総帥猫科

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 腕に抱きしめたままで、喉の辺りをくすぐってみると、シンタローは、うっとりと目を閉じてゴロゴロと喉を鳴らした。
 私の可愛い黒猫。
「シンちゃん」
 頭を撫でながら呼ぶと、目を細く開けて、答えてくれる。
「ンナーウ」
 答えながらもシンタローは、猫足をマジックの顔に押し付けて、なんだか攻撃してくる素振りを見せたから、マジックの方も、
「えい!」
 クッションを押し付けてみた。すると猫はやっきになって応戦してきた。
「ンナウ。ニャウ!」
 一度、マジックの腕の中から跳び退り、体勢を整えてから、がばっと襲い掛かってきた。なにせ肉食動物。すぐに闘争本能に火がつくのである。
「わあ、降参、降参」
 笑いながらクッションを抱えて丸くなるマジックに、シンタローが上から圧し掛かってくる。
 その身体をマジックはクッションごと抱きとめて、二人でまたベッドに転がった。
「ニャーウ!」
「はは、んもう、シンちゃんったら」
 楽しかった。こうしていると、時を忘れそうになる。



 ついシンタローいじりに没頭しかけて、マジックは、おっと危ない、と自分を戒める。
 遊んでいるのは楽しいが、この猫を寝かしつけるという最終目標を忘れる訳にはいかないのである。
「そろそろ寝なくっちゃね」
 急にマジックが起き上がったので、黒い猫耳が二つ同時に、ピクンと動いた。
 もっと遊ぼうよという風に、ひっくりかえって腹を見せ、マジックの手に向かって猫パンチをくりだしてくるシンタロー。マジックは、その頬を、指で優しくつつく。
 それから有無を言わせず、抱きかかえた。胸とお尻をすくうようにして、強く抱く。シンタローの体は、あっという間にマジックの腕に姫だっこ。
「その前に、歯磨きしなくっちゃ」
「ニャニャッ?」
 いきなり体が浮いて、びっくりしたらしいシンタローを、マジックは、そのまま勢いで洗面所に運んでしまう。
 シンタロー用の歯ブラシに歯磨き粉をつける(勿論、甘い味の!)。後ろから抱きかかえたまま、猫を鏡に向かわせる。猫に何かをさせるには、やっぱりスピードが肝心。意表を突くに限る。マジックは、猫の顎下に手の平をあてて、両のほっぺたを指ではさんで口を開けさせると、手早く歯ブラシを突っ込んだ。
「ンナァ〜! ムゥア――!」
「はいはい、大人しくしてなさい」
「モグァ――」
 鋭い猫の歯が、歯ブラシをがじがじと噛もうとするが、そんなのよりも速くマジックの手は動くのである。機先を制されて、遅い抵抗をするシンタローの口内を、構わずしゃかしゃか洗ってしまう。
 念入りに、横磨き。縦磨き。ローリング。総帥は歯が命。白い歯で、明日も億千万の人々を魅了するのさ、ねえシンちゃん。
 うーん、でも。やっぱり魅了しちゃダメ。お前は私だけのものでいて。
 ああ、私ったら。それでもこの手で、シンタローの魅力度をアップさせずにはいられないのさ。なんて複雑な男心。
「はーい、キレイキレイ」
「ンムァ――!」
「ほらほら、もう終わったよ。はい、シンちゃん。ぶくぶくして。ごろごろ、ぺっ」
「ムグァグァクゥクンゥ――」
 どうせ私にかなわないんだから、最初から大人しくしてれば楽なのに。
 そんな、シンタローが知ったら大激怒するようなことをマジックは思いながらも、なんとか口をゆすがせる。『はい、おしまい』と、口元をタオルで拭いてやった猫を、羽交い絞めから開放してやった。
「ニャニャニャァ――――ッ!!!」
 シンタローは、黒い鉄砲玉みたいに、洗面所から飛び出していった。
 マジックはくすりと笑い、ぼろぼろになったシンタローの歯ブラシを捨てようとして――思いとどまった。勿論。後で楽しいコレクションに加えるつもりで、ひとまずはカップに立てかけておいた。
 今日は収穫が多いなあ、なんて思いながら、今度は自分の歯ブラシを取り出し、歯を磨き始めた。
 洗面器に漬け置いていた総帥服のズボンを取り出して、乾燥機付きの静音洗濯機に入れておく。



 部屋に戻ると、シンタローは案の定、先刻、風呂から上がったばかりの時に陣取っていた、部屋隅の一番背の高いキャビネットの上でうずくまっていた。じとりと恨みのこもった目つきでこちらを睨んでくる。
「シンちゃん」
「ンギャ――ウ」
 しかし本気で怒ってはいないらしく、キャビネットからは黒く長いシッポが垂れて、ひょこひょこ動いていた。
 マジックは、ベッドに乗ると、枕をぽんぽんと叩いた。猫を呼ぶ。
「ほら、こっちにおいで」
 猫はツンと無視をする。
「ねんねするよ、シンちゃん」
「ンニャ」
「もう、おねむでしょ。今日はもう、あんなにはしゃぎ回ったんだから」
 マジックはそう言うと、部屋の明かりを消した。暗闇が部屋を支配した。
 月は雲に隠れてしまったのか、モノクロームの輪郭が色濃く浮かび上がる。部屋は薄いガーゼを通して見たような、ぼんやりとした色に染まった。
 毛布の裾を上げ、シーツの上に滑り込んだ。ベッドがマジックの体重を受け止めた。身を沈めて横になる。
 やわらかな枕に頭を乗せると、マジックの意識には反射的に睡魔がしのびよってくる。だがすぐに眠る訳にはいかない。
 部屋隅に注意を向けると、暗い中でも、猫がこちらを見ているのがわかって、おかしくなった。視線を感じるのだ。
 素直にこちらに来ればいいのに、と思う。呼ぶ。
「シンちゃん」
「クウ」
「ほら、ねんね、ねんね。パパ、眠っちゃうよ」
「……ンナーウ」
「シンちゃん、ねんねしようよ。ベッドの中の方が、あったかいよ」
「キュウ」
 なぜか最後は、か細い声だった。暗い中で、よくわからない意地を張っているのが、また面白い猫である。



「シンちゃーん」
 黒影が少し動いた。小さな猫の声が聞こえてくる。ちょっと甘えたような響きがあるのは、マジックの気のせいだろうか。
「……クゥ」
 だからマジックは、優しく呼び続ける。
「一緒に寝ようよ、そっちは寒いでしょ?」
「ンーン」
「シンちゃん。ベッドはあったかいよ。ほかほかだよ」
「ンー」
「おいで」
「……ンーン」
「……シンちゃーん、おいで、おいで……」
 暗闇の中で、しばらく呼び合ってみたのだが、一向に猫はこちらに来る気配がない。
 モノクロの空間の隅、ひときわ黒い影は、ただシッポを揺らすだけだ。シッポの影が、いやいやをしているように見えるのである。
 そこでマジックは、打つ手を変えて、寝たふりをすることにした。押してダメなら引いてみろ、とは、長年のシンタローとの経験から育まれた極意である。
「シンちゃ……すー、すー……」
 少しわざとらしいとも思ったが、寝息をたててみる。
「ンーン、ンゥー」
 またシンタローが鳴いたが、マジックは答えなかった。眠り込んでしまったように装う。
「……」
「ンナーウ……?」
「……」
 3分ぐらい、そうしてみた。



 数回鳴いた後、やっとマジックが返事をしないとわかったのだろうか、しばし沈黙が続いた。
「……」
 猫はこちらを窺っているようであった。やがて、
「……ニャウ」
 猫がひそやかにキャビネットから飛び降りたのがわかった。
 忍び足でこちらに近づいてくるようだ。まるで忍者だ。いや忍猫か。テーブルの上にでも乗ったのだろうか、だが肉球は音を立てない。ただ気配がするだけだ。
 マジックは目をつむったままで、空気の動きを感じている。
 シンタローは部屋の家具を飛び移り、大きくジャンプした。最後にマジックが寝ているベッドの側に着地した。
 そこでしばらく用心深く、身を伏せているようである。
 それから――マジックの足元の方から、静かに静かに、ベッドの上に乗ってきた。
 これも音はしなかったものの、さすがにベッドがきしむ。猫足が、ベッドカバーを踏みしめている。
「……」
 視線を感じ続けていたが、マジックは頑張って目を閉じていた。猫がじっとマジックの顔を凝視しているらしいからだ。
 気配が、マジックの足元から、枕元に近づいてくる。大き目の羽枕がしなった。
 息遣いが聞こえる。猫がふんふんと顔を近づけてきているらしい。シンタローの息が頬や首筋にかかり、マジックはひどくくすぐったかったが、我慢してじっとしていた。
 猫はマジックの上半身のあちこちを嗅ぎ回っているようだ。
 あ、何だか、夫の浮気を疑って、香水の匂いがついてないかと夫の服を嗅いじゃう奥さんみたいだ。やだなあ、もう。ふふ。シンちゃんてば。大丈夫だよ、シンちゃん。私は浮気してないよ。
 って、さあ。さっき一緒にお風呂に入ったでしょ。私たち、同じ匂いだよ。同じ香りのラブラブカップルさ。ふふ。ラブラブばんざい。
 そんなハッピー妄想をマジックがしでかしている内に、シンタローはマジックの顔の近くで、何やらごそごそしはじめた。
 マジックが薄目を開けて窺うと、猫がベッドにもぐりこもうとしている姿が見えた。マジックの右肩のすぐ側から、毛布に頭を突っ込んでいる。
 ずるずると半ばまで体をベッドにもぐりこませたシンタローは、お尻だけ出た状態。黒いシッポがマジックの顔の近くでヒョコヒョコ動いている。
 ぐっ……かわいい……。
 思わず手が伸びてしまいそうになるが、グッとこらえる。シンタローに触りたい気持ちに苛まれて、マジックが心中呻いている内に、するりとそれ自体が生き物のようにシッポがしなって、お尻もベッドの中にもぐりこんでしまった。
 マジックのベッドはキングサイズだったから、猫がもぐりこんできても、まだそれなりの余裕はある。
 大きな毛布の中で、シンタローは、もぞもぞと心地よさげな場所を探しているようで、まずマジックの足元の方にうずくまった。シッポらしき、やわらかな物体がマジックの踝あたりに触れて、またくすぐったさを我慢しなければいけない状況に陥ってしまう。
 ……うう、我慢、我慢だ。ここは我慢。
 じっと寝たフリを続けているマジックの気も知らず、猫はいったん、足元に落ち着いてうずくまった。
 しかしそうかと思いきや、なんだか徐々に移動してきているのである。猫耳がシーツの上をずれていく。
「ンナウ」
 マジックの足元から、腿の辺りへ。腿から、腹の辺りへ。そして胸元へと、シンタローはじわじわと身体の位置を変えている。
 どうやら、よりあたたかい場所を探しているらしい。



 マジックの顔の側で、やっと猫耳の移動は止まった。フンフン、と鼻をうごめかしている気配がする。
 黒い頭を、マジックの脇の下やら肩の上やらに置いて、寝心地の良さを確かめているようだ。
 そういえば、いつも腕枕をする時も、シンタローにはその日の気分で場所に好みがあるものな、とマジックは考えた。傾向的には、喧嘩をした日などは、腕の先の方に頭を置きたがるようだ。あんまり腕の先だと、翌朝はちょっとその部分が痛かったりするのだけれど。
 そうでなくても、あれかな、今日はこの道を通って出勤しようとか、そんな程度の好みがあるらしいんだよね。
 ベッドの中の位置関係について、シンタロー的には、かなりのこだわりがあることを、マジックは知っていた。
 猫は、やっと落ち着く場所を決めたのか、ごそごそするのをやめた。それから、丸くなった。猫耳の先が、マジックの顎の下をくすぐった。
 シンタローは、マジックの胸に頭をすりつけてきているのである。そこが一番あたたかいと判断したのだろうか。
 薄目を開けたマジックには、猫の表情は見えない。だが身体は確かにそこにあった。シャンプーの香りがする。黒髪がすぐ側にある。
 安心したように、シンタローが喉の奥から、小さな声を漏らした。大きく息をついている。まるで野生の獣が、やっと帰ってきたお気に入りの洞窟の中に、身を埋めているみたいだと、マジックは思った。
 この場所がお前にとっての癒しの場所であれば、いいのだけれど。
 暗闇の中、かたわらに、丸く盛り上がった毛布のかたち。たしかな体温。ぬくもりは今ここにある。
 愛しくてたまらなくなった。
 マジックは、隣に無防備に投げ出されているシンタローの猫足を、そっと握った。
「……ニャウッ!」
 びくっと猫が体を突っ張らせた。驚いたらしい。
「ンナウ!」
 むくりと顔をもたげて、猫が声を荒げた。毛布の隙間から、猫耳の先っぽがピョコっと出た。ちょっと怒ったらしい。しかし、いったんベッドに入ってしまえば、そのあたたかさを手放せなくなってしまうのだろう。シンタローはしばらく身動きしていたが、
「……ニャウ……」
 あきらめたように、頭をマジックの胸の隣に置いた。
 マジックはベッドの中で、シンタローの身体を、そっと抱き寄せた。
 今度も猫はかすかに身を震わせたものの、怒らなかった。









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