総帥猫科

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 優しい体温を感じている。
 相手の心臓の音が聞こえる。暗い部屋の中で、穏やかな時間が流れている。
 丸められていたシンタローの体は、時を追うごとに、マジックの側でゆっくりと弛緩していった。今のシンタローは、くたっとやわらかくなって、まるで雛鳥のようだ。自分の腕の中で安心しきっているのだ。
 胸にかかる重みと熱を感じながら、マジックは夜を見つめた。
「……」
 それから、ひどく近い場所に焦点を移す。闇に慣れた目に映る、シンタローの首筋は滑らかだった。顎のラインから首筋をたどって鎖骨へと視線を移し、小さく溜息をつく。いつも抱いている身体なのに、清純ささえ感じられるのは、どうしたことだろうか。
 マジックにとっては、シンタローはどんな姿をしていても、世界一不思議な存在だった。
 溜息をおさめたマジックは、今度は静かに静かに、黒い頭を撫でる。
 洗いたての黒髪を指先で梳くと、シャンプーの香りが鼻をくすぐった。
 シンタローがまだ完全には眠っていないことは、息遣いでわかっていた。マジックの指が黒髪を滑るのに合わせて、毛布の中で、シッポが小さく動いている。
 夢の世界に向かって、舟を漕ぎだそうというところなのだろう。向こう岸は遠いようで近い。近いようでまだ届かない。波に舟が揺られるように、大きなうねり、小さなうねり。ゆるやかに続くように、やがて規則正しく間隔が整っていく。
 マジックにとって、眠りにつくシンタローを感じることは、一日の終りのこの上ない安らぎだった。



 ――もう眠りの河を渡りきった頃だろうか。
 声をひそめて尋ねてみる。
「シンちゃん……寝ちゃった?」
 するとシンタローは鈍く反応した。いまだ浅瀬をうつらうつらと漂っていたらしい。けだるそうに身動きし、のっそりと顎を、マジックの肩口に乗せてきた。目を細くつむっている。
 猫はそのまま動きを止めた。薄く開いた口から、静かな呼気が漏れているのを、マジックは感じていた。
「……お前は、どうして猫になっちゃったのかな」
 マジックは、ぽつりと呟いた。
 黒に染まる暗い室内。無機物の陳列の狭間に、その声は沈み、穏やかな眠りをもたらす二人の時間の谷間に落ちていく。
 暗い天井。見つめていれば、どこまでも黒が重なる無限の広がりに、手元が愛しくなる。
「お前がどうなっても、私はお前が好きだよ」
 独り言のように語りかける。答えはいらない。あるのはこの温もりだけでいい。
「愛してる」
 シンタローはもう反応しない。
 しかしマジックは、それでも言葉を続けた。とめどない思考の流れを、かたちにしておきたかったのかもしれない。知らず口調に甘さが滲んでいた。
「……あのね、ジャンはね、サービスの側にいて、それが原因の一つで、犬になっちゃったんだって」
 高松の言葉と、先刻出会った二人の姿を思い出しながら、マジックは呟く。
 ジャンという存在。
 あの不良医者は、アルコール、特殊ウイルス、薬、満月……たくさんの外的要因と共に、内的要因も可能性としてあげていた。
『あとは、何らかの精神的な興奮ですね。精神的因子も考えられる。ジャンの場合はサービスが側にいたということで、まー、相変わらずときめいてたんでしょう……その様々な因子が相互に影響し合い、彼らの番人の遺伝子に眠る情報を引き出すトリガーになったのではないかというのが、私の考えです』
「……あいつ、サービスの奴に始終ときめいてるから、そういう精神的作用も関係して、犬になっちゃったかもしれないんだって。あの変態医者が言ってた」
「……ンァ……」
 シンタローが小さく鼻にかかった声をあげた。あくびであるのか、寝言であるのか判別がつかない。猫は、ムニャムニャと口を動かして、顎をマジックの肩に二度三度擦りつけてから、再び静かになる。まつげに縁取られた目蓋のラインは閉じられたままに弧を描いている。
 マジックは、そんなシンタローの頭を、ぽんぽんと手の平であやすように優しく叩いた。
 また暗い天井を見つめた。思う。
 ――番人の遺伝情報を持つ者。
 ――精神的因子……。
「じゃあ、シンちゃんは、どうして猫になっちゃったの。どうしてなのかな」
 そっと猫耳に指先で触れる。ひどくやわらかな感触に、不思議さを覚える。
 どうしてなのかな、とマジックは、どうして、という言葉を一人、繰り返してみる。ずっと心の隅にひっかかっていた甘酸っぱい推測を、口にしてみる。
「お前は……少しは私に、ときめいてくれてるのかなぁ……」



 マジックはそっと笑った。再び尋ねる。
「ほんとに寝ちゃった? シンちゃん」
 やはりもう反応はない。かわりに、穏やかな寝息が聞こえてくる。シーツの上を滑り落ちるような、静かな音。
 可愛いと思った。しかしマジックは、笑顔を収めた。
 シンタローの無邪気な様子に、胸が痛くなったからだ。
 今度は声に出さずに、マジックは心の中だけでシンタローに語りかける。
 シンタロー、お前は私なんかと比べて、ずっと強くて、とても真っ直ぐなんだ。
 ――もっと、もっと幸せになってもいいはずなのに。
 お前は私の側にいて、私を幸せにしてくれるんだ。
 マジックは、シンタローを抱く腕に力を込めた。シンタローを起こさないように、そっと、そっと。
 私には、感情にどこか鈍い部分がある。すべては不確かなままで、そのまま通り過ぎてしまえばいいと思う。他人がどうなろうと、構わない。やがて尽きて、灰となって消えるだけ。
 時が流れ、かたちあるものは崩れ、人が去り、無が迫ろうとも、私は受け入れるのみだった。いつか自分も消えるのだから。どうでもよかったんだよ。
 でもね、シンタロー。私はお前の側にいるだけで、目の前の世界が明るい色に切り分けられていくのを感じている。
 今だって暗闇の中で、一人きりじゃない。お前の息遣いを感じているよ。
 お前がいるだけで、私の心は笑ったり悲しんだりで大騒ぎさ。
 もう世界を壊そうとは思わない。なぜならお前のいる世界が惜しいからだ。
 青い一族に生まれた、黒髪の私の天使。運命の偶然と必然とが積み重なって、私の元に来た。今ここにいる。私に光をくれた。
 私が望むのは――少しでもお前が幸福でありますように。
「お前といると、あたたかいな」
 お前が幸せかどうかは、お前にしかわからないことだけれども。少なくとも今、お前もあたたかいだろう?
 身を寄せ合えば、体が皮膚を通してお互いをあたためるように、幸福も肌を通してお互いに染みとおればいいのに、と思うよ。
 闇の中で、シンタローの輪郭が淡く銀色に縁取られている。
 再びマジックは目を細め、薄く微笑んだ。
 さて、これで、私の今日の仕事は無事に終わったかな。シンタローを、あったかくして寝かしつける。なんとか任務完了、という訳だ。
 マジックは軽く顔を上げ、おぼろなシンタローの輪郭を辿るように、愛しい目蓋に口づけ、鼻先に口づけ、頬に口づけた。最後に言った。
「おやすみ」



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 黄金色の光を目蓋の外に感じていた。
 鉛が沈み込んだように、頭の隅が重い。浅い眠りの後に深い眠りに落ちたばかりの時間、まだいくばくも眠ってはいない証拠だ。
 意識が浮かび上がるのと、頬に触れる枕の存在を感じるのは同時だ。拡散した意識が自分という集合体に戻っていく。清潔なシーツ、やわらかな毛布。夜の静けさと、予感の一滴。
 ふと、マジックは、自分に向けられる視線を感じた。
 ゆっくりと目を開けると、ぼんやりとした視界に、闇の黒と輝きに照らされた白の二色が飛び込んできた。
 熱いコーヒーにミルクを注げば、混じり合う前の一瞬は、こんな世界になる。
 壊れたレールのお陰で、逆三角の形に空いたカーテンの隙間から、再び姿を現したらしい満月の光が差し込んでいた。
 芳香のように、淡い光が散っている。
 家具、壁、窓、いつもの自室。
 そしてひどく近くに、逆光で黒く塗られた人影、いつもの光景、いつもの匂い。
 時間が止まる。そして動き出す。
 ――ああ……。
 マジックは、自分を覗き込んでいる人の顔を、そっと見返した。



「……アンタ、何だよ、その顔」
 いつもの声が、いつもの調子で響いた。どうしてだろう。久しぶりに聞いた気がする。前に聞いたのは、たかが数時間前のことだというのに。
 月の前に雲がまた通り過ぎたのか、部屋に差し込んでくる光がわずかに陰り、いつもの顔がはっきりと見えた。
 シンタローは呆れたような顔をしていた。
 眉間に小さく皺をよせて、口を突き出している。
「何だよ、これ。引っかき傷かよ? どこで作ってきたんだよ、ったく。いい年してさぁ」
 いつもの指が伸びてきて、マジックの頬に触れてくる。指の腹はやわらかくて、そして少しだけ硬かった。
 マジックの頬には長い傷ができているらしく、頬から顎先までを、指がなぞる。急にマジックはチリッとくる痛みを感じ、小さく肩をすくめた。
「あっ。わりィ」
 びっくりしたらしいシンタローは指を引っ込めると、すとんとベッドから降りて、物慣れた様子で部屋隅のキャビネットの前まで歩いて行った。
 薬と絆創膏を手にして戻ってくる。
 周囲を見回し、
「……なーんでこんなに散らかってんだよ、この部屋。動物が暴れたみてえになってんな」
 と、文句を言っている。
「アンタってさ、俺がケガした時は、うるさい癖に、自分がケガした時はほっとくんだよなー」
 それからシンタローは再びベッドの上に乗り、マジックの枕元にあぐらをかいて、サイドの明かりをつけた。ぽうっと橙色の優しい丸い光が、二人の間を照らし出す。
 てきぱきと用意を整え、軟膏の蓋を取り、チューブから薬を押し出そうとしているシンタローの姿を、マジックは信じられないような気持ちで眺めている。
 いつも倹約家のシンタローは、薄っぺらくなった軟膏のチューブの端を折りたたみ、ぐいぐい潰して最後まで使いきろうとするのだった。今もそうしている。人差し指に乗せられた、白い薬。
 まだ横たわったままのマジックの上に、かがみこむようにして、シンタローが近づく。その様子に、マジックは小さく眩暈を感じた。
「じっとしてろよ」
 左手がマジックの右頬に添えられて、シンタローの右の人差し指が、再度マジックの傷をなぞる。
 今度は触れ方が、どこか優しかった。
 じわりと滲む。
 薬を塗られている。今度は痛いどころか、なぜか気持ちがいい。なぞられる指を感じている。受け身であることが、ひどく快かった。
 『ピッ』という音がして、絆創膏が傷に押し当てられ、しっかりとシンタローの指がそれを抑えている。土を踏み固めるように、絆創膏を貼ろうとしている。そんな生真面目にシンタローの様子に、マジックは少し笑った。
 すると頬が緩んで、絆創膏がずれたのか、シンタローに眉根を寄せて『笑うな!』とたしなめられた。



 大きく絆創膏がたわんだ。
 マジックの唇が、シンタローの口を塞いだ。
「ッ!」
 今まで受身だった相手の突然の攻勢に、シンタローは目を見開く。マジックの右手がシンタローの後頭部を抱え、ぐっと引き寄せる。
 淡い明かりの中に、密着した二人の影が浮かび上がった。
「……ん……っ……」
 唇が重なり、深くなる。
 シンタローの体が、マジックの上に横向きに覆い被さるかたちになる。不安定な姿勢に怯えたのか、シンタローは右肘を、枕に頭を落としたままのマジックの顔の脇につく。長い黒髪がベッドにふわりと落ちて、洗いたてのシャンプーの香りがした。ベッドがきしむ。
 慣れた長いキス。濡れた音が小さく部屋に響く。息継ぎのために、マジックは相手の頬に唇をずらして間を計る。
「ふぅっ……」
 息を整えているシンタローの口の端から、唾液の雫がこぼれ落ちる。マジックが、下からとがらせた舌先で、それを舐めとって、再びキスが始まる。
 ふとマジックが目だけを動かすと、バスローブからのびるシンタローの脚が、ぎこちなく動いていた。クッションを蹴っている。明かりの輪から外にのびた脚は、月の光でやけに白く見えた。


 やがてマジックの左手が、シンタローの首筋をなぞりあげ、やわらかい耳の裏をくすぐった。黒髪の生え際を指で弄る。
 ビクリとシンタローは身を奮わせた。
「……ッ……」
 その途端、大きな物音がした。シンタローが身をよじらせた拍子に、サイドボードの時計を蹴飛ばしたのである。
「……んっ、う……バッ、バカ!」
 あ、逃げられた。そうマジックが思った瞬間、唇が離れた。
 急に正気に戻ったらしいシンタローが、がばっと身を起こしたのである。真っ赤な顔をしている。そんなに慌てなくてもいいのに、ぴょんとジャンプして、床に落ちた時計を拾い上げた。
 陶器の部分が割れていないことを確認しているのか、しげしげと眺めてから、乱暴に元あった場所に戻している。その勢いに、マジックなどは、この扱いの方が時計にとって悪いのじゃないかと思うのだが、赤く染まった目元が睨みつけてきたので、思考を中断した。
 視界の中でシンタローは、手の甲で、ごしごしと口元を擦っている。ややわざとらしいぐらいだ。そしてマジックに向かって、挑むように人差し指を突きつけてきた。
「くそっ、はがれたじゃねえか」
 咄嗟には何のことだかわからなかったが、どうやら絆創膏のことを言っているらしい。照れ隠しなのか、ひどく怒った口調である。
 だからマジックも、ベッドに横たわったままで肩をすくめるという、器用なまねをして見せた。
「貼り方が、甘いんだよ」
「断固、貼り直す!」
 そうしてシンタローは、また几帳面に最初から、マジックの傷の手当てをし始めたのである。
 もちろん今度は、いきなりキスされないように、中腰で警戒しながら。
 その様子に緩く微笑んでから、マジックはそっと目を閉じた。どうしたらいいのかわからなくなったからだった。
 ――ああ……。
 胸が詰まる。
 大人しく手当てを受けながら、心の中で呟いた。
 どんなお前だって、愛してる。でも。
 ――シンタロー……。






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