総帥猫科

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 ル〜ルルルルル〜マジカルルルルルル〜〜〜♪
 海の波が引くように、熱き魂に揺れているマッチョたちの背が、家路につく。満月の光に照らされてテカテカと輝いている彼らの腕に盛り上がる筋肉さえ、すこし寂しげに見えた。
 ハミングは続く。男たちの純粋な瞳からは、いつしか涙が溢れ落ちている。涙は地上に落ち、集まって川へと流れ出す。涙はやがて海へと流れ出し、世界中を環流するのであろう。
 チョコレートロマンスたちの先導に従って、男たちは綺麗に列をなして、来た道を戻っていくのであった。川に架けられた橋を整然と渡り、暑苦しい肉壁は塊となって移動していた。
 躾の行き届いた巨漢たちは、さながらガチムチ筋肉付の警察犬であった。主人の前では羊のように大人しい彼らも、ひとたびマジックが命を下せば、獰猛に牙を剥くであろう。
 危険な香りを秘めた野郎どもを、マジックは離れた場所から、静かに見送っていた。彼の立ち姿に長い影が落ち、わずかにその輪郭が揺れて風の吹く向きを教えた。
「……」
 フッと口元を緩め、マジックは身を翻す。
 いつものように数万、数千人規模の会ではなかったが、小規模ながらに、よい集まりであったと思う。有意義であったと、彼は満足を覚えた。
 ふう、と大きく息をつくと、テーブルが設置されている場所へと戻り、椅子にかけた。背中をさすりながら言う。
「あー、会は良かったけど、背中がヒドい目にあったよ。さすがの私でも、かなりこたえた」
 夜空にちりばめられた星々は、ただ穏やかにそんなマジックを見下ろすのみであった。また風が吹いた。
 今度は頬に、ちくりと小さな痛みを覚えて、彼は顔についた真新しい傷を指でなぞる。
 この傷をつけた猫は、まだ茂みで同じ位置から自分を見つめていることを、彼は知っていた。



 さて。ここからが正念場だな。
 そうマジックが心に呟いて、ふと前方を見遣ると、ティラミスが救急箱らしきものを抱えて立っている。
 しかし様子が変だ。きびきびと物事をこなしていくタイプであるのに、何やら珍しく判断に迷っているようだ。
「どうした」
 マジックが声をかけると、ティラミスは視線をマジックの顔に向けて言った。
「……いえ、会も終わりましたし、お手当てさせて頂こうと思ったのですが」
 マジックは首をかしげた。手当て。傷の手当てか。
 まさかこんな場所で背中に湿布を貼るはずはないから、ティラミスが手当てしようというのは、自分の頬にできた傷その他のひっかき傷のことであろう、とマジックは理解した。
 サイン会終了後というところが、多少は引っかかるが。諸君らは本気で私のこの傷を、ファンへの演出として利用するつもりだったのか。まあいい。とにかく手当てするならすればいい。何を迷っているのか。
 ――と。
 迷いを断ち切ったらしい秘書は、くるりと踵を返した。
「やはり今、絆創膏をお貼りしても、その上からまた傷がつく可能性が高いですから、やめておきましょう」
「ぐっ!」
 部下の冷静な判断に、反論の余地のないマジックである。無駄と判断されてしまった!
 これからのマジックに待ち構えているのは、接近戦、キャットファイトなのであるから、致し方ないところではある。
「待て」
 マジックは立ち去ろうとする秘書を呼びとめた。近くに寄らせて、小声で言う。
「ここに車を回せ」
「はっ」
 上司の意図を瞬時に飲み込んで、ティラミスが命令を実行するために立ち去ってから、マジックは椅子に深めにかけなおし、また例の手鏡でそっと背後を盗み見た。
 茂みはなおその場所にあり、シンタローはこちらの様子を窺っているようである。猫耳の先が、小さく葉っぱの陰から見え隠れしていた。
 ――よし。
 マジックは心の中で頷いた。
 今、シンタローお持ち帰り大作戦が開始されようとしていたのである。



 といっても、マジックがシンタローを抱きとめて、車に連れ込むという、しごく単純な作戦なのであるが。
 問題は、どうやってシンタローを抱きとめるかということである。近くまでおびき寄せて、そこを抱きしめて。
 マジックは腕を組み、考え込んだ。
 うーん、抱きしめたら、抵抗されるだろうか。引っかかれるのは、まだいいけれど、逃がしては元も子もないからなあ。どうにかして、一瞬でもいいから、シンちゃんを無力化させなければ。
 彼は川沿いで、たそがれはじめてから今までの間、ずっとこの難問に悩み続けているのであった。
 シンちゃんの首筋とシッポの付け根を触ればいいのだが。でも同じ手は通用しないような気もする。
 むしろ、さっきのことがあるから怒り倍増で、一気にチャンスを潰してしまう恐れがあるだろう。
 どうすればいいだろうか。シンタローを無力化させる方法……うーん……。
 おびき寄せるのは、まだいいとして。難しいのは、その後だ。
 ……とりあえず、やってみるしかない。時間は限られている。実行あるのみだ。
 彼は一度星空を見上げてから、行動を始めた。



 マジックはおもむろに手を伸ばし、サイン会の備品やプレゼント等が積んである平机から、四角い封筒を取りあげる。
 さきほどのファンレターである。それを周囲に見せびらかすような大仰な仕草でヒラヒラさせると、彼は大きめの声で言った。
「さーてと。お手紙でも読もうかなー」
 はさみで端を綺麗に切り、封筒から、分厚い便箋を取り出す。ずしりと重い。
 よくも短時間でここまで書いてくれたものだと、マジックは感心した。連絡を受けて、すぐに代理を派遣してくれた山南くんといい。私はファンに恵まれているよ。ありがとう。
 そして今はちょっと、私を助けておくれ。
 さりげなく左手の中の手鏡で背後を映しながら、マジックは周囲に聞こえるように言う。
「嬉しいなあ、さあ読んじゃおう!」
 手紙の文言を目で追いながら、独り言を続ける。
「ふんふん。えっ、いやそんな参ったなあ」
 彼は長めの前髪を、そっと指にからめて笑った。
「うーん、いや、ハハハ、照れちゃうよ」
 はにかんだように言ってみた。
「困ったな、私にはシンタローという人がいるんだけれどなあ、熱烈だなあ」
 ピクッ。手鏡の中で、茂みが目に見えて動いたのがわかった。
「ふーむ、こんなことまで書いてあるよ!」
 マジックの声に反応し、シンタローは身じろぎしているようである。
 鏡の中では、茂みから突き出た猫耳が、こちらを向いていた。音を収集するために、ぴくぴくと動いている。
 動物の耳の良い点は、ちゃんとこちらのことを聞いている、関心を持っているということが、一目でわかるという点である。
 人間の時のシンタローにも、猫耳がついていればいいのにとマジックは思うことがある。そうすれば態度でツンツンしていたって、あの子の本当の気持ちがわかるのに。
 平素、自分がファンから貰う贈り物や手紙には、シンタローはまったく関心がないという振りをしているのである。
 それなのにマジックがソファで手紙を読んでいたりすると、たまに視線を感じることがある。マジックが気付いて、そちらに視線を返すと、慌てたように逸らされるのであった。あとには不機嫌な顔をして脇を向いたシンタローが残っている。
 『気になるの?』などとバカ正直に尋ねようものなら、運が悪ければ大喧嘩に発展するのが常である。
 またそうならなくても、シンタローが『別に』なんて答えて窓の外を見ていたりしたら、まるで自分が悪いことをしているようで気が咎めてしまうから、最近のマジックは本部で手紙は読みきるようにしている程なのだ。
 ともかく今は、この現象を利用させてもらうしかない。
「うんうん。なるほどねえ。私も同じ気持ちだなあ。いや、うん」
 ちなみに、実際に手紙に綴られていたのは、マジックが以前に発売した快眠サポートグッズのお陰で、穏やかな人生を手に入れることができました、ありがとうございましたという感謝を記した内容であった。
 現代社会に蔓延する不眠症というのは、ストレスや不安感が原因であることが多い。マジックは自らを模した抱き枕、自らが巨大プリントされた毛布やシーツ、リラックス効果を高める自作アロマや、寝る前に見るDVDや聞くCD(どれもマジックが語りかけてくる)等を発売し、疲れた現代人たちの間で静かなブームを巻き起こしていた。
 マジックに癒された、そんな一人のマッチョからの手紙。
 まあ感謝の言葉が熱烈なのは、間違いではない。
 そうか、眠れるようになったの、よかったね。そう脳内では考えながら、口では思わせぶりなことを言ってみる。
「そうか。私と一緒に……ハハ、眠り……いやいやいや、いけないよ、こんなこと!」
 ピクピクッ。猫耳は、激しく動いているようだ。
 よし。ここはもう一押しが必要であろう。



「ちょっと来てごらん。お前たちも見てみなさい」
 マジックは、男たちの誘導を終えて帰ってきたばかりのチョコレートロマンスに声をかけて、さしまねく。先輩を手伝っていたらしく、額に汗の玉を浮かべた津軽少年も一緒に呼び寄せる。
 両脇から覗き込んでくる二人に向かって、マジックは指で手紙の文言をしめし、いちいち感心したり、頷いたりした。
 いつもならファンの手紙は、危険物探知や分別その他の作業の後は、誰にも見せないのであるが。今日は 申し訳ないが、勘弁して頂こう。
「いや嬉しいな。感動するね」
 マジックは溜息をつきながら言う。
 いつもは鈍いチョコレートロマンスも、今夜は後輩を得たという責任感のおかげで、急に聡くなったのか、調子を合わせて言う。
「ほーんと、情熱的ですね、マジック様! こっちが照れちゃいますよ」
 もともとが聡いらしい津軽少年も、
「素晴らしいですっぺ!」
 と、息はぴったりだ。



 茂みが、つ、と前進した。
 そっと、そっと。猫足は忍び足。そろりそろりと近付いてくる。
 黒猫を覆っている葉が揺れる。長いシッポが、猫の動いた跡をたどって、垂れている。
 シンタローの茂みは、はじめは津軽少年の方に思わずといった風に寄っていったが、しかし手紙への興味がそれを上回ったらしい。思い直したのか、
「ニャッ」
 がさがさ、かさかさ、と葉が揺れる音。
 茂みの軌跡は、わずかにカーブを描いて、マジックの背後に向かって直進してきた。すでに距離は1メートルと離れていない。葉の中でうずくまった猫は、そこからじっとこちらを窺っている。
 その動きを見て、嬉しくなったマジックである。もしシンタローが、手紙なんかよりも津軽少年の方に気をとられてしまったら、どうしようと思っていたからだ。
 よかった。シンちゃん。嬉しい。
 彼は今更ながらに心中で幸せを噛みしめた。
 パパのこと、気にしてくれてるんだね。ああ、これがフィアンセ。フィアンセというものか。
 フィアンセの愛って、あったかい。
 あはは。ラブラブ。うふふ。ラブラブ。やっぱり私、幸せ。
 ぽわ〜んと薔薇オーラを再び放ち出したマジックは、喜びに満ちた様子でファンレターを眺める。傍目から見れば、それは手紙に喜んでいる姿に見えたか、どうか。



 薔薇オーラを感じとって、どう思ったのか、茂みは苛立ったようにガサリと大きく揺れて、一気にマジックの真後ろへと這ってきたのである。
「ニャッ」
 近い。すでに表情がはっきりと見える。手鏡の中では、不機嫌な顔をした黒猫が、何とかレターをマジックの背後から、見ようとしている姿が映し出されていた。
 しかしよく見えないのだろう。マジックの隣には秘書たちがいたから、なおさらだ。右横に寄ったり左横に寄ったりして、あちこち角度を移動させては、さかんに覗こうとしている。
 それでもよく見えないらしく、じれた長いシッポが、ふりふり揺れた。
 やがて振り向かないマジックと秘書に大丈夫だと判断したのか、それともやけっぱちになったのか。
「ニャニャッ」
 後ろ足立ちになり、茂みから、にゅっと首を伸ばして、メッセージを覗き見ようとしているシンタローである。
 しかし見えにくいのか、やはり頭を右に振ったり、左に振ったりしている。すでに単なる飾り状態と化した木の枝が、シンタローの動きにあわせてガサガサ音を立てる。



 マジックはわざと肩を上げて、シンタローの視界をさえぎり、レターを隠すようにした。
 すると怒ったようにシンタローは唸り、ますます伸びをする。もう自分が茂みに隠れていたことなんて、どうでもよくなっているらしい。
 もはや葉っぱが邪魔らしく、怒ったように身から払いのけている。
 しかしそこまでして首を伸ばしても、見えないのだろう。マジックが懐深くにレターをしまい込むようにすると、
「ニャニャニャニャッ」
 じれたシンタローは、二つの猫足を、ガシッとマジックの両肩に置いた。猫の前足の重みが、マジックにかかる。
 なんと、堂々とマジックの頭上から覗き込む姿勢である。実に大胆な黒猫であった。
 マジックの頭に上半身を乗せかける勢いで、やっきになっている。
 いつの間にか、チョコレートロマンスも津軽少年もさりげなく身を引いている。
 すでにマジックとシンタローの二人きりだ。見ようによっては、椅子に座るマジックの首に、背後からシンタローが抱きついているようにも見えなくもない。
 マジックの顎に、やわらかい猫足の黒毛が触れて、彼は少々ドキリとする。
 もう鏡を使う必要はない。側では、すでに黒いシッポの先が揺れていた。



 息を飲むマジックの視界、その隅に、満月の光を浴びて、きらりと何かが輝いた。黒いボンネットである。
 ティラミスが指示通りに、車を回したのだ。なんというナイスタイミング。一言でしか命じなかったのに、デキすぎだろう。
 ……明日は秘書課とプラス一名まとめて、御馳走の刑だ。
 それとも、私がたまには休暇をとった方が、彼らのためになるんだろうか。
「ニャッ! ウニャッ!」
 手紙が見ようと夢中になっているシンタローは、幸いなことに、迫る軍用車には一向に気がつかないようである。
 それどころかマジックの頭に覆いかぶさって、さかんに猫足を伸ばして、手紙を奪い取ろうとしている状態であった。
 もう見つかるとか、隠れてたのがばれちゃったとか、そんなことはもうどうでもいいらしい。地面には沢山の葉っぱや小枝が散っている。まったく一つのことに集中すると、そればかりになってしまう負けず嫌いの黒猫である。
 ああ、嬉しいけど重い……。
 手紙を猫足の攻撃から素早くサッサッとかわしながらも、のしかかられて思うマジックは、一方では冷静に頃合を見計らっている。
 そんな一人と一匹のじゃれる、すぐ側まで、ライトを落とした車が静かに滑り込んだ瞬間である。
「今だ……っ!」



 それまでじっとしていたマジックは、いきなり振り向いて、シンタローをぐっと正面から抱きしめた。
「ニャッ?」
 突然の出来事に、呆気にとられているシンタローである。目を丸くして、棒立ちしている。
 しめたぞ。これは予想より簡単にいきそうだ、とマジックは感じた。
 この上に無力化させなくても大丈夫かもしれない。瞬時にコトが終われば。
 マジックの行動に合わせて、さっと横付けされた車の後部座席のドアが開く。
 よしよし。いいぞ。
 そこでマジックは、めでたくシンタローを連れ込めるはずだった。
 彼は腕に力を込め、シンタローの体を座席に向かって押し倒そうとした。ちなみに押し倒すのはマジックの得意技だった。これは余計な説明である。
 しかし――。
 寸前で、マジックは異変に気付いたのである。
 彼はピタリと自分の行動を押しとどめた。シンタローを抱きとめたままで、鋭い目を運転席の方に向ける。



「おやおや、騙されてはくれませんか。残念ですねえ」
 聞き覚えのある声がする。
「そのまま車に総帥を乗せてくだされば、急発進でマジック様を振り落として、そのまま出発したものを」
 ついに、その男が現れたのである。
 今度はバタンと運転席のドアが開き、運転手が降り立った。いや、それは運転手ではなかった。
 軍用車といってもマジックが私用にすることもあるほどの、美しい流線型のフォルムに手をついて、男はニヤリと笑った。
 唇が動いて、側のほくろが際立った。
「あなたのドクター高松、参上です」



 高松は今気づいたという風に、右腕を上げ、左腕を下にしての戦隊風登場シーンのようなポーズをとった。
「ああ、そうでした」
 肩にかけていたカモフラージュ用の軍服の上着を、格好をつけて、ばさっと脱ぎ捨てる。
「呼ばれて飛び出て、ジャジャジャジャ――ンッ!!! ドクター高松、参上!」
 勝手に派手な効果音まで口走っている。マジックは即座に言った。
「帰れ」
「いえね、目立とうと思いまして」
「目立たんでいい! 帰れ」
 マジックの主張をどこ吹く風で受け流す高松である。
 ムッとしながらもマジックは、そんな医者の顔が、やけに汚れていることに気がついた。擦り傷のようなものまである。髪も少々乱れているようだ。
 不思議に思い、つい尋ねてしまう。
「ところで何だ、その顔の傷は」
「それはこっちの台詞です」
 胡乱な目つきで、それこそ傷だらけのマジックの頬を一瞥すると、高松はいまいましげに言い放った。
「クッ、ご存知の癖に白々しい! ええ、そうですよ、ひとまず森の中に潜伏していましたら、上空からいきなり眼魔砲が飛んできたんですよ! それは見事に命中しましたとも!」
 高松は、くわっと目を見開いた。
「しかーし! 負けませんよ、私はッ! サイエンティスト魂、ここにあり! 特異なものは調べたい、実験したい、それが私のやり方!」
「……やはり不死身か」
「ニャー」
 先刻、シンタローが放ったニャンマ砲をマジックが弾き返したのだが、どうやらそれが高松にジャストミートしたらしい。うっかり命中。運がいいのか悪いのか、まったくわからない男である。
 それにしてもシンタローがサーブしてマジックがスマッシュした弾を受けても、かすり傷程度で済むとは。やはり一筋縄ではいかないようだと、マジックは改めて思う。
 ああ、ルーザー。お前は偉大だったよ。



 少々感傷的な気分になったマジックは――そもそも今宵の彼はブルーであったのだ――高松に向かって声を落とし、語りかけてみる。
 ルーザーが生きていたら、きっとこう言ったであろう。
 加えて、さきほど高松の気持ちを利用した作戦を実行したことを、ちょっと悪いなと思ったからでもある。
「高松。お前もいい加減にして、グンマやキンタローの側に帰ってやったらどうなんだ。いつまでも意地を張っていたって仕方がないだろう」
 普段はこの複雑な関係には、あまり積極的に干渉しないようにしているマジックであったが、今夜は彼にしては珍しい正論を吐いてみたのである。
 すると高松は、余計なお世話だと言わんばかりに首を振った。
「いーえ。帰りません。お二人の方から、頭を下げて私に頼んできてくださるまでは」
「私が仲介しよう」
「いいえ! いいえ、いいえ、いいえ! お二人の自由意志から出た、お気持ちでないと、私は受け入れません! ええ、そうですとも!」
 と、高松の様子はひどく頑ななのである。
 その気持ちにもわかる部分はあると、マジックは思う。自分と高松は、執着という点で似ているところがあるとは感じているのである。
「グンマ様とキンタロー様のお二人が、『ごめんニャ、高松〜』って猫耳と猫シッポで私にニャンニャン甘えてきてくれるまでは! 私は受け入れませんとも!」
「……今夜で何かが進化しているぞ、高松……かなり難易度が上がっている」
 マジックは遠い目をした。
 やはり、似ている……。



 この擬似親子のケンカの仲裁は難しいようだ、とマジックは説得を諦めて、まだ自分の腕の中にいるシンタローに目をやった。
 きょとんとした顔をしているシンタローは、高松の方を見て、それからまた間近のマジックの顔を見て、を繰り返している。
 現状をよく把握できていないらしい。とそうマジックが思ったのも束の間、
「ウニャッ!」
 急にビクンと身を震わせたシンタローは、マジックに抱きすくめられたままで暴れ始めた。
 身をよじり、マジックの腕からしきりに抜け出そうとしている。
「ニャフッ! ニャウッ!」
 マジックは思わず溜息をついた。
 やれやれ、こっちも大変なのである。
 森の方からは、軍服を剥がれて、縛りあげられた本物の運転手が這い出してきている。秘書課の一員で、よく見れば、シンタローの軍用車襲撃の際にも留守番をしていて、とばっちりにあった青年であった。
 あの男は、運転技術には定評があるから、そういった役目を任されることが多いとはいえ、気の毒に。
 こちらは確実に不運な生まれつきなのだと、マジックは彼に同情した。
 勿論、その不幸な彼の軍服を、さっきまで両肩にひっかけていたのは高松だった。
 ティラミスが駆けつけて、そんな青年を介抱し、縄を解いてやっている。ティラミスは珍しく困った顔で、マジックに向かって叫んだ。
「マジック様、申し訳ありません。不覚を取りました。自分が彼に御命令を伝えたのを聞かれていたらしく。ドクターがすりかわったようです!」
「いや、いい。高松は変態だから、仕方がない」
 その一言で済ますと、マジックは高松に向き直った。この自分でさえ手を焼くのに、秘書が太刀打ちできる訳がないのである。
 こうなったからには、実力行使をするしかないようである。
 威厳を帯びた声で、マジックは高松に宣戦布告をした。
「そろそろ決着をつけようか」



 マジックは倣岸に高松を見下ろす。
「飛んで火に入る夏の虫……とは、このことだな、高松」
 力では遥かに高松より勝っている自信があるため、マジックは自分の優位を露ほども疑っていないのである。
 実際、こうして対峙するのであれば、力の差は歴然であった。
 高松の不遜な態度も、鼻で笑い飛ばしておけばいい。
「この私の前に身を晒した、その度胸は買おう」
 一瞬で国一つを滅ぼすこともできるこの私が、相手をしようというのだ。
 曲者とはいえ一介の医者が、何ほどのものであろう。
「命までは奪わないから安心したまえ。だが私はシンタローを奪おうとする者に容赦はしない」
「ンニャ、ンナッ」
「こーら、シンちゃん。大人しくしててってば。それでだ、高松! 先ほどは姦計に騙されかけはしたが、それが発覚した今、もうお前にシンタロー奪還の目があると思うなよ」
「ニャアッ!」
「いたた、シンちゃん。爪だしちゃダメだよ、肉球でペタペタしようね。ほら、パパとペタペタしよう。ぺたぺた。ぺたぺた……いいか、高松! 総帥の座を辞したとはいえ、このマジック」
 ごうと風が吹き、相対するマジックと高松の間を通り抜ける。砂塵が舞い上がった。
 覇王オーラがマジックの背後から立ち昇り、大地を震わせる。青ざめた星々が彼を彩るように、輝きを研ぎ澄ましていく。
 空気が張り詰めていく。低い声が響き渡る。
「私がある所、すべてが全盛期。高松。お前が私に勝てるかな?」
「ニャ」
「そうそう。ぺたぺた。ぺたぺた。シンちゃん、上手、上手」
 シンタローをあやしておいてから腕で庇うようにして、マジックは高松を見据える。
 そして堂々たる啖呵を切った。
「このマジック、愛する者を全力で守らせてもらおう!」
 マジックの蒼い両眼が輝き、煌々と燃え上がる。



「……」
 ニヤリと高松の口が、笑いの弧を描いた瞬間である。
 マジックの足元で、地面が盛り上がる気配がした。一種の異様な感覚。しまった、と思った時にはもう遅かった。
「もうすでに手は打ってあります」
「何!」
 あちこちの地面から、緑色をした植物の芽のようなものが顔を出したかと思うと、みるみるうちに芽は伸びて葉を茂らせ蔓を伸ばし、繁茂する。
 マジックの腕やら肩やらを肉球でペタペタすることに、うっかり気をとられ、高松の攻撃に意を払っていなかったらしい。
 シンタローの、悲鳴が響いた。
「ニャギャ――――ッ!!!」



「触手!」
 マジックは叫んだ。
 うねうねとシンタローの体に植物の蔓が巻きつき、あっという間にその身体を覆っていく。赤い総帥服に絡みつく、黄緑色の触手。
 シンタローの猫足は地面を離れ、沢山の蔓に持ち上げられて、宙に浮く。
 両手両足、膝裏、腿、脇の下と自由自在に蔓は這い、シンタローの自由を奪う。
「ニャッ! ンニャアッ!」
 もがく度に、ますます絡まっていく蔓。がんじがらめになったシンタローは、蔓に噛み付いたが、バイオ化された植物は強度を増しているらしく、びくともしない。
 猫耳がひくひく蔓の間で揺れて、シッポまでもが巻きつかれて、しおれている。
 その光景に目を奪われて、しばし呆然としていたマジックではあるが、やっとのことで搾り出した声が上擦っている。
「たっ、高松……なななな、何だ、その捕獲方法は……ッ」



「ふはははは! これぞバイオハマナス! 近接バトル派のシンタロー総帥にコレが有効なのは、実証済みです!」
 変態科学者だか変態化学者だか、とりあえず最初に『変態』がつくことには変わりないこの医者は、愉快そうに悪人笑いをしている。
 そういえば南国の島で高松がシンタローと対決した時に、こんなバイオで変態化した植物を使ったらしいと報告を受けたことを、マジックは思い出す。
 たしかグンマの仕返しといって、自分が頼んでもいないのに勝手に高松は押しかけていったのである。
 よって完全な事後報告であったので、実際には高松がこんなヤバい作戦を展開したとは、マジックは今の今まで知らなかった。
 マジックは悔しく思った。
 この! こんな作戦なら、ちゃんと映像付きで私に報告すべきだろう、この鈍感ドクター!
 しかも! これは使えるじゃないか! どうして開発費だけ出させて、こんな使えるモノを私に知らせない? くっ、許せん! これは妖しげな薬と同等以上に使える……ん? 何にって? いやそんなことはどうでもいい!
 とりあえずは、けしからん!
「ば、馬鹿者っ、お前、そそそそそんなコトやっていいと、おおおおお思ってるのかぁっ……!」
 上擦りまくりのマジックの声に、高松は余裕たっぷりに付け加えた。ウインクしながらである。
「ちゃんとわかってます、シンタロー総帥にだけではなく、マジック様、アナタに有効だってこともネ」



「くっ、大事な研究費で変態な研究ばかりしおって……!」
 文句はなんとか言ったものの、マジックの目は、完全にシンタローの姿に釘付けである。
 触手に巻きつかれて、身悶えるシンタローの図に、もはや、虜。
「ニャッ! ニャ――ッ!」
 猫足が宙を泳ぎ、拘束されて不規則な動きを繰り返す。うねる蔓。
「ニャフッ! アフッ!」
 こっ、このっ! なんだこれは! とんでもないことだ!
「なんだ、この嬉しい捕獲方法は……!」
 思わず呟いたマジックの額には、冷や汗どころか、じっとりした嫌な汗まで滲んでくるようだ。
 シンちゃん。今、助け――。



「……ッ」
 マジックは己に向かって問いかけている。葛藤を繰り返している。
 困った。
 シンタローを助けたい。しかし残念なことに、シンタローのあんな格好、こんな格好はすべて見ないと気がすまない私であるのだった!
 おのれ高松、とんだ二律背反に私を誘い込みおって!
 マジックは目の前の光景から視線をそらすことができない。常にガン見である。
 ああ、シンタロー。そのもだえる姿。今、一本の細い蔓が首元に回り、巻きついて、それがゾクゾクしたのか目をつむったシンタロー。
 エロい。エロすぎるじゃないか、蔓め。ええい、この蔓めが。
 すぐに私が退治して……あっ、でも蔓の先が、シンタローのうなじを巡って、うねうねと蠢いている。首を右に左にそらすシンタローの姿が。
 マジックの視界を、極彩色のオーラが包み込む。きらきらと輝く淡いヴェールは、愛という名の透過装置を擁しており、マジックにとってはシンタローに関わるものすべてが耽美にきらめいて見えるのであった。
 輝きの中で、身をよじっているシンタローは、まさに咲かせて咲かせて桃色吐息。金色と銀色の粉が舞う中で、あえいでいるのであった。
『アッ……ンナ……ァッ……』
 幻聴だろうか、バックに愛の嵐みたいな音楽までが聞こえてきた。
 マジック美ジョンはフル稼働。マジックカレーもびっくり。
 宙にのばしたマジックの指が震えた。むなしく空を切る。
 ああ。シンタローの姿が。私を捕らえて放さない――。
 罠にかかったのは、私か? 私の方なのか?
 ぐっ!
 申し訳ない、告白してしまおう。私だって人間だ。一個のシンタローを愛する人間だ。
 ――率直に心情を吐露すれば、この光景を見ていたい!
 いやしかし。しかしだ。そんなことは許されないよ!
 愛する者が困っていたら、すぐに助けに行くのは当然じゃないか!
 さあ、マジック。ミラクルダッシュだ。もしくはミラクル眼魔砲、目からミラクルマジカルビーム。一刻も早くシンタローを救うのだよ。
 何を迷っている。簡単なことじゃないか。そう、簡単なこと――。
 シンタロー! シンちゃん!
 待ってて、今、私が助けに――。
 助け――。
 ――。



「ううっ……」
 マジックは低くうめき、肩を震わせた。彼は大地に膝をつく。
 両手で腹部をおさえて、うずくまった。
「いけない、急激な腹痛がッ! ごめん、シンちゃん、ちょっぴり待って!」
 絡みついてくる蔓と、ニャフニャフ格闘していたシンタローは、怒りのあまり叫んだ。
「シャ――――ッ! ヤッパリ、アンタニャンカ、サイテイニャ――――ッ!!!」



「くっ……」
 シンタローの様子を瞬きもせずに直視しながら、マジックは叫んだ。
「卑怯だぞ、高松! 私の弱みにつけこんで!」
 天才ドクターも、頬をヒクヒクさせながら負けてはいない。シンタローへの物理攻撃と、マジックへの精神攻撃を両方同時にこなすあたり、やはり只者ではない。
「どっちがですか。それはこっちの台詞です!」
「この変態医者が!」
「アナタだって変態引退総帥でしょう!」
 変態同士が、互いに文句たらたらで口論しあっている側で、こうなったら自力脱出しかないと思ったらしく、ひたすら頑張っているシンタローである。
「ニャウッ! ニャウウ〜!」
 爪を出した猫足でもがく。長いシッポがふるふる揺れる。
「ウニャ――ッ!」
 ニャンマ砲を撃ってみても、一方向に穴が開くぐらいで、すぐに可動性と伸縮性に富んだ蔓が、その上を覆ってしまう。内側から、この蔓にダメージを与えることは難しいようだ。
 しかもニャンマ砲の反動で、シンタローの体は絡みついた蔓と一緒に、くるんとでんぐり返しをしてしまい、ますますこんがらがって、どうしようもない事態に陥っているのである。
 まさに七転八倒。でも八方ふさがり。悲しげな声をあげるシンタローであった。
「ニャーウ! ナーウ!」



「……ハッ。いかん、いかん。見入ってしまった」
 腹痛の設定すら忘れて、マジックは目の前のシンタローに気をとられていたのだが、そうこうする内に、触手の様子が変わってきた。
 根元の方がじわじわと地面から浮き、移動し始め、シンタローを蔓で抱えたまま逃走を図る気配を見せている。
 ――マズい! このままではシンタローを連れ去られてしまう!
 すると我に返ったマジックと、シンタローの目が合った。
 網の目のような蔓に捕らえられたままの黒い瞳が、力なくマジックの方を見ている。
「……ニャーン……」
 強気になったり、弱気になったりするシンタローのその目。マジックの愛する黒瞳。
 目の色と同じく、弱々しい声がマジックの耳を射た。
「……マジッ……」
 最後までは聞き取ることができなかった。声にならなかったのか、それとも意図的にシンタローは言葉を止めたのか。だがそれで十分だった。
 マジックの胸は震えた。名前を呼ばれたのだ。
 そしてその先は、声は聞こえずとも、視線で気持ちが伝わってきたのである。
 『たすけて』と。そう黒い瞳が訴えるのが、マジックにはわかった。



「シンタロー!」
 マジックは息を飲む。シンタローが。あの強気のシンタローが。しかも猫になってニャンニャン、野生本能により忠実になったシンタローが。この状況で。
 私に……助けを求めるなんて。
 マジックは愕然とした。背筋を冷水を浴びせかけられたような衝撃が、全身を伝い落ちていく。彼は心中で呻いた。自らを恥ずかしいと思った。
 私は――大馬鹿者だ!
 また私は、間違いをおかすところであった。
 欲望に負けるところだった!
 純愛。そう、私の求めるべきは純愛なのであって、これまで何度も繰り返してきたように!
 エロスに純愛が勝利するべきなのだ。そうだ。純愛ばんざい。ラブラブばんざい。ピュアばんざい。今夜の私は、ずっとこの葛藤の中で戦ってきたのではなかったか。
 葛藤に決着をつけるのだ。今、ここでくじけてどうする。すべてが水の泡と帰すではないか。
「……ッ」
 大地に膝をついていたマジックは、ゆらりと立ち上がる。
 シンタロー。ごめん。私は。私は――。
 マジックは立ち上がる寸前に、さりげなく背後に視線を送った。目配せを感じ取って、すぐにティラミスが側に来た。マジックの服についた泥を払う素振りをしている彼に、マジックは何事かを囁いた。頷き、背後に下がる秘書である。
 マジックの様子と、蔓の中のシンタローの様子を見て、高松はわずかに眉を寄せる。
「こう動かれちゃ、さすがに厄介ですねえ、ならば、これでどうですか!」
 懐へと手をやった高松は、茶色い木枝を取り出し、シンタローに向かって投げ放つ。
「……ニャ?」
 そこは猫。シンタローは、急に目の前に飛んできた異物を、パクッと反射的にくわえてしまった。
 くわえてから、最初は不思議そうな顔をしていたのであるが、やがてだんだんと、目の色が変わっていく。
 マジックの目には、その枝が何であるかがすぐにわかった。なぜなら先ほど欲して得られなかったものであったからである。
「くっ、マタタビか!」



 高松、おそるべし。
「ニャウ――ッ!」
 マタタビをくわえたまま、シンタローは一声叫んだ。明らかに様子がおかしくなってきている。
 せわしなく息をし始めた後、目がとろんとさせている。黒い目が潤んだ。
 クンクン鼻をならしているシンタローは、けだるそうに喘いだ。
「ンンアァ……」
 ゆるんだ蔓の狭間から猫足を悶えさせ、枝にしきりに体をすりつけるような仕草をしている。
 興奮状態に陥ってしまったのだろうか。
 触手の中で身をくねらせているシンタローは、夢見心地だ。
「ニャフッ、アフッ
 まさに先刻のマジックのピンク妄想そのままの出来事が、実現していた。



「ニャフーン ハフーン
「ああっ、シンちゃん!」
「ンニャァ
「シンちゃん! パパだよ、こっち見て!」
「ナフー
 シンタローに呼びかけるマジックの声も空しく、シンタローはマタタビにメロメロであった。
 切なさ一杯で、マジックは呻いた。
「ぐうっ……ま、負けるかっ!」
 マタタビに酔わされている本猫じゃなくても、マジックだって、この甘い精神攻撃に立ち向かっているのである。
 純愛に生きると決意していた彼。エロスなんかに負けるもんかと夜空の星に誓った彼。
 マジックは肩、のばした腕、指などを苦しげに震わせながら、負けまいと頑張っていた。もう腹痛なんか起こすまいと、必死に大地に両足で立ち、踏ん張っていたのである。ふと気を緩めれば、シンタローのエロ波動にあてられてしまいそうになる心を、必死に奮い立たせている。
 彼は彼なりに頑張っていた。が、なにしろ愛の才能の発揮の仕方が、極端に不器用というか偏っているような男であったため、スムーズにはいかないのである。
 なにしろマタタビ。マタタビでであった。夢のアイテム、マタタビ。猫まっしぐらの、マジックにとっては喉から手が出るほどの魔法のグッズ。
 彼はこれを秘書たちに用意するように命じていたのであるが、植物園に立ちはだかる高松の妨害によって、入手できなかったという経緯があった。
 だからこそ悔しさ倍増で、マジックは叫んだ。勿論、目はしっかりと見開いて、シンタローの姿態を焼き付けながらである。
「ぐっ、くうう、マタタビ! マタタビめ! シンちゃんとスリスリ抱き抱きするのは私なのに! 植物の癖に! おのれマタタビ!」
 しかし怒りの矛先はモノではなく人間に向けるべきと気付いたマジックは、剣呑な視線を医者に向けた。
「ずるい! 高松、お前はずるいぞ! どうしてお前ばっかり、そんな良いモノを持ってるんだ!」
「頭脳の勝利です」
「ええい、開発費を出したのは誰だと思っているんだ、マタタビのあった植物園だって、ウチの一族が所有権を持っているんだ! 断固抗議する! マタタビを私に渡しなさい……いや違う、シンタローを放せ!」
「残念ですが、私は利用権を持っていますからね、何を使おうと私の自由ですよ、自由。さあて、それでは……そろそろ本気を出させてもらいましょうかね」
「何ッ!」



 いつの間にか高松は、ジェット噴射装置を背負っているのである。
 しゅっとバイオハマナスの蔓が伸びて、高松の体に結びつく。すべては彼の計画通りであった。
 スイッチが入り、点火されたブースターが音を立て始める。高松の体が浮き上がる。
 一緒にバイオハマナスが、根っこごと持ち上がる。ニャンニャン悶えているシンタローの身体も、触手の大群ごと宙に浮いた。
「それでは、さらばです!」
 高松の声と共に、シンタローまでが一緒に空に舞い上がる。黒猫は、まさにお持ち帰りされようとしていた。
「シンタロー!」
 マジックの切羽詰った声が、夜空に響き渡った。



 これは簡単に眼魔砲では撃ち落せない。高松を撃とうとすれば、シンタローにまで当たってしまう。眼魔砲のようなエネルギー波では、たとえば手術時のメスのように患部だけを切り落とすという訳にはいかないのである。
 高松は不死身だから撃ち落しても平気なのだが、シンタローの身が危ない。
 目からのビームで微細なコントロールを行い、蔓だけを切り落とすにしても、蔓は瞬時に生え変わるため――先ほどのシンタロー自身によるニャンマ砲が効果がなかったのを見ればわかる――無数の蔓を、同時に切り離さなければならないのである。
 秘石眼は二つしかない以上、これはかなり難易度が高い。シンタローを傷つけてしまう可能性すらあった。
 しかし……背に腹は変えられないか? いやでも。パプワ島の時は燃やしたというが、そんなことを私ができるはずもなく。
 やはり一気に全体を撃ち落すか。撃ち落すなら、低空飛行をしている今しかない。しかし。
 決断しかねているマジックに向かって、さらに高松は、懐から取り出した種子を、勢いよく投げた。
 この男の白衣の中は、四次元空間になっているんじゃないか。そんなグンマのような感想をマジックが抱いた瞬間、高松の投げた新たな種子が、大地から芽を出した。
「今度は何だッ」
「ふはははは、魔のバイオサボテンのブロックですよ! これにてシャットアウトさせて頂きます!」



 ズボッ、ズボボボボッと激しい音を立てて、マジックの前に沢山の巨大サボテンが聳え立つ。
 高さも幅も数メートルはあろうかという平たいプリックリー・ペア――別名ウチワサボテン――が、檻のようにマジックを取り囲んだのである。
 多肉植物の肉厚な茎や葉が壁となり、長い棘が凶器となって、行く手を阻むのだ。
 視界が閉ざされ、彼は高松を撃ち落すこともできなくなった。
「クッ!」
 マジックは眼魔砲を放ち、巨大サボテンを粉砕したのだが、もぐら叩きのようなものだった。瞬時に、あとからあとから新たなサボテンが生えてくる。
 なんという繁殖力であろうか。
 壊しても壊しても、立ち塞がる壁。
 飛び散る葉のかけらや果肉にまみれながら、マジックは焦りを隠すことができない。
 繁殖速度を超えて眼魔砲を撃ち続けるにしても、その間に時間を稼がれて、高く空へと飛び立たれてしまう。かといって、眼魔砲の威力を上げてサボテンを丸ごと破壊すれば、この場すべてを破壊してしまう危険性があった。
 威力を落として細心の注意を払いながら、ひとつひとつのサボテンを壊していくしかないのだ。
 そうこうしている内に、シンタローは奪われてしまう。
 万事休すか?



 だがマジックは、一つの手を打っていたのである。ティラミスに指示していた件だ。
「……間に合ったか……?」
 サボテンの壁の向こうで、幼い声が聞こえた。
「待つべ! オラがいるっぺ!」
 離陸し、舞い上がった高松に向かって、津軽少年が叫んだのである。
 少年はシンタローの黒い革コートを羽織っていた。
 そして叫ぶと同時に、そのコートの前を、勢いよく開いた。



 月光の下で、大きすぎる黒いコートがはためく。
 少年の手で開かれたレザー生地は、巨大な怪物のようにぽっかりと口を開け、そこからきらきらと輝く小さな物体を吐き出したように余人には見えたであろう。
 無数の甲虫が飛び立ったのだ。虫たちの硬化した前翅は黒褐色に艶光りし、流星のように空を彩る。
「何ッ!」
 今度は空中で高松が驚く番であった。
 地上では津軽少年が懐かしの三味線を手に取り、不協和音をかき鳴らしている。
「津軽じょんがら狂の舞!」
 虫使いとして、かつてはシンタローへの刺客としてマジックより放たれたという経歴を持つ美少年は、バチで激しく弦を弾いた。
「行くっぺ!」
 乱れたメロディに乗って、暗い夜をジグザグ走行する虫たちは、一斉に高松の操るバイオフラワーに向かって突進していく。



 いわばマジックは囮であったのだ。
 マジックが高松の気をひいている間に、津軽少年を森の方から回り込ませる。そして少年の操る虫によって、蔓を断ち切らせるのが真の目的であった。
 甲虫たちはバイオハマナスに向かって突き進み、一本一本を同時に断ち切っていく。生え変わる間も与えない。
 壮観であった。満月を背景に、空中劇が行われている。
 三味線の開放弦が空気を震わせて鳴き、虫たちは踊った。
 ブツッ、ブツッと音を立て、シンタローの手足や体に絡み付いていた蔓が、次々に弾けていく。
 計画を台無しにされた高松が苛立ちの声をあげた。
「くっ、いけません!」
「ニャウッ!」
 高松の体に蔓によって結び付けられ、お持ち帰りされようとしていたシンタローの体が、落下する。
 すでにジェット噴射によって十数メートルの高さにまで達していたから、危険極まりない。
 黒髪が流れ、猫が落ちていく。



 地上では、マジックも奮闘していた。サボテンの果肉や種子が雨あられと降る中を、破壊し続けている。
 だが埒が明かない。
「これならどうだ!」
 立ち塞がるサボテンに業を煮やした彼は、ついに地面に向かって一際大きな眼魔砲を放つ。
 壮絶な音がして地面が割れ、岩と石が吹き飛び、サボテンが根を張る土自体が空に向かって吹き飛んでいく。
 これにはさすがの繁殖力豊かなバイオサボテンも敵わない。飛ばされた先の土に慌てて芽を出したが、すでにマジックの妨害をすることはできない。
 一気に地面をえぐったマジックは、ぽっかり開いた空間の中を走った。
 蔓の網から解き放たれて、落ちてくるシンタローの身体をめがけて、走った。
 全身全霊をかけて、走った。
「くっ!」
「ニャフッ!」
 間に合った。
 落下してきたシンタローを、マジックの両腕が受け止めた。衝撃で腕がしなる。反動を殺してシンタローの体に負担をかけないために、マジックは腰を落とすが、しかし決してシンタローを落としはしなかった。
 腕の重みに、マジックは安心する。
 少しでも遅れていたら、酔っ払って着地姿勢をとることができなかっただろうシンタローは、地面に叩きつけられていたに違いなかった。
 よかった。
 しかし、そんなマジックの心中は、はじめてのマタタビにうっとり気分であったシンタローには無視されてしまっているようである。
「ウニャ? ニャッニャッニャーウ?」
 落下途中で、マタタビの枝をどこかに落としたらしく、シンタローは慌てた様子で周囲を見回した。マジックにお姫様抱っこをされたままの体勢である。
 そして暴れだした。離してくれと言わんばかりである。
「シンタロー!」
「ニャッ! ンナフゥ!」
 寄せたマジックの顔を、ぺたぺたと猫足が叩く。さっきの、爪は出さないで、というお願いは聞いてくれているようであるが、シンタローの目は、マジックではなく地面を彷徨っている。
 しきりに落としたマタタビを気にしているシンタローに、マジックの内に熱い感情がむらむらと込み上げてくる。
 自分の腕にすっぽり収まったにも関わらず、逃げようとしてもがくシンタロー。



「……」
 シッポの付け根や首筋を避けて、シンタローを無力化する方法。
 それを長きに渡って考え続けていたマジックであったが――。
 すでに先刻から彼の脳裏には、ある一つの手段が浮かんでいた。何度も考えるに、これしかない、と思っている。
 だが同時に迷っていたのだ。猫のシンタローと元のシンタロー、その関係性がわからない限りは、元のシンタローに対して申し訳ない事態になるのではないだろうか?
 その懊悩は、この最後の瞬間で必要性に取って代わられた。
 ここしかなかった。このタイミングこそが、猫シンタローを手中に収めることのできる最後のチャンスだという気がした。
 マジックは決意した。ごめん。シンちゃん。後で必ず懺悔する。
「シンタロー、すまない!」
 こうしないと、風邪ひきのお前を捕まえることができないんだ。
 でもやっぱり……この猫はお前。お前だよね?
 だってこんなに私の心が熱くなるんだから。ここにいるのは猫になってしまったお前で、本当のお前と同一人格なのかは定かではないというのに、冷たくされると、私は熱くなる。
 やっと私はあの……真夜中のお前の気持ちが、少しだけ……わかった気がするよ。
 これだけは許して。
 暴れるシンタロー。その体をマジックは、ぐっときついほどに抱きしめた。言った。
「マタタビなんて、なんだ!」
 驚いたのか、びくっとしたシンタローは、丸い目をしてマジックを見上げた。マジックはますます腕に力を込める。抱き込まれてシンタローは反射的に身をよじる。
「この私が、マタタビなんかに負けるか!」
 なおも言い募るマジックである。夜空で星々が彼の声に呼応するように輝いた。
 最後に大声で叫んだ。
「マタタビなんかより、私の方が最高だ!」
 そして熱烈なキスを、シンタローにしたのである。



「ンナッ!」
 口付けられて、それまで盛んに動いていた猫足が、突っ張った。抵抗しようとし、マジックの肩を押し返そうとしているのか、肉球がマジックの肩をかする。
「ンン……ッ! ン……」
 しかしだんだんと抵抗する力が弱くなっていく。
 深くなっていく口付け。黒髪が乱れて揺れる。
「ンゥ……」
 猫足から力が抜けて、くったりとする。長いシッポが垂れる。猫耳がぴくぴくと動く。
 黒い目がとろけて、やがて閉じられる。
 キスの魔力。
 そんな二人の側に、軍用車が滑り込む。
 マジックは唇を重ねたまま、大人しくなったシンタローの体と一緒に、もつれあうように後部座席へと乗り込んだ。
 バタン、とドアが閉まる。
 車は走り出す。



 静寂。小さくなっていく車。タイヤ痕を変わらず黄金色の月と星たちが、照らし出している。
 マジックとシンタローが去った後には、高松と秘書たちが残されていた。
 彼らはしばらく立ち尽くしていた。
 あまりに。あまりに色々なことがありすぎて、百戦錬磨の彼らとて、茫然自失に陥っていたのかもしれない。
「さーてと」
 最初に言葉を発したのは、意外にもチョコレートロマンスだった。
「撤収……って、ど、どーすんですか、ドクター、これっ!」
 目標を失って、うねうねと触手をくねらせているバイオ生物に向かって、指をさす。千切れてもすぐに生え変わるしぶとい植物である。とても近寄る勇気はないようだ。
 片手に重量のあるジェット噴射装置を引きずりながら、溜息をついていた高松であったが、秘書の指摘に振り返る。
 そして肩をそびやかして言った。
「フフ、安心してください。まあ私の言うことなら聞きますから、なにせ私が手塩にかけた可愛い可愛いバイオ生物たちですからねえ……」
 うねる蔓を撫でようと、手を伸ばす。
「って、おおっと! こらお前たち! 何をするんです〜〜〜!」
 お約束通りに、自ら操るはずのバイオハマナスに、絡みつかれてしまっている高松であった。



「すごいものを見てしまったっぺ……」
 ドクターの阿鼻叫喚には目もくれず、車が走り去っていった後を見つめている少年がいる。手には愛用の三味線とバチ。虫たちは主人の命令がないので、あちこちを気ままに飛び回っている。
 大きすぎる革コートを夜風にはためかせながら、津軽少年が真っ赤な顔をして呟いた。
 彼には色んな意味で刺激の強すぎる一夜であったらしい。
 そんな少年の頭を、チョコレートロマンスが、ぽんぽんと叩いた。
「慣れた俺たちでも、毎回そう思うんだよ〜、やっぱ津軽くんには早かったかもね……」
「でっ、でも、頑張りますっぺ! 一日も早く慣れるように」
「いや、いいって……俺の望みとしては、津軽くんにはこういう修羅場よりも、まず健全な精神の発達をだね」
 兄貴風を吹かし、柄になく説教をしようとしたチョコレートロマンスの声を遮って、ティラミスの鋭い声が夜を裂いた。
「撤収、はじめ!」
「おわっ、いけねっ! よーし、津軽くん、まだ疲れてなかったら、撤収も一緒に頑張ろう! 後片付けこそ秘書の務め!」
「はい! 後片付けしますっぺ!」
「競争だ!」
「競争しますっぺ!」
「こっ、こらっ、お前たち! いくら可愛いお前たちでも、そこは! そこはダメですってば……ああッ
 触手地獄に陥っているドクターを残して、目を輝かせた少年とチョコレートロマンスは、撤収作業に向けて走り出していったのである。



 そして――。
 山崎が観察している。
 相変わらず繋がっている携帯からは、興奮したような山南の声が響き渡っている。
「これは凄いね、山崎くん! 私ははじめて見たよ、こんなのは! サーカスでもそうそうないよ!」
「……カワイくない……」
 夜の森、大きく開いた穴の底では、本当の修羅が演じられていた。
 もうお忘れの方も多いだろうが、こちらこそが命に関わる真剣バトルである。
 地底では、あれから目を覚ました巨大ヘビのアナコンダと、例のチンピラさんたちの、壮絶な死闘が繰り広げられていたのだ。いや死闘というより、人間側の一方的な阿鼻叫喚。
 そこにこれまた目を覚ましたヒグマまでもが参戦して、なんだかとんでもないことになっていた。
 ギャーギャーグォーグォーシャーシャー助けてーここから出してーの惨状である。
 この光景を黙って見つめている山崎の側に、影が落ちる。
「仕方ありませんねえ。これで我慢しておきますか」
 衣服は破れ、全身傷だらけになったドクター高松が、いつの間にかやってきて、そう言った。いかにも残念だという風に、首を右に左に傾げている。
 手に手にゴミ袋を持って、最後の清掃点検を行っていたらしい秘書たちもやってきて、しかめ面をしている。
 秘書集団の先頭にいるティラミスの表情は、相変わらず一定だったが、心中ではこの後始末を一体どうつければいいものかと思案中らしい。
「私がまとめて引き取りますから。フフフ」
 物騒な微笑を浮かべた高松の様子に、しばし迷っていたティラミスであったが、ついに思い定めたらしい。
「……では、そのように」
 いかなティラミスでも、この混乱したカオスを収拾する良い方法は思案がつかなかったとみえる。
 元よりチンピラさんたちには義理もないし、その行く末を心配してやる余裕もないのであった。秘書の業務は、常に元総帥と総帥の起こすトラブルでいっぱいいっぱい。派生したいざこざまでは、手に負えない。
 しかしさすがに不憫だと感じたティラミスであったが、ふと隣に視線を移すと、チョコレートロマンスが穴に向かって手を合わせていた。
「……」
 ティラミスも手を合わせた。秘書全員が手を合わせる。この辺、上司の影響か、妙に日本ナイズドされてしまっている彼らである。
 やがて誰ともなしに声が上がった。
「行くか」
「行こう。あっ、ドクター、ちゃんと最後に穴は埋めておいてくださいね〜」
 チョコレートロマンスの声を残して、秘書たちは去っていった。今日も残業になっちゃったねー、大変だよー、明日も早いんだよな、お疲れ、等と言い合いながら。
 だが彼らにはまだ、本部に帰って報告書を作成するという仕事が残っているのだ。
「うわっ、今度は山崎君、巨大植物まで参入してきたよっ! すごい! みるみる内にアニマルたちと人相の悪い男たちを捕らえていくよ! ねえ、山崎くんってば! ちゃんと見てるのかい? 山崎くん!」
「……カワイくない……」
 カワイくなくても、十分にかわいそうなチンピラさんたちの悲鳴が木霊していた。
 こうして、森の夜は更けて行くのであった。







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