総帥猫科

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 森の各所、ポイントごとに、暗闇でも撮影可能な、暗視赤外線カメラを設置させていたのである。
 知らせを受けて、データ転送させたティラミスは、再びマジックの前でモニターを指し示した。
 座標軸から画面は一瞬灰色になり、そして黒地に切り替わる。
 最初の映像には、茂みが映っていた。カメラは木の上に設置されているのか、斜め上から見下ろした映像だ。
 焦点は茂みに囲まれた、木々の狭間にぽっかり空いたような場所に合っており、下草もほとんど生えてはいないようだ。
 なるほど、確かにここなら、落ち着いて身を隠すには最適の場所である。周囲からは見えず、ある程度自由に体を動かすこともできる。
 秘書たちは上手い場所にカメラを設置したものだ、とマジックは感心した。後でねぎらってやらねば。
 やがて、画面上の茂みが、ガサガサと揺れた。明らかに揺れ方が不自然である。これは風が吹いた時の揺れではない。
 ついにガサリ! と大きく揺れて、黒い頭が覗いた。葉っぱが数枚、ひらひらと散る。覗いた頭は、じっと様子を窺っているようだ。
「シンタロー!」
 画面を凝視していたマジックは、思わず声をあげた。
 十秒ほど経って、またガサリ! と茂みが揺れ、前足が出、胴体が出、後ろ足とシッポが出て、シンタローが姿を現した。



 キョロキョロ周囲を見回しながら、のそのそやってきたシンタローは、なにやらくわえているようである。
 ふんふん、フンフン、と周辺の匂いを嗅ぎ、ぴくぴくと猫耳を動かして怪しい音を拾い、油断のない鋭い目つきで警戒に警戒を重ねている。
 ようやく安心したようで、辺りに不審なものはないと確認してから、ドサッとくわえていたものを、地に下ろす。
 そして、やれやれ、といった様子で、一度鳴いた。
『ンニャ
 暗視赤外線カメラの映像はあまり鮮明ではないので、マジックは目を細め、シンタローのくわえていたものを確かめようとした。
「あれは……」
 魚の御頭つきの骨、パンのミミ、果物の皮、大きなビニール袋……。
 森では姿を見かけないと思っていたら、どうやらレストランまで戻り、裏のゴミ箱辺りから、色々拝借してきたらしい。
「あの皮は、さっき私たちが二人が食べた、洋ナシの皮だろうか」
 聞くともなしに、傍らの秘書たちに聞いてみるが、『知りません』と言下に切って捨てられた。
 とにかくあの品物たちは、猫の宝物なのだろうと、マジックは考える。シンちゃん……そんなにあのデザート、気に入ってたんだ……。
 画面では、シンタローは再度辺りを窺うと、地面にしゃがみこんでいる。
 何をするのかと見れば、彼は前足を動かし、しゃかしゃかしゃか〜と穴を掘り始めた。



 手ごろな深さまで掘ったのであろう。
 このカメラの位置では、シンタローの横顔しか見えないのだが、その顔が、ほにゃりとほころんだのがわかった。そして、黒猫は、斜めに体を傾ける。シッポがご機嫌に、ユラユラ揺れた。
 じゃらじゃらじゃら――と、シンタローの総帥服の胸ポケットから出てきたのは、先刻の硬貨である。夜目にも、きらりと輝いている。
 どうやらシンタローは、この調子で、森のあちこちに拾った金を埋めているらしい。ポケットが一杯になったことで、窮余の一策といったところなのであろう。
 いかに沢山の金を所有するか、を必死に考えたであろうシンタローを想い、マジックの目頭は、再び熱くなるのであった。
 ああ……シンタロー。それ、元は、パパのお金なんだよ……。
 画面のシンタローは、掘った穴に金を入れた後、その上から、魚の骨や、パンの耳や果物の皮を、順次入れているようだ。
 なんだろう。大切なもの順なのだろうか。でも一番下はやっぱり、お金なんだね……。
 そして最後に、湿気などを防ぐつもりだったのだろうか、大きなビニールの袋をくわえ、その宝物たちの上に、被せようとして――ピタリと、シンタローの動きが止まった。
 様子が変だ。
「ん? どうした」
 猫になっちゃったのに、湿気を防ぐ小技は、お金のためには考え付くんだね、等と切ないことを考えていたマジックは、画面に語りかける、傍目からはちょっと危ない人である。
 少し間違えば、茶の間でテレビと会話しているナイスミドルだ。
 そんな彼の側に、立ち続けている秘書たちは、やはり偉いといえよう。
「シンちゃん、どうしたの?」



『ンニャ――!』
 まさかマジックの問いに答えた訳でもあるまいが、シンタローは鋭い声で、ビニールをくわえて、鳴いた。
 そして、急に炎のような勢いで、ビニール袋に襲いかかる。野生の衝動が彼を貫いたらしい。
『ウニャア! シャー!』
 ビニール袋を地面に押し付け、爪をたてた両足で、引っ張ったり伸ばしたりしている。
 ぐりっと爪を引くと、巨大な袋は真っ二つに裂け、それを合図にしてか、カッときてか、ますますのめりこんでしまったようである。
 シンタローは、ビニール袋を、容赦なく引き裂きはじめた。
 激しく興奮したのか、時々、
『かふっ! かふっ!』
 という声が、引き裂く時のビリビリいう音の合間に入る。
 ビリビリどころか、ブチッ! ブチッ! と手荒く引きちぎり、狩猟本能を満たしているらしい。
「シ、シンちゃん……」
 眺めるマジックの声音は、震えた。



 一通り引き裂いてしまって、はー、はー、と肩で息をついていたシンタローは、やがて、気持ちが落ち着いたらしい。
 黒猫は、くるりん、と身体を回し、背中を地につけ、手足を伸ばす。そして残ったビニール袋のかけらと、戯れだした。
 狩猟モードの時とは打って変わった、満面の笑みである。
『ンニャ ンニャンニャ
 ころころ地面を身をくねらせて転がりながら、ぱあっと白い切れ端を、舞い上げる。それを、くいくい、と爪で追う。
 まるでビニールが、生きている獲物であるとでもいうように、楽しげに遊んでいる。
 時には、鋭く猫キックと猫パンチをお見舞いし、シッポをぶんぶん回転させて大はしゃぎだ。
 ダダダ! とビニールの余りをくわえて1mほど走り、方向を変えてまた1mほど走ることを繰り返す、ジグザグ走行までやっている。
 そうかと思えば、
『ンナーゴ』
 切れ端を鼻の頭に乗せて、目をつむっている。シッポが、だらーんと伸びている。
 いわゆる猫の一人遊びの真っ最中なのである。
 しばらくして、やっと飽きたのか、シンタローは、ぽい、とくわえた切れ端を放り出し、木の根元まで、とことこ歩いて、体を背中からごしごし擦りつけ、それから夜空に向かって、『のび〜』をし、そしてすぐに体を縮めて、『フニャックション!』とくしゃみをした。



「シンちゃん……」
 いまだマジックの声は、震えたままだった。
 こんな。こんな、こんな、こんなっ。
「ぐっ……」
 彼は、わなわなと背中を震わせた。きっと顔を上げ、秘書たちに言いつける。
 厳しい声が、口から零れ出た。
「この映像は、後で、あまさず私のパソコンに送るように!」
「はっ!」
 マジックは、両手を胸の前で、握り締めた。そして思った。
 カワイーイ! シンちゃんの一人遊び、超カワイ――イ!
 ちょっとキツめでハードなとこも、その後のゴロゴロ愛らしモードのとこも、全部カワイ――!
 ああ、こんな秘密映像が見られちゃうなんて! 秘密、ってとこがいいよね! つまり私に見られてることを意識していないシンちゃんってことだよ! なんて価値! これこそ魚の骨なんかより、ずっとずっとお宝じゃないか!
 一人遊びの所が偶然見られるなんて、マジック感激!
 ぜひこのお宝は!
 マジックは夜空に向かい、遠い目をした。キラリ、と星が光る。星よ、お前も喜んでくれるのかい。
 ぜひこのお宝は、私がいない時のシンちゃん隠し撮りシリーズに加えないと!
 私を驚かせようと、こっそり新妻エプロンで料理中のシンちゃん、夜遅くまで帰ってこない私をイライラしながら待ってるシンちゃん、遠征中に寂しそうな表情をするシンちゃん、一人H隠し撮り(おっと、これはナイショだゾ)に加えて、私のシンタローマル秘映像集に収録しないとね!
 でもシンちゃんにバレるとダメだから……うーん、最近危険なんだよねえ、シンちゃんって私の映像ライブラリーにこっそり侵入してチェックしてる気配が、ちらほら、なきにしもあらず。
 この前、扉に挟んでおいた紙切れが、床に落ちてたよ。テープの上に乗せておいた豆粒も、落ちてたよ。怪しいなあ。
 私も、家の庭に穴でも掘って、埋めなきゃなあ……うーん、うーん。



 そうこうする内に、画面のシンタローは一人遊びに満足したのか、『ンニャ』とシッポを翻して、画面から出て行ってしまったのである。
「あーあ」
 肩を落としながらもマジックは、誰もいなくなった画面を見ながら、ふと思った。
「シンちゃん……宝物を隠した穴は、土を被せなくていいの?」
 埋める作業の途中で一人遊びに熱中してしまい、後の作業を忘れてしまったらしい。画像左端、掘られた穴からは、果物の皮が見えたままだ。
「……」
 猫の気まぐれな性質が、強く出てしまっているのか。
 そう分析をし、なんにしても、とマジックは考える。
 先刻の、『フニャックション!』とくしゃみをしていたシンタロー。やっぱり風邪ひきさんじゃないかっ!
 早く、早くこの寒空の下から、保護してやらないと……。
「マジック様――!」
 決意を新たにするマジックの元に、再びチョコレートロマンスからの報告が入ったのは、その時であった。
「今度は落とし穴の側に設置したカメラに、シンタロー総帥が映ったようです!」



 その台詞を聞いた時に、マジックの脳裏に映像が過ぎった。
 落とし穴とは、二人の純愛の記憶であるのだと、マジックは思った。
 ほら、いつだって。こうして目をつむれば。浮かんでくるあの笑顔。
 青い空。陽光きらめく緑の草原の中、ぱたぱたという足音と、声。聞こえてくる。
『パパ! パパ――! こっちだヨ、こっち!』
 幼児の愛らしい声が、呼んでいる。呼ばれてマジックは、振り向いた。
 手を振る姿。かけっこをしようというのだろう。私は口元をほころばせ、駆け出した小さなシンタローの後を、追いかける。
『ははは、シンちゃんは速いなー!』
 忙しく動くシンタローの手足。小さいのに、いつも必死で。一生懸命で。そんなところが、とても可愛い。
 ついこの前までは、はいはいして、私の膝に乗るのが精一杯だったはずなのに、こんなに駆けられるまで成長したんだ。早いものだなあ。嬉しいよ、シンちゃん。
 黒い頭をちょっと動かして、こちらを見たシンタローは、幸せの色に満ちあふれていた。
『パパー! ここまでおいでー!』
 華奢な背中が、私のすぐ側にある。私は手を伸ばし、その愛しい存在を捕まえようとした。
『ほ〜ら、つーかまーえた ……って! はッ!』
 その瞬間、ズボッ、と気の抜けたような音がして、視界が一斉に上方へと移動した。いや、正確にはマジック自身が下方へと移動したのである。
 足元の草むらがすっぽ抜けて、大穴が口を開けていた。
 慌てて、穴の縁に手をかける。間一髪で転落を免れる。下を見て、マジックは呻いた。
『おお゛ッ!!!』
 シャキ――ン! と穴底には、よく研がれた竹槍が勢揃いである。危ないところであった。
 地上では、両手を振り上げて嬉しそうなシンタローである。きゃっきゃ、きゃっきゃと有頂天だ。
『やーい、ひっかかった、ひっかかった』
『ベトコン戦法パンジステークを仕込むとは、やるなァ、シンちゃん……』



 穴から這い上がったマジックは、そんなシンタローを抱き上げた。
『ははは、パパ、あやうく死にかけたぞォ!』
 するとシンタローは、やわらかい頬を寄せてきて、
『ごめんねー、パパ!』
 と謝ってくれた。
 すりすり、すりすり。頬を触れ合わせるのは、私は大好き。シンタローも大好き。
 いいさ、いいさ、ちょっとホットでディープな親子の愛情表現、コミュニケーションさ! 時にはスリルも愛の調味料。
 落とし穴は、お前のラブの証、だよね☆ そうだろう? シンタロー。
 私はシンタローを高く抱え上げ、肩に乗せてやる。お前はこれが好きなのだ。高い場所から見る景色がいいと言って。
 肩車の上から、シンタローは小さな手を私の顔にあてて、『ねえ、パパ』と黒い大きな瞳で覗き込んでくるのだった。
『ん? なんだい?』
 もうシンタローが何を言いたいのかは、私にはわかっている。だから少し視線を上げて、私はその言葉を待つ。
 いつもの言葉。確認する言葉。私たち二人の間の、素敵な約束。
 シンタローの可愛い口が、ゆっくりと動いた。丸い頬が、リンゴのように色づいて、笑顔のかたちへと零れていく。
『パパ』
 私も、そっと微笑んだ。愛らしい告白を聞くために。お前の唇が、紡ぐ声。
『大好き
 ああ、シンタロー。私だって。私だって、お前が!
 お前が、大好――



「あ……あの総帥! もしもォし……」
「大好きだよ――!!! シンタロー!」
「総帥……」
「シンちゃーん! アイラビュ――ンッッ!!!」
 胸の底から搾り出した声は、陽光きらめく草原の彼方ではなく、暗い森の中へと吸い込まれていった。
 ん?
 甘い陶酔の霧が晴れて、なぜかマジックの背後にはチョコレートロマンスが立っていた。
 周囲を見渡せば、元いたテーブルと椅子のある場所からは、数十mも離れた距離まできていた。
 どうやら妄想であったようだ。
 純愛の思い出フルコースを、激しく全身でこなしてしまったマジックである。
「私、叫んでた?」
「は、はい、壮絶に」
「私、笑ってた?」
「はい、それはもう、思いっきり嬉しそうに」
 チョコレートロマンスとそんな会話を交わしながら、定位置に戻ると、ティラミスが何事もなかったかのように、急須を傾けて、熱いほうじ茶を入れ直していた。
 マジックは、彼にも尋ねてみた。
「ええと、いつから?」
 ティラミスは眉一つ動かさずに答えた。
「突然、『ははは、シンちゃんは速いなー!』と笑い出して、明後日の方向に駆け出していかれましたから、その頃ぐらいからではないでしょうか」
「あ、やっぱり」
 そんなことだと、思ってたんだ。



 純愛の思い出に浸ってしまったマジックは、茶を一口すすって息をつくと、
「で、また新たにシンタローの姿をとらえたというのは」
 と聞いた。
 ちょっといいことがありそうな気がする。
 だって、パパとシンちゃんの愛のメロディが込められてた、思い出の罠なんだから。
「は。こちらになります」
 差し出されたモニターの、また画面が切り替わって、今度は小道を斜め上からとらえた映像が焦点を結んだ。
 相変わらず、暗い。こんな暗い場所をうろついていて、シンタローは大丈夫なのだろうかと、マジックは今さらの心配をした。夜行性になってしまったのだろうか。
 猫は、長い間の人間との生活によってその性質は和らぎつつはあるものの、基本的には夜行性だ。夜目も利く。
 なんでも人間よりも、網膜にある光を感じる細胞が、ずっと多いのだという。その上、その感じ取った光を増幅させるために、網膜の背後に反射鏡を持ち、それが猫の目を光らせるのだという。
 と、動物豆知識をマジックが脳内で自分に披露していると、画面左上の道の先から、影が姿を現した。
 カメラに近付くにつれ、だんだんと輪郭から顔の造作までが、はっきりと見えてくる。
 シンタローは、周囲を窺いながら、ぺたぺた四つ足で、赤い総帥服を着たままにやってきた。
 総帥服は、地に転がりまわっていたからだろうか、少々、泥に汚れているようである。
 泥以外にも、得体の知れない汚れもついているようだ。おそらくレストラン裏のゴミ捨て場をあさった時に、ついてしまったものであろう。
 あれは、アルコールで染み抜きして、たたき拭きしないといけないなあ……なんて所帯臭いことを考えながら、画面を見つめているマジックの前で。
 シンタローの猫耳が、ぴくりと動いた。カメラ正面の、ちょうどいい位置で立ち止まる。
『ニャア!』
 彼の高感度センサーが何かを感じ取ったようだ。ぐるぐると周囲を見回している。
 先程、丘の上で津軽少年を見た時と同じように、目がらんらんと輝きだす。



 このシンタローの目の輝きは、果たして先述したような猫の特性からなのだろうか。
『ニャア――! ンナンナンナァ――!!!』
 モニターからは、興奮しきった声が流れている。もはや雄たけびである。
 黒猫のシッポが、またピーンと、驚きか急激な喜びかのために立ち上がり、身体は上体をそらして、前足をわたわたと回転させるように動かしている。
 シンタローの目の前に無造作に置かれた、その物体。
 どんとした威圧感。数cmの厚み。
 必勝を期したマジックは、落とし穴の上に今度は硬貨ではなく、奮発して札束を置いておいたのである。
「いや」
 マジックは、呟いた。あの目の輝きは、猫故ではなくて。
「欲望のためだろうな……」



 欲望の一族の元総帥は、腕を組み、考えた。
 シンタローの内なる欲望が増幅(?)されてしまっているとしたならば、青の影響が強く出てしまったということだろうか。
「札束を中心にして、半径1mの円状に落とし穴を掘ってあります」
 傍らでティラミスが説明をし、マジックは自分の指示通りだと、大きく頷いた。
 シンタロー用パンジステーク。
 もちろん穴の底には、危険な竹槍ではなく毛布をひいてある。あったか仕様だ。
 シンタローが穴に落ちてからも寂しくないように、読み物として、マジックファンクラブ会誌『ダンディ倶楽部』まで毛布の側に配置しておくという、親切設計なのである。小腹が空いた時のために、にぼしも用意しておいた。
 まだ某料理の鉄人モードが残っているマジックは、心の中でダイナミックなポーズをとった。
 さあ、シンタロー! 安心して罠にかかるがいい! 早く穴に落ちちゃいなさい!



 しかし四角いモニターの中でシンタローは、ちょうど落とし穴がある縁の辺りを、警戒しながら、うろうろ歩いている。あと一歩踏み出せば、落とし穴にかかるという、ギリギリの地点だ。
 どうやら本能的に、怪しいことを感じ取ったらしい。
 フンフン、と周囲の匂いを嗅ぎ、眉をひそめながら、きょときょと周囲に注意を配っている。
 マジックは豪華椅子から上半身を乗り出し、画面に見入りながら言った。
「くっ……マズいな、学習してる!」
 先刻の丘での美少年をエサにした罠に懲りたらしいシンタローは、警戒度が数段アップしていた。なかなか素直に札束へと近付こうとはしない。
 しかしやはり金の誘惑には抗しがたいらしく、札束を、じっと見つめては、溜息をついている。燦然と輝く、分厚い札束。さっきまで、しゃにむに拾い集めていた硬貨などとは、レベルが違うお宝なのである。
 眼前1mの距離にある札束。おあずけ状態だ。
 欲しくてたまらないが、かと言って、罠にかかるのもイヤなシンタローであるらしい。
 おずおずと前足を差し出し、引っ込め、を繰り返しているのだ。誘惑と罠への用心とが、彼の中でせめぎ合い、葛藤しているようだ。
「さあ、シンちゃん! 行け! 行くんだ!」
 両手を握り締め、画面中のシンタローを励ましだすマジックである。
「シンちゃん、ゴー! そう! そこで足を出せば、地面がすっぽ抜けて穴に落ちちゃうから! 大丈夫だよ、シンちゃん! 落ちても面白い雑誌あるから退屈しないよ! そうそう、そこで体重をかけて……」
 再び、前足を札束の方に差し出したシンタローは、その姿勢のままで苦悶しているようだ。
『ニャッ……ウニャ……ウウウウウニャッ……』
 シンタローの額を、汗がつたう。
 もふもふの前足が震え、落とし穴の上に被せた土に、あと数cmのところで止まっている。
 切なげな表情をしているシンタローに、マジックはなぜ自分はその場に行って、シンタローの手助けをしてやることができないのかと、もどかしさを感じてしまう。
 ああ、シンちゃん。パパは、お前のためなら何だって。
 飛び出して行って、お前の前足をこの手に取り、ぐいと押してやりたい!
 そして一緒に、落とし穴に落ちてやりたい! 『ダンディ倶楽部』を読んであげたい!
「ぐいっと! ぐいっと、イっちゃえ! がんばれ、シンタロー!」



 しかしマジックの応援も空しく、
『……ンナー……』
 寂しげな目をしてシンタローは、前足を引っ込めてしまった。
 そして、頭上を見上げている。
 一瞬、マジックは、監視カメラが見つかってしまったのかと思ったのだが、そうではなかったようだ。
 シンタローは、星のまたたく夜空を見上げて、高く鳴いた。
『ンニャ――アァァ――……』
 甲高い声は、夜に響き渡った。
 苦しげな切なげな、その声。まるで春の夜に、恋人を呼ぶかのような、聞く者によっては甘い声。
 鳴き続ける黒猫。世の苦悩をすべて背負ったとでもいうように、哀切の色味を帯びた響き。
『ンニャア――ンナァ――』
「シンタロー……」
 知らずマジックの胸が、きゅんとした。
 シンタローの悲しみが、鳴き声から伝わってくる。心に染み透ってくるようだ。
 やるせなさ。悲哀。無力感。絶望。パンドラの箱から流れ出た、生きることへのありとあらゆる苦しみが、表現されているのかもしれないとまで思う。
 マジックには、憂いをたたえた黒猫の表情が、泣いているように見えた。
 物悲しい気分に包まれて、マジックは、ああ、と首を垂れた。
 こんなにシンタローを嘆かせてしまった自分が、呪わしいとさえ思う。
 南国の島での出来事を経て、私はもう、この子を傷つけまいと誓ったのではなかったか。
 悲しみに沈むシンタローの側まで飛んでいって、抱きしめてやることのできない、この身の不甲斐なさ。
 マジックは自分も夜空を見上げ、力なく呟いた。
 ああ――。
 でも、シンちゃん。
「そのお金、やっぱり元々はパパの、なんだよ……」



『ンナ――……フニャックション!』
 くしゃみをし、そこで哀切の淵から戻ったらしく、ぱちぱちと瞬きをしてから。
 シンタローは、再び周囲の森の木々を見回して、それから右足を上げて、しゃかしゃか〜と腹の辺りをかいた。前足をなめる。
 一通り嘆いた後は、気分が晴れたようだ。再度、札束に挑戦するようである。
 気を取り直したシンタローは、また落とし穴の周囲を、ぐるぐると巡っていた。
 と、その内に何かを思いついた、明るい顔をする。
『ニャ
 黒猫はポジティブ思考をすることにしたらしい。さっきまでの憂鬱が嘘のように、黒瞳に生気が宿った。
 落とし穴の方に背を向け、カメラに対しても後ろ向きに、ちょこんとおすわりをした。
 そしてチラチラ振り返りながら、札束に向かって、長いシッポを伸ばした。
 シッポが、動く。
 ぴょいぴょい。ぴょいぴょい。
 位置を調節しているようだ。ついにその黒い先っぽが、札束の角をかすめ、『ウニャ!』と、いまいましげな顔をし、柔らかいシッポのコントロールに苦労している。
 孫の手で、離れた場所にあるものを取ろうとするように。いや猫の手。いやいや猫のシッポ。
 なんとシンタローは、まさに猫の手も借りたいといった様子で、懸命にシッポで札束と格闘し始めたのである。
 その様子を見て、マジックは思わず唸った。
「シッポ、おそるべし!」



 猫のシッポには、尾椎という細かな骨が間隔をあけて入っており、ゆえにやわらかく曲げることができるのだという。さらにシッポの根元の尾骨の周りには12本の筋肉がついていて、猫はそれらを自在に操って、様々な感情を表したり、身体のバランスをとったりするのだ。
 以上が、ミスター・マジックのうろ覚え辞典からの抜粋である。
 懸命にシッポを伸ばして、札束を取ろうとしているシンタローを見つめながら、マジックはそれにしても器用なものだと思う。やるなあ、シンちゃん。
 少しずつ、少しずつではあったが、細いシッポで動かすには重みのあるはずの札束が、シンタローの方へと引き寄せられているのだ。おそらく乱暴に動かせば、シンタローは気付いているかは不明だが、落とし穴に札束が転がり込んでしまうのだろうし。なかなかの手際である。いや、シッポ際。
「……確認するが、この映像は録画だな。現在はどうなっている」
 マジックは、この光景にも無表情を貫き通しているティラミスに尋ねてみた。
 チョコレートロマンスに報告を受けてから、しばしトリップしていたため、時間が経ってしまった。その後にモニターで、シンタロー出現からの一連の過程を見たのであるから、ここに映し出されているものは、少なくとも数分は現在時間より遅れている映像であるはずである。
「はい。ではライブ映像に切り替えます」
 ヴィィィン……と画面が揺れて、新しい映像に変わった。
 シンタローは、まだ落とし穴の側にいた。



 状況に変化があったようには、マジックの目には見えない。黒猫は相変わらずこちらに背中を向けて、おすわりをしており、シッポを札束に伸ばしている。
 ぴょいぴょい、としなやかに動くシッポ。
 いや――札束の位置が違うか?
『ンニャッ、ンニャニャッ』
 延々とシンタローは、シッポを少しずつ、少しずつ札束の角にぶつけながら、その位置をずらし続けていたのであるらしい。
 この根気は見上げたものである。
 と。絶妙のポイントに、シッポがあたったらしい。ぐぐぐっと札束は、シンタローの方に近付いた。
『ニャッ
 極上の笑みを浮かべて振り返り、作業にいそしむシンタローである。ますます嬉しそうに、シッポを動かしている。
 うーん、ここでシンちゃんが焦って、今度は手を伸ばして、うっかり穴に落ちたりはしないかなあ。
 とりあえずは見守るか。
 そんなことを考えながら、マジックは画面に見入っている。



 シンタローが現在いる場所がわかっていても、穴に落ちるまでは近付かないということが、マジックの今回の作戦にあたっての方針だった。
 まず秘書たちがシンタローに近付けば、すぐに気配でわかってしまうであろう。
 気配を消すことができるマジック自身が近付いても、捕まえる時は姿を見せなければいけないのであり、そうなればシンタローは逃げるだろう。
 結局は、秘石眼を使うしかなく、シンタローの身を傷つけて捕まえることになってしまうのである。
 あの――傷つけられる直前の、あの子の顔を見ることになる。
 マジックが、無傷でシンタローの身を確保することに拘るのは、もしかするとシンタローのためと同時に、自分自身のためであるのかもしれなかった。



 ごく最近も、マジックはシンタローを傷つけたことがある。
 これも真夜中の事件でのことだ。
 マジックは、自分を追いかけてきてくれたシンタローを、傷つける言葉を吐いた。
 その時のシンタローの表情が、焼きついて離れない。
 ひどく後悔した。どうして自分はこうなのだろうと、一人考えた。
 言葉であれ、行動であれ、同じことは繰り返したくはなかった。
 だって愛してるから。
 愛してるから、シンタロー……。



『フニャニャニャ――!!! ナンニャ、コレニャ――――!!!』
 ……愛してるから、シンタロー……。
『フギャ――!!! シギャ――――!!!」
 愛して……あ、気付かれたか。
 画面の中のシンタローは、壮絶な努力を重ねて、ついに札束を引き寄せた。
 大喜びで、彼は猫足で金を掴む。そして急に真剣な顔になって、まるで銀行員のように、分厚い紙幣の束を、バラバラ〜とめくって……そこで、悲痛な叫び声をあげたのである。
『ニャギニャアッ! ニャマされニャ――!』
 詐欺だ、騙された! とニャンニャン怒りながら、じたばた暴れているシンタローである。
 札束は、一番上の一枚だけを本物にし、あとは同じ大きさに切った紙を重ねておいたものであった。
 それでもシンタローは素早く、するっとその本物の一枚を抜き出して、懐に突っ込んでいる。
 どうしてあんな猫足で、そこまで器用に。そうマジックが驚く前に、憤慨した黒猫は、残った白紙の束を、側の木に向かって放り投げた。



 ごめんね、シンちゃん。
 マジックは画面に向かって、沈鬱な瞳を向けた。
 パパのお財布だって、無尽蔵って訳じゃあないんだよ。
 うーん、でもこれは、傷つけた、には入らないよね? ダメ? ダメダメ?
 だってグンちゃんのお願いきく約束しちゃったし、パパも結構これからキビしいんだよ。
 罠に大枚使って、なくしたら勿体無いし。
 ちなみに、シンちゃんが埋めたお金は、秘書たちに掘り起こさせてまーす。
 でもさ、そんなにお金が好きなら、パパと一緒にカップル写真集、出してくれたっていいのに。
 ダメ? ダメダメダメ?



 怒りのままに放り投げられた白紙の束は、木にぶちあたり、帯が弾けて、ぱあっと夜空に舞った。
『!』
 ピーンとシンタローの耳が立ち、シッポがピクンと動く。
『ニャ――!!!』
 火の玉のように、シンタローは白紙の舞い散る中に飛び込んだ。猫の性。
 猫パンチと猫キックを白紙に向かって繰り返し、ひらひら浮遊する一枚一枚を追い、『フニャッ、フニャッ、ンナア!』と格闘する。ストレス発散も兼ねているらしい。
 すべての紙が地面に落ちきった時、シンタローは、ぺたん、と地面に座り込んだ。
 すると画面を見つめたままのマジックの耳に、こんな声が聞こえてきた。
『ニャア――ッ! マジャックのヤツニャ〜〜〜〜!!!』
 悔しげに、再度ばん、ばん、と大地を叩いている黒猫。
「……」
 マジックは視線を脇にそらし、画面にではなく、秘書たちに問うてみる。
「今のを聞いたか、お前たち」
 胸が、どきりとした。
「シンタローは、『マジックの奴』と言ったぞ。お前たちには聞こえたか」
 秘書たちは一斉に首を振った。聞き間違いではありませんか、その顔が言っていた。
 だがマジックには、不思議な自信があった。言う。
「いや、聞こえた。確かに私の名前が聞こえた」



 今までシンタローが興味を示していたのは、金と美少年であった。もっともそう仕掛けたのはマジック自身であるのだが。
 マジックは、猫になったシンタローに、自分自身が意識されているという気が、あまりしなかった。
 もしかするとシンタローは、猫になって、自分のことなんて、忘れてしまったんじゃないかとさえ思っていたのだ。
 それが。マジック、と。多少の音は違うが、確かにそう、彼は自分の名前を呼んだ。
 ちゃんとシンタローは、マジックのことを意識して、むしろ自分に対抗するつもりで、行動しているのではないか?
 そんな想いが、胸の中を駆け巡った。
 マジックは思った。シンタローの声が理解できるのは、私だけだ。
「愛の力で聞き取れたんだ」







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