物級チンピラによる世界チンピラネットワーク(WCN)を駆使して、情報網を張り巡らし、W総帥が自由に出歩く機会を狙っていたのである。
 そして今日――
 涙ぐましい努力の結果、艱難辛苦を経て、ついに彼らは、一人きりでいるマジックを視界に捉えたのだ。
 ここに至るまでに、本日、例の高級レストランにW総帥と居合わせたVIPの一人が、その家族に見聞きしたことを語り、その召使にもそれが伝わり、巡り巡ってその裏庭に潜んでいた名もなきコソ泥にも伝わって、世界チンピラネッ……いやWCNを通して、復讐に燃える男たちに情報配信されたという経緯があるのだが、それは省く。
 ともかくも男たちは、念願のマジック襲撃のチャンスを得、今はじりじりとタイミングを見計らっている、そんな状況であった。



「新総帥の方が、どーした訳かいねえようだが、逆に都合がいい。各個撃破作戦って訳よ。いままで俺たちが不覚をとってたのは、二人一緒だったからだ」
 ボスの言葉に、これまた、うんうんと頷いている子分たちである。彼らも彼らで、必死に木に登ったり、茂みに身を隠したりして、ボスに従っている。
「しかも何故だが知らねえが、元総帥はデケえ穴に入ってる。これを利用しない手はねえ」
 どうしてか元総帥が秘書軍団から自ら離れて、穴の底にいることは、先ほど決死の鉄砲玉要員が偵察してきた通りなのである。
 子分たちは、静かに歓声をあげた。何しろ見つかるといけないから。非常に奥ゆかしく、である。
「いいか、土を用意してな、穴に駆け寄り、みんなで一斉に埋めるんだ。そうすりゃ、いかに元総帥といえども、お陀仏よ」
 ククク、と笑いを噛み殺すので懸命なボスの背後で、埋めるぜ! 埋めるぜ! と小声で盛り上がる子分たち。
 ついに宿願を果たすのだ。
 埋めるぜ、埋めるぜ!
 時は満月。黄金色の光を反射して、ボスの手にキラリと輝くものは、大振りのスコップだ。子分たちの手にも、同じものが握られている。
 埋めるぜ、埋めるぜ!
 スコップを振り上げて、静かに意気軒昂する彼らの側には、土を運ぶリヤカー、土嚢用の袋など、埋めちゃえセットがきちんと用意されていた。こんもり盛り上がった土山も、準備万端。早く運んでくれと言わんばかり。
 急場にしては、マジックの秘書軍団にも勝るとも劣らない……いや、劣るかな、でもとにかくそんな素晴らしい準備力である。メンツを保ちたい、その意気込みが、彼らをそうさせたのだ。
 あとはボスが号令をかけ、全員で一気に穴に駆け寄って、マジックを埋めてしまうだけである。
 子分たちは息を飲んで、ボスの命令を待っている。



 かさ、と葉ずれの音が、背後からした。
「……」
 気のせいか悪寒がすると、ボスは思った。自分の背筋は妙に震えている。武者震いだろうか。
 無理もない。ついに宿願を果たせるのだからなと、ニヤリと笑う。元総帥を始末したら、次は新総帥。そうして、元々の標的だったハーレムに。ガンマ団総ナメよ。
 名もなきチンピラの俺たちが、一気に裏社会のヒーローに躍り出るのだ。誰もが驚くだろう。こんな臭い飯を食いまくりの俺たちが、こんな大偉業を果たすとは。裏社会的には、ノーベル賞を貰ったっていいぐらいだ。
 ボスは感慨に浸り、ほうっと溜息をついた。ああ、ついてきてくれた子分たちには今まで苦労させたが、やっとその労が報われる時が来た……ん?
「……誰か、何か言ったか」
 何かが聞こえたような気がして、ボスは双眼鏡から目を離し、背後を振り返った。
 子分たちは首を横に振る。『気のせいじゃないスか』『風じゃないスか』『猫じゃないスか』と言う者がある。
「なんだ、猫か」
 最後の理由に納得がいく。そういえば猫の鳴き声が聞こえたような気がして、ボスは視線を双眼鏡に戻した。



 スサッっと、風を切るような音がした。
「……?」
 ボスは再び背後を振り向く。
「何か聞こえなかったか」
 子分たちは首を横に振った。『気のせいじゃないスか』『風じゃないスか』と言う者がある。
「なんだ、風か……」
 駆け抜ける違和感。そこまで言って、ボスは気付いた。
 さっき、『猫じゃないスか』と言った子分が、消えていることに。
 彼らは大混乱に陥った。



『アイツはどこに行った!』『一瞬で消えた!』『なんでだ!』『こんな時に神隠しか!』『アイツの携帯に連絡してみろ!』『それが料金未納で止められてて……』『おおーい、どこ行ったー! 出てこーい!』
 鉄の団結を誇っていた男たちだけに、仲間の喪失には動揺してしまう。
 そして穴を見張ることなど忘れて、右往左往で消えた仲間を探している内のことであった。
 また、どこかで風の音が聞こえた。
 次の瞬間、男たちは、たった今まで側にいた仲間が消えていることに気付くのである。
「ま、また、いなくなってる――!」
 黒い影が閃いたのを、誰かが目撃したと言った。
 幽霊だ、お化けだと、もはや潜み隠れていることを構わずに、騒ぐ男たち。いくら渡世を生業とする男たちでも、お化けは怖い。ガンマ団新旧総帥を狙おうという、命知らずな奴らでも、怖いものは怖い。
 さすがと言うべきか、ハッと我に返ったボスは、そんな子分たちを何とかたしなめようとした。ここがボスのボスたる所以、チンピラ オブ(省略)。
「そんなミステリーがあるか。そうだ、消えたアイツもアイツも、小便でもしに行ったに違いねえ……な、だから安心するんだ」
 ハハハとボスは安心させるように笑い、ぽん、と怯える子分の肩を叩く。
 すると次の瞬間、影が閃いたような気がして――その子分は、忽然と姿を消していた。
「うっ、うおおおお〜! アイツ、どこ行った――!」
「兄貴! 落ち着いて、兄貴ッ!」
「いやお前、落ち着けったって、これが落ち着いていられるか……」
 そう、ボスが言い返した、その相手も、消えていた。
 ボスは、周囲を見回した。
 すでに自分しかいない。木に、茂みに、あんなにいた子分たちは、すべて消えている。
「こ、こんなことが……」
 じっと手を見る。大事にしていた双眼鏡が、ポトリと彼の手から落ちた。
「こんなことが、あっていいのか――!」
 大音量で叫んだ次の瞬間、辺りは静寂に包まれた。
 黄金色の月と、星たちが、変わらぬ光を放ち、森を照らしている。
 森奥で鳴く、ふくろうの声。
 ――そして誰もいなくなった。



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「ちょっと、シンちゃん! それ人間でしょ――!」
「ンニャ
 ただですら198cmの男には狭い穴の中だというのに、でんと場所を取っている巨大ヘビの上に、なんだか今度はぐったりした人間が積まれていく。一人、二人。三人、四人……。
 住みにくいこと、この上ない。アナコンダと共生どころか、さらに問題山積。
 ちょっと待って。まず考えさせて。一体これはどういうことなの。
 マジックは、頭を抱える。
 ああ、それなのに。
 黒猫は、得意そうにくわえてきた新たな男を、また穴にぐいぐい落とす。白目をむいた男は、積み上がった男たちの上に、ぼとっと落ちた。
 下がヘビで、上が気絶した男たち、という異様なトーテムポールが高さを増していく。
 いや、ブレーメンの音楽隊だろうか、と首をかしげてマジックは考え、抗議を再開した。
「あのね、ソレ、どこから取ってきたの! んもう、パパに共食いさせる気かい? あっ、また!」
 しゅたたたたーと駆け去ってしまったシンタローに、マジックは地団太を踏んだが、あまり揺らすと嫌なトーテムポールが崩れてきかねないので、仕方なく我慢する。
 かわりにぶつぶつ文句を言う。
「まったくシンちゃんったら……一つのことに熱中すると、そればかりだよ。あの子は昔っから、もう」
 幼児時代のシンタローに、泥団子の後は泥スープ、泥寿司、泥ケーキ等を延々と食べさせられた経験を持つマジックは、切ない気持ちになって嘆息する。
 折角、穴の底で体を休めて、欝をやり過ごそうと決めたのに、この有様だ。
 いまやスペースの大部分をシンタローの獲物トーテムポールが占めており、マジックは毛布を握り締めながら、穴の縁で細々と膝を抱えている始末なのである。
 あのね、シンちゃん。パパはこんな狭いとこ、慣れてない。
「あ」
 しかもよく見れば、ヘビの巨体の下から『ダンディ倶楽部』が少しはみ出している。
 そうか、このトーテムポールは一番下がこれだったかと、毒にも薬にもならない発見をしてから、マジックは、積み上がった獲物たちを眺めてみた。
「……」
 ヘビはともかく、なんだか品のよろしくない男たち。知らない顔だ。
 もっともマジックは、興味のない人間は見た瞬間に忘れるので、基本的には世の中のほとんどの人間は知らない顔をしているのである。
 ともかく、いかにも悪者だな、と自分を棚に上げて、マジックは思った。
 そもそもシンタローは、仕事で悪者退治をしているのだから、これもいいのかもしれない。
 まあいいか。後でティラミス辺りに言っておけば。返しといてくれるだろう。
 それで完全に関心を無くして、マジックは冷たい穴の底で、また呟いた。
「うーん、『父さんとトーテムポール』……これはいまいちかな。グンちゃんに聞いてもらうのは、やめとこう」
 彼のギャグの基準はよくわからない。






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