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 異世界の空は時間の感覚が狂ってしまう。夜空のように輝く空間が、常に二人を包んでいるからだ。
 だが、頬に触れる風が時を教えてくれる。夕方と夜の狭間をすべる、透き通る風が、光の輪を優しく通り過ぎていく。光は静かに点滅し、ゆっくりと上昇を続けていく。
 コタローは、ふっと笑った。幻想的な物語の登場人物になったという気がした。例えばこれから星の神に会いに行くとか。竜を倒しにいくとか。そんな空想を描いた絵本の中に、自分は入り込んでしまったみたいだ。
 だが怖くはない。一人きりではないからだ。手をつなぎ、側にいる人と一緒にだ。一緒に現実離れした世界にある。
 彼が自分の側だけにいるなんて、信じられるだろうか。
 コタローが感じているものは、風の他には右手に触れる風船の紐だ。そして左手に触れる父親の手。
 大きくて冷たい手。
 触れる度に、コタローはその手が意外にやわらかいのだと感じて、不思議になる。彼の手は繊細だと思う。数多の人々の夢や希望を押し潰してきたはずの手であるのに、どうしてなのだろう。
 その手に自分が触れていることも。今、自分の体がマジックの側にあることも。
 ――すべてが不思議。
 こんなこと、信じられるだろうか。
 僕はパパと一緒に、空を飛んでる。



 夢を見ているようだ、とコタローは思った。だがこの夢は、覚めても覚めても、すぐに次の夢が立ちふさがる。
 僕は夢を見ているのか。第二のパプワ島に着た時から、ずっと。
 いや……もしかすると最初のパプワ島に着た時から? もっと前から?
 やはり自分は怖いのかもしれないと思いなおす。怖い。とても怖い。楽しいということは、怖いということなのだ。幸福の裏側には常に恐怖が控えているということを、コタローはすでに知っている。
 幸せだと感じれば、すぐにそれが裏返される予感に怯えている。
 僕は――幸せの夢の泡がはじけた瞬間、一人きりの部屋で背を丸めている幼い自分に戻ってしまっているのではないだろうか?
 ぶんぶんとコタローは金髪を振って、悪い考えを振り切ろうとした。
 いけない。現在を大切にしようと心に決めたはずなのに、僕はすぐに沈み込む。今は。今は浮かび上がることを。飛ぶことだけを大事にするんだ。
 だって僕は今、空を飛んでいるんだよ。パパと。そう、パパと飛んでいるんだ。
 パプワくんとチャッピーが、手を振って見送ってくれたんだ。
 コタローは手に力を込めた。するとマジックがまた同じくらいの力で握り返してくれたのがわかった。相手の指を感じた。
 マジックも、コタローの指を感じてくれているのだろうか。



 二人の身体は上昇を続け、やがて雲のかけらが周囲を舞い始める。
 ふわりふわりと漂う白い雲は、コタローの感覚では早起きをした時の朝の霧に似ていて、思いっきり吹いた時のタンポポの綿毛に似ていて、しかしさらに上方へと進んで雲が濃くなればそれは雪に似ていると思う。
 雪。天空を見上げれば、雲の隙間からのぞく異次元の空は妖しくきらめいていて、あでやかに装飾された夜を思わせる。雪の夜。飾られた雪の夜。
 ――やっぱり、クリスマスの夜みたいだ。
 コタローは目をつむった。瞼の裏に映像が描き出されていく。記憶が蘇っていく。
 雪の降る夜。
 昔……ちっちゃい頃。いつの頃だかわからないけれど、とにかく、僕が、ちっちゃい頃。
 僕の誕生日にも、窓の外で雪が降ってたんだ。
 パパはその日、お仕事で帰ってくることができないって連絡があって、僕はお兄ちゃんと二人きりだった。部屋のテーブルの上には、小さなケーキ。小さな取り皿。脇によけられた溶けたロウソク。
 お兄ちゃんがずっと僕を抱っこしてくれていた。そして二人で、窓の外をずっと見ていたんだっけ。
 雪のかけらが舞っていた。かけらは積み重なって、景色の輪郭を白く化粧して、雪景色に変えていく。
 モノクロの世界。しんしんと雪が降り積もり、パパは帰ってこない。静かな世界の記憶。
 誕生日のその日には、もっと楽しいことはあったはずだろうに、何故かその光景だけが、コタローの心の底からは浮かび上がってくるのだ。いつも、いつも。まるでそればかりが想いのすべてであったかのように。
 楽しいことは、パプワ島に来る前にだって、僕にはそれなりにあったんだ。あったのだと思うよ。
 でも思い出すことができるのは、心の縁が震えるような出来事ばかり。
 ぽっかりと心に穴が開いていて……その穴から覗くパパの姿は、とても、遠くて……。
 僕はパパを呼ぶことすらできない。呼んではいけないような気がしている。僕は声を出さずに、いつも自分でも知らないような心の奥から、パパに気付いてほしいとずっと願い続けていた。
 だから、憎くて。パパが憎くて。
 気付いて、パパ。憎まないと、パパは僕に気付いてはくれないんだ。僕が覗いている心の穴を通り過ぎて、僕のことなんて忘れてしまうんだ。
 忘れないでよ、僕のこと、忘れないでよ、パパ。
 僕はパパが憎かった。とても憎かったんだ――



 コタローは目を開ける。まるで今度こそ夢から覚めたように、意識がクリアになった。
 幸せな夢から覚めて、幼い頃の自分に戻ってしまっているのかと不安になり、自分の脚を見て、それから腕を見た。だが自分は、10歳のままだった。
 ああ、と溜息をつくようにコタローは思う。これは夢じゃない。現実なんだ。
 夢の続きだけれど、僕はずっと、パパと手をつなぎ続けている。
 夢じゃない。夢じゃないんだ。これは、ほんとの出来事なんだ。
 心が、すうっと楽になって、落ち着いた。
 二人は雲の層を突き抜けて、静かな空を飛んでいた。空気が澄み切っている。静かだ。とても静かだ。
 遥か向こうに、飴色に輝いた台座が見える。七色を帯びた空に照らし出されて、それは神々しい場所のようにも思えた。
 風の吹きわたる草原のような雲の中に据えられている、地上から伸びる丸い台座だ。
 あの場所に行きたいと、コタローは願った。
「あそこだよ、パパ!」
 コタローは風船を持った腕を突き出して、目的地を知らせる。
 パプワ島で一番高い場所。空に近い場所。願いがかなう場所。
 イッポンダケの天辺だ。
 二人を包む黄金色の輪が、ゆるやかに下降した。
 舞う羽根のようにやわらかに、大人と子供の足が着地した。



 目的地についてからも、二人は手をつないだままだった。
 コタローは迷う。さりげなく手を外した方がいいのだろうか。それともつないだままでもいいのだろうか。相手との距離感がわからない。
 困ってマジックを見上げたコタローは、父親の視線が遠くに向けられていることに気付いた。
 イッポンダケからは、パプワ島全域が見えた。広々とした大地。緑の森や草原、山々の稜線がくっきりと影さして、白く抜けたような砂浜に囲まれている。さらにその外側を海に縁取られて、島は一個の手の込んだ宝石細工のようだ。
 コタローは、自分もマジックと同じ方向に視線を向けてみる。もうその方角には何があるのかは、知りすぎるほどに知っていた。
 山々の向こうには、異界の門が見えるのだった。重厚な扉は巨岩の塊で左右対称に縁取られ、不気味なオーラに繭のように包まれていた。
 遠目ではとても確認することはできないが、開いている方の扉の片側には、青い石がはめ込まれているはずだった。コタローの手が、はめ込んだのだ。
 ――青の一族を支配してきた石――秘石。
 父親と長きにわたって共にあった石。彼を支配してきた石。兄シンタローに奪われて、手放した石。
 今、マジックは何を想っているのか。コタローにはわからない。簡単に尋ねることはできないような気がした。だが何があったのかを知りたいと思う。
 いつか教えてくれるだろうか。青の一族と秘石との間にあった、すべてのことを――
 コタローの視界の中で、マジックの視線は、遠くて見えないはずの秘石を見ているように思えた。
 やがて彼は、つと目を逸らす。そしてコタローの方を見た。
 コタローの青い瞳とマジックの青い瞳が、二人に挟まれた空間で絡み合う。コタローの金色の睫とマジックの金色の睫が同じ動きをする。
 見詰め合うためには、コタローの顎は見上げるために少し上向きになって、マジックの顎は見下ろすために少し引き気味になる。
「……パパ」
 コタローは言った。自分の言葉が静寂の中で予想外に大きく響いたので、驚いた。足がすくんだ。助けを求めるように、コタローは周囲を見回してみる。
 自分たちの他には、人はいなかった。しかし島があった。島。僕の大好きな島。大好きな友達が大勢住む島。
 島が、僕の後ろで見ていてくれる。
 そう思うと、勇気が出た。島に励まされて、コタローは父親と話を続けることができた。
「僕は、この島が大好きなんだ」
 自分の声が、こんなに力強く響いたことが、これまでにあっただろうか。しかも彼を前にして。記憶喪失でいる間も、脳裏に焼きついて離れなかった人を前にして、僕がこんなに強くあれたことがあっただろうか。
「大好きなんだ。パプワくんもチャッピーも、家政夫も、友達も、みんな、みんな」
 みんなが、僕に勇気をくれる。この島に流れ着いてから1年の間、僕はワガママだらけで、いっぱいいっぱい迷惑をかけたよ。それでも島のみんなは、僕をあたたかく包んでくれた。
 昔、あんな酷いことをした僕なのに。島を破壊しようとしたんだ。みんなを憎くてたまらないと感じていた僕なのに。
 でもみんなは僕を許してくれた。許して、友達だよって言ってくれたんだ。みんな一緒に死んじゃえばいいと思っていた、この僕に。
「大好きなんだ」
 みんなの優しさに対して、何もお返しをすることができない僕だけど。
 せめて、本当の気持ちを伝えたい。この人に。
 本当の気持ちを口にすることができる子になれたということを、伝えたい。
 かつてひどく憎んでいると、自分が信じていた人に。
「そのことをパパに、伝えたくって」



 雲の上のイッポンダケの台座は、涼やかな空気に満ちている。輝く空に一番近い場所。美しい島を視界で抱きしめることができる場所。ここは空と島とを一緒に手に入れることができる場所なのだ。
「……コタロー」
 その場所で、マジックがはじめて口を開き、コタローの名を読んだ。
 コタローはまた動揺した。その声が、とても優しく聞こえたのだ。低い声音は、穏やかだった。
 なぜか焦って、彼を見上げながら返事をする。
「なっ、なに!」
 マジックが言った。コタローと同じ色の髪と、瞳が揺れた。
「ありがとう」
 二人は、手をつないだまま、再び視線を絡ませる。



「私もお前に伝えることがあるよ」
 見上げるコタローの視界の中、静かな風にマジックの前髪が吹かれて、揺れていた。
 最初のパプワ島で気を失って以来、4年の間というものコタローは眠り続けていたから、こうして見るマジックの姿が新鮮に思えた。彼は以前と違って前髪を下ろし、後ろ髪もラフに伸ばしているらしい。
 もしかすると、やわらかい印象を作ろうと父親なりに考えた結果なのだろうかと、ぼんやりコタローは思いながら、彼の声を聞いている。あとでお兄ちゃんに聞いてみようか。
「……この島で、初めてお前が、こんな風に笑うのを見た」
 そう言われて、コタローは思わず自分の頬に指で触れた。そんなに自分は笑っていただろうか。そしてそれを、彼に見られていたのだろうか。
 マジックがまた優しく言った。
「素敵な友達ができたんだね」
「う、うん!」
 今度はコタローは自信を持って頷いた。友達の存在が一番、コタローの中で確かであることだった。言い切ることができる。誇ることができることだと思った。
 そしてまた、先刻見送ってくれたパプワとチャッピーの顔を思い浮かべたから、次にマジックが発した言葉に反応するのが遅れた。いや、なんにしろ反応することは難しかったかもしれないのだが。
「私の前ではお前は……いつも悲しい顔をしていた。いや、私が悲しい顔をさせてばかりいた」
「……!」
 何と返せばいいのかわからず、コタローは相手の顔を見つめた。
 自分と同じ色をした青い瞳は、さっき見た湖の底のような深い光を湛えていた。



「お前は最初からとても優しいいい子だったんだ」
 コタローは目を伏せた。目を伏せていれば、父親の声は、目と同じ深みがかった青色を帯びているように思えた。声が深い。
「いい子だったのに、私はそれを信じることができなかった。あんなに小さかったお前だのに、私が一緒にいて……とにかく一人きりにせずに、私が一緒にいる道を選択していれば、お前は寂しい思いをすることはなかったのだ」
 コタローの目の前が翳った。前を見ると、マジックが近付いていた。
 マジックは腰を落とし、膝をついた。コタローの肩に手を触れてくる。コタローは小さく呟いた。自分の声も湖の色に濡れていると思った。
「……パパ」
 視線が同じ高さで合う。コタローは近くから相手の目を覗き込んだ。鋭い目。しかしそこには嘘はなかった。彼は真剣な瞳をしていた。
「私がすべてを誤らせたのだ」
 思えば、マジックはコタローに嘘をついたことはなかったように思える。いつでも本当のことをその目は告げていた。
 あの時も――自分は危険だと、告げた時も――
 それがいいことなのか悪いことなのかはコタローにはわからなかったが、とかくこの人は、残酷であろうとコタローにいつも事実ばかりを話す。
 コタローは知らない。真実ばかりを告げられること、嘘ばかりを告げられること。一体どちらが愛情深い行為だとされるのだろうか。
「結果として、私は何もお前に与えることはできなかった。奪うばかりで、何も」
 言葉は続く。
「この島や、この島に住む友達が、私がお前にしてやれなかったことを、代わりにしてくれたんだね。私は父親失格だ」
 びっくりして、コタローは目を見開いた。肩にかけられた手の重みを感じた。
 マジックが頭を下げていた。
「すまなかった」
「パパ……」



 コタローの鼻の奥が、つんとして、思わず首を振る。不思議な気持ちがした。
 父親はまだ頭を下げていて、コタローはどう答えを返したらいいものかがわからない。ただ、その滅多に届くことのない金髪に、そっと指で触れてみた。だってすぐ側にあるのだ。
 ……やっぱり不思議だ。自分の髪に触れたのと同じ感触がする。
 コタローはもう一度、首を振った。すると目の端に、イッポンダケの下方に広がる雲の海が見えた。
 そうだ、ここは雲の上。雲の上で僕は今、パパと二人きり。信じられないよ。
 それに目の前で、パパが。僕に向かって、こんなことを――信じられない――
 不思議な気持ちがする。胸が痛い。こんな気持ちを、何と言うのだろう? 僕は今……何を感じているのだろうか。
 ふっとコタローは再度、思い出の中に沈んでいった。



 また雲からの連想だろうか、雪の日が瞼の裏に浮かんでくる。
 今度は違う雪の日の記憶だろうか。視界は純白だった。
 するとその純白が、青く輝いた。白地に青いセロファン紙を重ねて波打たせたようだった。セロファンは溶けて、すぐにまた元の白地に戻る。
 ぽとり、と赤い液体が滴った。雫は落ちて、円状に弾けて広がった。次々に赤は弾け、純白に赤い模様を描いていく。
 その様を、面白いな、と感じたことは覚えている。
 先刻見たろうそくの炎のように揺らめく模様。単純に興味をひかれたのだ。
 青と赤の繰り返しだった。青を感じるたびに、赤色に世界は塗りつぶされていく。
 小さな自分が、青い瞳に念じれば、赤は弾けてどんどんと鮮やかにうねり、溢れ出して行く。
「……?」
 コタローは違和感に胸を抑えた。誰かの悲鳴が聞こえる。何かがおかしい。
 この映像は、今までのフラッシュバックとは質が違うように思えた。



 直感した。
 この記憶は、今までにフラッシュバックした記憶に続くものであると。
 コタローは感じている。僕はこの記憶を知っている。馴染みのある触感。閉じ込められていた僕が、逆に自分の中に閉じ込めていた最後の記憶。
 記憶喪失から蘇っても、忘れたふりをして思い出すことを拒み続けていた記憶。
 その最後の記憶が今、蘇ろうとしているのだ。コタローの心の封印そのものである、マジックの声を引き金にして――
 いけない、思い出してはいけない、とコタローの内なる声が言っていた。だが止まらなかった。ブレーキの壊れた自転車のように、コタローの心は坂道を転がり落ちていく。
 これは僕が思い出し続けていた、赤と青の繰り返しの記憶。あの記憶たちの先には――
 記憶の中でコタローは目を凝らした。ちら、ちらと揺らめくものが視界に入ったのだ。
 赤い……赤い炎? いや、これは軍服の赤色だろうか。いや、違う。なぜ僕は記憶喪失の間も、パパの赤い軍服を見て暴走していたのだろうか。言われたことがショックだったから?
 いや、それもあるけれど、それだけではない。違う……もっと深い封印された記憶の呼び水になるからだ……。
 いつもいつも……幼い頃の暴走の果てにあった、閉ざされた記憶。心の一番奥に詰め込んで、決して蘇らないようにと努めていた記憶……。
 そう自覚した瞬間、
「……ッ!」
 コタローは息を飲んだ。
 不意に生々しい現実が押し寄せてくる。狂った熱を帯びた現実の羽ばたきを、コタローは見た。
 目の前には、砕け散った人間のかけらが散乱していた。
 赤は血の色だった。



 青は悪魔の力の色で、赤はその青にもたらされた罪悪の結果だった。
 コタローが戯れに使った青い光の後には、いつも赤があった。
「ぐっ……」
 突如としてコタローは、猛烈な吐き気に襲われた。込み上げてくる異物感。
 コタローは胸を折り曲げ、膝を突いて、嘔吐した。胃の底から苦い粘液と、透明な液体が入り混じったものが込み上げてくる。
 咳き込んだ。喉が痛くなるほどにむせて、胸を上下させた。
 頭が痛い。髪をかきむしる。
「どうしたんだ、コタロー!」
 声が聞こえる、とコタローは思った。また、遠くからだ。わんわんと耳鳴りの向こうから、声が聞こえる。
 変だ、僕は一体どうしたんだろう。ここはどこ。どうして僕は、また一人きりでいるの。
 真っ赤な血の海の中に、どうして一人でいるの。他の人はどうしてみんな死んでしまったの。もう息をしていないよ。
 嫌だ。嫌だよ。
 一人ぼっちは嫌だ……嫌だよ……!
 その時、コタローの真っ赤な視界の中、鮮血の海のただ中に、手が現れた。
 あの手だ、とコタローは直感的に思った。あの手だ。僕を奪う手。閉じ込める手。
 そうだ、思い出した。コタローは喉の奥からひきつれた悲鳴をあげる。
 赤い血と青い光の交錯する呪われた記憶の世界で、最後に僕をつかんだものは、この手だった。
 幼かった僕は、よく青の力を暴走させて、周りにいた人間を玩具のように殺した。物も壊した。
 赤と青の闇の世界は、幻覚ではなくて、僕の過去にあった出来事の記憶。
 あの時も赤と青の繰り返しの中で、パパは血塗れになった一人ぼっちの僕に、手を差し伸べた。僕を連れ出した。連れ出される瞬間だけは、僕は寂しくなかった。でも、すぐに。パパは。
 僕を一人きりの部屋に閉じ込めて、最後に言った。
『お前は危険なんだよ』



「あ……あ、あ……」
 大粒の涙がコタローの両眼から流れ落ち、あとからあとから滴り落ちる。
 僕は昔から一人ぼっちは嫌だった。だってみんな、すぐに死ぬんだもの。僕がちょっと力を込めれば、呆気なく、人は壊れる。遊んだら、すぐに動かなくなる。
 お兄ちゃんは壊さなかったけれど、それも時間の問題だった。
 僕は、一人ぼっちが嫌いなんだ。すぐに人を殺してしまうから。
 ――僕は、僕は。
 ――だから閉じ込められたんだ。
 細い両肩が震える。耳の近くの動脈がドクドクと鐘が打ち鳴らされるように震えている。
 うるさい。血の流れる音は、こんなにもうるさい。動脈だって静脈だって、僕の血はみんな青い。そして流す他人の血は、赤い。赤い、赤い、赤い……!
「コタロー!」
「あっ、ああっ……!」
「まさか……思い出したのか」
 声が遠く遠くなる。遠い声の持つ意味がわからない。
 幻覚と現実とを隔てる境の、耳鳴りは蝉の声のようにも聞こえて、あのヒグラシ森でのできごとが一瞬で走馬灯のように脳裏に浮かび、夏になったらセミを取りに行こう等と父親が言った台詞が、大音量となって鼓膜に響き渡る。
 無理だよ。コタローは思う。僕とパパがセミ取りになんて、無理だよ。だって僕はパパを嫌いだし、パパも僕が嫌いなんだもの。
 僕がパパに興味を持っていたのは、パパが簡単には壊れないと本能的に知っていたからで、それ以上でもそれ以下でもない。
 パパだって悪人かもしれないけれど、僕だって悪人なんだよ。悪人が悪人と一緒に、仲良くできるもんか。同じ傷をなめあってどうするのさ。
 いつか殺しあうに決まっているさ。
 消えた方がいいんだ。そうだ、だって日本で部屋から出された僕は、シンタローお兄ちゃんだって一度殺したじゃないか。パパを殺そうとしたら、お兄ちゃんが前に出て、パパを庇ったから。
 僕は誰でも殺してしまう、どんな大切な人でもいつか殺してしまう。僕なんて消えた方がいいんだ。
 頭が痛い。割れる……!
「うああああっ――!!!」
「大丈夫。思い出しても、もう大丈夫だから」
「嫌だぁっ!」
 またしてもコタローは、その手を払った。無茶苦茶に叩く。横殴りに打ち、なんとか逃れようとする。
 しかし今度は、その手は、打たれても打たれても引き下がろうとはしないのだった。
「コタロー」
「やめて! あっちに行ってったら……! うわああッ――」
「行かないよ。もうお前を一人にしたりはしない。どこにも行かないで、側にいるよ」
「嫌だッ! パパなんて、パパなんてほんとは僕のこと……! あっちに行け――ッ!!!」
「行かないよ」
 無我夢中のコタローとマジックの応酬が続いた。



 どれだけの時が過ぎたのだろうか。
 ついにコタローの力が弱まり、指が空をきった。
「……ッ……ふっ……」
「……コタロー」
「うう……」
 ばらばらに分裂していたコタローの意識が収縮を始め、不恰好ながらもやがて一つのかたまりに形をなし始める。
 赤と青に塗り込められていた原色の視界が、やがて穏やかな世界へと色を変える。世界が輪郭を取り戻し、静寂が肌の外から染みとおってくる。
 興奮の渦が回転を続けながらも、ゆっくりと速度を緩めていくのがわかって、コタローが最初に気付いたのは、父親に抱きしめられているという事実だった。
 耳の側で声が聞こえた。
「もう、お前を閉じ込めたりはしないから。一人きりにはしないから」



 コタローはぜいぜいと息を荒げて、自分が落ち着くのを待っていた。
 背中をさすられているのがわかった。あの手だった。あの手が、僕の背をさすっている。
 やがて激しい動悸が和らいだ頃、コタローは意を決し、言葉を唇の端から漏らした。掠れていた。
「パパ。パパは……」
 コタローには、どうしても聞いておきたいことがあったのだ。
 ずっとずっと、そのことが気になっていた。喉の奥の小骨のように引っかかって、素直になることができない。素直に相手に身を任すことができない。
 コタローは考えている。僕の不安は、僕自身から沸いてくるんだ、と。
 暴走したい程の自己嫌悪感にとらわれてしまうのは、別にパパが目の前にいるからじゃないんだ。この不安は、パパから沸いてくるものじゃない。
 僕が僕である限り、あの過去を持つ僕として生きようとする限り、絶対的に引きずり続ける、重い影なんだ。
 僕の中から、染み出してくるものなんだ。体の内側から腐食していくように、自らの毒で自らを蝕んでしまう自家中毒の悪循環。
 暗い海の底に沈み込むたびに聞こえてくる、過去の声。
 過去は償うことしかできないのだけれど。僕が犯した罪に対して、どれほどのことができるというのだろう。
 そしてこの人との間でも僕は、やり場のない記憶を抱えている。
『パパを殺すの』
 僕を苦しめているのは――僕がパパを憎み、殺したかったということ。殺したいんだと、思い込んでいたこと。
 パプワ島のみんなや家族に僕は迷惑をかけたけど、あの暴走のすべては、この想いに起因しているような気がしている。始まりはパパへの憎悪。
 あの時たしかに僕は、パパを憎んでいると感じていた。
 そんな自分が、辛い。辛すぎて。すべてを消し去って塵に変えてしまいたいと、暴走の衝動に侵されてしまうんだ。
 赤と青の世界は、この悲しみからやってくる。
 だから。だから、とても気になることがある。
 ずっとずっと、知りたかった。パパと話すたびに、そればかりを僕は内心、気にしていたのだと思う。
「パパは、僕のことを……憎んだこと、ある?」
 コタローはマジックを見上げた。全身全霊をかけて、聞いた。
「僕なんて生まれてこなきゃよかったって、思ったこと、ある?」



 二人の頭上で星が輝く。優しい光が落ちる。
「真実を言うよ。お前のことを忘れたいと思ったことはあった」
 コタローに視線を合わせたままで、マジックは言った。
 ずきりとコタローの胸が痛む。
 そうなんだ。そうなんだよね。僕が心の奥から覗いているのに、パパは通り過ぎようとしていた。
 あの頃のことは、焼きごてをあてられたように、コタローの胸に刻印となって残っているのだ。
「でもそれは……お前のせいではないんだ……私が……」
「……?」
 しかし続く意外な言葉を聞いて、コタローは青い瞳を揺らす。疑問に感じた。
 僕のせいではない? 僕はずっと、僕のせいなんだって自分を責めていたのに。
 コタローの瞳の中で、マジックは辛そうな顔をしていた。眉根を寄せている。こんな顔をする彼は、コタローははじめて見ると思う。
 マジックは息をついた。搾り出すように言う。
「すまない。いつか話せる時が来たら、話すよ。約束する。だが私の過去に何があったとしても、お前には関係のないことで……すべて私が……」
 相手は言いよどんだ。彼は心中で葛藤と戦っているようだった。額に汗が浮いている。
 マジックは動揺しているのだと気付き、コタローは驚いた。
 しばらくマジックは口を閉ざしていた。
 しかし最後にコタローの耳に、かすかに言葉のかけらが染み込んだ。
「……似て……同じだと錯覚……」
 その言葉の意味をコタローが理解するのは、もう少し先のことになる。



 やがて、自分に嫌気がさしたというように、マジックは深い溜息をつき、また遠くを見遣った。彼の目には、あの青い秘石の輝きが見えるとでもいうのだろうか。
「だが、私は」
 再び視線が自分に向いたのを感じて、コタローは相手を正面から見つめた。
「憎んだことなんて、なかった。お前を憎んだことは、一度もなかった。これだけは信じて欲しい」
 その言葉に嘘はないと、コタローは感じた。
「憎んではいない。お前が生まれてこなければよかったと思ったこともない。本当だよ。だが……私はお前の秘石眼の力を恐れた。恐れた故にすべてを閉ざそうとした。これが私の罪なのだ」
 またコタローの目から、涙が零れ落ちた。
 このことがわかっただけで、もう僕は。前に向かって歩き出すことができると思う。
 少なくとも今はそう信じることができる。
 ずっとこのことが知りたかった。理由がどうとか、一族がどうとか。本当に僕にとって大切なのは、そういうことじゃないんだ。
 僕はパパを憎んでいたけれど、パパは僕を憎んではいなかったんだ――。
 その日コタローは、はじめて父親にとりすがって泣いた。



 優しい葉擦れの音が、コタローに自分たちが竹の頂上にいることを思い出させる。
 美しい葉脈の浮かび上がった緑の葉は、手招きをしているように揺れるのだ。ゆっくり、ゆっくりと。
 やがて顔を上げて、コタローは口を開いた。その目元と口元を、マジックにハンカチで拭かれながらだ。
「僕、これからパパのこと、『パパ』って呼ばないよ」
「えっ?」
 まともに聞き返されて、コタローは少し照れくさくなる。
 マジックが隙だらけの表情で瞬きをしたこと、自分がその大きな手にハンカチで拭かれていること、そして何よりも自分の体に相手の腕が回されたままのこと。
 色んなことが恥ずかしくなって、コタローの唇は一瞬動きを止めた。
 ……僕は。
『パパを殺すの』
 パパへの憎しみで生きていると思っていた、あの頃の自分を、卒業するんだ。
 少しずつでもいいから、形からでもいいから。僕は前へと歩き出したい。
 そんなコタローなりの決意を込めたつもりだった。過去との決別。
「『父さん』って呼ぶよ。その方が、カッコイイや。もう僕、10歳だから、オトナっぽい呼び方にしたいんだ」
「……ああ」
 コタローが努めて明るく言うと、マジックは少し笑った。そしてこの場所に来た時と同じように、こう呟いた。
「ありがとう」
「?」
 もう父親だと思わないって宣告されたのかと思った、とマジックは言った後で、慌てているコタローに向かって、睫を伏せた。
「これから私は、お前に『父さん』と呼んでもらえるような価値のある人間になるよ」
「あのっ、あのさっ! 僕、そんなつもりじゃ」
「本当だよ、コタロー。もう後悔したくないんだ。遅すぎるのかもしれないけれど」
「……後悔……」
 後悔しない大人になりたいと、過去から足を踏み出そうとするコタローは思い巡らせていたのだった。
 とにかく必死で、そう思っていたのだが。コタローは目の前の父親の姿を見て、また指で目尻を擦った。
 それが本当はどういうことなのか、僕はまだ知らない。



 虹色の風船が、輝きを放った。今、それはマジックの手の中にある。
 揺れる光を見て、コタローは思った。もう戻らなきゃいけない頃だ。パプワくんとチャッピーが沙婆斗の森で僕たちを待っている。そしてお兄ちゃんや家政夫が、家で僕たちの帰りを待っている。
 父親に呼びかけようとしたが、パパ、と言いそうになって、いけないと思い直し、『父さん』と口にする。
 その言葉は、自分で決めたはずであるのに、ひどく新鮮だった。まだ口に馴染みがない。
 マジックが軽く自然に返事をしてくれた。
「ん?」
「もう帰らなきゃ」
「そうだね。ちょっと待って」
 これだけの会話が、どうにも気恥ずかしくて、コタローは自分の頬は赤くなっているのではないかと思う。
 しばらく一人で内心恥ずかしがっていたものの、マジックはしゃがんだままで、何かをしているようだった。
 何をしているのかと見れば、先刻コタローが汚した部分を拭いているのだった。コタローは申し訳なくなり、また相手の几帳面な性格に少し驚いた。
「ごめんねっ。そんなことしなくていいのに……僕が」
「いや、いいよ」
 謝りはしたものの、相手の父親らしい所作にとても嬉しくなったコタローだった。
 だがそのマジックの手元を見て、自分の目を疑った。
「……父さん、何それ」
「え? マジカルハンカチ」
 父親は大真面目な顔で言った。ふざけてはいないように見える。彼は真剣だ。
 先ほどコタローの口元等を拭いていた布で、彼はイッポンダケの頂上を拭いていたのだが。布を広げた瞬間にわかってしまった。
 布の一面いっぱいに、コタローの目の前にある顔がプリントされていた。ウインクしている図柄。微笑んでいる図柄。しかめっ面をしている図柄。エトセトラ、エトセトラ……。
 マジックは優雅な仕草でハンカチを折りたたむと――ちゃんと汚れた面は内側にくるように――フッと笑って言った。
「これもファンクラブの新グッズ。このマジカルハンカチはね、吸収性に優れていて使い勝手がいいのさ。せっかく作ったんだから、使えるものは使わないと」
「……」
 コタローは思わず、じっとりした目で相手の顔を眺めてしまった。
 なんだろう。この人。ちょっと、いやかなりパパって、おかしい。変な人だ。
 あ、パパじゃない。
 ――父さん。



「父さん」
 マジックがハンカチをしまった後で、コタローはまた呼んだ。父親は頷いた。
「ああ」
 魔法の風船が、ひときわ輝きの燐粉を撒き散らす。
 コタローは手を差し出した。マジックがその手を握った。
 色んなことがあったのだけれど、この人はやっぱり、僕の父さん。
 僕も一生懸命、息子になるよ。
 これからまた、辛いことや苦しいことがあるかもしれないけれど、でも僕は。この手と一緒に生きていくのだと思う。
 手をつないだ二人は、再び黄金色の光の輪に包まれる。
 ふわりと足の爪先が地を離れ、体が宙に浮く。上昇してきた時とは逆に、下降していく。
 その感覚がやはり不思議で、コタローは相手の指を握る手に、力を込める。込めただけでなく、呼びかける。
「父さん」
 二人の同じ色をした金髪が揺れて、光の輪と同じ輝きを放つ。視線が合う。
 マジックが言った。
「さあ、行こう!」



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 沙婆斗の森が見えてくる。壺の口のようなかたちをした煙突から白い煙が出ているから、すぐにそれとわかる。
 魔法薬屋の建物の側に、豆粒のような影が見える。周辺の木は枯れて、開けている場所だったから、遠くからでも見分けることができた。
 コタローは息を吸い込み、大きな声で叫んだ。
「パプワく――ん! チャッピー!!!」
 その声が届いたのか、それとも風船の黄金色の輝きの輪に、気付いたのか。
 豆粒のようだった人影は、今は卵くらいの大きさの影となって、手を振っていた。尻尾を振っていた。
 コタローも手を振って、彼らに答えた。風船は今はマジックが持っていたから、片方の手が空いているからだ。
 そう、片方の手は、マジックと手をつなぎ続けている。ずっと。
「あのね――! イッポンダケに、行ってきたんだよ――!!!」
 着地して、側に行ってから話せばいいのに、コタローは待ちきれなくて、宙を浮かびながら声を出す。
 もう影はパプワだとはっきりとわかる。小さな頭が頷いたのが、見えた。側のチャッピーが後足立ちをしていた。
 コタローは嬉しくなった。だからまた叫んだ。
「僕たちさぁ――、イッポンダケからねぇ――、パプワ島全部を、見てきたんだよぉ――!!!」
 それからコタローは、隣のマジックを見た。父親は相槌を打つように、目で答えを返してくれた。
 だからまた正面に向き直り、コタローは大切な親友に向かって告げるのだ。
「すっごくすっごく、キレイだった――!!!」
 この島は凄い。僕の友達の住む島は、凄い。
「楽しかったぁ――――!!!」
 凄いや。
 キレイな景色に囲まれてキレイな空気を吸って、皆に囲まれて、僕は一歩一歩、キレイな心の子供になっていくことができるような気がしている。



 コタローの声が聞こえたのだろうか、薬屋の扉が開き、チワワとコウモリも外に出てきた。チワワは手に風船を持っている。
 スタールビーの輝きを詰め終わった、できたてほやほやの風船は、中空でコタローとマジックを包んでいる輝きと同じ色をして、薄暗い異次元の夕暮れを照らしていた。
 空を飛ぶ風船と地にある風船とが、呼応するように互いに光の波をうたせ、どんどんと近付いていく。
 きらきら、きらきら。
 輝きの音までが聞こえてくるようで、コタローはまた思う。
 キレイだ。この島にあるものは、なんて綺麗なんだろう。
 僕はこの島へと呼ばれた理由が、今では少しだけわかる気がしている。
 青の運命とか、赤の運命とか。そういうこともあるのかもしれないけれど。
 僕はね、きっと。
「パプワくん! チャッピー!」
 ゆっくりと着地したコタローは、自分を待ってくれていた友達に抱きついた。
 パプワくんからも、この島の香りがする、と思った。
 ――この綺麗な空気を、僕たちの住む元の世界に持ち帰って、元の世界も素敵な楽園に変えていくために。
 僕は、この島へと呼ばれたんだと、思い始めてるんだ。



 三人と一匹は、今度は全員で手をつないで空へと舞い上がる。
「キィー、キィー」
「くいーん
 手を振る二匹が小さくなっていく。すぐ森の巨木に隠れて見えなくなった。



 異世界の空は、星座と星々の海だった。
 キレイだ。何度見てもキレイだ。コタローは溜息をつく。その海を、行く。
 隣にいるマジックが、何かチャッピーと話している。その様子を見て、
「ごめんね、パプワくん」
 小さな小さな声で、コタローは左隣にいるパプワの耳元に囁いた。他の誰にも聞こえないような声でだ。
 コタローの右隣にいる父親と、二人の子供の間には、身長差がかなりあったから、おそらくこの会話は聞こえない。
「……パプワくんには、お父さんがいないのに、僕ばっかり」
 今まで決して気にしなかったようなことを気にしている、コタローはそんな自分に驚きながらも、パプワに謝らずにはいられない。
 なんだか悪いと思った。これまでのコタローは、自分は不幸せな子供だとうっすら考えてしまうことがあったのだけれど、しかし今となってみれば、この隣にいるパプワよりも、実は恵まれているのかもしれないと感じている。
 パプワくんやみんなに僕は、よくしてもらってばかりで。
 返ってきた答えは、明るいものだった。
「どうしてだ? 僕にはじいちゃもいるし、友達もたくさんいるぞ!」
「パプワくん……」
「だから僕は、友達のコタローが幸せになるのが、嬉しいんだ!」
「……ふっ……」
 じわり、とまた自分の目尻に涙が滲むのを、コタローは自覚していた。
 だめだ、こんなんじゃ。父さんの側でも泣いて、パプワくんでも泣いて。目を赤くしたままじゃ、帰ってお兄ちゃんや家政夫に心配されてしまう。
 両手は塞がっていたから、涙をぬぐうことはできないのだ。コタローは涙が零れ落ちるのをグッとこらえて、友達の目を見据え、はっきりと言った。
「僕だって、パプワくんが幸せになるのが嬉しいから。だから、これからパプワくんが自分のふるさとを探すのを、赤や青の謎に向かっていくのを、手伝いたい」
 誓うよ。僕は友達のために強くなる。
「パプワくんも幸せになれるように、僕は頑張る」
 見慣れた木々のかたちが視界に入る。コタローは、ふと懐かしいような気持ちに襲われる。僕の本当の家はここじゃないのに、僕はこの場所が懐かしい。
 大好きな人たちがいるから。僕はいつかこの島を出るけれども、すべてを忘れない。楽しいことも悲しいことも、すべてひっくるめて、忘れない。
 パプワハウスは、もうすぐだ。







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