総帥猫科

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「ギャフゥ――ッ!!!」
 首根っこを押さえられて、黒猫はまるでこの世の終りのような情けない声をあげた。浴室だから、声が反響する。たちこめる白い蒸気と一緒に揺れては消える。
 全裸のシンタローは、浴室の床に突っ伏していた。上からマジックに圧し掛かられているので、身動きさえもままならないのだ。ぺったりと床につけたシンタローの頬は、パールホワイトの大理石とは逆に、赤く染まった。
 先刻から湯を出しっぱなしにしているため、床は温まっているから体は冷えることはない。すでに湯が一杯になったバスタブからは、もうもうと湯気が立ち上っている。
 マジックは、着ていたジャケット一枚だけを脱いで、洗面所の方に放り投げた。そして素早く腕まくりをしてから、早速仕事に取り掛かった。
「はい。まず髪を洗いますよー。目をつむって」
「ンニャ――ッ!」
 シンタローが、言うことを聞いて目をつむるより早く、マジックの手の中にあるシャワーノズルから、熱い湯が、じゃっと放たれた。シンタローの黒髪に、透明な雫が降り注ぐ。
 濡れていく。潤いを含んだ漆黒が、控えめな照明の下できらめいていた。首筋のひとふさが床に流れ落ち、湯がつたい落ちていく。
 猫耳が雫を弾き、かぼそく震えている。
「ほら、シンちゃん。あごを上げて。そう。そうやって、腕を床について。ちょっと我慢してね」
 突っ伏したままではさすがに息がしにくそうに見えたので、マジックは背後から、シンタローのあごに手を伸ばし、ぐっと持ち上げてやった。体勢を維持させてから、改めてシンタローの顔に湯がかからないように、長髪を隅から隅まで丁寧に濡らした。額にはりついた髪の束をかきあげてやった。
 それから鏡の下に並べられたボトルを手に取る。低い声で、できるだけ優しく言った。
「シャンプーしますよー」



 とうとう観念したのか、シンタローはぐっと口を引き結び、目も同じようにぎゅっとつむった。
 この災難を、じっと我慢して、やりすごすことにしたらしい。
 その様子を見て、マジックは口元で静かに笑った。
 普段からマジックが彼の頭を洗ってやることは、よくあった。特に遠征帰りなどは、よく世話をしてやるのである。
 だが、その時のシンタローは、素直なことが多いから。今の耐える仕草が、やけに新鮮に感じられて、マジックの心がほんのり波を打つ。
 うなだれた黒い頭を見ながら、思う。
 ――シンちゃんが子供の頃って、こんなんだったかな。
 少し考えて、いや、と首を振る。そんなことないか。ベッドに入る時は、もっと遊びたいってワガママ言うことはあったけれど。
 昔からシンちゃんは、お風呂は大好きだったんだよね。私が遠征から帰ってくると、一緒にカレーを食べて、一緒にお風呂、一緒に毛布を被っておやすみなさいが、いつものコース。
 そうか、今は逆だね。遠征から帰るのを待つのは、今は私。立場が変わっただけで、昔から、やってることは何も変わらないね。
 あたたかな湯気の中で、マジックは昔を思い出して、目を細めた。
 それはマジックの心の中にしまい込まれている、大切な記憶だった。息をつく。
 ……懐かしい。



 虹色をした丸い泡が、ふうっと飛んでいく。虹の帯は、球体の表面をすべるようにして巡り、シンタローの鼻先をかすめて浮き上がって、ぱちんと弾けた。
 マジックは、これもパール色をしたシャンプー液を、しゃかしゃかと泡立てる。
 白い泡は、シンタローの黒髪に降り積もる雪のようだった。その雪をかきわけながら、マジックは優しく指をすべらせる。
「……ッ、……ンッ……」
 マジックの指が移動するたびに、シンタローは喉の奥で詰まったような声をあげている。
 気持ちいいのだろうか。そう思ってマジックは、また微笑んだ。
 湯を含んで重くなった長い髪を、まとめて床に垂らすと、露になったうなじから髪の根元を揉んでいく。頭皮をマッサージするようにして、ほぐしていく。
 前髪の辺りまでマジックの指が到達したところで、ほつれて、ぺったりと額に貼りついた黒髪のひとすじから、つうっと泡まじりの雫がつたい、シンタローのつむった目に流れ落ちた。濃い睫毛の縁が、もじもじと動く。
「……ン……」
「ごめんね。泡が目に入っちゃったかな」
 マジックは手のひらに湯をためて、そっとシンタローの目を洗ってやった。すると黒猫はぱちぱちと瞬きをして、頭を数回小刻みに振ってから、『クゥ』と鼻声を出した。
 それから今度は鼻を、すんすん鳴らしている。
「あれ、鼻に水も入っちゃった?」
 マジックの指が、今度はシンタローの鼻筋をつまむと、シンタローは怒ったように、指に向かって噛みつこうとして来た。勿論、本気で噛むつもりはない。マジックの指を、口で追うだけだ。
 マジックは少し笑って、シャンプーを再開した。
 白い泡から、三角形をした黒い猫耳の先が、ピンと突っ立って存在を主張しているのが、とても可愛かった。
 猫耳の先に、指の腹で触れると、やわい黒毛がぷるぷると水滴を弾いた。
 こめかみのところに親指を当てて、側頭部に手のひらを広げ、また頭皮をマッサージしてやると、猫耳は気持ちよさそうにペタンと横に寝た。シッポと同じくらいに、表情が豊かなのがいい。



 熱い湯で黒髪ゆすいだ後、軽くリンスをつけてから、またゆすぐ。
 それからマジックは、シャンプー等のボトルの隣にあるケースから、シンタロー用の赤いゴムを取り出した。手早くくるくると長い黒髪をまとめると、後ろでちょっとねじって縛った。
 はい、髪はできあがり。
 シンタローの長い髪を結んでやるのも、マジックが好きな作業の一つだった。本人は意外に無頓着なのであるが、一緒に風呂に入った時などは、マジックがその髪をまとめてやるのが慣例になっている。だから綺麗な色をしたゴムや紐は、マジックの個室付きの浴室といえど、ちゃんと用意してあるのだ。
 わざと凝った結び方をしたり、飾りのついたゴムや紐を使ったりして、よく怒られたりするのである。
『わあ、シンちゃん、可愛いなあ〜』
『あああ? な、なーんて結び方してんだよ! カワイかねえ――!』
 いつものやり取りを思い出して、マジックは何だか寂しくなった。ふと手が止まる。
 猫のシンタローは確かに可愛い。可愛いけれど。
 マジックは少し俯いた。金色の睫毛が彼の頬に影を作った。
 ――いつものシンタローに戻ってくれなかったら、どうしよう。
 これはわざと考えないようにしていた可能性だった。
 最初に高松から、薬の持続期間である8時間を過ぎれば、元に戻るだろう、という話を聞いていたし、帰途途中にサービスとジャンの異色カップルに出会っていたから、ジャンとシンタローが同じタイプの身体を持っているのなら、同じような経過を辿るのだろう、ということを、マジックは信じてはいた。
 だが何事にも万が一、ということがある。
 ――もしシンタローが、いつものシンタローに戻らなかったら。
 そう考えると、マジックの胸はキリキリと痛んだ。



 マジックの手が止まったのを不思議に感じたのか、シンタローが振り返った。マジックはハッとし、不器用に笑おうとした。
 ……こんなに可愛いのに。ごめんね。
 マジックがそっとシンタローの頬を撫でると、猫は首を傾けて、またマジックの方を見た。その黒い瞳を見ていれば、マジックの心に、むくむくと罪悪感が首をもたげてくるのである。
 その複雑な想いを振り払うように、マジックは行動に移る。ぱん、と両手を打ちあわせ、彼は言った。
「はい。次は体」
 間髪入れずにマジックは、今度はボディソープを手にとると、それをスポンジで泡立てた。天然海綿に甘い砂糖をいっぱいに含んだメレンゲのような泡がもりあがる。
 まとめ髪をしたシンタローは、ビクッと体を震わせ、急に騒ぎ出した。四つんばいのままで、身動きし始める。
「ニャニャニャニャ!」
「はいはい、大人しくしててね」
 マジックは、泡で、うつ伏せのシンタローの背中を包んだ。肩甲骨から背筋を沿って、やわらかなスポンジを滑らせる。
 彼は、シンタローのこの背中が好きだった。美しいと素直に思った。
 単なるトレーニング等によるものではない。とても実際的な筋肉のつき方をしている。シンタローの身体には、余計な装飾としての肉は、ひとかけらもついてはいなかった。
 シンタローの体は、シンタローの人生そのものだった。細かな傷が、まるで薄く雨が降った日のガラスのように、不規則に何本も線を描いていた。
 ああ、この傷は、あの時についた傷だ。そしてこっちは――。
 マジックはその傷の一つ一つに、いとおしむ様に触れる。拭う。すぐに手当てをしなかったばかりに、ひきつれたようになっている広背筋に沿った傷痕は、未だ生々しかった。
 相手に気付かれないように、マジックはそっとその傷痕に口付けた。
 身体に触れれば、その人となりがわかる。日々をどのように過ごし、生きているかがわかる。
 だからマジックは、シンタローの身体に触れるのが好きだった。触れ合うことは、マジックの人生にとって大きな意味を持つ。
 愛しい人と人生を共有する喜びを、彼はシンタローによって初めて知ったのだ。
 彼がシンタローの身体に自分を埋める時間は、愛し合うという以上に、シンタローという人間を、最も近く感ずることのできるひとときだった。
 マジックの心は、今、静かに波打った。胸の奥で、呟く。
 ――やっぱり……寂しい……。



 猫の声で、マジックは我に返る。目の前で修羅場は続いていた。
「ニャ――ッ!」
 硬い大理石の床で爪をカシャカシャ擦って、騒ぐシンタローとは対照的に、マジックはひどく神妙な面持ちで手を動かした。
 こんな時にネガティヴモードに入るなんて、自分でも思わなかった。
 背中を通って、しゅるんと長いシッポにスポンジをすべらせると、細かな泡が飛んで、マジックの着たままのシャツの襟元にかかった。
「ニャッ! ニャウッ、ンニャッ……!」。
 くすぐったいのか照れくさいのか、薄明かりの下で、白い泡に包まれた全裸の黒猫が身悶える。うねる。シッポの生えた尻が動く。
 前にもまして、ひどくエロチックな光景だったが、マジックは目を伏せたままだった。我ながら勿体ないことをしていると頭の片隅で考えたが、どうしようもない。
 彼はシンタローの身体を仰向けにしようとしたが、猫足がじたばたするので、上手くいかなかった。何しろ泡で滑りやすいのである。
 仕方なしにマジックは、背後からシンタローに覆い被さった。後ろから抱きしめるようなかたちになる。マジックの着衣が本格的に泡だらけになり濡れたが、今さらだった。
 背後から前に手を回して、猫の胸や腹を洗うことにする。
「ンア……ッ!」
「大人しくして」
 猫耳の側で囁くと、マジックの体の下で、シンタローは縮こまってしまった。
 構わずマジックは、白い泡をたっぷり含んだスポンジを、円を描くようにシンタローの胸元ですべらせる。よく発達した筋肉を包むなめらかな肌を、まろく泡で撫でていく。
 順々に。あますところなく。
「ンッ……」
 マジックの手が、シンタローの身体に愛撫するように触れるたびに、縮こまった身体がかすかに震え、うなじが反らされるのだった。
 下半身にまで手が伸びると、シンタローの顔は緊張した。シッポが震えている。
「ンゥ……ン――ッ……」
 猫は眉根を寄せ、口元を引き結び、小さく声を出している。マジックの手は、念入りにシンタローの身体隅々までを擦っている。
 引き締まった腹の下にもスポンジが滑る。シンタローが足を閉じてしまったため、マジックは無造作に太腿を開いた。強引に、四つんばいになった身体、その腰を上げさせ、隠れた場所にも手を伸ばす。
 シュッ、シュッ、とスポンジと肌が触れ合う音が聞こえている。
 二人の前面には鏡がある。鏡の中で、マジックに圧し掛かられたシンタローの身体は、艶めいて魅惑的だった。やわらかな生き物が、腰をくねらす。白い泡の中から、桃色の乳首がのぞいていた。



「……」
 シンタローの首から下を、ふわふわの白い泡で包んだ後、マジックはあっさりと立ち上がった。
 淡白に言う。
「さて。流すよ」
 ざあっとシャワーの湯を、四つんばいのシンタローに浴びせかける。
 白猫が黒猫になった。泡は、逞しい裸体を滑り落ち、あざやかな円を描いて排水口へと消えていく。
 手早く泡を流し切るとマジックは、『はい、おしまい』と声をかけ、合図に、シンタローのむき出しの肩を軽く叩いた。
 猫は、ぷるぷると全身を震わせて、精一杯に、水を弾こうとする。濡れた自分の体を気にして、前足や二の腕、膝小僧といったあちこちを舐めはじめた。
「……」
 しかし急に猫は舐めるのを止め、押し黙った。ぺたんと床に尻をつけ、座り込んでいる。
 シャワーを止めて、マジックが足元を見下ろすと、唇を曲げて不審の目つきでこちらを見ているシンタローと、ばっちりと目が合った。
「どうしたんだい」
「……?」
 どうやら釈然としないものを感じているらしい黒猫に、フフ、とマジックは笑いかけた。
「あれ? なにか期待してた?」
 茶化してそう言ってみると、黒猫はカンカンになって怒り出した。
「フ――ウ――ッ! ンナ――――ッ!!!」
「はいはい、すぐにお湯に浸かる」
「シャ――ッ! ニャ……ニャギャッ!」
「さっさと入る」
 綺麗になった猫は、抵抗も空しく、マジックにバスタブの方に追いやられてしまい、仕方なく後ずさりして、バスタブの縁にちょこんと乗っかった。しばらくそこで、まるでブロック塀で縄張りを主張する野良猫のように、フーフー威嚇していたが、ここは水場。あいにくと滑りやすい。
 ついにはドボン! と派手な音を立てて、バスタブにはられた湯に落ちた。
 高く飛沫が上がって、マジックの顔や衣服をしとどに濡らす。



「……やれやれ」
 湯から顔を出したシンタローの恨めしげな視線を浴びながら、マジックは溜息をついた。やっと一段落着いたと感じた。
 さて、次の仕事はなんだろう。うーん……ああ、そうか。とりあえず今度は、自分を何とかしなければ。
 当然、彼の全身は、びしょぬれなのである。これをどうにかしないと。
 やけに自分の体が重いように感じられたが、それは服が濡れ鼠になってしまったからだろうと考える。肌に貼りつく布地の感触は、あまりこころよいものではなかった。
 もう一つ溜息をつくと、マジックはシンタローに言った。
「シンちゃん、そのままで入ってなさいね」
 湯につかりながらも、バスタブの縁に猫足をかけて、まだ睨むような目つきをしている猫に向かって、そう言い置く。
 マジックは洗面所に戻り、濡れた衣服を脱いだ。脱ぐというより、引きはがすという方が、感覚的には正しいだろう。先刻脱ぎ捨てたジャケットと一緒に、とりあえずズボンはハンガーにかけておく。スーツは泥だらけどころか、あちこち破れている有様だったのだが、まあこれも仕方ない。ねこねこファンタジアのためである。
 そっと摺りガラスの扉を開けて、彼は浴室に戻る。あたたかな空気が、彼の裸の全身を包んだ。衣服を着たままだった時は、この熱気は服の内側にこもってしまい、布地の感触と共に彼に倦怠感を与えていたが、今は優しい熱のガウンを纏っているようだと感じた。
 マジックは頭からシャワーを浴びる。熱い湯が疲れた体を流れ落ちていくのが心地よかった。湯は長めの金髪を濡らし、耳の後ろを通り、太い首筋から鎖骨をつたって脇腹を濡らし、腿をつたって流れて落ちていく。
「……」
 目を閉じて、マジックはシャワーを浴びたまま、そっと右肩を壁にもたせかけた。
 しばらく、雫が肌を打つ音だけを聞いている。
 やけに疲れた、と考えていた。
 ――普段は使わない神経と精神力を消費したからだろうか。
 そのままそうしていたのだが。
 ふと視線を感じて、マジックが湯船の方を見遣ると、黒猫がバスタブから、じっとこちらを見つめていた。縁にかけた両の猫足が可愛らしかった。
 靴下猫みたいだなと、ぼんやりと考えた。足の先だけが白い猫を、そう呼ぶことがある。シンタローは手足の先だけが黒いから、逆なのだけれど。黒い靴下猫か。ふふ、ちょっと素敵だ。
 また、からかってやりたい気分になったマジックは、猫に向かって一つウインクすると、聞いてみた。
「ん? パパの肉体美にみとれた?」
「ニャ――ッ!!!」
 黒い毛を条件反射のように逆立てたシンタローが、肉球で湯の表面をバンバン叩いて抗議するのを見て、マジックは声を出して笑った。浴室にその声がよく響いた。
「ニャッ! ナウッ!」
 笑われたことでますます腹が立ったのか、ばしゃばしゃと猫足がさらに湯を跳ね上げる。
「ごめん、ごめん」
 飛んでくる湯を腕でガードしながら、マジックは器用に肩を竦めた。それからシャワーを止めて、髪を洗い始めた。
 今度は自分のためにシャンプーの泡を立て、手を動かしながら、彼は思った。
 こんな可愛い猫は、他にはいないね。



「……」
 マジックは髪を洗う手を止め、二の腕の下から、さりげなくシンタローの方を窺った。
 湯船に浸かっている猫は、ひどく幸せそうだった。心地よいのか、目を細めている。全身を弛緩させているようだった。
 なんだかいつもよりも、『ご機嫌』の時の顔が、わかりやすい気がする。マジックはそう思って、少しおかしくなった。顔部分はいつものシンタローのままだと思うのだが、その口角が、にへらと上がっている。
「……フニャァ……」
 小さな声が漏れている。無防備な姿であった。黒いシッポの先が、湯にぷかぷか浮いている。結わえた髪の中からのぞく猫耳が、時々ぴくり、ぴくりと嬉しげに動いている。
 シンタローは何故か自分のことをクールだと思っているらしいが、マジックにしてみれば、その信念自体であったり、体裁をとろうとするシンタローの行動自体が、可愛らしく見えるのである。
 それはいつでも変わらない。シンタローがこの世に生れ落ちて、自分と世界で最初に出会った時から。
 ――シンちゃんったら。
 思わずマジックの唇から、笑みがこぼれてしまう。



 髪を洗い終えると、マジックは同じ手早さで体を洗い終える。シャワーを止める。
 濡れた髪をかきあげながら、マジックはバスタブの方にくるりと向きを変え、シンタローに言った。
「はい、シンちゃん。ちょっと横にずれてね」
「……ゥ……ウナッ!」
「ずれて、ずれて」
「ニャーウ」
 余裕のある作りにしてあるとはいえ、浴槽は、さすがに大柄な男二人が入ろうとすれば一杯なのである。
 湯船にマジックが片足を入れると、シンタローは顔を背けて、10cmばかり脇にずれた。
 ここでも往生際が悪いのである。当たり前だが、それだけで足りるはずがない。
「もっとずれて」
「ナッ! ンニャッ!」
 また10cmだけ尻をずらすシンタローに、マジックは呆れて言う。
「そうか、シンちゃんは、そんなに私とくっついていたいんだね。わかった、わかった」
「ニャ――ッ!!!」
 シンタローに何かをさせるには、怒らせることが一番早いのである。これぞマジック式シンタロー操縦術。
 案の定、黒猫は眉を吊り上げて怒り、一気に、一人分の場所を空けた。シッポだけが元の場所に残ったが、それも猫足で慌てて回収する。回収されたシッポは、シンタローの尻の下を通って足の間にしまわれて、三角座りをしている膝の間から、ちょこんと先を見せた。
「はい、どうも。それでは失礼します」
 軽く会釈すると、湯の中で口をとがらせながら膝小僧を抱えているシンタローの隣に、マジックは滑り込んだ。水面が上がり、バスタブの縁から透明な湯が溢れる。
 湯はマジックの体を受け止めた。ざぶりと肩まで浸かる。
 熱が、彼の肌を通り抜け、心にまで染みとおる。気持ちいい。
 熱い湯。疲れた時にはこれが一番だ。マジックも、そしてそれに影響されておそらくはシンタローも、日本式の風呂が好きだった。
 ぬるめの湯で半身浴をするのも好きなのだが、熱い湯はまた格別。
 一人と一匹は、並んで湯につかる。



 静けさが浴室を支配した。壁のガラスブロックからは、満月の薄い光が差し込んでいた。真珠色をした床がその光を受け、空間をやわらかな輝きの皮膜で覆っている。
 たまに天井から、雫の落ちる音。一日の終り。身体の芯が緩やかに溶け出していくような感覚に襲われる。頭の奥が虚ろになる。
 急にマジックは、自分の頬の傷を意識した。湯が、しみる。
「……ッ……」
 マジックは思わず呟いて、指の腹で傷をなぞった。ついた傷は、さして深くはないが、浅くもない。何ヶ所あるのだろうか。後で鏡でよく見てみよう。
 まったく森でのシンタローときたら、暴れたのなんのって。マジックはあの騒動を思い返し、浴室に立ち上る蒸気を見つめた。
『いたた、シンちゃん。爪だしちゃダメだよ』
 だが、マジックがこう言ってからのシンタローは、なるべく爪を出さないように気をつけているように思われた。暴れている時も、つい力が入って爪が出ないようにと、努力している様子が窺われたのである。
 肉球でぺちぺちされるのなんて、ちっとも怖くない。
 また視線を感じて、マジックは隣を見た。
 いつの間にかシンタローが、じっと自分を見つめている。アーモンドの形をした目が、今日は一段と黒みがかっているように見える。
 黒猫は、マジックの視線を浴びてからも、見ることをやめなかった。
 一人と一匹は見つめあったが、決してどちらからも視線はそらされることはなかった。
 やがて、
「……ニャア」
 ゆっくりとシンタローの顔が近づいてきた。
 赤い舌が伸びてきて、マジックに触れ、頬の傷を舐めた。
「シンタロー……」
「……」
 舌が、傷をなぞっている。そっと優しく。羽が動くような、だが濡れた感触。
 可愛い顔が近くにある。マジックの心は波打った。自分はドキドキしていると思った。
 マジックは心の中で呟いた。
 ――やっぱりシンタローは……シンタローなんだ。



 薄い月の光は、幸せの輝きのようだ。
 赤い舌に舐められた場所は、ひんやりとしたが、なぜかそこから嬉しさがこみ上げてくるような気がした。
 マジックはもう一度、傷跡を指でなぞってみた。もう痛みは感じなかった。
 静寂が満たす空間。互いの呼吸の音ばかりが聞こえる。生命の感覚。熱。
 湯の中で、肩が触れ合う。互いの身動きが、湯を通して肌に伝わってくる。
 一人と一匹で過ごす時間は、今はひどくゆるやかで、甘酸っぱかった。



「……」
 落ち着いたところで。マジックは自分の濡れた金髪を撫でつけた。考え事をするときの、いつもの癖である。彼は物思いに囚われていたのだ。
 実はマジックには、非常に気になっていることがあったのである。
 何気ない風を装って、彼はこっそりと視線を斜め下に向けた。そしてしきりに水面の向こうを窺う。視線はシンタローのたくましい脇腹をなぞって下に落ち、とある部分に集中する。だが水面の揺れに阻まれて、上手く物体を認識することができないのである。
 横目ではよく見えず、目を細めたりしてみたものの、シンタローと目が合ってしまったりして、ハハハと笑って誤魔化したりしちゃったりなんかして。
 ああ、むべなるかな。マジックの胸中で、例のミスターマジックのうろ覚え辞典に収録すべき知識への、あくなき欲求が首をもたげてきていたのであった。
 うん、いわゆるその、学術的興味。人類の進歩に貢献すべき、シンタロー研究の第一人者としての自負が、彼にそれをさせたのである。
 湯の中で、マジックの脳は高速回転を始めた。
 うーん、うーん。猫足。猫耳。猫のシッポ。シンタローの身体の先端部分が猫化しているということは。その。その、ね。先端。ここから連想するに、すごーく気にかかることがあるよね。だってそうだよね。誰でもそう思うよね。その、いわゆる。あの先端はどうなっているのか。
 例の部分はどうなのか、ってことが気になる。私は気になってしょうがない!
 例のって、つまりあそこのことだよ。重要な部分のことだよ。こうなのか。ああなのか。それはきわめて由々しき問題だと思うのだがどうか。
 悩めるマジックは、ああ、と頭を振った。再度、シンタローの下半身を盗み見ることに挑戦するが、またしてもシンタローの瞳と出会ってしまい、断念せざるをえなかった。ううん、困った。よく見えない。
 正直に言ってしまえば、先刻、彼はシンタローを洗う際に。スポンジと泡越しに、シンタローのその部分の形は、自分の記憶する形のままであるということは確認していたのである。さりげなく。
 マジックの形状記憶能力はすさまじい。彼は、やってみせろと言われれば、正確にシンタローのそれを再現することだってできたが――身振り手振りや、たとえば粘土や彫刻等アーティスティックな方面でも――今はそれは置いておこう。エチケット的に控える。
 彼は考える。だってさ、だってさ。アノ形が変わってたら、なんかショックじゃない。恋人的に。ラブ的に。
 そして触診した結果、どうやら形としては、いつもの通りだと安心したのであるが、さらにもう一つの疑問が沸いてきたのである。
 ――毛。
 ――いつもより、濃くなってたりするのかなあ?
 男マジックは、結構そういうことが気になりだしたら、徹底的に確かめないと我慢できないタイプであった。よく言えば研究熱心、悪く言えば偏執的。
 シンちゃんのあそこって、どうなってるんだろう? そのことばかりで、頭がいっぱい。
 しかし相も変わらず、ゆらゆらと水面が揺れて、シンタローの下半身はよくは見えないのだ。まるでモザイクがかかっているかのように。基本的に何においても、マジックはモザイク反対派であった。ええい、じれったい。



 よし、いい雰囲気であることだし。
 こうなったら正面から見せてもらうしかないと、マジックは心に決めた。こっそり、が無理なら、正々堂々と、だ。
 湯から出ているシンタローの両肩に、そっとマジックは手を置いた。湯から浮き上がった猫のシッポの先が、ピクンと動くのが見えた。
 そのまま、ぐいっと手に力を入れて、猫にこちらを向かせるマジックである。正面で相対するかたちになる。
「あのね、シンちゃん」
「ッ……!」
 驚いたのか、猫は目を見開きはしたものの、抵抗しなかった。なんだか、もじもじしているようである。マジックは、自分の希望をなんと切り出そうかと、言葉を並べる。
 心に決めたものの、進行がなかなかに難しい。
「うーん。えっとね。お願いがあるんだけど……」
「……」
 シンタローの両肩に手を置いたまま、マジックが言いよどんでいると、そうこうするうちに、なぜかシンタローは、目をつむってしまった。
 湯気の中で、さらにその頬が赤くなった気がする。ちょっとラブの香が流れた気がする。
「ん?」
 マジックは、そんなシンタローに気付いた。しかし。
 ああ、シンちゃん、湯に浸かりすぎちゃったのかな、としか思わなかったのが、マジックのマジックたる所以であろう。
 肝心な時には鈍い。据え膳は見逃してしまい、難しい変化球ばかりを打とうとする。それがマジック。
 なにしろ今の彼は、目下の疑問で頭を一杯にしていたのである。基本的にセルフィッシュ。自己中心的な青の一族の性質を、遺伝的に目いっぱいに体現してしまっているのが、マジックという男であった。
 キスを期待してか、目をつむったシンタローを見事にスルーしたマジックは、かわりに嬉しげに、よしきたとばかりに、シンタローの下半身をのぞきこんだ。
「見せてほしいものがあるんだ それじゃ遠慮なく! さて、と。シンちゃんのココは、毛深くなってるのか、な……」
「フギャギャアッ!」
 瞬間、湯の中から飛んできた猫足に、ばいーん! とひっぱたかれて、マジックは思いっきりのけぞった。
「痛ッ! いたたた! 痛いよ、シンちゃん!」
「ギャフ――! フ――ッ!!!」
「だって、猫だから! 毛が手足に生えてるから! そっちも濃くなってるのかなって思うじゃない! あいたっ」
 両の猫足で思いっきり手をつねられて、マジックは声を上げた。なんて器用な猫なんだ、と感心する間もなく、ばしゃばしゃと湯をこれでもかとばかりに浴びせかけられる。
「ああんもう、ちょっとした興味じゃないかっ!」
「シャ――――ッ!!!」
 威嚇しながら、シンタローは、浴槽の端っこに身を寄せる。
 といっても、部屋付きの浴室の、さほど広くもないバスタブだったから、大して変わりはない。



 なおも、ばしゃ、ばしゃ、と湯を叩いていたシンタローは、前足だけでは足りなくなったのか、勢いよく立ち上がり、後ろ足も使って、湯をマジックに被せようとしたのであったが。
 怒りで興奮していたためか、湯で頭にまで血がのぼっていたのか。この場合は、立ち上がってはいけなかった。
 マジックの前に、その問題になっている場所を、堂々と晒すことになってしまったのであるから。
 案の定、マジックは突然の幸運に、目を丸くして言った。
「あ。見えた」
「!!」
 もともと赤かったシンタローの頬が、ゆでだこのように真っ赤になる。これが最終形態、羞恥袋の緒が切れた。
「はは、いつもと一緒だね。パパ、安心したよ」
 にこっと笑ったマジックを尻目に、シンタローは湯船を飛び出した。



 一段と大きな水しぶきがあがって、マジックは思わず腕でガードする。その隙をついて、シンタローは浴室の扉に突進し、ガリガリと爪でひっかきだした。
「なんでー? そういえばいつも不思議なんだけど、裸なんて私に見られ慣れてるはずなのに、どうしてそんなに恥ずかしがるの? って、シンちゃん!」
 ついに猫足が扉をバタンと開けてしまった。扉は内開きであるため、油断していたマジックの予測を上回る、猫足の器用さだ。何百年も生きる化け猫もびっくりの立ち回りである。
 急いで自分も湯船を出て追いすがるマジックを、振り切らんばかりの勢いで、シンタローはびしょぬれの黒シッポをたなびかせ、隣の洗面所に飛び込んだ。
「シンタロー、待って! 濡れたままじゃいけないよ!」
 マジックもびしょぬれのままで、洗面所に遅れて飛び込む。浴室の蒸気が、もわっと洗面所にまで立ち込めた。温まった身体には、冷たい空気が肌に心地いい。
 黒猫は、今度は洗面所と部屋をつなぐ扉と格闘している。よし、今だとマジックは慌ててタオルを棚から取り出し、四つんばいのシンタローの体を拭こうとした。
 するとシンタローはぶるぶると身を震わせ、マジックに向かって、雫を激しく辺りに撒き散らす。
「うわっ」
 それでもマジックはひるまずに、大きく分厚いバスタオルを、暴れる体に上から被せた。
「ニャギャウ! ギャーウ!」
「シンちゃん、大人しくして!」
 これでは体を拭くというより、水気をタオルに染み込ませるのがやっとである。
 頭からすっぽりとタオルを被せられて、前が見えずに、モガモガとひっくりかえって騒ぐシンタローは、まるで網にかかった獣だ。
 マジックは、先刻の森で、同様の状況でニャン魔砲を撃たれたことを思い出し、仕方なく早々にタオルをあきらめて、バスローブを着せることにした。ローブを着せれば、とにかく湯冷めすることだけは防ぐことができるだろうと思ったのである。
 しかしこの作業だって、上手くはいかないのである。むしろより困難。
 まず袖に手を通させるのが難しい。紐を結ぶのが難しい。
 結局、悪戦苦闘の末に、両腕をローブに通しただけで、紐を結びかけたところでシンタローは洗面所の扉からも飛び出して行ってしまった。



「ああもう!」
 こちらは湯船から出て濡れたまま、もちろん全裸のマジックが、黒いシッポの後を追いかける。洗面所からの床は、もう水浸しだ。
 水を吸った毛足の長い絨毯を、はだしで踏みながらマジックが自室をのぞくと、シンタローが両肩に白いバスローブをかけたまま、100平米ほどの狭くもない部屋を股にかけ、あちこちを飛び回っている姿が目に入った。
 天井から吊るしたバカラ製のクリスタルシャンデリアが危険なほどに揺れている。真鍮のアームに乗ろうとして、さすがに止めた形跡がある。壁の間接照明の、美しいガラスシェードが揺れている。
 ガシャンと音を立てて花瓶が横倒しになり、椅子が反転する。積んであった書類が宙を舞い、壁にかけてあった絵画がガクンと外れて床に落ちる。
 シンタローは壁を蹴って、勢いをつけて大窓の豪奢なカーテンに飛び移り、そこにしがみついたものだから、金具が二つ三つ弾けて、生地が破けてしまった。
「あーあー……」
 マジックは肩を落とした。惨憺たる有様だ。
 なにしろ猫は、普通の小さな猫ではなかったから、やることなすことがダイナミックなのである。
 黒猫は、机、ソファの背もたれ、チェスト等に次々と飛び移り、しまいには部屋隅にある最も背の高いキャビネットの上に乗ってしまった。ぐらぐらと揺れるアンティーク家具たち。
 そして一番の高所に陣取り、マジックの方を見下ろして、背中を丸く膨らませながら『フー!』と怒っていた。



 濡れた髪から、冷たい水滴がしたたり落ちてきて、マジックの頬骨から頬にわたり、顎をつたっていった。顎の先どころか、指先、肘、膝頭から、ぽたぽたと冷水が絨毯に落ちていく。
 急に肌寒さを意識して、マジックは身震いした。びしょぬれなのだから無理はない。シンタローを追いかけて、湯船からそのままに出てきてしまったのだから。思わずくしゃみが出た。
 彼は自分の裸体を見下ろした。
「……やれやれ」
 溜息をついてからマジックは、もう一度、部屋隅のシンタローを見た。高い場所にいるから、見上げるかたちになる。
 マジックの視線を敏感に察知し、黒猫ももう一度、肩をいからせ『ギャーウ!』と威嚇して、年代物のキャビネットをミシミシいわせている。
 白いバスローブをはおった黒猫。もっとも前紐はきちんと結ばせてくれなかったので、ゆるゆるなのだが。そのままで高所にうずくまっている。時々、顎を突き出して周囲を見回している。
 ローブの裾から、キャビネットの扉の取っ手あたりまではあろうか、長く黒いシッポが垂れていた。バスタオルでちゃんと水分を拭き取れなかったので、シッポは湿って、部屋の明かりにつやつやと輝いていた。



 ひとまずマジックは、洗面所に戻ることにした。このままではどうしようもない。
 まずはバスタオルで自分の体を拭いた。冷たくなった髪から、水分を拭き取る。
 それからシンタローとお揃いの、白いローブを羽織る。なんとか自分の最低限の身繕いをしてから、マジックは周囲を見回した。そして肩をすくめた。
 洗面所は、先程二人が揉みあったせいで――こう書くと何やらHな意味にとれるが――、しっちゃかめっちゃかになっていたのである。惨憺たる有様だ。
 彼は、あちこちに転がった瓶やらタオルやらブラシやらその他色々なものを片付けた。
 棚の扉をパタンと閉めてから。そうだ、シンタローの洗濯物はどうしようかと考えて。
 籠に入れたままだったシンタローの総帥服を手に取り、マジックは目を見開く。顔の前に、両手でズボンを広げたのだが、そのお尻の部分には、見事に丸い穴が開いていた。
「うわお。これはセクシー」
 ここからシッポが出ていたのか。あらためて見ると、凄いなあ。マジックは開いた穴に指を入れてみて、しきりに感心した。
 そして、ついつい、よからぬことを考えた。
 うーん、シンちゃんは、たまにはこの穴あきズボンを履いてね! ってお願いしたら怒るかなあ?
 それぐらいにこのズボンは、魅惑的だったのである。
 彼は、パチリと指を鳴らす。
 ちょうどいいね、これ! ぜひともシンちゃんに普段着として身に着けてほしいよ!
 だって服を脱がさなくたって、即エッチできるじゃないか!
 急にしたくなった時は、私がそっと後ろから抱きしめるだけでメイクラブ可能!
 やったね、ラッキー! 私の日頃の行いがいいのかな、思わぬことから、エッチな服を手に入れちゃった! あ、でもこの穴に入るかなあ? 何がって? ナニが。うんぬんかんぬん。
 マジックは変態だったので、かなり幸せな気持ちになりながら、いそいそと洗面器に水を張ると洗剤を入れて、このスペシャルなズボンを漬け置き洗いにした。
 優先度ナンバーワンで保存することに決めたのである。そうとなれば、念入りに洗わねば。



 念のために、例の黒ビキニも手に取って確かめてみたのであるが(勿論これは正当な探究心および恋人の衣服を管理するという責任から出た行為である!)、これには穴は開いてはいなかった。まあさっき見たから知ってはいたけれど。
 もともと布地の面積が少ないのであるから、当たり前のことではあったのだけれど。なにしろズボンを脱がした時のシンタローの黒シッポは、ビキニの端から伸びていたのだから。さっき目撃したのだから。だよね。穴なんて開いてないよね。そうだよね。期待する方がいけないよね。
 それにも関わらず、マジックはちょっぴりがっかりした。『シンタローのパンツに穴が開く』という事象に、彼はロマンを感じていたからである。
 ――仕方ない。
 断腸の思いであきらめたマジックは、反射的にもう一つ洗面器を出して、ズボンと同じようにこのパンツを大切に洗おうとしたのだが。次の瞬間、雷に打たれたように身を震わせ、パンツを握り締めて、洗面所で立ち尽くした。
 ――洗う? ん、マジック、ちょっと待て。これは洗わないで取っておいた方が、いいよね?
 なにしろマジックは変態だったので(略)。
 おお、マジックよ、情けない。うっかりお宝の価値を下げてしまうところだった。
 彼は再び幸せな気持ちになり、ふんふん鼻歌を歌い出す。
 今日は大変な一日だったけれど、素晴らしい記念品をゲットしたぞっと!
 そして黒ビキニを大切に小脇に抱え、自室に戻ろうとした。
 自室の隠し扉を開けたところにある、シンタローコレクションルームに向かおうとしたのである。美術館並に品揃えの豊富なコレクションの一部として、この大事な品を納めるつもりであった。もはや彼の秘密部屋は、シンタローミュージアムとでも称した方がいいのかもしれない。
 だがそこで、またもやマジックは、ハッと気付く。
 ――シンタローに見つかってはいけない!
 そんな訳でマジックは、考えたあげく、棚を再び開けて、積み重ねたタオルの間に黒ビキニを押し込んだ。ここなら見つからないだろう。
 こうして様々な作業を終えて、マジックは部屋へと戻ったのであった。



 相も変らず黒猫は、大型キャビネットのてっぺんにうずくまっている。マジックが部屋に足を踏み入れた時は、気持ちよさそうに前足で首の後ろをかいていたが、マジックの存在に気付くと、ピタッと動きを止めて、鋭い視線を寄越してきた。
 マジックの一挙手一投足が気になるらしい。
 だがマジックがシンタローに視線を合わせると、すぐにそれは逸らされる。黒猫は、マジックに関心なんてありませんよとばかりに、一心不乱に前足を舐めはじめるのだった。
「……シンちゃんったら」
 さてと。注目を浴びて光栄だが、私は何をするべきか。とにかく目標はシンタローを寝かしつけることなのだけれど、そのためには何が必要か。
 一瞬考えた後、まずシンタローの髪の毛を乾かすことが必要だと気付く。
 風呂の中で結った髪が、そのままになっていたからだ。上げた黒髪は、シンタローがあちこち飛び回ったためか少し乱れて、ほつれていたが、それが妙に可愛らしかった。
 それには、シンタローを呼び寄せなければならない。
「シンちゃん。おいで」
 マジックは呼びかけてみるが、シンタローは横を向いてしまった。
「チチチチチ……」
 また舌を鳴らして呼んでみたり、口笛を吹いてみたのだけれど。
 やや興味を引かれたのか、シンタローはマジックの方に視線を向けたのだが、それでも目立った変化といえば、ぴくぴくと猫耳が動くだけで、黒い瞳は強い光を放ったままに、相変わらず無愛想にマジックを見下ろしていた。
 高所にいれば、強くなったように感じるのだろうか。シンタローは自信満々に、『ニャオウ』と鳴いて、フンと鼻を鳴らし、余裕の構えだ。
 困ったマジックは、眉を寄せた。参ったな。ここでまた無理にシンタローの髪を乾かそうとすれば、騒動が起きること必定。
 少し、間を置くか。
 マジックは、黒猫のために用意したタオルを、自分の首にかけた。壁際まで歩いて、空調の温度を上げる。これで、まあ、シンタローの温まった体が冷えることはないだろう。



 マジックは冷凍庫から氷を取り出すと、アイスピックでそれを割った。グラスに入れて、ウイスキーのボトルを開ける。
 クリスタルグラスに注がれた琥珀色の液体は、屈折した光を閉じ込めて、美しく輝いた。ふわっと香りが広がる。氷が涼やかに鳴る。
 グラスを片手に氷を鳴らしながら、マジックは仕事用デスクに歩み寄り、端末に電源を入れた。モニターの側にボトルを据える。
 残っていた仕事を少しでも片付けておこうと思ったのだが、新たに目を通さなければならない案件が数通増えていた。それと私信が一通。
 総帥職を引退後は、仕事量は格段に減ったとはいえ、マジックは精力的な男であった。いわば『仕事』に人生を捧げてきた男であるから無理はない。家族のために生きると誓った今だって、何がしかの仕事はこなさないと気が済まない。多分に習慣上の問題なのかもしれなかった。
 椅子にかけ、マジックはデスクと向き合った。ウイスキーを口に含みながら、キーを打つ。
 仕事に向き合えば、時間は止まる。空間が止まる。没頭する。
 数件処理したところで、立ち上がり、ぎっしり詰まった書棚から一冊のファイルを取り出す。ファイルの見事に整理された内容は、彼の秘書の腕を示すものであった。インデックスを人差し指でめくり、簡単に目的のものを見つけた彼は、また椅子に腰を下ろしてモニターと向かい合い、報告内容と照らし合わせた。
 やがてグラスを傾ければ、それが空になっていたことに気付く。溶けそこなった氷がカランと音を立てた。
 マジックはウイスキーの瓶に手を伸ばし、その小さくなった氷の上に再び琥珀色の液体を注ぐ。命の短い氷を躍らせて、溶ける前の最後の喜びを味あわせてやった。



 またしばらく集中していたマジックであったが、ふと気配を感じて、脇を見た。
 デスクの端に、黒い猫足がかけられているのが目に入った。もふもふの……いや、ちょっと湿っている黒毛。
 あ、猫が。マジックがそう思うより早く、ギッと机が揺れた。デスクに乗せられた二つの猫足の間から、ちょこんと三角の猫耳が現れた。続いて黒い瞳がのぞく。
 マジックの手元に、影が差した。
 あっという間にシンタローが、デスクにひょいと乗ってしまったのだ。シッポがゆっくりとしなる。
 黒猫はのそりと動き、
「ンニャ」
 マジックが広げている書類の上に、座り込んでしまった。デスクの上に大きな黒猫。もちろんモニターも遮られて、見えないこと山の如し。
 今まで集中していた仕事を取り上げられて、マジックはちょっとムッとした。猫に向かって抗議する。
「シンちゃん! 字が見えないでしょ!」
「ニャ〜」
 まるでマジックの声なんか聞こえないという風に、書類の上に横たわり、いよいよ動こうとはしないシンタローである。自らの存在を誇示しているようだ。
 ただし顔は、ツーンとあっちを向いて、無視している。
「……シンちゃん」
 マジックが手を伸ばして、頭を撫でてやると、
「ンナオウ」
 シンタローはマジックの方を向いた。許してやるか、と言わんばかりである。目を細めて撫でられている。
 まるで当然だという顔をして、ますます威張ってシンタローは、デスクの上に寝そべってしまった。デスクに腹をつけて、全身を弛緩させ、バスローブの裾からのびた後足をもぞもぞさせている。
 そしてマジックの手にじゃれついてきた。



「うーん」
 マジックは首をひねると、右手をシンタローにじゃれつかせながら、左手のグラスの酒を一口、舌で味わった。
 猫。ねこ。ねこちゃん。にゃんこ。可愛い。かわいい。ラブリーキャット。
 くいくい、とドアをノックするように飛んでくる猫足の相手をしながら、今、かなり自分は幸せかも、とマジックは素敵な気分に囚われた。
 仕事もいいが、こういうのも悪くない。悪くないどころか最高だ。
 シンタローじゃらし。これは非常に楽しい。交互に飛んでくる猫足を、手の平で受け止める。
 パンチ。パンチ。猫パンチ。猫キック、パンチ、キック、パンツ……あ、間違えた。
「ほら、シンちゃん。いちに、いちに」
「ニャッ。ニャニャッ」
 ふふふ、と笑いながらマジックがシンタローの相手をしていると、
「あ」
「ンニャーニャ」
 マジックの右手に向かって振り下ろされた、シンタローの丸めた猫足が空振って、キーボードにガシャンと音を立てて落ちてしまった。
 シンタローが体をずらした隙間から見えたモニターが、一気に意味不明の文字で埋め尽くされた。ちょうどマジックは、友人のアメリカ大統領へのメールを書きかけていたのである。
『今夜は、君が教えてくれたレストランに行ったんだけど、なかなか素敵だったよ、ありがと亜sdfvgrぃウjぃhつ;補遺歩jンsklrじぇあじ;k;k;h:ム食いthyあw;おw;jgりぐえぃあ死おうおhjk;;jこぎゅうああdfvgh;』
「ンナウ」
 勢いでそのままキーボードをがしゃがしゃ叩いていたシンタローだが、飽きたのか体を起き上がらせた。
 しかしその瞬間に、しなやかなシッポが、最後にバシン! と手痛い攻撃をキーボードにくらわせたのである。
 ピッ。電子音に続いて、<メールを送信します>の小窓が出現し、完了のお知らせが出た。
 それは、遥か海の彼方のホワイトハウスまで、この断末魔メールが送信されてしまったことを知らせていた。
 シンタローは平然としている。マジックは、目をぱちくりさせた。思わず呟く。
「……そんな馬鹿な」
 シッポおそるべし。



 右手を上げて『お手上げ』のポーズをとり、左手でまたマジックがグラスを傾けると、今度は最後の氷も溶けて、クリスタルはわずか一滴の雫で唇を湿らせただけだった。
 無意識に再度ウイスキーの瓶へと手が伸びて、ふとマジックは、シンタローの物欲しそうな顔に気付いた。
 ――そういえばさっき……二人で食事をした時。シンタローは、私と同じものを飲みたがっていたっけ。
 猫の顔に、たった数時間前とは思われない、過去の記憶が重なった。
 そっと席を立ったマジックは、冷蔵庫へと向かう。
 彼の私室には簡易キッチンがついている。一人の夜などは、簡単な食事はここで作って済ますこともある。
「お前も何か飲むかな、シンちゃん」
 すると、意外にも素直にシンタローは、しゅたっとデスクから降りて、とてとてとマジックの後をついてきた。
 歩くマジック。ついてくるシンタロー。
 キッチンに立ったマジックは、足元から見上げてくるシンタローに向かって、微笑みかけた。
「あったかいの、一緒に飲もうか」
 お酒はもう控えてさ。一緒に、すぐにぐっすり眠れるようなのを、ね。








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