総帥猫科

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「……シンタロー……」
 歩を止め、呟いたマジックの声は、夜に溶けた。
 もう影は見えない。満月が自分を見下ろしているばかりである。
 立ち尽くす彼の側を、風が通り過ぎていった。豊かな金髪を揺らす。
「……」
 失意の静寂が流れ、マジックは沈んだ吐息を漏らす。寂しかった。
 どれほどの時が経ったのか。
 彼は、やがて森の向こうから、微かなエンジン音が聞こえてくることに気付いた。同時に携帯が鳴る。
 部下たちが到着したのだ。



 目立ちたくはなかったし、さほど遠い場所でもないので、空路ではなく陸路で来いと命じたのである。
 森を出たマジックの前に、数台の軍用車から軍服の男たちが降りてきて、整列した。一斉に敬礼をする。
 どれも信頼できる部下たちの顔である。
 大勢を呼んでも、とてもシンタローの相手にはならないだろうとわかっていたから、最小限の者しか集めてはいない。今回、特別に呼んだ一般課の者も合わせて、両手の指で足りる数だ。
 ティラミスが一歩前に進み出て、礼儀正しく発言した。
「マジック様。御命令の通りに、一同揃いました。何事でしょうか」
「うむ」
 マジックは威厳をもって彼らの顔を一通り眺めると、口を開き、与える任務の内容を話し始めた。



「うわわ、マジック様〜! まーたシンタロー総帥とケンカなさったんですかぁ!」
 目的はシンタローの身柄確保である、と話したところで、声をあげるのは、チョコレートロマンスだ。
 ある意味、こののんきな男が、秘書課で一番の胆力の持ち主なのかもしれないと、マジックはたまに思う時がある。
 ぴく、と自分が眉を上げると、彼は縮こまってしまった。胆力というより、単に間が悪いだけという表現もある。
 だが以前の真夜中の事件のことがあるから、そのまま無下に睨んで黙らせるのも憚られて、マジックは『……今度は違う』と横を向いて言った。
「詳しい説明は後だ。とにかく、シンタローの身を確保するのが先だ。作業の途中で姿を見かけたら、すぐに私に連絡すること」
 全員にそう命令して、そういえば外見がいつもと違うことを付け加えねばと気が付く。
「ただし、今のシンタローには、猫耳とシッポがついている」
「ええええええ――――!!!」
 大声を出したのは、やはりチョコレートロマンスで、他の団員からは『マジック様が無理強いして……』『やっぱり痴話喧嘩……』『プレイの最中に……』等と、マジックにとってはなはだ不名誉なざわめきが起こっている。動じていないのは、無表情のティラミスだけという有様だ。
「ちが――――――――うッッッ!!!」
 ついに一喝し、マジックは彼らを大人しくさせた。
 ビシッと腰に手をつけ、直立不動の姿勢をとる一同をねめつけながら、マジックは溜息をついた。
 自分の現役総帥時代より、規律が乱れている。これは自分が甘くなっているからだと反省した。躾け直す必要がある。
 この場合、自分の普段の行いに問題があるという発想は、みじん切りにして捨ててしまっている彼である。
 お前ら、容赦なくアフロにしちゃうからな! という脅しを青い瞳に込め、マジックは彼らへの説明を再開した。
 シンタロー確保のためには、罠を仕掛けるしかない。
 用意させた器材、人員配置の説明をし、一行は森へと入った。



 罠を仕掛ける場所は。
「あそこがいいだろう」
 マジックが指をさした先は、シンタローを探しながら目星をつけておいた丘であった。
 森の中のひときわ開けた場所で、なだらかな隆起の頂上からは、各方面を見渡すことができる。
 逆に言えば、各所からも目に付く場所であるということだった。
「作業、はじめ!」
 さっと各自の分担場所へと散る団員たちに、細々とした指示をしながら、マジックは同時に、飛び出してきたままにしてしまっているレストランへの交渉も命じる。
 どうしてガラスって割れるんだろう、いや今日のことだけじゃない、だいたい、私とシンちゃんがちょっと遊んだだけで壊れちゃうような壁とか屋根って、どうなんだろう、少しヤワすぎなんじゃないの、壊れる方にも責任あるよね、等と理不尽なことを考えながら、『食事の支払いと一緒に』とカードを渡した。
 そして思った。
 ま! 今度は写真集出すし、いっか!



 てきぱきと立ち働く部下たちを、腕組みをしてもっともらしく眺めているマジックの、胸の内はこうである。
 写真集かあ……。
 私一人だけのも、いーけどさあ……。
 あーあ、いつかシンちゃんとのカップル写真集も出したいなー。
 夕陽を浴びてキスしてたり、渚で抱き合ってたりするやつ。めくってもめくっても、私とシンちゃんなやつ。ラブラブの出したいなー。ダメかなー。そんなのイヤだって言われちゃうかなー。
 私としては、この際シンちゃんとなら、ついに清純派ダンディの仮面を外して、脱いじゃって大胆ショットでも構わないんだけどなー。
 うーん、でも官能写真集だったら、もっとダメだって怒っちゃうよねー。もーう、融通がきかないんだからなー、シンちゃんてばさあー。
 あ、でもシンちゃんのエッチな顔は誰にも見せたくない男心。こーら、私! 今、イケナイコト考えてたゾ! やっぱりラブラブがいいよね。うん、ラブラブ。ラブラブ最高。人に見せてもいいのはキスまでだよね。
 だけどキスまでもどうかなー、シンちゃんは恥ずかしがり屋だからなー、やってくれるかなー、でも、前のデートの時は、こっそり一緒にプリクラ撮ってくれたんだよねー、キスしてるやつ。あのシンちゃん、カワイかったなー 二人してしゃがまないと、フレーム入んなかったけど。
 うーん、シンちゃん的には、撮るのは良くても、誰かに見せるって行為がイヤなのかなー。
 でも、もう大統領にプリクラ自慢しちゃったなー、彼の分厚い手帳にばっちり貼っちゃったよ! 随分と遠慮していたけれど、遠慮することないもんねー。
 あれってバレたら怒られるかなー、ていうか本部の私の机の裏にも、貼っちゃってるんだけど。目立つとこに貼ると、シンちゃんにすぐ見つかって剥がされちゃうから。
 でも掃除のおじさんとかは絶対に見てるよねー、あ、壁にもノートにもスクリーンにもキャビネットにも、さりげなく貼っちゃったんだっけ、そういえば総帥室の側の廊下の柱にも、隅の方にこっそり貼っちゃったなー。
 だって嬉しかったんだもん、つい。
 もうみんな、あのプリクラ見てるかもねー、うーんうーん。
 等と、マジックが憂いを含んだ表情で考えている間に、有能な部下たちは、作業を完了したのである。



「よし」
 思考を中断し、重々しく頷いたマジックは、罠を仔細に検分した後、彼らを遠くに下がらせる。
 大勢の人間の気配で、シンタローが用心してしまっては、計画が成功しないのである。
 そして自分は気配を消し、丘を見渡すことのできる、側の茂みに隠れる。
 そこで待つことにした。



 待ちながらマジックは目を瞑り、神経を研ぎ澄ます。
 四方からシンタローの気配を探る。
 夜の森。月さやけき夜、静かに時は流れて――。
 ややあって、マジックは、すっと目を見開いた。
「来たっ!」



 風に乗って、陽気な鼻歌が聞こえてきた。
「ンニャニャア〜 ウニャ ニャニャーン
 マジックは、その歌のする方へと目を凝らした。
 茂みの向こうから、ピンと立ったシッポが嬉しげに揺れているのが見えてくる。
 猫は尾に表情があるというのは本当らしく、黒いシッポの先は、ぴこぴこと浮かれているのだ。
 だんだんと歌声は近くなり、シッポも近付いてくる。
 ついに茂みの中のマジックの視界に、その姿が映し出される。
 マジックは、嘆息した。
「シンちゃん……」



「ニャン ニャ ニャ ニャ
 嬉しげな声で金を拾いながら、四つんばいでやってくるその姿。
 シンタローは上機嫌も上機嫌。しかも、こんな満面の笑みは、滅多に見ないという程の。ウキウキとして、マジックの隠れている茂みの前を、通り過ぎようとしている。
 マジックは、森にたくさんの硬貨を撒かせたのである。そして拾い続けていれば、いずれもこの丘に辿り着くように工夫させた。
 実に単純な撒き餌を利用した、おびきよせ方法を使ったのだ。
 見事なまでに、道をジグザグに、あっちで拾いこっちで拾いしながら、丘に引き寄せられているシンタローである。
 そして、作戦は成功しているはずなのに、ちょっと切ない気持ちに襲われるマジックであった。
 唇を噛み締める。
「……くっ……」
 近くでよく見れば、シンタローの手先は本物の猫足のようにモフモフで、丸い肉球がついているようだ。
 身体の先端部分を中心に先祖返りとやらをしたのだろうか、耳、シッポ、手足の先以外は人間のままだな、しかしあの手では金を拾いにくいだろう、とか思うマジックの心もなんのその、シンタローは器用に硬貨を拾っては、ポケットに入れることを繰り返している。
 明らかに交番に届けるつもりは、ないと見た。
 自分のものにするつもりである。
「ニャ ニャ イーッパイ、ニャア〜
 ああっ! とマジックは、肩を落とした。
 引っかかるとは思っていたけれど……こんなに……こんなに……あっさりと!



 シンタローの赤い総帥服のズボンのポケットは、溜め込んだ金でぱんぱんに膨れている。拾った先から、ぎゅうぎゅう詰め込んでいるのだ。
 一杯になったのに、それでもまだ入れたいらしく、ポケットは今にもはちきれそうだ。
 ついに、ころんと一枚が零れ落ち、それに気付いて慌てて拾っている。シンタローの黒い目は、金を一枚も見落とすまいと必死だ。
 ズボンがもう限界だと悟ると、今度は胸ポケットに入れるらしい。
 胸ポケットが、まるでハムスターの頬袋のように膨らんでいく。
 三角のシンタローの猫耳が、嬉しげにぴくぴくとうごめいて、これは人間のままの顔が――心持ち、両の犬歯が目立つ気もするが――、得意そうにほころんだ。
「ニャ ニャ ニャ ニャア カ〜ネモチ、ニャア



 ああっ、シンちゃん……。
 眉根を寄せたマジックは、熱くなる目頭をそっと押さえた。
 小さい頃から、何不自由ない暮らしをさせてきたはずなのに。
 どうしてこんな、がめつい子に……。



「ニャ ニャ ニャニャ〜ン モ〜ウケ〜タ、ニャア
 ぴこぴこ浮かれるシッポは、激しい喜びを表してか、ダンスでもしかねない勢いで跳ねている。
 上機嫌のニャンコを眺めながら、マジックは思った。
 ああ、シンちゃん。
 パパ、泣いちゃいそう。
 しかしマジックは、当の自分の何でも与えすぎ、贅沢し放題の態度が、シンタローの反面教師となってしまったことに、気付いてはいない。
 なんだかんだといって、シンタローの性格形成に多大な影響を与えたのは、ひとえにマジック自身であるのだから、シンタローがこのマジックの述懐を聞けば、憤慨するであろう。
 なんて勝手なヤツ! アンタの責任だろ! と。
 だがシンタローは現在は猫になってしまっていたから、ある意味ツッコミなしの勝手し放題状態であるマジックは、懐から絹のハンカチを出して、そっと目尻を拭った。
 くすんくすん。
 だって、涙が出ちゃう。
 ナイスミドルだもん。



 そのように涙ぐんでいるマジックが隠れている茂みを、シンタローが通り過ぎた時のことである。
 道に落ちている金に気を取られていたシンタローは、ふいにビクリと身を震わせた。
 そしてサッと顔を上げて、丘の方を見遣り、驚愕のためか大きく鳴いた。
「ニャ――〜〜〜〜〜!!!」
 勘付いたのだ。
 シンタローの目が、らんらんと輝いた。
 猫耳が周囲の音を掻き集めようと、小刻みに忙しく動く。
 シンタローの視線の先、小高い丘の上には、即席の台座がある。そのまた上に、所在無げに、ぽつんと座っている者がいる。線の細い軍服姿。
 そこに佇む者の姿を認めて、シンタローのシッポは、ますます、ぴいんと立ち上がり、唇は歓喜の声を絞り出してしまうのである。
「ツニャルニャ〜〜〜〜ンッ



 ああああっ……シンちゃん……。
 あれは美少年を発見した時の目だ、とマジックは思った。
 『津軽君』とでも言っているのだろうか。できることなら解読したくはなかったが、シンタローの言葉なら全て解析してしまう自分の脳が恨めしい。
 シンタローの視線が釘付けになっている丘の台座には、マジックが一般科から呼び寄せた黒髪の美少年が、ちょこんと正座していた。
 日本は青森、リンゴの名産地出身の、津軽ジョッカー少年である。顔は、黒髪黒目の日本人ながらにコタローと瓜二つ。
 美少年は特別任務だと聞かされたためか、緊張した面持ちで、一人、台の上で囮になっているのであった。
 真面目な性格であるのだろう。この少年の性格を見込んで、マジックは、パプワ島へ彼を刺客として派遣したこともある。
 なにやらシンタローに説得されてガンマ団を抜ける決意をし、ひとたび実家に戻ったらしいが、シンタローが総帥になったために、自分の意志か、シンタローの熱心な勧めによるのかは知らないが再入団したという、マジック的にはちょっぴり切ない、ピュアな物語持ちの団員なのである。
 まっすぐに正面を見つめていた美少年は、ふと異変に気付いて、こちらを見た。
 そして大きな目を、驚愕に見張る。シンタローの姿を認めたのに違いない。
 そりゃ驚くだろう、とマジックは、ちょっと少年に同情した。



 その瞬間である。
「ツニャルニャァ――ン
 後ろ足……いや両脚で、シンタローは地面を蹴った。
 びょ〜んと大きくジャンプしたのだ。猫足の弾力にものを言わせた、全身ばねのような見事な跳躍である。
 まさに獲物に飛びつかんとしたのである。
「えっ、えっ、なんだっぺ! 何が起こったんだべ!」
 とりあえずここに座っていろと命じられただけで、事態を把握できない美少年は、おろおろと周囲を見回した。
 その光景を見たマジックは、心中で嘆息した。
 ああっ……シンちゃん……。
 沈痛な面持ちで、しかしマジックの腕は冷徹に動く。茂みの側の大木から釣り下がった、紐を引いた。
 機は今だ。
「……」
 ズシャアアアアッ!!!
 仕掛けが作動する。
 夜空に巨大な網が舞い、宙を飛ぶシンタローの体に、まともに覆い被さった。



「シンタロー」
 ハンカチを懐にしまいながら、マジックは立ち上がって茂みを出る。
 そして丘へと静かに歩み寄り、言葉にするなら『悲愴』といった表情を浮かべて、大地を見下ろした。
「フギャッ、ギャッ、ウギャギャッ」
 罠にかかった大きな黒猫は、網目の中で、必死にもがいている。
 暴れれば、ポケットに詰まっていた硬貨がバラバラと飛び散り、『フギャ〜!』とそれを掻き集めようとするので、なおさら網が身体に絡まってしまうといった具合である。
 台の上から、こわごわ見下ろしている津軽少年の方にも、視線を忙しく遣っているから、金は転がり落ちるばかりである。
 なかなか、金も美少年も一緒に、という訳にはいかないようである。
 二兎を追うもの、一兎も得ず。
 マジックは、そんな忙しいシンタローに、小さく声をかけた。
「シンちゃん……」
「ンニャニャ、ンニャ――!」
「……シンちゃん……」
「ンニャアアアッ!!!」
 くすんくすん。
 シンちゃん、網の中でもお金を拾うのに、一生懸命だよ。美少年を見るのに必死だよ。パパのこと、見てくれないよ。
 嘆きながらもマジックは、網をぐいと引っ張り、シンタローを包むようにして、抱き上げようとした。
 網ごと家にお持ち帰りしようとしたのである。



「ンニャッ! フニャアアッ!!!」
 するとシンタローの攻撃の矛先が、金と美少年ではなく、網に向いた。
 まずは網を抜け出て自由になるのが先決であると気付いたらしい。
 マジックがシンタローを抱き上げようとしゃがみこみ、背中と脚に腕を回した時、隙ができた。
 シンタローは叫んだ。
「ンニャア――――ッ!!! ニャンマ砲〜〜〜!!!」
「なにっ!」
 カッ! と光が辺りに満ち、マジックの腕の中で、超合金製の網が弾け飛ぶ。
 ぷにぷにの肉球から発せられた至近距離の眼魔砲(ニャンマ砲?)の威力に、思わず緩めたマジックの腕をかいくぐって、シンタローは逃げ出そうとした。



 まさか、この猫足で眼魔砲を撃てるとは思っていなかったから、マジックは虚を突かれたが。すぐに自分を取り戻すと、ずるずると上半身から破けた網を這い出そうとしているシンタローの両脚を、ぐいと捕まえた。
「フギャッ! ンニャッ!」
 すんでの所でつかまって、ご立腹の黒猫である。
「こーの、おてんばニャンコ!」
 仕方がない。
 マジックは、抜け出そうとするシンタローを押さえつけ、組み敷いた。
「こら、じっとしてなさい!」
 両手両足と膨らんだシッポをぶんぶんと振って、暴れるシンタローは、ちょっとやそっとじゃ手がつけられない有様である。
 最終的にはマジックが、こうするしかないのだ。自らの体でもって抑えるしかない。
「シャ――! ウニャーア――!」
「いたたたた、シンちゃん、痛いよ」
 ガリガリと頬を引っかかれて、顔をしかめながらもマジックは、じたじた身を捩っているシンタローの腕を掴み、両の脚にも自分のそれを乗せて、全身を地に押さえつけた。
「ああもう、ダンディが台無しだよ」
「ンニャニャ――! フ――――!!!」
 身動きがとれないながらも、怒り心頭の黒猫は、ひどく抵抗している。
 マジックは、溜息をつく。
 ああもう。手を焼く。
 それにあんまりにも、こう真剣に抵抗されると……ちょっぴり悲しい気持ちになってしまうことも、事実なのである。
 最近はラブラブだったこともあって、ひとしおに。



 さて、どうしよう。こうなれば、気絶させるのが手っ取り早いのだろうが……だが、あまり手荒なことはしたくない。
 困ったマジックの脳裏に、不意に閃いたものがある。
「ハッ! そうだ!」
 動物豆知識。
 マジック自身は動物を飼った経験はないのだが、生来が動物好きのため、少年時代に動物図鑑を読み漁ったり、人の話を興味を持って聞いたりはしていたため、相当の知識は持っている。しかし、眉唾物の知識まで幅広く仕入れてしまっているのが難点であったが、このことは彼にとって、別に動物に限ったことではないのである。
 幼い頃から、なまじ一を聞いて十を知る性質であっただけに、広範な知識を持ってはいるものの、その多くはおおまかに概括をつかんでいるだけ、つまりは、普段使わないどうでもいい知識は、ニュアンスだけしか知らないことが多い。
 言葉を変えれば、一しか聞いたことがないから、自分の都合のいいように十を創作している場合だってあるのである。
 このことは、主に彼の意外に不器用な恋愛方面や、エキゾチック・ジャパン趣味等に発揮されているのだが、どちらも被害をこうむるのは主にシンタローであることは、言うまでもない。
 ともあれ、今。マジックは、記憶の引き出しから、『猫は首筋が弱い』というメモ書きを見つけ出した。
 たとえば親猫が子猫を運ぶ時は、その首筋をくわえるように。首の後ろを抑えれば、猫は動けなくなるという。
 そうか、首筋かっ!
 持ってて良かった、ミスター・マジックの、うろ覚え辞典!
 早速、マジックは知識を実践に移すことにした。
 暴れるシンタローの首筋を、むんずと掴む。
 その時である。
 ちょっと違う声を、シンタローがあげたのは。



「ン……ンニャッ……ア……」
「よーし、シンちゃん、これで捕まえたぞー! ん?」
 確かにシンタローは、全身の力を抜き、急に大人しくなった。
 しかし様子が変である。
「ンニャ……んにゃあっ……あッ」
「んん?」
 さすが私、猫の弱点もばっちりさ、等と考えていたマジックは、首を傾げる。
 組み敷いた下から、漏れる声。
「ア……ッ……」
「んんん?」
 違和を感じて、マジックは、押さえつけたままのシンタローの顔を見た。
 すると、涙に潤んだ黒瞳が、自分を見上げていた。
 乱れた黒髪。興奮のために赤く染まった頬。濡れた唇。
 のけぞる喉。顎から耳にかけての綺麗な肌が、あらわになる。
 うるうるした瞳が瞬きをし、ぽろりと涙が伝い落ちる。
「!」
 マジックは、思わず息を飲んだ。息ばかりでなく、唾も飲み込む。ゴクリと喉が鳴った。
 シンタローはマジックの身体の下で、身を捩り、くねらせながら、喘ぐような声をあげた。
 抑えている首筋が、ぞくぞくするらしいのである。
 切なげな様子。
「あっ……アアアッ……!」
「!!!!!」



 胸が、ドキッと高鳴った。
 シンタローの喘ぎ声は、マジックの頭の芯に、矢のように、ぐさぐさと突き刺さる。全身の筋肉が緊張する。指先が震える。
 そして凝固してしまったマジックの腕を、するっと抜け出した黒い猫。
「フギャギャギャギャ――!」
 もはや色気のカケラもない声を上げながら、一目散に逃げ出していくシンタローである。
「シギャア――ッ! フーフ――フ――――ッッ!!!」
 離れた場所で振り返り、なんだかこっちに向かって、捨て台詞を吐いているようであるが、もはやマジックにはそれを理解する力も残ってはいなかった。



 がさりと茂みに飛び込んで、シンタローが森の奥へと去っていってしまった後も。
 しばらくの間、マジックは、大地に両手両足をつき、黒猫に逃げられた時のままの姿勢で――つまり四つんばいの格好で――固まったまま、動かなかった。
 風が吹き、金髪をゆっくりとなぶっていく。
 彼の白い額から、汗が一筋、すうっと落ちる。雫は地面に滲んで、すぐに消えた。
「シンタローの首筋を掴んで……」
 マジックは、ぽつりと呟いた。
 迫り来る苦悩に、形のいい眉を、ぐっと寄せる。
 搾り出すように声を漏らす。
「……自分が動けなくなって、どうする……」
 一人、自らにツッコミを入れながら、マジックは、どうと地面に崩れ落ちた。



 やがて。
「マジック様。どうかなさいましたか」
「……」
「マジック様?」
「……」
 騒ぎを察知して、駆けつけてきた秘書たちが見たものは、丘の台座の上で、呆然と座っている美少年の姿と。
「御命令を。マジック様」
 背後に暗雲を漂わせながら、膝を抱えて地面に座っている上司の姿である。
 彼らの上司の視線は、地を這っていた。俯き、明らかに落ち込んでいる。
 秘書たちは素早く周囲の状況確認をし、ついでに上司の頬の見事な引っかき傷を視認し、作戦が失敗に終わったことを目で伝え合った。
 そしてきちんと整列し、三角座りで背を見せている上司の命令を、待つ。
 時間が流れ、森の奥から五度目にふくろうの声が鳴いた後、低い声が響いた。
「今……」
 覇王は青い憂鬱を、彫りの深い顔に滲ませ、重々しく呟いた。吐息が闇に溶ける。
「私は……純愛とエロスの狭間で、悩んでいるのだ……」



 ティラミスが一歩進み出て、真面目な顔で、大きく頷いた。
 そして振り返り、同僚に言った。
「後始末、はじめ!」
 チョコレートロマンスが、両手をぱんぱんと叩く。秘書課古参としての威厳を見せながら言った。
「ハーイ、撤収〜」
 そして秘書たちは、とりあえずは上司を放っておいて、仕掛けた罠の片付けや、散らかした場所の清掃を始めたのである。





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