はね
グンマにはほとんど親しい人間はいない。
士官学校にも行かず、高松の庇護下で隔離された状態で育った。
傍らには万人の関心を集めるシンタロー。
人のざわめき、日常の物音、笑い声。
いさかい、荒々しい衝撃、かすかな溜息。
時折、自分に向けられる言葉。
『グンマはバカだから』
そしてすぐに他人は、自分に関心を失い、無視してしまう。
――ただ、笑って他人の感情を見ていた。
一瞬でもいいから、自分が認められる瞬間を待ちながら。
ただ、見ていた。
自分、というものの存在しない世界。
それがグンマの過去であり、最近の彼の見る夢だった。
「グンマ……アイツ、明日から遠征に行っちゃうぞ? 何にも言ってやんなくっていいのかよ」
あの木の下での出来事から数日してからのことである。
夜、シンちゃんが僕の部屋に来て、聞いてきた。
「いーよォ、別に」
「お前って案外クールだな……何言ったか知らんが、あれからキンタローが急に長期遠征計画を立て出して」
「そんなの僕のせいじゃないもん」
「……まあな」
ぷう、と頬をふくらませて拗ねてみた。
困った顔のシンちゃん。
昔っから、シンちゃんは僕のこの顔に弱い。
僕はいつも、ワガママを言ってこの従兄弟を困らせるのが大好きだった。
「二人共、何の話をしてるんだい」
いつの間にか開いた扉の外に、おとーさまが立っていた。
えへ、と僕が笑いかけると、微笑み返してきてくれる。
その顔に向かってシンちゃんが不機嫌に言った。
「……教えねェ。つーかアンタが絡むとナンでも全部壊れてややこしくなるんだよ。あっち行け、そんで汚れた過去を反省してろ」
うわ、また微妙にケンカモードだ。
と言うより、ケンカしてない時の方が珍しいよね。
あはは、と軽く受け流してから、おとーさまが斜めに構えて言う。
「あ、そう言えば昔、ハーレムのね……」
つい乗っちゃうシンちゃん。
「……ソレは知らんな」
「じゃあ私も教・え・な・い」
「ムッカ! はりきりムカつくッ!」
そのまま、キンちゃんのことはうやむやになっちゃって。
翌日。見送りに出た僕の前で、肩を落として、わかりやすく落ち込んでいたキンちゃん。
飛行船のタラップを上る背中が寂しそうだったよ。
でも僕とすれ違った時に、ぶっきらぼうに最後に一言。
『帰ってきたら、もう一度お前に話がある』
そしてそのまま、キンちゃんはシンちゃんの補佐として長い遠征に出陣してしまったんだ。
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僕は何の変哲もない日常を過ごす。
毎日開発室に通って、アヒルの世話をして、コタローちゃんの寝顔を見て、おとーさまとお話しするよ。
僕は、そうやって静かに生活したいんだ。
このまま、ずうっとね。
アヒルはとっても可愛い。
僕、大好きだよ。
僕がエサをやると、無心にばくばく食べてぴょこぴょこ歩いて、パタパタ羽ばたこうとするんだ。
目がまるで涙がたまってるみたいにウルウルして、太陽に当たるとキラキラ光る。
蜂蜜色の羽がフワフワして透き通るよ。
抱いて頬ずりしてやると、とっても僕は安心するんだ。
「モルテ〜ンっ」
呼ぶと、きょとんとした顔で僕を見る。
わかってんのかなあ? 僕のコト。ふふ。
アヒルって不思議。
だって飛べないのに、ずっと飛ぼうとしてるんだよ。
ヘンな生き物だなあ。
一生懸命、ダッシュしてバッと土を蹴って、数十cmぐらいガッと浮いて、そのまま木にぶつかって目を回したりしてる。
ドボン! って水飛沫を立てて水面に落っこちたりさ。
飛んでどこに行きたいのかな?
えへへ、お前の名前、飛べない鳥なのに飛べちゃった、偉い先輩の名前にしてあげた。
だから、頑張れ。もっと頑張れ。
僕はここで見てるから。
もっと羽ばたいて、いつか自由な空を飛んでね。
ホント、見てると飽きないよ。
僕は人と付き合うより、アヒルと一緒にいる方が、好き。
「私はグンちゃんのこと、好きだよ」
「僕も好きです、おとーさま」
今日もおとーさまとウキウキ素敵にお話するよ。
おとーさまは僕には深く立ち入ってこないから、僕は一緒にいるのはとても気が楽。
安心できるんだ。
だって別に僕は深く好かれてはいないからね。
「でもグンちゃんの『好き』って、アヒルと同じかそれ以下ぐらいの『好き』だよね」
「アヒルもみんなも、全部好きだよっ! じゃあ、おとーさまの『好き』はどんな『好き』?」
「うーん、色々あるよ。一緒にいて楽しいくらいの『好き』から、自分が消える時に最後に思い出しそうな『好き』までたくさん」
「わァ、八百屋さんみたいだね!」
「はは、そうだね。たくさん揃えて、買ってくれるお客さんを待ってるのさ」
僕の『好き』は多分軽くてみんな一緒だから、お客さんは選べなくてカワイソウなのかも?
でも、どのお客さんに売るかって問題もあると思うな。
おとーさまとの会話は、いっつもこんなよくわからない感じなんだけど。
あんまり、僕自身と会話してるって雰囲気じゃないんだ。
でも一度だけ、こんなことを言われたことがあった。
「……ずっと遠い昔にね、」
お茶の時間だったかなぁ?
多分、コタローちゃんが逃げちゃった後すぐ、くらいだったかもしれない。
コタローちゃんはある朝突然、目を覚まして海に向かって飛び出した。
あんなに小さいのに一人っきりで、僕たちを置いて南の島へと旅立ってしまった。
「昔、グンちゃんに、おバカって言われるのは嫌? って聞いたことあったんだ。そしたらグンちゃんは別に嫌じゃないって言ってた。覚えてる?」
おとーさまが僕について昔のことを言うのは珍しい。
この人は、全部が固い大理石の壁みたいな人なんだ。
でも、たまーに、すこーしヒビが入って、僕にほんのちょっと違う顔を見せる時がある。
ほんのちょっとだけ、ね。
「……覚えてないです、おとーさま」
「そう」
そしてグンちゃんの髪はフワフワしてて柔らかいね、と言いながら。
本気なのかそうでないのか、微妙ないつもの顔で僕の頭を撫でてくれた。
「ごめんね」
頭を撫でるって気持ちいいよね。
僕も、何年もの間、眠っている可愛いコタローちゃんの頭を撫でていたよ。
どんな夢を……見てるのかな、って思いながら。
僕の弟。
目を覚ましてくれたら、僕、ちゃんとお兄ちゃんになれるかなあ?
……シンちゃんみたいに……。
そうやってどんどん想像が膨らんでいくんだ。
コタローちゃんが逃げちゃった今は、開発室のデスク上の写真立てを見て、同じことを思う。
「あふぅ〜、疲れたよぉー」
机の上に突っ伏して、しばらく開発から遠ざかりたいと思う。
……何でもできる、カッコイイ従兄弟、シンちゃん。
賢くて強くて、とっても優秀。そして真面目で頑張り屋のシンちゃん。
何でも持ってるのに、でもどうしてかいつも不満な、贅沢なシンちゃん。
僕は、ずっとその隣にいて笑ってた。
生まれた時から、ずっとずうっとだよ。
――おとーさまは、きっとそのずっと昔っから、最初から。
僕の両目が特殊だって、秘石眼だって知ってて、隠してた。
でも安全で弱くて暴発しない子だったから、僕は閉じ込められなかったんだよね。
おとーさまがコタローちゃんにあんなコトをしたのは、たくさん理由があるのかもしれないんだけど。
多分その内の一つは、自分の跡継ぎを、眼も髪の色も青の力もない、シンちゃんにしたかったからなんだと思う。
高松は、僕にいつも『グンマ様はおバカでいることが一番賢いんですよ』って。
でも僕、良かったよ。
別に演技しなくても最初からおバカだったから、とっても平気だった。
……おバカじゃなかったから。
賢くて強かったから、閉じ込められたの? 小さなコタローちゃんは。
暴発するから、危険だからって、言うけど。
多分、コタローちゃんの一番近くにいたシンちゃんが、一番危険だったからなんだろうな。
……。
僕、おとーさまのこと、好きだよ。
でも、いつも考え出すと怖くなる。
好きが続いて誰か一人に深くなるとこうなるの?
他がどうでもよくなって、他を傷つけても平気になるの?
そしてシンちゃん自身も傷つけて。
どうしてそんな沼みたいな濁った場所にいくのかな。
これが好きの魔力なら。
僕は、人を好きになりたくないよ。
好きの沼に深くはまりたくない。
だから僕は人とあまり深く仲良くならない。
人と親しくなるのは怖い。
絶対に僕が僕でなくなってしまう。
だから僕は飛べないアヒルのままでいい。
このまま楽しい毎日を過ごしていたいんだ。
僕の写真立て。今は可愛いコタローちゃんの寝顔が入っている。それを見て、いつも僕は思うんだ。
ようし、お兄ちゃんは君を迎えに行くために、頑張って開発するよ!
待っててね。
机に突っ伏した僕は、もう一度起き上がってやる気を出す。
僕ら、本当の家族になりたいな。
でも、その寝顔の裏には、もう一枚写真が入っているんだ。
昔、ずうっと飾ってたんだけど、今もどうしてかそこから抜き出せない。
ルーザー……おじさまの、古い写真。
昔の、僕の、失われた家族。
……高松は。
どういう気持ちで僕に『おバカ』でいろと言ってたんだろう。
だって、赤ん坊だった僕とシンちゃんを取り代えたのは、高松で。
それでルーザー……おじさまの子だと思ってたシンちゃんを、可愛がるおとーさまを見て、復讐してたって。
高松も……好きが深くなりすぎて……きっと沼にはまったんだと思う。
復讐以外はどうでもよくなっちゃったんだと思う。
好きって気持ちは怖いよ。
その周りの人を……ただ傷つける。
僕への気持ちは本物ですって高松は言った。
僕もそれはそうなんだと信じてるしとても嬉しい。
でも……高松はどんな気持ちで、僕を好きになってくれたんだろうと思うと、すごく悲しくなることがあるよ。
本当は高松の一番深い沼にはまった好きは、ルーザー……おじさまへの好きなんじゃないのかな。
僕がずっと自分のお父さんだと信じて憧れてたルーザー……おじさま。
それが僕の最後の宝物だった。
何でも持ってる、キラキラ輝いてるシンちゃんの側で。
それがおバカな僕の最後の誇りだったんだ。
悲しいことがあっても、立派だったっていうルーザーお父さんが写真の中で僕を見てくれていたから、すぐに忘れちゃうことができてたんだ。
――でも本当は、キンちゃんのお父さんだったんだってさ。
真実が判明して、良かったね、キンちゃん。
もう僕は何にも持っていないのかもしれない。
悲しいことがあっても、もう忘れることができないよ。
透明な気持ちが心の奥にたまっていって、この先どうなっちゃうんだろうかと少し不安になる。
でも一番辛いのは、昔忘れることができたってことを、ずっと忘れることができないこと。
だってキンちゃんが。
僕がずっと憧れてた人の姿で、目の前にいるんだ。
遠征に出ない時は毎日僕と顔を合わせて、一緒の開発室で一緒に研究してるんだ。
ずっと僕は彼と比較され続けているんだ。
僕のレベルが低すぎるから、あっちは全く気付いてもいないだろうけど。
……キンちゃんは。
何でも僕より凄いんだ。シンちゃん並に何でもできるよ。
カッコいいよ。憧れちゃうよ。
その上、僕がただ一つだけ、シンちゃんより優れてた。
優れようと小さい頃から頑張ってきた。
科学の分野まで……完璧なんだ。
たった数年で、もう僕より遥か上にいってしまった。
いつも同じものを開発するんだけど、絶対にキンちゃんの方が評価されちゃって。
隣にいる僕は、今までで一番、『おバカ』なグンちゃんだよ。
何さ。その上、僕に『好きだ』なんて。
もう僕は何も持ってないってば。
見てわからない? 笑わないでよ。
ずるいんだよ、キンちゃん。
完璧すぎて、ずるいんだよ。
それなのに、まだ何をこんな僕から奪おうとするの?
僕だって、眠ると悪い夢を見ることがあるんだよ、キンちゃん?
目をつむると、昔を思い出して頭がグルグルする。
僕の全てがひっくり返された、あの南の島が浮かんでくるよ。
僕は、あそこでも何の役にも立てなかったなあ。
いつも通りアヒルの世話でもしてれば良かったのかも。
途中まで、ずっと見てただけだったよ。
めまぐるしいシンちゃんの運命を。
その裏では、僕の運命も変わっていたのにね。
……シンちゃんは。
赤の番人だったジャンと融合するっていう前に。
自分の存在が消えちゃうっていう時に。
突然、あんなに迷惑がっていた、おとーさまの名前を出したんだ。
『自分が消える時に最後に思い出しそうな『好き』』
みんなその沼にとらわれていく。
僕だけは、このままでいたいよ。
楽しく平和に毎日を暮らしたいよ。
でもキンちゃんと話した、あの木の下での出来事から、僕は毎晩それを考えずにはいられない。
怖くて仕方がないから、すぐに眠ってしまう僕は。
夢の中で、考える。
自分が消えちゃう時のことを。
暗い闇の中で。
――まず浮かんでくるのは高松の顔。
子供の時から、たった一人だけ、おバカな僕を特別扱いしてくれた人。
でも。キンちゃんと。
『仲良くしてくださいね……あの方が残した息子たちなんですから……』
そう言って面影が消えてしまう。
次に浮かんでくるのは、ルーザー……おじさま。
ずっと高松に僕の存在意義だって教えられてきたから。
詳しい話は南の島まで避けてたみたいだったけど、それでも小さい頃からその気持ちは伝わってきてたよ。
最後の宝物だった古い写真立て。
だから浮かんでくるのは、同じ角度、同じ視線でその写真の顔、一種類でしかなかったんだけど。
でも、最近は表情があるんだよね。
しかも全然大人っぽくなくて、子供っぽかったり不機嫌な顔をしていたりで色々なんだ。
ヘンなの。
この顔は。
……それが誰の顔なのか、もう僕にはよくわからない。
ルーザーおじさまの顔なのか……キンちゃんの顔なのか。
だからもしも最後の瞬間にこの顔が浮かんできたら、僕はどっちの名前を呼ぶんだろう。
イヤだな。
悔しいな。
怖いな。
僕が沼にはまる瞬間。
僕の本当の存在意義がわかってしまう瞬間。
僕が変わってしまう瞬間。
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シンちゃんとキンちゃんが長い遠征から帰ってきた。
みんな非常事態に緊張してて。
そしてすぐに南の島に僕を置いて向かったよ。
僕らも急いで彼らを迎えに行ったけど。
突然その船が爆破されて。
おとーさまとコタローちゃんを残して、シンちゃんが……どこかへと落ちていったんだ。