真夜中の恋人

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 中庭を抜け、外から回って、最短距離で玄関ホールに駆けつける。
 時は真夜中。闇の中。冷たい風。夜を吹く風。
 一気にシンタローが飛び込んだ、静寂の立ちこめる待ちわびた空間。ホールの天井から下がるシャンデリアは、深夜には薄絹のように静かな光しか漏らさない。
 シンタローは、柔らかな絨毯を踏みしめた。
「……」
 駆けてきたばかりの息を整え、顔を上げる。
 顔を上げると、目が合う。合った目は、一瞬で、ふっと逸らされた。
 ――マジック。
 やっと、会えた。



 薄明かりに包まれて佇む、外出用のコート姿のマジック。
 さあっと大窓から月の光が差し込んできて、マジックの輪郭を銀に描いた。いつもの金髪が、まるで銀細工のように、ゆらりと輝く。
 シンタローは、自分の手を見た。自分の手も、月に照らされて、白く冴え渡っていた。自分の姿は、マジックにはどのように見られているのだろうと、ふと考える。
 二人はしばし無言で、その場で立ち尽くしていた。静かな時が流れた。やがて月が、黒雲に覆われたのだろうか、窓から差し込む光が、消えた。
 するとそれが合図のように、マジックが、歩き出した。



「マジック!」
 弾かれたようにシンタローは、彼を呼ぶ。だが、彼は振り返らない。玄関ホールを出て、長廊下へと足を踏み出す。
 そのマジックをセンサーが察知して、シンタローの仕掛けた罠が作動した。
 シンタローは、マジックの背中を追う。



 ズガアアアアアアアアアン!!!!!
 ばっくりと裂けた壁、崩れ落ちる屋根。吹き上げる火炎、もうもうと立ち昇る煙。みるみるうちに、瓦礫へと姿を変える日常、舞う粉塵。
 その中をスタスタ歩いていくマジック、追うシンタロー。
「なあ。なあって」
「……」
「なあなあなあ!」
 炎上する廊下を、二人は突き進む。
 二人は、恐ろしい音を立てて倒れてきた柱を、ひょいと避け、足元の穴を、ひらりと飛び越える。降ってくる岩石を破壊し、飛んでくる矢を叩き落す。
「なあ! なあなあなあなあ! こっち向けよ!」
 足元にまといつく猫のように、シンタローはマジックに絡むが、それさえも避けられてしまう。
 シンタローが右から迫れば、男は左へ、シンタローが左から迫れば、男は右へ。
 それも罠を避けながら、まるで軽業師のような二人組である。
 シンタローは、思わず声を荒げる。
「なんで無視すんだよ! 俺の話、聞けよ!」
「……」
「こんな遅く帰ってきて、どーいうつもりなんだよ! 夜遊びでもしてんのかよ! なあ! なあってば!」
「……」
 それでも相手は無言なのだ。



 くっ……!
 シンタローは、ギリギリと唇を噛み締める。
 噛み締めながら、頭上に落ちてきた、ひときわ大きな巨大岩を、左の拳でガツンと割る。
 隣を行く男の横顔を、睨みつける。
 マジックのこの顔。ポーカーフェイス。まず俺は、これを崩さなければいけないんだ。
 何か。今度こそ、何か、言わなきゃ。
「ア、アンタ……」
 しかし、またもや何を言えばいいのか、シンタローはわからないのである。
 つい頭に浮かんだことを、口にしてしまう。
「アンタ。最初のワナ、気付くの遅れたろ!」
 さっき、居間のソファでうたた寝をしていた時に。
 自分の小指に巻きつけておいた黒糸が、かすかに反応したということは、少なくとも完全にはマジックは罠を避けられなかったということなのだ。
 マジックは、足こそ止めなかったものの、痛い所を突かれたような顔をした。
 よっしゃ、イヤな顔してやがる! いけるぜ、このネタ!
「へっへ、ひっかかったんだろ!」
「……」
「なあ、正直に言えよ! 俺のワナにひっかかったろ! なあ、ひっかかったろー!」
「……」
「やーい、ひっかかったー! ひっかかったー!」
 畳み掛けるシンタローに、耐え切れないといった様子で、マジックがついに口を開く。
「ぐっ……ちょっとぼんやりしていたんだよ! だいたい車から降りるその場所に、パンジステークなんて仕掛ける方が悪い! 不意打ちだ!」
 それを聞いて、シンタローの口元が緩む。
「へっ! やっと口ききやがったな!」
 つい小学生男子のような追及になってしまったが、結果として相手が口を開いたから、成功である。
 しかし返ってきた言葉が、気に障った。マジックはこんなことを言ったのだ。
「フン……あんまりお前が構って欲しそうだったからね……」
「ム!」
 緩んだシンタローの口元が、またきゅっと引き締められる。
 心外なことを、言われた。



 二人は、炎の中を歩く。
 さくさく罠を避けながら、互いに顔を背けながら、歩く。ガラガラと壁が崩れてくるのを、払いながら進む。耳をつんざく轟音、吹き上げる熱の粉を払いながら、どんどんと突き進む。
 と、シンタローの耳に――廊下を三分の二まできた所で、ぼそりとマジックが呟く声が、聞こえた。
「足は。もういいのか」
 日本で捻った足のことだと、気付いた。
 シンタローは、どうしてか相手の顔を見ることが出来なくて、そっぽを向いたまま答える。
「あ? あ、ああ……別にもう……」
「……ふーん……」
 折角の会話は、そこで途切れてしまう。途切れた糸は、もう自然には繋がりはしないのだ。
 かわした罠の作動する音と、炎の燃え上がる音、瓦礫のさざめく音ばかりが、二人を包んでいる。
 シンタローは、思わず叫んだ。
「それだけかよ……!」
 間を置いて、相手が答える。
「……それだけだ」



 互いに早足で歩く。二人の周囲を、ごうごうと熱風が吹く。
 空気を切り裂くような音をたてて、廊下の両脇からしなる棘付き鞭、降ってくる手榴弾、作動する爆弾、落ちる床。
 自分が仕掛けたとはいえ、壮絶なアトラクションだぜとシンタローは思う。
 でも、マジックの足は止まらない。なんて奴だ。負けずにシンタローも、追いかける。
 このまま男を逃してはならない。何とか会話を続けなければいけないのである。広い背中に覆い被さるようにして、とにかく話しかける。
 そーだ、こういう時は……えーと、えーと……。
「アンタ! メシはっ!」
 そう噛み付くように聞いても、返ってくる言葉は、短くてそっけないのである。
「……外で済ませてきた」
「くっ……フロは!」
「今から。そんなの私の勝手だろう」
「ぐ……ええと、それとも、オレ……いやや、何でもねえっ! 何でもねえってか、」
 その時、シンタローは、眉を上げた。目を丸くする。
「ていうか、アンタ……」



「……」
 マジックの足が、ピタリと止まる。
 くるりとスーツ姿が振り向いて、シンタローは冷たい青い瞳に見つめられる。薄い唇が動いた。
「何。こんな盛大な罠まで仕掛けて、お前は私と何を話したいの」
 シンタローは、口をぱくぱくさせた。
「ていうか、アンタ……」
「……私の方は、お前と話すことはないよ」
「アンタ……あのさ……」
「おやすみ」
「あ、あのさ……」
 マジックは、話しかけようとするシンタローを振り切って、階段を登っていく。
 足音。それは常より余韻を持ち、厚い絨毯の上を引きずるような、重々しさを伴っている。
 シンタローは立ち止まったまま、マジックの後姿を眺めている。
 後姿は階上に消える。やがて扉が開く音がして、閉まる音がした。
 足音が消えた。



「……」
 眉間にシワを寄せて、階上の気配を窺っていたシンタローは。
 そのまま沈思黙考していたが、小さく左に、首をかしげた。
「っていうか、あいつ……最後にまともにワナ踏みやがって……でも爆発しなかったよなあ。不発弾だったのかぁ?」



 去っていくマジックの足元には、シンタローが階段下に仕掛けた最後の罠、その罠線がひっかかっていたのである。
 地上20cmに線を張っただけの、一番単純なものなのに。
 シンタローがせっかく指摘してやろうと思ったのに、相手は構わず、スタスタ歩いていってしまった。
 ずるずる罠線と爆弾とを、引きずったまま。そのまま部屋に入ってしまったのだろうか。
 シンタローは、腕を組んだ。今度は右に首をかしげてみる。
 うーん。
 気付いてねーのかなあ。
 おまけにアレ、最後だから、余った爆薬、全部使っちまった代物なんだけど。
 やがて壮絶な爆音が、屋敷を縦に引き裂いた。



 ズガ――――――――ンッッッ!!!
 衝撃で目の前の階段や、柱が震えている。灰色の煙が、階段にまで伸びてきて、のたうっている。ここまで、焦げた臭気が漂ってくる。
「あーあ……言わんこっちゃねえ」
 シンタローは、安全な階下で、ぽりぽり頭をかいた。
 緊急用のスプリンクラーが作動している音がする。やっぱりマジックの部屋は、この調子だと、炎上してしまったらしい。
「あいつ……ますます怒らせちまったかも……」
 まあ本人は大丈夫だと思うが、絶対に確実に間違いなく、さらに怒らせた。
 これはマズい事態である。さらにさらに仲直りが難しくなってしまった。
 う……。
 シンタローの額を、たらりと冷や汗がつたう。



 でも。でも。俺は、あいつがあんなにまともに罠に引っかかるなんて、思わなかったから!
 せいぜい、あいつの足を止めて、話をする手助けになるかなって、俺は……。
 どうしよう。
 焦ったシンタローは、自分の中でその焦りを誤魔化そうと、虚空に向かって憎まれ口を叩いた。
「あんだよ、ひっかかってんじゃねーぜ。やっぱ年かよ?」
 シンタローは、小さく足元を蹴った。ふと、先刻のマジックの言葉が、脳裏によぎる。
『ぐっ……ちょっとぼんやりしていたんだよ!』
 ――今も、あいつ。何でもないみたいな顔してて。
 冷たい顔してて、でも内心は。実は、動揺していたんだろうか?



「……」
 シンタローは、自分の長い黒髪の先を、軽く引っ張った。階段の手摺を、人差し指で、所在無げになぞる。焦げついた臭いに顔をしかめる。
 ぼそりと、呟いた。
「チッ……いつもは、アイツが俺に廊下でまとわりついてくんのによ……」
 思い起こせば日本酒を初めて飲んだ夜だって、そうだったような気がする。
 仕事から帰ってきた途端に、飛びつかれて。俺が無視してムリヤリ歩いて。いつものパターン。
『おかえり、シンちゃん!』
『さーあ、シンちゃん! お風呂にする? 御飯にする? それとも、ワ・タ・シ?』
『わあ、やっと口きいてくれたね! パパね、シンちゃんが口きいてくれないのが、世界でナンバーワン悲しいこと!』
 シンタローは、小さく頭を振った。
 遊んで、遊んでって、あいつ……。
 バッカみてえだったよなあ……。
 ま、同じようなコトしてる俺も、バカなんだけどよ。
 今の状況って、なんだか普段と逆転しちまってるみたいだ。



「……」
 少し寂しい気持ちになってくるシンタローである。我知らず、うなだれる。
 俺、あいつに冷たくしてたかなあ……。
 だって、そういうの慣れちまってたから。
 それにあいつ、わざとらしいから。普通にすればいいのに。どーしようもなく、わざとらしいから。
 あんなアタック、俺が嫌がらなかったら、オカシイじゃん。俺様的に、しめしがつかねえ。
 ――恥かしいじゃねえかよ。
 シンタローは、じっと自分の手を見る。あいつも、もしかして今の俺と一緒で。
 俺に拒否されて、寂しい思い、したこと。あったんだろうか。
「……チッ……」
 シンタローは舌打ちをし、口をへの字に曲げる。わざとムッとした顔を、誰も見ていないのに、作る。
 ――これから。
 もし、あいつと仲直りできたら。
 俺。ちょっとは優しくしてやってもいいかな、なんて。なんて。
 なんてな。
 そんなことを思いかけて。もう一度舌打ちをしてから、鼻の頭を掻いて、今は目前の問題だ、さてこれから、どうしよう。作戦を立て直さなければ、と。
 瓦礫の中、階段下で、傍目には、ぼーっと立ち尽くしていたら、階上で物音がした。足音が続く。
 マジックの気配がする。こちらに近付いてくる。
「うわっ、きたっ、きやがった!」
 心の準備をしていないシンタローは、慌てて辺りを見回す。
 思わず、側のひときわ大きい瓦礫の山の陰に、身を隠す。頭を伏せる。



 しばらくして、マジックが階段を降りてきた。
 隠れているシンタローには、気付いてはいないようである。
「……」
 シンタローは、伏せていた身を起こし、首を伸ばして、相手の様子を窺う。ゴクリと唾を飲み込みながら、冷や汗をかく。
 自分の前を通り過ぎていく金髪の男の姿をじっと見守る。
 ――見たところ。
 マジックの眉がわずかに寄っている。目つきも悪いが、なにより雰囲気。背後に漂うオーラが、明らかに黒い。
 ……う……やっぱり怒ってやがるよな……あの顔は。
 この顔は、勿論付き合いの長いシンタローには、わかる。当たり前のことだが、マジックは最高潮に機嫌が悪い顔をしている。
 これはヤバい。かなり危険である。
 おそらく被弾したと思われる外出用のコートは脱いだようなので、現在の衣服にはさして乱れはないようではあるが。
 よく見れば横顔には、少し黒い煤がついているような気がする。前髪が乱れているような気がする。明らかにマトモに爆弾の直撃を受けた様子である。
 やはり、部屋を爆破したのは、マズかったらしい。事態は悪化している。
「くっ……ひっかかりやがって……あんなのひっかかンなヨ、ばーかばーか」
 口の中で悪態をついてみたものの、なんら状況は好転しないのである。
 マジックの姿は、荒廃した廊下を通り抜け、居間へと消えた。
 シンタローは、ほふく前進しながら、後を追った。



 さささ、とシンタローは壁にぴったりと身を寄せて、居間の中を覗き見る。
 金髪は続き間のキッチンへと向かったようだ。
「むぅ、アイツ。もうメシ食ったって言ってたくせによ。なんか食うつもりか?」
 耳をそばだてていると、冷蔵庫を開ける音、何か取り出す音、ラップを剥がす音が聞こえてくる。
 レンジの扉を開ける音が、それらに続いた。
 シンタローは素早い動作で場所を移動する。もっと様子がよく見える、キッチン脇の棚の陰に身を潜める。
「……」
 そっと窺う、狭い視界。レンジの中は橙色に輝き、皿が回転している。
 マジックの方はといえば、湯など沸かしているようだ。シンタローのいる場所からは彼の肩先しか見えないが、陶磁器や茶葉の擦れる音がすることからして、紅茶でも入れているのだろうと推察される。
 その内、レンジから温かな匂いが漂ってくる。
 ――ピザか。
 従兄弟たちは、マジックのために、互いのピザを一切れずつ、残していたのである。



 チーン、とレンジが鳴って、皿が取り出されて、ますますいい匂いが辺りに漂った。
「……」
 思わず、シンタローの腹が、ぐうと鳴る。
 なにしろ晩御飯を食べてから、かなりの時間が経過しているのだ。しかもその間中、怒ったり、罠をしかける作業などをしていたものだから、エネルギーを使い、すっかり腹が減ってしまった。
 シンタローは、迷う。
 ここは、出て行くべきだろうか。それとも出て行かずに、他のチャンスを狙うべきだろうか。
 迷って迷って、思考がぐるぐる巡る。



 うーん……『よっ! 奇遇だナ! 俺も腹減っちゃってヨ!』とかって明るく出てけば、なんとかならねーかな……って! ダメダメ! 部屋爆破しといて明るく出てったら、なおさら逆鱗に触れちまう! かといってここでジッとしてるのもよ……あー腹減ったナ……怒ると腹減るっていうしな……って、俺を怒らせるアイツが悪い! 悪いったら悪い! だいたいなあ! なんでこの俺が、こんなキッチンの隅で小さくなってなきゃなんねーんだよ! ここは俺の家だっての! 俺は一家の稼ぎ頭、総帥だっての! 一番偉いの! アイツは何だかんだ言っても『元』総帥で、ホントいうと俺より偉くないんだっての! そーだよ! 総帥>元総帥! なんてったって総帥! なーんで俺がアイツに対して肩身狭く感じなきゃなんねーんだよ! おう、そうだよ! 堂々と出ていきゃいいんだよ! 堂々と……う……でも何言われるか……ぐっ、俺、ビビってんじゃねえぜ! 幾多の戦場を渡り歩いた歴戦の勇士だっての! こーんなキャーキャー言われたがりーのオヤジには負けねえ! だっ、だいたい何だよ! ファンクラブうざっ! マジカルマジックうざーっ! って、今こんなコト怒ってる場合じゃねえ! 出て行け! 出て行くんだ、俺! ホラ、なんでもねえ、アンタのことなんて気にしてませんって顔で出て行けばいーんだよっ! そーだ、アンタのことなんて、どーでもいいんですって顔で! 何言われたってどーでもいいって感じで! いや別に何言われてもどうでもいいんだけど? ……ぐっ、動け! 動け、俺の足! 清水の舞台も飛び降りるあの勢いを思い出せ! ってかなあ、そもそもアイツがあそこで俺が飛び降りるのを邪魔したのが悪い! くっそお、俺の一世一代の舞台を妨害しやがって……もう絶対に言ってやんねーぞ、知らねえゾ! って、別に言いたくもねえがな! って俺の思考! どーしてこうあちこち飛ぶんだよっ! 今は! 今は、ここ、棚の陰から出るかどうかってことを俺は議論しているワケで! くっ! 出ろ! 出ればいいじゃん! 踏み出せばいいじゃんかよ! なんでもねーよ! なんでもねーよ、マジックなんか……。
「……」
「ぐっ……マジックなんか、なんでもねー……ただのアホじゃねえか……」
「……」
「あのアホ! バカヤロー! 変態オヤジ!」
「アホでバカで変態オヤジで悪かったね……」
「おう、その上、年甲斐もなくピンク着やがるし、ヒラヒラだし、なんだよアレ! 恥かしーんだよ! 普通の服着ろよ! ちゃんとしたの! まともなの! 一緒に出歩けねーだろ……って!」
 げ、とシンタローは自分の前に立ちはだかる男に、頬をひきつらせた。



「ぐ……うぎっ……マ、マジック……」
「お前が私のことをどう思ってるか、よーくわかったよ」
 おたおたしているシンタローを尻目に、マジックはくるりと踵を返す。しゅんしゅん蒸気を拭き始めたケトルの方へと、歩いていってしまう。
 火を止めている。
「う……」
 取り残されてしまった、キッチン脇、棚の陰にいるシンタローは、非常に心苦しい思いをしている。
 出て行くのは、やはり気まずい。かといって、見つかってしまったのに、このままここに潜んでいる訳にもいかない。
 ええい、ままよと、シンタローは憮然とした顔を作り、陰から足を踏み出した。



 実は緊張しているが、表面は平気な素振りで、テーブルの側に近付く。
 マジックは、沸かした湯を、ティーポットに注いでいるところだった。シンタローの方には目もくれない。明らかに無視している様子である。
 向かっ腹が立ったが、今はこちらに分が悪い。仕方なくシンタローは、テーブルの周りを所在無げにうろうろした。
 冷蔵庫に貼り付けてあるフックの位置を直す。フックにかけてある輪ゴムが絡んでいたのを見つけて、一つ一つ丁寧に直す。
 棚に並べてある積み重ねた皿が、歪んでいたので、きっちり整える。シンク脇にかけてあったタオルを、新しいものと取り替える。
 『何も今やらなくてもいいのに』ということを、次々とやってしまうシンタローである。
 時々、ちらり、とマジックの方を窺う。それでも彼は相変わらず、自分を無視したままなのだった。
 テーブルについて、あっためたピザなんて、食べてやがる。紅茶なんて、飲んでやがる。悠々と食事、してやがる。
 俺なんか何でもねえって風で。
「ぐ……」
 ついに我慢しきれなくなったシンタローは、調味料を並び替えながら、振り向かないまま、つっけんどんに、こう言った。
「アンタさ……なんでピザ残してあるって、わかったんだよ」



 間があって、マジックの返事がやってくる。
「誰かと違って優しいグンちゃんがね、おとーさま、残しておいたから、ピザ食べてねって。気遣ってメールく・れ・ま・し・た」
 言葉の端々に、明らかに嫌味が篭っている。
 シンタローは、眉毛をぴくぴくさせて、勢いよく振り返る。思いっきりマジックを睨んだ。
「ケッ……あんだよ、その言い方」
「別に? 私に何かを買ってこいとか、そういうメールしか送ってこない誰かさんとは、随分違うなあと思ってねえ」
「ああん? 誰のことだよっ! だっだだだ誰のコトだっ!」
「あーあ、グンちゃんは優しいなあ。優しいし可愛いし」
「へっ。変態オヤジにンなコト言われたって、グンマも嬉しかねーだろうよ」
「そうだ、昼間にはキンタローからもメールをもらってね。さすが、あの子は礼儀正しいよ。金ちゃんラーメンのお礼にって、今度は私に、マジックを披露してくれると。スプーン曲げとか」
「奇妙な関係築くな――――ッ!」
「あーあ、キンタローは優しいなあ。優しいし可愛いし」
 シンタローは、口をもぐもぐさせた。
 俺だけ仲間はずれかよ!
 ぐ……俺だって!
 俺様だって優しいし、可愛……カッコイイじゃねえかよ、この野郎!



 とは勿論、口に出しては言えないのである。
 シンタローが心の中で右往左往していると、マジックから厳しい一言が、投げつけられてしまう。
「で。私はここで夜食をとっている訳だけれど。お前は一体、何をしているんだ」
「あ? つ、つまり、その……」
 躊躇した後。
「……俺も腹が減ったんだよ!」
 どすんと音を立てて、シンタローはマジックの向かい側に座った。もっともらしく、腕組みなんか、してみたりする。
 ふと見れば、もうマジックの皿の上のピザは、一切れしかない。
 シンタローは、内心慌てた。時間がない。側にいる口実がない。
 マジックがピザを食べ終わってしまえば、この食事時のチャンスは終わってしまうのである。
 もっとこの時間を引き延ばさなければ。
 何かさらにマジック食べさせなければ!



 瞬間、ひらめいた。
「……肉じゃが……」
 ぼそり、とシンタローは口を尖らせながら言う。
 数日前に、ついまた作ってしまったものが、冷蔵庫にある。真夜中のマジックが喜んでくれて以来、どうしても作ってしまうのだった。
 これをきっかけにするというのはどうだろう。我ながらいい思いつきだった。
 だが、どうやって食べさせる方向に持っていくかが、勝負の分かれ目である。
「肉じゃが……そーいえば、残ってたな……」
 そう口に出し、ちらりとマジックを窺うも、相手は興味を示した素振りはない。
 紅茶を飲んでいるばかりである。ここはもう少し押すとするか、とシンタローは、再び口を開く。
「……食べよっかナ……どうしよっかナ……でも、一人で食べきれる量じゃないんだよナ……」
 シンタローは、さりげない風に、呟き続ける。
「肉じゃがなあ……いっぱいあるんだよナ……ちっ、グンマやキンタローにもピザじゃなくてこっち食わせときゃよかったぜ……早く食べねえと、無駄になっちまうよな……どうしよっかな……」
 マジックが、小さく眉を上げたのがわかった。もうすぐだ、とシンタローは天井を見上げる。さらに呟く。
「オイシイんだけどナ……参ったな……本当なら、誰にも食わせねーんだけどナ……作りすぎちまったからな……どーしよっかナ……食べよっかな……それとも誰かに分けてやっかな……」
「……」
「誰かなあ、食べねえかなあ〜 今度のは自信作なんだよなあ……たまたま作っちゃってナ、でも俺ばっかりじゃ食べられねーんだよな……」
 ついに痺れを切らしたのか、マジックが聞き返してくる。
「なに」
 よっしゃ、罠にかかったぁ!
 シンタローは、内心の喜びを押し隠し、斜に構えて言った。
「知りたいかよ?」
「いや特に……」
「よーし教えてやる。肉じゃが!」



「……」
 相手は少し黙った後、溜息をつく。
「お前、最近やたらそれが好きだね」
「チッ、悪かったな!」
「さらに、やたら私に食べさせたがるね」
「ああん? 食いたくねーんだったら、食うなよ!」
 ばん、とシンタローは拳骨で、テーブルを叩いた。すると対抗するように、マジックも両の手の平で、テーブルを叩く。
 互いにテーブル越しに、にらみ合う。先に口を開いたのは、マジックの方だった。
「お前は何をカリカリしてるんだ。私に食べさせたいんだったら、素直にそう言えばいいだろう!」
「食べさせたくねーよ! だーれが! 誰が食べさせてーんだよっ!」
「お前が! さっきからぶつぶつ意味ありげに言ってるじゃないか!」
「独り言だっての! 人の呟き聞いてンじゃねーよ! それに俺は『誰か』とは言ったが、アンタなんて一言も! ひとっことも、言ってねえ――!」
「この場に私しかいないじゃないか! 何なんだ! 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい!」
「言ったって邪魔するクセにっ! 俺がせっかく言ったって邪魔しやがるクセに――――――ッ!!!」
「今は肉じゃがの話! 話を逸らすんじゃないっ! あっ! そうだ、それに独り言といえば、お前はさっき棚の陰で、私の悪口をどうとかこうとか!」
「げげっ!」
「勝手すぎるよ! だいたい服装もね、総帥時代の赤が派手だというから、お前の意見を取り入れて、色を薄めてピンクにしたのに、お前ときたら! 私はこれで十分控えめじゃないか! デザインの限界だよ! これ以上言うなら、お前が私のコーディネートをすればいい!」
「ピンクはちっとも控えめじゃねええ〜〜〜〜〜〜〜!!! おっ、おおお俺がアンタのコーデ……って、アンタも肉じゃがから脱線してんじゃねえか――!!!」
「いやいやいや……」
「だーかーら……」
「こーのガンコ息子!」
「こーのガンコ親父ッ!」
「〜〜〜……」
「〜〜〜……」



 結局。
 際限のない水掛論争再び。ぜいぜいはあはあと息を切らしながら、とりあえずは肉じゃがを温めることにしたシンタローである。
 口喧嘩よりも行動しなければ、事態は進展しないのである。
 見れば、マジックも同じく息を切らし、紅茶を飲んで喉を潤している。
 久しぶりの言い合いは、喉に負担がかかるのだ。いつもの争いの後の、気だるい空気が漂っている。
 やがてレンジが鳴って、湯気の立つ皿を、シンタローは取り出す。テーブルに置く。
 手を合わせてから、まずは自分の空腹を満たそうと、箸を取る。
 シンタローとマジックは、互いに向かい合ったまま憮然とした顔で、しばらく一言も喋らなかった。



「……」
「……」
 長い時間が経過したように、シンタローには思える。でも本当は短い間なんだろうか。それすらも曖昧だ。
 二人の間にある緊張。張り詰めた糸。この間。この間が、とても。気まずい。
 かといって、何を言えばいいのかは、相変わらずわからないままなのである。
 先刻のことを思えば、これ以上、下手なことを口にして、低気圧をさらに低下させるのも得策ではなかった。
 仕方がないので相手の方を窺いながら、妙にもじもじしてしまっているシンタローなのであった。
 箸を動かす合間合間に、痒くもないのに、人差し指の腹を掻いている。手の平を、交互に指圧したりしている。
「……あの、ね」
 シンタローは目を丸くした。なんとこの状況で先に口を開いたのは、マジックの方だった。
 彼は、シンタローの目の前、肉じゃがを盛った皿に、手を伸ばしてきたのだ。男はシンタローの目は見ずに、俯いたままだったが、ぼそりと呟いた。
 確かにこう聞こえた。
「やっぱり、ちょっと……もらおうかな……」
「お、おう」
 シンタローは、自分の手を弄るのをやめて、しつこいほどに、うんうんと頷いた。
「食えよ。食え」
 マジックに向かって、ぐいぐいと皿を押しやる。押し過ぎて、皿が相手側のテーブル端から落ちそうなぐらいに、押しまくる。
 相手は、そっと箸を持って、薄切りの肉やジャガイモ、糸こんにゃく等を自分の小皿に移した。そして、口を開いて食べた。咀嚼している。
「うっ、美味いだろ!」
 その様子を直視していたシンタローは、もぐもぐ口を動かすマジックに、身を乗り出して尋ねる。
 マジックは、返事はしなかった。
 だが、
「……」
 こくりと頷いた。



「へっ……う……ゴホッ」
 ついシンタローは笑いそうになって、咳をするまねをして誤魔化した。しかし頬が緩んでしまう。
 何だかちょっと。ちょっとだけ、いい雰囲気だろうか?
 おっし、この調子で行くぜ!
 シンタローは、勇気を出して、マジックに聞いてみた。
「……紅茶。もらっていいか?」
 間があって、ゆっくりと金髪が動く。相手がまた、頷いたのだ。
 しかもマジックは棚に手を伸ばして、シンタローのカップを取り出してくれた。シンタローはそれを受け取り、とぽとぽとポットから褐色の液体を注ぐ。
 量は十分で、なんだ、もしかして俺の分まで用意していたのかと、シンタローはふと思う。
 そんなことを考えながら、注いだ紅茶を、ごくりと飲もうとして、
「あちっ!」
 シンタローは舌先を引っ込めた。熱すぎたのだ。
 その瞬間、マジックが、こちらを見たのがわかった。視線を感じた。
「あんだよっ!」
 相手が自分にせっかく反応を示してくれたのに、照れ隠しにシンタローは可愛気のない声を出してしまう。
 すると、マジックが、くすりと小さく笑ったような気が、した。



 二人で、肉じゃがをつつき、紅茶を飲む。
 空気が暖まってきたような気がする。緊張がだんだん解けて、ほんのり柔らかな雰囲気が漂う。
 シンタローはマジックの様子を窺いながら、こう思う。
 相手は、依然、すました顔をしているのだけれど。
 ――なんだか。
 なんだか、いい感じ!
 明らかに事態は好転しているのだと思われる。
 自分の目の前で、静かにシンタロー作の料理を食べている男。
「……」
 シンタローは、不自然にならない程度に目を遣りながら、その様子を観察する。そして一つの可能性を導き出す。
 こいつ、マジックのやつ。
 ……拗ねてるだけなんじゃねえのか。



 俺がちゃんと一人で立ち直ったみたいに、とシンタローは考える。
 マジックだって、実はもう自分の力で、立ち直ってるんじゃないだろうか。
 シンタローがポジティヴ思考に辿り付くことができたのは、特にあの南国の島以降の、二人で積み重ねた時間を、信じることができたからだった。
 そしてマジックは、その同じ時間を、自分と同じだけ、持っているはずなのだ。
 俺のこと、わかってないはずが、ないと。シンタローは思う。
 自分が、多少なりともマジックを理解することができたように。
 そうだよ。俺がマジックのこと、わかったみたいに。
 マジックだって、俺のこと。わかってるはずなんだ。
 言わなくたって……わかってるはずなんだ。
 そんな信頼感が、自分たちの間に生まれているのだと。いや生まれていて欲しいと、シンタローは願っている。
 そしてこうも思う。
 ……この間の清水寺での拒否、多分あれが、どん底の折り返し地点で。
 あのとき、あんな形で、マジックは俺に仕返しをしたんだ。
 なんて奴だ! っていうのは、置いとくとして。
 もしかすると、だから今は、もうマジックのやつ、今はもう本当は怒ってなんかなくって。
 いや、怒ってたとしても、それよりも、俺と仲直りしたいんじゃないかな……。



 ここまで考えが及ぶに至って、また少し腹が立って、シンタローはこっそりと唇を噛んだ。
 チッ。ガキくせえ。アンタいくつだよ! どこの駄々っ子だ!
 やっぱ俺が折れる事態になってるってコトは、俺の方が精神的に上ってことだよな!
 そう思ってしまうと、シンタローの心に、ゆとりが生まれてくる。寛容な気持ちになってくる。こう思い始める。
 く……仕方ねえ。まあ今回は仕方ねえ。
 ここはいっちょ、俺が大人になって、カッコイイとこ見せてやっか!
 マジックの奴、世話が焼けるぜ!
 でっかい幼児め! 覇王のくせに!
 俺じゃねえと、アンタなんかにここまでしてやんねえぜ? ホントだぜ?
 ありがたく思え。



 考えのまとまったシンタローは、席を立つ。早速、再び冷蔵庫を開けて、さらに大量の肉じゃがを取り出した。レンジに入れて、温める。
 肉じゃがは山盛りも山盛り。自信作も自信作。シンタローは、凝り性だ。つい作りすぎてしまうのだった。
 そして、その湯気が立つ山を、マジックにぐいぐい勧める。
「食え。遠慮せずに食えよ」
「……シンタロー」
「遠慮すんなって。もっと食え、たんと食え」
 ここは俺が精神的大人として、マジックの奴をリードしてやらねえとナ。
 冷静に、冷静に! 落ち着いて、落ち着いて。
 自らに言い聞かせながら、余裕たっぷりに、シンタローはマジックに接してやる。
 ちみっこを扱う要領である。こういうのなら、慣れている。



 ハハハ、と爽やかな笑顔で、肉じゃがを、ずいずい勧める。とにかく勧める。
 多少は強引にやらないと、ちみっこというものは、仲直りのきっかけが掴めないものである。
 ま、しょーがねえ。大人から、きっかけ作りしてやんねえと。
 と、案の定マジックは、最初は戸惑っているようであったが、シンタローの執拗な勧めに折れたのか、ついに、こんもりした新たな肉じゃがの山に、箸をつけだした。
 その様子を確認し、シンタローも一緒に箸をとる。たっぷりの量を装い、マジックに目配りをしながら、自分も食べる。ぱくぱく食べる。
 温かな湯気が、二人を包む。



「……」
「……」
「……」
「……」
「ウマイだろ?」
「……ん」
「やっぱな! 美味いよな!」
「……うん」
「そうだよな! なんたって俺が作ったんだからナ! 当ー然ッ!」
「……ああ」
 やはり食べ物を挟むと、ムードが和やかになるのである。
 作戦的中。
 まだ拗ねたような顔をしているマジックとも、何とか会話が成立するようになってきた。進歩だ。いい兆候である。
 やっぱり、とシンタローは悦に入った。
 こっちが大人になって冷静に接してやれば、相手もそう馬鹿なことはしないのだ。
 なにしろ、マジックは精神的にガキだから。それで面倒くせえことに、相手の気持ちだけには敏感なんだよ。
 ほら、例えばさ、家を飛び出しちまった家出少年には……この場合は家出ミドルか……頭から押さえつけるのはダメで、心を開いて、『お前のことわかってるぞ!』って寛容な気持ちで接すればいいって。よく言うじゃん。
 それと同じだよナ!
 ここは俺も、目に、暖かい光を宿してだな、決してマジックを責めるのではなく、広い心で、大人な気持ちでだな、その、適切な触れ合いを。
 いわば教師になったような気持ちで。海のような広すぎる心で。
 シンタローは、にこ〜っとした表情を、精一杯に作って、マジックの食べる様を眺める。
 あたたかい目。優しい目。アンタのこと、俺、わかってるゾ! っていう目。
 頑張る。シンタローは、頑張っている。
 マジックが、ちょっと微妙な表情で、こちらを見ているが、気にしないのである。気にせず、さらに肉じゃがを勧めた。
 何だかんだ言って、勧めればマジックは食べるから、どんどんと勧め続ける。
 あんだよ、マジックの奴。食べたかったんじゃねえかよ。
 最初から素直に言いやがれ。いやいや。俺、わかってるゾ。
 すると。



 なんと。マジックが、自主的に口を開いたのだ。溜息のような声。
「……ああ……」
 よし、と心の中でガッツポーズをして、シンタローは、ますますにこ〜っとした目をしてやった。何でもいい、言え、頑張れ、マジック!
 マジックは、そんなシンタローから、心なしか目を逸らして、呟いた。
「……昔を思い出し……」
 ぴくっとシンタローはその言葉に反応する。
 もしシンタローが動物だったなら、全身の毛が逆立ってしまっているに違いないというぐらいに神経を研ぎ澄まして、ただ相手の気配を感じている。
 マジックが昔を思い出すなら、俺は消えたあいつを思い出す。
 真夜中のデジャヴ。



 緊張しているシンタローの視線の中でマジックは、フッと笑いかけ。どこか寂しそうな笑顔を浮かべかけて。言葉を紡ぎかけて。
 少し黙って。
「……なんでもない」
 すぐに険しい顔に戻った。口をつぐんでしまった。
「……ッ!!!」
 刹那、シンタローの頭に、カッと血がのぼる。頬に朱が差す。
 彼は思わず立ち上がり、ダイニングテーブルにダンッ! と勢いよく両手をついた。マジックを見据える。
 テーブルが揺れて、食器がかちかち震えた。
「なんでもないことねーだろッ! 言えよ!」
 真夜中のマジックは、自分に父親の思い出を語ってくれたというのに、と思えば、胸が苦しくなる。激情が止められなかった。
 マジックが、今度は本当に不審そうな面持ちで、じろりとシンタローを見遣ってくる。
「一体お前は、急に何を怒り出したんだ」
 シンタローも、負けずに相手を睨み返す。
 叫んだ。
「アンタが言いかけたこと、言えよ!」
 しかし相手も意固地だった。
「だから何でもない」
「何でもなくねえッ!」
「何でもないったらないよ! わからない子だね!」
「俺にはわかってんの! 何でもねえワケがねえ〜〜〜〜!!!!!」
「なんでもないー!」
「ンな訳ねえー!」
「なーんーでーもーなーい――!!!」
「ンーなーワーケーねーえ――!!!」
 すぐに喧々諤々の言い合いになってしまう。



 シンタローは、拳を握り締めて、声を絞り出す。
「くぅっ! 酒か! 酒が足りねえのかよっ!」
「はあ?」
「くそお! アンタの酒で濡らさなければ、開かない過去の扉はドコにあんだよぉっ!」
「何を訳のわからないことを! 突然、どうしてキレ始めたんだい、お前はっ!」
「そうかぁ! グラス合わせないと伝わらねえのか――! わかってる! 安心しろ! 酒ッ! 酒はドコだぁー!」
 すでに呆然の域、目を丸くしているマジックには構わず、シンタローは周囲をあたふたと見回す。
 慌て出す。
「ああっ! ない! ワインなくなってる!」
 ぱぱぱぱぱーん! と台所中のキャビネットを開けて、シンタローはワインを探したのだが、綺麗になくなっている。
「ないっ! 酒がないッ!」
 キッチンの床下収納やらパントリーやら、あらゆる場所を開けてみる。
 先刻は気付かなかったが、そういえば、ここにあった酒類は……
「……そう、少なくとも一階に置いてあるものは、すっかりなくなっていたんだよね……」
 椅子に腰を落としたまま、箸を置き、両手を顎の前に重ねたマジックが、ぼそりと呟いている。
 その漂い始めた暗い雰囲気には気付かず、シンタローは天井に向かって嘆く。
「ああああ――ッ! クソォッ! まどろめねえ! これじゃ俺がいくら優しくったって、夜にまどろめねえよッ!」



 マジックの青い目が、ギラリと光る。剣呑な色を宿す。
「そう、酒がなくなっているんだよ……お前が、私以外の誰かと、きっと飲んでしまったんだよねえ」
「……!」
 さすがにギョッとして、天を仰いでいたシンタローは、マジックの方を見た。
 我に返る。そうだったっけ。俺たちが、飲んじまったんだっけ。
 俺と、真夜中のあいつが――
「お前の言うことは、よくはわからないが……私はとにかく」
 マジックの声は、深かった。
「……酒は、危険だから。しばらくは飲まない」
 それまでの空気が割れるような、冷たい声が響いた。
 シンタローは息を飲む。
「!」
「誰かさんは、やたら私に日本酒を飲ませたかったみたいだけれどね。普段の私じゃお気に召さないようだ」
 一気に、二人の間の気圧が、急降下する。



 無言が続いた後、やがてマジックが立ち上がった。
「料理の礼は言う」
 去る気配を感じて、どうしようと、シンタローは慌てた。
「もっ、もういいのかよッ!」
「……ああ」
「まだ! まーだたくさんあるぜ! 冷蔵庫に、肉じゃが!」
 ぱんぱんと冷蔵庫を叩く。そんなシンタローの呼びかけには答えようとはせずに、マジックはシンクに立ち、手早く皿を洗っている。
 水を切る音、蛇口を開け閉めする音、シンタローが取り替えたばかりのタオルで手を拭く音。
 口を挟む隙間のない、一連の流れ作業。加えて、声をかけるなというオーラ。
 あれよあれよという間に、マジックは踵を返して、シンタローを背中を見せる。
 そしてそのままキッチンを出て行ってしまった。



 その背中をなすすべなく見送って、立ち尽くしている姿。
「……」
 シンタローは、静かになった空間で、一人、くしゃみをした。
 身体から、力が抜ける。かたん、と椅子に座った。小窓の向こうからは、夜の木々がざわめく音が聞こえている。
 目の前にあるのは、美しく艶光りしているテーブルばかり。空になった、自分だけの皿。
 それを、じっと見つめながら、
「う……」
 しゅんとして、うなだれているシンタローである。
 長い髪すら、元気がない。しょんぼりとして、テーブルに垂れている。
 シンタローは、大きく溜息をついた。思う。
 くそ、マジックの奴。冷静に対応するつもりが、つい熱くなってしまった。
 俺としたことが。
 どんな任務だって作戦だって、常に成功させてきた、総帥である、この俺様が。
「……失敗しちまった……」






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