総帥猫科

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 懊悩するマジックからは少し離れた場所で、秘書たちは会場のセッティングを続けている。
 特にこのような憂鬱モードの時は、目を離すと危ない上司の様子をさりげなく心配しながら、ではあるが。まったく世話の焼ける上司である。
 美しい薔薇を――いつもは生花であるが、今回は突発イベントのために造花を――飾りつけているチョコレートロマンスが、ダンボールの箱から一生懸命に花を取り出して、彼に手渡してくれている津軽少年に向かって、笑って言った。
「いやあ〜、津軽クン、手際いいなぁ! なにげに秘書の仕事、向いてるんじゃない?」
「そ、そうだっぺか」
「うんうん、真面目だし几帳面だし。それになかなかここまで溶け込める子いないよ〜、あの一癖どころか、二癖、いや百癖ぐらいはありそうなマジック様のお世話って、自分で言うのもなんだけど、結構大変な仕事なのに」
 『大変な』という所に、やけに情感を込めるチョコレートロマンスである。
 隣で列整理のために、地面にテープで目張りをしているティラミスも、注意深くメジャーでテーブルとの距離を測りながら、こくりと頷いている。
 津軽少年は、大きすぎる黒コートの裾を、地面につけて汚さないように苦労しつつも、恐縮したように頭を下げた。
 年の割には礼儀作法に長け、世間慣れした少年である。幼い頃から組織で生活しているからであろうか。
 なんだか薄幸そうな印象も相まって、少年は、特に今まで下っ端人生を歩んできたチョコレートロマンスの保護欲を刺激しているらしかった。秘書は言葉を続ける。
「いや、才能あるよー。さっきのなんかさ、なかなか空気になろうと思ったって、普通あんなに上手くなれるもんじゃないよ! 俺なんかさー、いっつもマジック様の憂鬱モードの時は、慌てちゃって失敗して、怒られてたしねー」
 失敗談には事欠かないチョコレートロマンスは、ふっと遠い目をして、薔薇の茎を指先でくるりと回した。



「……」
 そのままチョコレートロマンスは、黙ってしまった。
「……」
 勿論のこと、余計なことは喋らないティラミスも黙っている。
 しーん。静まり返る夜の森。
 ガチャガチャと机を並べたり、造花が風に揺れる乾いた音ばかりが、辺りに響く。
 静寂に居たたまれなくなった少年が、離れた場所に目を遣れば、そこには月明かりに照らされて、真剣な表情で内なる葛藤と戦っている、身長約2mの派手な元総帥の姿があるのである。
 もっと居たたまれない。
 なんだか近付いちゃいけない別世界オーラが、ゴゴゴゴゴと渦を巻いているのである。まさにアナザーワールド。傍目には、かなり怖い。
「あっ、あの!」
 別世界への入り口にも、先輩の過去にも、共に触れない方がいいと判断したのか、津軽少年が慌てたように話を変えた。なかなかに空気の読める美少年なのである。彼は言った。
「ごめんなさい、ご相談さしてください!」
 深く頭を下げた少年は、やがて、おずおずと切り出した。
「こげなコト話して、いげねえかもしんねえんだっぺが……実はオラ、これから士官学校さ入るか、このまま勤務さ続けっか、迷ってんだっぺ……」
 さすがに彼のように幼少期からガンマ団に入団するというのは特異な例で、勤務のかたわら、基本的な教育は受けてはいたものの、少年はその進路を周囲の人間に常々心配されていたのである。
「ん、将来のこと? 津軽くん、迷ってるんだ」
 幸いにも明るくチョコレートロマンスが返してくれたので、ホッと胸を撫で下ろした少年は、意を決して訴えかける。
「あの、チョコロマさん! ティラミスさん!」
 思いつめたような黒瞳で見つめてくる津軽少年を前に、秘書二人は互いに顔を見合わせた。
 少年は言った。
「秘書課に入るには、どうしたらいいんだっぺ!」



「えっ、ええええええ――――!!!」
「これはまた物好きな」
 少年の衝撃の告白(だろうか?)を聞いた二人は、一人はのけぞり、一人は微動すらしないままに、それぞれの方法で驚いた。
 一瞬の間の後、ずいと身を乗り出したチョコレートロマンスと、相変わらず背筋を伸ばして、今度はテーブルクロスを整えながらのティラミスが、各々が弾丸のように喋りだした。
「秘書課の仕事は、大変だぞぉ〜!」
「激務だ」
「休みなんて、あってなきがごとしっ! 事実上、マジック様が目覚めてらっしゃる時すべてが勤務時間だし! 今夜もそうだけど、いつ緊急連絡入るかわかんないしっ!」
「だがマジック様は就寝時にトラブルを起こされることも多い」
「あちゃー、そうだった。とにかくねー、シンタロー総帥と一緒におられる時が、最高に事件の匂いがするんだよね。こう、御二人が化学反応起こすっていうか、じわーっと旨味成分が出るっていうか」
「だがマジック様が御一人の時も、今夜の例を見ればわかるように」
「そう、大変なんだよー! 特にシンタロー総帥とケンカされた時とか! もうねえ、津軽くんはまだ、ちみっこだから難しいだろうけど、色んな物が渦巻いてるからねっ! 台風みたいに周囲を巻き込むからねっ! これ比喩じゃなくて実際にだよ!」
「被害を最小限に食い止め、また被害の後始末をするのが我々だ」
「そうそうそう! しかも御二人って、行動範囲がこれまた広いんだよ〜。なにしろ世界規模! ワールドワイドに出歩かれるから、無意識にあちこち被害という名の残り香が! 各地のみなさんに謝ったり、損害補償の手続をしたりで、秘書暇なし!」
「オフだと思っていても、実はオフではない。例えば最近、ガンマ団が営利団体になったのをきっかけに、秘書課でも慰安旅行があったのだが……」
「そう! あの慰安旅行ね! 慰安、慰安って、ち――っとも慰安じゃなかったんだよー! マジック様あるとこ常にトラブルあり! でね! そしたら後でシンタロー総帥も……って、長くなるからまた機会があったら話すよ! とにかく!」
「とにかく」
 秘書二人は立て続けに喋ると、声を揃えて言った。
「大変なんだよー!」
「大変だ」



「でも、そげに大変なお仕事を、チョコロマさんとティラミスさんは、なぜに続けてるんだっぺか?」
 不意に投げかけられた素朴な質問に、二人の秘書は息を飲んだ。答えに詰まる。
「うっ、それは……」
「……」
 少年は頭を振り、
「きっと、わが思うに、やりがいを感じておられるからだっぺ」
 と確信に満ちた表情で言った。
 両の拳を握りしめ、キッと先輩二人を見上げる。
「秘書課のお仕事は、マジック様とその御家族と接するお仕事だど聞いておりますっぺ」
 そして少年は、今度は逆に目を伏せた。やや小さな声で、想いを口にする。
「オラは、コタロー様のお世話がでぎだらって思って……」



「津軽くん……」
「……」
 チョコレートロマンスとティラミスが見つめる中で、少年は恥ずかしそうに話し始めた。
 コタロー様が目覚めてがらのことだども。
 友達になれたらって。
「オラ……小せぇ頃から、虫ばあやつれる特異体質で、周りからは変わりモン扱いで、友達もそんなにいなくで、その上すぐにガンマ団さ入っだもんだがら……」
 田舎育ちの少年は、その育ちにそぐう純朴さで、訥々と語る。
「もちろんマジック様にも拾ってもらえで、シンタロー総帥にも優しくしてもらっで、感謝しとりますだ。だども……」
 黒い革コートの襟に、小さな手が大事そうに触れた。
「はじめは、顔さ似てるって言われで、オラはコタローさまに親近感持ってだだけだったんだども」
 声が熱を帯び、真剣さを滲ませている。
「だんだん……他のコトも、コタロー様と似でるって、思っちまって……オ、オラなんかがって、怒られるかもしんねえけど……」
 だから、と少年は言った。
「コタロー様のお世話してえって、思うようになっちまって……」
「津軽くんッ!」
「……」
 少年の右手をチョコレートロマンスが、左手をティラミスが、同時にとった。ぎゅっと握りしめる。
 二人の秘書は、その背に『ジ――――ン!』という巨大文字を背負っている。つまりは壮絶な感動が、二人を押し包んでいたのである。



「できるよ! 津軽くんならできるよ! 応援するよ!」
 恐縮しっぱなしの美少年の手を、目を潤ませながらブンブンと振っているチョコレートロマンスである。
 しかしティラミスの方は、しばし黙考してから、無言で相方の肩口を引っ張った。
「わったったっ、おいちょっと何だよ、ティラミス!」
「こっちへ来い」
 話し声が届かない場所までチョコレートロマンスを連れて行くと、ティラミスは声を潜めて言った。
「あの子が秘書課に入るとして、マジック様はいいだろうが、問題はシンタロー総帥だ」
「あ」
 失念していたというようにチョコレートロマンスは、口に手を当てた。
「マジック様と総帥との間の、新たな火種になりかねない」
「ああ〜、それはある。半端じゃなく、ありえる」
 二人は揃って、未来を想った。あのややこしい二人の間が、さらにややこしい事態に……。



 秘書たちの想像の中に浮かび上がったのは、津軽少年ばかりに構うシンタローと、すねるマジックの姿であった。
 津軽少年にハートマークを飛ばしまくっている新総帥の背後で、どよーんと暗く膝を抱えている元総帥。
 ああ……。揃って二人はうなだれる。またこれは嵐が起こるぞ、と。
「いや、こういうパターンもある」
 ティラミスが言い、次に二人が思い浮かべたのは、足しげく秘書課に通うシンタローの姿である。
 それに伴い、マジックも自席を自室から秘書室へと移し、総帥と元総帥のバトル(?)は秘書室で開催されるようになる。
 秘書たちが忙しく書類仕事に没頭するそばで、W総帥が言い争う声が響き、台風が渦を巻き、物品や重要資料が窓の外に飛び散っていく様子が、リアルに想像の中では映し出されていく。
 チョコレートロマンスは、ぶんぶんと頭を振った。
「だめだろう〜! 御二人のケンカが秘書室でって、俺たち仕事できないじゃん! もしマジック様一人が秘書室に移ってこられても、それだけでデスクワークできないのに! お世話が大変で」
 秘書の仕事は、勿論のこと、机上のものが大きな割合を占めているのである。資料を作成したり、手続をしたり、各所との調整をはかったり、外部内部を問わず連絡作業を行ったりと、裏方作業で組織を支える縁の下の力持ち、それが秘書課である。
「ああ。事実上、我々の事務仕事は遂行不可能になる」
 言い切ったティラミスは、同僚に向かって、さらに異なる可能性を提示した。何気に想像力豊かな青年である。
「こんなのはどうか」
 すでに二人のイメージの中では、秘書室は粉みじんで、もうもうと煙が立ち昇っている。煙の中に、うっすらと人影が二つ。立っているのは、その二者のみなのである。
 その人影の間に、ドカーンドカーンと眼魔砲が飛び交い、目からビームが放たれ、周囲は大地震もかくやという有様。
 まさに怪獣大戦争である。



「……」
「……」
 さすがに秘書たちは、俯いて黙した。
 きわめて丈夫な超人二人の戦いの狭間で、瓦礫に埋もれている自分たちの姿を想像するのは、抵抗がある。
 W総帥がケンカするなら、最低限でも秘書室以外でやってほしいものである。本当は、ケンカ自体をしてほしくないのであるが、それは不可能事であろうと思われたので。
 微力な一般人たる彼らの、これはささやかな願いである。
 ともかくも切ない未来図に肩を落とし――こんな想像をしてしまう程に、彼らは苦労を重ねてきたのである――両者は力なく振り返り、美少年を見遣った。
 少し離れた場所で、年端もいかぬガンマ団員は、販売するパンフレットに折りこむチラシを折っていたが、先輩の視線を感じたのか、
「?」
 ピュアな瞳で彼らを見つめてきた。視線が合った。津軽少年は、無垢に微笑んだ。
「……ッ!」
「……ッ!」
 不意にティラミスとチョコレートロマンスは、息を詰まらせる。
 キラキラキラと潤んでいるかのような津軽少年の目に、日夜手間のかかる上司の世話にあけくれている二人は、ハッと胸を突かれたのである。
 心が洗われていくような気がしたのだ。
 同時に彼らは、自分たちがはじめて秘書としての任務についた頃のことを思い出したのであった。
 初心忘れるべからず。
 二人は共に思った。
 そうだ、自分たちは仕事に慣れすぎて、あの頃に感じていた初々しい気持ちを、忘れかけているのではないか?
 今だって仕事への誇りは失ってはいないけれども、やりがいも感じるけれども、どこかに『秘書の仕事なんてこうだ』という驕りがなかったか。ルーティン・ワークへのあなどりがなかったか。
 もし苦難があるのなら、それを越えていけばいいだけの話である。それが俺たちの仕事。それが秘書課。クリエイティブな仕事。
 面倒事を避けるよりも、むしろ面倒事に正面から立ち向かって、処理してみせるのが秘書の技ではなかったか。
 ティラミスとチョコレートロマンスは互いを目を見交わして、内心で反省した。長年苦難を共にし、通じ合っている彼らは、言葉などなくとも、相方と心理を共有することができたのである。
 ややあって、チョコレートロマンスが津軽少年にまた目を遣り、今度はポジティブに発言した。
「意外と。津軽くんは、御二人の間の、潤滑剤になるかも……今までの秘書課にいないタイプだから」
 W総帥のケンカだって、もしかしたらさりげなく仲裁することができる逸材に成長するかもしれないのである。彼には将来性がある。
 ティラミスも深く頷いた。
「そうだな、それにコタロー様が目覚められた暁には、御学友として」
「いいかも」
「いいな」
 こうして二人は、少年を応援することを決めると共に、自らの職務への熱意を、より一層に燃やしたのである。
 やる気をみなぎらせて、夜の森で彼らは誓った。
 貫け、秘書道。秘書には秘書の道がある。
 頑張ろう、仕事。



 さて、本編の主人公(一応は)であるマジックの方に戻ろう。
 秘書たちが、それぞれの道に思いを馳せている一方で、マジックはいまだ木陰に立ち、会場設営に勤しんでいる秘書たちを見守っているポーズをとっている。顔は、深刻。厳しい表情をしている。
 かなりの時間、そのままであった。
 何度も夜の風が彼を通り過ぎたが、しつこいぐらいに、そのままである。
 だが彼の内面では、これまで幾度も述べてきた通り、さまざまな心の綾が織りなされているのである。
 自己嫌悪を基礎とする憂鬱と、ピンク色のラブい空想の間を行ったりきたりで忙しい彼は、今はちょうど後者の波に揺られている辺りで、ぼやーっとしている所であった。
 ぼやーっとしてはいたが、外見的にはくだんの深刻な面持ちを崩してはいなかったので、慣れない者には、黄金色の月に照らされた悪魔が、世界に災いをもたらすための憎悪を全身にみなぎらせているかとも見えたかもしれない。
 そこにティラミスがやってきた。
 上司が実は、ぼやーっとしているということを瞬時に見抜き、注進に及ぶ絶好の機会であると秘書が考えたのは、ひとえに血と汗のにじむ訓練と技術のたまものなのである。
 ティラミスのさりげない咳払いでハッと我に返ったマジックは、表情は苦悩に満ちたままであったものの、夢から覚めた人の目の色で、部下をゆっくりと見た。
 一息おいて上司に現実を把握させる時間を与えると、ティラミスは口早に事実を伝えた。
「新たにシンタロー総帥のお姿が、カメラにキャッチされました」
 びくんとマジックは眉を上げた。まだ森にいるはずのシンタローのことが心配になったのだ。
 まさかすでに高松に捕まってやしないだろうな?
「……なにっ。シンタローは無事だろうな、すぐに映しなさい!」
 頷いたティラミスは、持参のモニターのスイッチを入れながら、こう付け加えた。
「なお御命令通りに、金銭の回収も、ほぼ完了済みです」



 食い入るように見つめるマジックの前で、画面に映し出されたのは、夜の森で悲嘆にくれる黒猫の姿であった。
 悲しげな声が、画面いっぱいに響き渡る。
『ニャア――――ン! ニャア――――ン!』
 猫耳が不安げに揺れ、長いシッポはだらんと垂れて、両足の間で縮こまっている。画面中央に陣取ったシンタローは、満月に向かって、胸よ張り裂けよとばかりに、鳴いているのであった。
『ナイニャ――ン! ナイニャア――ッ!』
 シンタローは地面のあちこちを掘り返し、ぺたぺたと鼻先を木々や草むらのいたる所につけては、必死に何かを探している様子である。
 辺りはシンタローが掘り返した土で、いっぱいだった。本人、いや本猫も泥だらけである。手当たり次第に掘っている。
 そして切なそうにに鳴いている。後ろ足で立ち、前足を漕ぐように宙で回転させる。
『オレノカネ――ッ! ンナ――ウ! ナ――――ウ!』
「今頃気付いたのか……シンちゃん……」
 埋めた金がなくなっていることに、とっくにシンタローは気付いているものとばかり思っていたマジックである。
 どうやらシンタローは今まで、まるっきりわかっていなかったらしい。
 猫足で、激しく地団駄を踏んでいる。ニャフウ、ニャフウと諦めきれない気持ちを、嘆きに託しているのだろう。
 長い黒髪が揺れ、月光を浴びて、淡く輝いた。
「シンタロー」
 その様子を見ながら、マジックは一つのことに思い至った。両手を握り締める。
 シンちゃん。お前は。
 お金よりも、穴に落ちた私の世話をする方に気をとられていたって。お金よりも、一緒に埋めた果物の皮や、魚の骨を私に与えることに、気を取られていたって。
 そう、うぬぼれてもいいかい? ああ、お金大好きシンちゃんを前にしても、私はセンチメンタル・ドリーマー。
 四角い画面から映像は消え、マジックは溜息をついた。
「ま、とりあえず高松の手は及んでないようだから、こちらはよしとしておこう。森の内部に高松が侵入しないように、引き続き見張ること」
「はっ!」
「……ちょっと待て」
 ティラミスに指示を下したマジックは、部下の身体を爪先から頭のてっぺんまで、じろりと眺めて、言った。
「なんだか妙にやる気マンマンじゃないか?」
 表情の変わらないティラミスの、内に溢れる情熱をすぐに感じ取ったのは、さすがにマジック、長い付き合いというものである。
 ティラミスは、コホンとまた咳払いをすると、直立不動で上司を見つめた。そして言う。
「サイン会は大事なお仕事の一つですから」
「……ああ」
 こんなことを言われても、もとより気が進まないマジックであったが、相手の気迫に押されて、つい返事をしてしまった。
 ティラミスは相変わらず表情は変えなかったが、熱いものを瞳にたたえて、上司を励ました。
「頑張りましょう!」
 少し心配になって、マジックが言う。
「……やっぱりいつもよりテンション高いぞ、ティラミス……」



 なおも言い募るティラミスであった。
「マジック様は、折角の憂鬱モードをお生かしになるべきです」
「……」
「大丈夫、今夜は無理して微笑まれる必要はありませんから」
 ティラミスはきっぱりと言い切った。こんなことを言われれば、逆にファンに申し訳なくなってくるので、マジックは自分の前言を否定したくなる。
「いや、無理って……そういう意味のことは確かに言ったが、やるからにはそりゃ私だって」
「いえ! 上司の個性を生かしてこそ、秘書の腕の見せ所ですから」
 個性。個性って言われた。私は結構、普段からフレンドリーを心がけているつもりなのに。
 ちょっと傷ついたマジックは、不機嫌な顔をしたが、逆にティラミスに『そうそう、その顔です!』という視線を送られてしまった。
 一礼して去っていく部下の後姿を見送ったマジックは、ため息をついた。
 仕事というものはね。私はいったんやると決めたら、手を抜かずにやるのが信条であるからして。
 やるからには私はファンのみんなに、ありがとうって、ちゃんと伝えるつもりだったのに。私はファンのことを愛しているよ。ただちょっと今は、取り込み中で、余裕がないだけで。
 しかし秘書は、無理して愛想よくするなという。別に無理じゃないのに。そんなことを言われると。
 しかも憂鬱モードを生かせとな? ええい、やっぱり勝手にしろ。
「……はあ」
 やさぐれたマジックは、乱れたままの髪と衣服で、夜空を仰いだ。
 見上げてごらん、夜の星を。小さな星の小さな光が、ささやかな幸せを歌って――。



「……」
 彼は今後の自分の気持ちを予測し、確かな手ごたえを感じていた。くる。きっとくる。
 ああ、やっぱり。彼はますます憂鬱になってきたのである。
 耐えられずに、マジックは心の中で叫び声をあげた。
 ああーん、シンちゃん。シンちゃんに会いたい。
 今頃シンタローは、森の中で何をしているのか。
 マジックは愛する者の行方に想いを馳せた。
 こんなに愛しているのに、一緒にいられないなんて。
 まだ大好きなお金を探してるのかな。またビニールか何かで、一人遊びをしてるのかな。獲物を探して、狩りをしているのかな。
 そろそろ疲れて、木の上で丸まって、眠ってしまっていたらどうしよう。もう夜も遅いことだし。ああ、いけない。あの子は風邪気味なのに。
 それとも、もう私のことなんか忘れてしまって、満月の光と一緒に、はしゃぎ回っているのだろうか。



 そうこうする内に、会場設営が終わったようである。薔薇とハート模様に包まれた空間は、たとえ急場のセッティングであろうとも、ゴージャスなムードを漂わせていた。余人が見れば、紫とピンクの霧が、辺りに立ち込めているように錯覚しかねなかったであろう。
 すでに川原にはロープが張られ、その外側では猛る男たちの熱気がムンムンしていた。
 秘書に誘導され、この場所へと導かれてきた桃色マッチョの大群が、今か今かとサイン会の始まりを待っていた。オフ会といっても、かなり壮大なものであったらしく、総勢100名はいるのではないだろうか。
 冬が近いにも関わらず、男たちのむき出しの腕は、隆々たる筋肉でキラキラ輝いている。ボディビルダー世界選手権がこれから開催されるのだとしても、誰も驚くまい。
 男たちには躾が施されており、きっちりと規律が隅々まで行き渡っていたから、他の者を押しのけようとか乱闘騒ぎを起こそうとか、そんなことを考える無法者は一人としていないのである。
 むしろ彼らは一体であった。同じカリスマを信奉する者として、笑顔も涙も苦楽を共にしてきた同胞たちであった。愛だ。男たちの間には、互いへの愛がある。通いあうラブがある。
 やがて男たちは、地を這うハミングを始めた。そろって分厚い唇を震わせる。
 ル〜ルルルルル〜マジカルルルルルル〜〜〜♪
 丸太のような腕を肩に回しあい、兄貴たちの分厚い体が、揺れている。
 ちなみに組み立て式の屋外防音塀が、彼らの周囲には設置されていたから、防音対策は完璧だ。
 そこにパッと光が差し、男たちの筋肉の間でどよめきが起こる。
 森の樹木の枝々に備え付けられたスポットライトが、暗闇を青く照らし出し、絢爛豪華なきらめきが目を射る。



 パーン! パーン! パパパンパーン!
 大木と大木の間に吊られた、とびきり大きなくす玉が派手に割れて、『マジックFC特別サイン会』という、花々とマッチョ兄貴のオブジェに飾られた垂れ幕が、ででーんと降ろされた。
 さらに副題として、脇に『マジックインブルー 〜マジック様の憂鬱〜』と付け加えられているのが、男たちの興をそそった。
 何だ何だ、今夜はオフ会で熱き仲間と語り合うために、やってきたのだが。どんな幸運の巡りあわせか、当のマジック様にお会いできるばかりか、いつもと趣向が違うらしいぞと、期待を高まらせる。
 なにしろ彼らはマジックのディープなファンであったから、すでに講演会やサイン会には何度も足を運んでいる猛者共ばかりなのである。そんな彼らが、常とは異なる気配をすぐに察知したのは当然であった。
 なんだかスポットライトも、いつもの七色ではなく青色や寒色系が使用されているのだ。
 高らかにファンファーレが響き渡り、続いて音楽が鳴る。しかしその音楽も壮麗かつ荘厳なものではなく、切なさに満ちた哀愁のメロディだったのである。
 いつもの華々しい華麗さに比べ、今回の緊急サイン会はナイーブさに満ちていた。
 流麗なギターの調べに呼応するように、ティラミスとチョコレートロマンスが、舞台袖として設定したらしい木陰から、姿を現した。



 男たちの群れの前で、マイクを持った秘書二人は挨拶をすると、本日のサイン会の特殊性を説明し始めた。
 彼らは切々と語った。身振り手振りをまじえ、時には熱く時には悲しく。
 そうなった経緯は曖昧にぼかしたものの、今現在、マジックは憂鬱に陥っているのだということを巧みに伝える。
 望んだものが得られずに、苦悩と葛藤にさいなまれ、飢えるマジック様の図。
 これは、そんな中で開かれる、貴重なサイン会であること。
「さらに傷心のマジック様は、心ばかりか身も傷ついておいでなのです……」
 マジックの頬についた、シンタローにひっかかれた傷のことを、さりげなく事前説明するチョコレートロマンスである。
 男たちはシーンと静まり返り、各々が驚きに満ちた表情をする。
 傷ついたマジック様なんて、見たことがない。いつも笑顔か余裕タップリのマジック様しか。
 観衆の反応を見極めて、すかさずティラミスが声を大にして言った。
 出会いは一期一会。今日この場所でサイン会を開くのも偶然、人々が集ったのも偶然、マジック様が憂鬱モードにあるのも偶然。この偶然に身を委ねよう。
 傷つき悩み苦しみ、己と戦うマジック様。厳しい顔をして沈み込み、余裕なんてないマジック様。
「貴方も、そんなマジック様に、冷たくあしらわれてみませんか」
 ウオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!
 男たちは沸騰した。
 なんというレア体験。激レア! こんな偶然に出くわした我が身の幸運、ウィーアーラッキーマン!
 ファンクラブ会誌『ダンディ倶楽部』の総力特集、マジック様密着24時にさえ、ほのめかされているだけであった、伝説の『マジックの憂鬱』状態をこの目にすることができるなんて!
 しかも生で! ナマで! ナマナマナマでッ!!!



 はっきり言って、マジックのファンはマゾが多いのであった。
 見かけはガチムチ強力兄貴でも、ハートはいじめられたい乙女要素を隠し持ったヤツラが群れ集っているのである。超合金でできた饅頭の中身も、やわらかい餡子のごとく。どんな頑丈な外見であろうと、饅頭は饅頭。
 M。かなりM。他人には普段Sでも、マジックに対しては常にM。
 彼らのほとんどは、鋼鉄の肉体の所持者であったり、武闘派であったり、ひそかに社会的地位が高かったりと、その他いろんな理由で足蹴にされたりすることがない層であったから、冷たくされたり無視されたりすることに、ちょっぴり憧れているのである。
 ヒドくされたいマッチョ心。心の奥に潜む、秘密の願望。そんな人々を吸引するマジカルパワー。
 秘書たちの機転は大当たりであったようで、男たちのハートはドクンドクンと普段とはまた違った様子で打ち鳴らされているのである。
 ひびけ、マッチョの鐘。地の果てまで鳴り響け。会場の期待は、希望ではちきれんばかりに高まった。
 頃合は今だと、豊富な経験によって完璧に間合いをつかんでいる秘書が、声をはりあげた。
「さあ皆さん! お待ちかねのマジック先生のご登場ですよ!」
「いつもは手拍子ですが、今日はハミングで。ハミングで憂鬱な先生をお迎えしましょう!」



 ル〜ルルルルル〜マジカルルルルルル〜〜〜♪
 桃色マッチョな男たちの、分厚い唇から放たれる地を這うハミングに、森の木々が揺れる。
驚愕したふくろうたちが、羽を広げて逃げ出し始め、小動物が気を失って梢から落ち、葉もちぎれて、ひらひらと舞い落ちる。モグラたちが、すわ何事か天変地異かと、穴から頭を出して怯えたようにのぞいている。
「……」
 敷き詰められた赤い絨毯の上に、マジックは足を踏み出した。
 普段と同じくフレンドリーに振舞うつもりの彼であったのに、こんな前振りをされて会場をあたためられては、期待に背く訳にもいかないのである。
 かくしてマジックは、沈鬱な表情を顔に貼り付けたまま、彼のファンの前に姿を現した。
 大歓声と共に、オオオオオオと労わりの声とも変な方向への期待の声ともつかない、異様な歓声が入り混じる。興奮のあまりにガツンガツンと互いにぶつかり合う男たちの肉体。飛び散る汗。みなぎる熱気は、すでにマジック降臨の際の儀礼と化していた。
「合言葉は?」
 熱き血潮の激流に向かって、ティラミスの声が響き渡る。
 ピンクのハッピを着て、マジックの顔がプリントされた団扇を持ったゴツい男たちは、一斉に叫んだ。
 荒れ狂う地獄の溶岩が、世界を一巡して巡ったような歓声に割れた。
「「「「「「「「「「「マジカルマージック」」」」」」」」」」」
 マジック・ファンクラブ、臨時サイン会が、幕を開けたのである。



「……」
 大ぶりのテーブルについたマジックは、斜めに座ってプイと脇を向き、表情に影を漂わせて、物思いに耽っている。
  すると背中に『愛 LOVE MAGIC』とプリントされたピンクのハッピ、『マジック様命』のハチマキ、マジックの笑顔うちわ、『MAGIC』刺繍入りのリストバンド等を身に着けた、完全武装の男たちが列に並んで、次々と彼の前へとやってくるのだった。
 感極まって泣き出してしまったりする、そんなマッチョマンたちを、マジックは冷たく無視した。
 つまらなそうに、グッズなり著書なりにサインをする。
 贈り物を差し出されても、じろりと青い瞳で一瞥し、相手がビクッとしてから、一度だけ頷きを返す。
 声をかけられても、聞いているのか聞いていないのか曖昧な態度を取っている。沈鬱な面持ちで、自分自身の内面の苦悩にのみ浸っているように見える。だが時折さげすんだような視線を相手に送り、鼻で笑う。
 するとますます感激しているMな男たちであった。秘書たちの作戦はズバリ的中。
 握手だって、指の先だけで。トークも眉をひそめただけで。ちょちょいのちょい。
 もとより冷たかったり傲慢なのには慣れているマジックであるので、というよりそっちが地という説も根強い彼であるので、彼にとってもこれは楽しい仕事であった。基本的にはSがマジックの領分である。ビシバシやろうぜ。
 まあ、仕事というよりも、ファンと会うこと自体は楽しみであるのだけれど。
 桃色男列の向こうでは、チョコレートロマンスたちがまるで屋台のように軒を連ねて、大量のグッズを販売中である。フィギュアやキーホルダー、ハンカチエプロンその他グッズというグッズが、『限定販売』の看板の下に溢れている。
 もちろん大ベストセラーの『秘石と私』は、上中下巻とも、タワーのように積みあがっている。
 群がる男たちに、休む間もなく品物を売りさばいている秘書たちの額には、玉の汗が浮いていた。
 グッズの中には、突発イベントにも関わらず、本日の日付入りのものもあったりしてレア感を煽る等、彼らの努力のあとをうかがわせるものまである。
 こんな風に、会は滞りもなく無事に進行していったのであるが、催事の中でやはり最も大好評であったのは、サインの後に一人につきスナップ一回が可能な、『憂鬱なマジック様との写真撮影』であっただろう。



 やっぱり暗く厳しい面持ちで、写真撮影にも臨んでいたマジックである。
 心霊写真のごとく、威圧オーラまで写り込んでしまうのではないかというぐらいの勢いだ。
 パシャ。パシャ。どんどんとシャッターが降り、彼は男たちと一緒に写真を撮る。繰り返す。なかなかに写真撮影一つをとっても、大変な労働なのである。
 そんな折にマジックは、何十度目かの撮影の際に、ふと――隣に来た男の腰が、ちょうどいい高さにあることに気がついた。
 ちょうどいい、というより、自分が馴染んだ位置に腰があるのである。手を置くのに慣れた位置。一番心地よい位置。すなわち、シンタローの腰の位置。
 どうやらこのファンの身長は、シンタローと同じ192cmぐらいで、体格も同程度であるらしい。いい体つきをしていた。
「……」
 ほぼ無意識に、マジックは相手の体に手を回してしまった。条件反射といってもよいであろう。
 黄色ならぬ赤茶けた色のような悲鳴がギャラリーからあがって、はじめてマジックは自分の行動を知った。
 いけない、ファンには平等に接するべきなのに、とも思ったが――だから今日の憂鬱ポリシーとしては、ファン全員に等しく過度の接触は控えるべきだった――手を引っ込めるのも今さら相手に失礼であったから、そのままにしてデジカメを構える秘書に合図する。
 マジックとそのファンは、まるで寄り添っているような体勢になった。マジックが相手を抱き寄せているようなかたちになる。
 その時だった。
 マジックは、何かが自分の背後めがけて、飛んでくることに気づいた。
 シャッターを切る瞬間だったから、動いて避ける訳にもいかない。さして危険物ではないと判断したので、マジックは、そのままじっとしていた。
 『何か』はコツンとマジックの後頭部に命中した。
「ん?」
 フラッシュが光った後、感激してメロメロ状態なファンに、お約束の冷たい視線を返してから、マジックは『何か』が当たった自分の後頭部に、手をやった。刺さっているものを抜いて、目の前で検分する。
 マジックの髪に刺さっていたものは、魚の骨、であった。
「……」
 白い骨。尾までついていた。



 なんだって、こんなものが。私の頭に刺さるのか。飛んでくるのか。
 考える間もなく、次のファンが集団で、キャーキャーならぬマッスルマッスルやってきて、マジックの両脇をがっちり固めた。ホールド、筋肉の枷。
 今度もマジックは、ファンの肩にさりげなく手を回す。表情は変えないままだったが、何となくそんな人恋しい気分になっていた。親愛の情を示してくれたファンに、これぐらいはいいだろう。
 すると、
「……ッ!」
 どすっという衝撃があった。今度は背中に何かぶつかった。またもやカメラのシャッターを切る瞬間に飛んできたので、避けることができない。
 フラッシュが光った後、感激するファンに冷たい視線を(略)。マジックが背に手をやって、見てみると。
 泥だんごだった。手は泥にまみれている。自分の背中にはきっと、べったりと泥がついている。
「……」
 そういえば、シンちゃんがちっちゃい頃にはね、こういう泥だんごなんか、『パパ食べて』って持ってきてね、ハハハ、と回想に浸る間もなく、マジックは次のファンと指の先で握手をし、サインをし、写真撮影へととりかかる。
 まあ背中だし、今は忙しいし。考えるのは後にしよう。



 次のファンは、豪傑だった。彼は凄かった。
 持参の日本刀にサインをしてやり、さて一緒に写真を撮ろうとマジックが立ち上がった瞬間に、
「マジック様! 拙者の愛を受け取ってくだされ!」
 ぶっちゃけ、マジックに向かって、ガツーンと体当たりしてきたのである。
 正面から助走して。アメフトのタックルよろしく、破壊力満点のバッファロー級威力で。
 このようにして、肉体で挑まれるのは、マジックにとっては実はそんなに珍しいことではなかった。
 マジックファンクラブの面々は、Mであると同時に、途方もなくSでもある。マジックに酷くされたいと願いながら、その心の裏では同時に、マジックを征服し壊してしまいたいとまで考えている者がいるのである。
 マジックと相対し、戦いを挑むのが、男たる我らの最終的な夢。
 そんな訳で、この豪傑は、自慢の肉体を生かして体当たりをかましてきたのである。
 だが今夜は憂鬱時のマジックであるからして。ここは相手本人も周囲も、冷徹に弾き返されるとか、そんな対応を予想していたらしかった。
 どうやらこの豪傑は、マジックに拒否されて、お仕置きを受けることが目的だったらしいのである。
 現に、彼より前に並んでいた男たちの内、すでに10人以上が何らかの理由で、マジックにグラウンドならぬ森の30周を言い渡されて、恍惚としながら猛スピードで辺りを走りまくっていた。
 ドスドスという鈍い音と、土埃が舞っている。彼もすぐにそのマッチョの風波の一員となるはずであった。
 だがマジックは、ここで気まぐれを起こしたのである。同じことを繰り返し続けるのは、彼の性には合わなかった。結構、彼は飽き性でもあった。シンタローと世界征服以外のことに関しては。
 突進してきた男に対して、無言ながら、
「……」
 マジックは、これまたガツーンと重量級の豪傑の体を、正面から受け止めてみたのである。
 何となくそんな気分であったとしか、他には言いようがない。
 すると、はからずもファンの男とマジックは、抱き合うかたちになってしまった。
 実はこれこそが古参のファンたちが言う、『マジカル確変』というもので、ファンにはとりあえずは平等に接するマジックが、突然に何の因果か、ある一定の確率で違った行動に出る現象であった。
 本人的には単なる気分の作用にすぎないのであるが、ファンたちにとってはこれは一大事で、彼らはこの確変を追い求めて、サイン会の整理券番号を操作したり、研究結果をファンクラブ会誌に投稿したりと、さまざまな情熱の対象となっている、そんなミラクルな出来事なのであった。
 オオオ――! と遠巻きにこの様子を眺めていた、サイン前の列に並んだ男たちや、サイン終了後のロープ外にたむろっている男たちから、唸り声のようなどよめきが沸いた。
 抜け駆け禁止の掟の準用により、この豪傑は後に報復を受ける可能性があったが、彼のファン心としてはラッキーもラッキー、大ラッキー、砂場で落としたコンタクトを探し当てたぐらいのハッピネス。



 一方マジックの方にも、報復が届いていた。
 どすどすどすっ!!!
「くっ!」
 流石にマジックは呻いた。背中に泥だんごの乱射を受けたのである。
 いくつもいくつも。しかも巨大な塊が高速で飛んできた。質量と速度が増せばダメージも増加するのは、運動量と力積の法則により世界の理。泥だんごは、とんでもなく高速で、マジックを攻撃したのだ。
 避けようとしても、男に正面からホールドされているので、さすがにそんな迅速な行動には移れなかった。どうやらマジックが避けきれない瞬間を狙って、魚の骨なり泥だんごは、飛んでくるようである。
 顔をしかめたマジックを見て、夢見心地の豪傑ファンは不思議そうな顔をしたが、ああ、これぞマジック様の苦悩の証拠と見て取ったのか、目を輝かせているので結果オーライだ。
「うーん、これは一体……」
 豪傑との写真撮影を終えた後、マジックは自分の背中をさすった。もはや泥だらけも泥だらけ、手の施しようがない。
 やれやれ、これではファンのみんなに、正面しか見せられないなあ。とりあえず彼は、そんなことだけを考えた。
 彼は基本的には聡い男であったが、恋人に対してだけは恐ろしいほどに鈍感な男でもあるのである。



 とりあえずは目の前の仕事、仕事、と次のファンの応対をしているマジックの元に、グッズ販売部署にいた津軽少年がやってきたのは、そんな頃である。
 少年はそっと近づいてきて、マジックに何か伝えようとした。
 だが、あいにくマジックには聞き取ることができなかった。写真撮影ではしゃぐファンたちの野太い声で、かき消されてしまったのである。
 そればかりか、男たちに埋もれて発見すらしてもらえなかった津軽少年は、思い切ったのだろうか。マジックの服の裾を、クイッと引いた。
 躾けてあるファンには肉弾で挑まれても、裾を引っ張るなんてことはされたことがなかったので、流石にマジックは驚いて、それでやっと少年の存在に気づいたのである。
「あのぅ……」
 小柄な少年とマジックの間には、かなりの身長差があったので、その声を聞き取るには、マジックは少し腰をかがめねばならなかった。
 恐縮しながらも少年は、小声でそっと囁いた。
「あっちの方に……猫耳とシッポの生えた茂みが……」



「何ッ! 待て、振り向くな、視線を遣るな!」
 他を制するよりも、むしろ条件反射的に動きそうになった自分を制して、マジックは声を潜めた。
 さっとティラミスが手鏡を渡してきたので、マジックは髪を整えるフリをしながら、自らの背後を鏡に映した。
「……むっ!」
 すると後方、森の際に、手前に向かって不自然に突き出ている茂みがあった。さらによく見れば、その茂みからは三角形の猫耳が二つと、長いシッポが生えており、ときおりピクピクと動いているようなのである。
「……」
 しかし事実は、正確に把握しなければならない。
 マジックは試しに、次に来たファンの手がテーブルの上に置かれているのを見定めると、そっとその手の上に、自分の手を重ねた。
 マジックに手を握られて、『まっ』とムキムキマッチョ男が頬を染めて、ポーッとなって……は、いいとして。
 手鏡を注視するマジックの目に、何かがキラッと光ったのが見えた。猫耳シッポな茂みから、高速で飛んできたものがある。
「ぐはっ!」
 次の瞬間、背中にこれまで以上のダメージを受けて、マジックはのけぞった。
 痛い! なんか刺さった! 泥だんごどころじゃな――いッ!!!
 背中に手をやって調べてみれば、木の枝である。枝が、巨大な矢、いや槍と化して、マジックを襲ったのであった。もちろん通常人なら重傷を負うところであるが、マジックだから平気だった。丈夫でよかった、覇王でよかった。
 でもやっぱり痛かったので、マジックは苦悩に眉をしかめ、切ない息を吐いて、人差し指で額を押さえた。
 この彼の様子は、川原に緊急設置された大画面にも映し出されている。秘書たちの心づくしであった。
 ババンと大写しになったマジックの苦しむ姿に、暑苦しく群れ集うマッチョたちが、ギャアギャア阿鼻叫喚をあげている。サインを終えた彼らは、マジックのいるスペースからは締め出されたものの、それなりに充実しているようだ。
 運悪く、今日はここに居合わせることができなかった大多数のファン仲間たちへの、電話連絡やメールも盛んに飛び交っている。
 賽の河原で死者を迎えるカラスも真っ青の、騒ぎようであった。あちこちでカメラや携帯の写メのフラッシュが光り、レア映像を手中におさめようと皆、必死。
 当のマジックの方も必死である。
 ファンたちとの交流をこなしながら、必死に考えている。
 時々、ちら、と手鏡を眺める。するとそこには相変わらずも、猫耳シッポを生やした茂みが、映し出されているのである。
「……」
 彼は、こと恋愛に関しては鈍くなる一方の頭で、ぼんやりと考えた。
 これは一体。ひりひりする背中に、手をやってみる。
 これは一体。どういうことだろう――。



 瞬間、マジックの眼前に薔薇色の未来が広がった。
 頭上の満月も色鮮やかに染まり、夜の鳥さえ極楽鳥の羽を広げて、星々の間を飛んでいくように見える。もくもくと夜空の果てからパッションピンクの幸せ雲が沸き起こり、マジックのハートを埋め尽くしていった。
 流れるバックミュージックは、ベートーベンの運命。ジャジャジャジャ――ン! の勢い。ショパンの革命の激しさ。とにかく彼は、猛烈にハッピーモードに鞍替えしようとしていたのである。
 彼は心中で叫び声をあげた。
 シンタロー! シンタロー、シンタロー、シンタロー!!!
 お前は私を追ってきてくれたんだね……!
 私のこと、気にしてくれてたんだねッ……!!!
 てっきり、満月に浮かされて遊びまわっているものと思っていたのに。
 マジックの心は躍った。浮き立った。ラブ加速した。
 ああっ……シンちゃん。パパ、パパ、嬉しいよっ……!
 彼はグッと自分の拳を握り締めた。感極まって、『ああッ!』と手首と腕をくねらせて芝居がかったポーズをとりまくっているマジックである。これには賽の河原でも大騒ぎで(略)。
 また、ちらりと手鏡を見遣り、マジックは熱い溜息をついた。
 しかもしかもっ! もしかしてもしかしてPartII! 
 シンタロー。ひょっとして……私にヤキモチを焼いてくれているのかい……?
 巨大な感動が、マジックを押し包んでいた。



 そんな内面の愛の嵐の間にも、サイン会は続いているのである。
 ファンの応対をし、サインをして写真を撮り、時には挑まれてお仕置きをしてやる。世界最強の軍団を作ろうとしていただけあって、マジックは、なにげに勤勉な男であった。
 だが勿論、賽の河原では、彼の内心の変化を敏感に感じとり、主に大画面スクリーンの前で、並び順が遅かった方がいいだの、いや早かった方がレアだのでギャアギャアしていたのは言うまでもないから、再度、略。
 秘書たちの仕事も早く、いまや看板や垂れ幕の文字は『マジックインブルー 〜マジック様の憂鬱〜』から、『マジックインラブ 〜今宵の君はマジカルシンデレラ〜』に書き換えられていた。
 周囲の喧騒を他所に、マジックは心中で願った。求めよ、されば、与えられん。
 ああ、シンちゃん。愛しき私のマジカルシンデレラ。ガラスの靴はその猫足に入るのか。
 お願い、もっと私を怒って! なじって! 痛くして!
 たとえSな立ち位置でも、シンちゃんにはいたぶられたいM心。マジックのMはマゾヒズムのM。
 うっとりしながらマジックは自らの職務をこなしたのであるが、何分ハートがシンタローへの愛に打ち震えていたため、こんな時に人間と接すればつい優しくなってしまう。愛のおすそ分けというものであろう。
 すでにサイン列も終盤、あえて最後の方に並んだ奥ゆかしい、もしくは確変狙いのファンたちに、マジックはキラキラキラと輝く笑顔と、薔薇の花びら舞い散るオーラを向けた。
 見事なまでに、シンタローラブゲージの模様によって(なぜならゲージは常に満タンであるから)影響されやすい男である。イギリスの天気と、紳士の機嫌は変わりやすいというが、これは相当なもの。天気模様と心模様の織りなす錦は金銀砂子。
 そんな上機嫌の時に、またもや肉体派ファンに突進で挑まれたのだ。
 今度の彼は、まるでスモウレスラーのような格好をして、『ごっつぁんです!』と中腰で突っ張りながらの肉薄である。ドスドスドスと地面が鳴る。
 ああ、私が日本好きだから、わざわざこんな趣向をしてくれたのか、とマジックは心あたたまって、フッと笑い、闘牛士のように突進をヒラリとかわした。
 それから激しい音と土埃の中で、勢いあまって大地に突っ伏してしまっているファンの手をとり、親切に立たせてやり、彼のマワシについた泥を払ってやった。
 感激して滂沱の涙を流すマッチョに、マジックはウインクし、
「次はヨコヅナでね☆」
 と意味のわからない言葉をかけ、確かこうだったなと記憶を手繰り寄せながら、がちっと相手の腰に手を回して、抱擁した。
「ハッケヨイ!」
 それからマジックは、相手をすぐに離して、『ノコッタ、ノコッタ』と肩を叩いてやるつもりであったのである。彼はこの台詞を、日本の国技、相撲の呪文だと思っていた。いいね、相撲。あとまだ知ってる。ドスコイ、ドスコイ。
 凝った工夫で自分を楽しませてくれたファンへのお礼のつもりであったのである。
 実際に、そうした。
「ノコッ……」
 タ、まで言うことはできなかった。



 ぎゅーんと唸りをあげて飛んできた槍は、今度は三本に増えていた。
 高速で飛んできて、ぐさぐさぐさっとマジックの背中に刺さる枝。黒猫は人間の時よりも野性的で、過激派だった。
 ちょっぴり吐血しながらマジックは言った。
「痛っ。愛が痛い
 他人にはMな兄貴がマジックにはSな仕打ちを受け、兄貴にはSなマジックがシンタローにはMな仕打ちを受け、あとでシンタローがマジックに押し倒されてSな仕打ちを受けてMな感じにニャンニャンニャン……と、磁石もびっくり、SとMの果てしない連鎖の交響曲。
 しかし、どんどん攻撃がエスカレートしてきているのは、気のせいか。



 スモウレスラーを寒中水泳の刑に処した後、マジックは、次の男からプレゼントを受け取っていた。
 何しろ急場のサイン会であったため、常よりは貢物が少ない。その中で、よくも用意してくれたものだと、マジックは感心した。
 マジックが爽やかに礼を言うと、はにかんだマッチョは、もじもじとさらに背後に隠していたレターを取り出してきた。
 マジック先生への俺の気持ちを込めました、読んでください、と言う。
「はは、ありがとう」
 マジックは微笑み、その手紙を受け取った。すると偶然であろう、男と手が触れた。
 本当に、手が触れただけだったのだ。いつもそうだが、彼にはシンタロー以外には、特に他意はない。
 しかし――。
 背後に潜むニャンコの判定は、厳しかった。どうやら、有罪。
 ズオオオオ! とマジックの背後に、巨大文字の効果音が飛んだかと思うと、
「ん? うおわっ!!!」
 大木が、マジックめがけて倒れこんできたのである。
 ちゃんとファンには当たらないように、正確にマジックのいた位置を狙って、超重量は襲いくる。
「くっ!」
 巨大な凶器を、紙一重の差で避けると、次の瞬間にはマジックの座っていた椅子が、ぺちゃんこになっていた。おそるべしである。
 大木の根元は、例の茂みの側にある。そこから、ブスブスと嫌な音を立てて煙が立ち昇っていた。焦げているのだ。おそらくはニャンマ砲の一撃を受け、一息のもとに折られたのであろう。



 なんてことだ。びっくりしたよ。
「やれやれ」
 額の汗をぬぐい、無事の机を脇にずらして、秘書たちがすぐに用意した予備の椅子にかけて、なんとかサイン会を再開するマジックである。
 まったく、攻撃する方も強烈だが、される方だって強烈なのである。鋼の神経を持っている。
 なんたってW総帥。なにげに互いの神経レベルも拮抗しているカップルであった。繊細に見えて、結構、頑丈。だからこそ彼らの痴話喧嘩に、周囲が迷惑をこうむるのであるが、まあそれはいつものこととして。
 何事もなかったかのように、残ったマッチョたちのサインを再開したマジックであったが。
 ――しかし、彼にはひとつ、気がついていることがあったのである。
 攻撃の度に、猫耳シッポの茂みが、じわじわと前進してきていた。
 手鏡でそれがわかる。ちなみに茂みから見えている黒いシッポは、さっきよりも毛が逆立って、ポンポンに膨れていた。
 いまやシンタローは、マジックの後方、数メートルという地点にまで、接近していたのである。
 マジックへの攻撃に夢中になっているのか、それとも怒り心頭で、自分が隠れているということを失念しかけているのか。猫は普段以上に忘れっぽいのである。ああ、どちらにしても。
「……」
 これが最後のチャンスなのかもしれない、とマジックは考えた。
 これまでに様々な手を打って、ことごとく失敗したのだが――主に邪念のため――最後に図らずも、マジック自身がエサとなり、シンタローをおびき寄せることに成功したのである。
 振り向かないまま、マジックはゴクリと唾を飲み込んだ。
 もう失敗することはできない。
 さて。どうする、私?






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