真夜中の恋人

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「シ――ン――ちゃ――んッッッ!!!」
「ぐあっ!」
 またマジックの腕の拘束が強まった。ぎゅうぎゅうである。
 今度は違う意味で顔を赤くしながら、シンタローが、『ギブ、ギブ』と降参の印に、ベッドを震える手で、ぽんぽん叩くと。
「フン!」
 やっと相手は腕の力を抜いて、シンタローを万力のような締め付けから解放した。
 はあ、はあ、と空気を吸い込んで、シンタローは、天井に向かって、胸を上下させた。
 アンタ、むやみに他人を攻撃しなくなったのに、俺にはいいのかよ、その分、俺かよ、等と思うところもあるのだが。
 今は、真夜中のマジックのことを聞きたくて仕方がなかったから。
 シンタローは、投げ出されたマジックの腕を枕にして、話の続きをねだるように横目で相手を見る。
 先刻から、まるで寝物語をするような態勢になっていた二人なのである。



 じろりと物騒な目つきでシンタローを睨んでから、マジックが言葉を続ける。
「さらに真夜中の私は、お前が昼間の私……つまり本物の私を好きなのだと、知っていたんだろう」
「あああ? マジかよ! クッソォ、ひでえ誤解してやがる!」
「シンちゃん、ひどい! さっき言ったことと違う!」
「えっ、そしたらさ、そしたらさ!」
 マジックの腕の上で、頭をごろごろさせながら、シンタローは叫んだ。
「真夜中のマジックって、やっぱ俺が好きだったのかよ!」
 そして。
「俺の幸せのために、身を引いて……」



 きゅ――――――ん!
 高鳴る胸。シンタローの頬は上気し、目はハートマークになっていた。
 うわ、何だこの気持ち、ちょっと待て、渋い、シブすぎる、マジかよ、おい!
 やべえ、カッコイイ……。



「くおおおおおお! シンちゃぁんッッ!!!」
「うあ!」
 ガバッとマジックが起き上がったから。
 突然に、預けていた腕を引き抜かれたシンタローの頭は、ぼとんとベッドに落ちた。
「今! きゅ――んって! きゅ――んって聞こえた! 聞こえたよッッ!!!」
「聞こえるわきゃねェだろ! ウ、ウソつきやがれ!」
 あたふたするシンタローに向かって、マジックはベッドの上で大騒ぎしている。
 いくら特注の超キングサイズベッドとはいえ、2メートル近い男が強烈に駄々をこねると、まるで嵐の夜の小舟みたいな按配で、非常に心もとない。
「うわ、たた、危ねえだろォ!」
「きーこーえーたー!」
 ぐらぐら揺れるベッドの上で、男は叫んだ。
「聞こえたもんね! パパには聞こえたもんね! きゅ――――――ん! って! 確かに聞こえたあぁ!」
「くっ……夜中に大声出すなよっ!」
「ひどい! ひどすぎる! ひどすぎるよお前わぁぁ!」



 キッ! とマジックはシンタローを睨んで、毛布の端を噛み締めた。
「あいつは去ったんだから! パパとシンちゃんが、ラブラブになったからには、もうあいつは出てきません!」
 シンタローも、負けずに起き上がって、目を見開いた。
「ええええ〜〜〜〜〜」
「なに! なにその不満そうな反応! いいじゃない! 今のシンちゃんは、パパとラブラブなんだから!」
「えー、様子見にとかで、たまには出てきたりすんじゃねえの?」
「ダメ! そんなのパパ、許さない! 許さないよ! っていうか、もう日本酒なんか飲まないもんね!」
「あんだよ! それじゃ、アンタがポン酒飲まねえから、あっちも出て来れねーだけじゃねえか! アンタが出さねえだけじゃねえかよ!」
「ふん! 出てきたって、押し込めてやる! 一人 一人火炙りの刑だよ! 一人毒ガス、一人電気イスだ!」
「なあ……俺が帰ってきたら、アンタが一人でボロボロになって、死んでるのって、ナシな……」
「ハッ! どうだか! シンちゃんがパパに酷いコトしたら、そうなってるかもね!」
「なに脅してやがんだ、コラァ!」



 マジックは、『あいつはもう、霧の中に去って、消えました! はい、おしまい!』と言って、その後、少し嬉しそうな顔になった。
「だって……さっきシンちゃん、パパのこと、好きって言った! パパ聞いたもんね! 一生忘れないもんね!」
 ぐ、とシンタローは言葉に詰まり、ついこう言ってしまう。
「『す――』と、『き――』なら言ったけどな!」
「往生際が悪いよ! 言ったんだもんね! まったく、お前ときたら! ほら、パパはこーんなにシンちゃんが好きって、言ってるのに! シンちゃんが好き好き好き好き好き好き、だーいすき!」
「ぐっ、あんだよ、ガキっぽいな! 俺だって、言ってやってンだろ! す――す――す――す――す――す――き――き――き――き――き――き――」
「どっちが子供なの! クッ、負けるもんか! 好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き」
「それはアンタだろ! す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――き――き――き――き――き――き――き――き――き――き――」
「好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き」
「す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――す――き――き――き――き――き――き――き――……ゲホッ」
「あー、息が続かないシンちゃんの負け〜」
「負けてねえよ! そんな勝ち負けあるかァッ!!!」
 アンタが特別なモンを拒絶するのと同じで、俺は特別なモンは、言えないの!
 特別だから言えないの!
 クッソ、わかれよ、この鈍感!



 しばらく言い争いをし、しまいには双方の喉が痛くなったので。
 二人は、冷蔵庫からシンタロー作り置きのレモン水――マジックがよく用意しておくハーブティーは、喧嘩中だったため、ストックが切れていた――を出してきて、一緒に喉を潤した。
 それから。
「あーあ。ほんとに、シンちゃんは……」
 深い溜息をつきながら、マジックが再びベッドに身を沈めた。
 ヤケ気味に、男は、大の字に長い手足を放り出している。
「……何だよ?」
 シンタローも同じくヤケクソ気味に、相手の投げ出された右腕、その付け根辺りに、わざと勢いをつけて、寝転がった。
 ちょっと痛かったろうと思うのに、相手は眉一つ動かさなかったから、シンタローは、『チッ』と舌打ちをする。そして首と肩をもぞもぞさせて、定位置を探した。
 マジックの腕枕は、好きだった。彼の太い二の腕の辺りが、自分には、ちょうどいいと思う。肩がこらない、ジャストフィットな高さ。
 遠征の時など、眠れない時には、アレがあったらいいのにな、なんてふと考えてしまう程に、慣れた感触。
 実は、この高さと堅さで、枕を作らせようかな、なんて思ったこともあるが、何だか気恥ずかしさが邪魔をしてそれができない。というより、そんなことを思いついてしまう自分が、とても嫌なのだが……。
「でもね、だからね……私は、そんな男の美学なんて、どうでもいいってこと、わかってくれるだろう?」
 あれこれ考えているシンタローに向かって、顔を小さく傾けて、マジックが至近距離から囁いた。
 最愛の人には、手を出さないなんて。そんなの、私には耐えられないよ。
「そんな哲学なんかより、私は、お前の方が大事なんだ」
 シンタローは、数度瞬きをし、黒い睫を上下させた。声は続く。
「お前と一緒にいられれば、なんだっていい。私は、地面に這いつくばったって、お前を手に入れたい。お前を抱きたいよ」
「……」
 無言で、シンタローは、少し体を動かして、ぴったりと左頬をマジックの胸元につけた。



 しばらくして、マジックは、呟いた。
「ねえ。今度の喧嘩は、長かったね」
「……ああ」
 色んなことがありすぎて。色んな感情が交錯して。とても一言で表せるものではないのだけれど。
 長かったと――思う。
 シンタローは、自分よりも体温の低い相手の温もりを、感じている。
 相手もまた、自分の温もりを感じていてくれればいいと思いながら、男の声を聞いている。
「私はね……離れている間も……一人でベッドに横たわって、目を閉じると……いつも、お前の顔が、目蓋の裏に浮かんできて、仕方がなかった」
「……」
「どうして私たちは、行き違っちゃうのかな。すれ違っちゃうのかなって、ずっと考えていた」
「……」
「一人でいる時は、ずっとお前のことばかり考えているのに。いざお前を目の前にすると、どうして……すれ違ってしまうのだろう。いや、私がすれ違わせてしまっているのかな。すまないと、思っている」
 詠うような余韻を含んだ声に、シンタローは我知らず、自分も口を開いてしまう。
「……俺だって」
 ごめん。
 今度は、口だけを動かすと。顔を寄せている相手の胸に、その動きが伝わったのか。
 シンタローの頭を乗せたままの、マジックの右腕。その手の平が、黒髪を優しく撫でてくれた。
 強く抱き寄せられて、さらに体が密着する。
「ずっと私たちは、そうだったよね」
 シンタローの脳裏に、様々な出来事――幼い頃のこと、少年時代、コタローが生まれてからのこと、秘石のこと、自分がこの男から逃げ出したこと、あの南国での島のこと……が、浮かんで、消えていった。
 俺たちは、すれ違ってばかりなのだ。
 誤解ばかりが積み重なって、それを解消するために駆けずり回る、それが俺たち二人。
 いつも繰り返してきた気がする。
 繰り返せば、繰り返すほどに。
「時間をかけてね。愛を、育んでるんだと思う……時間をかければかける程に、深まる愛って、あるんだなと。そんなこと……都合のいい台詞だと、お前は思うかな」
 マジックが、そう言って、シンタローは、それはいつか言われたことだと思い出して。
「……」
「いつも、これ以上好きになれない、これが限界だと思うのに。でも繰り返す度に、ますます私はお前が好きになる。際限がないのだと思い知らされる」
「……ん」
 また相手の胸に、顎を乗せて、シンタローが物思いに耽っていると。
「ねえ、シンちゃん」
 指で愛しげに頬をなぞられて、こう聞かれた。
「パパがどうなっても、面倒見てくれる……?」



 これも、日本酒を飲む前に、聞かれたことなのだ。
 その時、自分はどう答えたか。
 ああ、そうだった。
『お、おーよ! てめーがどーなるのか、この俺が見届けてやろうじゃねえのよ』
 どんとこぶしで胸を叩いて、過去の自分は、そう約束したのだ。
「……どうなっても、アンタはアンタだろ……」
 今。シンタローは、溜息をつくように言った。そして、付け加える。
「どんなアンタでも、結局は、俺に面倒かける癖に」
「正解」
 金髪の男が、言った。
「どうなっても、私は、お前を愛してるからね。どうなっても、お前と一緒にいたいなあ」
「……ばかやろ」
 シンタローは、マジックの胸に頬を寄せながら、目を瞑る。
 同時に思う。
 今のアンタと、真夜中のアンタは、やっぱり……俺にとっては、どうなっても、アンタなんだろうなあ……。
 こんなコト言うと、アンタ、また怒るから、言えねえけど。
 今のアンタが、そりゃ、大事……なんだけど。
 アンタが、どうなっても。どんなアンタでも。俺は。
 酷い奴だって。どんな悪い奴だって。
 それは、アンタだから。アンタがそこにいる限り。
 きっと……。
 す――……き――……、なん……だ……。



 それもこれも、アンタだから……。



 シンタローの頭を撫でていたマジックが、『それにしても』と、感慨深げに呟いた。
「酔っ払ったシンちゃん、可愛かったな〜
「ぐっ!」
 それを持ち出すな、とシンタローは折角閉じた目を開けて、抗議を試みる。
 相手の二の腕を、ぐりぐりと頭で攻撃してみるが、まったく効果がない。
「なあに? 恥ずかしいの? あっはっは、シンちゃん、やっぱりカーワイイな〜
 ぎゅーっと抱きしめられて、揺さぶられて、不甲斐なし、なのである。
 マジックはシンタローの反応を見て、ますます嵩に懸かってくる。イキイキし出した。
 自分の酔っ払った姿は、別人だと言い張る癖に、シンタローの酔っ払った姿は、マジックにとっては別ではないらしい。
 確かに本人の意識が連続しているかどうかとか、記憶があるかないかとか、こっちがそれを利用しているかどうかとか、まあ、色々差異はあるのだが。どうにも納得がいかないシンタローである。
 我がままマジックは、折角に心地よい疲労の中で眠り込もうとしたシンタローに、しきりに囁きかけてくる。
「ね、シンちゃん」
「……ッ」
「お風呂エッチって、やっぱりイイよね。またしようね
「……うっさい」
「洗いあいっこ、楽しかったね
「あーもう、言うなって!」
「二人ともローションでお肌つるつるになったね
「言うなあ!」
「ねえねえ、あの時さ、シンちゃんがさ、『好き』のしるしに、チュッってキスしてくれた時さ、」
「だーかーら――! 言うなっつってンだろォ!」
「え、どうしたの、シンちゃん? お顔が真っ赤だなあ、ハハハ」
 まったくマジックは、嫌がるシンタローを見るのが楽しいらしいのだから、始末に負えない。



「うが――――ッ! やめ――――っっっ!!!」
 怒ったシンタローが、指で相手の頬をきゅっとつねると――確かにローションで、いつもより、つるつるな気がする――、マジックが、嬉しそうに『痛い、痛い』と笑った。
 効果なしと見て、指を離したシンタローは、かわりに男の胸に、ガツンと頭突きをした。
 洗い立ての黒髪が、まるでライオンのたてがみのように、ぱあっと散る。ベッドが、ぎしっとしなった。
「わ、痛いよ、シンちゃん
「くっ、だっ、だいたいな! だいたいなあ!」
 嬉しそうな顔を崩そうとしないマジックに、シンタローは言い募った。
「アンタだって、一緒じゃねえかよ!」



 酔っ払い姿を見られたということでは、自分もマジックも同じであったと思うのだ。
 自分のやらかしてしまったコトは、思い出すと思考がショートするので、ま、置いといて。
 アレとかソレとかは、酔っ払っちゃったからヤっちゃったコトであって。その……チッ、とにかく置いておくと!
 マジックのは。あのハードボイルドな真夜中の姿は。
 なにせ本人に自覚のない酔い癖なのであるから、自分以上に恥ずかしいに決まってるはずなのだ。
 それなのに平然としやがって。俺のことばっかり、責めやがる。
 何故マジックは、真夜中の自分のことを、耐え難いと思わないのだろうか。
「アンタだって、恥ずかしいとか感じねえのかよ……俺、アンタの酔っ払った姿とか、ずっと見てたんだぜ。そういうの、俺に見られて恥ずかしくねえのか?」
 自分がされたら嫌なことは、人にもするな、の信条で、シンタローは相手に諭したかったのだが、逆に相手は、不思議そうに小首をかしげた。
「どうして」
「えっ、どうしてって」
 シンタローは言葉に詰まった。



 ゆっくりとマジックの唇が近付いてきて、シンタローはそれを受けた。
 キスの後には静寂が支配して、やがてマジックが、口を開く。
「……私は、過去……色々なことを、お前に隠してきた」
「……」
「でも、今の私はね」
 男の声は深閑として、すべての音を掻き消すように響き渡る。
「自分のどうしようもない姿を、お前に見せることができて、嬉しいよ。もうお前には、何も隠したくないから」
 シンタローの黒い睫が、ふるりと震える。真夜中の告白は、心の隙間に染みとおる。
「だから、ちっとも恥ずかしくなんて、ないよ」
「マジック」
「全部……私のすべてを。酷い所も情けない所も、すべてをね。お前に見せたいよ」



 その時。シンタローは気付いたのだ。
 マジックは。いつもはこんなことを言ってはくれない人だから。
 シンタローには、彼の過去に対するトラウマがあって。大事なことを隠されていたという忘れられない記憶があって。
 だから、マジックのことを、懸命に拳で叩いても叩いても、開かない扉のような男だと、ずっと感じていて。
 彼の心の扉を、自分は開きたくって、開きたくって、たまらなかった。
 ずっと、ずっとだ。
 だから。
 たまに、こんなことを言われると。ここぞという時に言われると。
 ――言われると。
 あの真夜中のマジックに感じたトキメキを。仮に1とすれば。
 今のマジックに感じるトキメキは……。



 普段言わないだけに。超貴重。珍しい。何だこれ。ちょっと待てよ、オイ。え。え。ヤバイ。え。倍。二乗。三乗。加速度。上昇。急上昇。え。え。ヤバッ、なんかいつもより男前に見えてきた。舞い上がる。跳ね上がる。飛び上がる。ぐいぐい。ハートにゲージがついてるとしたら。ぐんぐんと。え。どんどんと。今、上がってるんだけど。急騰。高騰。みるみる。上がって……。
 シンタローの心臓が、ドクンと一つ大きく跳ねた。
 ごくりと唾を飲む。唇が震えた。額に一筋、汗が流れる。
 ヤバい! ヤバいヤバいヤバいッ! 俺のハートがヤバいッッ!
 俺……俺……オレッッッ!!!
 きゅ――――――――――……。



「だからね! シンちゃんもっ! パパに、シンちゃんの恥ずかしいトコ、ぜ〜んぶ、見・せ・て・ね さあ〜て、脚開こうね〜」
「ギャ――――――――!!! 折角の俺様胸キュンを台無しにして、また襲ってきやがった――――――――!!!」



 最後にマジックが、シンタローを抱きしめながら、こう呟いた。
「ずっと、こうしていてね」
 シンタローは少し黙ってから、小さく答える。
「……親子、だからな」
「そう」
 なんとなく答えに詰まって、そう口にしただけなのに。
 マジックは、にこっと笑って、言った。
「親子で良かった」



「……!」
 シンタローは、相手の顔をまじまじと見つめた。その顔の造作を逐一見つめる。
 ――マジック。
 見つめたいだけ見つめてから、自分も口を開く。同じ言葉を舌に乗せる。
「……親子で良かった」
 はは、とマジックが声を出して、また笑った。そして再び言う。
「親子で良かった」
 シンタローも繰り返す。
「親子でよかった!」
 二人は笑い合う。
「親子で良かった」
 黒髪を、ぐしゃぐしゃっと撫でられて、シンタローはわざとぶっきらぼうに、自分も相手に手を突き出す。
「親子でヨカッタ!」
 マジックの長めの前髪を引っ張り、相手が『痛いよ』というまでやめない。やめてやらない。
 やけに簡単に相手が降参したのを見届けてから、フフン、と鼻で笑って。
 シンタローは、もう一度、言う。
「……親子で良かった……」
 それから急に、毛布を被って、顔を隠した。
 腕枕はしたままだったから、相手の強い腕と胸と、そして毛布の上から、優しく撫でる手を、感じていた。
 真夜中に、抱きしめられながら、眠りにつく。



 出会いが親子で、でも今は恋人で親子で。もしかしたらそれ以上のもので。もうよくわからない。すべてが交じり合いすぎて、感情が交錯しすぎて、無我夢中でよくわからない。
 きっと傍目から見たら、二人は奇妙な関係にあるのだろうけれど。血の繋がらない二人。それでも親子。
 過去、その奇妙さ故に、争ったこともある。命がけの戦いに挑んだこともある。親子であることを否定した時もあった。
 でも、その関係すべてが、今は良かったと思えるのだ。
 何度も喧嘩を繰り返し、でも最後は出会うことができて良かったと嬉しく思う。
 複雑な関係を持つ二人だけれど、でも、それはたくさんの愛を伝える言葉があるということなのだ。
 『好き』だとか、『愛してる』。そんな言葉に加えて、『父さん』と呼べる言葉があるなんて。
 こんな恋人、他のどこにいるというんだろう?
 どうして俺たち二人は、結局、最後は一緒にいるんだろうか。
 世界の果てまでだって。離れられない運命。絡み合う因縁の中で、出会いは必然。愛し合うのも必然。
 自分は秘石にマジックをあざむくために作られたとか、青と赤の狭間に自分たちはいるとか、そんなことはどうでもいい。
 新しい運命を創り出していくのは、俺たち二人。
 OYAKOのOは、無限大の零。親子から始まって、運命は紡がれていく。幸せの色に、糸が織りなされていく。
 二人が一緒にいられれば、もうその関係の名称は何でもいいのだけれど。
 でも。でも、今は。真夜中の、こんな時の。今は――



 恋人の囁き声が、薄い意識の向こうで、聞こえていた。
「もう眠っちゃったかな。シンタロー……」
「……」
「おやすみ。大好きだよ。私の可愛い子。永遠に愛してる」
 父さん、と。
 シンタローが呟いたのは、果たして現実のことであったか、夢の中のことであったのか。



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 ――翌朝。
 見事に家の半分が破壊されている。
 きらきらと朝陽が、瓦礫の山と、残骸を、美しく照らし出していた。
 にゅっと突き出た見事な丸柱は、あちこちに焦げ跡を纏い、粉砕された大理石の欠片が、爆発のすさまじさを物語っている。炭化した絨毯が、黒い粉となって風に千切れていった。
「あー、俺がマジックに仕掛けた罠の……」
 眠い眼をこすりながらキッチンから出た、エプロン姿のシンタローは、改めて周囲を見渡して、そこまで言いかけると。
 ハッと気付いて、口を押さえる。だが、遅かった。
「シンちゃんと、おとーさまのせいだよぉ!」
「シンタローと伯父上の所業だなッッ!!!」
 凄い剣幕で、グンマとキンタローが、瓦礫の山の向こうから、顔を出した。



 シンタローは開き直るしかない。何とか崩落をまぬがれた階段口で、朝っぱらから、言い合いになってしまう。
「あんだよ! お前らだって、実験失敗して、屋敷の左半分爆発させてたじゃねーかよッ! お互い様だ、お互い様!」
「僕らが折角修理してたのにぃ!」
「俺が全身全霊を込めて開発を、いいか、開発をしていたのだぞ!」
 自宅のファンシーランド&役所化は避けることができたので、これは不幸中の幸いではなかったかと、シンタローは心中で胸を撫で下ろした。
 が、どうみてもシンタローが劣勢なのは否めない。今度は我が家を破壊したのは自分たちであるのだから、当然だ。
 不平そうなグンマが、頬を膨らませて『だいたいさぁ〜』とさらに追求を深めようとした時なのである。
 階段が揺れて、マジックがやけに爽やかな笑顔で、降りてきたのは。



「やあ、おはようお前たち! 今日はいい天気だねえ〜」
「んもぉ、おとーさまぁ!」
「いかに伯父上とはいえ、これはいささか……」
 矛先がそちらに向いて、シンタローはちょっとだけホッとする。
 自分が早くに起き出した時に、隣で目を閉じていたマジックの顔は、なんだか幸せな夢を見ているようで、こちらが気恥ずかしくなるような表情をしていたのであるが。
 彼を起こさないように、そっとベッドを降りて、朝食の支度に階下へとやって来た自分である。
 そのマジックは、目覚めた今は、それはもう大変な浮かれ具合であった。一目でわかる。
 笑顔が光り輝いている。薔薇の花びらが舞い散ってそうな、七色のオーラを発しているのだ。勿論、お肌もツヤツヤである。
 上機嫌のマジックは、詰め寄る二人に、鷹揚に頷いている。
「ああ、ああ。壁ね。屋根ね。玄関ね、廊下ね。私が修理させておくよ。全部綺麗にしておくから。オーケー、オーケー」
「おとーさま、経費使っちゃダメだよぉ!」
「伯父上には、軍のことも考えて頂かないと!」
「はいはい、自費ね。いいよ、なんなら建て増しでもしようか? そうそう、コンビニ誘致も考えてみよう」
 すると、グンマとキンタローの目が、輝いた。
「えっ、コンビニ?」
「コンビニとは、これは伯父上、面妖な。噂には聞いたことはありますが」
「じゃあね、一度みんなで行ってみようか! 狭っ苦しい場所だけれど、あれでなかなか普段目にすることのない珍品が揃っていてね……ああ、そうそう。どうやら店の前には、可愛いワンコがいるものらしいよ
「わーあ ワンちゃんまでいるんだぁ」
「ほう、犬まで。さてこそはコンビニエンス」
 何だか話が逸れてしまったようだ。しかも微妙に、あさっての方向に。



「ケッ! なーにがオーケーだよッ! 安請け合いしやがって!」
 文句を言いながら、シンタローは、朝食の用意の続きに取り掛かる。
 そうだ、修繕は全部マジックにやらせればいいのだ。金のかかることは、みんなマジック持ちで。あのおぞましいファンクラブで、しこたま儲けているのだから、これぐらい当然なのである。
 節約! くそう、俺様だけは、節約を貫き通してやる!
 燃えるシンタローが、食卓に皿を並べ、料理を盛っている頃に。
 うわー、これまた派手にやりましたねー、等と、玄関口(正確には、瓦礫の山)から声が聞こえてくる。
 シンタローが眉を上げて、遮蔽物のなくなったそちらを見遣れば、軍服姿のティラミスとチョコレートロマンスの二人が、周囲を見回していた。
 マジックの秘書たちである。なにやらマジックにも、今日は早出の用事があるのだという。
 身を隠していたせいで、なかなか連絡の取り辛かったマジックが、やっと自宅に戻ったという情報を得て。秘書たちは、仕方のない上司を迎えに来たらしい。
 廃墟の中を、それでも家族たちに礼儀正しく挨拶をして、二人はやんわりとマジックを捕まえる。
「マジック様、本日の御予定ですが……」
 ティラミスとマジックとが、立ったままで打ち合わせをしている隣で。
 チョコレートロマンスが、忙しく周囲の状況や、自分とマジックの顔とを見比べていたから。
 シンタローは、彼らに近付いていって、声をかけてやった。
「……あんだよ、お前らも朝メシ、まだなのかよ?」
 グンマとキンタローが食卓についたのを視界に入れながら、目玉焼きぐらいなら作ってやってもいい、等と考えていると、『いえいえ、とんでもありませんっ』と恐縮した仕草で、チョコレートロマンスが一礼した後、こう言ってきた。
「あは。よかった〜、お二人、仲直りされたんですね〜」
「ああん?」
 ギッとシンタローが睨めば、相手は怯えて、ぴょんと背後に飛び退った。
 手早く打ち合わせを終えたらしいティラミスが、こちらを振り返って言う。
「マジック様がぼんやりされていると、こちらも仕事がやりにくいですから」
「……ほう。詳しく聞かせろ」
 マジックは、決まりの悪そうな顔をして、『さあ、急いで朝食すませなくっちゃ』等と言いながら、そそくさと場を離れて、食卓についている。



 フライパン返しを相手に突きつけて、シンタローが威圧すると。
 恐る恐るといった風に、背後に下がったままのチョコレートロマンスが、訴えてくる。
「もう大変だったんですっ! 総帥とケンカ中のマジック様って、もう御機嫌悪いし、かと思えば始終ぼんやりされてるし、もう俺たちも大変で! マジック様が、ぼんやりされてる時って、うかつに近づけないんスよ! 例えば人形を持ってらっしゃる時とかって超キケンなんです! 回想に浸られてる時ですから!」
「我々も大変なんです」
「もう何度アフロにされたかっ! モヒカンにされた時も、おさげにされた時もありましたぁっ」
「……」
 脱力するシンタローに向かって、半泣きの秘書と、どんな時にも冷静さを失わない秘書は、口々に言い募った。
「今回は、ほーんとに凄かったんですから! マジック様ったら、いつも心ここにあらずで! もう、危なくってしかたありません! こないだなんか、壁に備え付けの消火器につまずいて、転ばれるんです!」
「横転してました」
「ベタですが、自動ドアのガラスにぶつかってました! 軒の鴨居に頭を打ってました! 壁に衝突してました! 昨日なんて、廊下に掃除のおじさんが置き忘れた雑巾を、まともに踏んじゃって」
「バク転してました」
「……」
 脳裏に浮かんだあまりの凄惨な映像に、唾を飲み込んだシンタローである。
 容易には信じがたい話であるが、昨夜の、自分のしかけた罠にひっかかったマジックを思えば、さもあらんと思えなくも……いや、くっ、これは……。
 仮にも覇王と呼ばれた男の、なんて情けない姿であろうか。



 チョコレートロマンスが、シンタローの思考に割り込んでくる。
「それでですね、秘石眼がっ! 目からビームが、突然出ちゃったりして! 総帥、この恐怖がわかりますかぁっ? 俺たちが仕事してたら、いきなり、ドゴーン! って壁に爆発が起きたりするんですよっ! 地面が崩壊したりするんですよっ! でも、『や、うっかりしてた』で済まされちゃうんですよっっ! 命の危険が! 危険手当が欲しいくらいですっ」
「ほ、ほう」
 そのマジックの様子を、どうして前もって俺に訴えなかったんだ、とシンタローが聞けば、喧嘩中に滅多なことを言える訳ないでしょう、逆効果の場合もあるんですから、我々には御二人の喧嘩の仲裁なんて、恐ろしくって、とてもできたものではありません。さりげなく気を回させて頂く位で、とティラミスに、にべもなく返された。
 とにかく、と。折り目正しくティラミスが言葉を続ける。
「なにしろ喧嘩中は、御二人が普通に日常生活を送られるだけで、噐物損壊等の物損が増えますから、我々の後始末も増えます。費用も増えます。ガンマ団のイメージアップ戦略のために、各所からの損害賠償請求を踏み倒す訳にはいきませんし」
「む……」
「この調子で喧嘩されると、来年度からの秘書課への予算額を増額させてもらわないと、とてもやっていけませーん! いわゆる機密費もですっ! マジック様は軍のことには個人資産の財布の紐は固いんですっ」
「それに我々の残業手当も加算されますから……」
「ぐむむ……」
 カネのことを言われると、とても耳が痛い経営者なのである。俺は総帥。正義の営利団体を統括する、一番エラい人。
 経費節減、なんたって俺は節約大好き。
「よって、御二人の仲は、我々にとって最重要事項です」
 朝の光の中でティラミスの声が、硬質の刃のように、切り裂いていく。
 なお、シンタローのファンクラブ潜入に触れないのは、秘書たちなりの気遣いであった。薮蛇は突かないで、数メートルは迂回して進むのが、秘書の道なのである。
 チョコレートロマンスが、両手を合わせた。拝むように言う。
「お願いです! 総帥、マジック様と、仲良くしてくださーい!」
「喧嘩されてもよろしいですが、その分、予算を確保して頂かないと」
 二人に、ずい、ずい、と迫られて。
「……考えておく」
 寝不足な上に、昨夜かなりの体力を消耗した上に。朝っぱらから、こんな諫言をされてしまうとは。そう、エプロンの裾を握り締め、フライパン返しを下に向けて。
 シンタローは、精一杯の威厳を声に込めて、秘書たちに頷いた。



 待たせているリムジンの方に下がった秘書たちを尻目に、シンタローは溜息をつきながら食卓に戻り、定位置の椅子にどんと腰掛けた。
 隣席ではマジックが、スクランブルド・エッグを食べ終えた所だ。グンマとキンタローは、すでに食事を済ませて、向こうのソファで紅茶を飲んでいる。新聞をめくる音が聞こえていた。
 和やかな空気の中で、シンタローはがっくりと項垂れる。
 ああ、もう。
 なんで、俺。こんな面倒くさいこと。
 なんで、俺はこんな面倒くさいことばかりに、嵌っていくんだ。
 いっつも、遠回りして、ますます面倒くさいことになる。
 ……なんで?
 お決まりの自問自答に襲われているシンタローに、まるで彼の思考を読んだように、マジックがさりげなく顔を寄せてきて。
 ぱちりとウインクしてから、囁いた。
「好きだから、だよ」



「だって私たち、愛し合っちゃってるからね!」
 その幸せそうな笑顔、幸せそうな声の響きに、シンタローは視線を返す。
 そしてテーブルの下で、ちょうどナプキンを畳んでいた男の右手の甲を、思いっきりつねる。
「痛っ。痛いよ、シンちゃん
「やかましい」
 そして、つねった場所を、今度は、そっと握った。
「……シンタロー」
「黙ってろ」
 ――アンタ、俺がいなきゃ、ダメなのかよ?
 目だけで尋ねると、マジックは、『うん』と青い目で答えてきた。
 男は黙って、手を握り返してきた。
 二人でしばらく、テーブルの下で、手をつないでいた。
 ケンカしたって、仲直り。
 仲直りしてケンカ、ケンカして仲直り、卵とニワトリのように、どちらが先なのかさえわからない、この営みは、永遠に巡る水車のような。果てのない追いかけっこのような。
 でも、二人で走り続ける。
 この男と二人で……手をつないで……走り続けること自体が、自分が幸せへと近付く道なのだと、シンタローは悟り始めている。
 そしてコタローが目覚めて、心を通い合わせて、いつか青の一族全員が、本当の家族になることができれば。
 きっとそれが、俺たちの行き着く本当の幸せなのだろうと、あの日以来。
 南国の島で、あの少年と別れた時以来、シンタローは、ずっとそう考えている。ずっとずっと、そしてきっとこれからも。考え続けていくのだろう。



 先に家を出るマジックを見送る時に、シンタローはかつて玄関であった場所で、彼を呼び止めた。
「……ほらよ」
 袖を引いて、ハンカチで包んだものを、そっと差し出す。
 相手は振り返り、目を見開いた。
「! 愛妻弁当?」
「バカ! 何言ってんだ! みんなに作ったんだよ!」
 節約すんだから、と言いながら。
 ぐいぐいマジックの手に弁当箱を押し付けて、シンタローはまた、小声で囁いた。
「……あの醤油、ちゃんと使ったから……ナ」
 いつかの日、醤油買ってこいメールを送りつけて、結局二人でコンビニに買いに行くことになってしまった、あの時の醤油のことである。
 何だかんだで、『あれはメールをする口実ではなく、ちゃんと使った』ということをアピールする機会がなくて、今さらになってしまっていた。
 寝不足の上に早起きをしたせいか、それとも感情のせいか。心なしか目の縁を赤くして、シンタローは言った。
「弁当、残しやがったら、承知しねえからな」
「……シンタロー!」



 不意に正面から抱きすくめられて、シンタローは慌てる。
「バッ、バカ! ンな所で……!」
 身動きするが、マジックは放してくれない。
 ここは二人っきりの部屋ではない。人目がある。車寄せには、秘書たちと運転手が。遮蔽物のない居間には、従兄弟たちが。
 こうして所構わず抱き付かれるのは、ある意味、いつもの光景なのだが、それをいちいち気にする所が、シンタローがシンタローである所以であった。節度は守りたいのである。
 そしてマジックはマジックであることからして、勿論、そんなことお構いナシなのである。
 だから彼は、大声で叫んだ。
「シンちゃんったら! お前、ほとんど寝てないのにっ! 夜中ずう――――――っと! パパとラブラブイチャイチャしてたから、寝てないでしょ! あああっ! ゴメンネ、シンちゃん! それなのに早起きしてお弁当作ってくれたなんてっ! パパ、幸せ! 幸せだよっ! ありがとう! ありがとう、シンちゃーんっ!」
 シンタローの黒髪が、ゴオオと逆立つ。
「ぐあああああッ! さっさと仕事に行きやがれぇ――――ッ!」
「だってパパ、シンちゃんと、ぎゅう〜ってするのが、世界でナンバーワン楽しいこと! 仕事よりも超絶楽しい
「……ぐ……このォッ!!! このオオオォォォッッッッ!!!!!」
 眼魔砲――――ッ!!! と。シンタローの声が、響き渡った。



 カネ、の文字が脳裏を掠めたが、我慢できるものではない。残骸や瓦礫の山が吹き飛んだが、いっそせいせいするのである。
 一騒動の後、やっとマジックを家から送り出したシンタローに向かって、従兄弟たちが声をかけてきた。
「悩み事は解決したのぉ、シンちゃん」
「やけに晴れ晴れした顔つきだな、シンタロー!」
「……ん、まあ」
 いきなり問われたので、曖昧に頷いてしまったシンタローは、
「なんか……色々、その……」
 言い淀みはしたが、結局、今の素直な気持ちを、二人に吐露した。
「ありがとな」
 この二人が、落ち込んでいる自分を心配し続けていてくれたことは、感じていた。
 彼らがいなければ、自分は不安に押し潰されてしまっていただろう。
 大事な家族たちだった。



「うん
「うむ」
 二人は、重々しく頷いた。
 シンタローは、上を見上げた。
 崩壊した屋根の残骸の隙間から、明るい太陽が、自分たちを見つめているのである。
 世界の輪郭に金銀を塗していくような、輝く光。青い空。白い雲。
「よおーし、今日も仕事、頑張るかぁ!」
「そおだね
「いい心意気だ」
 率先して歩き出そうとするシンタローに、慌てて声をかける二人。
「シンちゃんっ、その前にエプロン外さないとっ」
「シンタロー、カバンをまだ持っていないぞ」
「お、おうよ!」
 ワイシャツの上にエプロンをしていたから、総帥服のジャケットだって、食堂の椅子にかかったままなのである。



 ほら――太陽が出ている間の俺は、こんなに元気。
 でも、陽が地平線の向こうに沈むと。ひたひたと闇が押し寄せてくると。
 夜を恐れる生まれたての子供だった頃の気持ちが、心に染み出してくるのを、俺は、なす術もなく感じはじめる。
 視覚が閉ざされ、聴覚が閉ざされ、精神世界が純化されていく恐怖に、侵されはじめる。
 真夜中は不思議な時間。
 人がみな眠る時間。人々の意識は揺らぎ、夢へと昇華し、すべてが曖昧の世界へと溶け込む時間。
 今この瞬間に存在しているのは、自分だけではないかと、馬鹿な想いに息を詰まらせる時間。
 時間が、酷薄さと気だるさに、かたちを変えて、肌に染みこんでくるひととき。
 真夜中に、一人でなんかいられない。
 寂しい気持ちが込み上げてきて、肩がぞくぞくと不安に震えて、心細くてたまらなくなって。
 孤独の魔法に囚われてしまいそうになる幽冥の境目に、一人でなんかいられるものか。



 真夜中の恋人は、そんな時、側にいてくれる人。
 一緒に朝を迎えてくれる人。俺がその下で明るく笑うことのできる太陽を、一緒に待ってくれる人。
 優しく頭を撫でて、抱きしめ続けてくれる人。
 眠る間際に、愛していると囁いてくれる人。
 真夜中の恋人――
「……」
 エプロンを外し、軍服をきっちりと着込み、カバンを手にする。
 すべての用意を終えてから、今度は二人より数歩遅れて、シンタローは歩き出した。
 秋晴れの空は高く、透き通るようだ。金木犀の香りがする。木々の狭間から小鳥のさえずりが聞こえてくる。
 春を目覚めとするならば、秋は実りである。季節は巡り、繰り返し、その繰り返しの中で、一歩一歩、人は前へと進んでいくのだ。
「……好き、なんだ……」
 シンタローは、誰にともなく呟いた。そして微かに記憶に浸るような微笑みを、口元に浮かべた。
 背後を振り返る。視界に映ったのは、自分の歩いてきた道だった。
 真夜中の思い出は、甘くて、どこか切ない。
 輝く太陽は、真夜中から生まれたことなど、そして真夜中を生み出すことなど、まるで知らないとでもいうかのように、美しい光で世界を照らし出している。
 陽が昇っても落ちても、季節が巡っても、幼い時も、少年時代も、悩み苦しむ葛藤の時期も、成長した今も。
 世界が変わろうが、人が何と言おうが、決して変わらない気持ちが、自分の中にはある。
 この感情は、長い間、シンタローの中で住み続けてきた、一番懐かしい気持ち。生まれた瞬間から、約束されていた気持ち。
 この気持ちがある限り、自分は、幸せへの道を踏み外したりは、しない。
 自分も、そして、あの男も。
 シンタローは、もう一度、口の中で同じ言葉を呟くと、振り返らずに前に向かって、歩き出した。
















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