真夜中の恋人

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 チチチ……と朝の鳥の声がして、シンタローは目を開ける。
 カーテンの隙間からは、白い光が差し込んでいて、室内の家具に優しい影をかたどっていた。
 シンタローは、目だけで辺りを見回す。
 居間。長椅子の上。一人。腕の下のクッション、持ち込んだ薄い毛布。
 眠り込んでしまったときと、変わらない状況。
「……」
 ゆっくりとシンタローは、身体を起こす。
 立ち上がって、のろのろ続き間のキッチンに入り、ケトルに火をかけ、湯を沸かす。
 やがて温かい蒸気が頬に触れて、自分の機械的に動く手がハーブの入った瓶を開けて、すうっとする香りが鼻先をかすめて。
 シンタローは、ぼんやりと思う。
 マジックは、まだ戻らない。



 あれから、一週間経った。
 マジックはあの夜から、姿を消してしまった。
 何処に行ったのかは、わからなかった。
 携帯電話も繋がらなかった。シンタローは何度も留守電に伝言を残したが、返事はない。
 メールだって、送った。いつかの醤油メールみたいに、ぶっきら棒な感じじゃなくって。ちゃんと。話があるって、ちゃんと。何度も送っているのに。
 返事は、ない。
 普段ならマジックの予定は、基本的にはデータ管理されているはずだったから、軍のホストコンピューターに総帥権限でログインすれば簡単にわかるはずなのだが、それも周到に消去されている。
 どうしても、自分に居場所を教えたくないらしい。
 ただ、グンマには連絡があったという。
 しばらく留守にする、と。
「おとーさま、最近お疲れだったから、旅行にでも行ったんじゃないかなぁ」
 事情を知らない暢気な家族は、にこにこと笑っている。それはそうだ。マジックが家を留守にするなんて、そう珍しいことではない。むしろ彼は引退後も多忙であるのだから。一人だけで何もしていない姿なんて、あまり目にしない。
「きっとそうだ。それに俺たちに居場所を秘密にしているということは! いいか、秘密にしているということはな!」
 キンタローまで、こうだ。しかも妙に嬉しそうだ。
「旅行の土産を秘密にして、俺たちを驚かせてやろうというおつもりなのだろう!」
「わぁ、きっとそうだよぉ、キンちゃん それじゃお帰りの前に、驚く練習しとかなくっちゃぁ」
「うむ。礼を失するからな。しかし驚き方の練習とは、なかなかに難しいぞ、グンマ。そんなマニュアルがあるかどうか。GANMAサーチを駆使して探してみるとしよう」
「たぶんキンちゃんは、何見ても、驚かないマニュアル探した方がいいよぉ」



 シンタローは、帰って来ないマジックを、大人しく待つしかないのかと思う。
 それに、あいつだって。しばらくして、気が済んだら、ガキじゃねえんだから自分から帰って来るさ。
 そうだよ。ガキじゃねーんだし。
「へっ……」
 一日に何度もシンタローは、そう心の中で強がって、鼻で笑ってみたりもする。
 そしてその度に、あのマジックが最後に見せた、冷たい瞳を思い出してしまう。
 ぞくりと心が震えてしまう。
『残念だったね。私は、お前の好きな真夜中の私じゃない』
 そう言った時の、あいつの瞳。まるで俺を。蔑んでいるみたいな。軽蔑したような。そんな、瞳。
 どんなに喧嘩したって、あんな目で俺を見ること、もうほとんどなかったのに。
 あれは本気の瞳だった。何で。あんな目で、見ることないのに。
 ……それに。それにそれに。あいつ。嘘つきやがって。
 シンタローは、唇を噛む。
 手近にあるものを、ぐっと握りしめる。紙であればそれはぐしゃぐしゃになり、文房具であれば折れたり曲がったりする。自分の腕であれば――痛みが走る。
 痛み。
 シンタローは、首筋を、そっと指先でなぞる。噛み痕は、一週間を経た今においても、まだ残ったままだった。
『そんなにお前は、真夜中の私に飲ませたいのか』
 そう絞り出すような声で、自分を喰い殺す勢いで噛んだ、あのマジックは。
 真夜中のマジックなんかじゃなかったのだ。
 ――あの夜。
 呆然としたまま、ともかくも着物を引きずりながら和室を出て、居間に入ったシンタローの前に残されていたもの。
 おそらく意図的にだろう、最初にマジックが使ったはずの、杯、徳利、酒瓶。
 よく調べてみれば、そのすべての中身が、ただの水だった。
 そういえばこの酒瓶は、珍しくもマジックが自ら持ち込んだものだったと、シンタローはぼんやりと記憶を辿った。
 別の一瓶には普通の日本酒が入っていて、シンタローの杯にはこちらが注がれていたのだろうと、おぼろげながら気付いた。
 常温でそのまま飲みたいって。そういえば、言ってたなあ――
 とにかく何らかの方法で、昼間のマジックは自分の酔った姿、つまり真夜中のマジックを知って、さらに俺がその別人格(だろうか?)に一生懸命になっていることを知ってしまったのだ。
 そして、少なくともあの夜は、酔った振りをして、俺を騙したのだ。
 胸の辛さと共に、シンタローはそう悟っている。
 嘘をつかれていても演技をされていても、あの夜のシンタローはいつも以上に懸命だったから、それに全く気付かなかった。
 本物のマジックは、彼を真夜中のマジックだと信じ込んで、誘惑しようとするシンタローに、腹を立てたのに違いなかった。
 ……腹を立てる。
 もっと根深い言葉が、似合うような気がしたけれど。



 シンタローは伏目がちに自分の手を見た。
 マジックを待ちながらも、かといって、待って、そして会えたとして、自分が何を言えばいいのかに、ひどく悩んでいた。
 そして落ち込んでいる。
 恥ずかしい姿を、見られたと思ったし。とてもとても――後ろめたい、気分。
 何で演技してまで俺を騙したんだ、という怒りも勿論あったが、それを遥かに超える、重い気持ち。
 シンタローは、マジックに会いたい、とにかく会わなければ、と思いつつも、実は会いたくないのかもしれなかった。
 会って。また冷たくされるとしたら。
 マジックにベタベタ熱烈にアプローチされるのは鬱陶しいと、常々シンタローは感じていたが、かといって、それがなくなると、どうしたらいいのかわからなくなってしまうのが、自分なのだった。
 シンタローは、昔と違って、それをはっきりと自覚していた。自覚したのはここ数年のことで、やっていること自体はずっと変わらないのだけれど。
 昔だって、いきなり冷たくされると、どうしていいのかわからなくって、俺は正面から向かって行ったっけ、そして跳ね返されて。冷たく扱われたんだ、とそっと過去を思い返してみたりもする。
 ……コタローの、時とか……。
 いつだって、自分たちはそうだった。熱いかと思えば、本当は冷たい。冷たいかと思えば、熱い。よくわからない。その感情の揺れに、翻弄されてしまう自分。情けない。
 だからこそ……マジックの顔を見るたび、そんな自分を認識させられてしまうから。
 シンタローは、彼を鬱陶しいと、感じてしまうのだ。悔しい。俺にそんなコト、思わせやがって。
 あいつ。あんな奴。
 俺、やっぱり、あいつに会いたくない。



 でも夜中に物音がすれば、マジックが帰って来たのかと、自室にいたってシンタローは、階下の気配を窺ってしまう。
 全身の神経を集中させ、風の音にもドキリとしてしまう。ずっと携帯を、握りしめていた。
 すべての悩みを通り越した地点で、とにかく自分は、マジックのことが心配なのだった。
 そして結局、シンタローは夜を、玄関に近い居間で過ごすことになるのだ。
 猫のように背を丸めて、毛布にくるまって。長椅子で、寝る。
 いつも緊張していて、小さな音に、目を覚ます。それから気配を窺って、がっかりして、また目を瞑る。
 そんな生活が、続いている。
 そしてどんなに待っても、マジックは、帰っては来ないのだった。



 夜が明けて日が昇って、ついにシンタローは、一つの決断をする。
 心理的に、避けていたことだったが、背に腹は変えられない。
「……ぐっ……また恥を晒すようだが、仕方ねえ……」
 今、シンタローが、立っているのは、そもそものコトの発端の場所、日本酒を見つけてマジックの弱点を聞いてしまった場所である。
 一つ息をつくと彼は、秘書課のプレートがついた扉を、開けた。



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「お教えできません。上司の意に反することは、部下としてはできかねます」
 けんもほろろとは、このことかというような態度である。
 シンタローは憮然として、秘書室で一番豪華な椅子に腰掛け、重々しく足を組んでいる。
 マジックの居場所を、彼らに尋ねている所である。
 しかし開口一番、こうだ。一筋縄では行かないと思ってはいたが、総帥である自分に対して、この態度。
 強めた視線の中で、礼儀正しく立っているティラミスが、こう続けた。
「私たちの仕事は、秘書業務と、マジック様にお仕えすることですから」
 暗に、新総帥には関係ありません、と告げられたような気がして、シンタローはムッとした。
 確かにこの秘書たちは、軍組織図的にも元総帥直属であるので、いかに自分とはいえ、そう絶対的な命令を下せる権限はないのだった。
 くっ……これも、元はといえばあいつが! あいつが、引退したクセに、まぁだ妙な権力、持ってやがるから!
 だからこいつらまで、俺の言うコト聞きやがらねえんだ!
 なんでもかんでも、みんなして俺に秘密にしやがって!
 あいつのせいだ。あいつの! くぅ〜! マジック!!!
 シンタローは表面は何でもない顔をしながらも、内心マジックに腹を立てた。



「お〜い、ティラミス……総帥に言いすぎなんじゃあ……総帥! こいつ、悪気はないんです! ただ任務に忠実すぎて、ちょっと頭カタいっていうか……」
 ティラミスの隣で、必死に脇で言い訳しているのはチョコレートロマンス。
 その、ふさふさの頭目がけて、シンタローは不機嫌に言う。
「なら、お前が教えろヨ」
 ぎょっとした顔をする相手。おどおど周囲を見回している。ティラミスに助けを求めるような目をするが、あえなく無視されている。
 なんだかこういうタイプを見ると、シンタローは生来がいじめっ子気質のため、弄りたくなるのだった。
「……」
 シンタローは、無言の俺様オーラを放出する。答えを促す。
 チョコレートロマンスはビクッと身を強張らせて、上目遣いにこちらを見た。小さく言う。
「えっ! お、怒られますぅ……」
「いーじゃねえかよ、もともと怒られ役じゃんかお前。それともアイツに怒られんのと、今ここで俺に怒られるの、どっちがいい? ああん?」
「ひいい! どっちもイヤですっ!」
「チッ……」
 埒が明かないと、シンタローは舌打ちをした。イライラを紛らわそうと、ぐるりと周囲を見回す。
 贈答シーズンは終わり、山と積まれていた贈り物も、すでに処分済みのようである。
 元はといえば、ここで日本酒を見つけて、自分の知らなかったマジックの弱点を聞いてしまったのが、事の始まりだったのだ。
 シンタローは、秘書たちにわからないように、そっと溜息をつく。壁に貼られていたスケジュール表や計画表の類まで、マジックの行方を示すものはすべて、注意深く取り除かれてしまったこの部屋。



「だっ、だいたい……俺たちも、マジック様の居場所は、ちゃんとは教えて貰ってません……それに色々と移動されてるみたいで……」
 小動物だったら、尻尾が垂れていると思う。甘い甘い名前をした秘書。本名なのだろうかと考えたこともあるが、尋ねたことはない。あいつがつけた源氏名とかだったら、そんな変態事項は精神の安定のために知りたくない。
「ああ? ほーお、嘘じゃねえな?」
「総帥に嘘はつけないですよぅ……」
 やれやれだ。
 妙に出来過ぎなのと、妙に出来なそうなの。凸凹コンビ、何だこの取り合わせ、でもどちらも口は割らない。
 ……あーあ。
 シンタローは、そっと首筋を押さえる。
 黒髪で隠してはいたが、触れれば、またあの瞳を思い出した。



 チョコレートロマンスへの詰問が終わったと判断したのか、ティラミスが切れ長の目で、自分を見るのがわかった。
 そしてこう言われた。
「申し訳ありませんが、そういうことです。私たちにも仕事がありますから、おひきとりください」
「……」
 だが、大人しく帰るのも、癪だった。
 しかしここで、みっともなく食い下がるのも、自分の矜持が許さない。
 そもそも! そもそもだ!
 なーんで俺が! この俺が! あいつの居場所、こいつらに聞かなきゃなんねーんだよ!
 シンタローとしては、何かが傷つけられる心地がするのである。
 何か、傷つく。
 何か?
 ……何でもねえ。
 そして、この自分の不快感を考えるのが、ひどく嫌だった。
 だからこの場所に聞きに来るのは、最終手段のつもりだった。



「チョコレートロマンス。そろそろ行くぞ」
 考え込んでいるシンタローを他所に、ティラミスが同僚を促している。
 外回りの仕事なのだろうか、そんなのこいつらにあったっけ、とシンタローは考える。
 ともあれ。ちくしょう。空振りか。
 ぐ……他に方法はねえか、方法は……。
「へ? 早くない?」
 きょとんとした顔をしている相方に、冷たい顔をした秘書は、こう言った。
「早めに講演会の仕度をしておこう。マジック様が現地にいらっしゃる前に」
「ティ、ティラミス……!」
「ですから、総帥。ここで失礼させて頂きます」
 シンタローは、目を丸くした。
「……!!!」



 二人の秘書が立ち去った後、シンタローは足早に秘書課を出て、総帥室に戻る。
 しばし椅子に座って黙考する。そして複雑な葛藤を経て。ついに決心する。
 ティッシュを大量に手に取り、唾で濡らして、両耳にぎゅうぎゅう詰めた。何度も深呼吸をし、やがてくる過呼吸に備える。勢いで物を壊さないように、机の上を綺麗にした。
 しばらく瞑想し、精神統一をする。心頭を滅却すれば火もまた涼し。
 これは自分の命に関わることであるから、念入りに準備をしなくてはならない。



 それから震える手で、パソコンにスイッチを入れる。
 インターネットにアクセスし、ブックマークの一番奥の『アレ』フォルダを開いて、あるサイトに飛んだ。
「……」
 普段のシンタローなら、まずビクッと身を震わし、モニタから後退りしてしまうのだが、今日の彼は決意が違った。
 自分を殺して長い時間をかけて画面に向き合う。ただし、できるだけ目を薄く最小限に開いて。糸目状態で、である。
 モニターから視界に飛び込んできた巨大な写真を認識しないことに成功し、それから耳に詰めたティッシュをも通り過ぎる大音響にも、気付かない振りをする。
 ピンク。紫。薔薇。俺は何も見てない。見てない。
 ……ジカル♪ ……ジック♪ 俺は何も聞こえない。聞こえない。



 シンタローはモニタを前にし、今、自らの最大の敵と戦っている最中なのである。
 魔のホームページ。トラップ満載。派手な色彩、薄目がちらつく。
 クリック。くそ、どこクリックすりゃいーんだ、しかし目を完全に開くのも危険だ、危険すぎる! ナンか目に飛び込んできた場合、回避不能で俺が再起不能。
 ぐ……あんだよコレ、お言葉とかどーでもいいんだヨ、なんだ流れてきやがる、いい、写真はいい、ピンク。紫。薔薇。俺は何も見てない。見てない。
 あああ脳が汚染される! この妖しげな色に汚染される!
 頑張れ俺、精神統一が乱れてきた、惑わされるな俺、クソ、どーしてクリックしてもクリックしても、写真だらけなんだ、重いっつーの、っつーか俺は認識してない、そーだ、これは写真じゃない、これはジャガイモの絵を描いた絵です、ジャガイモ……うん、ジャガイモだ……おお、だんだんジャガイモに見えてきた……いいぞ、俺……。
 ジャガイモ……ジャガイモ……カレー……! 余計な連想やめー!
 ジャガイモ、ジャガイモ……肉じゃが……あああああ――!!!
 俺! 余計な連想やめて、俺ェェェ!!!
 てか、このサイト、ドコ行けばいーのかわかんねえ……う……うう……ああ、あああ、耐えろ、耐えろ、俺ェェェ……。
 なんだよこれ、見てるだけで洗脳される仕掛けされてるんじゃねえだろうなあ……マジやばい。危険すぎる! 用心するに越したことはないが、どーやって用心すればいいのかがわかんねえよ!
 しっかしあああ、あんだコレ、ぐっ……もーちょっと目を1ミリだけ開けて……ああ、数字かよ……ぐわっ、どんだけ0が並んでやがるんだ! これグッズの値段! 値段かよッ! 高! あんちくしょう、ぼったくってやがる!
 しかも何だよこのデカいジャガイモの絵の通し番号! 何枚ポスタ……いやジャガイモの絵を販売生産してんだよッッ!!! どんな農家だ! 買う方も売る方も狂ってやがる! クッソ、なんだよこの商売ィィィ!!! いくら稼いでやがるッッ!!! 俺に寄越せ! ガンマ団の負債埋め合わせやがれ、特にアル中の弟の分、その個人資産でよォォ!!!
 ガスン! ぐわっ!
 ……あ、ああ……よかった、机の上キレイにしておいて……机が曲がっただけで済んだぜ、さすが俺。
 とにかく! とにかく、こんなアホの真髄をデータ化して世界に垂れ流すなんて! 嫌なワールドワイドウェブ! ああああ恥ずかしい! 恥ずかしいィィィ!!! 我慢できん! あああ早く見つけねえと、俺の命がっ……命がァッッッ!!!
 なんだよこのマジ……ジャガイモリングって! つなげてんじゃねえよ! ファンサイトまであんのかよッ! 恥ずかしいガッチリ男同士の輪はヤメテ! 交流から何かが生まれてそう! 絶対、世界征服あきらめてねえぞコイツ!
 徘徊する度に、俺の体力が減っていく……ここは男殺しの毒沼くわぁぁ!!!
 クリック……ああどこをクリックすりゃあいいんだ……このハートか……ハートが入り口か……カチッ。
 うああああああああ!!! ジャ、ジャガイモの満面の笑顔が現れたあああああああああ!!!!! しかも動画!!! 動いてる! この金色のジャガイモ、動いてるよッッ!!! 聞こえる! 耳に詰めたティッシュを通り抜ける男たちの歌声が、大合唱のバックミュージックが聞こえてくるゥッッッ!!!
 ダメージ100! 俺様瀕死! コマンド?



 ――心頭を滅却すればマジックファンクラブ公式サイトもまた涼し。
 とはいかなかったようである。
 多大なる精神的疲労と引き換えに、シンタローは、本日行われる『マジック様講演会開催日時&場所』情報を入手した。



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 ――場所は、日本。古都キョート。
 日も暮れた頃、御池通と標識が出た道を、ある不審な青年が、歩いていた。
 服装はジーンズ、スウェードのジャケットとまあ普通。だが、不審事由はまずその挙動にあった。
 不自然に周囲をキョロキョロ見回して、その割には大股で、道の中央を堂々と歩いている。
 さらに顔。顔立ちはいいのだが、それを覆うものがいけない。
 サングラス。大きな白いマスク。ハンチング。明らかに怪しい風体。
 そしてデカい。190cmは越えている。黒の長髪で、風が吹くと、それがさあっと靡く。
 さらにさらには、みなぎる俺様オーラ。『俺が一番!』と彼の姿は、主張している。全身がそう言っている。ゴオオ! と何かが無言で立ち昇っている。
 本来なら、すれ違った人は、ビクッとして彼に道を譲るのが相場であった。
 ただ幸か不幸か、本日に限っては、この法則はあまり通用しなかった。



 なぜなら、この日の古都には、マッチョ民族大移動かと見紛うほどの大男たちが、ゾロゾロと、集合し始めていたからである。
 まさに動くものすべてが不審者状態。人類皆不審者。
 しかもしかも、その不審者たちは、特殊な物体を装着しているのであった。
 巨大な『愛 LOVE MAGIC』が背中にプリントされた、ピンクのハッピを。さらにハチマキを。この基本の二つに加えて、思い思いの装飾を。アクセサリーを。
 幾千の『愛 LOVE MAGIC』がうごめいている。日の落ちた闇。道。
 その異様な風景の中を、青年は、歩いていたのだった。ぶつぶつ不平を呟きながら。
「チッ……なーんか、暑苦しいなぁ、キョートって。芸者さんとかいねーじゃん、ゲイ者ばっか」
 誰も突っ込んでくれない洒落を、一人、口にしたシンタローは。
 巨大な桃色男波の中で、一度立ち止まり、辺りを見回した。



 ぞろぞろ。ゾロゾロ。本当にジャガイモ、芋を洗うようなうねりの中を、流れるピンクなマッチョ兄貴たち。ピンクフラミンゴ。
 ゴツイの、いかついの、この寒いのにムキムキ半ズボンなの、どこのパレードに参加するのかと言いたくなるような飾りをつけたの。人生色々、兄貴も色々。
 しかし共通しているのは、彼らの瞳が、まるで少年のように輝いていることである。
 そしてどこか足並みが、浮き立つようで。
 そのことが、この男波から生み出される熱波を、何とも言いがたく危険なものにしていた。
 文字に表すと、もわもわ。むわむわ。ムキムキ。がつがつ。ピーチピーチ。押し寄せるヤバい情熱の波。
 今宵の古都は、熱波襲来、危険物注意。ピンクに染まれ、私色に染まれ。
「……」
 サングラス越しに、この凄惨な光景を見遣ったシンタローは。
 気を取り直して、古都の街並を眺めてみる。
 この道は近代的な建物が立ち並んでいたが、よくよく気をつけて見てみれば、景観に配慮しているのがわかる作りになっている。建物の高さは総じて低く、空が広い。だから大文字焼きの山だって、暗がりの中にぼんやりと彼方に見える。マクドナルドの看板だって穏やかな白。調和している。
 整然とした街路樹や、建物の間から漏れる木々の葉は、紅葉に彩られている。
 いい街だ。キョートの名所なんかを観光して帰るのも、いいかもしれないと、シンタローはちょっと呑気に考えてみる。
 そしてすぐに、ここへ来ざるをえなかった目的に思い至り、憂鬱になる。
 たとえ名所を見たくても紅葉を見たくても、今現在、ピンクマッチョがシンタローの視界すべてを覆い隠してるのだ。なんて素敵にジャパネスク。
 ああ。
 一つ溜息をつくと、シンタローは、再度、地図で目的地を確かめる。自分が目指す場所。再度呟く。
「……二条城って……世界遺産じゃねーのか……こんなトコでやるなよな……」
 今宵の講演会の場所。そしてこの桃色男波も、そこに向かって押し寄せているのである。



「はー。あーあ。ヤだなあ……」
 マジックと会う手段はこれしかないのかと、また往生際悪く考えに浸るが、どうにも思いつかない。
 イヤだイヤだと思いながらも、仕事を早めに終えて、自分はここまで来てしまった。
 気が進まなくても、こうするしかないのだと自分に言い聞かせる。
 そんな、足取りも重く、肩を落としたシンタローが、四つ辻に差し掛かった頃である。
 ドシン、と音がして。
「!」
 勢いよく左の道から走ってきた男と、少しぼんやりしていたシンタローは衝突し、互いに尻餅をついた。
「くっ、気をつけやが……」
 そう言いかけて。
 そして自分に尻餅をつかせるなんて、よほどの奴かと、相手を睨みつけて。
「!!!」
 瞬時にシンタローは立ち上がって身を翻し、近くの建物の陰に隠れた。
 条件反射に近かった。
 その相手とは。



「いたたた……君ィ、気をつけたまえ……って、メガネ! 私のメガネはどこだい!」
 地面に視線を伏せ、落としたメガネを、探している男。
 あさぎ色に、袖口や裾にダンダラ模様をあしらった羽織。腰にさした大小。もちろんその上に、ピンクのハッピを着て、ハチマキをしめているのであるが。とにかくシンタローは、相手の身元を判断した。
 ――心戦組だ。
 ――あの連中が、うろついてやがるのか。
 そうか、敵対組織の連中までいるのかと、シンタローはその様子を窺いながら、警戒心を強める。
 彼らには、自分の顔が割れている可能性がある。
 私服であっても(いかにサングラスとマスクに帽子姿であっても!)自らの立場を思えば、用心はしてもしすぎることはないのである。なんてったって総帥。
 いくらこの不審者だらけの男波の中だとはいっても、総帥としての責任をおろそかにする訳にはいかない。こんな所で自分は見つかってはいけないのだ。
 やっと足元のメガネを探し当てたらしい心戦組の男が去ってから、シンタローは周囲に気を配りながら、前進を開始する。
 建物の陰、柱の陰、茂みの陰。
 頭部を木の枝で庇いながら、ささ、ささ、ささ、とシンタローは真剣な顔をして、移動した。
 すでに日が暮れていたから、身を隠すにも都合の良い時間帯なのである。



 堀川通を行くと、二条城とその表門である東大手門が見えてくる。
 瓦葺で幅広の構えに、木連格子が威厳を醸し出している。左右の石垣の間に、頑強に筋金を打ちつけてあり、なんかやっぱ重要文化財。って感じ。
 その立派な門を前にし、シンタローは無言で首を回す。ぐるりと見渡す。
 また周囲を観察する。
「……」
 ずらりと並ぶ桃色マッチョの大群。
 夏コミの一般列、または美少女系外周の大行列もかくやというほどの、荒れ狂う激流を内に秘めた男波。
 これで意外に行儀がいいから、なおさら恐ろしく、不気味だった。きちんと並んでいる。秩序。やけに躾が行き届いているのである。
 だが同時にこの集団は、何かきっかけさえあれば、瞬時に暴れ狂うのだろうと思わせる、嵐の前のような静けさが感じられた。
 家康も家光も、こんな敵軍来襲は予想していなかったに違いないと、シンタローは二条城にまつわる、遠い昔のショーグンに同情した。
 どんな要塞でも、防ぎようねーだろ、これ。



 さて。しかし自分は、この場所に潜入しなければならないのである。
 仮に講演を終えるマジックを出待ちするとしても、この男波に埋もれるのは必至であったし、彼を捕まえるのなら、会場内でしかなかった。
 だがチケットさえも、シンタローの手にはない。ダフ屋ぐらいいるかと思ったが、それらしいのも見当たらない。排斥されてしまっているのだろうか。
「……仕方ねえ、やるか」
 シンタローは、適当な男に、目星をつける。集団で来ていない、物慣れなそうな一人でいる人間を。
 そして頃合を見計らって、手近な建物の裏に引きずり込み、さくっと気絶させた。
 軽いものである。



「悪く思うなよ……!」
 男の衣装その他を剥ぎ取り、念のために、懐から会員証も探し出して、抜いておく。
 会員証と一緒に、本日のチケットがピンでとめてあった。
 ぐったりしている男は、あと二時間は目覚めないだろう。それぐらいの加減で落としたのである。
 シンタローは、その男の身体を茂みに押し込み、草や枝を被せておいた。
 少し気の毒だとは思ったが、会員証の裏に住所があったから、後でマジックにサインでも書かせて送ってやれば、お釣りがくるだろうと思う。あとなんか使用済みの適当なモンとかを一緒に……ナンか気分悪いけど。
「あ、そーだ」
 ふと思い出して、会員証を抜き取ったかわりに、家から持ち出した、マジックのプライベート写真を10枚、男の財布に押し込んでおいた。
 何かの役に立つだろうと、さきほどキンタローに100枚ほど、高速焼き増しさせたものである(『資料用だ』と言うと『ほう……』と従兄弟は一人頷いていた)。
 地獄の沙汰も金次第というが、マジックファンクラブという地獄にも、こうした通貨が必要であろうということは、シンタローは予期していた。
 今後も何かの役に立つだろう。
 さすが俺。用意周到。こうコトが上手く運ぶと、気持ちもノッてくるというものである。



「へへっ。誰も俺とは思わねーだろ」
 そこは軍人、潜入という行為自体が楽しくなってきたシンタローは、小さく鼻歌を歌いながら、ごそごそと手早く衣装替えを済ます。
 きっちり着込み、きゅっとハチマキを結ぶ。アクセサリーを装着する。
 元の自分の衣服は、小さくまとめて、人目に付かないように樹木の上に吊るしておいた。
 帽子やサングラス、マスクは余計に目立つと今頃気付き、一緒にしまっておく。
 潜入には完全に同化することが大切なのである。それもこれも作戦のためだ、仕方がない。
「さーてと」
 変身完了。
 背中に『愛 LOVE MAGIC』とプリントされたピンクのハッピ、『マジック様命』のハチマキ、マジックの笑顔うちわ、『MAGIC』刺繍入りのリストバンド等を。
 完全装着したシンタローは、よし、と力強く頷いた。
 潜入、開始だ。



 やるとなったら頑張るシンタローは、充実していた。
 しばらく物陰から、マッチョたちを観察して、習性を学んだ後、さりげなくそこから出て最後尾を探し、マッチョたちの列に近付く。
 『あ、俺が持つんで』と、爽やかに会話を交わして、『マジック様講演会ココが最後尾』の札を受け取り、高々と掲げる。
 すぐに背後に人が並んだので、札を手渡し、前の人間に合わせてきちんと並ぶ。
 マッチョたちの動きは、ある程度秩序化されていたため、コツをつかんでしまえば、合わせるのは、かなり楽だった。
 列整理のガンマ団員たちがたまにやってきたが、さりげなく他所を向いたり俯いたりして、まったく怪しまれずに済んだ。
 まだまだ甘いナ、とシンタローは査定者の目で判断する。軍人としての観察力が足りない。ま、仕方ねえか。誰も俺がこんなとこで、こんな格好してるなんて、思わねーだろうしナ。
 やがて喉が渇いたので、ペットボトルを抱えていた前列のマッチョに、例のマジックプライベート写真一枚と交換してもらった。
 相手は大喜びだった。
 腹が空いたので、後列のマッチョにパンを分けてもらった。彼にも写真を渡す。
 相手は飛び上がって喜んだ。
 立ち続けるのにも疲れたので、折り畳み椅子を貸してもらい、どかりと座る。彼にも写真を以下同文。
 こうしてシンタローは、マジックの写真を通貨代わりに、かなり快適な潜入ライフを過ごすことができた。いや、便利、便利。
 すっかり同化しているのである。



 居心地いいなとシンタローは、危うく思い始めていた。
 さりげなく彼は、順応性の高い質であった。なにしろナマモノだらけのパプワ島にも定住しそうになった彼である。
 マッチョな兄貴たちにも、彼は慣れかけていた。
 さらには懐のマジック写真。その重み。この世界で最強の通貨を持っているのだ。ひどくリッチになった気分である。俺様、優位。
 さらに彼は、持ち前の青的プチ守銭奴魂から、ふとこんな誘惑にも駆られてしまう。
 おいおい、もしかして俺、もっと大儲けできるんじゃねえのか。家から色々マジックのモン持ち出せばよ。オークションとかやれんじゃねえのか。
 しかし、すぐにシンタローは、それもナンだか癪だと思い直す。
 何となく、イヤ。
 ……だいたい、このプライベート写真だって、写りが悪いのをとくに選んで、焼き増しさせたのである。
 チッ。そう思うと、ちょっと気分が悪くなった。
 ほんっと、こんなんで喜ぶ男共の気がしれないと、シンタローは憮然とした目つきで、周囲をねめ回す。
 客観的には同化している彼だったが、やっぱり主観的には、孤高を保っているつもりなのだった。
 ぞろぞろ。ゾロゾロ。相変わらず、列は整然と進む。
 ピンクの列が吸い込まれていく門。



 やがて掘を越え、重厚な威圧漂う門の中に入ったシンタローの目の前には、見事に並ぶ松やら、反り返った屋根の建物やらが姿を見せて、彼はふんふんと初めて見る歴史的遺物に感心していたのだが。
 その内、不味いと気がついた。
 さすが城だけあって、なかなか中には入れない。何重にも門がある。まあそれはいい。
 列は左に曲がり、細かな砂利道を通り、さらにその先にある、金銀の装飾に彩られた四脚門へと続いている。
 そこで会員証とチケットの提示をしなければならないらしいが、何やら様子がものものしい。
 軍服を着た団員たちが、セキュリティチェックをしているのだと、遅まきながらにシンタローは理解する。
 チケットさえあれば、もっと簡単に潜り込めるのかと思っていた。しかしよく考えれば当然のことなのだ。
 ……まあ、あいつも。色々恨みを買ってやがるんだろうな……。
 ……あいつを狙ってるヤツとか、いるんだろうな……。
 少ししんみりしている間に、どんどんと列は進んでいく。ピンクのマッチョが進んでいく。
 マズい。
 変装セットを置いてくるんじゃなかったとシンタローは後悔したが、たとえサングラスやマスクをしていたとしても、ここで剥がされていたろうなと思い直す。
 ええい、ままよ。じたばたしたって、しょうがねえ。
 シンタローは、男らしく腹を決めた。
 堂々としてるしかねえ。そーしてりゃ、逆にばれねえモンさ。



 胸を張ってシンタローは歩を進め、前に並ぶマッチョに続いて、壮麗な彫刻で飾られている門をくぐった。飾り金具があでやかに夜に輝いている。
 唐門、と札が出ていた。
「チケットと会員証の提示をお願いします」
 そう機械的にガンマ団員から言われて。
 シンタローは懐から、マジックのウインク写真付きの会員証とチケットを取り出し、一度自分で見て『ゲッ』と言い、それからそれを出した。
 まだ少年兵らしい相手は(こんな仕事をやらされるなんて気の毒すぎる!)、丁寧にシンタローの差し出したそれらをチェックし、『はい、確認しました』と礼儀正しく言って。続けて。
「お荷物検査とボディチェックさせて頂き……」
 ます。
 と、言いかけて、シンタローを至近距離から見上げて。
 硬直した。



「あんだよ、なんか文句あんのかよ」
「……」
「早くチェックしろよ。後ろ、つかえてんだろーが」
「……ッ」
 涙目になっている少年兵に、シンタローは言い募る。新米秘書だろうか。
 ただこの少年はちょっとコタロー似の美少年だったため(ちょっとだけだぞ!)、さすがに可哀想になって、硬直した肩を揺すってやった。
 まるで束縛が解けた後のように、ヘタリと座り込む相手。
 彼は、傲然と見下ろすシンタローに向かって、口をぱくぱくさせて。やっとのことで、こう言った。
「そ、総……」



 がばっとしゃがんて、シンタローは相手の口を塞いだ。
「ああん? 『そ、総……』ってあんだよ。ソウ? ソウってナニ? その後にナニが続くんだよ、言ってみろ……?」
「む! む、むぅー!」
「いいか? まさかとは思うが、あのはりきりカッコイイガンマ団総帥が、こんなトコにいるか? なあ、いるかよォォォ???」
 口を塞がれた相手は、弱弱しくぷるぷると首を振る。
 よし、と手を放して、シンタローは命じた。
「おら、早くボディチェックしろよ。仕事だろーが」
 さあこいとばかりに、両腕を広げる。
 だが相手は、シンタローの姿に怯えてしまって、触ってこようとはしないのである。
 チッ。
 シンタローは舌打ちする。不甲斐なく思う。情けない奴らだぜ。なにをビビッてやがる。
 総帥がそんなに恐れ多いかよ、度胸のねえ奴だ。こんなんで、実戦ちゃんとやれんのかよ。たとえ相手が誰でも、任務は任務として果たさなくっちゃ、軍人とは言えねーんだぜ。
 ――シンタローは、すっかり慣れきっていたため、自分の格好をつい失念していた――



 と、その時。近くにいたガンマ団員が異変に気付き、『どうした』と寄って来て。
 ピンクのハッピやマジックアクセサリーに身を包んだシンタローと対面して、『ひぃぃぃ!』と仰け反って、横転した。
 よく見てみれば、その顔。こんな役目はやっぱり、チョコレートロマンスだった。
「おい、お前でもいーよ。早いトコすませろヨ。やらねーんなら、勝手に入っちまうゾ」
 シンタローが、どん、と足を踏み出すマネをしても、二人は歯をカチカチさせながら、こちらを凝視しているばかりである。
 手に持っていたうちわで、パタパタその二人の頭を叩いてみる。
 やはり反応はなく、つまらないなと思う。
 ちなみにそのうちわには、マジックの笑顔がプリントされているのだが、シンタローの目にはすでにただの模様に見えていた。慣れ万歳である。
 すると。
「!」
 背後に気配がした。
 シンタローの肩を、背中を、腰を、懐を、ぱんぱんぱんと順序良く触れていく手。
 くるりとその手は正面に回り、同様に触れていく。そして。
「はい、結構です。お入り下さい」
 そう許可を貰って。
「お、おう」
 ピンク姿のシンタローは、反射的に頷いた。
 そしてこんな手の主は、事態を収拾する役目はやっぱり、ティラミスなのである。



「動じてない……」
 その場にいたガンマ団員全員が、そう思った。
 団員全員は、きおつけをして、去っていくピンク色に『愛 LOVE MAGIC』の文字を、見送っていた。
 今見たことを忘れようと、壁に頭を打ち付ける者もいた。
 後で。
「チケットと会員証さえ提示すれば、何者だろうとチェックをする。そして異常がなければ、入場させる。当たり前のことだろう」
 彼らの尊敬のまなざしに向かって、ティラミスは言い放ったそうである。
 たとえ何者だろうと。秘書たるものは、常に動じず、決められたことを為すのみ。
 すべては想定外、常に驚愕異常怪奇現象どんとこい。
 それがマジック様の秘書。
 そうか、元総帥グッズに身を包んだ新総帥という、超想定外の相手でも、同じように自分たちは業務を遂行しなければならないのだと。
 気付いてない振りをしなければならないのだと。
 秘書課の面々は、限界事例を知ると共に、何があっても動揺してはいけないという秘書業の辛さを、思い知ったそうである。
 そしてティラミスの、ガンマ団入団案内に載った談話が、真実であると知った。
 すなわち。
 ――長い間続けていると、どんなトラブルにも対応できるスーパーマンになれますよ!――



 さて。何とか入場を果たしたシンタローである。
 二の丸御殿という所で講演会(と言っていいのか?)があるらしいが、とキョロキョロしながら歩く。
 列に続いていくと、車寄せが見えてきて、鳥やら牡丹やら松やらをあしらった欄間彫刻が、夜目にも映えていて、へー、ほー、と眺めていたのだが。
 やがて会場らしき所に入って、マッチョたちがワサワサと自分の席を探し始めたのに気付いて、それから唖然とした。
 広い敷地内。城内では襖という襖が、すべて開け放たれていた。各々五十畳近い一の間、二の間、三の間、四の間が一つのホールになっている。
 中央奥にある、黄金色に輝く大広間に向かって、空間という空間、渡り廊下、大きな池のある庭園、すべてが、男たちの座席となっている。
 美しい和風建築の粋に、整然と並ぶマッチョ兄貴たちの群れ。しかもピンク。しかも同じ数だけマジカルグッズ。
 異様だった。その異様な光景に、さらに漂う熱気。期待の渦。ざわめき。



「……」
 すでに目が慣れてはいたものの、さすがに『うへえ』とシンタローは、げんなりする。
 アイツの日本好きって、日本文化を冒涜してるんじゃあ……。
 つーか、すでに恐ろしい文化を作り出してやがる。
 溜息をついてから、とりあえずは懐からチケットを取り出し、自席を探してみる。
「えーと、番号……マジカルナンバーって……なんでもマジカルつけりゃいいと思ってやがるだろ」
 やっと、かなり後ろの方で、野外、庭石の側の敷物と座布団を、見つける。
 ふう、やれやれ。
 その座布団に座り、やっと人心地ついたシンタローである。
 大広間は、遥か先の彼方である。一般的には、さして良くない席なんだろうけど。
 まあ、アソコで、アイツは講演するんだろうから。
 こんだけ離れてりゃ、見つからねーだろ、こっちのが都合いいや、とシンタローは、呑気に開演を待った。
 夜の風が、ふうっと頬をすり抜けていった。星が見える。
 周囲には兄貴たちがぞくぞくと流入し、ざわめきのうねりは大きくなっていった。



 その内シンタローは、周辺の兄貴たちが巨大なパンフレットを熱心に見ていることに気付く。熱心どころか、むさぼり読んでいる。
 表紙は、案の定ババーンとマジックのドアップ。中身は、写真と共に、なんだかたくさん文字が並んでいるようである。
「……」
 なんとなく、気になる。あんちくしょう、ヘンなコトとか書いてないだろうな!
 そういう意味で、気になりやがる。くそ。俺のプライバシーの侵害が、気になる。肖像権侵害が、気になる。
 つつつ、とシンタローはさりげなく位置を移動し、座ったまま背伸びをして、前方の兄貴を背後から覗き込む。
 気配を感じたのか、さっと前方の兄貴(トラックの運転手風)が、振り向いた。
「〜ピーピピー♪」
 口笛を吹いてシンタローは、脇を向き、美麗な池の鯉を眺めている振りをする。
 お〜、さすが世界遺産。キヌガサくんが3億円なら、こいつらはいくらすんのかな〜って。おーし。そんな独り言まで呟いてみる。
 再度、相手がまたパンフレットを熟読し始めたので、シンタローも再度、こっそりと覗き込む。
 さっ。
 〜ピーピピー♪
 さっ。
 〜ピーピピー♪
 これを数度繰り返した後、その兄貴は、爽やかに言った。
「あそこに売ってるっス!」
 列に並ぶ時も思ったのだが、マジックファンクラブの人々は、同好の士にはやたら親切なのである。妙に兄貴同士、肩を組み合って結束しているというか。ガッチリ連帯。みなぎる汗。マッチョのスクラム。
 あそこ、と指差されて。
「え、俺?」
 と、とぼけてはみたものの。



 言われたものは仕方ない。シンタローは、立ち上がるしかない。
 そして、いやにハートや薔薇で飾られて光り輝く会場の一角に、渋々足を踏み入れる。今まで気付かなかった。視神経が拒否していたのだろう。
 その場所は、グッズ販売所だった。
 元は書院らしく、立派な松が描かれた素晴らしい襖絵。その上に。べたべたマジックポスター。360度に溢れるマジックの笑顔。満面の笑顔。
 のぼりまで立っている。フィギュアやキーホルダー、ハンカチエプロンその他グッズというグッズが、『限定販売』の看板と共に、並んでいる。
 さすがにこれらを、模様だと自分を誤魔化すこともできず、シンタローの肩はぷるぷる震えた。
 やばい。これ以上こんなイカガワシイ物体を見たら、俺はマジック病になっちまう。
 彼は身に迫る危険を感じた。動機が激しい。冷や汗が出てくる。足元がフラついてくる。



 ……シンタローは。
 本人を見るのはまた別なのだが、なんというか、マジック萌え現象を目にするのが、耐えられないのだ。他人の作り出すマジック二次的創作物が、である。
 少し詳しく説明してみよう。
 もともとシンタローの体内にはマジカル・ゲージというものが存在しているのである。
 そしてマジックの視覚的刺激が一定量を超えると、危険を察知し、警報が、ウインウインと体内で鳴り響く。対外的にはイライラが募り、機嫌が悪くなる。
 さらに一定量を超えると、安全装置が働くのか、急にマジックの写真が模様に見えたりする現象に襲われる。対外的には、妙に平気になる。超然とした心持ちになる。
 その上、さらに一定量を超えると……? ゲージの針が振り切れるとどうなるか。
 とりあえず、プチンと何かが切れる。
 さらに人生イヤになったり、ハイになったりの上下を繰り返す。泣きそうになる。
 予測不可能なことが起きる。パルプンテ。
 現在はゲージの針が振り切れるかどうかの、微妙なギリギリ地点である。
「くっ……負けねええええ!!!」
 シンタローは、危うく乱れそうになる足に、ぐっと力を込めた。両の足でしっかりと立つ。
 こんな持病を抱えた身で、この場所に潜入することを決断し、ここまで来た自分を、褒めてやりたい。



 だがな。しかし。これで負けちゃ、男がすたる。
 ここまで来たからにゃあ、み、見てやろうじゃねえか! 毒を喰らわば皿までとくらあ!
 シンタローは、ギッと正面を見据える。ごくりと唾を飲み込む。
 目の前には、数多のグッズの中に、先程の巨大パンフレットが山積みになっている。
 そこに群がる、マッチョ兄貴たちの群れ。
 ここにも列。規律正しく列。
「……」
 シンタローは、薄目を開けながら、そろそろとその列の後ろに並ぶ。
 しかし、ひとあし、ふたあし、じりじりと列が進み、前進する度に。歩を進める度に。
 嫌な汗が、たらりたらりと流れ落ちてくる。明らかに危険物に接近している証拠である。
 シンタローの息は、はあはあと荒くなる。苦しい。
 ヤベえ。もう限界だ。あああ。ダメだ、俺……!
 あああ。助けて、助けて。
 どーして俺は、こんな責め苦に! 責め苦に耐えなきゃならねえの!
 俺、なんか悪いコトした?
 悪いコト……あ……。
 ……ッ! っていうか! アイツが話聞いてくれつっても、聞いてくんねえから、俺がこんなコトまでしなきゃならないんであって!
 こんなコト……え、パンフレット……パンフレット買うのは……。
 ぐ……ッ! 仕方ねえだろォォォ!!! 目の前にあって、それにアイツが書いたかもしれねえ文章のってたら、気になるだろうがよォォォ!!!



 ようやくシンタローの番がきて、彼は憎憎しげに、マジック超笑顔表紙の巨大パンフレットを一冊、震える手で、取る。
 機械的動作で、金を放り出す。脇に抱えて、とにかく遠くにダッシュする。
 ダダダと走る彼の目尻には、この時点ですでにうっすら涙が滲んでいた。
 走るだけ走ると、庭池で行き止まりになって、鯉が跳ねていたので、シンタローはその鯉に向かって、声にならない叫びを上げる。マッチョたちが側にいなければ、一世一代の大声をあげただろう。
 俺、俺、とうとう買っちまったあああああ!!!
 ああもう、また俺の汚点が増えちまった、人には言えねえコト、しちまった。また俺は秘密を抱えちまった。
 シンタローは、頭を抱え込んだ。パンフレットを取り落とし、その場にうずくまる。



 ――マジックファンクラブにこの格好で潜入することよりも、自分の金を出したことに、屈辱を感じてしまっていた、彼なのだった。
 複雑な青の一族的男心と夜の空。
 地面の土を握りしめたシンタローは。
 その地面の上で、自分が落としたマジックの顔が笑っているのに腹を立て、さっとパンフレットを裏返したが、裏表紙もさらに笑顔だった。今度はウインク付きの超笑顔。
 彼はさらにどっと肩を落とし、悔し涙を流す。
 くうう〜〜〜〜!!! 表も裏も超笑顔のYES・YES枕かよ、こいつわあああ!!!
 それに何だよ、この巨大サイズ! A3サイズ表紙で笑ってんじゃねえよ! こんの守銭奴! 部屋に隠しにくいじゃねえかあ!
 『秘石と私』だって、ただでさえ分厚いのに、上中下で、さらに余計な付録まで付けやがって!
 お陰でベッドの下に入らねえんだよッ! だっからわざわざ、押入れの天井板はずして、天井裏に隠さなきゃなんねえし、超メンドくさいんだよッ!
 こんの迷惑男ッ!
 あ〜あ、このパンフ、ドコに隠そう、また天井裏かな……でも取り出すのメンドくさいんだよな……額縁の裏でもいいか、薄いから……絨毯の下か……でもアイツ、たまに俺の部屋、勝手に掃除しだすんだよなあ……あー、それか机の下に、ガムテープで貼り付けておくとか、案外バレねえかもしんねえぞ……壁の壁紙の下……どこか盲点は……!



 その時、高らかにファンファーレが鳴り響く。
 いつの間にやら兄貴たちが凄烈……いや整列している会場。
 今後のことを煩悶していたシンタローは、ふと顔をあげた。
 講演会開演の知らせが星空に舞う。
 静かに会場の明かりが消える。ざわめきが、熱を含んだ静寂に変わる。
 正面遠くの大広間が、闇にスポットライトで照らし出されていた。
「……ッ!」
 シンタローは、身を固くした。
 イヤな予感を覚え、とりあえず背を低くして、自席にまで戻る。



 パーン! パーン! パパパンパーン!
 あちこちでくす玉が派手に割れて、『マジックFC限定講演会』という、花々とマッチョ兄貴のオブジェに飾られた垂れ幕が、ででーんと降ろされる。
 七色のスポットライトが暗闇を美しく照らして、交錯し合って、きらめきを生み出している。
 全方位から妖しげな音楽が流れ出す。男声合唱団らしいのだが、明らかに声が野太い。この歌声は肉厚の喉から発生した声だ。大地が震えている。
「……う……ううっ……」
 異様な空気に、シンタローは怯えの色を目に映す。寒気がしてきた。
 彼のイヤな予感は、ますます高まっていく。どくんどくんと自分の動悸が再び激しくなっていくのを感じる。ぎゅっと汗に塗れた手を、握りしめる。
 ふと、周囲のマッチョたちが、その歌声に唱和しているのに気付く。兄貴たちの分厚い体が、揺れている。リズムをとっている。いまや会場は揺れていた。波打つ海のように、揺れていた。熱き魂に揺れていた。
 ル〜ルルルルル〜マジカルルルルルル〜〜〜♪



 会場内が不気味なハミングに包まれた頃に、正面舞台(?)袖口の方から、たたたーと、二人のガンマ団員が飛び出してくる。
 遠目にもそれがティラミスとチョコレートロマンスであると、シンタローにもわかった。しかも見たこともないような超ハイテンションな様子である。
「さあ皆さん! お待ちかねのマジック先生のご登場ですよ!」
「さあ手拍子を! 手拍子で先生をお迎えしましょう!」
 彼らの先導に従って、幾千万の兄貴たちが、一斉に手を打ち始める。
 ダン! ダン! ズダダダダダダダン!
 兄貴たちの手の平は分厚いため、こんな野生のバッファローの背を叩くようなゴツい音がするのだった。
 ダダダダン! ダダダダダダマジカルダダダダダダンダンダン!
 シンタローは、わが耳を疑った。恐怖に周囲を見回す。ただの拍手のはずなのに。拍手のはずなのに!
 『マジカル』って言ってる気がする! 拍手がマジカル化して聞こえてくるッ!!!
 全方位からマジカルって言われてる気がする! 俺はマジカルに包囲されてるよ四面楚歌ッッッ!!!
 マジック神を崇拝する原始時代にタイムスリップして、捕まって檻に入れられた、ドジっ子SF映画青年のような俺ッ!!! 長すぎる状況説明ッ!
 ズダダダダダマジカルダダダダダダダダダン!
 拍手が最高潮まで達したタイミングで、チョコレートロマンスの声が、鳴り響く。
「合言葉は?」



 会場は、荒れ狂う地獄の溶岩のような、歓声に割れた。
「「「「「「「「「「「マジカルマージック」」」」」」」」」」」
 大地は咆哮し、男たちの屈強な海原はうねり、猛り狂い、夜は怒涛の吠え声に、切り裂かれ崩れ落ち、炎が燃えさかるようにメラメラと熱き情熱の輪へと溶け込んでいく。破壊か暴力か、そしてその先にある再生とは? 吠えよ歌えよ男たち、今宵はとくと暴れるがいい。千年の古都を一夜にて制圧するがいい!
 ああ、ここはマジカルダイナマイト、桃色男祭の集団PRIDE会場か。今ここに嵐の前の静けさは破られた。これが男だ、見よ、男の姿だ! 獣に戻れ! 野生に帰れ! 本当の自分を曝け出せ!
 とばかりに、興奮のあまりにガツンガツンと互いにぶつかり合う肉体。飛び散る汗。みなぎる熱気。
 荒ぶる狂奔の中で、シンタローは無力だった。
「ひいいい!!!」
 あまりのことに、座布団を抱きしめた。
 しかし波は止まらない、事態は進んでいく。
 パッ! パッ! パパパッ!!!
 男たちの呼び声に、一段と正面舞台のスポットライトの光が、強くなる。輝かんばかりに照らし出される。
 再び高らかにファンファーレが鳴り響く。競馬G1もかくやとばかりに鳴り響く。



 震えながらシンタローは、空ろな瞳を、その輝きの中に向ける。
 座布団を、海に溺れた漂流者がつかまる板切れのように、必死に抱きしめながら。
 見つめたその先に。
 ついに――あの姿が。
「ははは、皆さん。御機嫌よう」
 ウオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!
 会場は、沸騰した。
 全員がしょっぱなからスタンディングオベーション。ほとばしる熱情。熱き血潮の激流。
 再び狂乱の拍手が溢れ返り、兄貴たちの純粋な瞳からは、いつしか涙が溢れ落ちている。涙はいつか熱き海となる。地鳴りが木霊する。
 この世の終わりがあるなら、今だった。日本古来の将軍どころか、八百万の神々も、地底深くでむせび泣いているに違いなかった。
 兄貴襲来、マッチョの専制時代が今ここに到来。さらば古き良き時代。
 ダン! ダン! ズダダダダダダダン!
 ダダダダン! ダダダダダダマジカルダダダダダダンダンダン!
 ズダダダダダマジカルダダダダダダダダダン!
「「「「「「「「「「「マジカルマージック」」」」」」」」」」」



「ギャアアア――ッ!」
 そんなシンタローの叫びも掻き消される、世界遺産二条城の夜。








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