真夜中の恋人

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「はあ……はあ……」
 どうやってあの男殺油兄貴地獄から逃げ出したのかも、覚えてはいない。
 気がついたら自分は、ここで震えていた。
 ……体内マジカルゲージの限界を、劇的突破してしまったらしい。
 シンタローは膝を抱えて、ぼんやりと周りを見回した。
 白い壁。狭い場所。遠くから聞こえる咆哮。
 彼は今、トイレの個室、蓋をした便器の上で、身を縮めているのだった。



 シンタローは、自分の左胸を抑える。
 まだ、心臓がドクンドクンいってやがる。
「……」
 しばし項垂れ、精神を落ち着かせようと、目をつむっている。
 そして、ぐすっと鼻をすすり、手を伸ばしてトイレットペーパーでチーンとかんだ。
 ぐっ……うう……俺、俺……どーして、こんなコト……。
 総帥だってなあ! 総帥だって……苦手なコトがあるんだよっ!
 うう……。
 シンタローは、心の中で小さく呟いた。
 ……怖かった……。



 時間が経つ。
「……あ」
 じっとしていたら、少し心が落ち着いてきたシンタローは、ハッと気付いた。
 自分の行動を思い返すに。
 俺、周囲の波に乗って、つい講演会に参加する体勢に入ってたケド。パンフまで買っちまったケド。
 そもそも俺の目的は、マジックの隙を狙って捕まえることじゃねえか!
 別にこんなケダモノ男祭に参戦しにきたんじゃねえよ、俺! 俺ッ! しっかり俺ッ!!!
 シンタローは、パチンと両手で自分の頬を叩く。
 そして溜息をついた。
 ――このまま、ここで講演会が終わるまで、じっとしてよう。
 ――終わる頃合を見計らって、そこで会場から出てくるマジックを、捕まえればいい。
 そう決め込めば、大分心が楽になる。
 シンタローは、そのまま膝を抱えて、待った。
 トイレの中で、待った。



----------



 しかしその静寂は、あっさりと破られてしまうのである。
 幾許かの時間が過ぎて、シンタローが、うとうとしかけた頃。
 トントンと、扉を叩く音がした。
 そして、かけられる声。
「君ィ。大丈夫かねぇ、キミィ?」



 マズい。
 ハッと目を覚まし、シンタローは、締め切られた白い扉を見た。
 扉はノックの度に揺れ、鍵がカチャカチャと音を立て、その向こうで誰かが中の気配を窺っているに違いなかった。
 想像以上の長くの間、自分はここにいたのだろうか。
 ふと気が付けば、遠くから聞こえていた歓声は、雑多なざわめきに変わっていて、あちこちから幾多の足音がしていた。
 足音たちが城内から出て行く気配はしなかったから、休憩時間か何かなのだろうか?
「おやおや君ィ? これは困ったねえ、まさか中で倒れてるんじゃないだろうね。愛の興奮のあまりショック死でもしてたら大変だよ、開けるよ?」
 扉の外の声は、不審気だ。
 これは本格的にマズいことになったと、シンタローは唇を噛んだ。
 扉は薄く頼りなく、古びた蝶番がきしきしと鳴り、外側から壊して開けようと思えば、すぐに開けられる状態にあった。
 ここは、自分から外に出て誤魔化すしかないと、シンタローは心を決める。
 なに、相手はただの素人、何とかなるだろう。気分が悪かったと言えばいい。先刻の受付よりは誤魔化すことは容易なはずだった。
 シンタローは立ち上がり、狂奔の嵐の中で乱れたらしい衣服を整えた。すなわちハッピ。
 そして錠を外し、内側から個室の扉を開けた。
 差し込む室内灯。



「!!!」
 扉を開けた先、目の前に立つ相手の姿に、シンタローは言葉を失う。
 そこにいたのは、さきほど出会い頭で衝突し、自分が身を隠した相手。警戒すべき相手。敵対国の心戦組の男だったのである。
 これは罠だろうかと、シンタローは最悪の事態を考えた。自分の正体がばれてしまっていて、すでに敵に包囲されているとしたら。総帥誘拐という最悪のシナリオが、脳裏をよぎっていく。
 ヤバい。どうする、俺?
 しかし案に反して、男はシンタローを見ると、快活に言った。
「なんだよ心配したよ? 興奮した様子でトイレに駆け込んで、ずっと出てこない同志がいると知らせが入ってね。なにせ私はファンクラブ古株、すっかり頼りにされてしまっているという訳さ。志を同じくする仲間たちのことは、放っておけないというもんだよ!」
 相手は妙になれなれしくシンタローの肩を、ぽんぽんと叩いてくる。
 シンタローの沈黙を、緊張からと取ったようだった。
「大丈夫かい? わかる、わかるよ、感極まると、体は悶える。マジック先生の魅力は、天から地への絶叫マシーンのごとし! 経験の浅い内は、誰でもそうなるよ」



 くっ……ばれてねえのか……? まだ、ばれてないのか……?
 シンタローは警戒しながらも、とりあえずは調子を合わせてこの場を逃れようと、こくんと頷いて見せた。
 相手は、フフと口元に笑みを浮かべている。
「ああ、もう大丈夫なようだね」
 シンタローは顔を伏せ、自分の顔がよく見えないようにしてから、こっそりと横目で相手を観察した。
 皮肉なもので、こんな時に役に立ったのが、例のA3パンフレットと、マジックうちわである。
 ――黒い長髪を結い上げた男は、年の頃は自分より少し上といったところか。
 細い黒縁の眼鏡に、釣り上がり気味の黒い切れ長の目。和服。裾さばきも鮮やかで、これが普段着なのだろうと思われる。この古都の街の似合う、日本人。
 一見した限りでは、エリート風。沈着冷静で、プライドが高くて神経質。
 と、そう観察してみたものの、第一印象がそうだというだけで、本当の所はどうだか知れないが。
 ……とにかく、敵だ。
「うんうん、よくあることだよ。私もね。マジック先生に出会ったばかりの頃はね……」
 男は腕組みをし、すっかり一人合点している。
 その様子からして、シンタローは、現時点では危険はないなと判断する。
 男の言葉や表情には、含みがないように思われた。
 それにもし最悪の事態に陥っているのなら、個室にいた段階で、無防備な状態を狙われているはずだった。
 多分、ばれてない。大丈夫だ。
 今は幸運を感謝し、自分の正体がばれない内に、この場を離れるべきだろう。



 パンフレットで顔を隠しながら、シンタローは頭を下げて、礼を言った。
「いやいや、気にすることない。愉快な同志さ、我々はマジック先生を愛する同志だよ、君」
 相手は鷹揚に頷いている。
 上手くいった。やれやれだ。
 そしてシンタローは、踵を返す。相手に背を向ける。ほうっと、安心の息をひそかに漏らす。歩き出そうとする。
 しかし。
 がしっと、背後から肩が掴まれるのを感じた。強い手だった。
「君、ちょっとよく顔を見せてくれないか」
「……ッ!」



 マズい!
 誤魔化そうと、さりげなさを装って、シンタローはその手を軽く振り払う。トイレを出ようとする。
「や、大丈夫なんで……」
「体調のことじゃないよ、顔だよ、顔。恥ずかしがらなくたっていいじゃないかね、君!」
 しかしますます強く肩を掴まれて、引き戻される。
 覗き込んでくる相手。ここで自分が彼を振り払うのは、不自然だった。不自然だと思われれば、きっと仲間を呼ばれる。幸運が不運に変わる。
 なんとかその不躾な視線から逃れなければならないが、ここで騒ぎを起こすのも得策ではないのだ。
 くっ……! ナニか言い訳するしかねえのか! 考えろ、俺!
 シンタローは、瞬間的に方策を頭の中で巡らせる。
 ……ええと、他人の空似……実はジャンでした……ぐっ、いやいや、マジックの息子のコスプレをして、側に近付こうとしてました、ごめんなさい☆……うー、アホな言い訳しか浮かんでこねえ! く……う……!
 しかし。ギリギリと歯噛みをしたシンタローは、すぐに相手の様子が、自分の予想した種類のものと違っていることに気付くのである。
 心戦組の男は、目を細めたり眉間に皺を寄せたりと、こちらをためつすがめつしている。
 ずいっと身を乗り出して、息がかかる距離に顔を近づけてきたかと思えば、顎を引いて唇を曲げて遠目に眺めていたりしている。
 それが癖なのか、眼鏡を上げたり下げたりしている。
 シンタローは首をかしげた。
 ……何なんだ、この男?



 シンタローは顔を隠すのをやめて、今度は正面から男の顔を、眺めてみた。
 すると灯りの下、また別の一つの事実に気付く。
 よく見ると、相手の眼鏡は伊達眼鏡である。縁の内に入っているはずの、レンズがない。
「んん、すまない、どうも近眼でよく見えなくてねえ……君、どこかで会ったことあったかね? 私はどうにもそんな気がするのだが」
「近眼って、じゃあその眼鏡は……」
 相手の質問を上手くかわして、シンタローは質問返しをすると、男はよくぞ聞いてくれたという顔をした。
 先刻から思っていたが、彼はかなりの喋りたがりらしい。構って貰いたがりのようだ。
「ああ、この眼鏡かね。私は近眼なんだが、さきほど街でどこぞの無頼漢とぶつかってしまってねえ。割れてしまったのだよ! だから今はこうしてレンズなしで……」
「なら、はずせよ! いや、はずさないんスか」
「ククッ……ダメだよ、この眼鏡は私のトレードマークなのだよ! 考えてもごらん。マジック先生が私の顔を覚えて下さっているとしよう。覚えて下さっているに決まってる。だがね、今日に限って! 眼鏡をかけていないせいで! マジック先生が『ああ今日はあのメガネっ子がいないな』なーんて思われたら、私はどうすればいいんだね、君、どうすればいいんだね!」
「……はあ……てーか、まず近眼なら、あのアホ親父……いや、マジック先生(ぞくぅ!)の顔も見えないんじゃ……」
「ああ心配要らない、マジック先生のお姿には、いつでもどこでもマイ眼球の焦点合いまくりだから心配ない。むしろ心の水晶体がいつでもチューン・アップだよ君! むしろそこでマジカル水晶体! なに、ぬかりはないよ! ふっふっふー!」
「……」
 俺の第一印象も微妙だなと、思い始めたシンタローである。
 そして男の話を聞いて、おそらく彼の眼鏡を割ったのは自分であるらしいと考えて。折角の楽しみしていたイベントなのだろうに。ちょっと悪いなと思ってもみたものの。
 心に、妙に彼に対する気後れのようなものが生まれたものの。
 なんとなく、取り付く島が、ない。



「うーん、やっぱり君とドコかで会ったような気がするんだが、思い違いかなあ」
 相手は、まだ腕組みをして、考え込んでいる。
 シンタローも、考える。
 この男は、自分の顔を知っているのかもしれない。その可能性は高い。
 彼の眼鏡が壊れていた(俺が壊した)のは、彼には悪いが、俺にとってはラッキーという他はない。
 やはり早く立ち去るしか。
 そう判断し、さあ退散とばかりに曖昧な返事をしておいてから、再び踵を返したシンタローだったが。
 がしっ!
 またまた肩を掴まれてしまうのである。
 いやにしなだれかかってくる相手。非常に馴れ馴れしい。
「しかし君ィ……さすがに同志だねえ。私の眼鏡の心配をし、かつマジック先生のお姿拝謁の心配までしてくれるとは! フフッ……なにね、ちょいとホロリときたよ……普段、私の職場の同僚ときたら、部下たちときたら、マジック先生の素晴らしさを理解しようともしない不届き者ばかりでねぇ……」



 何だか相手は、自分に好意を抱いてしまったようである。
 マズいマズい。接触を増やせば、正体がばれる可能性が高くなるのは道理だった。
 そわそわしているシンタローに向かって、男は親しげに訊ねてくる。先刻の気後れが影響しているのか、なんとなくシンタローは彼を振り切ることができない。
 しかしなぜ常に上司口調なのだろうか。
「君ィ、名前は?」
「イヤ名乗るほどのモンでもないんで」
「ほう。いいよいいよ! なかなかに謙虚だ。見所があるよ。それともこの私に遠慮してしまっているのかな?」
 なんだか相手は、妙に自慢げで。フフンと鼻を鳴らしている。何なんだ、この仕草。
 ここまできたら、シンタローも対面上、訊ねずにはいられない。
 聞いてくれたまえ、聞いてくれたまえ! というオーラが、男には漂っているのである。
 ここでつい聞いてしまうのが、普段は斜に構えてはいても、シンタローの人の良い所でもあった。
「アンタの名は……」



 すかさず男の目が、キラリと光った。伊達眼鏡なのに、キラリと光った。
「君ィ……この私を御存知ないとは、さては新参者だねぇ?」
 ずり落ちそうになる縁の細い眼鏡を、人差し指で彼は上げる。
 くい、くい、っと上げる。
「よかろう、名もなき我が同志よ! フフッ……聞いて驚くよ!」



「ククッ……フ……フハハハハハハハハッ!!!」
 狭いトイレの中に、強烈な声が響き渡った。くわんくわんと、タイル張りの壁の、あちこちに反響している。全方面。
 がばっと両手を広げた大仰なポーズで、男はニヤリと笑った。
 結い上げた長髪が、誇らしげに揺れた。
 ババーン!
 効果音すら背後から聞こえてくるような仕草で、彼の手元が神々しく輝いている気がする。
 懐から取り出された四角いカード。それは栄光のマジックFC会員証!
 ウインクしたマジック先生写真入り!
 杖をかざして荒海を割ったモーゼのように。彼は高々と会員証をかざす。
 それはまるで水戸黄門の印籠であった。控えおろう!
 聞いて驚け、見て驚け! ひれ伏すのだ!
「会員番号:No.3! 壬生にその人あり、山南ケースケとは私のことだよッッッ!!!」



「……」
 しーん。
 流れる静寂。
 カタカタとトイレの窓が夜の風に揺れて、隙間から一陣の冷気が吹き抜ける。
 ひたひたひた。
 白い壁を、ヤモリが長い舌を出して、這っていった。
 ぱたぱたぱた。
 羽虫が、電灯の辺りを舞っていた。
 シンタローの目の前で、山南ケースケと名乗った男は、会員証を高く掲げた決めポーズのまま、静止している。
 時間は流れているのに、静止している。
 耳を澄ませば、男のはめている腕時計(マジック顔写真入り)が、かちかち針を刻む音すら聞こえてくるほどの静寂。
 やがて。
 男が、再度動いた。
「ククッ……フ……フハハハハハハハハッ!!!」
「イヤ、やり直ししなくていいスから」



「あれあれ? だって、No.3だよ、No.3なんだよっ、君っ! 全世界で三番目! ここはもっと驚いてくれてもいいんじゃないかねぇっ!!! もっとッッ!!!」
 山南は、草履をパタパタさせながら、トイレの床で、地団太を踏んでいる。腰の大小が揺れている。
「……あ、そーか、それは……スゴいッスねえ……」
 シンタローには、心にもないことを口にする時は、つい口が歪んでしまうというクセがあった。
 この時も、唇をぷるぷるさせて、なんとか相手に合わせようと努力している。
 どうしてどうして! と肩をぷるぷるさせている山南に負けないぐらいに、頑張っている。
 二人は互いにぷるぷるし合っていた。
 山南は大声で叫んでいる。
「No.3ってのはだね、あのお付きのW秘書ドモの次の番号なんだよッ! これは超絶凄いコトじゃないかねっ!」
「……ふーん、あっそ……」
 そうか、秘書の二人が、No.1とNo.2なのかよ。
 新たな事実を知ってしまって、ますますぶっきら棒になってしまったシンタローであった。
 そんなシンタローに対して、相手はますます言い募る。
「よおし、これを見たまえッ! とっておきだ!」
 ごそごそと懐に手をやり、見覚えのある本を取り出している。
「なんと、『秘石と私』初版本サイン入りだよ! ホラホラッ! ここにね、ここにね、『山南ケースケくんヘ』って!」
「……へえ……」
「なんと! これにも無反応ッ! ではでは、これはどうだっ! イベント限定マジック先生笑顔トランプ! マジック先生ダジャレカルタ! ううむ、まだ驚かないのかね! ようし、これはレアだよっ! マジック先生使用済み万年筆ッ! いやあ実はサイン会の時に取り替えて貰っちゃってねえ〜……」
 よくぞ懐にそれだけ入っていたと感心するぐらいに、飛び出してくるマジックグッズ。
 彼の懐は四次元ポケットなのだろうか。



 しかし、どうやら。
 ちっとも期待通りの反応をしないシンタローに、不満そうながらも、もはやそれらを取り出したこと自体に、喜びを感じているらしい山南である。
 マジックの笑顔尽くし(しかし何故にグッズは常に笑顔!?)を眺めては、ウットリしているようだ。
 何やら呟いている。
 マジックの笑顔に、語りかけているようでもある。
「それにしても、ほふぅ……癒された。おおっといけない、私としたことが興奮してしまって。やっぱり漢は沈着冷静でないと! そうですよね、ねー マジック先生
「……」
「君ね! ちょっとマジック先生ファンとしてはノリが足りないみたいだから、言うケドねっ! こぉんなグッズ、手に入れるのって、すっごく大変なんだよっ! あああ、新参の子にはわかりにくいのかなあ〜 特にこのトランプなんて、限定の製造番号がついててね、凄いんだよ君! ええと、ハートが現在のマジック先生、スペードが覇王なマジック先生、ダイヤが少年なマジック先生……」
 憮然とした顔で、シンタローは相手の説明を聞いていた。
 すでに黙っているだけで、体全体がぷるぷるしてくるので、頑張ってそれを抑えるのに精一杯だった。
 加えて、新たな感情を押さえ込むのにも、必死で。
 なぜなら、こう熱く語られると、何となく。
 ――変にムカムカと腹が立ってくるのである。
「……」
 シンタローは、怒っているのかもしれなかった。
 先刻のファンたちにも、うっすらと感じてはいたのだが。
 今、特に、この山南を見ていると、お前らが本当のマジックを知ってるのか、という気分になってくる。
 そもそもシンタローは、どうしてマジックファンクラブが嫌いなのか。
「ねえねえ君! これなんてどうだい! こーのマジカルウォッチはねえ、ぬわんと目覚ましアラームが、マジック先生のお声で『起きたまえ!』『朝寝か死か! 今すぐ選びたまえ!』『お仕置きにくすぐっちゃうゾ』の選択ができちゃう豪華仕様! それでもまだ起きないと、電気ショックが……」



「……とんでもねーヤツだよ……」
 つい、シンタローの口からそんな言葉が零れ落ちた。
 マズいと理性では感じていたが、自分を止めることができなかった。
「何だって……?」
 すると相手の目が、キラリと今度は不穏に光った。
 熱かった空気が一転する。空調が変わったかと思うほどに、ひやりと冷たい空気が流れる。
 ここは相手の言動に突っかからず、穏便に流して切り抜けるべきだった。
 客観的に冷静に考えれば、揉め事は避けるべき状況であるはずなのに。
 反論してはいけないはずなのに。
 構わず、シンタローは言い放ってしまう。
「マジックのドコがいーんだよ!」
「何ィ!」



「覇王つったって、それはそれだけ、人を殺してるっつーことなんだぜ……そんなん、全然幸せなコトだと思えねえ」
「それはどういう意味だね……! 事と次第によっては、ただでは済まさないよ、君……」
 いつしか山南からは、あのお人好しオーラが消えていた。
 漂う殺気が漂い始める。
「……ッ!」
 シンタローは感じた。この男は、強い。
 心戦組は人斬り集団だけあって、腕の立つ者を集めていると聞く。この男は、部下を指導する立場だというから、おそらく幹部。その幹部が、弱い訳がない。
 煽れば最悪の事態になることは、目に見えていた。
 しかしそれでも、言わずにはいられなかった。
 シンタローは続けた。
「そのまんまの意味だろーが。あいつのしてきたコトって、誉めそやされたり、キャーキャー言われたりするモンじゃ、ねえって言ってんだよっ!」
「マジック先生を侮辱するのかね?」
「あ、あいつはなあ! 朝から晩まで人殺してなあ、残酷なことばっかしてなあ、家族との時間だって捨てて、反乱が起きたとか、何処の国を潰すとか、そんなんばっかでなあ、それで世界征服とか全然意味ワカんねえ! 覇王とかなったって、なんかいいコトあんのかよ!」
「……」
「なーにが『秘石と私』だよ! ぐ……青の一族とか赤の一族とか、そんな石コロの思惑に囚われて、あいつ自身は周りも自分も犠牲にして、何なんだよ、そんなヤツのどこがいいんだよ」
「……」
「そんなんで、アンタらギャーギャー騒ぎやがって。アイツを、ちやほやしやがって。茶番でしかねえだろ。何がいいのか、俺には、ちっともワカんねえよ」
 山南の切れ長の目からは、ちらちらと冷たい光が放たれていた。
 居合い抜きのような、そんな間合い。
 シンタローは、相手に対して、思わず身構える。
 刀も抜いてないのに、そうさせる何かが、山南にはあった。
「では、君はマジック先生を、血も涙もなく冷酷非道で情け容赦のない人間であり……かつ、何がいいのかわからない、そういう人間であると。そう、私に主張したいのだね……?」
 確認するように自分に問うてくる相手、山南。
「……そういう言い方されると……っつうかな! なんつーか……なんつーか、その……」
 シンタローは言いよどんだが、チッと舌打ちをして。
 大声で、断言した。
「とにかく、あいつはなっ! アンタらが思ってるような、そういう人間じゃねーんだよっ!!!」



 静寂。間。
 やがて――
「君……」
 ゆらりと山南の背後から、闘気が立ち昇った。
「……ッ」
 二人の間に、緊張が走る。
 シンタローは、しまったと、唇を噛んだ。



「パパだよ」
 突然、山南は、そう呟いた。
「……?」
 あまりにこの緊迫した場面にそぐわない言葉に、シンタローは耳を疑った。
 な、何だ? この男? 攻撃してくんじゃねえのかよ?
 そんな戸惑うシンタローに、相手はもう一度言う。
「パパだよ!」
 それから、真剣な顔をして押し黙った。
「……」
 何なんだろうと。状況理解ができないシンタローである。
 しかしシンタローが見るに、とりあえずは相手は、なにやら返事を待っている風なのである。
 沈黙が続く。
 この間が――辛い。
 居たたまれなくなって。
 シンタローは、ついに、口を開いた。
 記憶の底から、思い当たる言葉を、唇に乗せる。
「……パンダ……?」



「やはり……」
 山南は、重々しげに頷いた。
 そして、大音量で叫んだ。
「そうか――――ッ! わかったぞオオオオォォォォォ!!!!!!」



 超絶ドアップ、超絶太眉、超効果線の超絶劇画タッチで迫られて。
 シンタローは思わずビビッた。数歩、後ろに下がってしまう。
 迫る相手は滂沱の涙を流している。感動のあまり震えている。
 じりじり後退りするシンタローを逃さないとばかりに、相手の腕が伸びてくる。
 がしっ!
 有無を言わさず熱く抱擁されて、シンタローは『え? え?』と周囲を見回した。
 相手は、シンタローに抱きつきながら、再び叫んだ。
「君はやっぱり同志なんだよッッッ!!!」



「まあ聞きたまえよ! 私は君を見て、ある仮説を思いついたんだ! その仮説が正しければ、すべての謎は氷解する!」
 シンタローを放すと、山南は熱く語りだした。
 その握りしめた拳が、震えていた。真理に目覚めた人間の目だった。ぎらぎらと輝いていた。
「考えてもみたまえ……まず、君の発言の『朝から晩まで人殺して〜家族との時間だって捨てて、反乱が起きたとか、何処の国を潰すとか〜』の辺りを考察してみよう! これはまさにダンディ倶楽部の『マジック先生マル秘密着取材』ばかりか、それ以前のレアものダンディ倶楽部特別号『覇王時代のマジック先生マル秘密着取材』まで熟読している証拠!」
「ああああぁ?」
 あまりの解釈に、シンタローはぽかんと口を開けた。
 それを見て山南が、自慢げにニヤリと笑った。
 笑うとこの男には、知的な雰囲気が漂う。何も喋らなければ。喋らなければ……ッ!
「もう隠さなくてもいい。すべての証拠は、君のマジック先生に対する造詣の深さを、指し示しているのだよ!」
「や、違っ……」
 しかし、山南は止まらない。
 シンタローが何か口を挟もうとしても、相手は、つるつる滑って取っ掛かりのない丸石のようなものである。そして勝手にゴロゴロとあらぬ方向へと転がっていく。
 まるでメガネをかけた暴走ローリングストーン。



「次は『なーにが[秘石と私]〜青の一族とか赤の一族とか、そんな石コロの思惑に囚われて、あいつ自身は周りも自分も犠牲にして』発言についてだが。これも『秘石と私』をマジック先生一個人の立場から、実に要領のいい概括的解釈をしているね! これは繰り返しあの大作・上中下を読み返している証拠だよッッッ!!!」
「ぐぉわぁぁぁぁっ! やめろォォ! 本人の目の前で発言むしかえすなァァッッ!!!」 
 羞恥に、シンタローの顔が赤く染まる。
 両手をわたわたと振った。必死に弁明する。
「違うっての! あんな5400円もする本、俺が買ってる訳ねえ! 読んでるワケねえええ!!!」
「いやいや、恥ずかしがらなくてもいい、そうだよ実にお得な5400円! いやあ君は読んでるね! しかも巻末付録の駄洒落コーナーまで熟読していると見た! 暗記するほどに読み込んでるねッ! そう、『パパだよ』の後に続くのは『これはパンダ』。これぞまさにマジック先生にしか到達できない高みの駄洒落っ! まさに同志発見の暗号としても至高のワード! フフン、先刻はそれを試したのだよ、我が同志よ!」
「同志じゃねえええええ!!!!! 勝手に仲間にすんな、いーかげんにしやがれ、この筋肉ミドル隊ッ!!!」
「フッフッフー、それぐらいで私が怒るとでも思ったのかね。私はそんな器の小さい男じゃないよ! 君の熱い想いから出る言葉、それが悪意からか好意からかは軽く判断がつく! なに、同じファン同士! わかる、わかるよォッ!!! 愛ゆえの! 君の愛ゆえの言葉、ラブジェネレーション発言はぁっ! 君のマジック先生個人のお幸せを中心に据える考え方! いやいや感服したね」
「ごふぅっ! やめて! やめろっつーのぉぉぉ!!! あああ、拒否反応が、俺の内部のマジカルセンサーがぁぁあ! リミッターMAX! パルプンテッッッ!」



「フッフッフー。まあそう照れなくっていいじゃないかね」
 トイレの床、冷たいタイルの上に崩れ落ちるシンタローを見て、山南が嬉しげに言った。
「いいね、いいね、いい匂いを感じたよ? 私はこういうコトには鼻がきく方でね」
「……おおお……超絶ダメージ……」
「いや、ただの新参かと思っていたが君! なかなか骨のある男だよ! しかもこの私に対して、堂々たるあの発言! 度胸あるよ、君ィ!」
 ぽんぽん、と肩を親しげに叩かれて、シンタローは、キッと山南を見上げた。
 ――違うっつってんのに! 何だこの男! 決め付けやがって!
 彼が誤解してくれたせいで戦わないで済んだようだが、こんな屈辱的な誤解なら、まだ戦った方がマシだったと、シンタローは葛藤した。
 すると。
 見上げる視界の中で、山南は。
 しばし沈黙した後。
 今度は、ぼそりと呟いた。
「君の一個人としてマジック先生のお幸せを願う、その気持ちは。私にも、とてもよくわかる……」
 また空気が変わったことに気付いて、シンタローは目を見開いた。



 山南は、静かに目を閉じた。
 そして、すぐにまた開いた。
 確かめるように言った。
「ただ、私は覇王であるマジック先生を特に尊敬しているのだよ! なぜなら私は心戦組副長であり、隊士を理想へと導く責務を負っている立場にあるからね! 私には指導者としての夢がある。心戦組を世界最強にすることが、私の野望であり、私に従う隊士たちの夢……!」
「……?」
 山南の目は、澄んでいた。
 シンタローはその目を、じっと見つめた。
 二人の視線が出会う。
「そこが君と私は違う。君は一個人としてのマジック先生に惚れ込んでいるようだが、私は。私は、一個人の立場を捨てて、覇王という理想へと歩まれていた先生のお姿に、感銘を受けている……! 偉大なる先人として」
「……っ!」
「私は覇王の後姿を追いかけているのだよ……」
「……」
「マジック先生! このケースケ、このケースケ、あなたの歩んだ覇王の道を、一歩一歩辿って行きとうございます! 必ずや秘せ……おっと、これはこの場では言えませんが! 必ずやあなたの築いた礎の上で、大きく羽ばたいてみせます!」
 無言で、シンタローは立ち上がった。



「アンタ……」
 シンタローは、山南に初めて真剣に話しかけようとした。
 信じられないことだが、本当にそんな気持ちになったのだ。
 何かで顔を隠したりせずに、正面から。
 しかし。それなのに。
 突如として地団太を踏み始める相手。
「……っ、あああ……っ、それにしても、まことに口惜しいのが、中途半端に平和ボケした息子が跡を継いだということで……っ!!! あああできるものなら成り代わりたいッ! マジック先生、あんな息子なんぞに惑わされないでください……ッッッ!!! くぅ……にっくきガンマ団! にっくき新総帥め! 私とマジック先生の野望の邪魔はさせんぞぉっ!!!」
「……」
 ゴキッ!
 シンタローの握りしめた拳が、鳴った。
 山南に話しかけようとした気持ちが、たちまちに消えて無くなった。はかないものである。
「いやあ本当に新総帥のナマクラぶりときたらっ! 君もそう思わないかね!」
 シンタローの拳の音で、夢から覚めたらしい山南が、突然、がしっと肩を組んできて。
 少しバランスを崩したシンタローの懐から。
 運悪く、ばさばさばさーっと、例の通貨代わりのマジックプライベート写真が、大量に床に落ちた。
「わ、わわっ!」
「おおおおッ!!! そ、それはッッ!!! しっ信じられないッ! あの構図もこのお顔もそのポーズも、私の未見写真ばかりィィ!!! 生写真ッッッ!!! りりしいお姿から、ちょっとアンニュイなお姿まで、満載ィィィ! 君ィ、どうやってこれを! どうやってこれををををッッッ!!!」



 ――結局。
 トイレに心配して来てくれたお礼として、マジックプライベート写真(Private Portraits of Magic)〜略してPPM〜を山南に贈呈しまったシンタローであった。
 30枚も奮発してしまったのは、ひそかに壊した眼鏡代のつもりである。
 しかし近眼なのに、本当にマジックの生写真は見えるらしい。焦点が合うらしい。恐るべしマジカル水晶体。
 そんな魔法の水晶体を持った男は、左腕に満足そうに写真を抱え、額には右の人差し指をあてて、ほうと溜息をついている。
「フ……恐れ入ったよ。君はかなりのマジック先生マニアと見た……」
「あああああ? 何言ってンだよ、アンタ!」
「やはりね! 私の見る目に間違いはないよッ! 君はこんな秘蔵写真まで所持して、そしてそれを同志にわかちあうほどに、本質的根本的根源的徹底的基礎的ラディカルにファンダメンタルにベーシックに、マジック先生を愛してるんだよ!」
「イヤ、違うって!」
「またまた、照れちゃって。絶対そうだよ! 同志は匂いでわかるもの! そうですよね、ねー マジック先生
「ちが――――う!!!」
 必死に否定するシンタローの抵抗も空しく、相手は早速入手したPPMに向かって、しなを作って同意を求めている。
 キラキラキラ、とその目から、輝かしい光が溢れている。
 うっとりした瞳で、山南はシンタローを見た。
「これはお写真を貰ったから、お世辞で言っているのではないよっ! クク、先刻の君が、私のマジック先生グッズに興味を示さなかったのは、まだまだ私は甘いと。そういうことなのだろう……! 君はよほどレアものばかりをお持ちのようだ。よおし、負けないよっ! 発奮してきたよっ! 私も君に負けないように、グッズ入手に、これからも有給を使って東奔西走するつもりだよ!」
「勝手にしやがれ! っつーか、あんだヨ、このツッコミきかないオーラ! やべえ、通常のツッコミじゃ、びくともしやがらねえ……!」
「私と君とは、今日から良きライバルといこうじゃないかっ!」
「ちが――――――――――――うッッッ!!!!!」



 ハッ! と山南は、電流に打たれたように肩を震わせた。
「ああっ! もうすぐフィナーレだよ君っ! 楽しくマジック先生を語らっていたら、時間はあっという間に過ぎ去って!」
「え、マジかよ」
「君はトイレに篭っていたから知らないだろうが、今はフィナーレ前の休憩だったのだよ! なんてこった、もう始まってるはずだ! ほら、歌声が聞こえる!」
 言われてみれば。
 遠くの方から、地鳴りのような海鳴りのような全てが鳴動するような、腹に響く超重低音ノイズが、トイレの壁を震わせ始めているのであった。
 マジックを捕まえるために。
 ヤバい、行かなければ、と思いつつも、その不気味さに青褪めているシンタローの肩が。
 再び、ぽん、と親しげに叩かれた。
「我がライバルよ! 私は君が気に入った! うん、気に入ったよ、君ッ! 君ほどの熱きマジック先生ラヴァーとはお目にかかったことはない!」
「ああああぁ?」
「よし、急ごう! 共に行こう! 私の席に来たまえ!」
「イヤ、メ・イ・ワ・ク! ですんで……」
「迷惑なんてことあるかね君! フィナーレは知っての通り、全員総立ち入り乱れ阿鼻叫喚の愛の嵐! さあ行こう、今すぐ行こう」
「イヤ、ほんといいスから……こーの、メガネ野郎ッ! ポニーテール中年! 振り向くなッ!」
「よーし、走るよ君!」



 ダメだ。コイツ、通常ツッコミがキかねえ……! 止められねえ……ッ!
 シンタローは、山南のボケ・シールドの分厚さに、舌を巻く。
 だがここでは眼魔砲も撃てないので、これ以上はツッコミの鬼畜度を上げることもできない。
 心戦組のヤツラはどうしてるんだろう、と、シンタローは敵ながら同情した。
 しかも副長って。通常ツッコミきかない上司の扱いって。
 大変だろうなあ……
 ともあれ。
 まあどうせ行かなければならないのだからと、山南に腕を引っ張られるままシンタローは、一緒に走り出したのだが。
「急ごう!」
 不意に、駆ける山南が、転んだ。
「……イタっ! おやあ、すまない、なんだかつまづいてしまったみたいだよ、さあ急ごう」
「……」
 また走り出す二人。しかし。
「……イタタッ! おかしいなあ、何もないのに。いやこうしちゃいられない、さあさあ急ごう」
「……」
「さあダッシュー! あたたたたっ! アレ、おかしいなあ」
 つい。
 シンタローは、高速で、山南の足を引っ掛けてみたりして。
 そんなこんなを繰り返しながら、ピンクのハッピを翻しながら、二人は駆けて、会場へと向かったのであった。
 たたたた、と二人の足音が、無人の渡り廊下を木霊する。
 ガチャガチャと山南の腰の大小が音を立てていた。
 ……だって、なんかよ。
 シンタローは、横目で山南を憎憎しげに見遣りながら、心の中で呟く。
 ……この心戦組のヤツ、ただのミーハーなファンかと馬鹿にしてたらよ。
 ……ちょっと、違ったから。
 ……ますます気に入らねェ……。
 そう思うと、途端に激しくムカついてきたシンタローであった。



 そして山南と共に、熱気の群れ満ちる会場に入ったのである。
 不気味な音楽と共に、ここは熱帯雨林かというほどのムワムワ感が肌を襲う。
 シンタローはとりあえず、叫んだ。
「ギャアアアアア! 最前列ッ!!!」





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