はね

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 緩く生温い空気が辺りを支配していた。
 霧が立ち込めたように、視界が曇っている。
 足元には小さな水面がある。
 それは時折、淡く光を放ち、透き通って外の世界を映す。
 人のざわめき、日常の物音、笑い声。
 いさかい、荒々しい衝撃、かすかな溜息。
 そしてすぐに水面は、闇色の沼に姿を変え、沈黙してしまう。
 ――ただ、ぼんやりと沼の底を見ていた。
 一瞬の透き通る瞬間を待ちながら。
 しかしそこに映る景色に胸踊らすこともなく、悲しみ惑うこともなく。
 ただ、見ていた。
 自分、というものの存在しない世界。
 それがキンタローの過去であり、最近の彼の見る夢だった。



「……困ったな」
 キンタローは悩んでいた。
 どうも体調がおかしい。
 過去の夢を見るのはいいのだが、日中までそのぼんやりとした倦怠感が続いているような気がする。
 何となく意識が浮いている。耳の上あたりに自分がいる感覚だ。
 軍の作戦を考えている時、開発のことを考えている時。
 どうしてか身が入らない。
 彼は抜群の集中力と頭脳を持ち合わせていたが、今はなぜかそれが一つに噛みあわない。
 何かを考えていても、すぐにその意識が分散してしまう。
 体の奥がかすかに熱を帯びてくる。
「これは、いわゆる風邪というものだな」
 彼は『家庭の医学』に目を通すと、そう判断を下して薬を飲み、とりあえずは早く寝ることにした。
 しかし、それが悪かった。
 まずベッドに入ると、何故か目が冴えてくる。
 天井を見ていると、ばらけた意識が悶々と暗い部屋を漂い始め、辺りを飛び回り、何か一つの像を結びそうになっては消える。
 昔……閉じ込められていた空間を、あの沼を取り囲んでいた白い霧。
 もわもわと体全体が包まれているような感覚。
 しかし明らかにあの時とは何かが違う。
 微妙に感情が伴っているのだ。
 それは生暖かいようでひんやりとし、甘いようでいて苦い。
 ふわりと柔らかいようでいて、きつく体の芯を締め付ける。
 その感覚に、胸の奥がちくりとしたり鼓動が激しくなったりする。
「……何だ、これは」
 暗闇で一人呟くが、勿論、目の前の天井からは返答はない。
「眠れないだろうが」
 いつしかその言葉も霧に溶け込み、円を描いて部屋を巡り出す。
「……」
 キンタローにとって、それは決して不快な感覚ではなかったのだが、まず自分が理解できない現象であるということに腹が立つ。
 彼は理解不能なことがあれば、とことんまで突き詰めて考え抜かなければ気が済まない性質である。
 気にせず無理矢理にでも眠ればいいのかもしれなかったが、彼の頭脳はこの不思議な現象を分析し出してしまう。
 そして最近では、夢を見る暇もなく、結局は一晩中眠れない。



 流石にこの日々が続くと、顔に出る。
「キンタロー……お前、ナンでそんなやつれてんだよ」
 そうシンタローに聞かれる頃には、立っているのがやっとの状態だった。
 勧められて医者に見せたが、全く体に異常はないという。
 総帥室で、渡された診断書を見せる。
 紙切れをやたら裏表ひっくり返しながら、シンタローも困ったような顔をしている。
 そして症状が出始めた時期を聞かれた。
「別にいつから、という明確な区切りはないのだが……」
 自分が認識し始めたのはごく最近の出来事だが、思い起こせばこの気だるさはかなり前から始まっていたような気がする。
「今は平常なのだが……どういう時に悪化するかと言うと……うむ、そうだな、まず眠る前。というよりほぼ眠ってはいないから前も後もないのだが……それと、」
 キンタローは腕を組んで考え込み、自分の一日を振り返ってみた。
 ――部屋を出、朝食を取る時。まずそこで頭がガンガンしてくるな。
 そして開発室に入る時。こう、胸の辺りがモワモワして世界が揺らめき出す。
 次に昼食時。食べ物があまり喉を通らず、飲み物で無理矢理流し込んで咳き込むのが常だ。
 そして休憩時。甘いものはまず胸が悪くなり、グンマに心配そうな顔をされて更に悪化しトイレに駆け込む。
 夕方に開発室を出、総帥室に詰める頃には大分体調が浮上してくる。
 つまり今だな。
 そしてこれから夕食を取る頃にはまた周囲がグルグル回り出す、そして寝る頃には症状MAX、という俺の一日になっているのだが――
「……ほとんど一日中じゃねーか」
「まあ、ありていに言えばそうなるな」
「とにかく、その症状が出る場面の共通点を探せばいーんじゃないかと思うけどよ」
「共通点というより、むしろ治まっている現時点のことを分析した方が有益かもしれない。今、何が俺の症状に作用を及ぼしているのか……」
 その時、パタパタと足音が聞こえて、司令室の扉がバタンと開いた。
 ふわふわの金色の髪と白衣。息を切らして駆け込んでくる。
「シンちゃん! キンちゃん! 聞いてよっ! アヒルのモルテンの卵がかえったのっ! 黄色の可愛いヒナがいっぱい生まれたよっ!」
 グンマだ。大きな目をキラキラさせている。
 そう言えば、この間、夜店で買ったアヒルの子を育てていたが……いたが……。
「あァ? モルテンって名前はガチョウだろ、何の話だっけか」
「シンちゃん、そんなのどーでもいいんだよっ! ねえ、来て! 来て! 見に来てよっ!」
 ……。
 ……ッ!
「グンマ、もー少し後にしろよ。今大事な話してんだから……っておい!」
 キンタローの世界がぐらりと反転する。
 グラスの底から眺めるような、形の歪んだ風景たち。
 従兄弟たちの話し声が遠くに聞こえて……。
 揺れる……。
「わぁ! キンちゃーんっ!」
「大丈夫かよ!」
 キンタローはもんどり打って床に倒れ込んだ。



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「知恵熱じゃないの?」
 そう体温計を確かめるマジックにあっさり言われて、キンタローは恥ずかしさと屈辱を感じた。
 肩にかけられている毛布を思わず握り締める。
 額に当てられた氷嚢が少しずれた。
「……ッ、この俺が、知恵熱ですか……あの子供がかかるという……」
「おそらくは。子供が考えすぎるとよくなるんだよ。お前の精神はまだ若いから仕方ない。シンタローも昔よくなったよね?」
 そう言って隣の黒髪の男をちらりと見た彼は、『安静にしてなさい、とにかく何も考えず眠るようにね』と言って部屋を出て行った。
 静寂と、微妙な間が訪れる。
 しばらくしてシンタローが口を開いた。
「ま、お前がナニに悩んでんのか知らねーがよ」
「悩んでいることなど何もないのだが……だがしかしこの俺が知恵熱……知恵熱……この俺がッ……」
「だからそーいうのが悩んでるって言うんだと……」
 またパタパタという足音。バタンと開くドア。
 あせあせと飛び込んでくるグンマ。
「キンちゃんっ! 風邪にはアヒルの生卵のお酒が効くんだってっ! 僕、モルテンに頼んで一つもらってきたよっ!」
 ばっ! と両手で大きな白い卵を差し出す。
「あっ」
 と、その瞬間、グンマは足をもつれさせて転んだ。
 宙を飛び、ぐしゃりと絨毯の上で派手に割れる卵。
 片足のスリッパが、てん、てん、てん、と床をころげていく。
「ふぇ〜ん……せっかくの卵がぁ〜」
「……うーん、グンマ、何もない所で転ぶのはさすがの俺も助けてやれんな……フワフワしやがって……っておい!」
 シンタローとグンマは、ベッドから転げ落ちそうになりながら、痙攣しているキンタローを目撃していた。
「キンちゃんっ!」
「……ぐっ……」
 グンマが駆け寄って両肩を掴み、がたがた揺さぶる。
「キンちゃんっ! しっかりしてよぉ〜! 目を開けてよぉ〜!」
「……う、うわぁっ……」
「あーん! キンちゃ〜〜〜んっっっ!!!」
「……グンマ、とりあえずもうやめろ、白目向いとるぞ、そいつ……」
 キンタローは再び意識を手放していた。



「……俺には、なんとなくわかった……お前の知恵熱の原因が」
「何だ。勿体ぶらずに早く言え」
 翌朝。
 出勤前にシンタローが、体温計をくわえて伏せっているキンタローに向かって言った。
 やけにニヤニヤしている。
 そして居間の方に声をかける。
「おーい、グンマ! 早く来いよ!」
「は〜い キンちゃ〜ん! 具合どぉ?」
 ドアからひょこりと顔を出す金色の頭。
 たちまちキンタローの顔が青ざめる。
 グンマはばっと彼のベットの側に駆け寄ると、その両手を握り締めた。
「キンちゃんっ! 早く良くなってねっ! 僕、僕、心配でっ!」
「ぐ……手は、手はやめろグンマ!」
「なんでよぉ、キンちゃんっ! とにかく僕、こうやってお祈りしてるからっ! 今日は一人だけど頑張って開発するね! それでね、」
「おいおいグンマ、手握るのやめろってさ。恥ずかしがってるぜコイツ。っつーかお前、アヒルのエサはやったのかぁ?」
「ああっ! 忘れてたよっ! んじゃね、キンちゃん! キンちゃんも頑張って眠ってね!」
 来た時と同じように、パタパタした足音を残してグンマが消えた。
 ベッドのシーツの上に残されたのは、その髪と同じ、ふわりとしたアヒルの羽一枚。
 彼の白衣についていたのだろう。
「……」
 シンタローがキンタローのくわえている体温計を確かめる。
「へっ。やっぱわかりやすく温度上がってやがる」
「……というより俺は今、あやうく体温計を噛み砕いて水銀を飲み込む所だったぞ……発作恐るべしだな……」
 わかったわかった、と妙に心得顔をしているシンタロー。
 そして人差し指を立てて言った。
「お前はグンマが好きなんだろ!」
「あァ? なんだ、それは」
 それはキンタローが想像すらもしない言葉だった。



「『好き』? そんな訳ないだろう。モノの本には、こんな恐ろしい発作が起きるとは書いてなかったはずだが」
「そりゃ色々あるだろ。そんなの人によるだろーが。今のお前みたいに、どーしたらいいのかわからなくなったり、考えすぎたり落ち込んだりすんのが『好き』って言うんだぜ?」
「ほう……他にはどんな症状が」
「あぁ? だから色々あんだよ。ナンかグルグルしたりすんだよ。妙に発作的だったりテンパってたりすんだよ。まさにお前だよ、よく考えりゃぁな」
「やけに詳しいな……お前はこの『好き』を経験したことがあるのか?」
「はァ?……ンな訳ねーだろッ! 聞いた話だよッ! つーか一般常識だ、一般常識!」
「そうか、一般常識か……それなら仕方ない」
 シンタローの見る所では、グンマが現れると必ず発作が起こるという。
 そう言われてみれば確かにそうだ。
 しかもそれは一般常識だったとは、なんたる不覚。
 不可解だった原因が判明した嬉しさに、キンタローはつい叫んでしまった。
「やっと解った。俺はそれに悩んでいたのかッ!」
「おお、やっと普通の反応したなお前」
 シンタローはホッとしたように腕を組む。
「うむ。そうと解ったからには、まず分析から始めてより理解を深めねばなるまいな。俺の『好き』だという現象成立を考察するためには、『好き』という感情の特殊性を理解する必要がある」
「……」
「そもそも、『好き』という現象はだな、当事者一方のみでは成立し得ないという……」
「あーあーあー! もうやめとけ! また悪化するぞ」
 シンタローはキンタローを見据えて言った。
「いいか、お前のやるコトは一つだ。頭の中でフワフワしてんな。とにかく会え。グンマに『好き』だと言って来い。そしてグンマに『つきあってくれ』と言って来い。そうしないと、お前のこの病気は治らん!」



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 その日の昼過ぎ、キンタローは研究所の裏手の一本松の下にグンマを呼び出した。
 先程図書館で学んだ限りでは、こういう場合は大きな木の下がいいらしい。
 正装用のスーツに、手には花束。
 花屋が『どのような御用向きですか』と聞くので、『人に好きだと言うのに使用する』と言うと、何か奇妙な反応をして手間取ったあげく、この花束を作ってくれた。
 まあ、事前の準備としてはこんなものだろうな。
 常識と礼儀は欠いておらんだろう。
 指定の時間に少し遅れてグンマがやってくる。
 こんなに近隣の場所なのに、迷ったのだという。
 相変わらず世話の焼けるヤツだ。例のアヒルを腕に抱えた姿。
 一人と一匹は、妙にキョロキョロして目をウルウルさせている。
 熱大丈夫なの? なんでこんなトコに? どしたの、そのカッコ、なに、その花?
 矢継ぎ早に質問をしてくるが、俺は一刻も早く自分の要件を言わなければならない。
 だから、単刀直入に『好きだ』と言った。
 そして今……。
 その言葉から10分間の沈黙が続いている……。



 過剰な反応をするかと予測していたグンマだが、どうしてか憮然とした顔で黙っている。
 何でもいいからここは反応をすべきだと思うが。
 このように10分間、あと15秒で11分間も沈黙を続けるなんてどこにも書いてなかったのだが。
 風にグンマの髪につけている大きなリボンがはためいている。
 その腕に抱えているアヒルにも同じリボンがついていて。
 それが同時にパタパタ音を立てることに、少しおかしくなった。
 するとグンマがますますムッとした顔でこちらを見た。
 違う! 別にお前自身を笑った訳ではない!
 そして11分20秒で沈黙が途切れた。
「……でもさ、キンちゃんはどーして僕のコト好きなの?」
「どうしてと言われても……自分でもよくわからん。ただお前を見てると頭がガンガンして、発熱して、何か背筋がゾクゾクしてくるのだ。話によるとそれは『好き』だというらしい。だからただ俺はその事実を告げているだけであって、」
「……じゃあさ、キンちゃんは頭が痛いのと、熱が出たのと、寒気を直したいから、仕方なくて僕にそういうコト言ってくる訳?」
「それは一面では正しいな、正直、この状況には耐えられん」
「じゃあ僕に得になるコトって何にもないじゃない」
「確かにその通りだな」
「……」
「……」
 会話は止まった。
 また沈黙。
 ひゅるりらと風が二人の間を吹き抜けていく。
 アヒルが『があっ』と鳴いた。
「……だいたい、そのキンちゃんの『好き』って気持ち、間違ってる可能性はないの?」
「ない。一端そうと理解し、考察を深めたからには、この俺が間違うことなどある訳がない」
「……」
「……」
 二人の間でアヒルがグエッグエッと喉を鳴らし始める。
「……話はそれだけ?」
「まあ……そうなのだが……」
 なぁんだ、と可愛い顔が言った。
「じゃ、僕、小象のパオーン一号のメンテナンスがあるから、行くね!」
 にっこり笑って身を翻すグンマ。
 パオーン一号か……あれはグンマ専用の動物型移動用ロボットで、実際のゾウの肌触りを忠実に再現した人口皮膚等、なかなか感心する所が多く、高機能ではあるな。ただ難点は万人に受け入れられにくいデザインだろうか……って!
 流石のキンタローにも、ここで会話を終わらせてはいけないことだけはわかる。
「グンマ! 待て!」
 手を伸ばして追いすがると、グンマは明るい金髪を揺らして振り返る。
「なぁに?」
「何って……つまりだな、」
 待てよ? 俺は今、ここでグンマを呼び止めて何をしたかったのか?
 待て待て。
 そうだ、ここは原点に戻ろう。
 まず俺は、グンマに好きだと言いに来た。
 これはいい。
 そして次に何をする?
 そうだ、『好き』という感情は一人では成立できんという性質がある。
 だから、俺はコイツにこう言わねばならんのだ!
「つ、つつつつつ、」
「つつつ?」
「つ、つ、つきあって、くれっ!!!」
 ゼイゼイという自分の呼吸の音がうるさい。
 心臓がどくんどくんと波打つのが聞こえて。
 なんだ? なんでこんなに俺は緊張しているのだ。
 ああ、確かにこんなのは初めてだ……。
 今の俺はきっと不整脈。
 そして。
「ヤだよ!」
 あっさりと断られた。
 震えた自分の手から、ばさりと落ちる花束。
「……な、な、つ、つきあうって、どこか甘味屋に付いてきてくれ等と言っている訳ではないぞ?」
「わかってるよぉ。好きだから恋愛込みで付き合ってくれっていうんでしょ?」
 れ、恋愛……。
 キンタローの顔は初めて赤くなる。
 グンマ、お前、何という恥ずかしい言葉を……。
 って! おい、ちょっと待てっ!
 何でお前は、そんなあっさり!
 この俺を! いいか、この俺をだぞ! 何故に断るんだッッッ!!!
「ど、どうしてだ! 得になる事がないからかっ? それとも男同士だからかっ?」
 問い質すキンタローに、グンマはにっこり笑って言い切った。
「ううん。だって僕、キンちゃんのコト、たいして好きじゃないもん」
「!!!!!!!」
 僕はこのアヒルと一緒にいる方がいいな!
 えへへ、じゃあね! 
 駆け出したグンマの抱えていたアヒルの羽が、ぱあっと飛び散った。
 一人残されたキンタローは、黄色い羽を被って呆然と立ち尽くしていた。




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