さいはての街

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 さいはての街に行きたい。
 誰も俺を知らない、俺も誰も知らない、遠い遠い彼方の街へと。
 その街には、海があるのかもしれない。
 俺の知らない貴方がいるのかもしれない。
 追いかけるから、追いかけて来いよ。
 忘れても忘れても、その感触は。
 俺は忘れないよ。



 シンタローは流れ者だったが、先日いくつかの幸運から郵便配達の仕事にありついた。
 黒髪黒目で長身の健やかな体つきをしており、出身は東の彼方、東洋の日本。
 性格は負けず嫌いな所があるが、基本的に人は善く、明るくてよく笑う。
 年は、23の誕生日を過ぎたばかり。すっとのびた眉と切れ長の目からは、若々しい自信と男らしさが感じ取れた。
 若い彼は、とにかく一人立ちしたくて、数年前に父親を残し家を出たのだが、あちこちを彷徨ってお決まりの苦労をし、やっと辿り着いたのが、この街、北の国。
 しばしば暴力的な方法で統合再編が為される他の国々とは違い、古来よりひっそりと独立自由を守る最果ての場所。
 様々な事情を持った人間たちが、ある日ふらりと流れ着く、ささやかなこの土地の。中世の趣を残した古い石造りの街並を、シンタローは白い鞄を肩に斜め掛けにして、束ねた黒髪を勇ましく揺らしながら、毎日元気に駆けている。
 坂や不揃いな石畳、人通りの多い市場では、自慢の俊足を生かして。平坦な道やどこまでも続く裏通りでは、最初の給料で買った使い古しの自転車で。
 身体を動かすことや、人との触れ合いが好きなシンタローにとっては、似合いの職についたと言ってよかった。



 パンを焼く甘い匂いがする。
 今、シンタローは路地を抜け、夕餉の材料を買い求める人々で賑わう、露店の立ち並ぶ大通りを走っている。
 顔見知りの店主たちが、その姿を見るが早いか、一斉に声をかけてくる。
 おーい、今日は青物が安いよ、シンちゃん、いい所に来たね、おまけしとくよ、どうだい一人暮らしじゃ昨日買ったポロネギもパプリカもまだ余ってるんだろう、魚も買ってマリネにしなよ、いや肉がいいよ、若い者は肉を食べて精をつけなきゃ、毎日ああして走り回ってるんだから、ああシンちゃん、今日も御苦労様だね。
 その声一つ一つに、シンタローは白い歯を見せて笑顔を返し、『また後で!』と未配達の手紙の束を掲げてみせる。
「シンタローさん!」
 道の脇で子供たちと遊んでやっているらしい知り合いの代書屋が、手を振ってくるのに軽く合図を返してやる。
 彼は最近、客が来なくて商売あがったりらしく、近所の子供たちといる所ばかりを目にする。
 大丈夫なのだろうかとも思うが、どうやらこの代書屋の生計は、その友人である几帳面な新聞屋が立ててやっているらしいと聞く。
 と思えば、『え〜、新聞〜新聞〜』と、当の新聞屋の声。
 今日はさしたる出来事もないらしく、新聞は売れてはいないようだ。その丸い目が自分と出合って、困ったように細まった。
 この新聞だって、手売り、さらには今時、蝋引きした原紙を使った謄写版で刷っているというから驚きだ。
 色とりどりの露店の隅では、ひっそりと顔なじみの古着屋が自分を認めて顔を上げている。
 おや、珍しく客が入っているなとシンタローが気を取られていたら、仕入れから帰って来たらしい魚屋の若い衆と、正面からぶつかりそうになって、悪ィ、悪ィと声をかけ合う。この長躯の彼も、気のいい男だった。
 そんな、街の人々。
 固い石畳は、シンタローの靴と触れ合う度に、軽快な音を立てている。
 彼は人波を器用にすり抜け、走る、走る、走る。
 ……この国の生活水準は、先進諸国に比べればお粗末なもので、電気ガス水道等の最低限のライフラインは一応整ってはいるものの、それも場所によってはかなり怪しいときている。
 さしあたりの文明の利器を取り入れただけの、古めいた暮らしをしている人が多かった。
 だが、それで十分やっていける。むしろシンタローにとっては、住み心地が良い程だ。
 生き馬の目を抜くような先進諸国、都会の暮らしとは、この国は一線を画していた。
 ゆったりとした時間が、ここには流れており、それに憧れて移住してくる者もいるという。
 まったくこの街は平和だ。
 無機質な街頭スクリーンや機械音に代わって、人々の笑い声、話し声が街に響く。
 都会の喧騒も先端機器の弊害も、争いごとも、そう、戦争さえ――この街は関係ないという顔をしている。
 それには理由があった。



 街の雑踏を見下ろすように、小高い丘陵に佇む古城。
 元々は山一つが要塞化される形で、厳重に警備が為されている、この街の人間にとっては不可侵の場所。
 そこに住まう血族に、その理由は存在した。
 この国は古来より特殊能力を持つ王族によって治められていた。
 その能力は精神感応、テレパシーのごく強いものであると言われる。能力ゆえか、彼らの治世はよく民衆の意を汲んだ過不足のないものである。
 彼らにとっては対面する人物の心を読むのは容易いことらしく、例えば司法長官もこの一族が務めているので、この国には普通の意味での刑事裁判など存在しない。
 せいぜい民事裁判が市民の利害調整のために開かれるだけで、それも当事者が嘘をつけない状態では、さして揉めることもできなかった。
 どうやら街の噂では、一族直系ともなると、目標さえ定めて意識を集中させれば、数キロ先の人物の思考を読むことができるという。
 お陰で犯罪発生率も低く、治安も良い。
 さらには対外的な戦争も少なかった。
 他国がこの地に攻撃を仕掛けてきても、瞬時に一族の精神感応によって軍中枢部分の位置が割られ、そこを狙って集中攻撃を受けてしまうので、分が悪い。
 軍事行動の先の先を読まれ、その鼻先を片っ端から叩かれてしまう。
 戦う相手方にしてみれば、この国とそれを治める一族は、何とも気味の悪い存在に違いなかった。
 結局、こんな大陸の隅の小国を手に入れるのに、財力や手間隙をかけるのも不経済だということで、大国間の微妙な勢力バランスから、今日までこの国は独立を保っていられたと言ってよい。
 産業はガラス工芸を中心とした美術品、手芸といった程度で、大した資源がある訳でもなく、その見返りの乏しさが幸いしたといった格好だ。
 よっぽどの強欲な支配者、例えば利益よりも支配することを目的とするような者でなければ、こんな国は欲しがらない。
 だから、この国は古いしきたりを守り、平和でいられた。
 そう、今迄は。



 割り当てられた区域の手紙を届け終えると。郵便局に戻り、そこでいくらかの雑務を済ませて局を出て、さらには市場で買い物を済ませてから。
 シンタローは裏路地の突き当たり、赤煉瓦の花壇がある建物へと足を向ける。
 緑と茶の蔦が這う、古ぼけた壁。その外面についた細くて長い螺旋階段を、とんとんと音を立てて上り、その最上階に借りている小さな部屋の扉を開ける。
 屋根裏を改築したその部屋は、広さもまずまず、天井の高さも梁の部分を除けば長身のシンタローでも不自由ないといった具合で、一人暮らしには十分な空間だった。
 彼は部屋に戻ると、まず、白いシーツをかけたベッドに、身をどさっと投げ出す。
 両手を頭の後ろで組んで枕にして、寝転がって、ぼんやりと斜めに張られた天井板を見つめて、時を過ごす。
 慣れれば勾配のある天井も、乙なもの。
 四角いドーマー窓には鎧雨戸がついていて、これを開けるとギイッという音と同時に、街並に屋根瓦や煙突が小奇麗に並んでいるのが見えるのだ。
 朝には鳥が、可愛らしい嘴で時間を知らせてくれるこの窓を、シンタローは気に入っていた。
 この部屋には、ささやかながら小さなキッチンもついていた。
「……そろそろ、腹減ったかな」
 一息ついた後、彼は大概の食事をそこで作ることになる。
 今日は、露店で勧められるままに買い求めた材料で、魚料理である。
 熱い皿を置く、中古で買った木製の丸テーブルや、腰掛ける木椅子も、わりと重宝しているのだ。
 シンタローはマリネとスープの食事を取った後、なかなか湯にならない錆び付いたシャワーを浴びてから。
 頭にタオルを被ったまま、三日に一度はここで手紙を書いている。
 郷里の父親宛てに、だ。
 日中の出来事、街の様子、人々の様子、その他色んなことを、ランプの橙色の灯りの下で、彼はとりとめもなく筆に記す。
 これは明日、街中の郵便物の中にひっそりと加えられて、一緒に集荷所に送られることになる。
 日本の父からの返事は来ないけれども、それでよかった。
 そして、夜も更けた頃、ベッドに入る。毛布の中で目を閉じて、しばらくしてから眠りにつく。
 それが彼の日々。何の変哲もない。
 しかしシンタローには、何故だかわからないが、寂しいと感じる瞬間があった。



 一人でいると、胸を締め付けられるような想いに悩まされることが、よくあった。
 かといって雑踏の中では、この想いはますます酷くなることが経験上わかっているので、仕方なく彼は屋根裏部屋で一人、身体を丸めている。
 その原因はわからないが、どうにもならないほどに身体の芯から悲しみが染み出してくるのだ。
 針で刺すような痺れは、指先や足の爪先までを浸し、全身をわななかせ、その痛みは何かを思い出しそうで思い出せないような、もどかしさに似ているのかもしれないとシンタローは考える。
 けれども彼には思い出すような記憶も過去もなかったから、この寂しさの原因がさっぱりわからなかった。
 だから、解決ができずに、やり過ごすしかない。
 目の端に涙がじんわり滲んで、思わず自分の手の甲を噛んでしまう、そんな時は、とにかく眠ろうとするより他に、できることは何もなかった。
 そして朝、いつも通りに目覚めて、鏡で血の滲んだ唇と手の甲を見てから、いつも通りに仕事に行く。
 夜が辛かった分だけ、昼間にはよく笑うようにしている。
 ――とにもかくにも。
 シンタローは、この街で郵便配達の仕事を続けている。
 郵便物を手渡す時の人々の笑顔を見ることや、自分が人の心を懐に入れて運ぶという、そのこと自体が彼の喜びとなっていた。
 いつかこの喜びが、夜の寂しさを癒してくれるのだと、彼は信じるようになっている。
 つまり、彼はこの日々に、満足していた。



 そんな彼の生活が一変したのは、配達する郵便物を受け取りに行くために、街を離れて郊外の集配所に出かけた、その帰り道のことであった。





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