総帥猫科

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 キスをしている。
 シンタローは猫耳をピクピク動かしている。抱いていると、長いシッポが、大きくゆっくりと揺れた。そしてぱたりとシートの下に落ちた。
 強く口付けると、シッポはシンタローの足の内側に入ってしまって、縮こまってしまうのだが、浅く口付けると、もぞもぞと居場所を探すように動き出す。
 シッポにも色々な表情があるのだと、マジックは頭の隅で考えている。深く舌を入れると、シッポは一瞬硬直し、小刻みに震えている。同時にマジックの体の下にある、シンタローの体も震えているのである。
 下唇を甘く噛むと、シンタローは息苦しそうな声をあげた。
「ン……ンンッ……」
 唇を塞がれたままで首をのけぞらす。車内に満ちた薄明かりの中で、やけに首筋が白く見えて、マジックは思わず唇を離した。
 赤い総帥服の胸元からのぞく鎖骨の影が、艶めかしい。
 相手のとろりとした目から視線をそらし、甘い空気を振り払うように、マジックは自分の額に手を遣った。自らに言い聞かせる。
 ダメだ、ダメだ。キスに夢中になってはダメだ。



 キスの後のシンタローは後部座席に仰向けになったまま、せわしなく息をし、ぐったりしていた。
 その様子を見ながら、マジックは自分の濡れた唇に指で触れてみる。シンタローのやわらかい部分に触れたばかりの唇は、まだ熱を持っているように感じられた。
 ――危なかった……。
 何とか気持ちを落ち着かせるマジックである。
 それから目をつむっているシンタローの頭をぽんぽんと叩き、撫でた。するとまぶたが反応して、うっすらと目が開き、ぼんやりとした黒い瞳がマジックを見上げてきた。
 どき、とマジックの心臓が跳ねる。
 魔力に惹かれるように、またキスをしてしまいそうになる。ことにその潤んだ黒目の縁を見ていたら。
 しかしシンタローの黒瞳はみるみるうちに生気を取り戻し、元気を蘇らせてくるのである。
 今泣いたカラスがもう笑った、の例ではないが、今うっとりしていたシンタローがもう怒った、というパターンなのである。ぐったりしていたのが嘘のように、シンタローは激しく暴れだした。何だろう。照れ隠しなのだろうか。
「フギャ――ッ! ギャッギャッギャッ!」
 繰り出される猫パンチをかわしながら、マジックは困った声で言った。
「ああもう。なんでそんなに色気のない声、出すんだい」
「フゥ――ウ――ッ!!!」
 押し倒されたままの四肢が大回転、しゃかしゃかと逆さまに自転車をこぐように動き、ぽんぽんに膨れ上がったシッポが勝手に立ち上がって、マジックを威嚇する。
 やれやれだ。さっきはキスに、とろけちゃっていた癖に。
「シンちゃん。怖い顔は、もうよして。せっかく可愛い顔をしてるのに」
「ニャフッ!」
「いい子だから」
 威嚇してはくるものの、もうシンタローは爪を出してこなかったから、抵抗されたって痛くはないのだ。
 マジックは暴れるシンタローを、そのままぎゅっと抱きしめる。



「ニャッ!」
 猫足が飛んできて、むにむにとマジックの顔を押したけれども、かまうものか。無理矢理、自分の膝の上にシンタローの体を乗せて、座らせる。
 抱きしめたシンタローの体は冷えきっていて、マジックが腕に力を込めると、ぶるりと震えて縮こまったように思えた。
 キスはしないけれど、身を寄せ合うだけならいいよね。
「寒かったろう。こんなに体を冷たくして」
「……ンナッ」
 マジックは目の前の、横に伏せた猫耳に頬を寄せ、そっと囁く。
「でもこれからは、ずっと一緒だよ」
「……」
 抵抗は、いつの間にか止んでいた。
 猫は、顔をマジックの胸に押し付けたままで答えなかったが、クウ、と喉の奥から小さな声が漏れるのを、マジックは聞き逃さなかった。
「もう私から、逃げないでね」
 優しく黒髪を撫でながら、マジックは歌うように呟いた。シンタローはまたも答えてはくれなかったが、そのかわりに猫耳が動いた。
「ああ、大好きさ、シンタロー」
 マジックは長い黒髪を指で梳いて、そのひんやりとした毛先に指を絡める。
 愛情が心に流れ込んできて、マジックは幸福感に満たされた。
 大変な夜だった。でも、こんな幸せな結末で終わるのなら、それでいい。いっそう幸せが募るというものだ。
 シンタロー。寒ければ、肌と肌とであたためあおう。さあ、もっと身を寄せて。
 そう、ここは二人きりのお前と私の、雪山のごとく……。
 シンタローも大人しく、ぎゅっとされるがままになっている。マジックはますます幸せを感じ、愛しい者の背中を優しくさする。
 このままラブラブが続くのだと――少なくとも家に着くまで――思っていたのに。



 この車には当然もう一人、人間が乗っていたのである。勝手に車が動いている訳ではない。そう、運転手である。
 通常のリムジンなどであれば、分厚いシールドガラスやボードで、後部座席と運転席とを完全にシャットアウトすることもできるのだが、なにしろ軍用車だけに、やや武骨な造りになっている。スペースは広くゆったりとしているが、あまりプライバシーへの気遣いはない。
 勿論のこと、マジックとシンタローの声は筒抜けになのである。
 なお、マジックの秘書であるからには、順応力がずば抜け、ラブラブ耐性が鍛えられていなければ勤まらないので、後部座席で二人が何をしようと運転が乱れる気遣いはなかったが、秘書は秘書らしく、事務的ワードを聞き取ったらしい。聞き取ったというより、もはや秘書としての反射神経であろう。
 『寒い』というマジックの声に反応した運転手は、気を利かせて、カチリ、とヒーターの温度を上げた。
 ウイイン……と高性能の空調はフル稼動し、すぐに車内はあたたかくなる。
「ンニャ」
 暑くなったらしいシンタローは、のそりと顔を上げ、マジックから体を離してしまった。マジックの腕から、するりと抜け出る。
 そして広い後部座席の右側のシートに移動して丸くなり、熱心に前足をなめはじめてしまう。
「……くっ」
 マジックはワナワナと震えた。
 ちっとも二人きりの雪山じゃない!
 運転手め、気を利かせているようで、全然気を利かせてない!
 恨めしげに運転手の横顔を見ると、それは先ほど車の見張り番の最中に気絶するはめになり、さらに高松に縛り上げられるという経緯を辿った不幸な青年であった。
 第二のチョコレートロマンスといったところだろうか。秘書には、一風変わった逸材がひしめいているのである。



 まさか運転手に、逆にクーラーをつけて温度を下げろ、などと命令する訳にもいかない。
 落ち着け、私! 車内をあったかくするのは、シンタローのために、とてもいいことじゃないか。バカ。私のバカ!
 溜息をついてマジックは、背もたれを浅くリクライニング調節し、疲れた体をゆっくりと預ける。
 クーリングボックスからミネラルウォーターとグラスを取り出し、注いで一口飲む。水が乾いた喉に染み渡っていく。
 シンタローにも差し出してみたが、猫は窓の外を眺めているらしく、『フン』と鼻を鳴らしただけで無視されてしまった。尻尾がシートの上で、一度大きく揺れた。
 やれやれだ。
 マジックは一人グラスを傾けながら、足を組み替え、今夜の予定を考える。
 これから家に帰り、シンタローを、あったかくして寝かしつけるまでは、この長い夜は終わりそうにもないのだ。最終到達地点までは、まだ遠い。
 帰ったら。ええと、まずシンタローをお風呂に入れて。なにしろ二人とも泥だらけでなんだから。うーん、また暴れるだろうな。てきぱきやらなきゃ。てきぱき。ええとええと、それからそれから……。
 等と、やるべきことをマジックが確認していると、突然に隣から、とんとんと軽く叩かれた。
 グラスを持っていない右の二の腕に重みを感じて、マジックは隣を向く。自分の腕に、もふもふの猫足がちょこんと乗せられていた。
「ニャウ。ニャウ」
 シンタローの顔を見れば、打って変わって、やけに上機嫌である。猫は首を二度、三度かしげると、マジックの腕をもみはじめた。
 何をしているのだろう。
 たった今、自分から離れていったと思ったのに。移ろいやすい猫の気分に、マジックも首をかしげる。同時に、不思議な行動をとるシンタローに興味がわき、脳内に常備された愛用の、うろ覚え辞典をめくる。
 ――子猫は、母猫の乳の出をよくするために、胸をもむことを覚える。成猫になってもその習性が残り、飼い主等とのコミュニケーションの際に、時々このような行動をとるのだという
 ああ、そうか。猫の習性だったか。ぽんと手を叩きたかったが、右腕を猫にとられているので、それはできなかったから、瞬きを一つするだけに留めておいた。
 もみもみ。もみもみ。まるでパンの生地をこねるように黒猫の前足が、マジックの腕をもんでいる。少々くすぐったい。
 だんだんと猫足が胸の方まで伸びてきたから、マジックは驚いて言った。
「うわっ。シンちゃん、大胆な」
 運転手もいるのに。シンちゃんからなんて、珍しい。しかし、
「ンニャ!」
 反射的に動いたマジックに向かって、シンタローの眉が釣り上がった。動くな、ということらしい。



「……」
「ニャ。ニャ」
 なるべく身動きしないようにしたマジックの腕や胸、首筋などを、猫足が動く。
 楽しいらしい。シンタローの楽しそうな様子を眺めるのは大好きなので、マジックはなるべく相手の好きなようにさせておいた。
 やはりくすぐったい。もぞもぞとした感覚が、衣服を通して肌に伝わってくる。
 マジックは思い出している。
 ――そういえば、私が仕事から帰ってきて、『シンちゃん、疲れたよー』って甘えると、シンちゃんは、私にマッサージをしてくれるんだよね。
 猫になっても、その優しい気持ちは変わらないんだなあ。いや習性なのはそうなんだろうけどね。
 ああ、シンちゃん。大好き。
 少し、しんみりしてきたマジックは、窓から夜空に浮かぶ月を眺めた。
 しかし、猫から生まれた訳でもないシンタローが、このような行動をとるのは興味深いものだと、マジックは思う。
 神に作られた最初の人間であるアダムが絵画に描かれると、へそがあるのと同じようなものだろうか。そうか、このモミモミ行為は、シンちゃんの、おへそか。そうか。おへそ。
「ンニャンニャ」
「おへそか。おへそ」
「ニャッ、ニャッ」
「……」
 変なことを考えながら、もまれていれば、変な気分になってくるのである。いけない、いけないとマジックは首を振る。
 余談ではあるが、普段マッサージをされている時にも、マジックはシンタローによく怒られるのである。つい悪戯してしまうからだ。
 『俺は真剣にやってやってんのに、アンタときたら!』と怒るシンタローの顔が可愛くて。可愛くて。それに、色んな所を触ってくれるから、つい――。
 って、私はまた何を! いけない、いけない。邪念よ、さらば! だから純愛なんだってば、今夜の私は!
 邪念を追い出した後、また、ちらりとシンタローの顔を見る。黒猫はひどく真剣な目をしていた。人間の時と、同じだ。
 猫の習性とはいえ、あまりに一生懸命に右腕をもんでくるシンタローが、少しおかしくなってマジックはちょっと笑った。
 グラスを置き、黒猫の真剣な顔の前に、自由な左手の指を、そっと近づけてみた。するとシンタローはふんふん鼻で匂いをかぐように顔を寄せてきて、鼻先をマジックの指の腹に、ちょこんと押し付けてきた。
 猫の挨拶、である。



 マジックの指先が、くりくりとシンタローの鼻をいじくると、シンタローは今度は嫌になったのか、プイと脇を向き、一つくしゃみをした。
 だが腕をもむことはやめないようである。猫足がもふもふ動き、肉球がぷにぷに動く。
 ちょっかいを出すのはやめて、大人しくもまれるままに、また一口、グラスの水を含みながらマジックは思った。
 シンちゃんが、こんなに頑張って、私の腕をモミモミしてくれるんだから、私も頑張って、乳を出す努力をした方がいいんだろうか。
 いや出ないけど。努力するところをみせて誠意を示すべきか。
 ……脱いだ方が、いいのかなあ……。
 等と、マジックが相変わらず妙ちきりんな方角に思考を飛ばしていた頃であった。
 視界の隅に、ふと感ずるものがあったのは。動体視力が一瞬の映像を捉える。
 暗い夜道を走る軍用車、ヘッドライトが輝きで闇を切り分けた先に、見覚えのある後姿が一人、街路樹の狭間を歩いている。長い金髪の美しい輝き。
 一人……? その人物は手にリードを持ち、大型の動物を従えているように見えた。



 マジックの側で、猫耳が、ぴくんと動いた。シンタローは勢いよくマジックの腕を放し、窓に飛びついた。
「ああっ、もう!」
 マジックが、シンタローの総帥服の襟を掴んで、引きとめようとしている間に、運転手の方は何やら再び気を利かせたつもりらしい。命じもしないのに車は減速し、夜道を歩く人物を追い越して、静かに止まった。
 ぐっ、またもや運転手め! 空気を読め、空気を!
 苦情を述べようとしたマジックの口を、故意か偶然か、シンタローのシッポがぴしゃりと叩いた。
 カシャカシャと爪で窓を引っかきながら、シンタローは叫ぶ。
「ンニャーニャ、オジニャマ」(美貌のおじさま
 マジックは頭を抱えた。
「シンちゃんったら!」



「ニャン ニャン
「ああっ、シンちゃん! なにその態度はッ!」
 マジックの嘆きにも、シンタローは耳を貸さない。ぷにぷにの肉球を車のウインドウに押し付け、久しぶりに会うのだろうサービスに、アピールしている。
 なにしろサービスは、南国の島での和解を経た現在でもなお、あまり本部に顔を出したがらない。食事会等でわざわざ呼んだ時以外は、たまに中庭の薔薇園で見かけるぐらいだ。
 マジックなども、むしろ本部隣接の研究所に詰めているジャンとよく顔を合わせるぐらいであったから、シンタローも同様であろう。そう思えば、この態度は、ある程度は我慢できなくもないのだが……。
「ンナー ンニャンニャ
「シンちゃん! なにその甘え声!」
 それにしても! それにしても、あんまりだろう、シンタロー! 私には素直じゃない癖に!
 やっぱり我慢できないよ!
「シンちゃんってば!」
「ウニャア!」
 どたばた。ドタバタ。ぎゅっと背後から抱きつくマジックと、それを振り払おうとするシンタローの攻防戦が繰り広げられるのである。黒いシッポが揺れる。猫耳も揺れる。
 そんな中、マジックとシンタローの車内での揉み合いには、我関せずのサービスだ。彼は、月の光で白銀色にも見える金髪を揺らし、静かに微笑んだ。
「ああ、シンタローまで……今宵は満月ですからね」
「ワン!」
 その声で、マジックはあえて気付かないようにしていた事実に、直面せざるを得なくなる。ふさふさのシッポが、サービスの足元で激しく振られているのである。猫のシッポではない。もっと短くて丈夫そうな、少し巻きぎみの――犬のシッポ。
 嬉しい時は激しく振られ、きっと悲しい時は両足の間にだらんと垂れるであろう、猫よりはある意味単純明快な、シッポ。
 ――ジャン。
 黒い犬耳とシッポのついた――ジャン。
 ジャンは人間の時と同じように、こちらに向かってフレンドリーに話しかけてきた。というより、軽く吠えてきた。激しく振られるシッポと共に、だ。どうもセオリー通りに非常な喜び、もしくは友好心を示しているようである。
「ワン! ワンワンワン!」
 するとシンタローの目つきが、サービスを見る時とはガラッと変わって、きつくなったかと思うと、黒猫はうなり声をあげて、肉球どころか顔までを、窓に貼りつかせてしまった。
 飛びかからんばかりの勢いである。
「フ――!!! シャ――――ッ!!!」



「ワン! ワンワン!」
「シギャ――!」
 あやうく犬猫戦争が起こりそうな気配である。主にシンタローの方から。
 シンタローの両脇の下に手を入れ、背後から羽交い絞めするかたちで抱えているマジックは、ちょっと焦った。こんな場合の仲裁は、得意じゃない。
 あ、あのね、シンちゃん。ケンカしないで。
 毛を逆立てて威嚇するシンタローの肩を押さえたマジックが、やや腰が引けながらも、そう言おうとした瞬間、
「無駄吠えするな」
「キャウン! キャウン!」
 サービスの手がひらめいて、ぴしっとジャンの鼻先を軽く叩いた。
 ほとんど痛くはないだろうのに、文字通りシッポを巻いて、すごすごと背後に下がるジャンである。肩を落とし、大人しくサービスの足元に『伏せ』をする。上目遣いで、ご主人様を見上げている。
 まるでそこが自分の定位置であると言わんばかりだ。
「……」
 なんという光景であろうか。絶句しているマジックに向かって、サービスはにこやかに言った。
「すみません、兄さん。ジャンが少し興奮したようですね」
 躾に厳しいサービスなのである。きっちり飼い主としての勤めを果たしすぎであった。我が弟ながら、見事。いや見事と褒めていいのか、いけないのか。
 返す言葉が見つからずに、マジックは諸行無常の思いでジャンを眺める。心なしか、ジャンが嬉しそうなのは気のせいだろうか。犬は上位者の命令に従うことを、喜びとする動物である。これであいつは本望なのか。
 まあ、まあ、いいじゃないか。本人たちが幸せなら、それでいいじゃないか。
 幸福とは、相対的なものであるからして。彼らには彼らなりの、幸せのかたちがあるのである。
 うん。さあ、私も自らの幸せのことだけを考えよう。
 そうマジックが自らを納得させて、手元のシンタローに視線をやると、黒猫は自分も躾けられては大変だと思ったのか、威嚇はやめて、仏頂面をしてジャンの方を睨むだけで済ましているようだ。ただし、毛は逆立ったままである。
 マジックは思う。まったくシンちゃんったら、サービスのことばっかり気にして!
 でも、そうか。シンちゃんったら、お仕置きされるのはイヤなのか……。
 ……。
 ――……。
 等と、マジックがついいつものドリームに浸ってしまい、油断をしたのをチャンスだと見たのかどうなのか。隙を突いて、シンタローがさっと猫足を伸ばし、ウインドウのスイッチを押した。
 ウイーンとウインドウが下りて、夜の冷たい空気が車内に流れ込んでくる。
 シンタローは、にゅっと車外に頭を突き出し、サービスに向かって『ニャウ ニャウ』と愛想をふりまきだした。窓越しではなく、どうやら直に話したかったようである。
「シンちゃん!」
 私にはそんなことしないじゃない!
 慌てるマジックであるが、そんなことお構いなしにサービスは、シンタローの頭に手を伸ばし、そっと猫耳に触れた。
「やっぱり耳は本物だね。そうか、シンタロー、お前もかい」
「ニャ
 魔女、とも称される四兄弟の末っ子は、虚空の月を仰ぎ見て、感慨深げに言った。
「満月の力か」
「サービス! 勝手に浸るな、あーんどシンタローに触るんじゃありません! これまでシンちゃんの猫耳に触ったのは、私だけだったのに! 私だけだったのに!」
 一人と一匹(?)の間に、マジックは強引に割り込んだが、
「減るものじゃなし、いいじゃありませんか、兄さん」
「ウッサイニャッ」
 とあんまりな言われようである。
「もーう、さっきは私の下でメロメロしてた癖に!」
 そう言ってみても、シンタローはそ知らぬ顔である。ぷいと横を向く。
「マタタビニャ」
「違――う!」



「くいーん、くいーん」
 文句を言ったのはマジックばかりではない。サービスの背後から、うらやましそうな犬の鳴き声がする。
「……」
 思わずマジックは、諸行無常を超えて、山寺に篭って座禅を組みたい気持ちになった。一歩下がって、客観的にこの状況を考えてみると。
 私は、ポジション的には、この黒ワンコと同じか。いやそうじゃなくて。
 なんということであろうか。頭痛どころか、ひっくり返ってバック転、7回半ひねりしてムーンサルトな気分である。果たしてこれは現実か。今更であるが、目の前で起こっている出来事は、果たして現の出来事なのか。
 ガンマ団総帥のシンタローと、同じくジャン博士が、猫と犬となって同じ場にいる。
 傍目から見れば、シュールもしくは、すさまじい光景であろう。中身はまったく違うが、姿かたちの造作は同じシンタローとジャンである。犬と猫の双生児、と言えなくもない。色んな意味でありえない光景だ。
 しかし、ジャン。ジャン犬。
 先にシンタローの例がなかったら、マジックは目の前の事実が信じられなかったことだろう。
 マジックは改めて、弟とその飼い犬の姿を眺めた。あまり直視はしたくなかったので、なるべく目を細めて、である。
 いつもの黒い毛皮コートを着たサービスが、手にしている細い鎖。長い鎖のその先には、赤い首輪が鎮座している。革に銀細工をあしらっているのだろうか、ジャンの首にぴったり嵌められたその首輪は、白衣に意外に似合っていた。
 白衣。そう――この巨大わんこは、白衣のまま、四つんばいで主人に付き従っているのである。中には相変わらずの趣味の変わったシャツを着ているようだが、つまりは普段着、いつものまま。違う点は――犬耳と犬シッポ。
 シンタローのシッポは、しゅるりとしているが、ジャンのシッポは、言うなれば、ふぁさふぁさ。
 ふぁさふぁさの黒シッポは、主人の機嫌を窺いつつ、絶え間なく振られている。
 こんな一人と一匹とが、いくら夜間とはいえ、人気のない地区とはいえ、堂々と散歩しているというのは、尋常ではない。
 出会ったのが自分たちであったからよかったものの。都市伝説になっているのではないか。とっくに本当にあった怖い話。学校の怪談。七不思議。ノストラダムスの大予言。



「……は、はは……ははははは」
 まあ、まあ、いいじゃないか。本人たちが幸せなら、それでいいじゃないか。
 でも。天国の父さん。ごめんなさい。末の弟は、こんな幸せを見つけてしまいました。
 再び強引に自分をねじ伏せ、気を取り直したマジックが視線を転ずると、案の定、運転手は運転席で気絶していた。首ががくっと前のめりになり、ハンドルに突っ伏している。
 そう、失念していたがこの場には、完全な第三者がいたのである。並みの人間には、やはりこの衝撃はきつかったようだ。
 先刻は猫化したシンタローの姿を見て、気絶していた男であるが、今度は車を寄せて止めた後で、ジャンの姿をはっきり確認してから、しっかり気絶したらしい。なかなかきちんとした男だ。
 ちゃんとサイドブレーキを引いて、車の安全を確保してから気絶したのは、偉いと言えよう。



 マジックの心痛には気付かないのか、それとも同類が何を言うとでも思っているのか、サービスとジャンは、いつものペースである。
 こんなことを言い出す始末だ。
「ここで会ったのも何かの縁。月夜のドライブでもしましょうか」
 運転手は気絶しているから、勿論、マジックに運転せよというのだろう。どこかに連れて行けというのだ。ああ、まったり上品、有閑セレブ。
「ワン ワン
「ニャー
 サービスの提案に、一斉に猫と犬が賛同する。マジックは慌てて手を振った。
「いや。シンタローは風邪ひきだからダメだ。これからすぐに帰って、あったかくして寝かせるから、ダメ」
「ンニャーア!」
「ダメなの、シンちゃん。怒ってもダメ」
「そうですか。それは残念です」
 さほど残念とも思っていないような様子で、サービスはまた空を仰いだ。それからシンタローの方に、ゆっくりと視線を移す。視線はそのままに、マジックに向けて尋ねる。
「兄さん。もしかして、シンタローがこうなったのは、今夜がはじめてですか。ジャンも最初にこうなったのは、こんな満月の夜。少し熱を出して、高松の作ったあやしげな風邪薬を飲んだ時だった」
 弟は少し真面目な顔をしていた。
「……まあな」
 何となく癪だが、シンタローのために知識を手に入れるのは悪いことではない。マジックは、シンタローが変化してしまった経緯を、手短に弟と犬に話した。高松に聞いた話も含めて、である。



 話している間中は興味なさそうに、シンタローは後ろ足で耳の後ろを、しゃかしゃか掻いている。その体のやわらかさには感心する。
「ワン。ワワワン、クイン、キュー」
 話し終えると、真っ先にジャンが、なにやら意見を述べてきた。しかし相変わらず犬の声だから、何を言っているのかが、さっぱりわからない。するとサービスが、ちらりと足元を一瞥し、通訳し始めた。
「おそらくは高松の言う通りだと思う、俺が赤の番人として犬に変化してしまうように、シンタローは青の番人として猫に変化してしまったんでしょう、とジャンが言ってますが」
 マジックは首を傾げる。
「私にはワンワンとしか聞こえないが」
「ニャー」
 今度は前足を舐めていたシンタローも、同意のようだ。猫にも、犬の言葉はわからないようである。しかしサービスはうっすらと口元に笑みを浮かべて、言った。
「僕にはジャンの言葉が、わかるんですよ」
 自慢するでもなく、こういうことを、さらっと口にするのがサービスである。
「……」
 特別な間柄ですから、と言うまでもなく。まるで当然のことのように。ツッコむ気すらなくなるのである。
 こちらとしては、ああ、そうですか。と言うしかない状況であるのだが。



 そういえば、とマジックは、森での出来事を思い出している。
 秘書たちはシンタローの言葉が『ニャーニャー』としか聞こえないと言っていた。でも私には、多少変則的ながらも、シンタローの言葉がわかったんだ。そんなことがあった。いや、今だってわかる。
 私だって――。シンタローの言葉がわかる。これは、もしかすると特別なことではないのだろうか。
 そんなマジックの思考を裏付けるように、サービスが言う。
「そのかわり、どうやら僕にはシンタローの言葉は、わからないようです。おそらくジャンにも」
「そうなのか」
「ワウ」
「ニャッ! ニャウ! ソンニャ、オジニャマ〜〜〜!!! ニャニャッ!」
 サービスに向かって抗議しているシンタローを眺めながら、マジックは思う。
 やはり私だけが、シンタローの言葉を理解できるようだ。これは、サービスたちの場合と、同じ現象なんだろうか?
 特別な、こと。
 ――特別……。
 胸に響くものがあり、つい側にあったシンタローのシッポを握り締めてしまうマジックであった。ふにゃっとした感覚が、手の中で跳ねる。あまりにも触り心地が良さすぎて、陶然とする。
 また黒く細い毛が逆立ち、振り向いたシンタローから、猫足パンチが飛んできた。
「ウニャッ! オジニャント、ハナシテンノニ、ジャマスンニャ!」
「ひどい、シンちゃん!」
 シッポは、しゅるっと手の中から逃げてしまう。こんな時まで、シンタローの猫語が聞き取ることができてしまうマジックであった。愛の力とは、知りたくないことまで教えてくれる諸刃の剣であるのだ。
 シンタローの抗議を受けて、サービスは片手を振り、困ったような表情を浮かべた。
「すまないね、シンタロー。一生懸命話してくれても、ニャーニャーとしか聞こえないんだ。兄さん、すみませんが通訳してくれませんか」
「オジニャン、ソンニャノヨリ、オレトサンポスルニャ」
「仕方がない。通訳しよう。サービスおじさんより、パパの方が百倍カッコイイぜ、ニャンニャン」
「チニャ――ウ!!! シャ――ッ!!!」
「はは、兄さん、嘘はいけません」



 喧騒が収まった頃に、一人(一匹)考え込んでいたらしいジャンが、長く吠えた。
「ワウー、ウオーン、ワンワン。ウオオン、ウオン! ワン、ワン!」
「ジャンも、番人の体と精神が、この現象を引き起こしていると考えているようです。だがこうも言っています。シンタローのケースによって、実は身体よりも精神が重要なのではないかという可能性が高くなったと思われると……」
 サービスを通したジャンの話を聞きながら、マジックの脳裏に高松の言葉が蘇る。
 彼はなんと言ったか。たしか、変化のための、こんな要因をあげていた――。
 ……満月のもたらす効果。
 特殊な番人の身体であること。
 アルコール。
 特定の地方に土着した特殊ウイルス。
 薬――NSAIDs、つまり比較的、遺伝子への危険因子性が高いと言われている非ステロイド性抗炎症薬の成分の影響。
『あとは、何らかの精神的な興奮ですね。精神的因子も考えられる。ジャンの場合はサービスが側にいたということで、まー、相変わらずときめいてたんでしょうネ! 熱い熱い』
 そこまで医者の言葉を脳裏でリピートしてから、マジックは、はたと気付く。
 あの時は聞き流していただけであった高松の台詞が、今になって不思議に思われてきた。
 そういえば――シンタローは、何の精神的興奮で、猫になってしまったのだろうか?



 ジャンはサービスがいたから、犬になったということだろうか?
 精神的因子……?
 それなら、シンタローの場合は――。
「ワン! ワンワンッ!」
「……まだ高松の知らない事実があるんです」
 犬とサービスの声が、夜に響いた。
 闇は二人と二匹の間を、しっとりと塗り込めていく。



「知らない事実?」
 問い返したマジックだが、弟は謎めいた笑みで返しただけだった。『美貌の叔父様』、とシンタローから称されるサービスは、長い髪を細い指でかきあげた。
 静寂が訪れる。
「ウオーン」
 ジャンが空に向かって遠吠えをしている。今度はサービスも止めなかった。サービスもまた、空を見上げた。一人と一匹は、同じ月を見ていた。
「二人の間に……必要なものは、少なくなっていくということです」
 意味ありげなサービスの言葉と共に、犬のシッポが揺れている。まるで秋の野のすすきのようだ。ゆっくりゆっくり、満月の下でゆらめく。
 弟の声が響く。
「例えば今の僕たちには、満月の輝きと――あとは、わかるでしょう、それだけしか必要じゃないんですよ」



「……」
 異様なムードを作られて、しかも正面から言い切られて、思わず沈黙してしまうマジックである。
 なんだそれは。
 惚気か? ノロケか。のろけ。のろけ……ああ、そう。そうですか。弟がお兄ちゃんに、のろけですか。
 相手の意味するところは完全にはわからないが、とにかく真顔で惚気られていることだけはわかるので、マジックは『……』という気分になってしまう。
 うわあ、というより、『……』と沈黙してしまう気分。
 マジックをこんな気分にさせることができるのは、世界広しといえども、このペアしかいないのであった。
 沈黙したついでにマジックは、弟の謎めいた言葉を考えてみる。
 わかるでしょうって、お前。私には普通にわからんのだが。あくまで自分が基準の末っ子ちゃんめが。
 ――必要なもの。
 二人の間に必要なものが少なくなる? 一体どういうことだ。
 二人の間。あいつらは置いておくと、私とシンタローの間ということか。
 あー、付き合いが長くなると、会話が減っていく夫婦ってよく聞くよね。そういう感じかな。
 でも私とシンちゃんの間には、いつだって会話は花盛り、いつだってお話しまくりなんだけどな。だってシンちゃんと話さないと、私は寂しくって泣いちゃうから。
 そうそう、私が悪いことすると、シンちゃんは口きいてくれないんだよ。お仕置きだっていって。
 はっきり言っておきます、そんな孤独には私は耐えられませんから。生涯シンちゃんと会話宣言。
 ま、そんなお仕置きしたがるシンちゃんも、カワイイけどね! 逆に私は夜にベッドで別のお仕置き。
 おっと、また脱線した。
「フニャックション!」
 シートに垂れた黒く長いシッポまでが、ぶるりと震えて、シンタローがくしゃみをした。車内はシンタローが窓を全開にしたので、冷え始めている。ああもう、とマジックは手近のティッシュを数枚抜き出し、
「シンちゃん。風邪ひきなのに外に身を乗り出すから」
 と、背後から、シンタローの鼻にティッシュを押し付けた。
「ンニャウ」
「ほら、鼻かみなさい。チーン」
 しっかりと鼻をかませるために、マジックは自らも窓際に身を移動する。夜の冷気が肌を刺す。
 すると、である。その拍子にマジックの胸ポケットから、ハンカチが一枚、ひらりと外に舞った。
 白いハンカチは夜風に乗り、小鳥が羽を広げるように車窓を離れ、街路樹の立ち並ぶ道を飛んでいく。
 その様子をサービスは一瞥したかと思うと、
「ジャン。ゴー」
 静かに口にした。
 瞬間、サービスの足元から白衣の犬が、弾丸のように飛び出した。
「ワウ――ン!」
 後ろ足が地面を蹴り、ジャンプ一番、すばらしい跳躍力を見せてジャンも空に舞う。
 ハンカチを口でキャッチし、一回転だ。スチャッと四足で着地し、一目散にサービスの元へと駆け寄ってくる。
 マジックの落としたハンカチをくわえてきたジャンは、ぴったりと地面に伏せて、待機の姿勢をとった。
 ちらりと目の端で飼い犬の行動を捕らえると、サービスは優雅な仕草で頷く。
「さあ、どうぞ、兄さん」



 なんだか、凄いものを見てしまったような気がする。
「……いや、あげるよ……」
 マジックがそう言ったのは、ジャンが物欲しげな目していたからだった。ハンカチを離すのが惜しそうな色を、その目に湛えている。ずっとくわえていたいという風情。ちぎられんばかりの勢いで、振られているシッポ。
 猫もそうだが、わんこもヒラヒラするものが大好き。
 それにハンカチは、よだれで、その、何とも濡れていそうであったので。受け取るのがためらわれたのである。
 ジャン犬は、マジックの『あげる』という言葉を聞いた途端に、目を輝かせ、『いいの? いいの?』という風にサービスに向かって許可を求めている。
 サービスは肩を竦め、頷いて許可を与えた。
 犬は激しく喜び、早速ハンカチを、あぐあぐと噛み、振り回し始めた。
「……」
 何とも微妙な気持ちに襲われるマジックであった。
 ジャン……いや、ジャン犬……。ちょっと……。グスン。
 マジックが軽い眩暈を感じ、こめかみを押さえているところに、とどめとばかりにサービスが提案してきた。
「お礼に、ジャンの芸でもいかがですか。服従訓練の一環としてはじめたのですが、見てくれる人がいないと本人も張り合いがないでしょうので」
 いえ、いいです。
 そう答える間もなく、人の話を聞いてくれない弟は、スタスタと歩き出した。ジャン犬も心得たように後に立つ。
 マジックは押さえたままのこめかみを、さらに指先でぐりぐり押さえた。なんだか、どうやら私は『見てくれる人』認定されてしまったらしい。
 いや確かに、他の人間に見せているとしたら問題なのだが。むしろやめてください。そんな恐ろしいことはやめてください。これは家族内の出来事として、しまっておいてください。
 車のフロントガラスの向こうでは、ちょっとしたショーが催されようとしている。もちろん路上であった。
 サービスは、座って待機しているジャンの首輪からリードを引き抜き、一声、命令した。
「はじめ!」
「ワウ――ン!」
 ジャンが跳躍する。



 これはドッグダンスというものだろうか。マジックは目を瞬かせた。
 ドッグダンスとは、飼い主と犬が、音楽等にあわせて踊るスポーツのことである。
 空中で回転したジャンは、着地してすぐにサービスの足の間を潜り抜け、ぐるぐる駆け回る。
 そしてサービスのかかと付近でスピンし、伏せ、待て、のポーズを数回繰り返した後、後ろ足で立ち、サービスを中心にして周囲を巡った。
 かと思えば、サービスの上を飛び越え、前面に着地してステップを踏む。リズムを刻んでいる。軽やかだ。
 きちんと統制のとれた、主人と犬との息がぴったりあった素晴らしい芸である。華やぎもある。
 だが一番凄いのは、サービスが何もしていないというところではないだろうか。
 普通のドッグダンスであれば、主人の方から能動的に、様々の動きを働きかけたりするのであるが、彼らの場合は、ジャンがアクロバティックな動きを披露する中で、サービスはゆったりと微笑んでいるのみであった。
 それでいて芸が成立している。それもサービス中心にである。まるで一輪の花の周りを、ミツバチが飛んでいるところを連想させる。
 さすがはサービス。おそるべし。
「すごいな」
 マジックの口からは、思わず賛辞が零れ出た。
 もっとも、それしか言いようがないのである。これは賛辞を送るしかないというレベルだ。
 さぞや練習したのだろうと思わせるところがある。
 しかしあの二人が、普段訓練している光景を思い浮かべると、さらに凄いものがあるのだが……。
 プライド。プライドとは何か。人間の尊厳とは何か。いや、幸せ。幸せであれば、それですべてはよいのである。
 あれやこれやをマジックが考えていると、車内の気温が一層低下したような感じがした。実はさっきから、そんな気配は感じていた。犬にハンカチをやった頃からであろうか。
 マジックの隣ではシンタローが、みるみる機嫌を悪くしているのである。



 加速度的に、でろでろした空気がたちこめていく車内。シートの上でお座りをした猫から、暗雲が湧き出している。
 マジックは言葉に詰まった。相手をちらちらと見遣るが、黒猫は気付いているのだろうに、ぴくりともしない。
「……」
「え、えっと」
「……」
 と、とりあえず。聞いてみようかな。
 声をかけてみた。
「シンちゃん。なんで怒ってるの?」
「……」
 答えないシンタローである。つんと前を向いたまま、マジックを明らかに無視している。
 じれたマジックは、シンタローを軽く揺すぶった。
「ねえ、どうして怒ってるのってば」
「ンニャア!」
 うるさそうに、ぶんぶんと猫足が振られ、マジックの頬や髪を掠める。怒っている。完全に猫は怒っている。
 マジックは、シンタローの不機嫌の理由は、目の前の光景にあるのだろうと想像する。ただそれが何なのかを考えるには、彼はネガティヴな男であった。
 ――シンタロー。
 もしかしてシンタローは、飼い主(?)としての私に不満なのだろうか。あんな風にサービスに躾けられてみたいのだろうか。だからサービスとジャンのコミュニケーション(たぶん)を見て、機嫌を悪くしているのか。
 シンちゃん。パパとサービス、どっちが好き?
 かつてシンタローにしつこく迫った男は、今度もこう聞いてしまうのであった。



「……やっぱり、私に飼われるより、サービスに飼われた方がよかった?」
 マジックが、そう口にした瞬間だ。いきなりシンタローが、マジックの手に噛み付いた。歯型が残らない程度の甘噛みではあるが、それでも痛い。
「痛い! 痛いよ、シンちゃん」
「ニャア!」
「そんな風に突然怒り出すんじゃ、パパ、わからないよ」
「フ――ウ――ッ!」
「もう、この怒り虫! いーや、怒り猫!」
 バババババ、と激しく猫パンチが連打され、マジックの視界が封じられる。一体なんなんだ。避けながら、マジックは前方で繰り広げられているジャン犬の芸を見ようとしたが、猫足の乱打は、まるで雨の日のワイパーが十倍速にでもなったかのようだ。
「ニャア! ニャアア!」
「見えないでしょ、シンちゃん! なに! 一体なに! どうしてパパの邪魔をしたがるの!」
「シャ――――――ッ!!!」



 マジックとシンタローが、ニャンニャンと車内で揉みあって喧嘩している内に、サービスと飼い犬のパフォーマンスは終了したらしい。最後の方は全然見ることができなかったマジックである。残念なような、残念でないような。複雑な気持ちだ。
 ふくれっ面をした黒猫が鎮座している隣で、マジックは車外の弟に向かって、いい加減に指先だけで手を振った。
「ああもう、シンタローは何を怒ってるんだか。じゃ、サービス、私たちは帰るから。芸は凄かった。見事というより、スゴかった。きっと誰もマネできない」
「ええ。僕たちも失礼しますよ、兄さん。散歩の続きでしたしね」
 ハアハア息をついてバテているジャンを尻目に、平静そのもののサービスは余裕の笑みを見せる。そしてシンタローに向かっても、こう言った。
「じゃあね、シンタロー。また。でも……」
 サービスはジャンと目をかわし、こう付け加える。
「はじめてなのだったら、次会った時は、今夜のことは覚えていないかもしれないね」
 去っていくサービスとジャンを、ウインドウに両の猫足をかけて見送りながら、シンタローは首をかしげている。
「ニャ?」
 街灯が映し出す長い影を残し、主人と犬は夜へと消えていく。
 なにはともあれ。マジックは思う。
 凄かった――……。
 夢のような、いや、夢であってくれ、ということばかりが起こる日である。不思議な夜だ。



 窓を閉めさせる。
 一息ついてから、新たにグラスに注いだ水を飲み干し、マジックは改めて、隣の黒猫を眺めた。
 夢であろうとなかろうと、シンタローは今ここにいる。
 右腕を伸ばし、相手に触れる。
 なんだか、おかしくなって、マジックは少し笑った。
「シンちゃんは、ああいうのできなくたって、いいんだよ。にゃんこだしね」
 黒い頭を、なでなでしながらマジックがそう言うと、
「……ニャッ」
 シンタローはむっつりとした顔でまた脇を向いたが、マジックの手は振り切らなかった。
 それでもまだ、論点がずれている、とでも言いたげな横顔であったが、こちらが撫でるままにさせてくれていたので、マジックは少し安心する。
 やはり、喧嘩は程ほどにしたい。
 だってね、シンちゃん大好きだから。シンちゃんだって、私のこと、好きでいてくれるよね?
 マジックはシンタローの黒髪を指で梳きながら、考える。寄り道をしたが、今度こそシンタローを家に連れ帰り、あたたかい毛布に包んで眠らせなければ。
 それが今夜の自分の使命であったと、マジックは想いを新たにする。
「さて、と」
 マジックはまだ気を失っている運転手に活を入れ、自宅に急ぐように命じた。
 運転手は現状が把握できていないのか、周囲をきょろきょろしながら気絶前の自分が見た巨大犬を探していたようであるが、背後の巨大猫にビクッとして、それから正気を取り戻したらしい。
 エンジンがかかり、車は息を吹き返す。
 そして走り出した。車体を月が照らし出していた。









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