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 コタローは歩く。青草の香りがして、木々の隙間から小鳥の鳴く声がした。
 異次元に突入したということで、青空は見えなかったものの、島はいつも通りに優しい表情で、自分を迎えてくれた。
 ほんのわずかの間だったけれども、僕は、この島とさよならしようとしたんだ。だから。
 ただいま。
 そう心で呟けば、『おかえり、おかえり』と木や草や花、風の匂いまでもが歌ってくれているように感じられて、胸の奥が熱くなる。
 歩きながら、隣に視線を向けてみる。
 すると黒目黒髪の少年の横顔と、仲良しの犬のピンと立った耳先が見えて、コタローは小さく微笑んだ。
 黒船の攻撃で、兄シンタローばかりか自分までもが空から落ちて、このパプワ島に戻ってきてしまったのである。
 ガンマ団に戻るのは、もう少し先のことになりそうだった。
 コタローには、それがいいことなのか悪いことなのかは、わからない。これからどんな運命が、自分や青の一族に待ち受けているのかもわからない。ただ、この大好きな友達と一緒にいられるということは、嬉しかった。
 自分が、大好きなみんなの役に立つことができたら。
 はじめての友達ができたこの島で、パプワ、チャッピー、家政夫、島のみんなと一緒に、彼らにとっての楽園を見つける手伝いができたら。できるのかな。できたら、いいな。
 さらに思いを巡らせれば、自分がごく幼い頃に、たった一人だけ頼りにしていた兄、シンタローもこれからは自分の側にいるのだ。
 そんなことを考えれば、コタローの小さな心は、浮き立った。
 これから何が起ころうとも、大丈夫だ、という気持ちになる。
 ――でも。
「……」
 今度はコタローは、友達と犬の歩く、その向こうに目を向ける。そしてすぐに視線を戻し、睫を伏せた。



 ――パパ。
 彼がこの場にいることが、何だかそぐわないように見える。少なくとも、自分はまだ慣れない。
 彼がいるだけで、自分の体は固くなってしまう。時々、胸が痺れるように痛くなって、その奥底から、得体の知れない感情が染み出してきて、もうどうにも止まらなくなってしまうのだ。
 僕は、パパと一緒に、この島に落ちた。
 今、背の高い男は、コタローの友人のすぐ隣を歩いている。自分と同じ、金色の髪と、二つの青い目をしていた。
 ――僕の、パパ。
 コタローがガンマ団に帰ろうとした最大の理由は、この人と話をすること、であった。
 ひょんなことから、多分……この島で、話をすることになったのだけれど。これから。きっと、これから。
 風が通り抜けていく。木々の緑が、葉ずれの音を鳴らす。
 コタローは左手をそっと見る。小さな手の平を見る。
 パパは――
 パパは、あの時。お兄ちゃんより、僕の手をとった。
 あれは、何だったのか。



 その時不意に、がさがさと茂みが揺れた。
 ぴょっこりと顔を出したのは、可愛らしいカンガルーネズミと、アライグマだ。長い耳、シマシマの太いシッポが楽しげに揺れている。
「わー コタローくんだぁ〜
「コタローくん、もう帰ってきたの――
 胸きゅんアニマル二匹が、コタローに飛びついた。やわらかい毛が頬に、肩に、腕に触れる。歓迎されて、コタローの口元から大きな笑顔が零れ落ちる。
「うん、もう帰ってきちゃったんだー!」
 とても幸せな気持ちに埋め尽くされて、コタローは自分からも二匹に抱きついた。
 友達。僕の大切な友達。



 やがて二匹は、目新しい人物に気付いたのか、また声を上げた。
「あー、コタローくんとシンタローさんのパパだぁ〜
「10円キズつけちゃえ〜」
 この二匹は、珍しいものには10円玉で悪戯しなければ、気が済まないというヤンチャなコンビでもある。
 マジックはにこにこ笑っている。
 『はは、10円じゃ私にキズはつかないよ せめて10000円札で』等と訳のわからないことを言っていたが、そんな口上を聞くよりも、コタローは、ハッと気付いたことがあった。
 もしかして、僕、友達をパパに紹介しなきゃいけないんだろうか。
 そんな気がする。きっと、そうだ。でも、どうやってしたらいいんだろう?
 突然の出来事に、コタローの胸は波打ちだしてしまう。
 えっと、紹介。紹介――
「あの、えっと……」
「エグチくんとナカムラくんだよね」
 コタローは、側に立つマジックを見上げた。なんだ、パパは知ってたんだ、と思った。
 そういえば。この二匹は、前のパプワ島から、兄シンタローの友達であったのだ。その事実に気付くと、氷に首筋を撫でられたような気持ちになった。
 そうだよ。僕なんかが紹介するまでもなくって、パパはお兄ちゃんの友達は、みんな知ってるんだ。



 しかし睫を伏せたコタローに、こんな声が聞こえてきたのである。
「あらためて。マジックといいます。ここにいるコタローの父です、どうぞよろしく」
「……!」
 聞いたことのない台詞に、コタローの胸が、不意に熱くなった。
 鼻の奥が、どうしてか、つんとした。
「わーい ごあいさつ、されちゃったー」
「よろしくだってー」
「息子がお世話になりまして」
 コタローは、はじめて見る光景に、目を丸くした。目の前で、マジックが頭を下げている。自分のために。きっとこれはただの社交辞令だったり、大人としての挨拶なのだろうけれど。でも。でも――
 ――パパ。
「これからはコタローと、私の他に、シンタローもお世話になりますので、よろしく」
「やったー シンタローさんもいるんだー
「あとで遊びに行くねー よかったねー、コタローくん
 よかったね、と言われて、コタローの口元にまた笑顔が戻った。
「う、うん! お菓子もいっぱいあるから、遊びにきてよ!」



 茂み近くに落ちていたハリセンボンを拾い、チャッピーと一緒にリフティングしていたパプワが、二匹に聞いた。
「エグチくんとナカムラくんは、今、何してたんだ?」
「わう?」
 ポーン、と器用に蹴られたボール代わりの魚を、これまた器用にヘディングで返しながら、カンガルーネズミが元気に答える。
「あのねー、ぼくたち、ビーチバレーの練習してたの」
「こんど、防衛戦やるんだよ
「防衛戦?」
 マジックが首を傾げた。言葉の意味がわからないらしい。
 コタローは、とっさに声を出そうとしたが、もしかしたらパプワが事情を説明してくれるのではないかと思い直し、喉元まで出かかった声を、ごくりと飲み込んでしまう。
 そしてパプワの方を見た。だが仲のいい少年は、『ほう、ここで練習してるんだな!』と感心しながら、茂みの向こうの木々に張られた、ネット代わりの草木の蔓を検分している。
 そうか、ちゃんといつも練習しているから、この二匹はバレーが得意なんだ、と頭の隅で考えながらも、コタローは焦る。
 何だか、タイミングがおかしくなってしまった。父親に説明をするべき人間は自分しかいないのだと思えば、また変に緊張してくるのである。汗まで出てくる。
 僕が、パパに説明するんだ。僕が。早くしないと、パパが変に思うよ。エグチくんとナカムラくんだって、沈黙してたら、きっと変に思う。
 パパと僕とが、仲良くないのかなって、変に思う。
 コタローは勇気の力を腹に込めて、飲み込んだ言葉をもう一度、唇に乗せる。
「……あのねっ、エグチくんとナカムラくんはね、この前のビーチバレー大会で、優勝したんだよっ」
 たったこれだけのことを言うのに、コタローは気後れしてしまっていたのである。そんな自分が、馬鹿みたいだと思った。
 同時に、こんなに簡単なことだったのかと思った。
 マジックは、コタローの間合いのずれに気付かなかったのか、普通に返事をしている。
「へえ、それは凄いなあ、君たち」
 褒められて、カンガルーネズミとアライグマの胸きゅんアニマルコンビは、得意そうに胸を張って、飛び跳ねだした。
「ぼくたち、強いんだよー
「決勝戦は、リキッドさんたちに勝ったのー
 いつかの男潮ビーチバレーボール大会のことなのである。優勝商品のクボタくんの卵一年分は、もちろんこの小動物二匹では食べきることができなくて、リキッドが島みんなのために料理した。
 マジックは、こんな小さな動物たちが、と本気で感心しているらしく、何度も頷いている。
「それはますます凄いねえ。コタローは参加しなかったのかい?」
「えっ」
 パパは動物が本当に好きなんだな、なんて考えていたコタローは、急に聞かれて、戸惑った。
「あの、えと……う、うん……出なかった」
 そう答えてからコタローは、あんな暑苦しい男だらけの命がけの死闘になんかに加わりたいと思ったことは、今まで一度もなかったのだけれど、なんだかそのことが残念なことのような気がして、肩を落とした。
 あの時、パパに褒められるようなこと、僕は何もしてないや。



 するとカンガルーネズミが、可愛い声をあげた。
「でもねー、雛キング杯は、コタローくんが優勝したんだよー
 アライグマも、声を合わせた。
「だよねー おひな様ー ぼくたち、おひな命令のお手伝い、したんだよー」
 マジックは再び首を傾げている。またパプワ島の専門用語だ。
「雛キング?」
「えっとね、それは……!」
 今度は迷いなく、コタローの口から言葉が飛び出てきた。自分でもびっくりした。
「大きい雛壇があってねっ、色んな障害物を越えて、一番先に頂上まで登った人が、おひな様になれるって行事なんだよ!」
 小動物たちも援護してくれる。
「ひな祭りの行事だよー
「コタローくん、凄かったよねー
 ああ、ひな祭りに障害物競走みたいのをやったのかなと、マジックは何とか了解したらしい。それはそうだろう。実物を見るまでは、普通はあんな過酷なイベントは想像がつかないはずだ。
 ともかくも頷いたマジックは、視線を下げた。動物たちの方ではなく、傍らのコタローの方にである。コタローは見つめられて、肩をビクッと震わせた。
 言葉が落ちてくる。
「凄いね、コタロー。優勝するなんて」
「……う、うん……」
「頑張ったんだ」
「ん……えっと……それほどでも、ない……」
 コタローの頬が、さっと赤く染まった。
 胸に手を当てて、考える。なんだろう、この気持ち。



 コタローの感覚では、それほどでもない、というのは本音である。
 なぜなら自分は途中までは頑張って雛壇を登ったものの、最後はなぜか甘酒に酔っ払ってしまって、目覚めた時はパプワハウスで毛布の中にいた。コタローは考える。
 起きたら、僕が優勝したんだって教えてもらって……ええと、それから。ご褒美だって、家政夫が、オヤツ作ってくれたんだ。
 起きた後に食べた、桜餅の甘さが舌に蘇り、コタローは、ふふ、と笑った。
 でも、とっても嬉しかったんだっけ。
 思わず笑ってしまってから、すぐ目の前にマジックがいるのだと、ハッとして、コタローは俯いていた顔を上げた。
 そして、またビクッと肩を震わせた。父親は、自分を見て微笑んでいたのだ。
「楽しかったんだね」
 彼は言った。静かな低音だった。
 その声が耳に触れた瞬間、コタローは息を止める。止めたまま、何か考えようとして、考えることができなくて、ただ視界だけが今見た光景を焼きつかせたままで、もしかしてこれが、頭が真っ白になるということかと気付いた。
 それからしばらく、コタローは可愛らしい友達と会話をかわしたり、飛んできたボールを受け止めたり、少し走ったり、笑ったりしたのだけれど、その間も頭は真っ白のままだった。
「またねー
「バイバーイ
 手を振るカンガルーネズミとアライグマを後残して歩き出した頃に、コタローはやっと自分の心臓の音が聞こえるようになった。血が通っていることを確かめるために、腕を回したり、振ったりしてみる。左手を握ったり、閉じたりする。



 目の前の道が分かれた。
 パプワが勢いよく日の丸扇子を掲げ、声を上げた。
「コタロー! 次はどこに行くんだ?」
「えっ、僕が決めるの?」
「オマエが案内するんだからな!」
 コタローは迷った。自分の行きたい所ってどこだろう。行きたい所。
 ――パパを、案内したい所。
 考えた末に、コタローは指をさした。
「じゃあ、こっち!」
 やがて一行の辿り着いた場所は、森の奥深く、高くそびえるクヌギの木の密生地帯だった。
 ヒグラシ森、である。



 本格的な夏を目前にし、ヒグラシ森はやがて来る賑やかな宴への予感に満ちていた。茂る葉は青々として、前奏曲をかなでるように、あちこちで虫が鳴いている。
 空気は澄みきって、静かな輝きを湛えていた。
「ああ、いいところだね」
 マジックの声が聞こえて、見れば彼は両手を広げて、深呼吸をしている。
 なんだかコタローは、家を出てくる前に兄が口にした『浄化されてこい』という台詞を思い出して、おかしくなった。
 おかしくなって、元気が出た。だから、少し大きな声を出してみる。
「あのね、パパ」
 マジックが振り向き、こちらを見た。やっぱり条件反射的に緊張してしまったコタローだったが、今度は怯えなかった。大丈夫だ、と思った。大丈夫。大丈夫。もう、大丈夫。
「あのね、去年の夏にね、ここでセミ取りしたんだよ! ね、パプワくん」
「ああ! でっかいアブラゼミをとったぞ!」
「わう! わうわう!」
 説明してくれる子供たちに、大人はまた、へえ、と頷いた。興味を持ってくれているようだ。勢いづいたコタローは、身振り手振りで、どんなにそのセミが大きかったかを伝えようとする。
「普通のセミじゃないんだよ。えっとね、こーんなにでっかいの! 多分パパは見たことないよっ。こーんな! こーんな!」
「結局、でっかすぎて、標本にできずに逃がしたんだったな!」
「わーう」
「はは、それは凄いな。見てみたかった」
 マジックは、大木に手をついた。彼は背が高かったから、その手は、コタローが精一杯にジャンプしたって届かない枝の分かれ目に触れていて、コタローは、パパってあんな所まで手が届くんだと思った。
 灰褐色の樹皮が、パラパラと落ちてくる。マジックの手がコタローとパプワ、チャッピーの前に下りてきて、開いた。
 その手には、乾いてふくらんだ雌花が一つ、入っていた。枝から零れ落ちたものらしい。
「秋になったら、これが育って、ドングリになるんじゃないかな」
 マジックの言葉に、パプワが答える。
「その通り! 秋にはここはドングリの森になるぞ!」
「わーう
 コタローは、マジックから渡してもらった、実になる前の雌花を、左手で握った。固いような柔らかいような、不思議な感触がする。



 マジックの声が聞こえる。
「今年の夏が楽しみだ。またその大きなセミをとって、私に見せてよ。いや、一緒に来よう」
 今年の夏。胸奥に入り込んできた台詞は、ひどく新鮮だった。
 一緒に。その言葉たちをコタローは、心で噛み締める。その意味を感じ取る。
 そうだ、僕はこれから、ずっとパパと一緒にいるんだ。ずっと、ずっと。
 去年は一緒にいられなかったけれど。その前の4年間も。その前の――年月も。
 これからは一緒にいるんだよね。一緒にいて、いいんだよね。そう思いながら、またぎゅっと雌花を握り締める。口を開いた。
「あっ……あ……」
 コタローは言った。
「あ、秋もね! 秋も、ドングリとりに来ようよ!」
 ずっとパパと一緒にいるなんて。考えたことなかったから。新しいことばかりで、僕は戸惑ってばかりで。緊張してばかりだよ。
 でもいつかきっと。ドングリの実がふくらむみたいに、ゆっくりゆっくり時間をかけて、パパと仲良くなることができたら。
「いいね。夏も秋もね。今度はみんなで、また来よう」
「うん!」
 できたら、いいのに。



 迎えがそれまで来なかったらだけれどね、とマジックは言って、またクヌギの木に指を伸ばし、縦に亀裂の入っている樹皮に触れている。爪先で軽くひっかいていた。
 『今頃は、ハーレムやキンタロー、グンマ……団員たちは、大変だろうな』等と言いながら、それでも信頼しているのか、さほど深刻な様子は見せずに、薄い灰色のかけらを、そっとめくった。
 なんでもない仕草をしている彼。記憶の中の、赤い軍服を着た彼より、ずっと自然な所作に見える。その横顔を眺めて、コタローは思う。
 今、パパは優しい顔をしている。
 僕が見てきた冷たい顔。怖い顔。厳しい顔。
 どのパパが、本当のパパなんだろうか。
 この穏やかなパパが本当のパパなら、僕は何を知り、何を知らないのだろうか。
 彼自身が冷たいのか、それとも何かが彼を冷たくさせるのか。
 まだ僕は、パパのことも、一族のことも――そして自分のことも。何も知らない。



 一行はヒグラシ森を抜け、歩く。
 コタローは時々駆けた。チャッピーがそれを追った。でもすぐに立ち止まって、道端に咲いている花に触れてみたりする。花の匂いを嗅ぐ振りをしながら、コタローは背後に目を遣って、友達のパプワと、その後に父親がついて来ているのを何度も確かめた。
 道はなだらかな傾斜にさしかかり、走れば速度がついて、止まるのに一苦労を要した。それでもなぜか、コタローは駆けたくて仕方がなかった。普通に歩けばいいのだけれど、それができない。
 走りすぎたと気付いてまた立ち止まり、コタローは今度は座り込んだ。チャッピーがじゃれついてきて、背中から草の中に転がってみれば、やがて足音が地面を伝わって聞こえてくる。
 また走り出したくなったが、そういう訳にもいかないので、今度は声を出してみた。
「こっちだよ、こっち!」
「ハッハッハ、そう急ぐな、コタロー!」
「わう!」
 パプワが言い、チャッピーが相槌を打つ。
 マジックは何も言わなかったけれど、高い位置にある金色の頭は、ちゃんとコタローについてきてくれていた。
 座った位置から眺める彼の足元は、軍人らしく規則正しく動き、正確な歩幅を刻んでいて、コタローは、ああ、パパの歩き方だ、と思った。
 この歩き方はよく知っている。普段の何気ない動作などは知らないのに、歩き方ばかりを自分はよく知っている。
 幼い頃は、マジックは仕事から深夜に戻ってくるか、遠征に出かけてばかりで、コタローは毛布の中でうとうとしながら、この足音を聞いていた。
 一人の部屋で過ごすようになってからは――彼の足音だけが、夢と現実とを隔てる境目だった――。



 坂を一気に下ったコタローの視界が、左右に大きく開ける。
 美しい湖が目の前に広がっていた。思わず自分の両手も広げて、コタローは叫ぶ。
「ホシウミ湖だよっ!」
 豊かな水を湛えた透明度の高いこの湖は、いつもは霧に包まれていることも多いのだが、今日はすっきりと晴れ、鏡のような水面が訪問者の姿を浮かべていた。
「おお! 異世界の空が映って、綺麗だな!」
「わうわう!」
 これも走ってきたらしいパプワとチャッピーが、感嘆の声をあげる。
 異界に突入した空を彩る、金銀に輝く星座たちが、湖の水面に映っている。
 青白い星、橙の星、ほの赤い星、様々に色づいた星は、まるで祭の日の灯のようだ。散りばめられた白銀は、宇宙が呼吸をするのと同じリズムで煌々と世界を揺らした。
 見上げても見下ろしても、輝きの海。
 光景はどこか荘厳ささえ帯びていて、コタローは我知らず立ち尽くしてしまう。湖面を這って流れる、ひんやりとした風が頬を打ち、ぴりぴりと肌が痺れる。
「……これは凄い」
 背後から声が聞こえて、コタローの背筋がぴんと伸びた。
 その瞬間、肩に重みを感じた。なんだろう、この感触。不思議に感じたコタローだったが、振り向くことができなかった。
 なんだろう、なんだろう、と心で自問するものの、本当はわかっている。
 振り向いて、もし予想が外れていたら悲しいから、振り向かないままでいる。
 コタローは胸の奥で、脆い心が崩れ落ちないように、そっと思った。
 僕の肩に置かれているもの。
 ――パパの手。



 敵国の攻撃で艦が破壊され、落ちた僕の体は、この手に抱きとめられた。
 あれは、何だったのか。夢だったのか。
 今までを思えば夢としか感じられずに、散歩をしている間中は、コタローはあの出来事を深く考える前に、心の奥へとしまいこんでいたのだけれど。
 こうして現実の手に触れれば、あれは真実であったのだと静かに思う。
 この手が、僕の命を助けもし、僕を閉じ込めもした。
 僕を救う手。僕を奪う手。いつも裏表。手の平を返せば、すべてが変わる。
 何を信じればいいのだろう。
 何を? パパを……というより、僕自身を……?
 信じることが、できるのか。



 ――って。
「人が物思いに浸ってる時に、オマエは何してるんだよ」
「……星になりたい……」
 肩からのマジックの手の感触とは別に、嫌な生温かい感触が、コタローの足の上から伝わってくる。
 いつの間にかコタローの足を枕にして、脱力したオヤジ体型のフクロネズミ目な哺乳類が、ぐでっとして横たわっているのである。
「おお! ウォンバットのヤマギシくん!」
 パプワの声にもウォンバットは目すら開けずに、ぼそぼそと呟いた。
「……緑の液体……」
 激しく嫌な予感に襲われて、コタローは思いっきり眉をひそめて、湖の縁を見た。



「叩くぜ! 叩くぜ――! 今日も俺のビートを熱く刻むぜッ!」
「♪夢の中へ 夢の中へ 行ってみたいと思いませんか ニャッニャッニャ〜」
 これもいつの間にか、切り株をドラムに見立てたラッコのビートに合わせて、のっぺりしたキノコが、熱唱しているのである。
 そうか、ホシウミ湖には、この連中がいる可能性が高かったんだっけ、とコタローはげっそりした。
 せっかくの綺麗な世界が、台無しである。
 せっかく――パパに、綺麗な風景見せようと思ったのに。台無しだよ!
 コモロはそんなコタローの思いを無視し、図々しく近寄ってきて、三白眼でさしまねいている。
「まあ飲めよ。高級薬膳キノコスープニャ〜」
 明らかにあのウォンバットは、この汁を飲んでヤられたのだなと、コタローは思った。
 汗を拭き拭き、オショウダニも妙に友好的な笑みを浮かべて、
「これはこれはお父様ですかな。よろしかったらお父様も一口。幻覚を楽しみたい時におすすめです」
 などと、マジックに向かってセールストークを口にしている。
 彼らの示す先では、異様な匂いが立ち込めている。
 巨大な鍋の中で、気味の悪い緑色の液体が、ぐつぐつと煮えている。コモロの煮出し汁である。
「さ〜てと、歌ってイイ汗かいたことだし、もう一煮出しするかニャ〜」
 再びスープに肩までつかったコモロだが、この憎らしい顔をしたキノコ野郎は、不意に何かを思いついたようだ。
 ざばりと自称スープから出て、鍋の下に提示してあった値札の右隅に、いそいそとゼロを書き足し始めた。
 『一口 10,500円』が、『一口 10,50000円』に跳ね上がっている。
「いつものガキはともかく、新顔のオッサンからは、金の匂いがするニャ〜。絞り取るニャ〜」



 マジックは礼を失わない程度に、口元に社交辞令的な微笑みを浮かべながら、にこやかに言った。
「はは。なんだい、これ。突撃☆地獄の朝ごはん?」
「よかったー パパ的にもこいつらは微妙なんだね」
 安心したコタローだが、
「失敬ニャ〜」
 キノコが心外だという面持ちで、抗議しているのを見て、チッと舌打ちをした。
 オショウダニが、そんな彼を弁護し始める。このラッコの演説は、始まると長い。コタローはますます、うんざりしてくる。
「コモロくんはキノコ界一のジェントルマンなのですぞ! したがって、煮出しスープも特上!」
「だまれ、太鼓の皮にするぞ、ラッコ」
「オショウダニ、スウィング!」
 嫌な決め台詞と共に、二本のスティックが飛んできて、コタローの額を直撃した。
 父親の面前、抑えていたコタローの苛立ちが、ついに爆発する。
「こーのーォ! ラッコがぁ――――ッ!」



「コタロー、ケンカはやめておきなさい」
 すると、マジックが父親らしく諌めてきた。少し嬉しく思いつつも、しかしコタローは拳を固めて主張する。ここは譲れない一線である。
「だって、パパ! こいつらムカつくんだもん!」
「そうかい。それじゃ仕方ない」
 あっさりとそう言ったマジックは、
「ああ、それならいいものがあるよ、コタロー。その巨大キノコは、見るからにポイズン胞子を振りまきそうな悪寒がするから」
 ごそごそとポケットから、何かを取り出している。
 はい、と目の前に差し出されたものに、コタローは自分の目を疑った。四角い布の両端に、紐。白地に、大きく見慣れた顔がプリントされている。見慣れたというより、すぐそこにある顔。
 その顔で、マジックは爽やかに言った。
「私のファンクラブの新グッズ、マジカルマスクさ。防塵・防毒・抗ウイルス機能つき。ケンカするなら、これをつけてからやるといい」
「うわあ、パパって凄いや! 僕、一気にケンカなんてしたくなくなったよ!」





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