真夜中の恋人

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 翌々日の夜、マジックは言葉通りに帰って来た。
 真夜中、シンタローの意識の外で、車の止まるひかえめな音がして、正面玄関の扉が開く気配がした。
 あの、足音と――起き出したらしいグンマとキンタローの足音。
 シンタローの眠りは、それでも覚めることはなかった。うっすらと夢の奥で、遠い気配だけを感じていた。
 眠りの膜が、白い繭のように、自分を守ってくれるような気がしていた。



 朝。
 シンタローが起床して階下に降りると、居間のテーブルの上には、山と積まれた土産物が鎮座していた。
 マジック本人は、まだ降りてきてはいないらしい。
 どうやら早起きしたらしいグンマとキンタローが、ちょっと嬉しげに口を揃えて言うには。
 真夜中に出迎えた二人に対して、今回はそんなに余裕がなくて、と前置きしたマジックのお土産は、それでもナンか凄かったらしい。
 複数のガンマ団員にわざわざ運ばせてきたらしいが。
 たくさんあるだろう中から、あえてどうしてこれを! と言いたくなるような奇妙な色彩と姿態の日本人形や浮世絵や提灯、十手や刀やちょんまげ、筆文字大書のTシャツ。寿司型キーホルダー等――
 まあこれらはいつも通りだからいい。すっかりヘンテコ日本美術館化している我が家の倉庫に、ぎゅうぎゅう押し込めばいい(金の無駄だっつーの! なんでンなの買ってくんだよ!)
 今回、最もグンマとキンタローが気に入ったものといえば。
 『金ちゃんヌードル』12個入りケースを3ダースばかり、とのこと。
 天井に届くばかりに、四角い箱がででーんと積んである。まるで壁のようだ。
「……」
 日本製カップラーメン、か
 ……家族で一日三食で消費しても、一ヶ月以上かかるんだが。



 トーストとスクランブルドエッグ、それに紅茶を入れて、朝食をとる三人。
 平和な光景。白いカーテンの向こうに新しい太陽。平凡なニュースを流すテレビ。かちりと触れ合う食器の音。新聞紙が重なる音。
 一つ空いた、席。
 そんな中でシンタローは一人、心の中で呟く。静かに、静かにだ。
『俺……マジックに拒絶……されたんだよなあ……』
 長い黒髪がひとすじ、こめかみから落ちる。
「……」
 あれから、二日が過ぎた。
 今、シンタローは、日本から帰ったばかりの自分を、思い出していた。
 だが、脳裏に残る記憶といえば。
 家に戻り、扉の蝶番がすでに朝方近くになっていた闇の中で、ぎいっと唸った音だとか。自分の脚をつたうシャワーの湯の筋だとか。ベッドに潜った後に眠れず見つめた朝陽の色だとか。
 そんな途切れ途切れの印象でしかない。



 シンタローは、ひどく落ち込んだのだ。
 落ち込むという言葉が似合わないぐらいに、心の底辺を彷徨った。
 一昨日の仕事も昨日の仕事も、まるで水面を歩いているかのような覚束ない感覚で、透明な気持ちで身体と頭を動かして、とにかくも終えた。
 周囲の人間と、日常的事務的な受け答えはしたものの、自分が何を答えたかは覚えてはいない。
 ただ心を、マジックのあの拒絶だけが、占めていた。
 自分がひび割れていくと感じた。
 必死に立っていた自分自身を否定されたような心地にもなり、もう何もかも捨てて何処かへ行きたいと。そんな想いに駆られた瞬間もある。
 自暴自棄になったり悲しくなったりで、仕舞いには何も考えられなくなった。
 運良く昨日は仕事が早く終わったので、晩御飯も食べずに、シンタローはベッドに潜り込んだ。
 何もする気になれなかった。
 もう、限界だった。
 考えてみればここのところ、長い間――
 真夜中のマジックと連日はしゃぎ、その後はマジックの帰りを居間のソファで待つ夜を過ごし、そして拒絶されてからは、考えすぎてほとんど眠れなかったのだ。
 精神的にも肉体的にもすべてが限界にきていたのかもしれない。
 だからベッドに潜った瞬間に、シンタローは海に沈むように眠りに落ちた。



 そして今朝。チチチ、と小鳥の鳴き声と差し込む光に目覚めたシンタローは、なんだか、やけにすっきりとしている自分に気付いたのである。
 まるで深い海を堕ちきって、海底を突き抜けて、別世界の青空に届いてしまったとでもいうかのように、気持ちが晴れた。
 久しぶりにぐっすり寝ることができたのと、とにもかくにもマジックが帰って来たのを感じたこと。その二つが大きいのかもしれない。
 昔の自分だったら、俺はきっと立ち直れなかったと。シンタローは思う。
 南国のあの島から戻ってくる前の俺だったら。
 でも俺は、あれから。



 頬を叩かれてからは、ずっと過去の冷たいマジックの記憶ばかりが、脳裏によぎった。
 シンタローは彼という壁に向かっていって、弾き飛ばされて、絶望の淵で泥ついた想いに漂っていた。
 そんな記憶ばかりを、過去の俺は持っていた。
 でも今の自分には、南国の島でマジックと対峙した記憶。その後、マジックと共に過ごした時間の記憶が、あった。
 南国のあの島の後――



 マジックは結局、朝の食卓には現れなかった。
 遅くに帰って来たというから、まだ寝ているのだろうと。シンタローはそう考えたが。
 ……あいつ、本当は俺と、顔を会わせたくないのかもしれない。
「行くぞ」
 そんな考えを断ち切って、シンタローは従兄弟たちに声をかける。出勤するために、玄関へと向かう。
 二人が自分の後からついてくる。
 かつて彼らが破壊して、青空と瓦礫の山に変えた玄関ホールと、屋敷の右半分は、大分修復が進んでいるようだ。
 ただ、何だかアヒル的ファンシーさと、事務的なデザインとが競合しているのが、とても気になるのだったが。
 着々と、屋敷がどこかのファンシーランド&役所化していきそうな予感。着々。着々と。
「……」
 これ以上の心労を自分にかける訳にはいかないと、シンタローは見ない振りをした。
 だけど、あのカップラーメンの箱の巨大な壁を、この修復に使って、修理費を節約できないかを、真剣に考える。



 そして昼食時である。
 いそいそとキンタローが、持参のカバンに大事に入れてきたらしい、カップラーメンを3つ取り出している。
 彼はフッと不敵に笑って、やや斜に構えて言った。
「俺の名前のついたカップラーメンだ! いいか! 俺の名前のついたカップラーメンだぞ!」
「よかったねぇ、キンちゃん
「……よかったな」
 グンマに聞いた所によれば、例の驚かない練習の甲斐も空しく(?)、キンタローはこのお土産に驚いてしまったというが、キンタロー本人に言わせれば、眉を数段階に分けて動かしてしまっただけであるのらしい。
 眉を動かしただけでは驚いたことにならないと、彼は熱く語っていた。
 シンタローに言わせれば、キンタローの場合は、驚くかどうかは心情的な問題であって、別に表面にそれをどれくらい出すかの程度問題ではないと思う。
 マジックには、世間慣れしていないキンタローの驚愕は、どうやったって伝わってしまうと思うからである。
 ピュアなスーツマン、キンタロー。
 ちなみにこれも土産物の中では気に入ったのか、今日はワイシャツではなくて、スーツの下には『必殺仕事人』と筆文字大書のTシャツを着ている彼である。



 さて、カップラーメンの用意である。
 しかしキンタローは、蓋を開けた三つのカップを前にし、悩んでいるようだ。腕を組み、しかめっ面である。
「熱湯を注げとあるが、熱湯とははたして何度を指しているのか。『熱い』とは何とも曖昧な概念であることを、この説明書きをした人間は理解しているのか。たとえば二千度以上に熱してしまうと、水のOH化学結合が分解してしまうが、それでいいのか。水を二酸化炭素と水素に熱分解させていいのか! どうも不明でならん!」
「あーもー、ンなの、触ったら火傷するぐらいが熱湯だっつーの。適当にしとけよ」
「だがな、シンタロー! まあ聞け。古代日本では盟神探湯という伝統があるのだ! およそ1600年前の日本ではな。身の潔白を証明するために、大釜に湯を沸かし、その煮立った湯に手を差し入れて、正しき者には火傷なし、偽りし者は火傷ありとして裁判が行われたという! その際に熱湯の定義が問題となった! なぜならある者がやや低温の熱湯、ある者が高温の熱湯では、裁判は公平ではないのであって、まさにそのような歴史を持つ日本からの土産物であるからして……」
「キンちゃん、どこまでやるの?」
 結局。
 グンマが湯を沸かし、それをケトルから慎重にキンタローが、カップの線ぎりぎりに1mmも狂わずに注いで(やたら時間がかかり、シンタローは麺がのびてしまうのではないかと心配した)。
 蓋をして正確に3分待って、三人は、割り箸をパチンと割って、声を合わせた。
「いただきまーす」



 すでに外で昼食をとるには、肌寒い季節であるのだ。
 三人は本部中庭側のサンルームで、並んで『金ちゃんヌードル』を食した。
 時々ガンマ団員が通りがかって、ビクッと身を強張らせ、足早に立ち去っていったりもしたが、そんなことは彼らの知ったことではないのである。
 優しい湯気が立つ。
 シンタロー的に少し気になるのは、この従兄弟の二人は箸を使って麺類を食べる時、やけにこう、巻きつけて、パクッと食べるようなやり方をすることだったが、まあそれは御愛嬌だ。
 ふう、と満足そうにキンタローが息をついている。
「当初はな……いいか、当初はな! 俺の名前使用によって得た経済的価値に対して、パブリシティ権保護を訴えようと思いもしたが。これだけ美味ければ、訴えを取り下げてやってもよいだろう」
「えへへ〜、朝一番に、裁判所に訴状を提出してたもんねえ、キンちゃんてば」
「海老、玉子、ネギ、シイタケ、豚肉、この具沢山かつあっさり醤油味は見事だ! この歯切れの良さは上質の小麦粉を使用しているとみえる。しかもこの携帯の易さ、勝手の良さ! わがガンマ団でも開発に乗り出してみてはどうだろう」
「宇宙船からネットから食文化まで、ガンマ団の世界征服計画が、着々と進んでいくねっ おとーさまも政治と芸能分野で御協力くださってるし」
「……俺はもう何も言わん……」
 従兄弟たちの弾むような会話を聞きながら、シンタローはぼんやりと、再びマジックのことを思う。
 二人の楽しげな会話は、自分たち家族の未来像であるのかもしれなかった。
 心の中で、ぽつりと呟く。
 ……マジック……。



 ……あいつとさ……俺……ダメだよなあ、このままじゃ……。
 『家族だから、ね』って言いやがって。でもあの場合は、逃げなんだと俺は思う。
 俺たち。コタローが目覚めたら、俺たち。『本当の家族』になろうって。
 ……でも、家族って台詞を、俺との関係の逃げ道に使うあいつは、最低なことをしていると、俺は。
 シンタローは、目を瞑った。
 マジックは、よく逃げる。そして壁を作って、シンタローを拒否することがある。
 過去何度も、自分が経験したこと。
 シンタローは、南国の島から帰るまでは、彼のその態度が、逃げであるとはわからなかった。
 単に冷たいだけなんだと。俺のことを本当に信用してないから、拒否するんだと。ずっと……思っていた。
 自分たちの関係性はまだ幼い部分を残していたし、シンタロー自身も自分のことに一生懸命で、マジックの逃避癖を知ることはなかった。絶対的な強さを持つ男で、自分なんかとは違う存在なんだと、感じていた。届かない。
 でも今は。今は、うっすらとながらも、わかる。
 マジックがずるいのも、すぐ逃げるのも、シンタローを拒否したくなるのも、つまりはその弱さも。



 月日が経つにつれて、シンタローには、だんだん、見えてきたことがあるのだ。
 彼に追いつこうとしていた自分が、今は彼と同じ総帥という地位で、必死にやっていこうとしているからでもある。
 そして秘石を失い、総帥ではなくなったマジックと、囚われるものを無くした彼と、側にいて深く接してきたから。
 ――俺がずっと見上げてたあいつも、強いって思い込んでたあいつも、ほんとは俺と一緒で、どうしようもないぐらいに、脆いんだって……。
 今の俺は、わかる――
 それでさ、あいつ。どうでもいいものだったら、拒否らなくって、無関心のはずだけど。
 ファンクラブに行って、尚更そう思ったんだよ。
 基本的に好意を向けられたら、来るものは拒まずって感じで、博愛的に受け入れて流すようなヤツなんだ、あいつ。
 たくさんの人間にキャーキャー言われるのが当然だと思ってるような、馬鹿野郎なヤツで。
 でも。でも。そんなヤツなのに。
 俺だけは、拒否して信じたがらないのって。俺の言葉、最後まで聞きたがらなくって、嘘とか言いたがるのって。
 それは、俺が。俺が。
 ――アイツの特別だからなんだって。
 やっぱ、ああいうこと言われたら、俺だって超落ち込むけど。
 でも、その裏で。感じてしまっていることがある。
 今の俺は、そんなこと思っちゃうぐらいに、なんていうか。なんていうか。
 前と違って、マジックとの新しい関係の中で、そうなっちゃったっていうか。ボケちゃったっていうか。
 他の人に言ったって、変なヤツって思われるかもしんねーけど。
 こういうの、おかしいかな。
 俺、俺。俺さ。
 あの紅葉の中で、拒否されたとき。
 俺が一番、アイツの特別なんだって。感じた……。



 シンタローは、閉じていた目蓋を開く。急に黒い眉を吊り上げる。
「くっ……」
 だからって。だからって、俺が追いかけなくちゃなんないってのも、ムカつく話だけど!
 ちくしょう。なんてヤツ! なんて手間のかかる!
 でもあいつ、多分。わざわざ秘書に行き先教えてたり、色々、色々。
 つまりは俺に追いかけてきてって、言ってんだよな……ええい、クソ、このアホ大人! 根性曲がった精神的幼児! バカ親父! あああ面倒くせえ! どーして俺、こんなこと! どーしてこんなことばっかり! 俺! 俺ッ!
「シンちゃぁ〜ん、何考えてるのぉ?」
「そうだぞ、シンタロー。箸が止まっているぞ。いや、折れている!」
 二人の声にハッとして、シンタローは我に返る。
 自分の手の中で、割り箸はか弱くも無残にぽっきり、真っ二つになっていた。



「まぁた悩み事〜?」
「例の件か!」
「……」
 キラキラ輝く二人の目に、シンタローは言葉を詰まらせる。
 もしかして顔に出していたんだろうか。
 仕方ねえ。
 シンタローは、割れた箸を机に置くと、気を取り直してこう言った。
「ま、おめーらには、この件に関しては世話になったような世話になってないような、そんな微妙な感じがするけれども、とにかく厄介かけたナ。さんきゅな。まあもう、これからは、これは俺の問だ……いや、知り合いのSの問題だから、もう気にすんな。心配無用だ」
 だが、この説明で納得するかと思ったのに。
 予想と違って、二人は意気込みだし、猛然と反撃してきたのである。
「気にするよぉ! もーう、シンちゃんは! いっつも一人で抱え込むから! 僕ら、いっつも心配してるんだからね!」
「そうだ、いいか、そうだぞ、シンタロー! お前は一人でガンマ団を背負っていると思い込んでいる節があるが、それは大きな間違いだ! 俺たちという存在を忘れてもらっては困る」
「……!」
「シンちゃん、ずっと元気なかったでしょう。僕たち、とっても心配してたのに……」
「お前が他事に気をとられているのはわかったが。俺たちにはどうしようもないのかと、心配していたのだ」
「……!!」
「だからね、シンちゃん。どうしても話せないことだったら、無理に聞こうとは、僕らも思わないけど。でもね。でも、心配するぐらい、させてよぉ! 僕ら、必要ない?」
「お前の問題は、お前一人だけの問題ではない! 総帥の問題は、ガンマ団全体の問題なのだ。お前の就く総帥とは、そのような職務であると同時に。お前は、俺たちの従兄弟じゃないか」
「……!!! お前ら……」



 思わず目頭が熱くなって、シンタローは胸をズキッとさせた。
 さすがに彼らのこの言葉はこたえた。自分はそんなに二人を心配させていたのかと思う。
「お前ら……オマエラ……」
 悪かったと、思う。俺が悪かった。それなのにお前らは。こんなにも優しいのか。
 負担のかかった心に、これはきた。
 感動だ。
 そんな顔のシンタローを見て、二人は大きく頷き、輝く透き通った目で言い放った。
「ダメだよぉ、セックスレスはぁ〜 長期化しちゃったら、取り返しつかないよっ!」
「そうだぞ! 現代社会に潜む大きな問題の一つだという! すぐに解決せねばな! 気を落すことはないぞ! シンタロー……の知り合いS氏!」
「ごめん、お前ら。頼むからその顔で、そういうコト言うのヤメテ。せっかく立ち直った硝子のハートな俺様が、再びショック受けるから。地面にめりこむから。マジで」



 シンタローは言葉に迷う。
 そして、ぽつぽつと語りだした。彼らに以前相談した、その後の経過を、である。
 彼のつたない話に、ふんふんと頷いている二人。
 話は、たどたどしくならざるを得ないのである。
 何しろ、個人特定されやすい際どい言葉を、その雰囲気を損なうことなく、一般的に、またはぼかして言い換えなければならないのであるから。
 例えば。
 『マジックファンクラブ』→『筋肉男による夜のつどい』
 『山南』→『川北とかいう人』
 果たしてこれで通じているかどうかが疑問なのである。
 だが、ちらりちらり二人の表情をシンタローが窺うに、ちゃんと通じているらしい。時々、カップに残った汁を飲んでいたりするが、彼らは本筋は理解してくれているようだ。
 とにかくシンタローは、現時点までを、一気に喋る。
「真面目に言おうとした言葉が、信じてもらえねーんだ……」



「あ〜」
「ふむ……」
 かたんとテーブルに、空になったカップを置いた二人は、顔を見合わせている。
 ついあの時の気持ちが蘇ってしまったシンタローは、声を荒げた。
 立ち直ったとはいえ、思い出すと、やはり切ない。だから一生懸命になる。
 焦りが、汗になって額をつたう。
「そりゃ、そりゃな! 普段は絶対言わねー台詞だし、むしろ相手からは『言って! 言って!』ってねだられてたけど、バリバリに拒否ってたし……そんなの言えるかっての。漢が。恥かしいっての! ま、それでさ、いまさら言ってもそりゃ信憑性低いって言われるかもしんねーけど、でもさ、でもさ! ンなの、滅多に言わなくたって、あっちもわかってるって思うじゃんかよ! そういうの、口で軽々しく言うモンじゃないと思うんだよ! な、な、お前らもそー思うだろッ!」
「あ〜〜」
「ふむう……」
「でな! うっううう浮気したとか! そーゆー勘違いしてやがって! 誤解してんだよ! 誤解しやがってンだよ、あいつ……って、そのMはよッ! そんんで怒ってンだ! 話、聞いてさえくれねえんだぜ! ひでえよな! っつーか、浮気どーのっていうより、とにかく勘違いされてンのがイヤでさあ! なんかこー、胸の中がジクジクするっつーか」
「あ〜〜〜」
「ふむうう……」
「や、でもMは……勘違いっていうか……う……そんなつもりじゃなかったのによ……もう一回『浮気してる?』って聞いてくれたら、違うってちゃんと言えるのによ……でもヤツは……もう謝るにも、謝らせてもくれねえんだ……」
 それまで大人しく話を聞いていたグンマとキンタローが、ふう、と溜息をついた。
 話し続けていたシンタローは、顔を上げて、二人の顔を見る。
 二人はシンタローを慰めるような表情をした後、言った。
「でもゴメンね。僕、Sさんの気持ちはわかったけど、話の核心がよくわからないよぉ」
「うむ。根本がな……」



 困ったような顔をした従兄弟二人は、首を傾げている。
「それにね、シンちゃん。そのSさんが言おうとした言葉って」
「何という言葉なのだ?」
「!」
 ぐ、とシンタローは言葉に詰まる。
 それは二人には告げていなかった言葉だった。
 この場にマジックはいないのだから、それは何ということもないただの言葉であるのに。
 なぜか、口に乗せることができなかった。
 ――す……。
 やっぱ、ダメだ。
 仕方なく従兄弟たちから目をそらし、黄と橙で彩られたカップラーメンのロゴを、何となく眺めながら、こう言う。
「……ま、どーいう言葉かっつーのは、この場合言わなくたって……う、要は相手が信じてくれねえコトが、ポイントなんだっての」
 はっきりしないシンタローの答えに、二人は首を振る。
「ダメだよぉ、シンちゃん。信じてくれないっていうのは、言葉の中身が問題なんだよぅ」
「そうだぞ。相手が信憑性を疑う対象は、中身以外にありえないのだからな」
 まあ言えないっていうなら、しょうがないけどね、と二人は肩を竦めていた。
 指摘されてみれば、確かにそうなのである。でも。でも。
 シンタローにとっては、その言葉は、特別だったから。
 ――言えなかった。



「それではその言葉は捨象して、次にお前の証言の後半を検討しよう」
「そぉだね〜、それしかないね〜」
「お、おい」
 二人が妙に手際よく考察を進めていくので、置いてきぼりにされまいと、慌ててしまうシンタローである。
 キンタローが重々しく言う。
「しかしこれも、だいたいM氏に『浮気したと誤解されている』という現象が解らない。なぜなら、先刻言ったように、根本が不明であるからだ」
「あのね、真夜中のMさんと、今のMさんって、なんだかシンちゃんのお話聞いてると、別人みたいだねえ。もしかして二人いるの? あれ? でもSさんが誘惑してたのって、どっちのMさん?」
「お前の話の解らない点は、M氏が複数なのか単数なのかということだ。どうして分裂するんだ、科学的に不可解だ! それにそもそも『浮気』というが。M氏がS氏を疑っていることは理解したが……」
「Sさんが誰と浮気したって、Mさんは思ってるのぉ? 今までのシンちゃんの話を総合すると、Mさんは、Sさんを、Mさん自身と浮気したって怒ってることになるよねえ。僕ら、よくわかんないよぉ〜」
「くっ……」
 二人の混乱は、もっともなのである。ただでさえ事実関係がややこしい。



 何しろシンタローにしても、今まで真夜中のマジックと本物のマジックを、完全に同一人物だと認識していたのである。
 その前提のまま、以前はこの二人に顛末を話していたのだから、無理もない。今だって、SとMの正体がばれてしまうことを恐れて、シンタローはこの点を二人に詳しく説明してはいない。
 現在のシンタローは、どうやら自分の認識が間違っていたらしい(少なくともマジックの意識では)ということを知っている。
 そしてこのマジックとシンタロー間の、相互の誤解こそが、問題の核心なのである。
 シンタローは、真夜中のマジックを、本物のマジックとは同一人物、それも本物の本心として考えていたのだし。
 マジックは、未だにどうやってこの事態を知ったかは定かではないが、真夜中のマジックを完全に別人と考えて、シンタローが全くの別人と浮気したと怒ってしまっているのである。
 この齟齬。
 確かに。自分たちのすれ違いの最大の原因、核心は、事情を完全には理解せずともこの二人の従兄弟が指摘するように。
 真夜中のマジックに対する認識の違い。
 まさにそのことにあるのかもしれなかった。
「……」
 思わず腕組みをして、考え込んでしまうシンタロー。
 沈黙が流れた。



 その時。どこからか、ガッシャンガッシャンと音がする。
 玩具箱が揺れる時のような。たくさんの歯車が、横倒しになって我先に助けを求めるような、騒がしい音。
 と。目の前のグンマの白衣の腰に、何かがへばりついたように見えた。何か。
 ……鼻? 長い……。
 グンマのペット、アフリカ1号が、その体を擦り付けてきていたのだった。
 長い金髪を後ろで束ねた従兄弟は、目を細めて、優しく撫でてやっている。
「よしよし」
「すまんな、すでに俺印ラーメンは食してしまったのだ」
「え、こいつの燃料って」
 アフリカ1号とは、グンマのゾウ型ロボットである。
 基本的には乗り物用らしいが、シンタローの脳からは、これに乗った従兄弟の姿は、脱力のあまり消去されている。
 本来なら勿論建物にはペットの持ち込みなんて厳禁なのだが、これは発明品であると主張されてしまえば、取り締まる訳にもいかない。
 結果として、この機械仕掛けの動物は、本部を自由自在に闊歩しているのである。
 パオーン、とアフリカ1号は、長い鼻を揺らして鳴いた。
「あのね、シンちゃん。僕、思うんだけどさぁ……」
 小ゾウを撫でながら、グンマが、ゆっくりと語りだす。
「そのMさんね。ええと、よくわかんないけど、怒っちゃってる方のMさんだよ。そのMさんにね、そのもう一人のMさんにしてあげたよりも、もっと上のことをしてあげれば、Sさんの気持ち、信じてくれるんじゃないかなあ……」
「上……?」
 動物のくるくる動く小さな目に気を取られていたシンタローは、突然の脈絡に、眉を上げる。



「確かに。このアフリカ1号のことを考えればな」
 グンマの隣で、深く頷いているキンタロー。
 彼は彼で『耳の後ろが乾いているな。水分供給が足りない』などと、アフリカ1号の調子を気にしている。
 この場で、文脈を理解していないのは、シンタローだけのようで、仕方なく説明を求めるハメになる。
 シンタローは言った。
「どーいうコトだよ」
「うーんとね、」
 紙コップに、キンタローが魔法瓶から、とぽとぽ抹茶を注いでいる。
 これも日本のお土産。まったく何だって買ってくるのだ、あの男は。
「この子ねえ、すっごく嫉妬深いんだよぉ。ほら、僕の発明品って、1号ってつけたら、その後に普通は続けるんだ。2号、3号って、どんどん改良してくの」
「あー、そーいやそーだな」
 魔法瓶を受け取り、シンタローも熱い抹茶を、自分のコップに注ぐ。芳香が立ち昇った。
 グンマは、この子、と呼ぶペットの太い首を、ぎゅっと抱きしめた。
「でもこの子だけはねぇ〜、いつまでたっても、アフリカシリーズで、たった一匹だけなんだよ。他の子、特にゾウは作れないんだぁ」
「ほー……嫉妬って、他のゾウを作ったら、怒りでもすんのかヨ」
 アフリカ1号はあくまで機械なのだから、シンタローは冗談で言ったつもりである。しかしグンマより先に、キンタローが真顔で答えた。
「そうだ。一度などは作業の途中で、部品を隠されたこともあった。しかも泣く。また泣き声が凄い。こちらが眠れないほどだ」
「そーだよねえ、邪魔したり泣いたり、もう駄々っ子みたいなんだよね、この子ったら〜」
 小ゾウの眉間を、笑顔でグンマはぐりぐりやっている。
 そんなもんか、とシンタローは抹茶を一口飲む。
 濃くて深い味。喉を熱がつたっていった。



「でねでね、それでゾウ型ロボットはもう作れない状態なんだけど、アフリカ1号は、困ったことに、他の種類のロボットにまで嫉妬しちゃうから、もぉ開発やりにくくってぇ」
「他のロボットって。あーお前の作り出す変態ロボね……ガンボットとか……」
「そうだ。特にそのガンボットシリーズとアフリカ1号は、仲が悪くてな。俺も困っている。なにしろこの俺が開発している背後で」
「そぉそぉ! こないだなんか、僕がちょっとガンボット1号に優しく油さしてあげたら、アフリカ1号が怒っちゃって! キンちゃんの後ろで、ロボット同士、とっくみあいのケンカして大変だったんだからぁ!」
「かなり踏まれた。いいか、かなりだぞ! しかしその時、俺は新しい着想を得ていたため、場所を動くこともままならず……同じ場で開発を続けざるを得ず……踏まれに踏まれ、蹴られに蹴られ」
「あ、あっそ……お前らも大変なんだな……」
 そんな恐ろしいロボット生活は、御免被りたいものである。
 この二人の研究室は、すでに動物園化しているようだ。
 とにかく。グンマの言いたかったことは、このことであるらしい。
「だから僕ね、ケンカの後、こっそりアフリカ1号に、ガンボットには内緒だよって、言ってからね。もーっと優しく優しく、油さしてあげたんだぁ。しかも燃料、ハイオク! そしたら、ピタリと御機嫌直っちゃったの。もぉ、この子ったらぁ〜」
「あれ以来、確かに泣くのは止まったな。ただ鳴くだけだ。俺も安心して開発に勤しむことができる」
 一層強く、ぐりぐりぐりぐりと、グンマの握り拳が小ゾウの眉間を刺激している。
 だからね、シンちゃん。
 一息置いて。この幼い時から一緒に育った従兄弟は、シンタローに向かって、にっこり微笑んだ。
「自分がそのライバルより、特別なこととか、上の扱いされてるって思ったら。きっとその怒ってるMさんも」
「嫉妬心が和らいで、機嫌が直るだろうという訳か」
「……!」
 ぱおーん。
 アフリカ1号が、ひときわ鼻を高々と上げて、鳴いた。



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 そしてそして。
 こうして夜なのである。
「はあ……」
 夕食を済ませたシンタローは今、居間のソファで溜息をついている。
 一人で、黙然と新聞を広げ、読んでもいない字面を追っている。
 カーテンの向こう、窓の外は、暗く静まり返っていた。
 チッチッチッと時計の針の音だけが、空間を支配する。
 ついに自分一人だけの時間が、来てしまった。



 ――先刻。
 せっかく決戦だと心を決めて、精一杯に胸を張ってシンタローが帰宅したのに、マジックは出かけていた。
 帰りは遅くなると、テーブルにメモ書き。
 肩透かしだ。
 何だかまた、突き放されたような気分で、シンタローはそのメモ書きを、ぴんと指で弾いた。
 フッと暗い気分に陥りかけたが、従兄弟たちの明るい雰囲気に救われた。
 夕飯は、またピザを取った。取ったというより、二人が運んできたのだが。
 昼食を考え合わせれば、ちょっと食生活が乱れているなと思うが、まあたまにはいいだろう。何より二人が楽しそうだったから。
 二人は鈍感なようでいて、実は自分に気を遣ってくれているのかもしれないとも思う。
 そう思えば、シンタローの胸に感謝の気持ちが込み上げてくる。
 同時に、彼らに対しても、本当のことを言えない自分に。
 本当は、お前らに相談してるのは、知り合いの話なんかじゃなくって、俺の話なんだよと、言えない自分に、腹が立ってくる。
 俺って奴ぁ。
 でも、言えないのだった。



 マジックとのことは、シンタローにとっては心の真ん中に位置しすぎていて、神聖不可侵であるのかもしれない。
 色んな意味で、とてもとても……重い存在だった。
 それだけに逆に、簡単に『好き』と口にするマジックが、軽く感じられてならない。シンタローにとっては、この温度差も嫌で仕方がない。
 俺とマジックって、どうしてこう、噛み合わないんだろう。
 俺の方が悪いのかなと、自己嫌悪に襲われることもよくある。特にこの数日間は、その波の繰り返しだった。
 寄せては返し、引いては押し寄せるネガティヴ思考。
 だけども、やっぱり。
 最後には、自分はこんな自分でしかなく、それならその範囲で、できることを精一杯に頑張るしかないのだと気付いた。
 自分なりにマジックとの関係を築いていくしかないのだと思う。
「くっ……認めたくはねーけど……」
 アイツと俺とが……離れられない以上は……。
 この境地に立つまで、自分はどれくらいの長い時間と苦難を、乗り越えてきたのだろうか。
 そして。そんな弱い自分であっても、いとわず話を親身になって聞いてくれる従兄弟二人の存在が、ありがたくてならないとも思う。



 シンタローは新聞紙を閉じると、ばん、とテーブルを叩いた。
「くっ……」
 ギリギリと唇を噛み締める。
 またまた。絶対に。こんな時は必ず、しつこいくらいに必ずなのである。
 どうでもいい時は、いるなと言ってもいる癖に、いろと思った時は、絶対にいないのである。
 案の定、マジックの帰りは、遅かった。
 連絡もない。自分たちが夕食を終えてしまってから、一体何時間経ってしまっているというのか。
 あいつったら。あいつったら、ほんとにもう!
 まぁた真夜中かよ!



 シンタローは、勢いよく立ち上がった。
 こんな所で何もしないでいたら、どんどんと暗い内面に、自分が侵食されていくばかりである。不安になる。
 体を動かすに限る。
「やるかぁ!」
 いつものようにキッチンに篭り、巨大な樽に腕を入れ、ぐりぐりと糠床をかき回しているシンタローであった。
 イライラした時は、物にあたるより、渾身の力で漬物を生産した方が、得なのだ。
 糠床は、定期的にかき回さなければ腐ってしまうのであるが、昨日まではその元気もなく、危うく菌が死んでしまうところであった。今朝は処置に大変だった。
 今日の俺は元気。
 不安を、イライラや怒りに変化させることができるほどに。
 乳酸菌よ、酵母よ。元気だったか。俺は負けねえ。お前らも頑張れ。
 ぐりぐり。ぐりぐり。今夜も。腕が鳴る。



「はぁぁ〜、よーし、これでいーだろ!」
 またもやつい無心に、熱中してしまった。
 汚れていない腕の肘で、額の汗をぬぐい、シンタローは爽やかにハハハと笑う。
 ウチの漬物は、俺様製。ウチの漬物は、世界一!
 手を洗い、しばし充実感に浸ったのであるが、フッとキッチンのテーブルに置いたまま、ウンともスンとも言わない携帯が目に入り、再び焦燥がぶり返してくる、この儚い俺の幸せ。
 マジックはまだ。帰ってこないのだった。
 遅くなるって。俺とやっぱり会いたくないってことだろうか。
 ……! いやいやいや! 俺! マイナス思考はやめっ!
 頭を一つ振って、自分の頬をパチンと叩いてから。
 シンタローは携帯を見つめた。
 それから、ぽつりと呟いた。
「メール……送ってみようかな……」



 シンタローは、キッチンのテーブルに歩み寄り、うんともすんとも言わない携帯を見つめる。
 所在無げに、手を伸ばす。指の腹がクロスをすべり、しなやかな感触が肌をつたう。
 そういえばこのテーブル、と記憶が蘇る。
 ここで……真夜中のマジックと、肉じゃが、食べたんだっけ……。
 あれ、楽しかったな。
 あいつ、カッコよかったな。
 少し前のことであるはずなのに、何だか遠いことのように思えて、シンタローはちょっと寂しくなる。
 マジックは、やっぱり、マジックなのだった。
 みんな同じマジックだし。楽しくやってたマジックだって、普通のマジックだって、俺にとっちゃ、全部マジックなのに。でもあいつは。
 あいつの色んな一面を見ることできて、だから俺は楽しかったのに。
「……」
 意を決して、シンタローは携帯を手に取る。
「受信拒否とか……されねーよな……」
 決意が鈍らない内に、一気にメールを打ち、ピ、と送信ボタンを押す。
『件名:買い物  みりん買ってきて』



 受信拒否されないまでも、今までみたいに、返事は来ないかもしれないと思ったのに。
 意外にも早く、シンタローの携帯が鳴った。慌てて確認する。
 しかしマジックからの返信は、そっけないものだった。
『件名:Re:買い物  シンク上の左から二番目のキャビネット』



「!」
 シンタローがキッチンに駆け込んで、その場所を探すと。
 キャビネットの奥には、嫌味な程にきっちりと、みりんの予備が保管されていたのである。
 透明の瓶に入った黄色がかった液体が、静かにシンタローの顔を映しだしていた。
「クソッ……折角きれてたと思ったのに! ちゃんと買い込んでやがる!」
 舌打ちしたシンタローは、棚のあちこちをガタガタ漁る。
 漁るったら漁る。
 そしてある確信を得て、意気込んで携帯に向かう。
「これならどうだ! さすがに、これはねえだろ」
 ピ。再度送信。
『件名:買い物  ガラムマサラ買ってきて』
 またすぐに返信があった。
『件名:Re:買い物  キッチン床下収納右奥』



「ぐぅ……っ! マジックの奴! インド伝来の混合香辛料までッッ!!! なんだアイツ! なんだアイツ!」
 ダン!ダン!と床を踏み鳴らす。
 シンタローは仕事で忙しいため、家にいる頻度の高いマジックの方が、備品の在庫具合に詳しいのは仕方がないことだったのであるが。
「くっ……カレーか? あいつ得意のカレーの原料だからたまたま保管してあったのかよ? 運のいいヤツめ! よぉし、それならなあ……」
 悔しさのあまり、すでに何だか目的と手段が入れ替わってしまっているシンタローである。
 以下、順に、シンタローが送信した品目である。
 ・ラムフォード・ベーキングパウダー
 ・チップトリー英国王室御用達オレンジ&モルトウィスキー
 ・柚子胡椒
 ・黒トリュフペースト・タルトゥファータ
 ・魚醤
 ・新島産くさや
 ・めんたいマヨネーズ
 ・特選料亭白だし【四季の彩(いろどり)】
 ・カルシウム入・北国の味覚 シャケフレーク
 ・北海道産小麦粉 春よ恋ブレンド
 ・モンプチ猫缶 子猫用白身魚のやわらか仕上げまぐろ入り
 ・山口県阿武郡産 貴女の体をボディーガード“あぶのきな粉”
『件名:Re:買い物 キッチン横パントリー、上から5段目の右』
「うおおおおお――――――ッッッ!!! ムッカつく〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」



 ぜいぜいと息を荒げて、テーブルにぐったりと倒れこむ。
 長い黒髪が、汗で頬に張り付くのが、鬱陶しい。流石に疲れる。
 疲れてみて、さすがにこれはマズいと気付く。
 シンタローは一度自室に戻り、備え付けの冷蔵庫から、作り置きのレモン水を出してガブ飲みすることにした。
 すると、どうにか気持ちが治まってきて、楽になった。
 人間、水分補給は大切なのだ。
 冷静になって考えると、ここは焦ってはいけないのである。
「……落ち着け、俺」
 シンタローは、俺としたことが。うっかり相手のペースに乗せられる所だったと、反省する。
 自分は、このマジックの拒絶モードを打ち破らなければならないのだった。
 つい違う部分で熱くなってしまった。
 まあ、返事がきただけ、今の時点ではよしとしよう。
 それなりのコミュニケーションをとることはできた。
 一歩前進である。



 ……しかし。
 喉が潤い、客観的に現在の自分を見直すと、やはり、腹が立って仕方がないのである。
 どうしてこの俺がこんなことまで。
 夜遅くにキッチンを這いずり回って、がさごそやらなくっちゃなんねえんだよッ!
「くっ! この俺が、待ってやってんのに!」
 シンタローは、拳を握り締める。唇を引き結ぶ。
 なーんてアイツは、傲慢で不遜で馬鹿で我侭で贅沢で……。
「めんどくせーヤツ!」
 そう部屋の壁に向かって叫んだ後、シンタローは、溜息をつく。
 ……なのに、そんなアンタなのに、俺、待ってやってんのに。
 ホントだったら、アンタなんか待ってやらねーんだぜ。
 寝ちゃうんだぜ。
 ホントだぜ。



 気を取り直したシンタローは、一階に戻る。
 再度、玄関ホールから廊下、階段その他、帰宅したマジックが通りそうなルートを点検した。
 軍人の目で、検討を重ねる。
 ――折角、待っているのに。
 それなのに、帰って来た所で逃げられたら、元も子もないのである。
「……よっし」
 しばしの熟考を重ねた後。
 せっせと玄関ホールから廊下にかけて、罠を仕掛け始めるシンタローであった。
 マジック捕獲大作戦。
 シンタローは自分では気付いていないが、こういうところが、ちょっと常人と変わっていた。
 変人揃いの青の一族は、互いに、自分が一番まともだと信じ込んでいるところが、最大の問題点なのである。



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 どれぐらいの時が経ったのだろうか。
 シンタローは、小指の感触で、ソファでのうたた寝から目を覚ます。
 左の小指に結び付けておいた黒糸が、ぴくぴくと反応していた。
 罠が作動している証拠。
 ――マジックが、帰って来たのだ。
「……!」
 シンタローは、跳ねるように立ち上がった。





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