父の日スペシャル!

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 出勤前だというのに、ここは物置、暗くて狭い場所。
 正面玄関脇、この空間。朝の爽やかな、この時間。
 シンタローはマジックにぴったりと抱き付かれている。
「うが〜ッ! どけって! っつーか放せ! 放せってば!」
「ああ、シンちゃんの匂いは落ち着くな〜 くんくん、ふぅ〜、素敵な朝の一服、シンタロー・フレグランス」
「うさんくさい香りを捏造、命名すんなぁ―っ! 人の首筋でくんくんするなっ! そこをどけ――ッ!」
 今日は少し早めに出勤しようとしたら、このザマだ。
 仕度をして家を出ようとしたら、どこからともなく腕が伸びてきて、すっと一瞬でこんな所に引き込まれてしまった。
 自分の背中には壁、両の肩先には雑貨の品々、正面には金髪と図々しく細められた青い瞳の四面楚歌。身動きならない、この状況。
 まったく油断ならない、とシンタローは往生際悪く、抱き込まれた身体をガタガタ揺する。
 しかし周囲に積まれたガーデニング用のプランターやら腐葉土の入った袋やら何やらが、足元に落ちて余計に空間が狭くなり、木製の収納庫が音を立てただけだった。
 こんな場所では、先手を打った方が勝ちなのである。
 余裕綽々のマジックが、耳元で囁いてくる。
「シンちゃんったら。大人しくして! いいでしょ、もう一回」
「こぉのドアホ―っ! いいでしょ、じゃねえっ! 俺は仕事行くんだよッ! 放せ、このエロ親父!」
「だって軍服のシンちゃんって、そそるんだもの。いいでしょ、出勤の定刻まであと30分あるじゃない。それまでにパパ、ばっちり終わらせるから! 頑張るって、大丈夫だから!」
「ばっちりウザーッ! 昨日の夜から何回ヤれば気が済むんだよ! いつまで発情してんだあーッ!」
「うわあ、シンちゃんたら直接的。だからね、シンちゃんが大人しくしててくれれば、すぐ終わるって! こんな風にしつこく抵抗するから、わ、痛い、ほらほら、じっとして! 長引くんだってば」
「俺のせいかよ。しつこいのはお前だ―――――ッッ……ん……っ」



 マジックは実力行使に出ようと決めたのか、大人しくならない口を、唇で塞いでしまう。
 そして素早くシンタローの脚の間に手を触れて、キスと同時に長い指で、その場所を愛撫し始めた。
「ん……んんっ……」
 口内に潜り込んでくる舌、感じるポイントを知りすぎている指。
 あっさりと先刻までの熱が蘇り、思わずシンタローは腰を捩ってしまう。触れられれば、中心は、やわい蝋燭のように熱にすぐ溶ける。
 いやらしい指の動きに無意識に腰を合わせそうになって、ハッと気付いて言い訳のように腰を引くが、もう間に合わない。
 すかさずマジックの慣れた手が、シンタローの下半身、ジッパーからズボンの縫い目をなぞって前から後ろにそろりと這い、衣服の上から、立てた中指の先でその最奥を刺激してくる。
 ぐりぐりと乱暴に、かと思えば撫でるように優しく。
「……ッ」
 電流のような感覚が、体の芯を伝わって、シンタローはびくびくと全身を奮わせた。
 そして強引なキスから逃れて、自由になった口でやっと訴える。
「う……や、やだって……無理、無理だ……って……」
「大丈夫。お前のここは、とっても締まりが良くて、美味しいから……もう一回、パパに食べさせて……? お腹空いちゃった……」
「ひゃっ……あ……う……」
 耳元で甘く囁かれて、衣服ごと貫くように奥を中指で突き刺されて、シンタローは立っていることができずに、力無く膝を折って、床にぺたんと尻餅をついた。
 ずるずると自分の腕が、マジックの背中から、ずり落ちるのがわかって、初めて自分は相手にしがみついていたんだなということに気付く。
 暗い中で思わずかあっと赤面し、シンタローは男を見上げた。
 すると、高い位置からぽんぽんと頭を撫でられる。困って、見上げた首を下げると、今度はすぐ側に男の腰があって、唾を飲み込む。
 マジックがそんな自分を見て笑った気配に、ますますきまりが悪くなる。
 すると相手は、その昂ぶった部分をシンタローの頬に押し付けてきた。
「なっ……やだって言ってんのに……」
「そんなもの欲しそうな顔して、嘘ついちゃ駄目だよ」
 頬に感じたのは、脱がないでもわかる男の高ぶりの熱さ、硬さ、大きさ。覚えている形。
 その感触にどこか陶然となってしまうが、ヤバい、ヤバいヤバいヤバい! とシンタローは意識を引き戻す。



 流されるな俺! つーか出勤前!
 普通に不味いだろ、今からこんなの入れられちゃ! ありえねーだろ! 仕事に差し支えるって!
 ヤバいヤバいヤバい!
 慌てたシンタローだが、しかし状況はますます悪化するばかり。
 ……うわ、ダメだこいつ聞きゃしねえ! のしかかってきやがった!
 うわうわ、俺のベルト引き抜きやがった!
 うわっちょっおわっ! ズボンの中に手、入れてきやがったよ! 止めろ! とにかく、不味いってソレ!
「やっやややややっめろお――――!!!」
 シンタローは動かない身体の代わりに口を動かし、マジックの耳元で、ありったけの大声で叫んだ。
 これには不意を突かれたのか、男の動きが止まる。
 そして一瞬の間の後、彼は眉をひそめ、口に指を当てて、こう言った。
「しいっ。静かにしないとシンちゃん。人様の迷惑になるよ?」
「俺様の迷惑はどーなるんだァ――――!!!」
 とにかく! とにかく、入れられるのだけは阻止しよう! しっかりしろ俺、と。
 シンタローは右往左往し、とにかく入れられるのだけは嫌だと、最後は総帥としての職務の大切さというものを、懇切丁寧に男(←元総帥)に説いて、何とか諦めさせようと努力した。



「えー」
 職務を持ち出したのが効いたのか、珍しく、一応聞くだけは聞いてくれた男は、不平満々でシンタローに向かって口を尖らせている。
「じゃあ、じゃあさ! これどうするの」
 マジックは、すでに硬くなったシンタローの前の膨らみを、するりと撫でてくる。
「あっ……や……だっだから……」
 シンタローは、喘ぐように熱い息を吐いた。触られると弱い。
「それに、私のこれは? これどうしようね?」
 そしてマジックは、今度はシンタローの投げ出された手を取ると、衣服越しに自らのそれを、ぎゅうっと握らせる。
「チッ……そんなモン、握らせんじゃねーよ、このドアホ……」
 しかしまた熱さと形を感じて、シンタローは背筋をぞくぞくといわせた。
 う……ヤバい……これはヤバい兆候だ……。
 だが。ここで、流されてはいけないのである。
 今日こそは。今日こそは、と、シンタローはここ最近、流されっぱなしな己を叱咤した。
 今日こそは。
 俺は、やる。
 そろそろ、ここらでキッチリ締めとかないと! ガツンとな!



「どうするったって! アンタが勝手に!」
「だってこうなっちゃったものは、しょうがないでしょ。シンちゃんがそそるのが悪いと思う! 自分だってどうするの、それ? キスされて触られて、うっとりしてたクセに! ここまできたら、入れてお互いに気持ちよくなって出した方が、建設的じゃない? 冷静に考えてごらんよ!」
「ううううううっとりなんか、してねえ――――ッッ!!!!! わ、悪ッ……こーの責任転嫁野郎! 建設的って! 冷静って! だ、だから……だから……あッ! こうなっちゃったって、100%アンタが招いた人災だろーがッ! 逆ギレすんなッ! 人がガツンと言うのを邪魔すんなぁ――――っ!」
 そう言い返しはしたものの、しかし。自分だってどうするの、と言われてシンタローは答えに詰まった。
 そりゃ。そりゃ、俺だって、男だから。
 こんな事態に陥れば、出したいのは山々なのだ。
 だけど。今から仕事が。こんなギリギリ直前に、中に入れられるのは、とにかく不味い。不味いったら不味い。後始末だって面倒くさい。っていうかイヤだ、このアホ。疲れんだよ、勘弁してくれ、ああっ! どーにかしてくれこのバカを!
 その瞬間シンタローの脳裏に、一つの考えが閃いた。
 焦る余りに、つい頭で推敲もせず、すぐに声に出してしまう。
 しかし、羞恥心が遅れて邪魔をして、二文字目で喉に引っかかった。
「……くっ……くくく……くっ……」



 マジックが不思議そうに、小首をかしげた。
「く? なあにシンちゃん、『く』って?」
「く……くくくくく……く……くくくくくくく……」
「わかったシンちゃん、ちょっと言葉がオカしくなっちゃってるんだね! わかった、とにかく話はまず入れてからしよう! オーケー! 言葉でわからなかったら、体でわかりあえばいいんだよ! 心配しないで! ささっ、早く脚開いて! 時間がない!」
「だっ! このだアホ――! だからっ! だから……く……くくっ……く、クチで……」
 強引に自分の下半身を剥ごうとしてくるマジックを押し止めて、やっとシンタローは、それだけを言ったのであるが、自分の思い切った発言に、さらに顔を赤くして熟れたトマトのようになってしまった。
 ヤバい。古今東西、一世一代の譲歩を、俺は朝っぱらから、こんな物置でしてしまったと、愕然とする。
「……」
 言ってしまった。つい、言ってしまった。
 なんて出血大サービス、出玉爆発新台入れ替え一挙大放出確変大当たりの海物語。俺は今、何を。
 そして恐る恐る相手の反応を窺った。
 こいつ、とんでもなく喜ぶんだろうなと、大変なコト言っちまったと、怯えながら。



 しかし。予想外の出来事が起きた。
「……今から? 口で……?」
 マジックの反応はすこぶる悪かった。
 肩を竦めて、聞き分けのない子供を言い諭すような態度をとっている。
 つーんと横を向いて、シンタローの渾身の譲歩に、冷たく異議を唱えだす。その上、こんな台詞まで。
「無理だよ。私にはできても、お前には無理」
「むっ無理って! 無理ってナンだよ! 何が無理なんだよッッ!!!」
 死ぬ思いで搾り出した言葉を否定されて、シンタローは我を忘れてマジックに詰め寄る。
 シンタローは『無理』と言われるのが一番気に障るのだった。しかも、この男に。その上、私にはできても、ときたもんだ。
 NGワードもはなはだしい。ムカツキ二乗。三乗さらに倍。
「だって」
 男はそんなシンタローの心境を知ってか知らずしてか、能天気に言った。
「シンちゃん、お口はヘタクソなんだもの。こんな短時間じゃあ絶対無理! パパをイかせるのなんて、どう考えても無理! だったら上のお口より下のお口の方がいいよ! ほらもう20分しかない。早く、脚を……」
「なっなっなっなんだとぉぉ――――――――ッッッッ!!!!!!!!」
 どかーん。



「わっ! キンちゃーん、物置が爆発してるよぉ〜」
 グンマの声に、キンタローは鏡を見ながらネクタイを締め直した。
「あれは眼魔砲だな。いないと思ったらあんな所にいたのか。どうでもいいがそろそろ時間だ、総帥として時間厳守に願いたい」
「こないだはトイレが爆発してたよね。ねぇねぇ、どうせ修理するんなら、僕、物置も改造してもいいかなぁ〜? 腕が鳴るよぉ!」
 これも同じく自分のネクタイを締め直しながら、グンマが嬉しげに飛び跳ねている。
「……だがな。先日お前があのトイレに人工知能と発声装置を付けたことは評価するが、いちいち用足しの度に、喋りかけられるのが気になるのだが。この前などはうっかり二時間も話し込んでしまった。いいか、そもそもトイレとはな、もう一度言う、トイレとはな!」
「キンちゃんはきっとロボットに話しかけられやすいタイプなんだよぉ」
 後日。
 物置は『物置ー改』となり、さして意味もなく折り畳み式になり、対空式誘導ミサイルがついたのだが。
 そんなこともこんなことも、所詮はいつものよくある日常に過ぎなかった。
 これに幾つかの偶然が重なることによって、平凡な日常は、シンタローにとっての大いなる受難へと変貌を遂げたのである。



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 まず。偶然の一つ目。ちょっとした出来事だ。
 何でもないことであるのだが、たまたま本部でシンタローが、開発室の側を通ると。
 扉が少し開いていて、グンマの声が聞こえてきた。
 なにやらキンタローと話し込んでいるらしい。
 立ち聞きをする趣味はないから、扉閉めろよお前ら、いつも開けっ放しだぜ、と思っただけで、聞くつもりはなかったが。
 何の因果か、つい、聞こえてしまった。
 これぞ偶然のなせる業。
 無邪気な一言。
「おとーさまはねぇ、マグロは飽きたんだってぇ!」
 マグロは。
 飽きた。



 へえ、あっそ、飽きたのね。贅沢なこった。いい御身分だよな。
 こちとら、贅沢は敵だっての。節約生活に突入したいくらいだっての。
 と、そう腹立たしく思いながら、歩き続けるシンタローである。
 そしてそのまま、そのまま、ずんずん歩き続けた。
「……」
 マグロね。はは。高級食材。トロ。中トロ。大トロ。
 俺は中トロぐらいが好きかな、ほどほどがいーナ。
 つうか、マグロって。マグロって、マグロって……。
 ……。
 …………。
 ………………!!!
「マグ……ロ……!」



「あれ〜、今、シンちゃんみたいな声、しなかったぁ?」
 と、グンマが扉を開いて、廊下をキョロキョロした頃には、もうシンタローの背中は角を曲がって、その先の渡り廊下に出てしまっていた。
 従って、彼はその後の従兄弟の会話を聞いてはいない。
「シンちゃんがいたら、相談乗って欲しかったのに〜! おとーさまへに父の日に何をプレゼントするかってぇ! おとーさま、好物のお寿司、マグロはしばらくいいって言ってたよねぇ、キンちゃん」
「うむ。伯父上には最近アラスカ支部から献上品があったらしく、極上本鮪大トロばかりを、最近昼食にされているようだ。俺も御相伴にあずかったが、流石にあの濃厚な味はお飽きになるだろう」
「お寿司ロボットだったら、おとーさま、喜ぶかなあ〜 マグロボット」
「……? 何ゆえ『ロ』を重ねているのか、その理由を聞きたいのだが、グンマ」
「やぁ〜だ、キンちゃん、す〜ぐ畳み掛けるんだからぁ!」



 次に二つ目の偶然がシンタローを襲う。
 これもちょっとした出来事なのである。
 シンタローは深層心理を殺伐とさせたまま、渡り廊下を歩き、ふと中庭に出ようと思った。
 廊下の大窓からは眩しい光が差し込んできていて、太陽の光が欲しいと感じたのだ。



「……やっぱ生き返るなぁ〜」
 彼は青空に向かって大きく深呼吸をし、伸びをした。そして首の運動も兼ねて、ぐるりと周囲を見渡す。
 外に出て、正解だったようだ。太陽にあたると、大きな空を見ると、自分の心のモヤモヤが、ちっぽけなものに思えてくる。
 すると、風に乗って甘い香りがして、軽い気持ちで、シンタローはそちらの方へと足を向けた。
 この本部の広い庭、南に面した日当たりのいい場所にはバラ園があって、いつも色とりどりの花弁が咲き乱れているのだった。
 バラの美しさで、疲れた心を癒そう。
 そう思ったのに。しかしそこには、先客がいた。
「よっ!」
「……おう」
「いい天気だナ!」
 晴れ晴れとした表情をした自分と同じ顔の男が、明るく右手をあげてきたのに、シンタローは表情を暗くして口を曲げ、少し間をあけて答える。



 ――ジャン。
 今、この不機嫌時には会いたくなかった男だと、シンタローは感じている。
 かつては赤の番人、今はガンマ団の研究員。あの南国以来、何だかんだですっかり居着いてしまっている。
 見た所はあっけらかんとした爽やかな男で、いつもニコニコと笑っている印象がある。その顔を見る度にまったく何が楽しいのだろうとシンタローは常に思う。
 ついでに爽やかで男前であるのは、まあ自分と同じ顔だから仕方ない、当たり前だと思っているのだが。
 とりあえず、気に入らないのだ。
 とにかくシンタローは、ジャンが気に入らない。
 今現在の自分の身体は、昔はジャンが使っていたものだということもあるのだが。
 そりゃムカつく理由なんて、自分とジャンとの間には、腐る程に存在するのだが。
 一つには。だって、この男は。
 ……そりゃもうとんでもねーコトだが、アノ尊敬する美貌のおじさまの……。
 ぶっちゃけ、それだけで自分はいびらずにはいられない。



「いい天気だが、こーんな南国陽気の日は、どっかでダレかに突然ブっ刺されたコトを思い出すな! 『ザク……』って。ガンダムかよ。体を張ったネタって、ぶっちゃけ引くよなぁ〜」
「まァーだ、俺から刺されたコト根に持ってるな、シンタロー! テレビのない島に引き篭もってた俺には、わからないアニメネタを使いたがるのは」
「こう暑くなると、軍靴じゃ足がムレてムレて! この身体、前使ってたヤツの手入れが悪くって大変大変! 立つ鳥後を濁さずってーか、まったく後に使う人間の気持ちを考えて欲しいよな〜」
「……それはお前が勝手にぶん取ったンじゃ……えっ、俺ってやっぱ、お前に対しても立場弱いの? うわあ、こんなガンマ団、針のムシロで居心地悪ッ! サービスは、俺が手の離せない研究始めた途端に、一人でさっさとバカンスに行っちゃうし……ああ、俺って……」
「そうそう、おじさん、避暑に行ったんだよなぁー。いいよなー、俺なんか、おみやげ何がいいって聞かれちゃってさぁ」
「ナニッ! サービスは俺に、おみやげなんて一言も! ヒトコトもッ!!! それどころか昨日は久々の電話で、逆にワインを送れと言いつけてきたっ」
「ほう、そのワインはウチの地下室から持ってくんじゃねーゾ。お前の給料から出せ。そしてウチの秘蔵のワインは、俺がおじさんに俺の名前で出〜そうっと! いやあ、役に立たない犬に比べて、頼りになる甥っ子だよなぁ! せいぜい安ワインを送って、おじさんに冷笑されねえようにナ」
「くっ……会う度にこの仕打ち……俺は永遠に青の一族からいたぶられ続けるのか、シンタロー……」



 八つ当たりをしたら少し気が晴れて、シンタローは悠然とバラ園を見て回った。
 このバラ園は、生化学研究所の付設でもある。バイオテクノロジーによって生み出された、様々な形の、色の、または生育環境に耐えうる、多種多様の美しいバラが、咲き乱れているのだ。
 その研究成果を検分するというのも、総帥としての仕事の一つには違いなかった。
 バラの甘い香りは、嫌いではない。すっかり癒されて、シンタローが歩みを進めると、ぱあっと視界が紫に染まる。
 バラ園の中でも一際目立つ、紫色に染められた一群がそこにあった。
「うわー、ここスゲえな。紫ばっかり。なんとも言えん雰囲気だな」
 紫色は、世界的にも古来より高貴な色とされていることは知っていたが、こう立ち並ぶと壮観という以上に、独特の雰囲気が――ある種のいかがわしさ――言ってしまえばエロスが、漂っている。
 スゲえ、とその光景を眺めているシンタローの背後から、ジャンの声が聞こえた。
「あーそれ。マジック様に頼まれたンだよ」
「はぁ? あいつ来てんの? ここに」
 シンタローは思わず眉を上げた。



 ジャンの話によると。
 なんでも例の芸能活動に必要だからと、より美しく典雅なバラの開発を、研究所に命じているそうである。
 テーマは、『エレガント・ダンディ』。商品化して売り出すことも検討中であるのだとか。
 ばっかじゃねえの、とシンタローは鼻で笑ったが、次にジャンは聞き逃せないことを言った。
「ハハ、しかし開発には苦労するよ。マジック様は技術にうるさいからなぁ……もう何かと注文が、そんでそれに答えないとダメだし」
「……!」
 シンタローは、口の中でその言葉を繰り返した。
 マジックは、技術にうるさい。
 ……。
 …………。
 ………………!!!



「?」
 動きを止めたシンタローを不思議に思ってか、ジャンがこちらを見ている。
 黒髪黒目、その、のほほんとした顔。シンタローにとっては、それを見るだけで、もくもくと黒雲のように、いびりたい衝動が沸き起こってくる顔なのである。
 ああ。ああ。ああ!
 ナンだこいつ、ナンだ、この顔、赤の番人だったくせに、スパイであんなドロドロ過去持ちのくせに、この昼行灯ぶり!
 とんだ食わせ者だぜ! 油断できん!
「……」
 ジャンと一族との過去については、考え出すとドツボにはまるので、シンタローは普段は考えないように、全てをシャットアウトしている。
 思考回路を切断して、完全はっきりキッパリ一切、考えないようにしているのだが。精神衛生のために。
 しかし今、シンタローは、決意する。
 ちょっと待て。俺。なあ、一分だけ、いいか? 一分だけ、一分だけ、考える、からな。
 シンタローは懐からごそごそと携帯を取り出し、一分後にタイマーをセットしてから。
 紫のバラの花に触れ、それを鑑賞するポーズを取ってから。
 考え始めた。



 〜スタート〜
 っつーか! つーかさあ! ジャンの野郎って!
 あっあっあっあんなんで、実はもんのすごいテクニシャンだったらどーしよう!
 技術にうるさいから、答えなきゃダメとか言いやがってるよ、あの朴念仁!
 だいたいさあ、だいたいさあ、前から超疑問だったんだけどさあ!
 どーしてあの、永遠のスーパークールビューティー・ゴージャス・アントワネットな美貌のおじさまがっ! あんな足は臭ぇはファッションセンスは最悪だわ田舎者だわ趣味は花占いのヤ・ツ・にィ! 誰か教えてッ! しかもアイツ、アハハとか笑ってやがるけど、ホントは性格すっげえ悪いんだぜえ!!!
 ……まあ顔は俺と作りは一緒だから、見栄えはいい、ソコんとこは甘受してやる、だがな、だがな、納得いかねぇ――ッッ!
 どーやって、あんな高嶺の花なおじさまゲットしたんだよッ! その方法、本にしろよ! 絶対売れるぜ! つーか知りてえよ! 革ジャン似合わねーのに、どーしてだよッ!
 あのバカの『秘石と私』なんかより、ベストセラー間違いなしだっての!
 まさかテクかよ! 夜のテクでゲットしたのかよ! そこんとこハッキリさせろォォ!!! 気になるんだよォッッ!!!!
 ……。
 ……あのバカ……。
 マジック。
 あのバカも……もしかして……。
 ジ……ジャンの……スーパーテクが……技術が……。
 ……良かったとか……とか! とか! とかあ!!!!!
 いいいいいいい今でも忘れられなくって、『(同じ顔だけどジャンは上手かったのに……それに比べて)シンちゃん、ヘタクソ』だったら! だったらオイオイオイオイオイオイ! めっちゃ屈辱! つーかマジでどーでもいーんだケド、あの能天気南国男と比べられてんのかもしれねえってコトが壮絶ムカつく! 
 おおお俺だってなあ、本気出せばなあ!
 いやいやいやいやそんな問題じゃねえ! 要はあのアホ親父がムカつくってコトだよ! そうだ! つーか、何ソレ黒髪黒目だったらダレでもいーのかよ! 何ソレ阿呆じゃねーか! ノータリン! 顔かよ! 顔フェチかよっ! しっしかも弟の彼氏って、昔から鬼畜まっしぐらじゃねーか! あいつ秘石眼でヘンな超能力なかったら、絶対痴情のもつれで刺されてる! ハッ……まっままさか、あいつは足の臭いフェチってことは……臭いに執着……だから今は俺に……ますます変態じゃねーかよ、あの親父! イヤイヤ、俺は清潔志向で毎日洗ってるから、それは関係ねえ。本題はソコじゃなくってな。つまりムカつくってコトだよ! そーだ……まっままっまままさか、ジャンの野郎も! 昔は朝っぱらから物置に引きずり込まれ……てゆーか、バラ園で今も会ってんのかよッッ! 聞いてねえ!!!!! いっ今も? 今もぉ? うっ、うわあああああああ!!!!
 〜ストップ〜
 ピピッピピッというアラームの音で、シンタローはきっちり一分で我に返った。
 分刻みの自分コントロール。
 総帥としての責任感に慣らされてしまった神経が、恨めしい。



「オ〜イ、シンタロー? 大丈夫なのかオマエ……」
 ジャンが微妙な顔つきでこちらを見ていると思ったら、自分はつい手にしていたバラをバラバラに握り潰していた。
 バラがバラバラ、ハートもバラバラ。
「……邪魔したな……」
「オ〜イ! 俺ナンかした? 何も言わず給料下げんのだけはヤメてくれよ新総帥! バーゲンの季節までに積み立て貯金しとかないで、サービスに甲斐性なしって思われるのは御免だからな俺は!」
「……」
 不審気な顔をしたジャンを背に、シンタローはよろよろとその場を立ち去った。
 足取りは、不確かだった。



 そして最後の偶然。
 シンタローがイヤイヤ家に帰ると、扉を開けてもマジックはいなかった。
 仕事……つまり広報活動、つまるところはファンイベントのために出掛けてしまったらしい。三日ほど家を空けるのだという。
 だからいつも以上に今朝はしつこかったのかと、シンタローは苦々しく思った。
 マジックの予定はあらかじめ知らされてはいるのだが。
 すでに耳が、自己防衛本能を発達させて、精神疲労物質をスルーしてしまうようになっていたから、気が付かなかった。
 特にあのおぞましい一連の芸能活動その他諸々は。特に知りたくもない。
 なーにが。なーにが、エレガントダンディだっての。
 世界のアホどもに、キャーキャー言われたいだけだろ。あの目立ちたがりめ。
「ケッ。三日と言わず、もう帰ってくるな」
 シンタローは、そう壁に向かって憎まれ口を叩いた。
 その迷惑行為に悩まされている身としては、勝手にしろ、せいせいするといった所であるのだが。
 逆に今夜のシンタローには考える時間が増えてしまったのである。



「ヘタクソ……ヘタクソ……」
 自室で一人っきりになると、シンタローの脳裏には今朝のマジックの言葉が響いてくる。
 ガーン! ガーン! と何処かから、不吉な鐘の鳴る音が聞こえている。
 いなきゃいないで、逆に気にしてしまう。拒否する行為がない分、時間がある分、考え込んでしまう。
 ベッドの中に入って、毛布を頭から被っても、しばらく眠れずにそればかりを考えている彼である。
 ……ヘタクソ。
 彼の中では、ぐるぐる思考が巡って止まらない。
 日中はともかく、夜になるとどうしても弱気になってしまう。
 普段は自信満々な反面、一度それが覆ると、延々と気にしてしまう性分で――困る。
 ワオーンと、何処かから犬の遠吠えが聞こえた。
 シンタローは暗闇の中で、大きく息をついた。
 ……認めたくはねえが……。
 ……何となく、前々から、うっすら気付いちゃあいたが……。
 ……えっ、俺って、ヘタクソ? マジで?



 ウソだろ?
 この俺様が、ガンマ団イケメン総帥が、ヘタクソなんてコト、あっていいのかよ?
 いーや、ありえねえ。そんなこと、あっていいはずがねえ!!!
 シンタローはバンバンとベッドのサイドボードを叩き、足をバタバタさせて身悶えた。
 俺はッ! 俺は、いつだって、ナンバーワンだった男だ!!!
 誰にも負けねェ! 負けたくねェーッ!!!
 こっこの俺が、ヘタクソなんて、ありえねえ!!!
「はぁー、はぁー」
 しばらく騒いだシンタローは、息を荒げながら、胸元を抑えた。
「……」
 しかし冷静になると、こうも思う。
 ……って言ったって俺、基準がわからねえ。男の、舐めるって……女はともかく……男同士だろ……。
 ぶっちゃけ、あのアホとしか、ああいうのはしたコトが……。
 うわ、最悪、俺……。
 ……。
 つーか! そ−だ、根本的な問題だ! だいたい何でこの俺様が、ヤられなくっちゃなんねえんだよ!
 絶対オカシイ! 超絶オカシイ! 断固反対!
 そもそも男同士でアレをしたがるアイツの頭がオカシイのであって!
 どーして俺がアイツに合わせなきゃなんねーんだ! そーだ、俺、今めちゃくちゃイイコト言ってる!
 そーだよ! そーだ、だから! だから俺!
 アノ時はいっつも……。



 シンタローは、客観的に『アノ時』を思い起こそうとしてみた。
 アノ時。俺は。
 ……。
 …………。
 ………………!!!
 俺……。
 まさか、ただ寝っ転がってるだけ?
 いやいやいやいや! いやだって!
 どーしてこの俺が、あのアホに合わせなきゃなんないんだよっ! だからそれでいいんだよ!
 ヘタに合わせると、ムカつくし。
 わざと、何もしないでやってんだよ!
 作戦だよ、作戦! 頭使ってンの! 強引なアイツへの対抗手段!
 ……。
 それに。ナンか。正直言って。
 押し倒されたら、訳わかんなくなって、もう頭ン中ぐちゃぐちゃになるから、最中は何してるか、はっきり言って覚えてねー。
 なんてか、ヤツの思うまま、みたいな……。
 ……それって。
 ……。
 …………。
 ………………!!!
 俺って……マグロ……?



 しかも。しかもしかも。
 ざぱーん! と白い波飛沫をあげて、昼間耳にした言葉が、シンタローの胸を抉った。瞼の裏に、『大漁』の旗を掲げた漁船までが見えるような気がしてくる。
『おとーさまはねぇ、マグロは飽きたんだってぇ!』
 響くグンマの無邪気な声。
 ……。
 マグロは、飽きられるのか。
 シンタローは、そう無機質に呟いた。
 そーか、飽きられ……飽き……。
 ガーン! ガーン! とまた鐘が鳴り響いた。
 シンタローは、はは、と笑って、毛布の中で拳を握り締める。
 あ、あああああ飽きられた方が、気楽じゃねーかよ! おっいいナ、いい考えだナ、それ!
 ……。
 …………。
 ………………!!!
 !!!!!!!!!!!!!!!!
「……」
 さらにガーン! ガーン! ガーン! と激しく鐘が打ち鳴らされる。
 あああー、うるせえッ! 何処にあるんだ、この俺の鐘!
 しかし鐘の音を振り払ったシンタローの脳裏に、最後に、あの男の声が蘇って。
 それが、とどめだった。
『マジック様は技術にうるさいからなぁ……もう何かと注文が、そんでそれに答えないとダメだし』



「……ッ!!!」
 シンタローは、がばりと毛布を跳ね除けて、起き上がった。



 その夜。
 一族本邸近くのアダルトビデオ屋で、サングラスをかけて暑苦しいフロックコートを羽織った、身長192cm黒髪長髪のナイスガイが、目撃された。
 ほぼ同時刻に、そのまた近くのコンビニで、大量のエロ本とアイスキャンディーを購入している、同様の人物の目撃証言がある。
 思わず見つめると、物凄い勢いで睨まれたそうである。
 しかし通りすがりの野良犬の頭は、しゃがんで撫でていたそうである。
 夜の怪。






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