真夜中の恋人

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「可愛いよ」
 上腕筋についた傷を、マジックが唇で辿った。
「頑張ってるシンタローが、可愛い……」
「……ッ」
「私の代わりに、すべてを背負おうとしてくれるお前が、可愛くってたまらないよ」
「……ッ……っ……」
「可愛いよ。私の坊や……」
 詰まった息が、溶かされていく。強張った体が、解けていく。
 カワイイ、なんて言われたくないのに。でも体が、反応してしまう。



「あ……っ」
 最奥の部分に再びあてがわれたものを感じて、シンタローは小さな声を上げる。湯よりも遥かに熱い塊。
 シンタローは背後から抱きかかえられたまま、必死に手を伸ばし、浴槽の縁に両手をかけて、ぎゅっと掴む。湯が波を立てる。
 湿った吐息。乱れる髪。両脚が、大きく割られた。後ろから伸びた強い腕に、大胆に開かされている。
 マジックが侵入してくる。ほぐれた入り口は、すんなりと相手の先端を呑み込んだが、それでもきつい圧迫感に、縁にかけた指がビクビクと震える。
「は……はうっ……」
 蕩けた内壁を、熱塊が押し広げるように這い進んでいく。
 波が、抱え上げられて露出したシンタローの胸元を洗う。薄い桜色の乳首が、つんと上を向いて立っている。二つの突起は、挿入が深まるほどに、物欲しげに先を尖らせる。
 すっかり根元までが収まりきると、溜息のような声が自分の唇から漏れるのを、シンタローは聞いている。
「……ふ……」
 マジックの手がそっと伸びて、檜造りの縁にかかったままのシンタローの指を、一本一本解いていった。優しい仕草。
 指の全てが離れた時、シンタローの全体重が貫かれた場所にかかり、彼は切ない声を上げてしまう。
「あうん……っ」



 律動が開始される。
 上から下へ、下から上へ、湯の力を借りて、赤子のように揺らされるシンタローの体。
「んっ、んぁっ、あっああ……」
 先刻の洗い場での交わりでは、粘膜の立てる淫猥な濡れた音がしていたのに、今は湯が揺れて、跳ねる雫の音ばかりが浴室に木霊する。深く抜き差しされれば、高く上がる湯の飛沫。
 水中で愛されているということが、目がくらみそうになるほどの劣情を呼び起こす。
 じん……と疼く背筋。湧き上がる快感。
「あっ、あふっ、ん、ん――」
 目の前で、自分の性器が湯の中で立ち上がっているのが、恥ずかしい。飛沫の中で水面から顔を出すそれは、すっかり興奮して反り返っているのだ。
 エロティックに散る黒髪が、それを彩る。
「あ……」
 涙目でその様を見つめ、大きく広げられている両脚を少しでも閉じようとすれば、その動きが、中のマジックの雄を締めつけてしまうことになる。
 きゅうっと内壁が収縮して、逃がすまいと襞がうごめく。狭くなる粘膜の道を、ズッ、ズッ、と突き上げては湯を揺らすマジックの動き。
 だが、その動きは、決して乱暴ではなかった。衝動に任せるばかりではない相手の余裕。
 シンタローは喘ぎながらも、そのことを感じていた。
 優しく耳朶を甘噛みされながら、ともすれば深く、浅く、念入りに時間をかけて擦られる内部。ゆっくりと擦られれば、蜜のような吐息が、喘ぎと共に漏れる。
 小刻みに揺らされれば、気持ちよくて泣きそうになる。
 感じるポイントが丹念に突かれて、広げた太股の筋肉が、快楽に震えている。そして濡れて重い黒髪の狭間で、シンタローがやっと首を傾げれば、すぐに背後から与えられる口付け。
「んぅ、ん――」
 濡れた舌が絡まり、律動に唾液が零れ落ちる。



「……一度、激しくした後に」
 唇が離れた後、シンタローの身体を抱え直して、より深く突き上げてから、マジックが囁いた。
「あうっ……! はっ、はん……っ」
「こういう風に、二回目や三回目で、優しくするのが。お前は好きだよね」
 決して、うん、と答えられないのを知っていて、こういう言い方をするのだ。この男は、と。
 頬を紅潮させて、シンタローは、嬌声をあげた。
 体の奥に、別の生き物がいる。擦られる度に溶かされて、自分もまた、違う生き物へと変えられていく。
「あっ……あああッ!」
「私だって……好きさ。可愛いお前を、隅々まで可愛がることができて」
 声が、身体の奥深くに積もっていく。満たされていく。
「愛してるって……感じてる」



 とめどなく溢れる快感を貪りあう。しかしその情欲を超えた、心の深い部分までが結びつくような交合。
 登り詰めていく。だが、頂上に向かうのは、一人じゃない。二人で、一緒に、向かうのだ。まるでなだらかな坂道を、手をとりあって行くように。
 シンタローは、潤んだ目で、啼いた。
 薄明かりの滲む浴室に、乱れる二つの吐息が、絡み合う。光の加減で、狐色にも乳白色にも見える壁の檜板に、揺れる影。
 さや、と庭の梢をならす風を、もうシンタローは感じてはいない。感じているのは、熱。溶け合う感情のもたらす熱。
「……私は幸せ者だよ」
 マジックがそう呟いた声を、揺らめく黒髪が受け止める。
「んっ……」
「お前が、私を追いかけてきてくれた時……凄く嬉しかった……」
 シンタローは、涙を零す。
「……ありがとう」
 アンタ、俺に、冷たい態度を取った癖に。
 俺がアンタのこと、好きじゃない、なんて。そんなこと言った癖に。
 それでも、追いかけてきて欲しかった癖に。
「シンちゃん。いつか私が本当にいなくなっちゃったりしたら、こうやって一生懸命、私のこと、探してくれる?」
 この、とんでもないワガママ男。駄々っ子。
「追いかけてきてくれるかな」
 なんで、また、こんなこと、聞くんだよ。



「あ……ッ ん、ん、んっ……!」
 ――何で、俺。こんな面倒臭いことに、ハマっていくんだろう。
 一体、何で?
 その答えは、とっくの昔にわかっちゃいるけど、俺は、いつもこの問いを繰り返す。繰り返さずにはいられない。
 繰り返すこと自体が、マジックへの気持ちそのものなのだと。俺は。
 響く声。
「私は……お前がいなくなったら、探すよ」
「あぅ――あっ、あっ、あ……」
 アンタだって。わかっているのに、いつも。
 問いかけばかりして、俺に迫って、当たり前のことを言わせようと躍起になっている。
 はっきりした、証ばかりを、欲しがって。
「必死に探す。命を懸けて探すよ……お前を追いかけるよ」
「……んっ」
「シンちゃん。私のこと、好き? 愛してる……? 私はお前のことを愛してる。永遠に愛してる」
「――」
「……シンタロー……愛してる」
 だんだんと頭の中が白くなっていって、意識がか細くなっていって、水音や甘い囁き声が、遠くで聞こえている。
 自分の心臓の音だけが近くに鳴っていていて、それはマジックの心臓の音と同じなのだと思う。一つになっている。
 やがてそれすらも、意識の彼方に消えていく。
 ただ、シンタローはこうぼんやりと考えている。
 ――アンタさ。
 追いかけてきてくれるか、なんて。好きか、なんて。
 愛してるか、なんて……。
 聞かなくたって、もうわかってる癖に。わかれよ。
 俺は、こうやって体で答えてるんだから。馬鹿だな。
「……ッ、父さぁん……」



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 シンタローは、息を吐いた。情事の後の気だるさが息に滲んで、痺れたままの腰が重い。
 快楽に溺れきったばかりの鈍い体を、清潔なシーツに横たえている。身動きすれば、まだ先刻の残り火が、身の内で燃えているような気がした。
 視線を向ければ、隣に寄り添う男が、にこっと笑顔を見せた。
「……」
 腑に落ちないような、騙されているような、結局貧乏クジは俺が引くの、とでも言いたくなるような。
 そんな気分に陥っていたことも事実であるが、相手の幸せそうな顔を見てしまえば、シンタローは、どうにも抗うことができなくなる。なんだかもう、溜息ばかりをつきたくなってしまう。
 浴室で愛し合い、さすがにのぼせ気味にぐったりしてしまったシンタローを、嬉々として介抱し、世話をしたマジックである。
 体を拭かれたり、ローブを着せられたり、髪を乾かされたりするのは、仕方がないとしても。
 抱き上げられて運ばれて、このシンタローの部屋のベッドに寝かされ、嬉しげに身を寄せられるのも、まあ、自分が相手の部屋を破壊してしまったのだから、文句は言えないとしても。
 例の後始末を、どさくさ紛れにされてしまったことに、ちょっとシンタローはご機嫌ナナメなのである。
 イヤだって言ったのに。無理矢理。指を入れられて。



 だが、そんなシンタローだって、疲労の海に浸かりながらも、やけに自分の身体が、すっきりしていることは認めざるをえない。
 なにしろずっとシテなかったから、特に、それが下肢の辺りだったりすることは置いといて。
 主に、悩んでいた心のある胸の辺りだったり。張り詰めていた肩の辺りだったり。どこもかしこも。みんな、みんな。
 口の中まで、すっきりしているのだ。少し甘い歯磨き粉の風味が残っているけれど。
 この部屋に帰ってきてから、マジックに膝枕をされて、歯まで洗われてしまったからなのである。
 きっちり歯ブラシを奥まで入れられて。コップと洗面器をベッドまで持ってこられて、それはもう甲斐甲斐しく洗われた。
 コンビニでしきりに、シンタローの歯を洗って『ぶくぶく〜、ぺっ』させることに執着していた金髪の男は、今はその望みを果たして、満足そうである。
 ああ、この年になって『ぶくぶく〜、ぺっ』させられてしまった、と。
 ちょっと落ち込まないでもないが、そんなことをいちいち気にして数え上げていけば、シンタローはマリアナ海溝の遥か下まで潜り込まなければならないことになりそうなので、考えないことにする。
 今さらなのだ。
 程よくスプリングのきいた、フカフカのベッドに投げ出した手足を捩り、白いシーツをたわませれば、その波間に伸びてきた男の手に、散った黒髪の先を弄られた。
 シンタローは、白く長い指に絡む、自分の髪を、何とはなしに眺めていた。
 さっきまでは、一人きりで寝転がっていた自室のベッド。
 自分以外の体温。孤独の魔法には、もうかからない。真夜中に、二人。
 今は、二人。
 ……二人、なんだ。



「なんだって、『抑圧された願望』?」
 心ゆくまでシンタローの髪を弄った後。
 ベッドに腹ばいになって両肘をつき、新品の歯ブラシを咥えていたマジックが、素っ頓狂な声をあげた。



 サイドボードの上には、一口だけかじって放ってあるらしい、板チョコが銀紙に包まれたままで置いてある。
 食うならちゃんと食え! つうか、もう寝る前なんだから止めとけよ! 健康に悪いだろ! 等とシンタローは思いながら、緩慢な動作で首をひねる。
「ん……」
「まだお前、そんなことを」
「だってさ……子供時代とか青春時代に満たされなかった想いが、酒を飲むと現れるんだって……ドクターが」
 あくまで平静な風を装いながら、先刻よりも詳しい話を、シンタローは口にした。
 落ち着いた途端、話の真偽が気になってきたのだった。
 あーあ、あの話、ホントだったのかなあ……。
 ドクターは可能性を話しただけで、信じた俺が悪いんだとは、わかってんだけど。
 聞いた時、本当っぽいって、思ったんだよなあ、俺。
 ベッドで手足を弛緩させたままのシンタローの呟きに、マジックは不服そうだ。
「心外だなあ。なんだか、そういう話。本人としては気に入らないよ」



『マジック様は、幼少の頃にお父様――つまり前々総帥――を亡くされて、それ以来、自分を捨てて、青の一族やガンマ団のために、邁進してきた御方ですから。普通の幼少時代や青春時代を送ることができなかったということですよ。今はそんなこと、御本人はお忘れでしょうが、そういった過去の枷は、心の奥底深くに、眠っているものです……』
 自分がこの話を本当だと思った理由については、シンタローは勿論気付いている。
 俺は、マジックの過去を完全には知ることができないから。
 不安だったのだ。不安だったから、本当のマジックの姿が、自分にはまだ隠されているような気がしていたから。
 ――それは、南国の島に行く以前の、この男との関係のトラウマによるものだということは、わかっているのだけれど。
 昔はそうだったというだけで、今もそうだとは、限らないのだけれど。
 どうしても、シンタローは不安になってしまうのだった。
 知りたいという気持ち。自分は、マジックの全てを知りたいと、いつも願い続けているから。
 ……情けないことに、これが独占欲ってやつなのかもしれない……。
 自分は、藁にもすがる気持ちで、この可能性に飛びついてしまったのだろうと、シンタローは自分自身を振り返って考えている。
 不安が、自分をそう信じ込ませてしまったのだ。
 ええい、くそ。そうさ、俺はマジックのコト、少しでもいいから知りたかったんだ。知ってどうなるというモンでもないんだけどよ。
 だってさ、もしかしたら……俺が、力になってやれるかもしれないじゃないか。アンタのさ。強い人ぶってるアンタのこと、わかってやれるかもしんねえじゃん。
 しかし、実際のシンタローの口から出た言葉は、こうだった。
「ヘッ。アンタさ、ハードボイルドに憧れてたりしてンじゃねえの? 案外。内心では。実は」



 からかうような口ぶりになってしまって、シンタローは内心、ほぞを噛む。ああ、ちくしょう。こうじゃねえのに。
 ん〜? と眉を動かした相手は、歯ブラシを細かく動かして奥歯を擦りながら、ややくぐもった声で言った。
「……別、に、そんなコト、ない」
「そぉかぁ?」
 疑わしげな声をシンタローが発すると、マジックはかぶりを振る。振りながら、器用に肩を竦めている。
 口と右手が歯磨きで塞がっているからか、やけに左手と上半身を使ったオーバーアクションで、口をもごもごさせながら、
「ない、ない」
「どーも、怪しいゼ。その性格して。その顔して。実は」
 シンタローは追求する。さっきまでは体が動かない程に疲れていたのに、肘を使って、ずり、ずり、とベッドの上を移動し、マジックに迫る。
 嫌がらせに、男が咥えている赤い歯ブラシの先を、まるで縦笛の先を狙って悪戯を仕掛ける小学生のように、手を伸ばして、コンと突く。
 成功すれば、相手は喉が詰まって変な声を立てるはずだったが、間一髪のところでかわされてしまった。
 そんな不満げなシンタローに向かって、マジックはわざとらしく手を振って、真顔で言う。
「ダンディすぎて、そんな余裕ナイ。これで精一杯」
「何言ってンだ――!」



 ダメだ、この男。
 どっと疲労を感じて、シンタローがベッドにうつ伏せで、ばふっと顔を埋めると、一瞬の間を置いて、
「……心配してくれたのかい」
 優しい声が、頭の上からかかった。
「……」
 ちろ、と顔を横に向けて、相手の方を見遣れば、男はこれもやけに優しい顔つきをしていて。
 シンタローは慌てて、再度、顔を伏せた。頬が赤くなったのを、見られたくはなかった。
 そして、何か他の話題はないかと頭の中を駆け回って、聞きそびれていたことを思い出した。
 シーツに唇をつけたままの聞き取りにくい小声で、シンタローは尋ねてみる。
「アンタさ、どーやって、真夜中のマジックのこと、知ったんだよ」



 マジックが、酔っている間の記憶がないにも関らず、どうして別人格の存在を知ったのか。そしてシンタローが、本物には内緒で、別人格と付き合っていることを知ったのか。これが残った謎だった。
 おそらく途中までは、完全に気付かれてはいなかったのだとシンタローは思う。自分も必死に痕跡を隠していたのであるから。
 でも、あの最後の日。和室で頬を叩かれた日。
 自分が仕事から帰ってくると、居間が暗くて。元気のないマジックがいて。あの元気のないマジックは、何をどうしたかはわからないが、本当のことを知ってしまっていたのだろうと思われるのだ。
 どうやってマジックは、知ったのだろう?
「カメラ」
 あっさり言われて。
「〜〜〜〜〜〜!」
 声にならない叫びを、シンタローは上げた。
 そうだった。ビデオ撮影は、マジックの得意中の得意分野なのである。
「うん、盗撮してた」
 シンタローの行動に不審を覚えたマジックは、日本酒を飲む前に、あらかじめ部屋に隠しカメラを入れて、撮影していたのだという。それが、最後の日の前夜のことだ。
 前夜といえば、シンタローが部屋の室温を50℃にまで上げて、真夜中のマジックに迫った日である。
 暑い、暑いと胸元をパタパタさせていたりした、そんな酔いに任せた思い出。
 あ、あの出来事をッッ!! マジックは、見たのかァァ!!!
 恥ずかしさのあまり、シンタローは悶絶する。顔が赤くなるどころじゃねえッ!
「フフ……最初から酒を零した振りをすれば、よかったのに……」
「ぐあッ!」
 シンタローは、バッと毛布を引き寄せて、頭からそれを被る。



 繭のようになって、阿鼻叫喚を押し殺しながら、ゴロゴロ転がっているシンタローに追い討ちをかけるように、マジックが言う。
「ま、お前には、あれを見た時の私の気持ちを、想像してもらいたいものだよねえ……はは、ハハ……」
 怒ってる! まだやっぱり、怒ってる!
 そして、その上。例の最後の日、あの和室での時は。
「前日のビデオで、おおよその事情を把握した私は、和室では日本酒を飲む振りをして、実は水とすり替えていたんだよ。普段のお前なら、それぐらい気付きそうなものだが、何だかお前は色々一生懸命で、それどころじゃなかったらしくてねえ……和服なんか着ちゃってさあ……」
「ギャー! やめろォ!」
 日本酒のすり替えには、翌日の朝になって気付いたのだから、知ってはいたのだけれど、あらためて言われると、もうどうしようもない。
 丸まったまま叫ぶシンタローの脳裏に、めくるめく走馬灯のように、あの日の出来事がよぎっていく。
 しかも自分は、和服だけならまだいいが……。
「いやあ、凄かったねえ、宴会芸。コスチュームプレイって奴かな?」
「ウッギャ――!!!」
「ハハハ……誤解してたなあ、お前はああいうの好きだったんだねえ、パパ、気付いてあげられなくって、ごめんねえ? ハハハ」
 乾いた笑いが怖い。毛布を通して、威圧オーラが、ひしひしと伝わってくる。ゴゴゴゴ……という音まで聞こえるような。
 迫り来る危機はこれからだったのかッッ!!!



「いや、さっきは色々してもらったけどね? うーん、これは、まだまだお前には、奉仕してもらわないといけないみたいだねえ……」
 毛布の中で。ガクリ、とシンタローは、首を垂れた。
「これからが楽しみだよ! クックック」
 不気味な笑い声が響き渡る。もう駄目だ。これで弱みを握られてしまった。
 シンタローは、自らの命運を悟る。毛布の向こうに、死兆星が輝いている。
 それからというもの、めっきり二人の夜の営みに、イメクラが加わってしまうのも、シンタローが強く拒否することができなくなってしまうのも、自然な流れであった。
 そのお陰で、シンタローのコスプレスキルは跳ね上がってしまい、『これが普通だ!』とばかりに変な格好をすることも厭わぬようになってしまうのだが(例えば、ピーチメン、キノコ)、それはまた後の出来事である。
 彼は、順応性の非常に高い男であった……。合掌。



 ――と。
 歯ブラシを咥えたまま、散々にシンタローを威圧していた男が、立ち上がる気配がして。
 シンタローは、毛布の隙間から、そっと様子を窺った。
 黒いオーラの余韻を漂わせた背中が見えて、彼はベッドを降り、洗面所に口をゆすぎに行ったらしい。
 ……あっち、行きやがったナ。
 ほっとして、シンタローは繭から顔を出し、息をついた。何だか俺、やっぱり可哀想なんじゃねえの、とウダウダ考えた。
 しょんぼりした黒髪がシーツに散って、寂しげにうねっている。洗面所からは、水音が聞こえてくる。
「……」
 それにしても、と。ぽつりシンタローは漏らす。
 あと一つ、気になっていることがあったのだ。ある意味、とても深刻なこと。
「真夜中のマジックって、別に俺のこと、どーでもよかったのかな……」



 コップに水を注ぐ音がして、すぐにそれが止まって、マジックの声。
「まぁたシンちゃんは! あいつのことばっかり気にして! こぉの浮気者!」
 聞こえちまったか、この地獄耳、と思いながら、シンタローは慌てて叫んだ。
「バッ! バカヤロ! そんなんじゃねえよ! だから気になるだけだって言ってんだろォ!」
「それが悪いの! どーしてシンちゃんにはわからないの、ソレがっ!」
 そこまで言って、うがいをする音が聞こえてきた。



 しばらくして、ふてくされた表情でマジックが洗面所を出て、こちらに歩いてくる。
「……」
 長身の男は、ぴたり、とベッド脇で立ち止まった。毛布を抱えて寝転んでいるシンタローを見下ろし、やけに、じっとりした視線を送ってくる。
「そんなんじゃ、ねえって」
 言い訳のように繰り返すと、相手は少しの間押し黙っていたものの、深い深い溜息をついて、ベッドに腰を下ろした。
 スプリングが揺れて、消えたはずの黒いオーラがまだ空気のあちこちに残っているような気がして、『お、なんだコラ、やんのか、オラ』なんてシンタローが虚勢を張りたくなるような雰囲気が、辺りを支配する。
 気まずくなった黒い頭が、やわらかなベッドに擦り付けられて、マジックの出方を探っていると、
「真夜中の私……あいつのことは気に入らないけど、あいつが考えてることは、わからないでもない。自分自身だからね」
 そんな言葉が、男の口からボソリと漏れた。



「なにィ!」
 シンタローはガバッと身を起こす。情事の名残で腰の奥がジンと痺れて、思わず顔をしかめながらも、構わず聞く。
「教えろ! 今すぐ教えろっ!」
 息せき切って迫るシンタローに、ベッドの上に憮然として座っているマジックは、とてもイヤな顔をした。
「くぅ……! ああシンちゃんのその熱い瞳が気になる! あああシンちゃんの愛を一心に集めるあいつが憎い!」
「だーかーらー! そんなんじゃないってば!」
「ああ、憎いよ! これが私じゃなければ、一瞬で消してやったのに! いやただでは殺さないね! こう焼け火箸を押し付けてジワジワとなぶるように」
「あーもう! 物騒なコト言うな! むやみに他人を攻撃しないって、俺と約束したろ!」
「だって他人じゃないから! 自分だから!」
「わかった、俺が悪かった! 悪かったっての!」
 いまだ怒りの冷めやらないマジックの、秘石眼が煌々と輝きだしていた。
 シンタローは思わず、手を伸ばして男のローブの裾をつかんでしまう。驚いた相手が、瞬きをした。
「……シンちゃん」
 見下ろす青い目と、見上げる黒い目が、出会う。
 シンタローは、勇気を振り絞って、言った。
「ホントに……悪かった。ごめん……」
 マジックが、ベッドにそっと横たわり、隣に身を寄せてくる。
 そして包まった毛布ごと、シンタローを抱きしめた。囁く。
「こっちこそ……冷たくしちゃって、ごめんね」
「ごめん……」
「うんうん、ごめんね」
「……」
「もう冷たくしたり、しないよ」
「……ん」
「しないから」



 互いに歯磨き粉の味がするキスをした後。
「……ハードボイルドっていうのは。つまりは男の美学だろう」
 なんだかそんな話を、シンタローを腕に抱きながら、マジックが始めた。
「あーあ、私はそんなものに憧れるより、一日中シンちゃんとラブラブすることの方に憧れているのに。それがどうして、お前にはわからないかな」
「ああん?」
「あん、もぉ。甘い雰囲気から、すーぐ眉間にシワ寄せる速さは一級品だね! かーわいい!」
「クッ、それはいいから、一度説明しかけたら、ちゃんと最後までしろよ! 脱線ばっかりだよな、アンタは」
「いや、こっちが常に本線だから。シンちゃんラブが常にパパの本筋。シンちゃんラーブ
「だから! ンなコト言ってたら話が一向に進まね・え・ダ・ロ――!!!」
「ぎゅう〜〜〜



 『男の美学の極意って知ってるかい』と前置きして、やっとマジックが話を続けたのは、シンタローが散々に、すりすり抱き抱きされてしまった後だった。しかも話しながら、まだシンタローの耳朶を優しく噛んでいる。
 ハードボイルド的にはね。
「最も愛してる相手には、手を出さないんだよ」
 何だよアンタ、憧れてなんかないとか言いながら、やけに詳しいじゃんヨ、とシンタローは眉をピクピクさせながら、聞いている。
 本人は否定するけれど、高松の話したことは正しいのじゃないかと思えてくる。自覚なしかよ。
 勿論、そんなことを考えているシンタローは、毛布ごと、ぎゅっとされたままなのである。
 ちゅ、と、こめかみに唇を落とされた。マジックの唇は、少し冷たい。
「特に……相手に他に愛してる相手がいるのであれば、身を引く。それが男の美学さ」
 自分も愛しているのに、その人の幸せのために身を引いて、何も言わずに霧の中に去るのが、一番のオトコなのであるらしかった。
 ふーん、そんなもんか、と疑わしそうなシンタローに向かって、途端にマジックは表情をけわしくする。辛そうに歯を食いしばる。
 マジックの腕がぐっと締まって、抱き込まれているシンタローは少し苦しくなった。
 苦しいので、両肘で、少しでも開きスペースを作ろうと身動きするが、上手くいかない。
 クソ、このっ、力入れすぎだっつうの!
 構わずマジックは、言葉を続ける。
「だから……くうっ、悔しいことに……真夜中の私は、やはり私であることからして……くううっ、お前を本当に愛していたから……最後までは……手を出さなかったということだ……ッ! こ、このっ、ううっ、そ、その点は、私も認めざるを得ない! なんて奴だ! 我がライバルながらに、見事だ……!」
「なっ!」
 シンタローは、今度こそ隠しようもない程に、真っ赤になった。





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