総帥猫科

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 それにしても。マジックの背後で――。
 シンタローは士官学校で習う基本そのままに身をかがめ、茂みと一体化しているのであった。その後の、度重なる実戦においても培われてきた能力であろう。
 見事なものであった。人間時に身体深く染み込んだ技術は、猫になってもそのまま生かされているようだ。
 だが人間時と違う点は、大胆にも、猫耳とシッポがその存在を主張しているということなのである。そこが現在の彼の誤算といえば、誤算ではなかろうか。
 しかも、本人、いや本猫は知ってか知らずか、じりじりと前進してきている。
「……シンちゃん」
 誰にも聞こえないように、そっと名前を呼びながらマジックが用心深く手鏡を眺めれば、茂みの隙間、つまりシンタローが隠れ蓑としている木枝や草の隙間からは、黒い瞳が垣間見えた。
 その瞳は、マジックの背中に据え付けられているようであった。猫はこっちを見ている。
 今、シンタローは、じーっとマジックの行動を見張っているのである。まるで自分こそが、マジックの御主人様だという風に。
 ううーん、シンちゃん。私は逆だと思ってたんだけど。
 だが、参ったな、と苦笑したマジックの心中には、なんだか甘酸っぱいような気恥ずかしいような、くすぐったいような想いが沸き起こっていた。シンタローに見つめられていると思えば、ドキドキしてしまう。
 いやん、シンちゃん。そんなに見つめられちゃ、パパは照れるじゃないか。
 ほら、なんか、あれだ。亭主が飲み過ぎないように、じっと見張っている妻の図みたいだねっ!
 なにげに結婚というものをしたことがない男であるため、実はマジックは結婚というものに、憧れを持っていた。まるで思春期の少年のように、『結婚』に、いまだに甘ったるいポワポワしたイメージを抱いているのである。
 ちなみに大事な息子コタローが目覚め、家族が絆を取り戻してから、晴れて正式に結婚しよう、という約束をマジックはシンタローにとりつけていたため、彼らの間柄は婚約者同士ということにもなる。
 そう思えばマジックは嬉しくなって、かたちのいい顎の下に組んだ指を、もぞもぞ動かした。
 そっか。フィアンセか。ああ、これがフィアンセに見張られる男の幸せかあ。
 いいな。うん。とってもいい。
 あはは。ラブラブ。うふふ。ラブラブ。私、幸せ。
 胸をきゅーんとさせてマジックはウットリし、周囲に薔薇のオーラを放った。始まった時とは打って変わって、そんな華やいだ雰囲気の中で、いよいよサイン会は終わりを迎えようとしていたのである。



「さて、君で最後かな。お待たせして悪かったね」
「……いえ」
 列の最後に並んでいたのは、髪の毛が四方に散って、尖っている男である。マジックがフレンドリーに話しかけると、男は言葉少なに呟いた。
 吊りぎみの目をした和風の顔立ちで、マジックはこの男に見覚えがあるような気がして首をひねった。ファンクラブのイベントで出会った、という感じではない。確か、軍方面の――。
 マジックが記憶の引き出しから書類を取り出そうとしていた時、男はぼそりと名乗った。
「……心戦組副長助勤、山崎ススム……」
 名前とは正反対で、ひどく気の進まない様子である。彼は不意に鋭い目をして、マジックにこう宣言した。
「代理として伺いました。代理。勘違いしないでください、代理です」
 あくまでファンではないことを強調すると、男は表情のない顔の一部、特に頬のあたりをピクピクと奮わせた。どうやらこの場所に立っていること自体が、彼のプライドに抵触するらしい。
 マジックは男を見つめた。どこかで見た覚えがあると思っていたら、敵対する心戦組の隊士であったようだ。
 しかしこの男の無表情ぶりは、ティラミスといい勝負である。その青ざめた顔からは、正確には内心を読み取ることはできない。
 まあ、敵の眼前にあって、上機嫌ということはないだろうが。
 そうやって、まず相手を観察しているマジックの前に、山崎の手からサッと携帯電話の画面が差し出され、そこに、敵の眼前にあって上機嫌なメガネっ子の姿が映し出されるのである。
『マジカル・マージック
 聞き覚えのある声が響いた。
『マジックせんせーい お久しぶりでーす!』
 映像つきのテレビ電話だ。小さな画面いっぱいに、決めポーズをとった人物が叫んだ。
『マジックファンクラブ・会員番号3! 山南ケースケ、画面の向こうから参上



 山南の大きな声が辺りに木霊した瞬間である。
 地鳴りのような音がして、巨大な熱風が、マジックの背中に向かって押し寄せた。
「ッ!」
 この攻撃を予期していなかったマジックは、反応が遅れた。
 やっと間一髪で手の平だけを背後に回し、マジックが弾き返したため、波動は壮絶な音をたてて上空に跳ね、夜空を明るくした。
 ズドーンと今度こそ本当に大地が震え、森の奥の方で、衝撃波が大地と衝突した音が聞こえた。さぞや大きな穴があいているのではなかろうか。
 なんとか危機を逃れたマジックは、ハンカチで、静かに冷や汗をぬぐった。
 ああ、シンタロー。
 まさかこのタイミングで、タメなしニャンマ砲を、最大出力レベルで撃ってくるとは……。何がお前の気に障ったんだろうね? ああ、よくわかんないけど、シンちゃんってば厳しい。
 さすがに目の前では、山崎が怪訝な顔をしている。マジックは肩をすくめ、ただいまの惨劇をフォローした。
「いやなに、少々、物騒でね」
 絶えずスナイパーなどに命を狙われているのだと、相手も了解したのだろう。まさかそれがフィアンセ(ここ強調!)の猫だとは思うまいが。
 山崎は淡々と呟いた。
「我々がアナタを討つまで、せいぜい死なないようにしてください」
「善処しよう」



 携帯から山南の語るところによれば、ファンクラブの同志たちの熱き友情によって緊急サイン会情報を知ることができたものの、あいにく山南自身は勤務中のため、いきなり有給をとることができなかった。
 しかし山南には、ファンクラブイベント皆勤者の意地がある。そこで窮余の一策として本日非番の部下に、代理を頼んだのだという。
『いや、すまないね、山崎くん。君の希望通りにダマワラビーは飼ってあげるから』
「必ずですよ、山南さん」
 草食性の小型カンガルー飼育の約束を確認した山崎は、引き続きの無表情をマジックに向けた。
 扱い辛そうに見えてこの男、実は山南には服従しているのだろうと、マジックは見て取った。たとえそれが対価のためという形をとっていても、である。対価が小動物であるところが、一風変わっているが。
 ふうむ、山南くんは、なかなかにデキる上司らしいぞと、マジックは考えた。
 一方、なぜか画面の向こう側でもトラブル発生のようである。
『あっ、あれっ、マジック先生、失礼、ちょっとお待ちください、画面が乱れ……あれあれあれっ』
「テレビ通話したまま写真撮ろうとして、そのうえ筋肉仲間たちと通信して、録画までしようとしてるからです、やめろ、ムカつく」
 かなりこれも変わった服従の仕方ではあるが。



 いまいましげに自らの上司にツッコミを入れた山崎は、マジックと山南が話しはじめてからは、ひどく退屈そうであった。首を曲げたりしていた。何度も骨をポキポキいわせていた。
 しかしそんな彼が、不意に息を飲んだのである。唸っている。
「むっ!」
 驚きの目で、周囲を見回し始める。思わずといった調子で呟いた。
「胸キュンセンサーに反応あり! ちょっと変わった個性派アニマルの予感!」
 フォーン、フォーンと怪しげな音を立てて、山崎の目が光りだす。
 なんだこの男、目からビームが出るなんて、随分と変人だな、とマジックが自分の立場も弁えずに思っていると、
「ぐっ、しかし何かが違うような……違わないような……ぐっ、くぅっ……と、ともかくも探してみるしか……」
 胸キュンセンサーを発動させた男は、今度はやけに苦悩し始めた。自分の直感と戦っているようだ。
 ふとマジックは、男の言葉にひっかかりを覚えた。
 ん? 待てよ? アニマルと言ったな?
『それでですねえ、マジック先生
『はは、君はまったく。ふむ……それにしても君の代理という男……』
 携帯を通して、山南と会話をかわしながら、マジックはかすかに眉をひそめ、そっと山崎の行動を注視する。
 これは未来のことなのでマジックは知る由もないが、なにしろ彼、山崎は、赤の秘石の欠片の作用でオヤジ化してしまった某アルマジロにも、動じずにエサをやり続ける男であるのだ。彼が興味を見せるのは、何も小動物ばかりではない。個性派アニマルも十分、彼の範疇に入っているのである。
 マジックは、そこまでは彼の趣味を予想できなかったものの、本能で何だか不穏な空気を感じた。本能、すなわちシンタローの危機を察知する防護本能とでもいうべきものである。
 彼は思った。
 いけない。もしかしてこの男、動物マニアか?
 まさか!
 ピーンとマジックの脳裏に閃くものがある。
 この男、シンタローの存在を嗅ぎつけたか? 美青年ながら、なんという変態的能力の所持者だ、やはりガンマ団のライバル、心戦組の者だけある!
 マジックは敵の能力に舌を巻いた。総帥現役時代に各地を渡り歩いて、このような逸材を勧誘しまくっていたマジックの心の、昔とった杵柄が震えた。
 ううむ、敵ながら見事! ガンマ団にスカウトしたいぐらいだ!



「……? この付近か……?」
 フォーン、フォーン。
 山崎の目から出る七色の光線が、まるで逃亡者を探す監視台のサーチライトのように丸く背景を切り取って、夜をさまよい、やがてマジックの背後付近を重点的に調べ始める。
 シンタローの隠れている茂みが一瞬照らし出されて、ハッとしたらしい猫耳とシッポが、引っ込んだ。間一髪で身を伏せたらしい。
 丸い光は無事茂みを通り過ぎたが、これでは見つかってしまうのは時間の問題なのである。
 その様子を、さりげなく手鏡を盗み見ながら、マジックは危機を感じている。
 不味い。なんということだ、この男の注意を逸らさなければ! なんて夜だ、次から次へとアクシデント到来だよ!
「君!」
 マジックは机に手をつき、すっくと立ち上がった。



「なんですか」
「肩にゴミがついてるよ」
 マジックは山崎の前に立ちはだかると、いかにも親切そうにその肩に手をやり、さっさっと手の平で払ってやる仕草をした。
「……どうも」
 無愛想に呟いた山崎である。
 彼は自らの視界の中央に立つマジックを見つめた。なにか胡散臭いと感じたようであるが、とりあえずアニマルサーチを続けるには邪魔であると判断したらしい。山崎は一歩横にずれて、位置を移動した。
 すかさずマジックも同じように一歩横にずれて、山崎について位置を移動する。山崎のサーチをさりげなく妨害する。
「……」
 正面に来たマジックを避けようと、また山崎が横移動する。
 さささ、とマジックは横移動して、山崎の視界をさえぎる。
「……」
 さささ。
 山崎は今度は左に動いた。
 さささ。
 マジックも左に動いた。
「……」
 山崎は今度は右に動いた。
 さささ。
 マジックも右に動いた。
「……」
 常に真正面に向き合っている二人である。デカい男が互いに直立。見詰め合ったまま移動。
 ちょっと異様な光景であった。



 ささ。ささささ。二人は移動する。
 しばらくこの水平移動の繰り返しが続いた。これもマジックの知らぬことだが、山崎には忍術の心得があった。よって素早さには定評があるのだが、ここはマジックも負けてはいなかった。やけに相手は身軽だなとは感じたものの、なんといってもシンタローを守るためである。
 パパ、頑張るよ、シンちゃん! 見ていておくれ。
 さささ。さささささ。愛は加速を可能にする。二人の高速移動は続く。
 ロープの外側にいるマッチョなギャラリーからは、『なにアレ!』『マジック様が踊ってらっしゃる?』『見かけない顔だ、新参か?』『キー!』等と、憶測や嫉妬の声が飛び交っている。
 ざわついた空気の中を、マジックと山崎、二人揃って数十回は移動したかといった所で、やっと山崎が立ち止まり、細い目をさらに細めて、抗議をする。
「何のつもりですか」
「いや、何となく」
 放置されたテーブルの上でも、携帯電話がけたたましく抗議している。
『マジックせんせーい! ドコ行っちゃったんですかぁ――っ! ケースケの画面には夜空しか見えませ――んっ! ハッ、まさか山崎くん! 私をさしおいて、代理の君がまさかマジック先生とっ。いかん、いかんよソレは、君ィ!』
 さすがにマジックも、山崎と向き合っているこの体勢はマズいと気付いた。
 いかん。傍目から見たら、至近距離で密着してる仲良しさんじゃないか。これでは勇姿を見せるどころか、シンちゃんにも誤解されてしまう!
 マジックといえど、回を重ねれば学習するのであった。
 相手からわずかに身を離し、マジックは単刀直入に山崎に切り込むことにした。遠まわしに言っても仕方がない。



「すまないが、その目からビーム、しまってくれないかね」
 両手を広げながらマジックは、オーバーアクション気味に言う。無意味に目をつむって髪を揺らしたりするのは、彼の癖である。普通に話す場合でも、まるで大勢の前でパフォーマンス一杯に演説しているような様子になる。
 普段はシンタローなどが、ちょっとムッとしたりするところなのである。
「まだファンクラブ歴が浅いらしい君は知らぬことだろうが」
 山崎は心外だという風に、眉をハの字にした。
「ですから僕は、可愛くないオッサンのファンなんかではありません。あのアホ上司の代理です。ダ・イ・リ」
『ちょっとちょっと、山崎くーん! ひょっとして私は出し抜かれたのかね! 敵は身近にありということかね、卑怯だよー、山崎くーん!』
 あの上司、としきりに山崎が指さす携帯電話は、山南の声で跳ね上がらんばかりである。
 そんな喧騒の内でも、マジックはにこやかに笑って言った。
「私のサイン会では、禁煙および禁ビームでね。ほら、目は心の窓だというだろう? 我々は心を開いて語り合うべきだからね。だから君もこの場にいる限りは、守ってくれたまえ」
「……」
 だが山崎は一筋縄ではいかなかった。
 少しの間、山崎は黙りこくった後、大人しく納得するかわりに、脇を向く。そしてなにげない様子で言った。
「おや、こんな所に季節外れの蚊が」
「むっ」
 ビビビッ!
 閃光が走り、二人の長身の男たちの側を、よたよた飛んでいた蚊は、哀れ地面にポトリと落ちる。すかさずマジックの目からビームが放たれたのである。
 ついうっかり習慣で、蚊退治をしてしまったマジックであった。条件反射のなせる業である。
 マジックのポリシーには、シンタローの血を吸う不届き者は生かしてはおかないという項目もある。夏の夜などは、すやすや眠るシンタローの隣で、マジックが蚊を撃墜しまくるという、蚊にとっての地獄絵図が彼らのプライベートルームでは繰り広げられていたものである。これも仕事に疲れたシンタローの気苦労を癒すためであった。
 人間蚊取り線香。愛する者の安眠のためには、覇王はここまでやっちゃうのである。愛のためなら私は蚊取り線香にもなる。
 しかし今、その心意気を見せてしまったのは――明らかに失策。
「……」
 じとーっと山崎が送ってくる不信のまなざしに、彼らの狭間に気まずい雰囲気が流れる。
 心中でマジックは唸った。
 ううむ、やはり、やるな、この男! デキる! あなどれん!



 左に右にと動いた結果、彼らは元のテーブル付近に戻ってきていたので、ハハハと笑いで誤魔化し、マジックは何事もなかったかのように自席についた。
『あっ、マジック先生! もーう、ドコ行ってたんですか――!』
「失敬、失敬。少々エクササイズがしたくなってね」
 山南に陳謝したマジックは、それから山南と話を続けたのだが、やはり山崎の動向が気にかかる。不平そうながらも一応はビームを自粛しているらしいのだが。
「それじゃ、最後にサインしようか。どこにすればいいのかな」
 油性ペンを取り出したマジックに向かって、携帯画面に映る山南は、自分を指差した。
『画面にお願いします ケースケの顔に、マジック先生のお名前をぜひ!』
「アッハッハ、じゃあ山南くんの顔にラクガキしちゃおうか」
 そこへ山崎が割り込んで文句を言う。
「ちょっと山南さん、それ僕の携帯なんですが。人の私物に、自分の青春の汚点を残すのはやめてください」
『いいじゃないかね、山崎くん! 帰ったら、新機種買ってあげるから! 経費で。さあマジック先生、どどんと書いちゃってください
「こーら、公私混同はお仕置きだゾ よし、ホッペにバッテンをつけてあげよう」
 そんな和やかな空気が流れている時であった。キュッキュッと携帯画面にサインを入れているマジックの背後から、ガサガサと茂みが揺れる音が聞こえ始めたのである。
 いけない、こんな時に限って、とマジックは慌てた。
 シンちゃん! ダメだよ、静かにしてないと! 見つかるじゃないかッ!
「フニャ……フニャッ……」
 その上、葉擦れの音に紛れて、なんだか掠れた声が聞こえてくる。押し殺すような、それでも我慢できずに出してしまったような声。身の内からの衝動と格闘しているかのような声。
 いかん!
 再びマジックは、椅子を蹴って立ち上がる。そして、
「フニャックション!」
 背後から、くしゃみが聞こえた瞬間に、自分も、
「ハックション!」
 と盛大にくしゃみをした。とっさの機転で、シンタローのくしゃみをかき消そうとしたのである。



 そして何気なく山崎の様子を窺う。特に気にしてはいない風だ。よし、カモフラージュ成功だ!
『マジック先生、お風邪ですか〜? お大事になさってくださーい。ケースケは心配です』
「ありがとう。山南くんは優しいね」
 しかし成功だと思ったのも束の間。マジックにとっては運の悪いことに、アクシデントは一度きりではなかったのである。
 一度やってしまえば、後はもう何度しても同じだと思ったのか。それとも連鎖的にくしゃみの発作が起こったのか。どうもくしゃみで、鼻先の葉っぱが揺れて、それがまた鼻をくすぐってしまう悪循環に陥っているようである。
 シンタローは続けてくしゃみをし始めたのである。
 ああ、風邪ひきニャンニャンめ。だから外にいたら、寒いからダメだって言ったじゃないか。
 早く帰って、あったかくして寝ようって、あんなに私が言っていたのに! もう!
 シンちゃんったら、パパの言うこと、聞いてくれないんだから!
 とマジックが嘆くのも構わずに、どんどんと、くしゃみが茂みから連発されていくのである。
「フニャッ……フニャッニャッニャッ……フニャックション! ニャックション!」
 こうなると、もう誤魔化す方のマジックとしては、大変なのだ。
「あーあーあー、いや風邪はね、体を動かすと治るんだよ! あーあーあー、それとも歌でも歌おうかな!」
「ニャフン! ニャックション!」
「わーわーわー。いややっぱり踊ろう! 本当に踊ろう! 君! そうら、ステップだ! ダンスだ! たーのーしーいーな――!!!」
「フニャックション!」
 大声で誤魔化すのにも限界を感じ、マジックは強引に山崎の手をとり、踊りに誘った。本人自身を、物音を聞くどころではない状態にするしかないと思ったのである。
「何ですか、いきなり」
 勿論、断固として拒否する山崎である。
『あああっ、また山崎くんが美味しいとこ取りをッ!』
「どこが美味しいんですか、アンタ自分の脳みそでも舐めてろ」



 こうなれば口で誤魔化すしかないと、マジックは考えた。
 この男の気を逸らさなければ。
 無理矢理に相手の手をとったまま、マジックは山崎を意味ありげに見つめた。
「山崎くんといったね」
 相手は嫌そうに渋い顔をしている。
「なんですか、その胡散臭げな視線は」
「動物好きらしい君を見込んで、話がある」
 マジックはわざとらしく声を潜めて、説得力を高めるために接近して囁いた。
「動物……?」
 ぴくーんと山崎の心のアンテナが反応したのがわかった。
 よし、とマジックは心中で頷き、さらに言葉を続けた。
「この森の秘密を知っているかい」
 マジックは右手で森を示し、勿体ぶって彼の関心を煽った。
「私も偶然知ったのだがね……どうやらこの森には、隣接する高級住宅街やら何やらから逃げ出した珍しいアニマルたちが、生息しているらしい。生態系もめちゃくちゃに」
「……」
 さっきはヒグマやらアナコンダやらがいたのだから、これは決して嘘ではない。
 山崎は無言であったが、かなり興味を惹かれているらしい。黙ってマジックの声を聞いている。もう一押しだとマジックは思った。
「そうだ、この森は不思議動物の気配に満ちている!」
 大仰に両手を広げて感に堪えないといった風に、朗々たる声を響かせると、マジックは、私がこの場所でサイン会を開きたくなった訳も、わかってくれるだろう、と親しげに言った。
 親しさをアピールするために、とったままの手を引き寄せて、相手の肩を抱く。動物のことに気を取られているらしい山崎は、特に気にしない様子だ。
「山崎くん。ぜひ君がこの森で、心ゆくまでアニマルサーチを行ってくれたまえ」
「なぜアナタ自身が森に入らずに、僕にやらせようとするんです?」
「私は一点集中型なんだよ。あいにく。君は動物はできれば沢山飼いたいタイプだろう。私は今いる一匹でラブラブ満足だから。第一、浮気したら百叩きの刑にあうし。いや何でもない。とにかくそうとしても、こんな機会を逸するのは勿体ない。そこで君に声をかけたという訳だよ」
 口八丁手八丁。熱心なマジックの勧めに、山崎の心は動いたようだ。何しろマジックは腕利きのスカウトマンでもある。こういう説得は得意であった。
「……いまいち信用できませんが、僕の胸キュンセンサーが発動しているのは確かなので、あの森を探索してみる価値はありそうですね……」
「そうだろう。そうだろう」
 二人の心は、動物好きという一点のみで、わずかに触れ合った。



 一方、茂みでは。
 やっとくしゃみの発作がおさまったシンタローが、
「ンニャア」
 と、ようやく一息ついて、前足で目をこすり、目を見開いたところに飛び込んできたのが、手を取り合い、何やらわかりあったような視線を交し合っている二人のシーンであった。
 ただでさえファンクラブの面々にイライラしていたところに、このシーン。燃えさかる火にさらに油を注ぐようなものである。
 シンタローの黒目に瞳孔が広がり、猫耳とシッポがピーンと張りつめ、再び毛が逆立った。
「ンギャッ! ニャッニャッニャッニャ――!」
 そして、どうなったかというと。どうなったもこうなったも、こうなるしかなかった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
 今度はニャンマ砲の比じゃなかった。
 ついにシンタローは自ら、茂みから飛び出したのである。



 これが有罪なら、さっきのダンス未満はどうなのだ、と言いたくもあるが、黒猫的には、社交の範囲であるなら、まだ許容範囲らしい。それを超えるとダメ。なんか我慢できないらしい。野生の血が直情的にムズムズしちゃって、人間の時はいつも我慢しちゃうようなことも、つい行動に移してしまうのである。それが猫。
 茂みから勢いよく飛び出したシンタローは、勢いあまって、ぐるぐると空中で回転した。
 ――説明しよう!
 物体は回転することにより、その破壊力を何倍にもする。例をあげれば、拳銃の弾は回転しながら直進するために、途方もない破壊力を生むのである。
 弾でさえ、人体を貫通する。これが弾でなくてシンタローならどうか。シンタローの回転運動は、巨岩をもつらぬく威力を生むのである。なんてったって総帥。どっとはらい。
 ともあれ、シンタローは茂みから飛び出し、空中で回転しながらマジックに向かって突進した。
 なんたる速さか。ニャンマ砲は跳ね返したマジックも、これには反応できなかった程なのである。
 もしかしたら新総帥最大の奥義が、ここに完成を見たのかもしれない。我々は歴史的瞬間を目にしているのかもしれない。
 この技が、先刻のヒグマとの対決時に完成していれば、勝負は一瞬にして決まっていたかもしれない。
 怒り。衝動。偉大な技の完成には、感情の発露というスパイスが必要なのかもしれなかった。
 ――今。
 シンタロー式ローリング・アタックは、見事にキマり、目標物たるマジックの背中に正確に命中した。
 いきなりの攻撃に、マジックは完全に虚を突かれた。
「ぐわぁっ――ッ!!!」



 マジックは、らしからぬ声をあげて、正面から大地に突っ伏した。
 言い忘れていたが、シンタロー式ローリング・アタックにも弱点があった。岩をもつらぬく破壊力を誇るこの技も、マジックの背中はつらぬくことができないのである。
 なぜなら、目には見えないが常に、二人の間には絶対的なバリアが張られているからである。えっ、どんなバリアかって? それはね。愛という名の(略)。
 それはともかく、つらぬけないかわりにシンタローは、跳ね返る瞬間に、思いっきりマジックの背中に爪を立て、ぼよーんと反動を利用して、再び茂みへと飛び込んだ。
 行って、戻るまで。この間、わずか0.94秒。マジッ9.4ンタローの0.94秒。忍者もびっくりの早業である。
 常人の動体視力では、猫とも見えず、さりとて人とも見えず、何か丸いものが茂みから飛び出して戻ったとしか見えないであろう。
 倒れているマジックを失礼にならない程度に見遣りながら、『大変、マジック様が!』『今、毛玉が……』『黒と赤の毛玉が、マジック様の背後から……』と、ざわついているオーディエンスである。



 事態をよく把握できていない山崎は、憮然とした目で周囲を見回した。
 周囲を騒がせているのは、マジックの背後で起こった現象であるので、彼には、何が起きたのかはマジックの体に隠れて、よく見えなかったのだった。
 ただ、激しい音がして、自分に囁きかけていたマジックが、いきなり何かの衝撃を受けたらしく、前のめりに倒れただけである。山崎はそれを避けただけだ。
 よくわからなかったが、ただ倒れ方だけは、さすがに敵の将であると思った。倒れる時は前のめり。日本の夜明けは近いぞ維新魂。
 おそらく件のスナイパーに狙撃――それにしては激しい音であったが、バズーカ砲か何かであろうか――されたのであろうと、山崎は彼なりに解釈した。
 多少は感心したので、倒れているマジックの側にしゃがみこんで、声をかけてみることにした。
「まだ生きてますか」
「……うう……」
 激痛の中でやや混乱したマジックは、つい本音を口走ってしまった。
「……シンちゃん、ああ、痛い……シンちゃん、あ、痛い……シンちゃん会いたい……」
「……」
 うわあ。そう山崎が思ったかは、読者の判断に委ねるところである。彼は静かに立ち上がった。
「失礼します。ここにいると巻き添えを食いそうです。おっとその前に、頂いた情報は利用しますが」
 帰り際にテーブルの上から携帯を取り上げ、山崎はスタスタと歩き始めた。
「さあ、行きますよ、山南さん」
『えっえ――。何が起こったんだい、山崎くん! 私には状況が見えないんだが』
「さあ。僕にも一向に。まあ放っといたらいいんじゃないですか。敵のことですし」
『マジックせんせーい! せんせーい――ッ!!!』
「敵だっつってんだろ、このアホ上司」
 さながら小人を抱えた山男のように、言い合いをしながら森へと消えていく山崎であった。
 マジックの耳に、最後にこんな声が聞こえた。
『マジック先生、またお会いできる日まで〜! お元気で――!!! マジカルマージック
「……」
 マジックは力なく右手をあげ、かすかに手を振った。これがファンに見せる彼の心意気であった。
 後の話であるが。
 なんでも背後に潜んでいた者が、ファンとの対決に連戦連勝無敗を誇るマジック様に、初めて土をつけたらしい等という噂がまことしやかに流れ、それ以来サイン会では、彼の背後をとろうとする者が後をたたなかったという。
 その全員が返り討ちにあい、めでたくグラウンド100週のお仕置きを受けたという。これまた、どっとはらい。



 マジックは倒れ付したままだった。
 すると突如として、それまで背後に控えていたティラミスが、
「10!」
 と鋭い声を発した。
 次にチョコレートロマンスが、
「9!」
 と同じく叫ぶ。
 慌てた津軽少年を含めた秘書たちは全員で唱和し、
「8!」
 と声を響かせる。
 カウントダウンは、ロープ外や大画面の前で事態のなりゆきを見守っているファンたちの間にも広まり、数字が減るごとに、木霊は音響の輪を増していく。
 4、3、2と続くが、倒れたままのマジックには反応はなかった。
 しかし。
「1!」
 ここで、マジックの体が動いたかと思うと、彼は何事もなかったかのように華麗に立ち上がり、爽やかにファンたちに笑顔で手を振った。
 わあっと観衆が沸く。あたたかな拍手が満ちる。
 テンカウント内に立ち上がれば、セーフ。という、よくわからない10秒ルールがマジックFCの規律にあった。ルールもわからなければ、何の勝負かもわからないので、この際、不問にしておこう。
 とにかくである。マジックは全員のサインを終え、閉会の挨拶をするに至った。



「ファンのみんな! 今日は楽しい時間をありがとう!」
 ワーワーギャーギャーと黄色いような焦げ茶色のような野太い歓声があがる。
 はじまりの私はちょっとブルーだったのだけれど、やっぱりみんなと会えて嬉しかったよ。等等。マジックの一言一言に、マッチョたちはすさまじい反応を返すのであった。
 マジックの方も、これは本音である。たしかに彼はワガママであるから、仕事をするのに気が進まない時はしばしばあるのだけれど、ひとたびイベントをやってしまえば、ファンたちと会うのは彼にとっても楽しいことであるのだ。基本的に彼はSなので、挑まれてそれを屈服させるのは、非常に面白いことであった。
 挨拶が終わると、ティラミスとチョコレートロマンスたちが心得たように前に出てきて、観衆を誘った。
「それでは。サイン会恒例。いつものように、一本締めでいきたいと思います。皆さん、お手を拝借」
 マッチョたちは全員が手の平を胸の前で上向け、掛け声と共に、それを打ち合わせた。
 バチーン!
 大地が揺れた。
 勿論、兄貴たちの手の平の皮は分厚いので、野生のバッファローの背を打つような音がするのは、知っての通りである。
 手を打ち合わせた後、彼らは叫んだ。
「「「「「「「「「「「マジカルマージック」」」」」」」」」」



 世界が震撼した。
 夜空を照らす黄金色の月が震えた。星たちが流れ星となって、みるみる落ちた。暗い森から多くの鳥たちが、すわ異常事態だとばかりにバサバサ飛び立った。遠くの街々で、野犬たちがバケツの中に逃げ隠れしていた。地中からはモグラたちが恐怖のあまり地上に這い出してきた。
 マジックの背後の茂みが、怯えたように動いて、小さく『ニャフーン!』と縮こまった。やっぱりこれは苦手だったらしい。
 ――こうして。
 突発サイン会は、大盛況のうちに、無事に終幕を迎えたのだった。







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