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 すでに辺りは暗くなっていた。木々の狭間に、シンタローの声が響き渡る。
「おーい、コタロー! パプワー! チャッピー! 親父――!!!」
 声はそこかしこの堅い樹皮に乱反射するように、細切れになりながら宵闇の中に溶け込んでいく。
「あーもう、あいつら、ドコ行っちゃったんだよ。日が暮れちまったぞ! 何してやがんのかなー、おっそいなー」
 パプワハウスを出て、シンタローの後についてきたリキッドは、森の向こうの山々の稜線を眺めた。
 異世界にも夜はやってくるらしい。昼間よりも空は暗くなり、浮かぶ星座がよりはっきりと見えた。満天の星空だ。
 リキッドが周囲を眺めている間にも、困ったような声は続いている。
「こんな遅くなるなんて、迷っちまったのかなぁ……」
「や、でもパプワがついてますから」
 そう言うと、シンタローはこちらに振り向かないまま、『でもよ、パプワだってこの島に着いたのは一年前なんだろ?』等と心配要因を返してくるので、リキッドは自分の左頬の傷を指でなぞった。
 なぞっていると、シンタローが言葉を重ねてくる。
「……それに今回は、アホ親父がいやがるから、何が起こるかわかんねえ」
「もー、信用してあげてくださいよー」
「チッ」
 リキッドの言葉に舌打ちをすると、やはりシンタローは振り向かないままだったが、そのまま、そっぽを向いた。
「……信用してねえ訳じゃねえ」
 地面を蹴っている。
「ただあいつは色々あって……たまにヌケやがるから……」
 リキッドは肩を竦めた。思う。
 さっきは親子をあんなにキッパリ送り出したのに、やっぱり心配でたまらないんスね。
 そういえば、とリキッドは、腕組みをしてパプワハウスの周りをウロウロしているシンタローの姿を見ながら、考えている。
 さっきまで自分はシンタローに、家事についての教育的指導をたっぷりと受けていたのである。それはもう容赦のないツッコミに、リキッドはヘトヘトになった。だがそれでも、たまにシンタローが上の空であるように見えることがあったのだ。
 リキッドは首を捻った。
 コタローとマジック親子の間には、自分はいない方がいいと感じたり、でも居ても立ってもいられなくなって、ソワソワしたり。
 シンタローさんは複雑だなあ。
「きっと大丈夫っスよ」
 リキッドは彼に声をかけた。
 すると黒い眉を吊り上げて、不機嫌な顔をしたシンタローがはじめてこちらを振り返った。
 あ、やべ。ちょっとコワい。そう思ったが、リキッドは言葉を続けた。
「前にもこんなコト、あったんスよ」



 いつしか夜空には月が顔を出している。
 祭の華やぎのような異世界の空に、白銀の輝きは煌々として、黄昏が闇に飲まれた地平線の果てまでもを照らす。
 リキッドがふと気付けば、月にぽつりと黒い影が落ちていた。
 影はだんだんと大きくなる。やがてそれは見覚えのある輪郭へと変わった。
「シンタローさん、見てください、あれ」
「あ?」
 あさっての方向を、目を細めたり背伸びしたりしながら探っていたシンタローの肩を、リキッドは叩いた。
 二人の視線の先には、白銀の中、黄金色に包まれた三人と一匹の姿があった。



 あの時と同じだ、とリキッドは思った。
 以前にチャッピーが、コタローのために虫歯の薬を貰いに行った時の、出来事と同じだ。
 楽しかった思い出。コタローが島に流れ着いて、一年を自分たちは共に暮らした。
 様々なことがあって、コタローは笑ったり泣いたり、往々にしてこっちが泣かされて……でも、やはり一緒に過ごした時間は楽しかったのだ。
 いつかコタローたちは、この島を去る。笑って彼らを見送ることができるように、自分は精一杯の気持ちでいたい。リキッドは彼らを見ながら、何故かそんなことを考えた。
 三人と一匹の表情が、もうはっきりとわかる。彼らは嬉しそうで、特にコタローは晴れやかな顔で笑っている。
 散歩は楽しかったようだ。よかった。
 過去にチャッピーを迎えた時、あの時のコタローはこう叫んだのだ。今、同じ台詞をリキッドは空に向かって叫ぶ。
「おかえり――!」
 中空に浮かぶ黄金の輪が、揺れた。
 一列に手をつないだ両端にいるパプワとチャッピーが、風船を握った手を振ったのだ。真ん中にはコタローとマジックがいる。輝きの輪は次第に大きくなる。
「……お、おかえ……り……っ」
 らしくなく口ごもっているシンタローの顔を、リキッドは見た。自分の隣にいる彼の視線を追えば、シンタローはどこか放心したようなまなざしを、コタローとマジックとがつないでいる手に、向けているのだった。



 やがて三人と一匹は、リキッドとシンタローの側に、ふわりと着地した。
 真っ先にコタローが口を開いた。
「お兄ちゃん、家政夫、ただいま――
 リキッドは、へへ、と笑いながら声をかける。
「おーい、ハラへっただろ。今日はご馳走だぜ
 わあっと子供たちと犬が喜ぶ。
「メーシ、メシ!」
「もうおなかペコペコだよ〜!」
「わーうわう
 リキッドはつい、コタローの顔をまじまじと見つめてしまう。
「なんだよ、家政夫ぅー」
 投げかけられる視線に気付いて、肘でつついてくるコタローに、すっかりいつもの調子だな、と安心する。
 ただ少しだけ、コタローの目元が赤いのが――まるで泣いた後のように――気になったのだけれど。
 しかしコタローの散歩に出かける前の、緊張した面持ちを思い出すにつけ、仮に泣いたのだとしても、それがあったから今こうして明るい笑顔を見せているのではないかと、そうリキッドは思うことにした



「お兄ちゃん、ただいま――!」
 コタローは兄の方を向いて、もう一度言った。報告のつもりらしい。
 突っ立っていたシンタローは、不意に夢の世界から帰った人のように、肩をびくりとさせた。それから少し間を置いて、弟の名を呼んだ。
「コタロー」
 後を何と続けようとしたのか。いくつかの言葉を彼は飲み込んだように、リキッドには見えた。間が空いてから、シンタローは結局、こう言った。
「……楽しかったか」
 今までさんざん、コタローたちが何処に行っているのか、何をしているのかを気にしていたようなのに、シンタローはそれだけしか尋ねなかった。
 コタローは元気に頷いた。
「うん、いっぱい回ってきたよ! 今度、お兄ちゃんも案内してあげるね!」
 そして背後を振り向いて、
「楽しかったよね、お父さん」
 そう言った。
 呼びかけられた男は、答えて頷いた。
「ああ」
 いつの間にか、コタローの父親への呼び方が変わっている。



「……そっか、楽しかったのかよ」
 シンタローは言葉を切った。彼は腕組みを解き、腰に両手をあてて弟を見下ろしている。どうやらそれが彼のよくとるポーズらしい。癖なのだろうか。
 コタローの父親への呼び方が変わった理由を尋ねるのかと、リキッドは思ったのだが、シンタローはそのことには触れなかった。ただ、シンタローの肩の線が急にやわらかくなったように見える。
 フッと口元を崩し、コタローに笑いかけている。彼は言った。
「よかったな」
「うん
 あ、そうだ、とコタローは口にして、ポケットを探りはじめた。そして何かを取り出したようだ。
「今日は一緒に行けなかったけど。これ、かわりにお兄ちゃんにあげるよ」
「……ん?」
「大事に持っててね」
 コタローは、反射的に広げたらしいシンタローの手の平に、何かを乗せたようだ。リキッドの方からは、よくは見えないが、植物の実かなにかだろうか。小さく丸い物体のようだ。
「あんだ、これ。あー……ドングリになる前の……?」
 差す光は月の輝きだけだ。視界は暗い。シンタローは手の平に顔を近づけたり遠ざけたりして、目を細めながら、手渡されたものを眺めているようだ。
 そんな兄の様子を見て、コタローがまた言った。
「僕のかわりに持っててね。僕だと、なくしちゃうかもしれないから」
 すると、なにか大仕事を任されたように、シンタローは自分の胸をどんと叩いた。
「おおーし、わかった! お兄ちゃんに任せろ!」
 はりきり出したシンタローは、さっきまでの心配顔はどこ吹く風で、頼もしげな様子である。
「お兄ちゃんは頼りになるからな! よし、防虫剤と一緒にな、ちゃーんと、とっといてやるぞ!」
「うん、よろしく
 一体何なのだろう。リキッドもよく見ようと、さりげなくシンタローの手元を覗き込んでみたのだが、まるで『俺だけのモノ』だというように、彼はサッとズボンのポケットにそれをしまってしまった。誰にも見せたくないようである。
 これじゃ、ブラコン総帥、なんて呼ぶトシさんのことを怒れないんじゃないだろうか、とリキッドは思わず苦笑してしまった。



「よーし、メシだ、メシ!」
 シンタローが手をポンポン叩くと、チャッピーが嬉しそうに吠える。
 パプワが、さっと日の丸扇子を上にかざし、コタローに向かって言う。
「コタロー! 家まで競争するぞー!」
「よぉーし、負けないよー、パプワくん」
 よーい、ドンで駆け出した子供たちの後姿を見ながら、リキッドも歩き出す。食事の用意をするためにだ。
 元気よく走る子供たちの姿を見ながら、リキッドは思う。
 子供はやっぱ、重い責務とかなんとかを背負ったりするよりも、遊んだりするのが一番だよな、と。
 パプワは赤の一族で、コタローは青の一族であり、どちらも継承者、であるのだというが。さらに二つの一族には、互いにいがみ合ってきたという歴史があって。でも。
 ――ああして仲良く遊ぶのが、やっぱ一番いい。
 森を歩く。周囲からは木々の鳴る音がして、背後からは、二人の大人の声がする。
「……」
「何」
「……べっつに」
「心配した?」
「……ンなこたねえけどさ」
「心配させてごめん」
「だっから、別に……そこまで心配してた訳じゃねえけど……」
 シンタローはなぜか小声で呟いている。



 なんとなく振り向くのもためらわれて、リキッドは歩きながら背後の会話を聞いている。
 さくさくと草を踏み、家路を辿る。もう、島にいる大人は自分だけではないのだと思うと、不思議な感じがした。
 マジックとコタローが、今日はどんな午後を過ごしたのかは、リキッドとしてもかなり興味をそそられる一事で、もちろんシンタローにとっても同じであるらしい。
 背後の二人は並んで歩いているのだろうか。シンタローの声は、隣だけに聞こえるように話しているからか、相変わらず小さい。
 だが風が吹き、葉擦れの音の合間に、こう聞こえてきた。
「なあ、ドコ行ったのか教えろヨ」
「秘密」
「ぐっ……アンタはまた! あんだよ、減るモンでもねーだろ、教えろよ!」
「あとでね」
「……フン」
 シンタローが鼻を鳴らす音が聞こえた。
 そこでしばらく声は途切れて、やがて静かに続いた。
「今日な、ご馳走だぞ」
「うん」
「あとな……」
 ご馳走だ、というのは本当だ。料理についても、自分はなにしろ散々な教育的指導を受けたのだから。しかも包丁の使い方が悪いだのといった、基本的なことからダメ出しの嵐。
 思い出すだけで、リキッドは溜息をつきたくなるのである。
 シンタローさんは厳しすぎるっス。
 だがそう思った次の瞬間、意外なほどに優しい声が背後から響いて、リキッドは少し驚いた。
 あとな、の台詞の後に、たっぷりの間を置いてから、シンタローは言ったのだ。
「……いつでもいいから、カレー作ってくれよ」
「ああ、そういえば、ずっと作ってなかったね」
「ホントいつでもいーから。作って、コタローやパプワに食わせてやってくれよ」
「了解。だけど私は南国の食材にそんなに詳しくなくてね。教えてほしいんだ」
「ん、じゃー明日、一緒に食材集めやろうぜ……」



 やれやれだ。
 明日の夕食はカレーかあ。リキッドは腕を首の後ろで組み、思いっきり伸ばす。
 以前のパプワ島でもマジックはカレーを作って、パプワにも食べさせたことがあるらしいという話を、リキッドは聞いていた。その時は材料は外から持ってきていたのだろうか。
 今度は現地調達で、南国風カレーか、いいなあ。そういえば自分もしばらく食べてない。
 空腹を感じて、リキッドは腹を押さえた。
 この時点での彼は、『ひょっとして食事当番って持ち回りにしてくれんのかなぁ。俺の家事が楽になんのかも』等と淡い期待を抱いているのであるが、それはすぐに崩れる幻想であるので、そっとしておこう。
 家事は楽になるどころか、ますます彼への負担は増える一方になるのだが、それはまた別の話だ。
 とにかくもリキッドは、よし、と自分に気合を入れた。
 今晩の夕食の担当は、俺なんだから。って、もうシンタローさんにしごかれたから、準備はできてるんだけど。
 森を抜ければ、パプワハウスが宵闇に染まり、子供たちの笑い声がする。
 昼食時と同じく、リキッドは声をあげた。頑張るか。
「よーし、気合入れてメシの給仕するっすよ〜」
 コタローがこっちを見て、『なに張り切ってんの、家政夫』とまた笑った。



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 パプワハウス前の開けた場所で、火が燃え上がる。火花が弾ける。夜空の星の瞬きとは対照的に、熱い光で周囲を照らし出す。
 キャンプファイヤーのようで、ちょっといい雰囲気だ。酒もないのに、アルコールが入ったような気分になる。これが雰囲気に酔うということだろうか。
「わーい、シンタローさんだぁー
「また遊んでねー
「おー、エグチくん、ナカムラくん!」
 新しい島の仲間を祝うためか、動物たちが集まってくる。
「食い物で油断してるとこで、金目のモノをかすめとるにゃ〜」
「満腹になってから、星の海で泳ぎたい……」
 いや、食べ物の匂いにひかれてか。動物ばかりか植物までもが、わさわさと寄り集まってきて、辺りはすっかり賑やかな様子だ。
 灯をともした松明が輝いている。
 丸太を切って作った大型のテーブルには、美しく大皿に盛られたサラダや、海の幸シーフード、魚を中心とした料理が並んでいる。中央には大輪の南国の花が飾られていて、これはリキッドの提案だった。
「へへ、ちゃんとした歓迎会は日を改めてやりましょう」
 リキッドが頬の傷をかきながらそう言うと、シンタローがニッと頬を緩めるのがわかった。



 パプワやチャッピーが太鼓を叩き始める。
 ドンドコ、ドンドコ、鼓音は重なり合い、やがて渦となって周囲を包む。音階を持たない楽器の響きは、それだけ種としての本能に響くのか、体の芯が昂揚していくような気持ちにとらわれる。
 リズムに揺られ、夜が明るい空気に満ちていく。
 浸っていたリキッドは、つい自分の役目を忘れそうになり、慌てて意識を引き戻した。シンタローに向かって言う。
「すみません、シンタローさんは、ここの特等席に座ってください」
「ああ?」
 怪訝な顔をして振り向いたシンタローは、手をヒラヒラと振った。
「いーよ。別に俺……それより特等席つったら、コタローとか親父の方が」
「いや、コタローもマジックおじさまも、もうあっちでくつろいでますし」
 リキッドの指差す先では、またもや激しく場違いな光景が繰り広げられていた。
 この南国の夜を、屋外でも相変わらずの豪華椅子を並べて、陣取っている人々。
 地面にはタータンチェックのラグが敷かれ、大きなピクニック用バスケットが置かれ、コタローが優雅に座って、パプワたちの太鼓を鑑賞している。まるで昔の英国貴族が狩猟の合間に一休み、草上で自然に親しみながら、といった風で、マジックなどは手に食前酒のグラスを持っている有様だ。
「チッ。いい気なもんだぜ」
 シンタローは主にマジックに対してだろうが、呆れたような声を出したが、コタローを見て目を細めている。
 リキッドは機を見て、さらに勧めた。
「さ、シンタローさんも、ここで一休みしたらどうスか」
「……ああ」
 大きな岩の上に、シンタローが腰を下ろした。
 すると太鼓の音がひときわ激しくなる。ドンドコ、ドンドコ。やがて音の渦の中に、遠方からの不気味な音が混じりだす。
「?」
 さすがにシンタローが眉をひそめ始めた頃には、すでにズウン、ズウン、という重低音なノイズが辺りに響き渡っている。
 リキッドはすかさず身を隠した。巻き添えになりたくはない。
 そして――。
「キャ〜〜〜〜 男前な人肉〜〜ッ
 紫外線が大敵のオカマ恐竜、すなわち夜には最高に元気――が、二階建て鉄筋アパート並みの巨体を現し、歯がみっしり生えた大口を開けて、シンタローに襲い掛かったのである。
「うッぎゃああああ――ッッ!!!」
 今夜のイケニエが、大絶叫した。



「今だッ! みんな、かかれ――ッ!」
 パプワの号令と共に、竹槍を持った小動物たちが、ぴょーんと飛び出していく。
「えいっ」
「えいっ」
「えいっ」
 小動物たちは情け容赦なく、巨大生物に槍を突き刺している。
 刺されてもすでに最強肉食獣は慣れたもので、くねくねしながら、はにかんでいる。
「イヤ〜ン まぁた引っかかっちゃった〜〜」
 ケバくアイラインを引いた目で、大きく瞬きをしている。こんな時でも取れない付けマツゲは見事である。
 そこへパプワがジャンプすると、
「そーれ、仕上げは――んばば!」
 巨大オノがぶうんと風を切って、ストンと綺麗に恐竜のシッポが切り落とされた。
「ハッハッハッ、お肉はいただいたよ、ハヤシくん!」
「ンも―― おいしく食べてね
 第二のパプワ島で開かれる宴会の前の、お約束の儀式なのである。



 バーベキュー用の網を忙しく用意しているリキッドの背後から、シンタローが怒りの声をあげる。
「くっ、こーのヤンキー、どーなってんだ!」
「ああっ、責めはやっぱりこっちに」
 俺は生贄作戦の下働きってことわかってるはずなのに!
 生贄慣れしてそうな人だから、怒らないかとちょっとだけ期待してたのに。やっぱり怒ってる!
 やや理不尽に詰め寄られる寸前で、リキッドに救いの声が入る。
「お兄ちゃーん、僕も最初、同じコトされたんだよー」
「なにっ、コタローもかっ!」
 シンタローは、ぐいっと弟の方に身を乗り出した。どうやら注意がそれたようで、リキッドはホッと胸を撫で下ろした。
 コタローは柔らかそうなラグの上で三角座りをして、口を尖らせながら言った。
「うん。僕ねー、この儀式だけはどうかと思うよ。お肉は美味しいけどさ」
 今度はコタローに向かって、詰め寄るシンタローである。ただし先程と雰囲気が違う。
「どんな風にイケニエにされたんだ! お兄ちゃんに詳しく話してごらん、コタロー!」
「お兄ちゃん、鼻血が……」
「お前、興奮しすぎだよ、シンタロー……」
「お父さん、例のハンカチ貸して」



 恐竜のドデカい肉塊を切り分けて、塩コショウや香草を振りかけてから網に乗せたりと、手を動かしながらも、リキッドは親子を見守っている。
 じゅうじゅうと肉の焼ける音がして、たっぷりの脂が滴り落ちて、香ばしい匂いが立ち込める。
 焼け具合を丹念に確かめながら、リキッドは考えている。
 この親子に必要だったのは、失われた時間を取り戻すための休暇だったのかもしれない、と。
 ――自分がこんなことを言える立場ではないのだけれど。
 劇的な特効薬は存在しないんじゃないだろうか。ゆっくりゆっくりと、日常を共に過ごすこと。営みを共有していくこと。そんな何でもない普通のことが、彼らにとっては大事なのではないだろうか。
 リキッドは、火に近付いたために吹きだしてきた額の汗をぬぐった。
 特に青の一族ってのは、怒涛で情熱的で、せっかちで実は完璧主義で繊細で、その上、走り続けてばかりいる人たちばかりだから。他人のことなんて考えてるのか考えてないのか、よくわかんなくって、だからすれ違いばっかりしてそうな人たちだから。
 一度立ち止まって、普通に暮らしたりするのが、実は彼らにとっては貴重なことだったりするんじゃねえのかな。
 そこまで考えてリキッドは、いつの間にか上司の性格を思い出している自分に気が付いて、つい笑ってしまった。隊長も、一緒だ。
「わう?」
 隣で、よだれを垂らして肉を見ていたチャッピーが、不思議そうにこちらを見たから、慌てて顔を戻す。
 隊長は、特戦部隊の皆は、今、何をしているんだろうか。そう考えると、今度は寂しくなって、リキッドは溜息をついた。そしてまた思う。
 俺は、ここでしっかり番人やるって、決めたんだ。
 視界の隅では、親子三人が、何事かを話している。
 生贄の話題はもう終わったのだろうか。今度は一体何を話しているのだろう。きっと、大したことないごく普通の内容なんだろう。運命だとか殺すとか死ぬか生きるかとか、そんな大仰な話ではなく、とりとめのない日常のことを。
 三人の表情を眺めながら、リキッドは考えている。コタローの事件があるまでは、もともとは彼らは三人家族として月日を過ごしていたはずなのだ。あの南国の事件があってから、新しい家族が増えて大所帯になったらしいけれども、広く捉えれば、彼らにとってはすでに青の一族みんなが家族であるのかもしれないのだけれども。
 自分の視界の中にいる三人は、今やっと、失われた時間を取り戻すための一歩を、踏み出したのかもしれなかった。
 これからどれだけの時間を、彼らがこの島で過ごすのかはわからないが。
 三人の時間が、少しでも幸せなものであるようにと、リキッドは願った。
 シンタローさんのためにも、マジックおじさまのためにも、だけど。
 何より、コタローのために――。
 リキッドは、自分が幸せな子供時代を送ったが故に、一層そう思うのだ。



 やがて肉がすっかり焼き上がった頃に、がらりと隣家の戸が開く。
 近藤を先頭にした心戦組の面々が、姿を現した。しゃがんだ体勢で、火の様子を見ているリキッドに向かって、近藤は鷹揚に話しかけてきた。
「おお! これはこれはリキッドくん、これは思わぬ所でお会いしますなあ。いや奇遇、奇遇」
「いや、ここ家の前っスから」
 強引にお隣さんになった癖に、一体。
 ええーと、そのー、と、なにやら体裁を整えるために、さらに言葉を続けようとした近藤を、リキッドはとどめた。
「大勢で食った方が美味いッスから、皆さんもどーすか」
 肉を皿にのせ、テーブルに運びながら、そう言う。
 解禁とみたか、わぁっと声を上げて、背後にいたウマ子たちが駆け寄ってきた。
「ウマ子はリッちゃんの隣じゃあ――
「チッ、ここは俺が座ってんだよ!」
 苦々しげに煙草をくゆらすトシゾーが、腕を広げて、場所を確保しながら大人気なくウマ子と争っている。
 その様を見て、シンタローがバカにしたように言った。
「見苦しい場所取り争いしてんじゃねーぜ、ストーカー侍」
「なんだと、てめえ!」
 トシゾーが刀に手をかけ、立ち上がった。
「あのー、俺、給仕であちこち動くんですけど……」
 いじめっ子気質のシンタローに、どうやらイジリ対象として認定されてしまったらしいトシゾーの将来を思い、リキッドは怖気を奮った。しかも確実に自分まで巻き添えになる。むしろイビリのネタにされること必然。
 そしてこっちでも、勿論いさかいが起きている。ただし一方的な。
「ああ、君、いたの?」
「うぬぅ、こっ、この、万年キリギリス!」
「おや、大変だ。君の顔、さっきより四角くなってない?」
「なぬっ!」
 慌てて眉に手をやる近藤に、マジックは瀟洒に言った。
「はは、私の気のせいかな。もともとだね、もともと。いや失礼」
 頭から湯気を立てる近藤の隣で、ソージが箸で野菜を選り分けている。自分の皿から抜き出したものを、近藤の皿にポイポイ入れている。
「サラダからは玉ネギを抜かなくっちゃね」
「わー やっぱり僕、ソージさんとは気が合うよー」



 ふとリキッドが気付けば、いつの間にか、広場の中央には台座が備え付けられている。
 パプワ島恒例のショーが始まるのだ。
 玉ねぎ抜きサラダを食べながら、コタローが無邪気に言った。
「僕、切腹が見たいな〜」
 マジックが答える。
「いいね、ハラキリ。ジャパニーズ伝統芸。そこのサムライさんがやってくれるんじゃないかな」
 『そこの』と目で示された近藤が、目を剥いた。トシゾーはさりげなく他人の振りをし、ソージは最初から関係ないという顔をしている。
 フフ、と笑って、動揺する近藤を眺め、ワインのグラスを揺らしながら、マジックが考え込んでいる。
「おそらく、切腹するにも前提条件があるはずだよ。なにか恥辱を与えないといけないのかな」
「父さんって、わりと好奇心強いよね」
 恐ろしい会話をかわしている親子を他所に、ショーは始まっていた。
 にょっきりと美脚が伸びて、巨大な鯛が躍り出た。網タイツからは黒いスネ毛もうるわしく、しゃなりしゃなりと歩いては、ポーズをとって観客たちに媚を売る。
 そして台座の一番真ん中までくると、勿体をつけて横たわり、自慢の脚を見せて言う。
「アタシ、タンノがぁ、」
 ヒレで網タイツの縁に触れ、興味を誘うように、ちらちらと揺らした。見守る一同に流し目をくれ、叫ぶ。
「脱ぎます!」
 ちゃららら〜タラララ〜と、どこからか妖しげな曲が鳴り、紫とピンクのスポットライトがナマモノにあたり始めるのであった。
 網タイツが脱がされていく。こう書くと扇情的だが、魚の足。
 観客はどよめき、手拍子と喝采で、熱演に答える。
 なまめかしく(?)ウネウネと身をよじらすタンノの一挙手一投足に、興味津々といった様子であった。
 お約束の出し物にも、あたたかいパプワ島の仲間たちなのである。



 台の脇では、往年のライバルである雌雄同体が、悔しげに呟いている。
「タンノちゃんが乙女の武器を使うならぁ〜、イトウちゃんだって負けてらんないわッ!」
 ピンクの巨大カタツムリが、熱演中のタンノの隣に場所をせしめて、騒ぎ出す。
「あああ〜〜〜、興奮するとどこでも節操なく産気づいてしまう雌雄同体の性ッ!」
 すると意外に世話好きのタンノが、イトウを介抱し始めた。美しいような気味の悪いような、微妙な友情である。恋愛段階では裏切りあい、押しのけあうライバル的間柄ではあるが、出産時となると別らしい。
「しっかり、イトウちゃん!」
「ヒッヒッフー! ヒッヒッフー!」
 ラマーズ法で出産するらしく、呼吸を整えだすイトウである。そして突然、ビクンと震える。
「うッ! きたわッッ!」
「いきむのよ、イトウちゃん!」
 ううーん、とカタツムリは腹を押さえた。そしてひときわ大きく叫ぶ。
「カモーン! あたしの天使ちゃん
 しゅぽぽぽぽ――ん! と嫌な音をたてて、小さなカタツムリたちが飛び出してきた。めいめいに、ママー、ママー、と呼んでいる。
「わーい、エスカルゴ! エスカルゴ!」
「ふぅ、オカズが増えたぜ」
 喜ぶパプワの元、リキッドの持つ巨大フライパンの中で、即効で昇天した小カタツムリたちである。
「ひいいい〜〜〜!!! アタシの天使ちゃんがぁ!!!」



 出産早々、青ざめているカタツムリを放っておいて、広場中央では新たな目立ちたがり屋さんたちが、注目を集めていた。
「バンド殺ろうぜ!」
 そう叫んで飛び出してきたのは、これもまたオカマコンビに勝るとも劣らない微妙なメンツであった。
 巨大ドクツルタケのコモロが、ぬぼーんと突っ立って、縦笛を吹いている。
「叩くぜ! 叩くぜ! 今夜も俺のビートを刻むぜェ!」
 一人テンションの高いオショウダニが、激しくドラムを叩く側で、
「……帰りたい」
 チーン、チーン、と成仏した霊を慰めるかのごとく、トライアングルで暗い音を鳴らしているのはウォンバットのヤマギシである。
 しかし何にしろ打楽器の音というのはリズム感があるもので、ナマモノたちはいつしか体を揺らし始める。
 ダンス・ダンス・ダンス。
 小動物も大型動物も、体の大きさに関係なく、くるくる回転し、ステップを踏む。
 あちこちで踊りの輪ができ、凄まじい地響きがすると思えば、シッポに包帯を巻いた恐竜ハヤシまでもが踊りだしている。みんな楽しそうだ。
 宴は、まだまだ続きそうであった。
 華やかな異世界の空では、月と星とが輝いている。



 皿を重ねていたリキッドの脇で、踊っていた巨大ミミズのシミズが跳ね、『おっと』と長い体の先で、テーブル上の大皿をひっくりかえした。
 誰かの食べ残しだろうか、それとも食べる途中で踊りに行ってしまったのか。
 半ばまで入っていたスープが、テーブルクロスに派手に零れた。
「あーあー、もう」
 謝るシミズに、俺がやっとくから、と声をかけ、リキッドはクロスを剥がした。
 小川で洗ってくるか。シミになるといけないからな。
 彼は汚れたクロスを小脇に抱えて、賑やかな喧騒を離れ、森へと入った。



 給仕しながらも、料理はつまんでいたから、腹はふくれている。それに祭りの雰囲気は好きだ。気持ちが満たされていく。
 静かな森を歩くリキッドは、なんだか幸せだった。頬に触れる夜風も優しく、マジックに少しお相伴させてもらったアルコールも、ほろ酔い加減で、心地よい。
 こんな大勢でパーティなんて、久しぶりだ。彼は鼻歌を歌おうとした。
 その時、声が聞こえてきた。
「なんだ、コタロー。深刻な顔してよ」
 思わずリキッドは立ち止まり、息を止めた。反射的にそうしてしまった。
 これはシンタローさんの声だ、と思ったからだ。コタロー。コタローということは、二人で話しているのだろうか?
 そういえば自分が広場を出てきた時は、二人の姿はなかったような気がする。
 お舅さんは、いた覚えがあるけど。メンチきってる近藤さんを無視して、にこやかにナマモノたちの踊りを観賞してた。あの人、ああいうの好きだよなあ……って。
 ちょうど大きな木がリキッドの側にあり、こちらの姿を隠すようなかたちになっている。
 木々の向こうから、今度はコタローの声が聞こえてきた。
「僕、パパ……ううん、お父さんに、僕のことを憎んでないのかって、聞いたんだ」



 今度こそリキッドは意識的に息を潜めた。自分が出て行ってはいけないような気がしている。
 年の離れた兄弟は、向き合って話しているらしい。また弟の声が聞こえた。
「それがすごく気になってた。不安だったから。でも……でも逆に、僕、お兄ちゃんは」
 シンタローは黙っている。大木の陰から顔を出せば、彼らに見つかってしまい、邪魔することになってしまうと思ったから、リキッドは二人の様子を目にすることはできなかったが、気配から、シンタローがコタローの喋る様子を見守っていることは伝わってきた。
 兄に見守られながら、コタローは言葉を続ける。
「お兄ちゃんは僕を憎んでないってことは、最初から知ってたんだ、僕」
 昔も、今も。父さんのことは不安だったけど、お兄ちゃんのことは、全然不安じゃなかった。
 どうしてなんだろう。今の僕は、そのことが、とても悲しい。
「僕はきっと、お兄ちゃんのこと、利用してたんだ」
 コタローの声は、過去の幻影に怯えているように、はかなかった。かすれながらも続く。
 どうしてだろう。お兄ちゃんこそ、僕のこと、憎んでて当然のはずなのに。だって僕、お兄ちゃんのことを撃ったんだ。父さんを殺そうとして、それをかばったお兄ちゃんを、撃ったんだ。
 その後も僕、死んだお兄ちゃんを見ても悲しいとか気付かなかったよ。一度目の時も、二度目の時も。あの頃の僕は、まるで映画でも見てるみたいに、感情が凍りついていた。
 夢に浮かされたみたいに、僕は、あの時――。
 僕は、あの時、一体――。
 込み上げる言葉をつなぐのが難しいのか、コタローはもどかしそうに声を震わせている。
 最後は、言葉に泣き声が滲んだ。
 そんな僕なのに。
「……なんで……なんでお兄ちゃんは僕を憎んでないの……」



 風が流れた。リキッドは空を見上げる。
 背の高い木々の狭間から、星々が瞬いているのが見えた。
 やがてシンタローの声が聞こえた。落ち着いた声音だった。
「……親父は、お前を憎んでないって言ったんだろう。それは本当のことだよ、コタロー。俺は知ってる。俺がお前を憎んでないってことを、お前が確信してるのと同じぐらいの気持ちで、俺はそれが本当のことだと知っている」
 コタローが声を詰まらせる。
「僕さ、僕――」
「もう何も言うな、コタロー。何も言わなくていいんだ」
 シンタローが、弟を抱きしめたのだと、リキッドは思った。
 コタローの泣き声が聞こえて、でもその音は包まれているように感じたから、弟は兄の胸で泣いているのだろう。
 また小さな声が聞こえた。搾り出すような響き。
「お兄ちゃん、ごめんなさい……」



 慰めている声。
「泣くな、コタロー。今日は泣きっぱなしじゃねえのかよ?」
「な……何でお兄ちゃん……知ってる……の……っ」
「バーカ。お兄ちゃんは、コタローのことなら何でもお見通しなんだよ」
 散歩から帰ってきた時の、コタローの目元が赤かったことには自分も気付いていたが、シンタローもそう感じていたのだなと、リキッドは思った。
 でもきっと、兄弟だから。わかることは多いのだろうとも感じる。シンタローは、コタローが赤ん坊の頃から、側にいるのだ。
「僕、お兄ちゃんが大好きだよ」
 こう言う声が聞こえて、多分今度はコタローから抱きついたのだと思う。
 リキッドは、シンタローさんは嬉しいだろうな、と思った。だが喜ぶかと思ったシンタローの声は、『ああ』と響いて、少し沈んだように思えた。
 やや間があって、その声はこう聞こえた。
「あいつの……親父のことは……好きか……?」
 その時、風が吹いた。
 リキッドには、コタローの返事は聞こえなかった。
 しかしシンタローは、小さく笑ったようだった。またコタローを強く抱きしめた気配がする。
「それで十分だ、コタロー」
 草が触れ合うよりも乾いた音が聞こえてきて、リキッドは、それは兄弟の色の違う髪の毛が、触れ合う音なのだと思う。
「俺にとっちゃ、それで十分なんだよ……」



 そっとリキッドは、その場を離れた。クロスを洗うのは、後にしておこうと思う。
 よかった、と口の中で言う。
 だが嬉しいと同時に、少し寂しいような気もしている。
 リキッドには弟がいなかったから、コタローが弟のような気がしていたのだ。
 みんな、自分の居場所に帰っていくんだな。なぜか、そんなことを思った。
 また、こう誓うように想う。
 ――俺の居場所は、ここだ。



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 宴は幕を閉じ、客たちも我が家へと帰り、後片付けも何とか終わった頃。
 やっと就寝、という段になって、ほう、とリキッドは溜息をついた。
 なにしろ様々なことがありすぎた一日である。これでもか、これでもか、とばかりに押し寄せてきた新しい出来事たち。
 新環境。この環境で、自分は上手くやっていくことができるのか。まさに嫁の心地であるのだ。
 疲れた。早く横になりたい。眠りたいかも。ゴールが見えると、人は、どっと疲れを意識するものである。
 彼はこの瞬間に、本日一番の疲労を感じた。肩が重い。
 途切れそうになる緊張の糸を、なんとか持たせようと、自分に言い聞かせる。
 頑張れ、リキッド。ゴールはすぐそこ。
「はーい、そろそろ寝ますよ〜」
 それでも最後の勤めとばかりに、まだ遊びたがるちみっこたちに手を叩き、リキッドはパプワハウスの中に入って――。
 驚愕した。



 我が家が、様変わりしている。こんな家でしたっけ、疲れで変になってるのかな、とリキッドは目を擦った。自分がいつも使っているキッチンはそのまま右端にあったが、問題は左端。
 奥の部分の壁がぶち抜かれ、やけに拡張。ひろびろしてる。勝手に増築したらしく、広々とした空間に、でーんと陣取るキングサイズベッド。
 しかしキングサイズというのだろうか、その上の単位をリキッドは知らないから、とりあえずこう表現したのだが。幅が通常のベッドの数倍はあり、縦の長さも2メートルを楽に越えるという代物で、あきらかに特注品。
 デカい大人3人と子供2人に犬1匹が横になっても、安心設計。
 そのベッドに、ガウン姿でゆったりとくつろぎ、サイドボードの明かりをつけて静かに読書しているマジックがいる。
 ファブリックシェードに薔薇の花が浮かび上がり、薄紫の淡い輝きが夜に満ちている。なにげにムード満点。男はリキッドを見て、鷹揚に頷いた。
「そうだね。そろそろ寝ようか」
 この空間が、さも当然であるかのように。
 一体、いつの間に……。
 どうやってこんな巨大な物体を運び込んだのかが謎。そもそもこれがどこにあったのかも謎。特注って誰に?
 お舅さんが生活習慣を維持する方法は、謎ばかり。



 改めて外に出てみたリキッドが、家の裏に回って、叫んだ。
「ああッ! 増築部分で、お隣さんハウスが圧迫されているっス!」
「圧迫っつうより、進出だな」
 背後からシンタローの声もかかる。
 建て増しされた部分が、心戦組の木造住宅にまで、がっちりと食い込んでいるのである。
 リキッドが、おそるおそる窓から隣家を覗き込んでみれば、ナイスタイミングで近藤が悲鳴をあげているのである。
「ワシの寝場所がぁッ!!!」
 あ、やっぱり。
 和室で近藤が布団をひくらしい場所に、パプワハウスの壁が突き出している。
 偶然なのか意図的なのか、後者だとしたら実に器用なことである。ソージにでも進出可能な場所を聞いたのか。



「わーい、ふーわふわ! ふーわふわ!」
「パプワくん、枕投げしようよ
「わう! わう!」
 いろいろ諦めの心地で、リキッドがパプワハウス内部に戻ると、ちみっ子たちと犬が羽根布団に喜んでいた。
 スプリングのきいたベッドの上で、ぽーんぽーんと跳ねている。楽しそうだ。
「ったく。贅沢すんな! 今日はコタローやパプワが喜んでっからいーけどよ、今日だけだかんな! いいな!」
 シンタローが腹立たしげに、マジックに文句を言っている。
「チッ。最初から贅沢すっと、後が大変なんだよなー」
 果たして明日から元通りに床に寝たとして、それは節約になるのだろうか。このベッドを明日からどこに置くのだろう? 彼らの基準が、よくわからない。
 その辺、どーなんスか?
 怖いので、そう心の中だけでツッコミを済ますと、リキッドは大人しく空いたスペースへと身を滑り込ませた。
 すでに場所取り競争は終了しており、彼は一番端っこである。でも、寝心地はとてもよかった。青の一族の生活は、恩恵に預かる分にはいいのだけれど。
 あ、ホントだ。ふわふわ。こんなのガキの頃以来で、久しぶりかも。枕に頬をあてると、これもすべすべだった。なんかいい。たまにはいいかも。
 ちょっとノスタルジーで、童心に返っているリキッドの耳に、ベッドの真ん中の方でのシンタローとパプワの会話が飛び込んでくる。
「……へへっ、パプワ、こーして隣で寝んのは、久しぶりだな」
「オマエは寝相が悪いからなー!」
「言ってろ」
 リキッドの隣のチャッピーが、二人を見て、『わーう』と鳴いた。それからこちらを向いた。
 そっか、4年振りなんだろうか? その前は、シンタローさんとパプワとチャッピーは、こうやって並んで寝てたんだろうな。
 久しぶりなことだらけだな。そう思ったリキッドは、この並び方でいくと、自分の反対側の端で、マジック、コタロー、シンタローの親子が並んでいるのではないかと気が付いた。
 様子を窺うと、さすがにコタローは、ちょっぴり緊張しているようだ。こんなことを小さな声で言っている。
「……お父さん、僕、寝相悪かったらごめんね」
「大丈夫。ベッドから落ちそうになったら、受け止めてあげるから。それにお前の寝相なんて、シンタローに比べれば可愛いものだよ」
「あんだとッ!」
 どうやらシンタローの寝相は相当なものらしいと、リキッドは二人の信憑性のありそうな証言を聞いて考えた。
 ささやかな偶然に安堵する。そっか。シンタローさんの隣でなくて良かった。俺とシンタローさんの間には、パプワもチャッピーもいるし。
 いろいろ盛りだくさんの一日だったけど、最後は安心して眠れそうだ。
「それじゃ、明かり消しますよー」
 リキッドは一同に声をかける。
 おやすみなさい。パプワハウスの住人たちは、眠りにつく。



 リキッドは、場所取りはよかったのだ。
 ただ、運が悪かった。運が悪かったのである。さらには慣れがなかった。
 目を閉じ、一瞬で夢の世界に転がり込んだリキッドは、ボクシングの夢を見た。
 殴られた、と思った瞬間、今度は柔道の夢を見た。投げられた、と思った瞬間、次はムエタイの夢を見る。
 えっ。でも、俺。なんかやられ役ばっかり。体の痛みはやけにリアルだった。
 彼は呻く。ぐっ、苦しい……ええっ、これって夢? ほんとに夢?
「ゆ、夢……じゃなーいッ!!!」
 ドカーン! と音がして、目が覚めたと思ったら、それは自分がベッドから蹴り出された音だった。
 シンタローの寝相が炸裂したのである。床が冷たい。転がり落ちた時に打ったらしい腰をさする。
 ちょっと待って、防波堤のはずのパプワとチャッピーは、と起き上がって、リキッドが床から見れば、彼らは器用に手足を丸めて、シンタローの蹴りの弾道を避けている。
 どうやら慣れているらしいのである。
 逆のコタロー側はと見れば、いっさいの被害を受けてはいない様子。マジックもコタローも、安らかに眠っているようだった。
 ベッドの真ん中に陣取って、グーグー寝ているシンタローを見て、リキッドは思った。
 ああ、俺のコト、誰も受け止めてくれないのね。



 リキッドは切なくなりながらも、ベッドに這い上がろうとしたが、そこを狙ってか、今度はパンチが飛んできた。
 勿論、パプワとチャッピーは、さっと自然に避けている。
「うああッ!」
 慌てて床に身を隠すリキッドである。わざとじゃないのか! わざとじゃないのか、これ!
 これでは安心して寝ていられない。
 うっうっうっ。彼は滲む涙を指で拭い、床に横たわる。ここで寝るしかないのか。
 俺って。俺ってば。
 なんだかこれからの自分の未来が暗示されているようで、ますます切なさが込み上げる。
 窓から、夜空の星が見えた。リキッドは祈った。お星様にお願い。
 明日はいい一日でありますように。
 祈ってから彼は、ベッドで眠る、新しい家族たちを見遣った。静かな寝顔たち。改めて思う。
 今日は本当に本当に沢山のことがありすぎて、実は今日の日こそが夢だったのではないかと、そんな気までしてくる始末だ。
 このまま眠って、朝起きたら、まったく違う現実の世界が始まっているのではないだろうか。全部、夢だったりして。仮想の世界のことだったりして。
「……」
 やっぱり、とリキッドは頭を振って、祈り直す。
 明日も。いい一日でありますように。
 ――寝るか。明日も大変だろうし。頑張るか。
 目をつむる。
 夢であろうが現実であろうが、とにかくみんなが幸せになれるといい。それでいいんだよな。
 やがてパプワハウスのすべての住人に、等しく眠りが訪れる。
 もしもの世界で、夜は更けていく。













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